唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (42)九難義 (22) 唯識所因 (20) 理証

2016-06-30 22:19:38 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 「慈尊此れに依りて二頌を説いて言く、
  「虚妄分別は有り、
  此に於て二は都て無し、
  此の中には唯空のみ有り。
  彼に於ても亦此れ有り。」(第一偈)
  「故に一切の法は、空にも非ず不空にも非ずと説く。 
  有と無と及び有との故に、是れ則ち中道に契えり。」(第二偈))(『論」第七・二十二右)


 前科段をうけて『弁中辺論」の偈頌が出されてきます。
 慈尊は弥勒菩薩のことです。
  「虚妄分別は有り」
 私は、、ものそのものの本質を見ていなくて、自分の心に投影された、自分の心の影を見ているのですね。これが誤った分別、難しく言いますと、虚妄分別になるわけです。影を見ていますから有です。如何に虚妄であっても有である、現実には有る。私たちの迷いはこれに於いて生起しているのです。
 しかし、
 此(虚妄分別)が於に能取・所取(或は我・法)は無いものである。虚妄分別に於いて有るものは真実ではないのですね。従って、真実ではないから無いものである。ここは非常に大事なところですね。
 私が認識を起こす時は、自分の色を付けて認識を起こしています。起こしているわけですから認識されたものは有るわけです、いかに虚妄分別であってもですね。しか、これを絶対視しますと、争いが起こります。自らの虚妄分別を絶対化しているところに問題があるのではと思います。
 虚妄分別の中には、空性という理のみが有るのである、と。
 迷いも縁起、目覚めも縁起という重層的ですね。迷いも縁起、因縁生であるということは、迷いも空であるわけです。悟りの世界が空ではなく、迷いも空であると、私たちはやみくもに迷っているわけではなく、空の於に迷っているわけですね。
 非常に判りにくいところですが、虚妄分別が自己であると云う認識が大事なところではあると思いますね。
 仏教は客観的事物を考察する学問ではなく、どこまでも「自己」を明らかにする学仏道ですね。ここが欠落しますと外道に転落します。転落しても、それもまた因縁生です。救われてあるんですね。本願成就の道を歩んでいることになるんです。
 この項はもう少し熟考します。

 「迷いも空」、生きていることの素晴らしさを大胆に表現されているように思えます。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (41)九難義 (21) 唯識所因 (19) 理証

