唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門 (21) 三受について 第四門

2012-12-31 15:23:29 | 心の構造について

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 本年最後の更新となりました。一年間お立ち寄りいただきましてありがとうございました。唯識・唯識といっておりますが、親鸞聖人が明らかにしてくださいました機・法二種深信の深層或は構造を私なりに頷いていきといという思いから縷々更新をしております。来年も今年以上にお付き合いをお願いしたいと思います。

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「論。瑜伽論説至廣説如前 述曰。二引證也。此所引任運生等如前已説。此五十九文論。又説倶生至應知亦爾 述曰。五十八云倶生我見唯無記性。彼文雖無邊見。例必應爾。」(『述記』第五末・八十八左)

 (「述して曰く。二に証を引くなり。此に引く所の任運生等と云うは、前に已に説くが如し。此れは五十九の文なり。

 「述して曰く。五十八に云く。倶生の我見は唯無記性なりと云へり。彼の文は辺見無と雖も、例するに必ず爾るべし。」)

 「若し任運生の一切の煩悩」は、三受と相応すると『瑜伽論』(巻第五十九)に説かれている。一切の煩悩には、身見と辺見が、第六識と相応し、前五識とは相応しないのである。このことから、身見と辺見は、三受において現行するのであるから、三受以外の受とは相応しないという証拠になる。そして倶生の身見と辺見は有覆無記であることを明らかにしている。

 後、八時間余りで除夜の鐘が鳴り響きます。除夜の鐘と共に2012年が終わりを告げ、「弥陀成仏のこのかたは」という音声とともに新しい年を迎えます。身心ともに新たにしての聞法生活がはじまります。それぞれがそれぞれの立場を縁として本願の仏道を歩んでいかれることを願っています。

       本年一年ありがとうございました。

 


特集 『唯識』とは

2012-12-30 21:00:18 | 心の構造について

  唯識は、2000年以上も前から仏教の世界では連綿として伝わってきた思想です。唯識とは、「ただ識のみあり」、ただ心だけがあるということです。「唯識」とは、私たちの苦悩の解明に心血を注いで発見した珠玉の名言です。
 ただ心のみがあるとはどういうことでしょうか。私たちは私と周りの外界(環境)、あるいは私と私とは無関係に存在すると考えている外界の二つがあると考えています。所謂、主客二元論です。具体的には私が意識してもしなくても山があり、川があると思っています。唯識はそれを誤りだと指摘するのです。では何があるのかといいますと、私の心が作り出したもの、私の心の映像(影像ーようぞう)といえるでしょうか。一つの絵画を鑑賞しても私の捉え方とあなたの捉え方は違います。山を見ても、川のせせらぎを聞いても人それぞれの捉え方があります。それは絵画があり、山があり、川があるから見ているのではありません。見ている私が作り出した映像なのです。そこにポイントをあて、心のあり方を追求してきたのが唯識といえます。中国、唐代、孫悟空でお馴染みの三蔵法師=玄奘三蔵によって天竺、今のインド、カシミール地方からもたらされたものです。玄奘は『唯識三十頌』を解釈した十大論師の説を、一つ一つ翻訳したのですが、それでは非常に煩雑になる為に、弟子の慈恩大師基ととも共に天竺より持ち帰った経、論を整理して『成唯識論』を編纂しました。これを糅訳といいます。また慈恩大師基を第一祖として法相宗が開かれました。日本には遣唐使の道昭(どうしょう)によって661年頃持ち帰られ、奈良の元興寺、法隆寺、薬師寺に伝えられました。それから717年には玄肪(げんぼう)が入唐して智周に学び734年、奈良、興福寺に法相唯識を伝えました。以来仏教徒は仏教の基礎学として、「倶舎論」(くしゃろん)とともに唯識を研鑽しました。学ぶといいましても学問として学ぶわけではありません。あくまでも学仏道として、佛になる道を学ぶのです。道元禅師も「仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘るるなり」とお教えくださっています。親鸞聖人は「念仏成仏是真宗」と、仏教を学ぶということは佛になる道を学ぶのです。佛とは「本当の自己に目覚め、その目覚めの道をお教えくださった人」と私は理解をしています。それでは私たちは、なぜ本当の自己に目覚めることができないのでしょうか。何が障害になっているのでしょうか。それを唯識を学ぶことによって明らかにしていこうとしているわけです。
 唯識という言葉が初めて出てくるのは、唯識の根本経典である『解深密経』です。この中の、分別瑜伽品に唯識の言葉が見出せます。
 「慈氏菩薩、復佛に白して言さく、『世尊、諸の毘鉢舎那(びばしゃな)三摩地所行の影像(ようぞう)は、彼、この心と當に異り有りと言ふべきや、當に異りなしと言ふべきや。』佛、慈氏菩薩に告げて日はく、『善男子、當に異り無しと言ふべし。何を以ての故に。彼の影像は唯是れ識なるに由るが故に、善男子、我、識の所縁は唯識の所現なりと説くが故なり」
 「識の所縁は唯識の所現なり」に見受けられます。所縁とは境の相分です。識は能縁の見分になります。
 私たちは普段何気なく見聞きしていることはあまり気にも留めていませんが、実はこのことは大変大きな意味をもっているのです。意識の上に上ってくる事柄について深くは考えませんが、実は意識が起こってくるには意識をコントロールする深い自我意識が働いているのです。意識は隋眠(ずいめん)、眠っている時は働いていません。しかし、眠っている時でも恒に働き、自身を執着している意識が有ると唯識は教えています。マナ識(末那識)といいます。このマナ識によってコントロールされた意識が深層の根本識(阿頼耶識ーアーラヤ識)に蓄えられていくのです。意識ーマナ識ー阿頼耶識という図式が成り立ちます。表に表れたのが意識になります。この表層の識に6つあります。すなわち眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。前六識といいます。これに深層の意識であるマナ識、阿頼耶識を加えて八識というのです。三層八識によって私たちの意識が構成されています。すべての見聞きした事はは自分のよしあしにかかわらず、阿頼耶識に蓄えられていくのです。そして折に触れ意識の上に現れてきます。現在は過去の蓄積されていたものが縁に触れて現れてきたものだと教えています。それで現行(げんぎょう)といわれています。阿頼耶識は蓄える所という意味で蔵識ともいわれています。世界の最高峰ヒマーラヤ、雪山ともいいますが、つねに雪を頂いている、蓄えているところから音写をして阿頼耶識といい、その意味から蔵識というのだと教えていただいています。すべての経験された意識は阿頼耶識に種子として蓄えられ、熟成(薫習ーくんじゅう)されます。意識は現行されたものです。この種子ー薫習ー現行は同時に起こってきます(三法展転同時因果)。現行されたものが種子となり薫習され、薫習されたものが縁にふれ現行されてくることから、三法は同時におこってくると教えています。私たちには本当に一期一会の時間を与えられていることがよくわかります。真宗では聞法を生活の柱にしなさい、「ものをいえ」(聞法からいただいた信心を表白しなさい)ともいい、自分の殻に閉じこまないで本当の自分に目覚めなさいと教えているのです。唯識でも聞薫習が大切であると教えています。
 末那識ーマナーの音写です。「思量するをもって性とも、相ともなす。」何を思量するのかといえば、我をおもいつづける、我の思いどうりにしたいと寝てもさめても思い続けるということを本質としているということです。この思量されたものが、阿頼耶識に蓄えられて、意識の上に上り現実の行動となって現れてくるのです。仏道を修するうえで一番大切なことはこの末那識の転換だといえるのではないでしょうか。仏陀の上で言いますと佛の四智の平等性智になろうかとおもいます。末那識転じて平等性智になるのです。自分のことしか思わなかった識(はたらき)がすべて差別なく平等にみる智恵に転換するのです。なんとも素晴らしいことではないでしょうか。
 「円融(えんゆう)至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。」(教行信証ー総序より)
 私は信心の智恵とは、我執の命が転じて公の命に生きる願いを賜るものだといただいております。「普共諸衆生 往生安楽国」という願いに生かされる、我執しかない私に図らずも、思いもしないような願いが起こってくることだと了解をしております。
 
