唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (46) 中随煩悩 無慚・無愧 (12)

2015-07-30 22:50:27 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 今日も横道にそれますね。往復書簡を紹介します。
 前日の暁天講座の感想です。
 S 「河内さんは若い時に仏教に触れて僕は歳をとってから。そこが違うとこですね。歳をとるにしたがって死を意識するのが人間だと思います。周りの身近な人間が死を迎えるのを間近に経験することが理由です。若い時僕は死の恐怖よりも世間のカタログにおいてけぼり、孤独になる恐怖がありました。カタログ、つまり彼女が出来て結婚、といった。人間には必死になって何かを求めようとする次期があるとおもいます。しかし必死に求めても辿り着けず 、結果理想の自分自身とはかけ離れてしまう。 ただ河内さんには商才があったのだと思います。しかし望んでいなかなったからどうでもよい。成りたかった自分自身を忘れる為に我執に走ってしまったのだと思います。 人の事はとやかく言えませんが。僕はと言えば人の意見は聴かず、誘いにも参加せずでした。惨めな自分自身に嫌気がさしていたのでしょう。今は仏教というか唯識を教えて頂いています。河内さんに誘われたからでなく、自分自身の意思によって行ったのか?解りません。感想からは程遠いかも知れませんね。河内さんと付き合いを続けていけるのは河内さんが自分自身の人生を語ってくれたからだと思います。僕からしたら昔良い生活してたんだな!と思いましたが。しかし自慢話ではなかったなと。年齢は離れていますが、自分自身を語ってもいいと思える人間に逢えて良かったです。最終的に辿り着く場所は誰しも同じですよね。最終的にどう思えるかですね。未だに世間の生活カタログに入れないのか?と落ち込む事もあります。愚痴になってますね。仏教とは何か?とは未だに解りません。知識を求めているのではないと思います。僕の捉え方は、他人を全て仏だと思って話を聞いていきましょう。と。無茶苦茶な回答ですかね。人間には転機があると思います。河内さんにとっては子供の誕生が挙げられていましたね。僕にとっては何か?転機を気づける人間は幸せなのかもしれませんね。これから僕はどうなるか?解りません。今は暗闇にいて眼を頼りに生きて、場所を探しているのかも知れませんね。暗闇に居て、光が差した時に怯えず、臆病にならずに生きて生ければと思います。感想になっていませんが、大事なのは自分自身の人生を何処まで話出来るか?それが自分自身を知るきっかけになるのではないかと思っています。」

 K 「大事なのは自分自身の人生を何処まで話出来るか」 この一点ですね。ありがとう。
 
 七月の講座の感想です。
 
 S 「7月の講座の感想。アラヤシキが他人を見る。アラヤシキが見た他人を見直す。と言うことは、僕自身他人の人格、性格なんて見た目だけで判断出来るはずがないのに、勝手に他人を自分自身の妄想の下、造り出しているだけでしょう。今までの経験をもって他人の人格、性格を造り出しているだけでしょうね。見なければならないのは、自分自身でしょう。見ると言うより、自分自身と対話しなければならないでしょう。元々自分自身が中心であるはず。自分自身と対話するのを忘れてしまえば、自分自身にとって都合の良いように他人を造ってしまうでしょう。自分自身にとって都合が悪ければ攻撃し、良ければ仲間と判断する。僕自身で言えば、職業、学歴でしょうね。職業が自分自身より劣っていると思えばバかにし、学歴が低ければバかにする。反省しなければなりません。職業、学歴といったアクセサリーだけで判断しているのですから。他人の本質を見ようとしていないのですから。それで今まで嫌な事もしたし、されたりもしました。過去から現在は行動を規制している。と書いてありましたが、その通りですね。過去を引きずり、今完全に足が前に出ない。現在から未来。積極的に人格を支えている。前向きに生きなさい。ということでしょうか?そう捉えたいと思います。差別されている自分自身より、差別している自分自身に気づけ。という事でしょうか。類は友を呼ぶ。差別的であれば差別的な他人が寄ってきて、明るく過ごせば明るい他人が寄ってくる。と考えても良いのではないでしょうか?現実では、収入的には不安です。それを理由にして他人から逃げて来たのかも知れませんね。人生折り返しの年齢に来てやっと解って来たこともあります。とりあえず前に行かなければどうしようもないと。僕自身の問題としては、もっと人の話を聞かなければと思われます。」

 K 「お早う。快適な目覚めです。コメントよく理解していただいてます。
 裸で生まれて裸で死んでいく。アクセサリーはどこまでいってもアクセサリー。しかしアクセサリーに振り回される自分が居ることは確かですね。
 しかしね、ここが大切な所なんですが、アクセサリーを通さんと見えてこない世界があるんやね。
 それは、今の自分を通して明らかになる、自分の居場所が見えてくるということやと思います。
 でも、素晴らしい気づきです。」

 S 「自分自身の事は考えず、他人がする自分自身の評価ばかり気にしている。それが自他分別を考えていての気づきです。他人に自分はどう思われているのか?を考えてばかりいて、自分自身を知ろうとしない。世間に迎合する為に自分はこんな人間です。と演技している。本当の自分自身ではないでしょう。また自分自身にとって所詮他人はアクセサリーくらいのものとしか思っていない。飽きれば棄てる。自分自身にとって利益がなければ他人との付き合いを情け容赦なく切る。僕自身がそうでしたね。自分自身はこんな人間だ。と勝手に造り上げて生きてきたのでしょう。自分は他人とは違うと。その考えは自分自身を苦しめる事になっていたのでしょう。今でもそうですが。自分自身の事を知ろうとせず、全ての問題は外にあると。見た目は立派でも中身は空洞だったのかも知れません。外に問題があるとしていれば楽なのかも知れません。自分自身を見直す事は容易ではないと思われます。しかし、外、つまり他人のせいにばかりしていたら他人との距離は遠くなり、死の間際でも悔いの残る人生だった。と思うでしょう。人は知らず知らずのうちに他人を傷つける言動をとる事があります。僕自身も人を傷つけて来たでしょう。気をつけねば。と思います。結局知らず知らずのうちに自分自身を守っているからでしょう。自分自身に閉じ籠る事により、結果他人も傷つけて、自分自身も苦悩するのかなと。自分自身が見ている他人は自分自身にとって都合のよいように他人を創っている。その事を意識して人間関係を保ちたいものです。いつも自分自身が中心にいる。忘れてはいけない事でしょうね。他人の為に尽くして来たのに。と思えば思うほど分別することになるのかなと。どー思われてもよい。自分自身とは何か?とずっと思案を続けられたらよいのですが。なかなか困難ですね。どー思われてもよい。とはどうでもよい。ではなく、全ての他人の自分自身に対する言葉を善悪を判断せず、受け入れる事ではないかと。なかなかそうはいきませんが。」

 K 「なかなか腑に落ちなかったことが、ようやく見えてきました。仏法の気づきは、これが私だということですね。論理的に説明するとややこしいことに成りますが、これが私だと言える自分に出遇いたいのではないですか。出遇っているんですね。阿頼耶識とは、「世尊我一心」の「我」でしょう。我とは主体ですね。客体化されたものではないというkとです。客体化された我は考えられた我。しかし考えられた我であっても、阿頼耶識を依り所として生起してくるわけです。本来性回帰運動とも、自浄能力とも言っていいのかもしれません。客体化された我は妄想の我であって、働きのないものです。阿頼耶識の所縁ということが伝えたいのは、一切は私がつくりだしたものという視線でしょう。世の中は様々な問題を抱えていますが、その一つ一つが阿頼耶識の所縁ということになろうかと思いますね。
 私が作りだしたということは、その責任は私に有るということです。一人一人が背負っていかなければならない宿題を提起されているのですね。生まれた課題は、この問いに対する答えを提出するということではないでしょうか。
 私たちが何かを知るというのは、言語を通します。言語を媒介として認識を起こすわけです。言語そのものに分別はないのですが、言語を持った途端分別を起こします。経験上で知っている事柄については、解ったように思っているんですが、解は解釈であり、思いは計度ですね。対象化されたものは似我似法であって識体が転じたもの。識そのもの、或いは念仏は、対象化できるものではないということでしょう。これもまた計らいやという気づきが大切ではと思いますが、計らいですね。」