2016-06-29 23:01:07 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 今日から、理証にはいります。その前に、
 今まで根・境・識という十二処・十八界で人間存在を捉えてきましたが、部派の教学では、三世実有法体恒有という考え方が中心なんですね、ですから境は実有なんです。そして、境がなければ識も成り立たないと云うのが部派のなかでも切一切有部の教学になります。
 唯識派一切不離識、唯識無境という立場ですから、境は所縁なんです。境は実有ではなく、自分の心が捉えた影像であると主張します。此の事を如実に表しているのが四分義なのです。
 証自証分・自性分・相分・見分として認識構造を明らかにしているのですが、なお、所量・能量・量果をもって四分の正確さを論証しています。つまり、見分を取り上げますと、見分は認識主体ですが、その見分を見分としてとらえられれば相分、認識客体になるのです。図式をみていただければと思います。
 四分義を遡っておさらいしていただければと思いますが、ここでもう一度、一切不離識を証明するために「彼依識所変」の広釈として第十七頌が説かれてきています。「彼」とは対象です。対象は識転変と押さえられていたのですが、十七頌に至って、転変とは「分別・所分別」と、識が対象の相を現ずるという、識が変化(転易)する、つまり果能変になります。
 「転変とは謂く諸の内識転じて我法の外境の相に似て現ず。」
 と、識が境に似て現れているにすぎないのだと。十七頌でいいますと、分別は内識を表すのですね。
 種子が現行する場合、種子は有漏性・虚妄分別が自性ですから、現行する場合は第六意識が計度するのです。背景には、阿頼耶識は計度しませんが、第七末那識が計度し、第七末那識は第八阿頼耶識を所縁として執着しますので、阿頼耶識も計度するものと思われているわけです。
 外境は無いといいますが、自分の思い描いたような外境は無いと云う意味なのですね。真の外境は阿頼耶識の相分に本質として認識されているのです。仏教徒はこの本質に触れようとしたのですね。ここが修行の根拠になるのでしょう。「自己をわするるなり」という無分別の智慧を証得するのが人生の目的になるわけです。
 唯識の行者は、一切唯識を以て、諸法の実相を明らかにしたのです。
 「我法は有に非ず」、外境は実有ではない、故に中道に契えり、と。
 「空と識とは無に非ず」、空無・識無ではない。不離識として一切を認める。
 我は実我・法は一切諸法は実体的に存在するという実法、このような実体的な変化しないものは何一つないということで「有に非ず」と。
 空は真如のことですが、識は心の働きです。これは「無に非ず」無いのではない。
 「有を離れ無を離れたるが故に中道に契えり。」と結んでいます。
 「中道に契えり」とは、中道は有無の二辺を離れていることを表していますが、中道において仏教は成り立つわけですね。私たちは中道において迷妄しているわけですね。つまり、本当は無いにもかかわらず有るものをたてます、此れを「増」と云います。無はその反対です、有るのに無いとします、「減」です。一切唯識ということで増減の二辺を離れている。
 一切唯識、外境は無い。=増益を離れている。
 一切唯識、ただ識のみ有り。=損減を離れている。 有の故に損減を離れ、無の故に増益を離れている、故に、「中道に契えり」と。
 ここからが理証になります。上記のことは『弁中辺論』において明らかにされます。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (40)九難義 (20) 唯識所因 (18)

2016-06-27 20:33:52 | 『成唯識論』に学ぶ
  宗純が24歳になった時のことです。瞽女(ごぜ:盲目の女芸人)が語る「平家物語」を聞いて無常観を感じた一休は、その時の気持ちを歌に詠みました。
「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」(人生は煩悩溢れるこの世から、来世までのごくわずかの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことではない)
この歌を聞いた華叟禅師は、歌の中にある“一休み”という言葉を宗純に授け、「一休」が宗純の号となったのです。


 この「一休み」という感覚、大事ですね。止まることを許さない厳しさが伺えます。
 今日は第四の量についてです。
 「所縁の法なるが故に、相応法の如く、決定して心と及び心所とに離れざるべし。」(『論』第七・二十一左)
 (宗) 「自識の所縁は決定して我が能縁の心及び心所を離れざるべし。」
 (因) 「是れ所縁の法なるを以ての故に。」
 (喩) 「相応法の如し。」
 「述して曰く、これは第四の唯識の量(認識・判断の根拠)なり。又復一切の自識の所縁は決定して我が能縁の心と及び心所とに離れざるべし。これ所縁の法なるを以ての故に。相応法の如し。相応法の体も所縁性なるが故に。有法は前に同なり。故にここに説かず。謂く一切の有無為のただ所縁の法なるは定めて識に離れず、このなかに即識といわざることは、有、無為は別なるを以ての故に。
 唯識無境を証明するために、その根拠を四つに分けて説明しているのです。本科段は最後の第四の量について述べているところです。
 私が認識をする対象は間違いなく、識体である心・心所を離れて存在するものではないのですね。そして対象となる一切法は所縁の法であって、識に離れて存在するものではないと証明していることになります。
 結びが、
 「此等の正理誠証非一なり。故に唯識の於て深く信受すべし。」(『論』第七・二十一左)
 ここまでが教証という経糸になります。その教証の中ではっきりさせていることは、対象(相分)と対象を認識する見分は心の具体相であるという構造を持っているということなんですね。捉えた対象は、我が心が捉え、我が心が認識しているに過ぎないということを明らかににしてきたのです。
 僕はここに仏教の救済の論理が語られているように思うのです。
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
  往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」(『歎異抄』第一条)
 「たすけられまいらせて」と段をくぎりました。僕は、ここに頭の下がった、慚愧をいただかれた念仏者のお姿をおもうのです。「どこまでいっても、聞法を積み重ねていけばいくほど「往生」とか「念仏」を自分の意で解釈をする自分に出遇うこと」が「助からん我が身が、助からんままに転ぜられていく世界に出遇っていくことが出来る」んではないか、と。
 僕は、ここにずっと疑いをもっているように思うのです。「頭が下がって世界が変わるわけはない」と。対象と自分を二分化しているのです。自分が捉えた対象という視線から、「我が思い」が見えてくるわけでしょう。
 一切は我が心が作り出した影像であり、我が心が認識している対象は実像ではない。しかし、影像を成り立たしめているのは他ならない実像と云う真如である。
 