 釈尊滅後の仏教教団は仏陀釈尊の悟りの内容についての解釈の相違から部派に分裂していきました。初期仏教の代表は大衆部(革新派)と上座部(保守派)にわかれます。それから枝葉分裂を繰り返しますた。一つ一つの教団のことを『部派』と呼ぶことから、各部派の教えを内容とする仏教を『部派仏教』と呼ぶようになりました。その教えを阿毘達磨(アビダルマ)と呼びその代表が説一切有部です。これらの教説は実に煩瑣を極めていました。(現象世界は多様な構成要素の組み合わせの変化で有るとして、構成要素を五位七十五法に分類しました。)仏陀の願いであったすべての生きとし生けるものの救いからはほど遠いものでした。このような反省から大乗という大きな乗り物の仏教が興ってきました。その中核を担ったのが竜樹菩薩の中観派と無着菩薩・世親菩薩の唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)でした。中観派は真理の立場からすべては空である(一切皆空)。存在するすべてのものは仮に和合をしているにすぎない。一つとして実体として存在するものはないと説きました。有でもなく無でもないと説きましたから中観派と呼ばれました。そこから何故という疑問が出てきました。それはすべては空であるにもかかわらず、存在するものは実体として有ると執着するのは何故なのか。瞑想という瑜伽行を実銭して心の深層を明らかにしてきたのが唯識瑜伽行派なのです。
 
 小乗仏教以来、仏教の人間観・世界観は五蘊十二処十八界によって成り立っていると説きます。
 五蘊とは、諸存在を構成する物質的存在と五つの精神的作用を言います。
 色(しき)-物質的存在
 受(じゅ)-感受作用(事実を感受する心の働き)
 想(そう)-識別作用(事実を思い描く心の働き)
 行(ぎょう)-意志作用(心の意志的な働き)
 識(しき)-認識作用(識別・判断する心の働き)
これらは身体と心を構成する五つの要素といわれています。一つ一つが実体として有るわけではありません、仮に和合しているにすぎないのですから「空」であるといわれます。
十二処(六根・六境)
 六根(ろつこん)-心の働きを生み出す感覚器官
  眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根をさします。その対象が境です。 六境(ろくきょう)
  色境・声境・香境・味境・触境・法境
十八界ー六根・六境に六識をくわえたものです。存在の領域を十八に分類したもだといえます。
 六識(ろくしき)
  眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
根・境・識の和合によって生じた世界が十八界だといえます。五蘊の細分化が十二処であり、その細分化が十八界です。この五蘊・十二処・十八界が私の根拠という意味になります。それぞれが実体として存在するものではありません。仮に和合しているにすぎないと説いています。
 唯識の根拠は、『解深密経』と『華厳経』十地品「三界はこれ一心の作なり」に依るとされています。三界とは迷いの境涯をいいますが、この三界は外に存在するのではなくして私の心が作り出した世界だというのです。是は俗に「何事も心のもちよう」というような唯心論ではありません。なぜかといいますと、「心のもちよう」というのも 私が作り出したものだからです。三界は私の迷った識がつくりだした迷い、苦悩の世界だといえるでしょう。三界とは欲界、色界、無色界のことをいいます。欲界とは文字のごとく、欲望に満ち溢れた世界を言います。色界は世界は欲望だけで成り立っているのではなく、精神世界が大切で有るという認識で成り立っている世界のことを言います。無色界は欲界、色界というような認識を超えた究極の世界とでもいえましょうか。五趣(地獄、餓鬼、畜生、人、天)のうち、天上の世界といえるかと思います。この天上の世界をも迷いの世界だと見抜いてきたのが仏教なのです。
 
 『唯識三十頌』
  世親菩薩造
  大唐三蔵法師玄奘奉護法等菩薩。約此三十頌造成唯識。
  今略標所以。謂此三十頌中。
    
  初二十四行頌は唯識相を明かす。次の一行頌は唯識性を明かす
  後の五行頌は唯識の行位を明かす。ここに相・性・位の三分科を明らかにされています。
 二十四行頌の中に就いて。初めの一行半は略して唯識相を弁ず。次の二十二行半は広く唯識相を弁ず。(略説唯識と広説唯識を明かしています。)
 『唯識三十頌』は世親菩薩がお造りになられた偈頌です。この中に唯識のエッセンスが凝縮されています。ただ三十の短い頌ですので大変難解で古来よりたくさんの論師(ろんじ)が注釈書を書かれています。代表されるのが十大論師(十人の代表的な論師になります)といわれる方々です。
 十大論師は
 護法、徳慧、安慧、親勝、難陀、浄月、火弁、勝友、勝子、智月の十人です。
 玄奘三蔵はこれらの方々の論(注釈書)の中から護法菩薩の論を正義として『成唯識論』(じょうゆいしきろん)を弟子の基(後の慈恩大師)と共に纏め上げられました。『成唯識論』の表題には護法菩薩造 三蔵法師玄奘奉詔訳(三蔵法師玄奘詔を奉じて訳す)とあります。