第三能変 第四 随煩悩の心所について (45) 中随煩悩 無慚・無愧 (11)

2015-07-30 00:18:31 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 横道ばかりですみません。本題に戻ります。不倶生難(無慚・無愧が倶生しないという点からの論破になります。)
 「斯に由って二の法は倶生せざる応し。受と想との等きに此の義有る者には非ざるが故に。」[『論』第六・二十六左)
 (これによって無慚・無愧の二の法は倶生しないものとなってしまうであろう。何故ならば、受と想などのようなもの、即ち類同なるものは倶生しないのと同様に此の二つの場合も同様である。)
 本科段は論破の第二になります。
 無慚・無愧は、本来倶生するにも拘らず、古説の主張ならば、無慚・無愧の二つは倶生しないことに成り矛盾をきたすことになるという視点からの論破です。
 何度も同じ説明の繰り返しになりますが、古説の主張は、無慚・無愧の体は「恥じることのない心」なんですね。それは類同であるが為に、倶生しないと云うのが論破の主題になります。不倶生難を通して、無慚・無愧の用は「恥じない心」ではあるが、体はそれぞれ違うものであることを明らかにしてきたのですね。
 実際には、無慚も無愧も倶生しているわけです。自覚を通してですね、無慚・無愧の体は「恥じることのない心」ではないと主張しています。
 
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 阿頼耶識の所縁は、種・根・器なんですね。心は対象としないということが説かれているわけですが、何故心は阿頼耶識の所縁とはならないのかですね。心は心王なんです。心王が対象化されますと、生きて働くとことが無くなってしまうのですね。心が心を所縁とするのは、所縁とした心が本当の心で、この心が生きて働いているわけです。
 聴聞されていて、「頭では理解ができるんですが」とよく聞きますが、頭で聞くのは法を対象化しているんですね。対象化した(考えられた)ものとしての法は、生きて働いていないのです。対象化するには、その中間に介在する「我」がいます。私が主体で、教えは客体になりますね。
 ここが問題なのですが、私たちは、対象化しないと仏法を聞くことは出来ませんということなのです。いうならば、徹底的に対象化して、有る時「膝を打つ」、その時ですね。「念仏もうさんとおもいたつこころのおこる時」、この心は対象化された心ではありません。生きて働いている心なんですね。
 私たちは生きて働きていない仏法を聞いているわけですが、その因は私にあるということなのです。これ以前が外道、これからが内道という迷いの二重構造が明らかにされてきます。ですから、雑行は考えられたもの、本願は生きて働いているもの。本願は自証分であり、証自性分であるといえます。ここから聞法が始まるわけですね。
 論理的には、心は能変です。心が変現したもの、心が変化して作り上げたのが見・相二分なんです。見・相二分が所変になり、所変の中で、能縁が見分・相分が所縁となります。阿頼耶識の具体相ですね。私たちが迷妄している根元が阿頼耶識にあったという気づきが大切かと思います。
 もう少しつめて考えます。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (44) 中随煩悩 無慚・無愧 (10)

2015-07-27 23:55:33 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 今日の講義の課題は、「異熟識の変ずるは但し因縁のみに随うものなれば所変の色等は必ず実用有り。若し心等を変ぜば便ち実用無くなんぬ。相分心等は能縁に不らるが故に。須らく彼は実用あるを以て別に此従り生ずべし。」ということでありました。対論形式での学びを心がけて行く中で、なかなか読み切れなかった文章なんです。
 
 現代語訳ですと、第八阿頼耶識の果は異熟識である。その異熟識が変化するのは、即ち種子が現行することは因縁のみに随って、所変で有る所の対象には必ず実の働きがある。若し心等を変化させることになったら、それは実の働きが無くなってします。何故なら、心は対象化できるものではないからである。所縁という、対象化できるものは相分であって、心を対象化すると、対象化された心は実の働きを持った心ではなくなり、分別された心である。相分上に現われた心・心所は能縁という働きを持たない。とにもかくにも異熟識は実の働きがあることを以て、分別された心とは別に因縁により現行するのである。
 
 心を対象化すると、対象化した心が潜んでいて、それが実の働きをする心なんですね。それは識体であり、能縁の働きをもつものでありますから、相分上に現われた心・心所は、考えられたもの、即ち分別されたもの、心の影であり、因縁に依るものではないということなんです。
 種子生現行は任運の働きをもつものであり、種子・現行の過程の中で分別が入りこむことはないということなのです。確かに、種子はさまざまな分別されたものが取捨選択されることなく阿頼耶識の中に熏習されるわけですが、熏習されたものが現行するのは因縁に依って変化したものであるということなんです。
 つまり、識体という心が変化して、見る働きという主観的側面と、見られるものという客観的側面を演出するわけです。心が変化して、見る側の能縁と、見られる側の相分を作りだしているわけですから、心が対象化されたものを所縁とすることはないということなのですね。
 すべては私の心が作りだしたもの。その私の心は有漏位なんです。第七末那識に染汚されたものですから、染汚されたまま第八阿頼耶識は熏習することになります。熏習された種子は、有漏の種子であります。迷いが迷いを生じてくる元に成るのが有漏の種子なんです。
 有漏の種子は解釈をする訳ですね。「我」を通過させる、我によって色づけされたものが熏種子となる。この辺がなかなか読み切れないところなんです。
 阿頼耶識は能熏処というの能蔵の働きをもつわけですが、所蔵するものは何かといいますと、七転識ですね。このような関わりが無始以来私の心の深いところで相続されてきているんですね。
 それともう一つの阿頼耶識が認識する働きがあるんです。分別以前の捉え方が又阿頼耶識の中に熏習される。阿頼耶識の二重構造ですね。なにかといいますと、見たことも、聞いたことも無いようなものに出会いますと、言葉がでません。綿sj日たちが認識をする時は、必ず言葉を介在させます。言葉が無いのは分別していないんです。それは分別しないまま阿頼耶識の中に、ものそのものとして熏習されます。ここが大事なところだとおもうんです。
 「仏法きいても解らんな」と云うのは分別です。分別されたものは阿頼耶識の中に熏習されます。此れは有漏の種子としてですね。でも「聞いても解らんな」ということで仏法は伝わっていくのですね。これが無漏の種として熏習されてくるわけです。
 それでね、第八識は、分別しない、無色透明な心ですから、無我の心なんです。無我ということは、支えられて生かされている、我を張る必要のない世界を本来生きているのですね。現行は、果無記の世界なんですが、果無記の世界を「我」によって覆って、私が、私がという生き方をしているのです。本来性を喪失した反逆児が私の姿なんです。それは私が私がという思いに依って、本来あるべき居場所を、自らが拒否をして苦悩することになります。
 苦悩が悪いわけではありませんね。苦悩を誘発してくる私がいるわけです。そこが問題なんです。
 苦悩は苦悩でいいのでしょう、その苦悩を解釈する私が問題なんです。「ありのままにかえればいい」そうすると、分別が分別としての働きをしなくなるんですね。種子生現行は自然だと、任運だと、因縁変である。それに依って生じてくるもの、熏種子も因縁変である。有るがままに変化したものなんです。
 なかなか読み切れません。熟考を要するところです。八月は講義はお休みですので、有漏位・無漏位について夏の宿題が与えられました。

『唯識』入門 七月度テキスト (於 聞成坊)

2015-07-26 20:17:01 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 「有根身とは、謂く異熟識のが不共相の種を成熟せる力の故に色根と及び根依処とを変似す。即ち内の大種と及び所造の色となり。共相の種を成熟する力有るが故に。他身の処に於ても亦彼を変似す。爾らざれば他を受用する義無かる応し。」 色根 ― 機能。物を見るという働き。勝義根。不共中の不共。
 根依処 ― その働きが依り処とするところ。扶塵根。不共中の共。

 四大種 ― 地(堅い性質)・水(湿りけを持った性質)・火(暖かな性質)・風(動く性質)。堅湿暖動(けんじゅうなんどう)と云う。

阿頼耶識の対象(所縁)
 処
  器界は外の世界
 執受
  種子は経験 
  有根身は、阿頼耶識は深い私たちの心の底で、自分の身体を対象としている。対象と関わりながら生きている。
  