 一切は我が心が作り出した影像であるという信知が「菩提のみずとなる」のでしょう。 
      

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (38)九難義 (18) 唯識所因 (16)

2016-06-26 21:53:42 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 第三の量。
 「此の親所縁は定めて此(六識)に離るるに非ず。二(相・見)の随一なるが故に。彼の能縁の如し。」(『論』第七・二十一左)
  (宗)「六識の親所縁は定んで六識を離れざるべし。
  (因)「相分・見分の二分中の随一に摂するが故に。」
  (喩)「彼の能縁の見分の如し。」
親所縁は親所縁縁で、二つの所縁の一つになります。所縁縁とは、心が知る対象をいいます。対象である相分と見分の関係です。根・境によって識が生ずるということになります。また、根・境・識の三和合において触の心所が働くといわれています。つまり、対象が無ければ、識は生まれないことになります。「境識倶泯」(キョウシキクミン)という考え方が生まれてくる背景になります。対象を所縁縁として識が生ずるわけです。その所縁縁に親所縁縁と疎所縁縁に分けれるわけです。疎所縁縁は本質(ホンゼツ)、親所縁縁は影像(ヨウゾウ)という関係です。親所縁縁は、「鏡中影像」とも云われていますが、鏡の中に映し出された影を指しますが、映し出す本来の相があるのですね、それが本質相分と呼ばれる疎所縁縁なのです。阿頼耶識が具現化した相分のことなのです。親所縁縁は、見る側の見分が直接見られる側の相分を縁じて認識を起こすわけです。
 ここで、認識を起こす親所縁である相分は、六識を離れて生起するものではない、つまり、相分があって見分が起こるのではなく、見分は対象が無ければ起こることはないのですから、見分が作り上げた相分であるということなんです。
 私たちは、認識対象である相分を「ありのまま」認識しているのではないという事を知らなければなりません。「ありのまま」を認識しているのが阿頼耶識の相分なのです。そして私が認識を起こす時には「私」の色づけをして、例えば花としますと、花と私を分けて、花を相分とし、私を見分として、私が花を認識しているという構造になるわけです。
 このことを、第三の量は教えてくれます。
 「親所縁は即ちこれ相分なりという。他は識を体とするに非ずというを恐れるが故に今はこれを成ず。・・・謂く此の六識の親所縁縁は定めて此の六識に離れるに非ざるべし。相見二分の内随一に摂するが故に。彼の能縁の見分の如し。見分は不離識なり。体は即ち是れ識なり、故に以て喩と為す。」(『述記』第七末・十五左)
 識に離れて、実体的に、固定的に事物が存在するするのではない、認識される対象があっても、認識される時には見分という認識する側の心の状態によって色づけされてくるということになります。