    清沢満之先生は生きるということは「この
    現前の境遇に落在する」ものである、と教え
    てくださいました。ではどのようにしたら
    「落在者」に成れるのでしょか。共に唯識を
    学びながら考えてみたいと思います。
 『落在』 
世親菩薩に『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論)という書物があります。その中に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。)という一文があります。これは不虚作住持功徳成就といわれるところですが、世親菩薩はこの解釈に「すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を得証して、浄心の菩薩と上地のもろもろの菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得しむるがゆえなり。」と。私が本当に満足のできる人生を送るということは、何が起こっても、どんなことがあっても後悔をしない、それ自体が満足であるということを語っています。これは何を意味しているのでしょう。仏言に尋ねてみますと、人間的立場からは本当に満足のできる人生を送るということは不可能である、と教えているのではないでしょうか。人間的立場とは、一つのことを貫き通すことができない、どこかで挫折していかざるを得ないという現実が在るのではないでしょうか。挫折をしていけば元の木阿弥になってしまうのです。ここに聖の道が自力難行の道といわれる所以なのではないでしょうか。
 『末灯抄』に「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(真聖p601)と親鸞聖人はお教えくださいましたが、私から、自我の立場を超えることは不可能であるとするならば、どのようにしたら挫折をせずに、どのような境遇になっても現実から逃げずに現実を引き受けていくことができるのか、この問いにお答えくださったものであると了解をしております。仏の本願力に遇うということが唯一無二の、人生が空過することのない出来事になるのです。「落在」とは正にこの事ではないでしょうか。
 「煩悩を断じて涅槃を得る」断煩悩は仏教者すべての目標といってよいのでしょう。その断煩悩に難の質を見出されたのが親鸞聖人であり、親鸞によって「慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでにきくことを得たり。」(『教行信証』・総序より)と如来恩徳の深いことをお教えいただきました。ここに断煩悩の道が不断煩悩得涅槃の道として成就することになったのです。
 「難の質」とはいったい何なのでしょうか。厳しい修行をなさっておられる行者の方々にお叱りを受けることを重々承知しながら、私の領解を述べさせていただきます。私はごく普通の社会人で断煩悩という我執・法執を超えて涅槃を得る道を唯ひたすらに歩いたということは全ったくありません。しかし「本当に生きるということは自己を知ることである」という視点にたって聞法に励んでいる者であります。大胆に発言させていただきますと、大聖釈尊はすでにしてこの難の質を見極めておられたのではないかと思います。仏伝によりますと菩提樹下で悟りを開かれた釈尊は尼連禅河で沐浴をされ村人から乳粥をいただかれました。この様子を見ていたかっての修行仲間、五人の修行者はシッダールタは堕落したと釈尊の側を離れたと記述されています。修行者にはいつかは悟りを開くことができるのだという自負心があったのでしょう。三界のなかの最高の境地にまで達していたのですから、あと少しだ、もうすぐだ、という淡い希望があったのだとおもいます。しかし釈尊はその道を離れられました。ここに自己関心からはどこまでいっても超えられない「難」があることを自らに見出されたのではないでしょうか。励ましても励ましても超えられない、我執を超えれても法執が残る。ここに仏教徒の苦闘の歴史があるのだろうと思われるのです。「空」に胡座をかいてしまう。「もうこれでよいのだ」と。助かるべき自分もなければ助けるべき衆生もないと、「空」に沈む、あるいは「空」をつかむ、つかむことのできないものをつかんでしまうという妄想に駆られるのでしょう。
 我執・法執と簡単に言いますが、これは私の立場からは見えてこないものでしょう。仏法に教えられて初めて気付いていくものです。そこから自己を問うという姿勢が生じてくるものだと思います。ですから自己を問うといいましても、自分から起こした問いではないのです。仏法に触れることによって図らずも問われてきた問いなのではないでしょうか。仏法に触れるといいましたが、触れるということはどういうことなのでしょうか。どこかに仏法があって触れるのでしょうか。若しそうでありますならば触れる人、触れない人との差別が出てまいります。経典に『十方衆生』とか『諸有衆生』という呼びかけがありますが是は差別のない、すべての生きとし生きるものへの呼びかけであるはずです。では私たちはどこで仏法に触れているのでしょうか。そもそも仏法とはなんなんでしょうか。仏法は因縁所生の法といわれています。「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦」(諸行は無常であり、諸法は無我である、涅槃は寂静であり、すべては皆苦しみである)と、初期の経典に四法印として今日に伝えられています。是は私たちの存在は縁的存在であることを教えています。因(私)と縁(条件)が揃って今が在るということです。それに逆らって生きているところに齎されるのが一切皆苦なのです。一切皆苦そのものが仏法に触れているのです。「よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(「歎異抄」より)と親鸞は信仰告白をされていますが、まさによき人の仰せを待って人生が転換し、一切皆苦が一切所求満足に転換していくのです。私たちは苦しんだり悩んだり、怒ったり愚痴ったりと休む暇がありませんが、それは何も無意味なことではなかったのです。苦しんだり悩んだりの脚下に仏法に触れていたのです。是は大変大事なことなのです。このことの意味をこれから学んでいきたいと思います。
 『成唯識論』の初頭に頌がおかれています。『唯識三十頌』本文の前に帰敬序と発起序がおかれ、これは安慧の作といわれています。
 「稽首唯識性満分清浄者 我今釈彼説利楽諸有情」
  (唯識の性において満に分に清浄なる者を稽首す 我今彼の説を釈し諸々の有情を利楽せん)
 「稽首~者」は序分・帰敬序といわれるところです。
 「我今~諸有情」は発起序です。
まず最初に帰敬序がおかれます。これは唯識三十頌を釈するにあたり首(こうべ)を垂れて、五体投地をする。何に首を垂れるのかというと、唯識の性に満と分に清浄なる者に帰依をするという気持ちを表しています。
「稽」は一定の所にとどめおく、という意味があります。頭を地につけておくということでしょう。私たちが何かをする時にこの「稽」という感情は非常に大切なことではないかと思います。この感情は私的感情ではありません。老若男女の区別なく、手を合わせていくことはとっても大切なことなのです。私事になりますが十年前、父の体調の変化にともなって、名古屋から大阪へ転居をしました。子供は理不尽にも否応なく転校させられました。しかし、子供にとっては環境の変化がかなり厳しいらしく、日に日に明るさが影を潜めてきたのを覚えています。「友達がいないからつまらないし、休憩時間も一人ぽっち、名古屋に帰りたい」といって泣きじゃくっていましたね。私は、もっと環境に順応するものだと思っていましたのでかなりショックを受けました。こんな時どうしても子供を私有化してしまうのです。私は自分の意見を正当化して押し通そうとするのです。「おとうさんのいっていることがわからないのか」と、これはもう横暴です。「稽」という感情はどこにもありません。私からは「稽」はでてこないのです。「背負うた子に教えられ」ガツンと一喝されましたね。「稽首」するということは、私的感情を超え、身を投げ出して如来の前にひざまずくということなのでした。
 如来といいましたが何に「稽首」するのかといいますと、「満分清浄者」に、といわれていまキ。「満」とは如来の事を指します。「分」とは菩薩のことをさします。先ず『唯識三十頌』を釈するにあたり帰依の感情を表しているのです。
 帰依ということは、身も心も喜ぶものなのでしょう。そこから「我今彼の説を釈す」るのは「諸々の有情を利楽せん」が為であるという、発起序が述べられます。
 ここに「経」・「論」を釈するのは個人的な事情によるものではなく、「諸々の有情」を利楽せんが為である。「諸有情」は人・法二空において迷・謬するものである。迷は迷い(無明)、謬はアヤマル謗法、疑いです。この者に正しい理解を生ぜしめるためであるといわれています。
『成唯識論』によりますと
 安慧等は
  「解を生ぜしむることは二の重障を断ぜしめんが為の故なり。我と法との執に由って二の障、具に生ず。若し二空を證しぬるときは彼の障も随って断ず。障を断ぜしむることは二の勝果を得しめんが為の故なり。生を続する煩悩障を断ずるに由るが故に真解脱を證す。解を礙ふる所知障を断ずるに由るが故に大菩提を得す。」
と釈しています。有情とは我執・法執に覆われて事実がみえない者の事です。執着が障礙の根にあるのです。作用は縛る。私が、私がといって自分をがんじ搦めに縛りつけるのです。そして縛り付けているのが私であることを知らないでいるのです。
 火弁等は
  「謬って我・法と執して唯識に迷へる者に開示して二空に達せしめ、唯識の理に於いて実の如く知を令めんが為の故なり。」と釈し、
 正義としての護法等は
  「唯識の理に迷謬せる者有り。或いは外境は識の如く無に非ずと執し、或いは内識は境の如く有に非ずと執し、或いは諸々の識は用は別に・体は同なりと執し、或いは心に離れて別の心所は無と執す。此れ等の種々の異執を遮せんが為なり。唯識の深妙の理の中に於いて実の如く解を得せ令めんとしての故に此の論を作れり。」と、この論を作るのはさまざまな異なる執着を取り除くためである。「唯識三十頌」を釈するにあたり宗前敬叙分(帰敬序・発起序)が先ずおかれます。
 「唯識性」について
『述記』には「唯識性というは、略して二種あり。
       一つには虚妄、即ち偏計所執なり。
       二つには真実、即ち円成実なり。・・・・・
      又二種あり。
       一つには世俗、即ち依他起なり。
       二つには勝義、即ち円成実なり。・・・・・
 又言わく、唯識に於いて相と性と不同なり。相とは即ち依他
なり。唯是れ有為なり。有・無漏に通ず。唯識即相なるを以っ
て唯識相と名づく。・・・・・性とは即ち是れ識が円成の自体なり。唯是れ真如なり。無為無漏なり。唯識が性なるを以って唯識性と名づく。・・・・・」と記述されています。
 ここには真実・勝義というものは虚妄・世俗と離れてはありえないことをあらわしています。私たちは何故迷っているのか、ただたんに無意味に迷っているのでしょうか。そうではないはずです。迷っていること自体、真実に触れているのです。真実に触れているからこそ迷ったり、悩んだりするのです。如来の催促とはこのようなことを指すのではないでしょうか。空観では色即是空、空即是色と言うのでしょう。
      迷っていることが大事なのです。
      迷っていることから逃げてはなりません。
         何故なら
      真実に触れているからです。・
迷っている世界を世俗というのです。真実を覆いかぶせている世界のことです。
 「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(『正信偈』より真聖p204)
と親鸞は表白しています。
 貪愛・瞋憎の雲霧が常に真実信心の天を覆っていても雲霧の下は、明らかにして闇きことなきがごとし、である。世俗をはなれて勝義はありません。私たちは世俗の真只中に生きているのです。それ以外に生きる世界はありません。勝義に触れることによって世俗を背負っていくことができるのです。
 虚妄ー偏計所執性(へんげしょしゅうしょう)
 世俗ー依他起性(えたきしょう)       }三性
 真実ー円成実性(えんじょうじつしょう)
 円成実を障碍するものが偏計所執であるわけです。そして世俗は依他起に由って成り立っていますが、その自覚がありませんので円成実を障碍するわけです。 二つの重障ー煩悩障・所知障(我執・法執)です。この二つが転じると二空になるわけです。人・法空(人無我・法無我) と。「我と法との執に由って二の障、具に生ず。」といわれています。障の根本に執があるわけです。
 ちょっと後回しになりましたが境・行・果、相・性・位、初・中・後についてふれてみたいと思います。これは『唯識三十頌』の組織になります。
 境・行・果 について
境は対象、行は方法、果は結果です。何を対象にするのか、その方法は如何にするのか、そしてどのような結果が生まれるのか、ということです。
安田理深先生「唯識三十頌聴記」によりますと三つの構造には必然性があるとして「瑜伽教学の論は、すべてこういう組織をもっているが、なかでも最も均整のとれた形をもって組織されたのが『摂大乗論』である。」といわれています。
 『三十頌』について
   境ー第一頌から第二十五頌まで
   行ー第二十六頌から第二十九頌まで
   果ー第三十頌
 です。
これをみてわかりますように『唯識三十頌』は教理に重点がおかれています。実践問題は『成唯識論』をみないとわかりませんが、第二十五頌の終わりのほうで「如是所成唯識相性。誰於幾位如何悟入。」(是のごとく成ぜられたる唯識の相と性とを、誰か幾ばくの位に於いて、如何が悟入するや。)と述べられています。これが実践問題になります。
   相             行 
     }境       位{
   性             果
『述記』によりますと「前の二十四頌は宗として識の相を明かす。即ちこれ依他なり。第二十五頌は唯識の性を明かす。即ち円成実なり。後の五頌は唯識の位を明かす。」
   相ー前二十四頌
   性ー第二十五頌
   位ー後五頌
『成唯識論』最後、釈結施願分に「此論三分成立唯識。是故説為成唯識論」(この論は三分として唯識を成立す。是の故に説いて成唯識論と為す」と述べられています。三分ということが初・中・後ということです。
『述記』によりますと「此の三十頌を初・中・後に分かつ。初めの一頌半は略して心に離れて別の我・法無しと標して、以って論旨を彰して唯識の相を弁ず。次に有る二十三行頌半は、広く唯識の若しは相若しは性を明かして諸々の妨難を釈す。後の五頌は唯識の行位を明かす。」と
   初ー初一頌半
   中ー次二十三頌半
   後ー最後の五頌
にあたります。まとめますと
           初(一頌半)
   相ー二十四頌{     
           中(二十二頌半)
   性ー一頌
          }後          
   位ー五頌
になります。   
 