 「此の中に有義(安慧菩薩等の説)は、亦根をも変似す。弁中辺に自他身の五根に似て現ずと説くが故に。
  有義(護法菩薩等の正義)は、唯能く依処のみを変似す。他根は己に於て用る所に非ざるが故にと云う。自他身の五根に似て現ずと云はば、自他の識各自ら変ずる義を説くなり。故に他地に生るも或は般涅槃するも、彼の余れる尸骸猶見に相続せり。」
 
  尸(し)― しかばね
 
 身体を対象としているといいまうが、どこまでの範囲を対象とするのか?
 安慧菩薩等はすべて(根をも変似す)
 護法菩薩等は依処のみ

 ここまでは、業力所変の三つについて説かれてきましたが、、次に定力所変という問題がでてきます。

 「前来は且らく業力所変の外器と内身との界地の差別を説けり。若し定等の力による所変の器と身とは、界地自他に於て則ち決定せず。所変の身・器は多く恒に想像句せり。変ぜらるる声・光等は多分暫時なり。現遠の撃発するに随って起こるが故に。」

  業力 ― 善悪業としての果を対象としている。

 もう一つ、定力所変。定は專注不散(心一境性)
 教えに依って、己自身が未来に向かって切り拓いていく世界です。
 「ひとえに往生極楽の道を問う」というのが心一境性になりましょうね。

 定等についての慈恩大師の「等」の注釈
 借識・願力・通力・善威力を以て私たちの世界を変えていく。

 業力所変は決定
 定力所変は未決定

 「略して此の識所変の境を説かば、謂く有漏の種と十の有色処と及び堕法処所現の実色となり。」

  有色処 ― 五根(眼・耳・鼻・舌・身)と五境(色・声・香・味・触)
  堕法処所現の実色 ― 法処所摂色、或は堕法処所摂色のこと。是に五つ有る。極略色・極迥色・受所引色・定所生色・遍計所起色。

 「何が故に此の識は心と心所等とを変似して所縁と為ること能わ不るや。有漏の識の変に略して二種有り。一つには因縁の勢力に随って故に変ず。二つに分別の勢力に随って故に変ず。初めのは必ず用有り。後のは但し境のみと為る。異熟識の変ずるは但し因縁のみに随うものなれば所変の色等は必ず実用有り。若し心等を変ぜば便ち実用無くなんぬ。相分心等は能縁に不らるが故に。須らく彼は実用あるを以て別に此従り生ずべし。無為等を変ずるも亦実用無くなんぬ。故に異熟識は心等を縁ぜず。無漏位に至るときは勝慧と相応す。分別無しと雖も而も澄淨なるが故に。設ひ実用無とも亦彼の影を現ず。爾ら不れば諸仏は遍智に非ざるべし。故に有漏位の此の異熟識は、但し器と身と及び有漏種とのみを縁ず。」
 
  第八阿頼耶識は心王・心所を自分の対象としないのか?
  阿頼耶識の所縁、対象は三つ、種・根・器ですから、何故心を対象としないのかという問いです。
  心は何故見えないのかという問いでもあります。
 達磨さんと慧可の公案
  「達磨面壁す、二祖雪に立ち、臂を断つて云く、弟子、心未だ安んぜず、乞う師安心せしめたまえ。
磨云く、心を将(も)ち来たれ、汝が為に安ぜん。
祖云く。心をもとむるに了(つ)いに不可得なり。
磨云く、汝が為に安心せしめ。竟(おわ)んぬ。」
 安田先生と兵頭さんの対話を思い出されます。「こうですか」・「違う」。「こうですか」と掴んだら、掴んだこころが隠されている。掴んだ心は生きた心ではない・「心をもって心を求るに不可得」
 迷いの心に二種有りと説いてきます。
 「有漏の識の変に二種有り」
  因縁変 ― 種子現行という任運の義
  分別変 ― 境となる。境となるが、用は無い。
        「強籌度の心」、策略、思い量ること。第六識と第七末那識に於いて、自分の都合のいい生き方を選択していく有り方。

 若し阿頼耶識が心を対象とするなら、本当の働きは無くなってしまう。阿頼耶識が対象として捉えているのは、所縁(相分)である種・根・器。阿頼耶識は因縁変のもの種子生現行という、種子を対象として捉えていくからである。
 心を対象化するわけにはいかない。対象化した心は影、影の心であり、この心は能縁の心ではなくなる。

「彼は実用あるを以て」彼は八識以外の心。七識は阿頼耶識より生ず。阿頼耶識を支えてして七転識は動いている。

 無為法は真理の世界。永遠不滅
 有為法は生住異滅の世界(現象的存在が生じること、存続すること、変化して異なること、滅してなくなること。)
 
 無為
  識変の無為 ― 心で捉えた真理・こころで捉えた真理は影になる。
  法性の無為

 ここまでが有漏位(迷える私)
 「無漏位に至ると」
  勝慧(大円鏡智)と相応す。有漏の識が智慧に転依する。無分別智に変わるわけです。「無は是れ無なるを知るが故に」(無なるものは無なるものだと判る。影が影だと判る)
 
 「欲・色界に在って三の所縁を具す。無色界の中にをば有漏種のみを縁ず。色を厭離したる故に業果の色は無し。定果の色ありと云はば、理に於て違すること無し。彼の識は亦此の色を縁じて境と為す。」

第三能変 第四 随煩悩の心所について (43) 中随煩悩 無慚・無愧 (9)

2015-07-24 22:29:51 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 「述して曰く。下は古を難ず。四有り。一に別体無きの難。二は倶生せざるの難。三に実有に非ざるの難。四に遍悪に非ざるの難。」(『述記』第六末・七十六右)
 (その第二は、古説を論破する。これが四つに分けられて説明される。一には、古説の主張であるなら、無慚・無愧の体がいっしょになり、何が無慚で何が無愧なのかわからないという点からの論破。二には、無慚・無愧の体がいっしょならば、無慚・無愧が倶生することがなくなるという点からの論破。三には、無慚・無愧は実有であるという視点から、古説の主張では実有ではなくなると云う点からの論破。四には、古説の主張ならば、無慚・無愧はただ悪心に遍在する心所ではないという点からの論破になります。)

 先ず第一の点からの論破になります。
 「若し不恥(ふち)を執じて二が別相とせば、則ち此の二は体差別なることなかるべし。」(『論』第六・二十六左) (古説は、無慚・無愧の体は「恥じないこと」であると主張していますが、この「恥じない」に執われて、「恥じない」ということを無慚・無愧の二の別相であると主張するなら、この無慚・無愧の二つは、体に差別(区別)がなくなってしまうことになる。)
 第一点は、ともに(無慚・無愧)不恥であるとする古説の主張ならば、無慚・無愧の体に区別がなくなってしまうであろうという難からの論破になります。
 本科段で用いられている別相は性とか体という意味になり、心所それぞれの行相見分をもって認識対象(境)に働きかけた時、認識対象上に浮かび上がった相(相分)をもって別相とする用法で説明しているのではないということです。
 古説の主張ですが、上記のように、無慚も無愧も体は「恥じない」ことであるというとですね、無慚も無愧も体は同じであるということになります。区別がなくなりますね。
 無慚・無愧の体は違うのですね。「恥じないこと」は総相であることは間違いのないことですが、別相は無慚と無愧では相違すると云うのが護法の主張になります。
 このような点からも、『涅槃経』の一節は心して読まなくてはならないと思います。
  
  「「二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて 「人」とせず、名づけて「畜生」とす。」(『信文類』p258)

  無慚の行相 ― 軽拒、
  無慚の別相 ― 賢と善が認識対象になる。 
  無愧の行相 ― 崇重、
  無愧の別相 ― 暴悪が認識対象になる。


  慚の行相 ― 崇重する。
  慚の別相 ― 賢と善が認識対象になる。 
  異熟果 ― 過悪を羞恥し、諸の悪行を止息させる。
  愧の行相 ― 軽拒
  愧の別相 ― 暴悪
  異熟果 ― 暴悪を軽拒し、過罪を羞恥し、諸の悪業を止息させる。
 
 参考ですが、こういう読み方も大事なことではないでしょうか。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (42) 中随煩悩 無慚・無愧 (8)