 この四比量を述べているのですが、ちょっと戻りますと、
 「又伽陀に説かく」
 「心と意と識との所縁は皆自性に離るるに非ず。故に我一切唯識のみ有りて余は無しと説くと」
 この一文を解釈しているところになりますが、この伽陀が『厚厳経』であると注釈がされているのです。このことについて論文が公開されています。紹介します。一読されるのもいいかと思います。
 印度学仏教学研究 VOL42(1993~1994)NO.2p659ー663
『厚厳経』と『大乗密厳経』 北尾隆心著 (2010/3/09ネット公開)
一部を紹介しますと、
 「『厚厳経』という経典は、法相宗の根本論典である『成唯識論』の所依の経論とされる六経十一論の内の一つである。
 しかし、『成唯識論』の中においては『厚厳経』という経名は―切見出すことはできないのである。
 では何故に、『厚厳経』という経典が『成唯識論』の所依の経論の一つとされるかというと、それは慈恩大師窺基(六三二〜六八二)が『成唯識論述記』において『成唯識論』の
中に引用される六つの伽陀を『厚厳経』の伽陀として註記されたことによるのである。
 そして、この『厚厳経』と『大乗密厳経』(以下『密厳経』と略す)とが一般には同本とされているのである。
 この両経の同本説は、真興(九三五〜一〇〇四)の『唯識義私記』の中において、『厚厳経』と『密厳経』とは同本であ
ると記載されたことによっている。」

お詫び

2016-06-24 20:06:35 | 雑感
  

 例年、年に二回ほど予告もなく、下痢嘔吐を伴う体調不良をいただきます。今年も昨日からやってきました。日頃の不摂生が大方の因に間違いのないところではありますが、(僕の勝手な思い込みですが)ブログを待っていてくださいます読者の皆様には大変ご迷惑をおかけいたします。大変申し訳ございません。m(__)m
 昨日と、今日と、明日は掲載休止とさせていただきます。ご理解のほどよろしくお願いいたします。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (37)九難義 (17) 唯識所因 (15)

2016-06-22 22:54:05 | 『成唯識論』に学ぶ
 

 「自下は理を為す。」
 六教証があげられまして、理証が挙げられます。それが四比量(シヒリョウ)になります。
 第一の量
 「極成の眼等の識と云うは、五が随一なるが故に。余の如く親しく自に離れたる色等を縁ぜざるべし。」(『論』第七・二十一左)
 極成とは、一般に認められていることを意味します。
 第一にまとめて説明されます。
 因明の論式に随って述べられます、先ず「宗」です。
 (宗)は、「極成の眼等の識は親しく自に離れたる色等を縁ぜざるべし。」
 眼識の対象は「色」
 耳識の対象は「声」
 鼻識の対象は「香」
 舌識の対象は「味」
 身識の対象は「触」
 自の対象に離れた境を縁ずることはない、と云っています。
 (因)は、「五識中の随一に摂するが故に。」
 (喩)は、「余の耳等の四識の如し。」

 第二の量
 「余識も識なるが故に。眼識等の如し、亦親しく自に離れたる諸法を縁ぜざるべし。」(『論』第七・二十一左)
 (宗)は、「極成の余識も亦親しく自に離れたる諸法を縁ぜざるべし。」
 (因)は、「是れ識なるが故に。」
 (喩)は、「眼等の識の如し。」

 以上の二量が述べている真意は、能縁は決して自体を離れた境を親所縁とすることが出来ないということなのです。
 『述記』は「即ち、これは自識に離れざる境を縁ずるを、境の義と為す。」と。
 境(対象)というとですね、相分ですから客体になるわけですね。識体に離れて客体があるように思うのです。これが間違いだと指摘されているのです。パソコンの前に、何冊かの書物が置かれています。真宗聖典も、スマホも置かれています。これらは私の関心事に於いてのみ意味があるのですが、私と無関係に書物は有るように思いますね。しかし、それは眼によって捉えられた書物なんですね。捉えられなければ書物は無いのです。余識も同じです。
 耳識を取り上げましても、私は騒音の中で仕事をしておりますので、耳が少し難聴になっています。小さな音が聞こえにくいのです。しかし、音を聞いているのは自分なんですね。聞こえない音は無いのと同じです。
 サバンナの中で生活をされている人は、眼や耳は非常に発達していると聞いています。またテニスや卓球や野球などのスポーツをされている人は、非常に動体視力が勝れています。これらから察しても、実体としての対象は無いのです。「識を離れて境は無い」という証明になるのですね。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (36)九難義 (16) 唯識所因 (14)