略説唯識について
初めの一頌半 
 由仮説我法 有種々相転 彼依識所変(仮に由って我・法と説く。種々相転ずること有り。彼は識が所変に依る。)
 ここからいよいよ本文に入ります。正宗分といいます。この一頌半は略説唯識といい、唯識を一言であらわしています。いきなりこのような始まりになっているのかといいますと、ここに『唯識二十論』を受けて、その答えを出されているのです。「初めに難に答えて執を破す」といわれています。
 「若し唯、識のみ有りと云はば、云何ぞ世間と及び聖教とに、我・法有りと説く。」というのが第一の難になります。
 「世間」・「聖教」ということ、『述記』に「毀壊すべきがゆえに、真理を隠せるがゆえに、之を名づけて世とす。世の中に堕せるがゆえに名づけて世間とす。・・・・・聖教と言うは、聖とは正なり。・・又、理に契い、神(真理)に通ぜる。之をなづけて聖とす。」と。
 疑問というのは、もし唯識無境というのであれば、世間と聖教とに我・法有りと説くのか、ということです。その答えとして「仮に由って」「我・法」と説くのである。「仮」とはみせかけ・本当ではない・実体がない・一時の間に合わせという意味があります。これは何を意味するのかといいますと、実体がないことを通して真実に触れさせるということかと思います。私たちの人生は善導大師が「隋縁存在」と教えてくださいましたように縁によってどのようにでも変わるものなのです。一つとしてこれだという実体はありません。「無自性なるが故に空」なのです。しかし私たちは私は有るのだと執して生活をしています。ここからはどのようにしても離れることはできないのです。ここがとっても大事な所なのでしょう。ですからこれを否定せず「由仮我法」と説くのであると教えてくださったのであると領解させていただいています。
私を離れて有るというのが分別です。これを二取といいます。識を能取、境を所取といい、この二取は分別にすぎないのです。私たちが現実だ、現実だといっていますが本当の現実に触れていないのです。私たちは現実を分別して分別の中に夢を見ているわけです。分別を立場にして解釈をしていますから不安におびえなければなりません。分別を破って現実に触れることに於いて本当の安らぎ、満足が生まれてくるわけです。
 また識を能変、境を所変といい『解深密経』に「識の所縁は唯識の所現と説く」と表せられ、あらわす識そのものは能変といい、あらわす識自身の構造はどのようになているのか、これを能変を問うといいます。能変を問うというところに、三類・八識の構造が明らかにされます。
     三類ー了別境(対象をいろいろ区別する)
        思量 (我を思う心)
        異熟 (最も根底にあるもの)
     八識ー眼・鼻・耳・舌・身・意・末那・阿頼耶識
『唯識三十頌』に於いては、それがなければ成立しないというものから出しています。何がといいますと、それは異熟であると。
  探求の順序によって・了別異熟
  存在の順序によって・異熟了別
この探求の順序については初期仏教では六識だけを追及しました。非常に綿密に理論を展開しています。この初期仏教の伝統を受け継いで六識だけでは人間全体を明らかにすることはできるものではない、ということから七識・八識を見出してきた。そこに大乗への展開があるといえます。
 唯識に於いては『唯識三十頌』によって三類・八識の構造が完成をしています。『摂大乗論』では七識(末那識)は阿頼耶識の中に収められていて、はっきりと表には出ていません。
 『摂大乗論』では「阿頼耶識は「所知依」(知らるべきものの依り所)であり、大乗では阿頼耶識が知らるべきものの依り所として説かれ、他に依ると妄想されたと完全に成就されたたに三種の実存(偏計所執性・依他起性・円成実性)が、知らるべきものの相として説かれ、ただ表象のみなること(唯識性)が、知らるべきものの相への悟入であることとして説かれ」ています。そして何故に阿頼耶識と呼ばれるのか、について「復た、何の縁の故に、此の識を説いて阿頼耶識と名づくるや。-一切有生の雑染品の法は、此に於いて摂蔵されて果性と為るが故に、~此れは亦た、心とも名づく。世尊が心意識の三を説きたまえるが如し。此の中、意に二種有り。第一は与(ため)に等無間の所依止の性と作る。無間に滅せる識が、能く意識のために生ずる依止と作るなり。第二は、染汚の意にして、四煩悩と恒に共に相応す。一は薩迦耶見、二は我慢、三は我愛、四は無明なり。此れは即ち是れ、識の雑染の所依たり。識は復た、彼の第一の依に由りて生じ、第二に由りて雑染なり。境を了別するの義あるが故なり。等無間の義の故に、思量の義の故に、意は二種を成ず。」このなかに、末那識という名はありませんが、阿頼耶識のなかに染汚の意としてのマナスがすでに見出されているのがよくわかります。
染汚の意は四の煩悩と恒に相応す、これが『唯識三十頌』にきますと、第七識ー末那識としてはっきりとした形を取って現れてきます。「次は第二能変なり。是の識をば末那と名ずけたり。彼(阿頼耶識)に依って転じて彼を縁ず。思量するを以って性とも相とも為す。四の煩悩と常に倶なり。謂く我痴・我見・我慢・我愛となり。及び余と触等と倶なり。有覆無記に摂せらる。所生に随って繋せらる。」と
 「有種種相転」-これは唯了・唯二・種種と、いろいろの内容を持って意識が起こってくることをあらわします。
 「彼依識所変」-我・法は妄想であって事実ではない、事実を此であらわします。彼は意識のあらわれにすぎないのです。そのあらわれかた、事実(此)能変(あらわす意識)は三類・八種類の識があるといわれています。意識の相をグループにわけているわけです。
 「此能変唯三」(此れが能変は唯し三つのみなり)と。
ここでは、「彼」「此」の言葉の使い方に注意が必要です。厳密に「彼」自分と離れて有ると思うものは妄想であって、我・法は事実として有るものではない、我・法は識の現れにすぎない。
 ここは日常の生活の場で私たちはどのようにしてすごしているのか、また世間といわれるものが何に由って成り立っているのか、鮮明にしています。日常とか、世間というものは私たちからは見えないものです。私たちからは日常とか、世間というのはちょっと間違っているかもしれないが、人間の能力、知性によって間違いを正していくことができるので有ると思っています。こいうのを妄想というのでしょう。私たちからは事実が見えないのです。だから妄想を事実と誤って事実を覆い隠しているのです。事実を如来といってよいのではないかと思います。一如来生という、真如の事実のみが見いだしてきたのが日常世間なのです。真如という如来を立場にしない限り私の事実は見えてこないのではないかと思います。如来に由って初めて私の妄想が明らかにされたのです。
 親鸞聖人はこのことを『恩徳讃』に
     「如来大悲の恩徳は
       身を粉にしても報ずべし
       師主知識の恩徳も
       ほねをくだきても謝すべし」(真全p505)
 と如来の恩徳を褒め讃えておいでになります。
如来との出会いによって初めて妄想しかない、自分が白日の下にさらされた。その感動を謳い上げています


