唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(37)

2020-08-22 19:49:57 | 『成唯識論』に学ぶ
 
 今晩は。いろいろな繋がりがあって、本当に有難いです。僕は思うのですが、人間は本来純粋なんだとね。しかし、生まれもって自分という、他者より選ばれた存在という意識が働いて、自分がすべてという妄想の中で日暮をしているわけでしょう。
 しかし、本来の純粋性に還ることができると教えているのが仏教なんでしょう。浄土教の純粋性は、曇鸞大師が八番問答で、自利利他の問いを立てられ、人間からは利他は成り立たないと喝破されたことが、他の大乗教と異にする所だと思います。他に利せられることはあってもですね。他を利する力はないんだと。この曇鸞大師の受け止め方は、限りなく人間の傲慢性を破っていく原動力になりますね。
 私たちは、皆さんはどうかしれませんが、僕はですよ、やっぱりどこまでいっても自分が正しい、間違っていないと思って生活をしています。この姿勢が打ち砕かれます。自分の思いが打ち砕かれるのですね、そして本来の人間の姿に戻ることが出来る、ここに人間回復の道がすでに開かれていたことに感謝です。
 さて、本論に戻ります。
 第八阿頼耶識は、心・心所等を変似して所縁とすることがないのであろうか、という問いが出されます。
 所縁は、識体が転じて見・相の二分に似るところの相分ですね。能所の二重構造で語られますが、識体そのものは能変です。ですから、「此の能変は唯し三つのみなり」、開けば八識それぞれが別体なのですが、深層の意識を初能変・第二能変とし、表層の意識(前六識)を第三能変とし、三分科をもって迷いの構造を明らかにしているのです。
 識体が転じられたものは、識体の具体相になるわけです。それが見分に似る相と、相分に似る相とに分かれて所変とされます。見るという主体的側面と、見られるという客体的側面で、紙の裏表という関係です。そして見るという、認識する側面を能縁、見られると云う、認識される側を所縁として認識構造が明らかにされています。
 ここに問題が生じたのです。それがこの問いになるわけです。見・相二分は識体が転じた、識そのものが変化し現われたにすぎないのですが、見・相二分を実体化する心の働きがあるのではないのかという問いなんです。私たちは、こんな心では駄目だ、心も持ちようで変えることができるんだ、また自分を見つめて、自分を反省するということもあるわけです。阿頼耶識が心を対象として、所縁である種子・五根・器界だけではなく、心及び心に付随した心所をも所縁として、認識対象としてもいいのではないかということなんです。
 結論からいえばですね、対象化された心は、対象化する働きの上に成り立ったものなんです。つまり、対象化された心は、心の影ということになります。こんな心では駄目だと思っている心が存在する、その心を識体であり、外に投げ出された心は影像になります。
 略識唯識で次のような言葉がありました。
 内識が転じて外境に似る。我法と分別する熏習力の故に、諸識が生ずる時、我法に変似す。此の我法の相は内識に在ると雖も、分別に由って外境に似て現ず。諸の有情類は無始の時よりこのかた、此れを縁じて執して実我実法と為す。」
 「外境に似て現ず」が能変・所変の関係ですが、それを実体的にとらえ執着するところに我々の解決のつかない迷いがあるわけですね。迷いにも二つの相があってですね、解決のつかない迷いと、解決のつく迷いがあるということなんだと思いますね。
  私たちは無始以来ですね、有漏(迷い)の種子を引き継いでいるわけです。種子生現行・現行熏種子として展転同時因果として変現しているのです。これが因縁変になりますが、迷いは迷いの道理によって迷っていることなんです。これは解決のつく問題なんですね。 しかし、私たちは、分別によって自分に執着をしていますから、執着をした自分を立てますから、立てた自分が迷うわけです。この迷いは自分が問題になっておりませんから、解決のつかない迷いということになると思います。 
 私たちの意識構造はどのように成り立っているのでしょう。たとえば五識は五根が依り所と成りますが、意識は何を依り所として意識されるのでしょうか。
 意識されるのは意識される根拠があるわけです。意根ですが、一切法を根拠とするということです。これは何を意味するのか、私には全くわかりませんでした。こういうことなんだなと教えられたのは、友のメールでした。
 それは、私たちが意識することは、突然起こることではないということです。過去の一切の経験、一切の情報伝達のメカニズムが因となって今在る自分を限定していることなんでしょう。
 私が生きている、今ここにということは、過去の生い立ちそのものが、そのものとして現在しているということなんだと思いますね。
 つまり、過去の経験というか。過去の情報が無意識の領域に蓄えられて、様々な条件を伴って今の私を形成している。その過去の無意識の領域は純粋意識だと教えられています。即ち、私たちは常日頃純粋経験をしているんですね。にもかかわらず純粋経験が染汚されるのでしょう。私の心の深いところでは、私が知りえないことが起こっている。純粋経験は直接、アーラヤといわれている心の深いところにインプットされます。善は善として、悪は悪として一類相続されます。しかし表面に現れる時には、瞬時ですが、ありのままの、分別を加えない状態で私そのものとして現れてくるのです。本当はこの状態が私の本来性として私が願っている世界なのでしょうが、ここに分別心が働くのですね。これが厄介なのですが、この厄介さ、自己執着心が、自己執着心を超えた世界を求める原動力、エネルギーになることを忘れてはならないと思います。