2015-07-22 22:02:07 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 無慚・無愧をまとめて説明する。
 「述して曰く。総じて解す。四有り。一に教を通し(古説を会通する)、二に古説を難ず(古説を論破する)、三に行相を明し、四に違文を釈す。此ば教を通ずなり。其の諸経論に、此の二の体を解す。謂く不恥を以てすと云えり。今此に会して云く、不恥は是の二種の通相なりと云えり。諸教は自他の縁別なるに約す。故に仮に通相を説いて二の別相と為す。彼の別相にあらず。」(『述記』第六末・七十六右)
 
 「過悪を恥ず、是れ二が通相なり、故に諸の聖教に仮って説い体と為す。」(『論』第六・二十六左)
 (過悪を恥じないということが、この無慚・無愧の二の通相(共通した相)である。その為に、諸の聖教には、仮に「過悪を恥じない」ということを以て無慚・無愧の体として説かれている。)

 『述記』に依りますと、先ず、護法の説の正当性を明らかにする為に、従来の説を会通し、論破をすると述べています。
 従来の説は、無慚・無愧の体は「過悪を恥じない」ことであると主張していましたが、護法は、「過悪を恥じない」ことは共通した相であって、体ではないと主張したのです。では何が体であると主張したのでしょうか。それは前科段でも述べましたように、
 無慚の体は「賢善を軽拒する」ことであり、無愧の体は「暴悪を崇重する」ことであるという、無慚・無愧の具体相にメスを入れて、従来の説は通相であると論破しています。
 体とは、必然の義・不改の義で有るところの性のことです。本質的な働きのことで、親用とか、性用という言葉で表現されます。
 少し戻りまして、無慚・無愧 の護法の定義を振り返りますと、

 無慚の心所とは、
  「云何なるをか、無慚と云う。自と法とを顧みずして賢と善とを軽拒(きょうこ)するを以て性と為し、能く慚を障礙し悪行を生長するを以て業と為す。謂く、自と法との於に顧る所無き者は、賢と善とを軽拒し、過悪を恥じず、慚を障え、諸の悪行を生長するが故に。」(『論』第六・二十六右)  
 (どのようなものが無慚の心所であるのか。無慚とは、自(良心)と法(教え)とを顧みず、賢と善とを拒否することを以て本質的な働きとし、よく慚を障礙して悪行を生長させること以て具体的な行為とする心所である。つまり、本当の自分と教法とに対して顧みる所が無い者は、賢と善(賢者と一切の善)とを軽拒し、過悪を恥じず、慚を障礙し、諸々の悪行を生長させるからである。)

 無愧の心所とは、
 「云何なるをか無愧と云う。世間を顧みずして暴悪(ぼうあく)を崇重(すうじゅう)するを以て性と為し、能く愧を障礙し悪行を生長することを以て業と為す。謂く、世間の於(うえ)に顧みる所無き者は、暴悪を崇重し、過罪を恥じず、愧を障え、諸の悪行を生長(しょうちょう)するが故に。」(『」(『論』第六・二十六左)
   「善の中の愧に准じて返ず。その相と為す。」(『述記』)
(どのようなものが無愧の心所であるのか。それは、世間を顧みることなく、暴悪を依り所をすることを以て本質的な働きとし、よく愧をさまたげて、悪行を推し進めることを以て具体的な行為となす心所である。つまり、世間に向かって、世間を顧みることのない者は、暴悪を崇重し、過失や過ちを恥じることなく、愧を障礙し、さまざまな悪行を生じ増大させるからである。)

 護法説では、「過悪を恥じない」ということは体ではなく、無慚の体は「賢善を軽拒する」ことであり、無愧の体は「暴悪を崇重する」ことであるといいます。「過悪を恥じない」ということは、後の説明を見てもわかりますように、無慚・無愧の共通した相が「過悪を恥じない」ということなのです。
 従来の説は、「過悪を恥じない」ことをを以て無慚・無愧の体としたわけですが、護法は、このような説明では具体的な相が不明瞭だと見抜き、何故、過悪を恥じない心が起ってくるのかの背景を明らかにしたのですね。

 
 過去ログより
 「仏法の大海には信を以て能入と為す」。その信に三願転入が語られるわけですが、「信」は生きて働いているものであり、信があってはじめて一歩一歩、私たちの生活の歩みが始まるのです。善の心所でいわれる「信」は仏教に入る入口といえましょうか。親鸞聖人の他力回向の信心と言いましてもその入り口は、親鸞聖人が歩まれた仏道、浄土真宗を信ずることから始まります。信ずることなく信心の獲得はありえません。信心獲得の徴が「すでにあたえられてあった」という恩徳なのです。話は元に戻りますが、仏教でいう「信」は「チッタ・プラサーダ」といいます。チッタは「心」・プラサーダは「澄む」という意味を持っています。仏教を信ずるということで、心が澄むといわれているのです。心の浄らかさですね。信ずるということは信心という意味なのです。仏を信じ・仏教を信じ・仏法を信じる、ということです。なぜ信じるのかということは「この現前の境遇に落在する」ことができるからである。そして深信自身・深く自身を信ずることができるということなのです。そうとしたならどうなるのかといいますと「豊かな人生をいただく」ということになり、空しくすぐることのない日々が約束されるということなのでしょう。仏教では「現生正定聚」・「現生不退」といわれています。
 私たち日常の「信」はどのようなものなのでしょうか。「信頼」とか「信用」という意味で使用しています。英語で言う「Belief」ですね。この言葉は人間関係において使われます。「私は~を信用する」とか「私は~を信頼している」という時に使います。この「信」は、私は日常の信の二重構造と言っています。いつでも「私は裏切られた」「信頼していたのは間違いだった」という裏構造が隠されているからです。いつでも「私が」という主語がつくのです。いわゆる自己中心の物の考え方です。簡単にいえば日常で使う「信」はBeliefです。人間関係に於いて使っています。信仰とか信心という宗教に関しての「信」とは違うのです。これははっきりしておかなくてはならないと思います。
 宗教に関して「信」と表現するときは、英語ではFaithという言葉を使います。「信仰」という意味です。キリスト教に於いて使われます。「神を仰ぎ信ずる」ということです。信楽峻磨先生は「信じるという信仰の中身は、自己の知性によって抵抗するのを疑う。神を信じる、仰ぐというのは、自分の知性を放棄する、捨てる。そうしなければ、理屈を越えて神を信じない限り、神は納得できないのです。これが信仰の中身です。」と教えてくださいました。(2007.5.13。信道講座より)信仰というのは人間の生きざまに関して言えることなのです。
 信心とは依頼心ではないのです。依頼する時は何かを期待するわけです。信頼も人間関係にとっては大切な要素ですし、これなくして社会は成り立ちません。しかし信頼も時に裏切られることがあります。また裏切る時もあります。これが世間なのでしょう。「世間虚仮・唯仏是真」とは聖徳太子のお言葉ですが、親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と『歎異抄』(真聖P640)に述べておいでになります。世間は信頼関係で維持されているのです。その信頼関係は二重構造に成っているということです。緊張関係で成り立っているといってもよいのではないかと思います。ですからいつも心が解き放たれない、「疲れたなぁ」という状態が続いていきます。信頼という重荷を背負っている限り、心休まるということはないのでしょう。何故そのようなことになるのかといいますと、「道理」を主にしていないからです。道理とは「法」です。法則といってよいのでしょう。「諸行は無常であり、諸法は無我である」というのが道理ですね。因縁所生の法ともいわれます。縁起によって起こってくるものです。今、私が書き込みをしているのも縁起の理によっているのです。一つでも縁がなければ(条件が整わなければ)、書き込みをすることはできません。私が今何かをしているということはすべての条件が整っているということなのです。「宗教」は利用するべきものではないのです。よく聞く話ですが「信心のおかげで病気が完治した」ということ、このようなことは宗教でも何でもないのです。ただの give and take です。「ご都合主義」といってよいのではないでしょうか。世間の闇とはこのようなもでしょうか。宗教は「~のためのあるものではない」のですね。 religion という言葉を使うのですが信仰というときには、faith (キリスト教をさします)という言葉を使うのですね。神を信じ仰ぐということです。この原点は罪という問題を孕んでいると思います。罪というのは自他の分別を持ってしまったということです。そこに神の許しを願うという信仰が起こってくる所以があるように思います。仏教も罪ということを言いますが、自覚において認識するのです。それが「信」です。道理に背いてしか生きていけない存在(反逆者)であるという、「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」の自覚です。この自覚が心を豊かにし、心を浄化する働きをするのでしょう。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (41) 中随煩悩 無慚・無愧 (7)