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (16)  第一章第三節

2012-12-30 17:08:03 | 『阿毘達磨倶舎論』

 二十四頌を説明する。

 「頌曰

 爲差別最勝 攝多増上法 故一處名色 一名爲法處。

 論曰。爲差別者。爲令了知境有境性種種差別。故於色蘊就差別相建立十處不總爲一。若無眼等差別想名。而體是色立名色處。此爲眼等名所簡別。雖標總稱而即別名。又諸色中色處最勝。故立通名。由有對故。手等觸時即便變壞。及有見故。可示在此在彼差別。又諸世間唯於此處同説爲色。非於眼等。又爲差別立一法處。非於一切。如色應知。又於此中攝受想等衆多法故。應立通名。又増上法。所謂涅槃。此中攝故獨立爲法。有餘師説。色處中有二十種色最麁顯故。肉天聖慧三眼境故。獨立色名。法處中有諸法名故。諸法智故。獨立法名。諸契經中。有餘種種蘊及處界名想可得。爲即此攝。爲離此耶。彼皆此攝。如應當知。且辯攝餘諸蘊名想。」(『倶舎論』大正29・0006)

 「差別せんが為と、最勝と、多と増上との法を摂すると、故に一処を色と名づけ、一を名づけて法処と為す。」

 色処及び法処の立名の意義を述べています。色・法という広義を、種々差別の境に於いて、眼根の境に名づけて色処とし、意根の境に名づけて法処としたのは何故かという質問に答えて、「爲差別最勝 攝多増上法 故一處名色  一名爲法處。」と説かれています。

 「為差別」は色処・法処に共通したもの。
 「最勝」というのは、第一に色処の方でいえば、他の色法と区別する為に、これを色処と名づけたのである。眼根の境を色処という(故一処名色)。又、第二に法処の方でいえば、他の法と区別する為に、意根の境を法処と名づけたのである(一名為法処)。 総即別名を述べたものである。

 法処の中には多法が入り、増上法、いわゆる涅槃がこの中に入っていて、これは通じて名を立てるという。

 「五根・五境の十処(十界)はすべて色なのになぜ一処(一界)だけを色処(色界)と名づけるかといえば、他の九色処(九色界)と差別するためであり、、また、他の九よりは勝れて顕著だからである。すべては法であるのに、なぜ一処(一界)だけを法処(法界)と名づけるかといえば、他の諸処と差別するためであり、特に多くの方がそこに含まれているためであり、また、すぐれた法(増上法)である涅槃がそこに含まれているためである。」(『倶舎論』、桜部 建著。p70)


第三能変  受倶門 (20) 三受について 第四門

2012-12-30 00:29:51 | 心の構造について

 引証 ・ 初は、三の文を引いて証明する。

 (1) 「瑜伽論に説かく、若し任運生の一切の煩悩は、皆三受に於いて現行すること可得なりという、広く説くことは前の如し」(『論』第五・二十三左)

 三受可得の意義を述べます。『瑜伽論』巻第五十九に「是の諸の煩悩幾ばくか楽根と相応し、乃至幾ばくか捨根と相応するや。」という問いに答えて、「答。若しくは任運に生ずる一切の煩悩は、皆な三受に於いて現行することを得べし。是の故に一切の識身に通ずる者(貪・瞋・癡)は一切の(受)根と相応し、一切の識身に通ぜざる者は意地の一切根と相応す。任運に生ぜざる一切の煩悩は、其の所応に随って諸根と相応す」と説れています。これは三受と四性の関係で引証された文章と同じです。ここには一連の関係性があるように思われます。一切の根とは苦・楽・捨の三受根を指す。 

 (「任運に生じる一切の煩悩は、すべて三受において現行する。」と。広く説くことは前の通りである。任運に生じる一切の煩悩が、すべて三受と相応するということは、三受以外の憂受は存在しないことになる。すなわち地獄の中での逼迫受は憂受ではなく、ただ苦受のみである、という証拠になる。また次に引証される文から伺えることは、任運に生じる一切の煩悩には、薩迦耶見(身見)と辺執見(辺見)があり、これが第六意識と相応するということになり、前五識とは相応しない。)

 (2) 引証、その二は『瑜伽論』巻第五十八を引いて説明します。 

 「又、説かく、倶生の薩迦耶見は唯無記性なりという。彼の辺執見も応に知るべし亦爾なり」(『論』第五・二十四右)

 ここは身見・辺見は唯無記性であることを述べます。 

 「倶生の我見は唯無記性なりと云えり。彼の文には辺見無しと雖も、例するに必ず応に爾るべし」(『述記』)と述べられてあり、『瑜伽論』巻第五十八には「復次に倶生の薩迦耶見は、唯無記性なり、しばしば現行するが故に、極めて自他を損悩する処に非ざるが故なり。」とあり、辺見は無記であるとは説かれてはいないが、辺見は身見に随って動くので、無記であるという。無記は有覆無記のこと。

 この項 (つづく)


第三能変  受倶門 (19) 三受について 第四門

2012-12-29 00:56:21 | 心の構造について

 護法の正義

  「論。有義通二至有輕重故 述曰。下護法等第二師説。文中有五。一標宗。二引證。三立理。四會違。五總結 人・天逼迫輕非尤重故。在意唯憂受。鬼・畜處通。若唯苦處。地獄相似。五十七説與地獄同。純受重故。若雜受處。容有喜・樂。況復無憂。雜受輕故」論。捺落迦中至無分別故 述曰。其諸地獄一向苦故。唯苦無憂。以迫尤重爲苦所逼。亦無分別。以憂分別方得生故 捺落迦者。此云苦器。受罪處也 那落迦者。受彼苦者。故二別也 問 無分別故無分別煩惱耶 答曰不然。豈以第三定有樂無分別故。亦無見道見等也。憂即分別。加行分別故。逼迫既極不假分別又彼無此分別煩惱亦無妨難。何以知爾」(『述記』第五末・八十八左。大正43・424c727~425a11)

 護法の正義を説く一段になります。
 (1) 標宗(護法の自説)
 (2) 引証(証拠を引く)
 (3) 立理(理を以て立てる)
 (4) 会違(他の説との違いを会通)
 (5) 総結(まとめて結ぶ)
 そして、軽と重についての受について説く。

 (述して曰く。下は護法等の第二師の説なり。文の中に五有り。一に宗を標し、二に証を引く、三に理を立つ。四に違を会す、五に総じて結ぶ。
 人・天との逼迫軽にして尤重に非ざるが故に。意に在っては唯だ憂受なり。鬼畜処は通ぜり。若し唯だ苦処ならば、地獄と相似せり。五十七に地獄と同じと説けり。純受は重きが故に、若し雑受処ならば喜楽も有るべし。況や復た憂無きや、雑受は軽きが故に。
 述して曰く。其の地獄は一向に苦なるが故に。唯だ苦のみにして憂無し。迫ること尤重にして苦の為に逼らるを以てなり。亦分別無し。憂は分別して方に生ずるを得るを以ての故に。捺落迦とは、此れは苦器と云う。罪を受けたる処なり。捺落迦とは、彼の苦を受ける者ぞ。故に二別なり。
 問。分別無きが故に、分別の煩悩無き耶。
 答えて曰く、然らず(第一禅・分別の惑有り)。豈に第三定に楽有り、無分別を以て故に。亦見道の見等を無からんや。憂は即ち分別あり。加行に分別あるが故に、逼迫すること既に極れば分別するに仮ならず。
 又彼には(第二禅・分別の惑無し)此の分別の煩悩無しと云うこと亦妨難無し。何を以て爾無し(憂無し)と知るや。」)