2016-06-21 22:36:58 | 『成唯識論』に学ぶ
   「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の精血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。」(『観経疏』序文義)
 「良に知りぬ。徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。」(『行文類』)


 菩薩の此の四智を成就せる者は、唯識の理に於いて決定して悟入す。」(『論』第七・二十一右)
 (この四智を成就する菩薩は、唯識の理、一切不離識という、すべては対象が実在するのではなく、心に依って世界が変わるのであると知り得るのである。)
 四智二ついては前述していますが、まとめてみますと(㋅㏢の投稿より)
 「「又説成就四智菩薩」とは修因に依って以て唯識を明せり。」(『樞要』巻下・十二左)
 四智とは、
 (1) 相違識相智(相違識の相をする智)
      相違者の識所変(相分)の境相を観ずるの智。例えば「一水四見」という教説です。
 (2) 無所縁識智(無を所縁とする識をする智)
      無を所縁として、これによって生ずる所の識を観ずるの智。過去・未来・夢境・鏡の中に写った虚像を所縁として生ずる所の心の問題。
 (3) 自応無倒智(自ら無倒になるべきとする智)
      凡夫の知恵が、心外に実有(実際に存在する)の境(対象)を見えることができるなら、凡夫はそのまま、ものを正しく見ているということになり、何の修行もすることなく解脱を得るということになる。
 (4) 随三智転智(三の智に随って転ずるの智)
      三の智(随自在者智・随観察者智・随無分別智転智)に随って境相が転ぜられると観ずるの智。
      つまり、三の智に随って境相が転ぜられるから唯識無境と観ずることができるという智慧になります。逆に云うと、三の智を証得しなかったならば転依はないということになります。
  結びとして『厚厳経』が教証として挙げられています。
 「又伽他に説かく、心と意と識の所縁は、皆自性を離るるに非ず。故に我一切唯識のみ有りて余は無しと説く。」(『論』第七・二十一左)
 (『厚厳経』に説かれている。心・意・識の対象はすべて心を離れるものではない、と。よって、一切はただ識のみ有って外境は無いと説かれているのである。)
 心王は能縁ですが、能縁の働きが所縁を生み出しているわけです。「識体転じて二分に似る」、つまり外境ににて変現したのが所縁なのですね。自分が捉えている、実の如く思っている対象はどこにもないのだと。唯識無境は諸行無常でもあるわけですね。刻々変化しながら断絶することなく相続されている、あたかも水の流れのようなものである、捉えた瞬間に新鮮さを失うのでしょう。本来「いのち」はいつでもみずみずしいのです。有漏の肉体は老化し死を迎えることになりますが、「いのち」は日々新たなんですね。
 日々新たな「いのち」を宿して生きさせていただいている、感動しませんか。本当に勿体なくも有難いですね。
 「此等の聖教の誠証非一なり。」(『論』第七・二十一左)
 (唯識無境が説かれている聖教の証明は多くある。これのみではない。)

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (35)九難義 (15) 唯識所因 (13)