2015-07-21 23:47:32 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 無愧の心所の理由を述べる。
 「謂く、世間の於(うえ)に顧みる所無き者は、暴悪を崇重し、過罪を恥じず、愧を障え、諸の悪行を生長(しょうちょう)するが故に。」(『論』第六・二十六左)
 (つまり、世間に向かって、世間を顧みることのない者は、暴悪を崇重し、過失や過ちを恥じることなく、愧を障礙し、さまざまな悪行を生じ増大させるからである。)
  無愧は愧をさまたげ、そのことが様々な悪行を引き起こし、起こした悪行に対して恥じる心が無いことなんですね。
 そして、世間に対しというのは、世間と出世間(虚妄と真実)は不即不離の関係にあることを伝えようとしているンだと思います。つまり、真実に離れて虚妄が存在するわけではなく、虚妄を離れて真実が存在するものでは無いということなのです。それは、真実によって虚妄が明らかにされ、虚妄が明らかになる事によぅて真実が証明されるということだろうと思います。
 世間の罪は、五逆で尽くされますが、五逆の根底には謗法があるということですね。法に対する罪です。「世間を顧みることのない者は」の中に、謗法の罪が深く横たわっているということなんでしょうね。いわば、謗法があるから、五逆を顧みないkととが引き起こされてくるわけでしょう。その反面、謗法の自覚から、五逆への恥じる心が生みだされてくるのではないでしょうか。
 昨日の私事のことなども、存在そのものが引き起こしてきた罪の問題なんですね。よくよく考えなければならない問題が山積しているようです。

 先日の講義に対して感話をいただきました。

「河内さんは若い時に仏教に触れて僕は歳をとってから。そこが違うとこですね。歳をとるにしたがって死を意識するのが人間だと思います。周りの身近な人間が死を迎えるのを間近に経験することが理由です。若い時僕は死の恐怖よりも世間のカタログにおいてけぼり、孤独になる恐怖がありました。カタログ、つまり彼女が出来て結婚、といった。人間には必死になって何かを求めようとする次期があるとおもいます。しかし必死に求めても辿り着けず 、結果理想の自分自身とはかけ離れてしまう。 ただ河内さんには商才があったのだと思います。しかし望んでいなかなったからどうでもよい。成りたかった自分自身を忘れる為に我執に走ってしまったのだと思います。 人の事はとやかく言えませんが。僕はと言えば人の意見は聴かず、誘いにも参加せずでした。惨めな自分自身に嫌気がさしていたのでしょう。今は仏教というか唯識を教えて頂いています。河内さんに誘われたからでなく、自分自身の意思によって行ったのか?解りません。感想からは程遠いかも知れませんね。河内さんと付き合いを続けていけるのは河内さんが自分自身の人生を語ってくれたからだと思います。僕からしたら昔良い生活してたんだな!と思いましたが。しかし自慢話ではなかったなと。年齢は離れていますが、自分自身を語ってもいいと思える人間に逢えて良かったです。最終的に辿り着く場所は誰しも同じですよね。最終的にどう思えるかですね。未だに世間の生活カタログに入れないのか?と落ち込む事もあります。愚痴になってますね。仏教とは何か?とは未だに解りません。知識を求めているのではないと思います。僕の捉え方は、他人を全て仏だと思って話を聞いていきましょう。と。無茶苦茶な回答ですかね。人間には転機があると思います。河内さんにとっては子供の誕生が挙げられていましたね。僕にとっては何か?転機を気づける人間は幸せなのかもしれませんね。これから僕はどうなるか?解りません。今は暗闇にいて眼を頼りに生きて、場所を探しているのかも知れませんね。暗闇に居て、光が差した時に怯えず、臆病にならずに生きて生ければと思います。感想になっていませんが、大事なのは自分自身の人生を何処まで話出来るか?それが自分自身を知るきっかけになるのではないかと思っています。


「大事なのは自分自身の人生を何処まで話出来るか」 この一点ですね。


「7月の講座の感想。アラヤシキが他人を見る。アラヤシキが見た他人を見直す。と言うことは、僕自身他人の人格、性格なんて見た目だけで判断出来るはずがないのに、勝手に他人を自分自身の妄想の下、造り出しているだけでしょう。今までの経験をもって他人の人格、性格を造り出しているだけでしょうね。見なければならないのは、自分自身でしょう。見ると言うより、自分自身と対話しなければならないでしょう。元々自分自身が中心であるはず。自分自身と対話するのを忘れてしまえば、自分自身にとって都合の良いように他人を造ってしまうでしょう。自分自身にとって都合が悪ければ攻撃し、良ければ仲間と判断する。僕自身で言えば、職業、学歴でしょうね。職業が自分自身より劣っていると思えばバかにし、学歴が低ければバかにする。反省しなければなりません。職業、学歴といったアクセサリーだけで判断しているのですから。他人の本質を見ようとしていないのですから。それで今まで嫌な事もしたし、されたりもしました。過去から現在は行動を規制している。と書いてありましたが、その通りですね。過去を引きずり、今完全に足が前に出ない。現在から未来。積極的に人格を支えている。前向きに生きなさい。ということでしょうか?そう捉えたいと思います。差別されている自分自身より、差別している自分自身に気づけ。という事でしょうか。類は友を呼ぶ。差別的であれば差別的な他人が寄ってきて、明るく過ごせば明るい他人が寄ってくる。と考えても良いのではないでしょうか?現実では、収入的には不安です。それを理由にして他人から逃げて来たのかも知れませんね。人生折り返しの年齢に来てやっと解って来たこともあります。とりあえず前に行かなければどうしようもないと。僕自身の問題としては、もっと人の話を聞かなければと思われます。」


 「感話。話の内容をよく理解していただいてます。裸で生まれて裸で死んでいく。アクセサリーはどこまでいってもアクセサリー。しかしアクセサリーに振り回される自分が居ることは確かですね。しかしね、ここが大切な所なんですが、アクセサリーを通さんと見えてこない世界があるんやね。
 それは、今の自分を通して明らかになる、自分の居場所が見えてくるということやと思います。でも、素晴らしい気づきです。」
 


第三能変 第四 随煩悩の心所について (40) 中随煩悩 無慚・無愧 (6)