 六道中の人・天は、逼迫の軽い処、尤重ではない場所という意味です。第六意識における逼迫受は、ただ憂受となり、苦受は無いという。しかし畜生や餓鬼では、第六意識における逼迫受は憂受と苦受となる、と。雑受と純受とは混在するからであると云われています。非常に考えさせられる科段になります。憂受・苦受が混在している私自身、本当に人として生きているのであろうか、畜生・餓鬼の生活を送っておるのではないか、いや畜生・餓鬼そのものであるということを思はざるを得ません。
 


第三能変 受倶門を学ぶ中で

2012-12-26 23:38:55 | 心の構造について

 受倶門を学んでいるわけですが、私に何を伝えているのであろうか、ということなのです。「人間回復のメッセージ」、教えに触れたときに、初めて人間あるいは自己が問題になるわけです。普通は人間であることに何の疑問も持たないのですから「人間回復」といってもナンセンスな問いかけになってしまういます。仏教はこの人間に「六趣」の一つのあり方という捉え方をしています。人間として生をうけたとしても、その在り方が、地獄・餓鬼・畜生という三悪趣という人間性を失ってしまった在り方があるということを教えているのです。そして人間性を失っているのは何に依るのか、ということが端的に自己への執着であるといわれています。徹底的な執着です。寝ているときも起きているときも、命と共に命をも執着しながら生きているわけです。それに全く気づくことなく生きているのが私の姿なのです。そしたら気づいたらどうなのか、といいますと、それもまた執着だと教えられます。この執着が苦をもたらすのですね。一切皆苦と教えられます。これは人間性を失った地獄の在り方なのです。地獄は苦のみの世界であるといわれます。苦のみの世界を欲界というのでしょう。仏教の世界観に三界という教えがありますが、欲界は欲望によって成り立っている世界です。自己の欲望ですね。その欲望が苦を生み出す因なのですね。
 
初期の経典では執着は渇愛により起こるといわれていますが、自己に執着するのは、限りなく自己を愛し続ける自分が存在するからなのでしょう。何故自己を限りなく愛し続けるのかと言いますと、自己が失われる恐怖心からだとおもいます。自分が無くなってしまう恐怖心から自分に執着し続けるのでしょう。「恒審思量」といわれ、悶絶している時でさえ自己を思い続けるのです。思いつづけるというより、思い続けざるをえないのでしょう。そのことが苦を招いてくるというのです。本来人間は関係性を共有する朋がらですが、その共有性を自己の限りない愛着から関係性を断ち切ってしまうのです。それが地獄と表現されているのではないかと思います。地獄はイメージ的には暗黒の闇、そして恐怖のどん底という感がありますが、決してそのようなことではなく、パラダイス的な闇も存在するのですね。そこに闇の本質というのか、地獄にあって、地獄に在る自覚が無いという、人間存在の喪失という問題を孕んでいると思います。
 「執着というのは自他を分断するのですね。いうなれば、恒に他を利用し自の利益のために働いていると思います。人間存在は本来他によって自己が成り立っているのですが、その他を切り離して自己存在を、自己は自己によって存在しているという顛倒の見が、道理に反するという捻じれを起してくるのです。そして自己の中でも生に執着し、死を覆い隠すのです。「生のみが我らにあらず、死もまた我らなり」なのですが、生の謳歌を求め、生死の問題をやはり分断して命の本来性を喪失して生きているわけです。そのメッセージが地獄には苦のみがあり、苦を厭う縁すらない状態に追い込まれてしまっているのが私の現状なのです。その証拠に「慚愧心」がありません。「有慚愧」をもって「人と為す」といわれますが、慚愧心があるのが人間なのでしょう。その慚愧心がないというところに人間性を喪失していると言わざるを得ないのです。教は鏡に譬えられますが、鏡は姿を写しだすものですね。鏡は鏡を写すものではありません。鏡は姿を写しだすことを以って性としています。教法に遇うということは、教を客観的に・対象的に考えるものではありません。それが本質ではないからです。教は私の心を写しですものです。私の心のすべてを暴きだすことを以って本質としているのですね。ですから教法に遇うことに於いて自己が明らかにならないと云う事は、「聴き方が間違っている」といわざるをえないのです。本願の第一番目は無三悪趣の願ですね。本願の大地には悪趣が無い世界を建立しようということですね、。法蔵菩薩の本願の大地に地獄・餓鬼・畜生の住むことが無い世界を建立したい、ということは、私の立っている大地はどのような大地に立っているのでしょうか。これが鏡になるわけでしょう。鏡をつかみにいっても、それは永遠の彼方です。百千満劫を費やしても私は私の背中を見る事はないわけです。しかし合わせ鏡で見る事はできますね。教法に遇うということは私が明らかになること、そのことによって法蔵菩薩が「うん」と頷かれるのではないでしょうか。本願が生きるわけです。本願と私が合わせ鏡になって「大楽」といわれる、「無空過の世界」に身を置くことが出来るのではないでしょうかね。


第三能変  受倶門 (18) 三受について 第四門

2012-12-26 23:16:42 | 心の構造について

 異熟果と異熟生
 異熟果は、因は善か悪、果は無記という、因と果が価値を異にしていることから異熟果というが、唯識では、過去の善・悪の業より生じた阿頼耶識を根源的な異熟果(真異熟)と考え、阿頼耶識から生じた六識の異熟果を異熟生と呼ぶ。

         ー       ・       ー

 安慧の説の結び

 「故に知る、意地の尤重(うじゅう)なる慼受(しゃくじゅ)すら尚名けて憂と為せり、況や余の軽なる者をや」(『論』第五・二十三左)

 (以上述べてきたことに依って、意識の尤も重い憂い(慼はうれえる・くよくよする意)でさえ憂受と名づけられる。ましてや他の軽いものであればなおさらのこと、憂受というべきである。)

 「論。故知意地至況餘輕者 述曰。此結也。以意重處例餘輕處。重逼尚然。況餘輕逼。第一師意 問第六識中捨受。既亦不善業招。何故地獄無捨根 答以苦重故。不善業輕即有捨根。以少靜故。然不同總報。總報相續故。趣體故。報主故。若是苦者。違善趣故。」(『述記』第五末・八十七左。大正43・424c) 

「述して曰く。此れは結ぶなり。意の重き処を以って余の軽き処に例す。重く遍する尚然り、況や余の軽く逼するをや。第一師の意なり」)

 

 第一師の説(安慧)は、第六意識と倶である逼迫受は憂受であり、苦受はないと主張しているのです。

 ここに『述記』には問答が設問されてあります。

 (「問。第六識の中の捨受も既に亦不善の業に招かれる。何が故か、地獄に捨受無しというや。 

 答。苦重きを以っての故なり。不善業の軽に即ち捨根有り、少しき静なるを以っての故に。然も総報(第八識の捨根)には同じからず、総報は相続するが故に、趣の体なるが故に、報の主なるが故に、若し是れ苦ならば善趣に違しめるが故に」。)

 なぜ地獄には捨受はないのかという設問に、地獄は苦が重いから捨受はないのである。不善業のように軽いものには捨受はある、それは少しでも静をもっているからである。

 護法の説(正義) - 五段階に分けられる。(1)標宗 (2)引証 (3)立理 (4)会通 (5)総結であり、その(1)がさらに二つに分けられ、初めに逼迫受の軽い所における受について、後に重い所の受について述べる。

 『述記』には「下は護法等第二師の説なり。文の中に五有り。一に宗を標し、二に証を引き、三に理を立て、四に違を会し、五に総じて結ぶ。人と天との逼迫軽にして尤重に非ざるが故に、意に在るは唯憂受なり。鬼・畜処は通ぜり。(鬼・畜が)若しただ苦処ならば地獄と相似せり。五十七の地獄と同なりと説けり。純ら受けて重きが故に。若し雑受処ならば喜・楽も有る容し、況や復憂無からむや。雑受は軽きは故に」と説明されてあります。