2016-06-20 22:40:59 | 『成唯識論』に学ぶ
  若き仏教徒によく読まれているらしいので、遅れを取らないためにも熟読を。

 昨日の投稿に河合先生からコメントをいただきました。コメントを読ませていただいて、「はっと」気づかされたことがありました。自己に背くものは自己、安田先生の教えではありますが、ややこしいことを言いますが、自己に背いている自己がいると思っている自己がいつも頭をもたげている、と言った方が僕を言い当てているように思ったのです。その証拠に「この野郎」と思っている人に頭は下がりません。仏法はいつしかどこかに吹っ飛んでいます。見えないんです。自分がですね。見えたふりをしている自分が恐ろしいですね。
 なんともですね、私と貴方という構図での関係でしか生きていけません。どこまでいっても、私の判断です。これは見えませんわ。分別しかないんですね。
 教えは、分別しかない私を言い当ててきます。
 「道を求める」という在り方は八万四千の法門で、その主体は「私」です。
 「道すでにあり」という眼差しを親鸞聖人にお伺いたしますと、
 「宗師(善導)の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸・頓すなわちおのおの所宜に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れり」(玄義分)と云えり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」(定善義)と言えり。」(『化身土巻』)
「門余」と言うは、「門」はすなわち八万四千の仮門なり、「余」はすなわち本願一乗海なり。(『化身土巻』)
随縁雑善恐難生」というは、「随縁」は、衆生のおのおのの縁にしたがいて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを、極楽に回向するなり。すなわち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆえに、実報土にはうまれずと、きらわるるゆえに、「恐難生」といえり。「恐」は、おそるという。真の報土に、雑善・自力の善うまるということを、おそるるなり。「難生」は、うまれがたしとなり](『唯信鈔文意』)と。
 「常没の凡愚」という眼差しが持てるのでしょうか、我愛は許しませんね。自分からは出て来ないのですね。そしたら、どこから出てくるのか、それが「門余」示されています本願一乗海なのでしょう。本願一乗海においてのみ「素直」になれるのでしょう。愚縛の凡愚と頭が下がっているのでしょうね。僕と教法とは紙一重の手の届かない深さがあるようです。

 「三の智に随って転ずる智」の三番目の解になります。
 「三には無分別智に随って転ぜるをする智。謂く実を証する無分別智を起こすときには、一切の境相皆現前せず。」(『論』第七・二十一右)
 無分別智とは、簡単にいえば無漏の智慧です。三つの無分別智が説かれます。加行無分別智(加行位において起こす無分別智)と根本無分別智(見道通達位において起こす無分別智)と後得無分別智(修道修習位において起こす無分別智)です。
 聖道門において、どこで無分別智が現れるのかが問われているのですが、離言の世界ですね。
 『維摩経』においてもですね、文殊菩薩は最後に維摩にも「不二の法門」について説いてもらいたいと頼みます。この時、維摩は口をとざして一言も語らなかったのです。これを『維摩の一黙』というのですが、この維摩の一黙ということは、真理は言葉ではなかなか表現できるものではなく、仏心から仏心に直接伝えられるという「不立文字教外別伝」「以心伝心」において言葉を超えて伝わってくる智慧なのではないでしょうか。
 「仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆえに、この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。」(『唯信鈔文意』)と教えてくださいます。
 無分別智が現前しますと、対象が現れないと云っています。つまり、言葉で捉えた、分別された対象は現れないという。一如の世界ですね。本来あるべき世界観。空、無我の世界ですね。
 「無分別智が現前」しませんと、分別という闘争の世界に身を置くことになります。
 対象が実在するならば、「現前せず」とは言えませんね。唯識無境が証明されてあるのです。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (34)九難義 (14) 唯識所因 (12)

2016-06-19 23:20:17 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 自分から求めると云う在り方は、ご縁を想定していないように思うのです。(自分の都合です)、眼に見えない自分の都合が取捨選択をして求めているという形を取るのではないのかなと思ったことです。しかし、ご縁は自分の都合を超えてやってきます。そして自分の思いや計らいを超えて自分の本性をさらけ出します。
 聴聞をしていても、本当に聴いているのか、聞こえているのか怪しいものです。
 わかったつもりの仏法、知ったかぶりの仏法は、「おおそらごとのかたちなり」なんでしょうね。
 一陣の風が吹きますと、たちまちに形相が変わります。心の中に眠っていた種子が(一陣の風)自分の計らいを超えて現行してくるからですね。夜叉にかわるんですね。何故でしょうか。おおきな課題が与えられていますね。
 不連続の連続である「いのち」の種子は、現在に於いては過去の種子が現行した果であり、今の現行が種子として未来の現行の因となります。因縁所生なんですね。一切法(すべての物柄)が(見えない)私の心をえぐり出してきます。えぐり出された心は、真理に触れた証なんでしょう。自己に背くものは自己である、という自覚が生れてくるのではないでしょうか。それが救いと表現されているように思うのですが。
 現在の果は如何ともしがたいですが、果相から因相へという刹那には、何を植え付けるのかが問われているのですね。こころの深さに依って変わっていく世界が有るということなんですね。
 
