「慈尊此れに依りて二頌を説いて言く、
「虚妄分別は有り、
此に於て二は都て無し、
此の中には唯空のみ有り。
彼に於ても亦此れ有り。」(第一偈)
「故に一切の法は、空にも非ず不空にも非ずと説く。
有と無と及び有との故に、是れ則ち中道に契えり。」(第二偈))(『論」第七・二十二右)
前科段をうけて『弁中辺論」の偈頌が出されてきます。
慈尊は弥勒菩薩のことです。
「虚妄分別は有り」
私は、、ものそのものの本質を見ていなくて、自分の心に投影された、自分の心の影を見ているのですね。これが誤った分別、難しく言いますと、虚妄分別になるわけです。影を見ていますから有です。如何に虚妄であっても有である、現実には有る。私たちの迷いはこれに於いて生起しているのです。
しかし、
此(虚妄分別)が於に能取・所取(或は我・法)は無いものである。虚妄分別に於いて有るものは真実ではないのですね。従って、真実ではないから無いものである。ここは非常に大事なところですね。
私が認識を起こす時は、自分の色を付けて認識を起こしています。起こしているわけですから認識されたものは有るわけです、いかに虚妄分別であってもですね。しか、これを絶対視しますと、争いが起こります。自らの虚妄分別を絶対化しているところに問題があるのではと思います。
虚妄分別の中には、空性という理のみが有るのである、と。
迷いも縁起、目覚めも縁起という重層的ですね。迷いも縁起、因縁生であるということは、迷いも空であるわけです。悟りの世界が空ではなく、迷いも空であると、私たちはやみくもに迷っているわけではなく、空の於に迷っているわけですね。
非常に判りにくいところですが、虚妄分別が自己であると云う認識が大事なところではあると思いますね。
仏教は客観的事物を考察する学問ではなく、どこまでも「自己」を明らかにする学仏道ですね。ここが欠落しますと外道に転落します。転落しても、それもまた因縁生です。救われてあるんですね。本願成就の道を歩んでいることになるんです。
この項はもう少し熟考します。
「迷いも空」、生きていることの素晴らしさを大胆に表現されているように思えます。