 「五十七の地獄と同なりと説けり」というのは『瑜伽論』巻五十七に「余の三(憂・喜楽の三根)は現行の故に成就せず、種子の故に成就す。那落迦趣に生ずるが如きは一向に於いてす、若しくは傍生餓鬼もまさに知るべし亦爾なりと」の文によります。つづいて『瑜伽論』には「若しくは苦楽雑受の処には後の(憂・喜・楽)三種も亦現行し成就す。問う、若し人趣に生ずれば幾根を成就するや。答う、一切有るべし。人中に生ずるが如く天に生ずるも亦爾なり」と。

 「有義は二に通ず、人天の中には、恒に名づけて憂と為す。尤重に非ざるが故に。傍生と鬼界とのをば、憂とも名づけ苦とも名づく、雑受と純受と軽重有るが故に」(『論』第五・二十三左)

 「雑受」 - 他の感受と入りまじって受ける受をいう。 

 「純受」 - 他の感受がまじわらない受をいう。純受の方が、その受について重い感受となる。

 護法正義は第六意識と倶である逼迫受については、憂受と苦受の二つに通じるといいます。人天の中には、恒に憂受となす。なぜなら尤重ではないからである。また畜生と餓鬼界とのものは、憂受とも苦受ともいうのである。それは雑受と純受の軽重の差があるからである。

 人天は六道の中の二趣であり、この二趣は逼迫の度合いが軽く尤重ではないので、憂受となり、苦受はないことになります。そして六道の中の畜生と餓鬼界は受が混在する処(雑受)と、混在しない処(純受)がある為に第六意識の逼迫受は憂受と苦受となると、護法は主張します。

 尚、地獄界は純受であり、尤重であり、無分別の処であるから、第六意識相応といえども苦受であるという。次に述べられてあります。逼迫の重い所における受について説明されます。

 「捺落迦(地獄)の中をば、唯名づけて苦と為す、純受にして尤重なり、無分別なるが故に」(『論』第五・二十三左)

 「其の諸の地獄は一向に苦なるが故に唯苦のみにして憂は無し、迫ること尤重にして苦の為に逼らるを以ってなり。亦分別無し、憂は分別して方に生ずることを得るを以っての故に。

 捺落迦というは、此には苦器と云う、罪を受くる処なり。那落迦というは彼の苦を受くる者ぞ。故に二別なり。」(『述記』)

 捺落迦と那落迦は同義語でnarakaの音写、地獄と訳す。次の項で問答があります。無分別と云われていることです。分別が無いというのは、分別の煩悩が無いのか、という問いです。それに対して、そではないのだ、分別の惑は有る。「憂は即ち分別あり」と、憂受は分別して生じるものであって、分別が無いということは、第六意識と倶である逼迫受は分別を経ない為に、地獄には唯苦受のみであるというのである。

 「加行に分別あるが故に逼迫すること既に極をもって分別を假らず」といわれています。これは地獄は苦が極まった処、逼迫することが極限状態の為に分別する余地さえないからであるという、ことで押さえられています。  (つづく)


第三能変  受倶門 (17) 三受について 第四門

2012-12-25 23:37:42 | 心の構造について

 「論。瑜伽論説至苦憂相續 述曰。六十六等論有此文。且擧重者。意尚名憂。例餘輕文。彼約五趣辨是異熟。非異熟文 異熟無間。謂初生心。是第八識 苦憂相續。次此後生。彼意唯苦。何故言憂。此師意説。五十七言地獄成八根。定約六識作論。依容受説。五十一等説六識中受名爲容受。謂五色根・意・命・或憂。定成就故。餘皆間斷。或復取苦。或一形・或二形説。如下自知。若餘三不成現。即喜・樂・捨。此約六識。爾時必無捨受起故。」(『述記』第五末・八十六左。大正43・424c)

 (「述して曰く。六十六等の論に此の文有り。且く重き者を挙げたり。意を尚憂と名づけたるは余の軽に例す。彼は五趣に約して是れ異熟なり、非異熟と云うことを弁する文なり。異熟無間と云うは謂く初に生ずる心なり。是れ第八識なり。苦・憂相続とは此れ(第八異熟心)に次いで後に生ずるを以て、彼の意(地獄中の意識)は唯だ苦のみならば、何が故にか憂と言う。此の師の意の説かく、五十七に地獄に八根を成ずると言はば、定んで六識に約して論を作すと云う。容受に依って説けり。五十一等に六識の中の受をば、名づけて容受と為すと説けり。謂く五色根と意と命と或いは憂とは、定んで成就するが故に。余は皆間断なり。或は復た苦を取る。或は一形、或は二形に於て説く。下の如し、自ら知るべし。若し余の三は現を成ぜずとは、即ち喜と楽と捨となり。此れ六識に約して爾の時には必ず捨受起こること無きが故に。」)

          ―      ・     ー

 「又説かく、地獄の尋伺(じんし)は憂と倶なり、一分の鬼趣と傍生とも又爾なりという」(『論』第五・二十三左)

 (地獄の中の尋伺は、憂と倶である。尋伺はただ第六意識と相応するので、地獄の中の第六意識には、憂受のみあって、苦受はない証拠である。餓鬼と畜生もまた同様である。鬼趣は餓鬼のこと。傍生は畜生のこと。「一分の」というのは純苦処である。)

 「是の如く若くは一分の餓鬼及び傍生の中に生ずるもまさに知るべし亦爾なりと」(『瑜伽論』巻六十六)
 
 「論。又説地獄至傍生亦爾 述曰。瑜伽第五五趣分別尋・伺。説地獄中尋・伺憂倶。然彼唯説鬼趣同之不言傍生。六十六有。此中通論故言鬼・傍生也。八十七説憂・苦遍者。謂地獄故。定依客受地獄有憂。」(『述記』第五末・八十七右。大正43・424c)
 (「述して曰く。瑜伽の第五に、五趣において尋・伺を分別するに、地獄の中の尋・伺は憂と倶なりと説く。然るに彼しこには唯だ鬼趣のみを説いて、之に同じて傍生をば言はず。六十六には有り。此れが中には通じて論ぜり。故に鬼と傍生と言うなり。八十七に憂・苦遍ずるは謂く地獄なりと説く故に。定んで客受に依って地獄に憂有り。)

第三能変  受倶門 (16) 三受について 第四門

2012-12-24 21:40:50 | 心の構造について

 逼迫受を説明する。
 その(1) 五識と相応する逼迫受を説く。

 「諸々の逼迫受の五識と相応するをば、恒に名づけて苦と為す」(『論』第五・二十三右)

 (あらゆる苦痛や危難がさしせまる感受が五識と相応するものをつねに苦という。)

 その(2) 第六意識と相応する逼迫受を説く。
 初めは安慧の説(安慧の主張・その引証・結を述べる)、後は護法正義を説く。

 「意識と倶なるは、有義は唯憂という、心を逼迫するが故に、諸の聖教に、意地の慼受(しゃくじゅ)をば憂根と名づくと説けるが故に」(『論』第五・二十三右)

 (第六意識と共なる逼迫受は有義(安慧の説)は、ただ憂受という。なぜなら心を逼迫するからである。そして諸の聖教(『対法論』巻第七)に第六意識の慼(うれい)受(しゃくじゅ)を憂根というと、説かれているからである。)

 「此の意には唯憂のみ有り。唯分別なるが故に。緒の聖教に意識と相応して有る所の慼受をば、皆憂と名づくと説くが故に。これは長徒の義なり。若し地獄の意に苦有りと言うものならば、何が故にか説かぬという」(『述記』)

 これが第一師の説で、『述記』には長徒の義と述べ、具体的な論師の名を挙げていないが、注釈等から安慧の説であるとされている。第六意識は分別意識であるので、これと相応する逼迫受は、憂受のみで、苦受はないという立場です。

 次はその証拠を引くわけですが、『述記』には問いがだされています。(上記)その問いを受けて『論』が答えています。

 「論。諸逼迫受至恒名爲苦 述曰。上解悦受。下解迫受。此在五識極明利故 論。意識倶者至名憂根故 述曰。此中第一。文有三。一標。二證。三結。此意唯有憂。唯分別故。下引證云。諸聖教説意識相應所有慼受皆名憂故。此長徒義。若言地獄意有苦者。何故不説。」(『述記』第五末・八十六右。大正424b~c)