 OTANIエッセイより、
 「「心浄ければ則ち仏土浄し」
『維摩経(ゆいまきょう)』「仏国品(ぶっこくほん)」(『大正大蔵経』第14巻 p538)
『維摩経』は中国や日本でもっとも人気があった経典のひとつです。この経典では、「空(くう)」「不二(ふに)」という大乗仏教の根本的な考え方や、「菩薩」という理想的な人間像が、主人公維摩の言葉を通して生き生きと説き明かされています。また、この経の始めに置かれる仏国品(「ブッダの国土」についての章)では、大乗仏教における「浄土」の考え方が詳しく説明されており、それが『維摩経』の全体を貫く中心的な課題であるとされます。

仏教では、人間にとって最も理想的な世界を「浄土」(浄らかな世界)という言葉で表現します。一方、煩悩のエゴの心にまみれた私たちのこの現実世界は、「穢(けが)れた世界」とみなされ「穢土(えど)」と呼ばれます。
「浄土」という言葉を聞くと、この現実世界とはるかに隔絶した天上の楽園のような、空想上の世界を想像するかもしれません。しかし『維摩経』に説かれる「浄土」は、決してこの現実世界から切り離された場所ではなく、「穢土」と密接にかかわりあう「不二」なる世界として描かれています。

それでは、この「浄土」はどのようにして実現されるのでしょうか。仏国品には、次のように説かれています。

もし菩薩が浄土を建立(こんりゅう)したいと欲するならば、まず自らの
心を浄らかにしなければならない。その心が浄らかであるときに仏土(仏
国土)も浄らかとなり、そこに「浄土」が実現される。
 『維摩経』によれば、「空」の智慧のはたらきによって、私たちは自己中心的な執(とら)われを離れることができると説かれます。上にいう「心が浄らか」であるとは、「空」の智慧によって、自己中心的な執われを離れた心のあり方をいうのです。また「仏土」(仏国土)とは、私たちのこの現実世界を指すと考えてよいでしょう。すなわち、「空」の智慧によって「心が浄らか」になったときに、この現実世界が「浄土」として顕現してくるが、逆に煩悩にまみれ「心が穢れる」ときには、それが「穢土」として現れてくる、ということを上の文は語っています。
つまり、「浄土」とは決してこの現実世界から遊離した空想上の世界のことではなく、「浄土」というも「穢土」というも、いわば見る者の心の鏡に映し出されたこの現実世界のありようにほかならない、とされます。
「心浄ければ則ち仏土浄し」とは、いま私たちが生きるこの現実の世界をどう見るか、ということを問いかける言葉でもあるのです。」

 「二つには観察者の智に随って転ぜるをする智。謂く勝定を得て法観を修する者は、随って一境を観ずる時に衆の相現前す。境若し是れ真ならば寧ぞ心に随って転ぜん。」)(『論』第七・二十一右))
 (観察者の智に随っててんぜるをする智とは、すぐれた禅定を得て一切諸法を観察し、修行する者は、一つの対象を観察しながら、多くの姿が現前する、そこに現れてくるのである。境、対象が若し真(実在)ならば、どうして心に随って転ずることがあるであろうか、そんなことはないはずである。)
 影像相分、何を見ているのか、大切なキーワードなんですね。
 『述記』には、
 「謂く一の極微を観じて、無常、苦、空、無我と為す。相みな顕なるが故に、一体の上に衆多の義あるに非ず。」と釈されています。
 つまり、実体化する対象はなにもない、すべては心が作り出したものということができるのです。また、対象は固定化できるものではないのです。刻々変化しています。常ではないということです。ならば断なのかと云いますと、間断なく相続していますから断ではないということになります。
 根っこの問題なのですね。表層のことは枝葉になりますが、枝葉は根っこがあって初めて枝葉として展開していくのですね。法に触れさせない第七末那識への眼差しが限りなく豊かな人生を切り開いていくことになるのではないでしょうか。
 