2015-07-20 17:53:12 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 無愧の心所について
 「云何なるをか無愧と云う。世間を顧みずして暴悪(ぼうあく)を崇重(すうじゅう)するを以て性と為し、能く愧を障礙し悪行を生長することを以て業と為す。」(『論』第六・二十六左)
   「善の中の愧に准じて返ず。その相と為す。」(『述記』)
 (どのようなものが無愧の心所であるのか。それは、世間を顧みることなく、暴悪を依り所をすることを以て本質的な働きとし、よく愧をさまたげて、悪行を推し進めることを以て具体的な行為となす心所である。)
 世間とは、あらゆるルールのもとで成り立っている世界ですが、道徳規範や法律というルールを尊ぶことが無いのが「愧」の心所の特徴なんですね。人間社会が、ルールを構築しなければならない背景に「暴悪を崇重する」という心が動いているのではないでしょうか。
 「暴悪を崇重する」というのは、自分は間違っていないと云う発想ですね。三面記事を読まれたらわかると思いますが、、民事・刑事を問わず、被告人は罪に対して否定をしますね。会社ぐるみの隠ぺい工作でも必ず否定をします。これは私のことをいっておるわけです。対岸の火ではなく、自分の立場も、「正しい」という、自己顕示欲の上にに立っている。世間は、善か悪かの基準をもって何事も裁いていくのでしょうが、仏法に触れた者は、他を批判するのではなく、自分の姿を見せていただいているんだなと、気づいていくべきでしょう。
 私事なのですが、父が亡くなった折、起きるはずのない相続問題が起こったんです。火種は未だにくすぶっています。僕は一人っ子で、遺産相続人なんです。ですから法に則って所有権移転の相続を行いました。これで何等問題は無いのですが、父の兄弟の一人が、相続無効やとわめきだしたのです。
 それは父が祖父から遺産を引き継ぐときに、遺産分割協議書を作成し、父以外の相続人の方々に、遺産放棄の手続きをとっていただいたんです。その時に不正があったとというんです。不正が有った以上、この相続は無効だと。弁護士を通して調査をしていただきましたが、どこにも不正は見当たらず、また相続開始から15年以上もたって、異議申し立ては時効にかかっており、若し不正があったとしても、裁判所は取り上げてはくれないんです。
 異議申し立てた一人の叔父は、弁護士のことも、役所のことも信用できんといって耳をかそうともしませんでした。警察は民事不介入ということで、若し危害が及ぶようだったら110番しなさい、ということだったんですね。その後、何を説明しても聞いてはくれませんでしたし、だんだん言葉の調子が粗くなってきましたので、接見禁止の仮処分を出していただき今日に至っております。今の所、何事も無いのですが、いつどういう状態で事件が起こるかもしれません。「さるべき業縁のもよおせば」です。
 叔父の言い分は、ルールはルールかも知れんが、不正は不正やといって、不正は無かったことを認めようとはしないんです。僕の方も、不正はなかったんだと立証するわけですが、お互いに共通する事柄は、自分を守りたいということなんですね。ふってわいたような馬鹿馬鹿しい事柄ですが、世間の中では、これが犯罪に結びついてくる、或は、無法な嫌がらせに依るノイローゼに落ち込むということも起ってくるんだと思います。民事不介入の説明の中で、事件が起こらないようにしなければならないが、解決する方法はない。取り締まることはできない。出来るのは、口頭で事情を説明し、それでも聞いてくれず、暴力沙汰に及ぶような危険を察知したら、「110番するよ」と言ってください。大抵はそれで引き下がると思うが、引き下がらない時は110番してください。警察の方で対応します、という見解なんです。
 以上のことは、例えばの話ですが、世間では類似の問題も多いのではないでしょうか。
 仏法から見れば、このような問題が起ってくるのは、存在の罪といえるのでしょうね。「正しい」という中に「捨てられん」という執われが見えてこない罪ですね。僕の場合でいうと、家を出れば済むだけの話です。出られない、というところに理不尽ではあってもつけ入る隙を与えるのでしょう。出家とは、こういう世間のしがらみから解放されることでしょう。だからすべてを棄てるわけです。棄てて初めて出会う世界が有る。捨てなかったなら、捨てないところで背負わざるを得ない問題を抱えるわけでしょうね。それが存在の罪だと。
 出家者は、一物も持たず。自との対話において法を明らかにする存在なのでしょう。世間は自と他において埋没する在り方をいうのではないでしょうか。埋没する在り方が、無慚・無愧を生み出してくるのではないでしょうか。
   「世間を顧みずして暴悪(ぼうあく)を崇重(すうじゅう)するを以て性と為す」と云う、無愧の心の深さを知らされます。
 無慚・無愧  ― 「恥じない事」 ― 通相
 無愧において、
  暴悪は ― 無愧の別相であり、
  崇重は ― 無愧の行相である。
  無慚・無愧、共に「恥じないこと」に違いは無いのですが、慚は「自」に恥じ、愧は「他」に恥じることの中に、自には法が、他には世間が含まれているということを護法菩薩はいいたかったのでしょう。
 「然るに此の中の無慙に自法と言えるは、顕揚と同じ。対法・五蘊に云く。自ら恥ざるを無慙と為す。法の己を益するを亦自と名けるが故に。」(『述記』第六末・七十六右)

日曜雑感

2015-07-20 00:09:55 | 雑感
 
 日付が変わりましたので、昨日のことになりますが、暁天法話にひきつずき、名古屋東別院に寄せていただき、阿久比の東光寺さんに勝手にお邪魔しました。心からのおもてなしを受けまして感激しております。有難うございました。
 暁天法話で話させていただいた内容とは少し異なりますが、皆さま方にも聞いていただきたく、またご批判を賜りたく、あつかましくもありますが投稿させていたできます。
 