 (「述して曰く。上は、悦受を解しつ、下は迫受を解す。此れは五識に在るは極めて明利なるが故に。
 述して曰く。此の中には第一なり。文に三有り。一に標し。二に證す。三に結す。此の意には唯だ憂のみ有り。唯だ分別なるが故に。下は証を引いて云く、諸の聖教に意識と相応して有る所の慼受を皆憂と名くと説くが故に。此れは長徒の義なり。若し、地獄の意に苦有りと言うものならば何が故に説かざる。)  

 参考

 色界十七天 - 色界は初禅・第二禅・第三禅・第四禅の四天に分かれ、欲界の上に在る天界で、欲界の穢れを離れ、物質的なものがすべて清浄である世界をいう。色はrupaルーパ・形づくるという動詞から造られた言葉で、形あるものの意味がある。また変化するものという意味とがあり、形を有し、生成し、変化する物質現象をさす言葉。変壊(へんね)・質礙(ぜつげ)の意がある。-物体が特定の場所を占めて他の物を入れないこと。一つの物が他の物を妨げることで、物質的な障碍のあることで、色の特質とされる。欲界を離れ色界に生まれてもなお、障碍が生じるので、迷いの境涯とされる。この色界がさらに、また十七天に分類される。色界にいる十七種の神々のことを指す。

  • 初禅(第一静慮処) (1)梵衆天ー大梵天に所属する衆の神々。 (2)梵輔天ー大梵天の前に行列して侍衛する神々。 (3)大梵天ー偉大なる梵天
  • 第二禅(第二静慮処) (1)少光天ーこの領域の神々のうちでは光明が最も少ないので、少光天と名づけられる。 (2)無量光天 (3)極光浄天ー清らかな光が遍くこの領域を照らすので、この名がつけられる。遍光天とも、光音天とも名づけられる。
  • 第三禅(第三静慮処) (1)少浄天ー精神的な快楽感(意地の楽受)を浄と名づけ、この領域のうちではこの浄が最も少ないので、少浄天と名づけられる。 (2)無量浄天 (3)遍浄天
  • 第四禅(第四思慮処) (1)無雲天ーこの天以上では諸天が雲の密集しているようにひしめくことがないので、この名がつけられる。 (2)福生天ーすぐれた功徳をつくった凡夫の生まれるところの天。 (3)広果天ー凡夫の得る果報のうちでもっともすぐれた人の生まれるところの天。 (4)無煩天ー離欲の聖者が煩悩の垢をすすぐので、この名がつけられる。 (5)無熱天ー熱悩を離れている天。 (6)善現天ー禅定の徳が現れやすいので、この名がつけられる。 (7)色究竟天ーこの上には物質的な領域がないので、この名がつけられる。 詳しくは『倶舎論』巻八参照。 以上の十七の神々を説一切有部の学派は考えていました。

 安慧の主張、その証拠を示す

 「瑜伽論に説かく、地獄の中に生まれたる諸の有情類は、異生の無間に異熟の無間に異熟生の苦憂相続すること有りといえり」(『論』第五・二十三右)

『瑜伽論』巻第六十六に「此の受は一切処に於いて異熟の所摂なりと。余の苦楽受は応に知るべし、皆な是れ異熟の所生にして其の種子の如きは異熟の所摂なりと。即ち此の因、此の縁に随って因縁と為るが故に異熟生より那落迦(地獄)の諸の有情類を生じ、異熟の無間に異熟生あり、苦憂相続して那落迦に生ず。・・・」と語られてあります。「異熟の無間」というのは、初めに生じる心であり、阿頼耶識を指します。「異熟生」は前六識を指し、「異熟生の苦憂相続すること」というのは、六識中、前五識は苦が相続し、第六意識は憂が相続するということになります。このようなことから、地獄の逼迫受を受ける第六意識には憂受のみあって、苦受はないという証拠である

 「異熟の無間というは、初生の心なり。是第八識なり。苦・憂相続というは、第八異熟心に次いで後に生ずるをもって、地獄中の意は唯苦のみあらば何が憂と言うや。此の師の意の説かく、(『瑜伽論』)五十七に地獄に八根を成ずることを言うは、定んで六識に約して論を作すという。客の受に依って説けり。五十一等に六識の中に受をば名づけて客受とすと説けり。謂はく五色根と意と命と或いは憂とは定んで成就するが故に。余は皆間断す。或いは復五識の苦を取る。・・・」(『述記』)    (つづく)

 
 

第三能変  受倶門 (15) 三受について 第四門

2012-12-21 23:19:09 | 心の構造について

 「論。意識相應至悦身心故 述曰。大乘初・二近分有喜。瑜伽五十七。未至地十一根有喜故 顯揚第二亦然 何以無樂。以彼適悦不遍五根故。但適意識・及身處少分。彼論自言不充遍悦故。五十七中亦爾。如下當知 根本初二名喜・樂者。適悦五根故。由動勇故。復名爲喜。欲界可知。五十七・對法第七・顯揚第二等皆同。」(『述記』第五末・八十四左。大正43・424a)

 (述して曰く。大乗は初の二の近分には喜のみ有り。瑜伽の五十七には、未至地に十一根に喜有るが故に。顕揚の第二にも亦た然なり。何を以てか楽無き、彼は適悦する五根に遍ぜざるを以ての故に、但意識と及び身処の少分とに適す。彼の論に自ら充遍して悦せしめざるが故にと言へり。五十七の中にも亦た爾なり。下の如くまさに知るべし。根本に初の二を喜・楽と名づくることは、五根を適悦するが故に。動勇に由るが故に名づけて喜と為り、欲界は知るべし。五十七と対法の第七と顕揚の第二との等き皆同なり。」)

 第六意識と相応する適悦受についての『述記』の説明です。

 第二は、第三定(楽受について)説明される。

 「若し第三静慮の近分と根本とに在るをば楽とのみ名づく。安静(あんじょう)にも尤重(うじゅう)にも無分別にもあるが故に」(『論』第五・二十三右)

 (もし(第六意識と相応する)諸々の適悦受で第三静慮(色界第三禅)の近分定と根本定に存在するものを楽受とのみ名づける。なぜならば、安静でも尤重でも、無分別でもあるからである。第三静慮は心を悦すること安静であるが故に楽と名づけるのであり、意識の楽受である。)

 第六意識と相応する適悦受が欲界と色界初禅の近分定と第二静慮の近分定に存在するものを喜受と名づけられる、そして初禅と第二静慮の根本に存在する時は、喜受とも楽受とも名づけられるのである、と前回述べました。そして色界第三禅(第三静慮)の近分定と根本定に存在する時には楽受とのみ名づけられ、第四禅(第四静慮)の近分定と根本定には捨受のみが存在すると説明されます。

「論。若在第三至無分別故 述曰。第三禪中近分・根本二倶有樂。如顯揚第二引經等廣解。以安靜適悦故。無分別適悦故名樂。尤重故名樂。即是在意名樂所以。彼論自説。以喜動勇。第三定悦安靜故是樂。然或有義初二近分有樂・如顯揚第二引經云。根本・近分倶有離生喜樂言故。五根雖無遍悦。何不名樂。五十七説初門顯未至亦有喜・樂等。何故有喜之言即證有喜。有樂之言非證有樂 顯揚論第二云。初二定根本・近分一一皆云有喜・樂故。第三近分亦言有樂。此説即有。何故初・二近分不令有樂。今解正者非近分中不許有樂。然未至定言十一根者。少故不説。相未明滿故不説之。今此論中同十一根文。下文以此例解地獄有憂之義。亦即苦故。以悦根少但得喜名。以迫心強亦得名苦受。苦受中等。若言樂受・苦受。即通喜・憂。文言寛故。若言苦根者。唯一受也。」(『述記』第五末・八十五右。大正3・424b) 

(「述して曰く。第三禅の中には近分にも根本にも二ながら倶に楽あり。・・・安静に適悦するを以っての故に無分別に適悦するが故に楽と名づく。尤重なるが故に楽と名づく。即ち是は意に在るを楽と名づくる所以なり。・・・喜は動勇するを説いて第三定は悦すること安静なるが故に是れ楽なり」(『述記』)

 第六意識相応の適悦受は
 欲界と色界初禅と第二禅の近分定に存在する場合は喜受。
 色界初禅と第二禅の根本定に存在する場合は喜受と楽受を。
 
色界第三禅の近分定と根本定に存在する場合は楽受を感受する。