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (33)九難義 (13) 唯識所因 (12)

2016-06-16 22:50:16 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 四つの智の四番目です。
 「四つには三の智に随って転ずる智」と云われています。
 三の智に随って転ずる智である、と。つまり、三の智に随って境相が転ぜられるので唯識無境であると観察する智慧を意味します。
 三の智とは?
 (1) 随自在者智転智(自在者の智に随って転ぜるをする智)
 (2) 随観察者智転智(観察者の智に随って転ぜるをする智)
 (3) 随無分別智転智(無分別の智に随って転ぜるをする智)
 一つには自在者の智に随って転ぜるをする智であると。
 「一つには自在者の智に随って転ぜるをする智。謂く己に心の自在を証得せる者は、欲に随って地等を転変して皆成ず。境若し実有ならば如何ぞ変ずべき。」(『論』第七・二十一右)
 (一つには自在者の智に随って転ずることが出来る智である。つまり、八地已上の菩薩は心自在にして、自分の希望するところに随って大地等が転変して金色になる。対象世界が若し実有であるなら、どうして転換することができようか、できないではないか。)
 「述して曰く、第一に、心自在を得たる者とは、謂く心が調順(心住の一つ。外的な感覚の対象や内的な煩悩の為に流散する心を制御・抑制して平静ならしめる状態)なることを得て、所作有るに堪えたり。若し勝れたるものならば、ただ第八已去なり。任運に実に大地等を変じて、金宝と為して用せしめることを得、境は智に随って欲するところを皆成ず。或は意解(理解すること)に思惟して観ずるも、境もまた成ずと雖も、然も今は本質を転換(転換本質)することを取って、此を取らず。前解を是と為す。」(『述記』第七末・十二右)
 八地以上の菩薩は心自在なんですね。対象を意のままに変化さすことが出来ると云っているわけです。すごく意味が深いですよ。信心の行者は八地以上の菩薩と匹敵するのですね。便同弥勒、次如弥勒と云われています。
   「真実信心うるゆえに
     すなわち定聚にいりぬれば
     補処の弥勒におなじくて
     無上覚をさとるなり」(『正像末和讃』)
 過去は過ぎ去り、未来は未だ来たらず。しかれども、過去に執らわれている現在があり、未来に思いを馳せる現在がある。過未無体を執して今が無い。これが凡夫と云われている正体ではないですか。これが転換するんです。実体化していた境は、実は我が心の影像であったと。実体化する何物もないわけですね。心が転換せしめるのです。心はチッタ。阿頼耶識。阿頼耶識が変化する(転依する)わけです。そうすれば、大地が金色に輝くといっているのです。
 『唯信鈔』のお言葉が響いてきます。
 「ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。」(『行文類』)
 「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)。 
 「能令瓦礫変成金」というは、「能」は、よくという。「令」は、せしむという。「瓦」は、かわらという。「礫」は、つぶてという。「変成金」は、「変成」は、かえなすという。「金」は、こがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしと、たとえたまえるなり。りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいを、ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまうは、すなわち、りょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。」(『唯信鈔文意』真聖p553)
 ですから、執を依り所としているかぎり、境は実体化されているわけです。ところが八地已上の菩薩になりますと、このような執から解放され、心は自在を得て任運に法爾なんでしょう。すべては私を育て育んでいるご縁であると掌が合わさっているのでしょうね。 ここが、一番目の唯識無境を証明している智になるわけです。