 「おはようございます。今年もまた、たわいのない話で終始すると思います。早朝より足をお運びいただきましてありがとうございます。一時間足らず、私に時間を頂きまして、愚痴を聞いていただく機縁を得ましたこと深く感謝いたします。
 一昨年、昨年と同じような話をし、今年も同じような話になると思います。今日は、私が、何故仏教を求めたのか、何故触れた仏教を捨てたのか。そして自己中心の欲求の中に埋没し、人間性を失っていったのか。やがて、仏教に依り所を得て生活をするようになったのか、このようなことを考えてみたいと思っております。
 何故、考えてみようかなと思ったのは、私にとって一番触れたくない部分なんです。しかし触れたくないけれども、今の私を形成していることを思えば、やはり避けて通れないと思ったからです。
 私が仏教を求め、仏教を捨て、やがて仏法に出遇うという、私の中で、三つの転機がありまして、最初は、偶々の御縁なんです。付せんになっていたのは17歳の折でしたか、「死んだらどうなるの」という疑問を抱いたことですね。朝、眼が開くのかどうか、若し開かなかったらどうしようという恐怖心にかられたことを思い出します。
 そのことがずっと引っかかっておりまして、19歳の時でした。たまたまお茶の稽古で通っておりましたのが浄土真宗大谷派の寺院だったのです。先生でもある坊守さんからお声掛けを頂きまして、仏青の面々にお茶の手ほどきの手伝いをすることになりました。茶室で飛び交う話は仏教の事ばかりでした。非常に興味を引きまして、仏青や同朋会の法座にも出させていただき、浄土真宗の教えに触れさせていただきました。
 常識破れの話ばかりで、さっぱりわかりませんでしたが、何故か心に響くものがあったようです。
 何が心に響いたのかを知りたく、聖典を読むようになり、「私の生きる道は、これしかない」とまで思うようになっていきました。
 しかし、私の求道が本物かどうか、ためされました。仏教に自己逃避しているのではないのか。本当に世間を棄てることができるのか。いわば親子の縁を切ってまでも仏道に生きる覚悟があるのか。
 今から思えば、そんな求道に生きる覚悟なんてなかったんですね。わずか二年余りの求道生活も終焉を迎えました。この時です。僕の求道心を阻害したのは、親でもあり、お寺でもあると、責任をなすりつけたのです。いろんな障害が有って、その障礙をのりこえる勇気をもてなかったです。 責任転嫁するという形であっさり仏教を捨てることになりました。それ以来、お寺に顔を出すこともなくなり、仏教書もよまなくなり、ただただ欲望のままに生活をしていたようです。
 自分を解放する仏法に出遇いながら、自分を閉鎖する我欲を選んだのです。我欲の生活が20年ほど続きましたが、やがて大きな転機が訪れました。「本当にこれでいいのか」という問いかけです。
 これは仏教を聞いたことが、私の無意識の中に染みついていたんですね。そのことをを引きずっていたんです。ここは非常に大事なところだと思います。聞いたことが無駄ではないということですね。我欲の中で、「これでいいのか」という問いかけが起こっていたんだろうと思います。
 その問いかけに耳を貸さない自分と、受け入れなければならない自分との葛藤が起こりましたが、そう簡単に耳を貸そうとはしませんでした。「仏法を聞いて何か役にたつのか、聞いてなんとかなるのか」というささやきが、仏法聴聞に対して
 抵抗するだけ抵抗し、仏法を拒否し続けたのです。しかし、偶々の御縁で子を賜ることに成り、子の誕生が引き金となってですね、この子に「お父さん、生きるってどういうこと」、と問われたら何と答えたらいいのだろう、ふとこんなことを思ったんです。
 何故思ったのかはわかりません。
 仏法は聞いていないようで、聞こえていたということがあるのでしょうか。その時、我が子を抱くのと同時に、私を生んでくれた母のことが脳裏をかすめました。私は母の顔を記憶していることは無いのですが、母が何故私を生んでくれたのか、母の苦しみが伝わってきたんです。それは、仏教の話は、自分を超えて聞こえてくる、聞こえているということが有るように思われてなりませんでした。
 「真心徹到するひとは 金剛心なりければ・・・」
 不思議とこんな言葉がでてくるんですね。
 「仏法聴聞は身に染み入る」こんな声をよく聞きます。細胞の一つ一つが感じ取っていく世界が有るように思うんですね。先達は「毛穴から染み入るんだ」と教えて下さいました。仏法は頭から入るのではなく、毛穴から染み入るんだと。仏教学と云う学問は頭から入る。そういう意味では、若いころの聴聞は、仏法を聞いていたのではなく、仏教を頭で聞いていたんでしょうね。これもまた意味のあることではあるとは思いますが。
 毛穴からしみいるというのは、直接深層の心の中に届いているのかも知れません。そのことに目覚めたのが「信」だと思うんです。深層の心の中に徹到するんだと思います。
 深層の心はどこにあるのか、といいますと、どっかに、ここが深層の心だといえるような場所は実体としてはないんでしょうね。そうではなく、肌で感じるものが有るんだと思います。いわば純粋経験ですね。
 私たちの経験は、間接的経験なんですね。第七末那識という「私」を通した経験になりますから、経験をつかむことになり、経験主義が生まれてくるんでしょう。つかんだら執着を起こします。しかし純粋経験は執着を起こしません。
 何故感じるのかです。それは私たち一人一人が求めてやまないものがあるということだと思います。その求めているものが、仏法に出遇うことにおいて応ずるwけでしょう。私は、私が求めているものは、我欲からしか伺うことはできません。我欲という、独りよがりな欲求を通して、本当に純なる欲求に変化するような、願いという、清浄意欲に目覚めなさいと教えて下さいましたのが、親鸞聖人ですね。
 貴方の求めているのは「往生浄土の道」だと。浄土を明らかにしたい、このことひとつであると教えていただいているんですね。
 子の誕生が、私をして仏法の場に足を運ばせてくださいました。
 縁となりましたの、清浄な欲求ではありません。我欲です。不純な欲求です。私には、私は非常に依頼心が強いですから、無謀なむさぼりと、むさぼりが果たせない時の怒りしかありません。
 このことが教えられるのですね。聴聞の利益は、無明を知らせていただく、そこに開かれてくる道がある。それを白道というわけでしょう。むさぼりと怒りで閉ざされた扉は「聞」という鍵をもって開けるしかないということでしょう。
 自分の心を閉ざしておったのは、むさぼりと怒りしかない自分であったと気づかせてくれるのではないですか。仏法に遇っていますから、
 「獲信見敬大慶喜」(信を獲れば見て敬い大きに慶喜せん)
 「即横超載五悪趣」(すなわち横に五悪趣を超載す)
 横超断四流(四流とは、『帰三宝偈』欲暴流よくぼる・有暴流うぼる・見暴流けんぼる・無明暴流むみょうぼる。 煩悩ぼんのうを四種の暴流に喩えたもの。 (玄義分)
 という世界が開かれてくるのではないでしょうか。無明は責任回避だと思います。無明は自分が作り出したものという眼差しですね。閉ざしておったのは私であったという気づきです。
 ここが聞即信といわれていることではないかなと思うわけです。
 教えに依って明らかになった自己、一人で生きていたように思っていたけれども、いろんな人からのお力添えを以て生かされていた。人は他とのつながりの中でしか生きることが許されない事実に目を覆い、その事実を知らしめた教法をも顧みずことがない者は、孤独の闇に彷徨うわけですね。私の場合は正にその通りでした。
 孤独の闇という表現が難しいですね。私たちは明るさを知っていますから、これが闇なんだと思うわけですが、そしたら、明るさとは一体何んだろう、と思うのです。漆黒の中では、一歩も足が前に出ません。眼は道標ではないんです。道標が無くなったら、何を頼りにしたらいいんでしょう。私たちは、自分自分と言って、自分を頼りに生きていますが、一番分からない存在が自分でしょう。自分とは、依り所がはっきりした存在であると云えるのではないでしょうか。依り所は「他」です。他によって明らかにされた存在が自分、それは闇の中では一歩も歩を進めることができない自分に出遇ったということではないですか。
 闇の中では、何を頼りに生きたらいいのでしょう。闇とは恐怖そのものです。なんとかここから脱出したいと思うのが自然の摂理です。闇を知らないものですからのうのうと生きていられるのかもしれません。闇の正体を知れば、恐怖そのものではないでしょうか。教えを通して恐怖を知る。知った恐怖を通して、もがいてもがいて脱出を試みるわけでしょう。
 では、私たち、闇から脱出を試みる努力をしたでしょうか。恐怖を通さずして、親鸞聖人の教えはこうだと安易に了解していませんか。火の河・水の河の前で立ち止まる訳ですが、立ち止まることが大事ですね。立ち止まった所に、立ち止まらせた智慧が働いていたのですね。依り所とはそういうものではないでしょうか。人生の恐怖心は、恐怖心に寄り添って智慧が存在するんですね。歩いて行ける道標がね。
私たちは、善業や悪業について、世間の中の価値観で判断していますが、本当はそうではなく、「不善の三業は、必ず真実心の中に捨てたまえるを須いよ。またもし善の三業を起こさば、必ず真実心の中に作したまいしを須いよ」なんですね。
 ですから、私たちの課題の一つは、何が真実なのかですね。自分から発生する何事も不善です。「中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく。」と親鸞聖人は教えて下しました。
 「自分に会いたいけど会いたくない」、私たちが教えに会いたくない理由の一つに「自分に会うのが怖い」という一面があるように思えます。本当の所を知りたいのだけれども、知り得るのが怖い。例として適切でなないと思いますが、私たちは死を宣告された病を引きずっているのではないでしょうか。それを経済至上主義の元に何とか忘れようとして日暮をしているように思えます。求めている先は竜宮城。時を忘れ、いつしか若さも失って、過去の栄光にしがみついて、やがて訪れるであろう死と向き合わなければならない時、「自分の人生は何であったのだろうか」という虚しさの中で人生の終焉を迎えなければならないと云う現実があるわけです。
 私たちは常日頃、他者の死は目撃するわけです。他者の死でしかありませんね。他者の死だから、「亡くなられたんや」ですまされるわけです。これが自分の死であったなら、こんなこと言うてられません。何故、他者の死を通して自己の死に向き合うことができないのでしょうか。僕は、「したくない」と思っているからではないですか。恐れがあるんだと思いますね。自分が死ぬことは恐怖なんです。
 死を遠ざけていることがことが、自分を縛ってくるものであるとも知らず、死と生を分離し、死を忌み嫌い、生の謳歌の元に生き甲斐を模索しているのが私の姿でありました。。
 光があっても見えず、闇の中に一筋の光を見る。
 光の中に闇を見れば、闇は消えてなくなるわけですが、光なく、闇が闇であったという闇の経験は恐怖そのものでしょう。絶望しかありません。開放される手だてが無いからですね。真実が明らかにならない限り、自分の価値観で、自分を問うならば、絶望の淵に沈まざるを得ないと云うことだと思います。
 しかし、闇の中で輝いた一筋の光(仏法に遇ったという事実)は、私を解放してくれます。何故なら、闇は光の中で闇だと知らされたからです。闇でも問題はないのです。闇でも歩けるんですね。
 人生の中で、生き方に疑いを持つ、「このままでいいんだろうか、このような生き方でいいのか」。繰り返しになりますが、僕は19歳の折に「生きるってどういうこと、死んだらどうなるの」という疑いをもちました。そうしますと、死にたくないものですから、眠れなかったですね。朝、目が開く保障はどこにもないからですね。疑いが晴れない恐怖があるんです。それはまた、晴らしたいけれども、真実を知ることが怖いということでもあるんですね。しかし、自分と云う者は都合のいいもんです。いつしか忘れます。忘れて世の中に埋没していきます。埋没した人生が20年つづきました。生きててよかったですね。疑いを持ったら、疑いが晴れるまでは死ねん、死なさないということでしょうか。
 「教えに遇うこと・・・恐怖」ということは、僕の場合で云えば、「この道一つ」と決意した時があったわけです。どのように聞いていたのかはわかりませんが、教えに自分の生き方を尋ねていた時期もあったのです。退転して以降は、教えを閉ざしたんです。「悪道に堕す」とはこのことです。一旦教えに遇った者が遭遇するジレンマが恐怖心ですね。教えと自我の葛藤の中で、襲い来る恐怖があるんです。それは、後悔と云う名の恐怖ですね。これは簡単には解けないです。
 「何故自分は退転したのか」、此処に立つ時、どうしてもその責任を他に向けます。避けて通りたいんです。避けて唯識を語っておればいいわけですが、そうはさせてくれません。どうでしょうか、避けて通れれば通りたいのではないですか。それは恐怖心が立ちはだかっているからでしょう、そのように思います。しかし、恐怖心を超えて、恐怖心を御縁として本願念仏の教えに出遇っていくのではありませんか。
 どうも、意を尽くすことは出来ませんが、教えに遇うということは、否応なしに自分に向き合わなければならない。向き合うことの怖さだと思います。でもここを突破しないと、教えに出遇うということは成り立たないのではないでしょうか。
 僕の課題も、當に此の一点です。もう一つ、恐怖心は妥協を求めてきます。これがまた怖いですね。新たな闇を作りだしてきますからね。「群賊悪獣のささやき」、もうこれでいいのではないか、「一生懸命信じたら願いはかなうで」、これは楽ですよ。自分を問うことが有りませんからね。これが新たな闇であるということなんです。自分の利を求める余り、自分の利に叶う教えが四伸び依ってくるんですね。自分の利とは名聞・利養・勝他の三種の神器です。是さえ叶えば鬼に金棒というわけです。大きな間違いを犯すんですね。
 「身命を惜しまず、晝夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし」
 大乗仏教徒は、仏道を志す原点における自己回避の事実に眼を背けることなく、仏道を自己から逃避する為の道具にすることなく、求めるに先立っての怖れに向きあっているのではないでしょうか。そこから生み出されてくるのが「無慚・無愧の我が身にて」という悲歎ではないかと思われてなりません。
 仏法は難しい教義を覚えるのではないと思います。また仏法を聞いても日常の生活が変わることもありませんね、価値観は変わるとは思いますが。何が変わるのかと云えば、本当は、外器(世間)は私が作り出したものであって、自分が作り出した世界を自分が見て、判断を下して、これは黒板である、ここはお寺であると認識を行っているに過ぎないのです。(認識が生まれる前提に(黒板というものを知っている私が居る)知っていることがある。知らなかったならば認識することはない。)
 例えば外界が存在するとしましょう。その外界は、私の心が外に投げ出したものといえると思います。外界に触れた時に、外界そのものを具界心の領域で受け止めているわけです。ありのままです。言葉は介在しません。言葉を以て認識が起こる時は、深い心が受け止めた映像を六識を通して持ち直すという現象が起こってきます。そこに介在するのが我欲と云われる自己執着心なんですね。自己執着心は、深い心の領域に触れさせまいとし、深い心を覆っているんです。
 私が、私がということです。私がというフィルターを通して認識を起こしている、ここに気づけばいいことだと思います。
 やはり、聞法することが扉を開く鍵になるかと思います。教えを通さないと、先ほども触れましたが、絶望しかないわけです。なぜ絶望するのか、絶望をせざるを得ない執らわれがあるからですね、それは自己執着心です。我愛ですね。我が身可愛いということなのです。いわば、絶望の底に我執が潜んでいる、その我執に気づきを得ないことが、問題だろうと思いますね。我執からの解放は、教えに遇うこと以外にはないわけです。教えといえども、無漏智(本願念仏の法)に遇うということでなければなりません。聞法することが我執の扉を開く鍵になると思います。
 時間が来ましたので、とりとめのない話に終始し申し訳ありませんでた。
      合掌 