 いうなれば、私たちは、自分が自分を投げ出した影をみて生活をしているのでしょう。影はどこまでいっても本体ではありません。影には働きがないからですね。
 私たちは、無意識の領域にインプットされた情報を依り所をして生活をしていますが、その生活が自己執着心を経由し、色付けされているということなのですね。でも大事なことは、いかに色付けされていても、元は純粋意識かでた染汚性ということなのです。ここに苦悩の発生する要因があります。自分が自分の思いによって、自分が苦悩している現実を生みだしているということですね。苦悩している現実は、自分が自分の思いによって作り出した状況に翻弄されているということなのです。普通は他に転嫁して溜飲を下げようとするわけですが、それは道理に反したことになりますから、永遠に満足するというか、頷きをえることはありません。
 紙一重といわれることは、深層意識から発信されている、このままでいいんだよ、貴方は、貴方、貴方以外の貴方になる必要が合りません、というメッセージを聞き得るかどうかですね。深層意識から発信されてく声を、意識がどのように受け止めるのか、意識の在り方が問われてきます。
 貴方は。今ある状況に安んずることができますか?私はどう答えるのでしょうか。
 外界は衆縁です。内因外縁という言葉が響きます。様々な縁によって私が試されているんですね。幸せを求めながら幸せになれない自分のどこに原因があるのか、と。
 友のメールは
 「小学校からの友人が大学生やフリーターでしたので、社会人だった僕よりは時間が自由でした。この時期は特によく遊びました。20過ぎの頃です。社会人、フリーター、大学生、置かれている環境、選んだ道は違えど今まで共有してきたものがありました。しかし環境が違ってくれば考え方も変化します。当時は気がつかなかったのですが、僕の立場からは、時間があり、羨ましいと思っていました。友人からすれば僕はどのように見えていたのでしょうか?当時は僕は完全に自分自身を見失っていたのでしょう。嫌な職業に就いていたから全てが嫌になっていました。嫌な職業なら辞めておけば良かったと、今でも思っています。まあ年齢的には簡単な事ではないでしょうが。もしかするともう嫌な職業という感情すら無くなってしまったのかもしれません。フリーターの友人にもフリーターをしなければならない理由もあり、大学生の友人にも行きたかった大学に行けなかったのですから。希望通りにいっていなかったのに他人は楽をしている。と思っていました。今でもそうですが。妬み僻みは生きている以上無くならないでしょう。 僕が今話した事は誰にでもあると思います。若い時は仲が良かったが、次第に疎遠になる。何故なのか? 同じ場所、同じ時間を共有することが無くなってきたから。と言うのもあると思われます。しかし一番考えられるのは自分自身という存在を時が経つにつれ意識するからではないかと。自分自身という存在を意識すればするほど他者との分別をする。分別は自分自身を中心において考える。このことにより、他者に対して妬み僻みといった感情が産まれるのではないかと。また自分自身の置かれている環境が影響力を持つと考えられるのではないでしょうか?善悪の判断、今僕の置かれている環境は平和な国です。これが平和でない環境、戦時下であれば敵を殺す事は善となってしまいます。確かに人は自分自身が一番可愛い、守ろうとする。戦時下の話をしましたが、人はいつでも他者を自分自身にとって味方なのか?敵なのか?の分別をしているのではないかと。会社の話になりますが、会社の人間を見ていていつも敵か味方か?の判断ばかりしている人間が多く感じられます。僕の妄想かもしれませんが。全体的な利益を考えず、自分自身の利益ばかりに執着していると感じます。僕はまあ多少の出世は欲しいですが、そこまでして、敵か味方の判断ばかりして働けません。それが出来るのは会社という存在があるからでしょう。会社や組織といったものからいずれは離れなければなりません。離れた時、独りになった時、どうすればよいのか?暗闇で迷子になってしまっては何故生きてきたのだろう?と思ってしまうでしょうね。僕は今が暗闇で死の間際少しでも光を見たいと思います。働かなければ生きていけませんし、全てを捨てて生きる気力なんて到底ありません。これからどのように生きていけばよいのか?自分自身の妬み僻みによって友人を無くした事は反省しなければと。勝手に友人を作り出していたのでしょう。自分自身の都合の良いように。」
 彼の苦悩が伝わってきます。できればですね。責任を転嫁しないで、素直に受けてめてほしいと思います。闇の中で一筋の光を問いとして見出したのですから、その問いは何処から来たのか、そのことを問うことに於いて閉鎖されている心が解放されることだろうと思います。しかし闇は深いですね。共に学び、共に歩みましょう。

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