第三能変 第四 随煩悩の心所について (39) 中随煩悩 無慚・無愧 (5)

2015-07-16 22:29:44 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 昨日の記事で、河合師よりコメントをいただきました。「なんと!?!?!?
教えに遇うことが、、、恐怖!、、、
それは、、想定外デス……
ケド、、先達がユワれるんですから、、、考えマス_(_^_)_
 素直にコメントしていただいて有り難いです。ちょっと言葉足らずな所が有りましたので補足させていただきます。
 「自分に会いたいけど会いたくない」、私たちが教えに会いたくない理由の一つに「自分に会うのが怖い」という一面があるように思えます。本当の所を知りたいのだけれども、知り得るのが怖いという所だと思います。例として適切でなないと思いますが、私たちは死を宣告された病を引きずっているのではないでしょうか。それを経済至上主義の元に何とか忘れようとして日暮をしているように思えます。求めている先は竜宮城。時を忘れ、いつしか若さも失って、過去の栄光にしがみついて、やがて訪れるであろう死と向き合わなければならない時、「自分の人生は何であったのだろうか」という虚しさの中で人生の終焉を迎えなければならないと云う現実があるわけです。
 私たちは常日頃、他者の死は目撃するわけです。他者の死でしかありませんね。他者の死だから、「亡くなられたんや」ですまされるわけです。これが自分の死であったなら、こんなこと言うてられません。何故、他者の死を通して自己の死に向き合うことができないのでしょうか。僕は、「したくない」と思っているからではないですか。恐れがあるんだと思いますね。自分が死ぬことは恐怖なんです。
 お寺に人が集まらないというのは、反面「本当の所を知らされるのが怖い」からだと思うのです。それはね、お寺さんの責任だと思います(笑)。お寺の門を閉じると云うのは、真実に眼を背けなさい、と言っているようなものだからです。迷いを迷いとも知らず、求めていることが、自分を縛ってくるものであるとも知らず、死と生を分離し、死を忌み嫌い、生の謳歌の元に生き甲斐を模索しているのが私の姿ではないでしょうか。
 光があっても見えず、闇の中に一筋の光を見る。
 光の中に闇を見れば、恐怖そのものでしょう。絶望しかありません。開放される手だてが無いからですね。
 しかし、闇の中で輝いた一筋の光は、私を解放してくれます。何故なら、闇は光の中で闇だと知らされたからです。闇でも問題はないのです。闇でも歩けるんですね。
 人生の中で、生き方に疑いを持つ、「このままでいいんだろうか、このような生き方でいいのか」。僕は19歳の折に「生きるってどういうこと、死んだらどうなるの」という疑いをもちました。そうしますと、死にたくないものですから、眠れなかったですね。朝、目が開く保障はどこにもないからですね。疑いが晴れない恐怖があるんです。それはまた、真実を知らされたくないという恐怖でもあるんですね。しかし、自分と云う者は都合のいいもんです。いつしか忘れます。忘れて世の中に埋没していきます。埋没した人生が30年つづきました。生きててよかったですね。疑いを持ったら、疑いが晴れるまでは死ねん、死なさないということでしょうか。
 「教えに遇うこと・・・恐怖」ということは、僕の場合で云えば、「この道一つ」と決意した時があったわけです。どのように聞いていたのかはわかりませんが、教えに自分の生き方を尋ねていた時期もあったのです。退転して以降は、教えを閉ざしたんです。「悪道に堕す」とはこのことです。一旦教えに遇った者が遭遇するジレンマが恐怖心ですね。教えと自我の葛藤の中で、襲い来る恐怖があるんです。それは、後悔と云う名の恐怖ですね。これは簡単には解けないです。
 「何故自分は退転したのか」、此処に立つ時、どうしてもその責任を他に向けます。避けて通りたいんです。避けて唯識を語っておればいいわけですが、そうはさせてくれません。どうでしょうか、避けて通れれば通りたいのではないですか。それは恐怖心が立ちはだかっているからでしょう、そのように思います。しかし、恐怖心を超えて、恐怖心を御縁として本願念仏の教えに出遇っていくのではありませんか。
 どうも、意を尽くすことは出来ませんが、教えに遇うということは、否応なしに自分に向き合わなければならない。向き合うことの怖さだと思います。でもここを突破しないと、教えに出遇うということは成り立たないのではないでしょうか。
 僕の課題も、當に此の一点です。もう一つ、恐怖心は妥協を求めてきます。これがまた怖いですね。新たな闇を作りだしてきますからね。
 「身命を惜しまず、晝夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし」
 大乗仏教徒は、仏道を志す原点における自己回避の事実に眼を背けることなく、仏道を自己から逃避する為の道具にすることなく、求めるに先立っての怖れに向きあっているのではないでしょうか。そこから生み出されてくるのが「無慚・無愧の我が身にて」という悲歎ではないかと思われてなりません。