今日は。中一週あきましたが、前回のつづきを述べてみたいと思います。
「了」(りょう)についての説明です。了とは、了別、つまり物事、対象を区別する働きを持つものという意味です。それは認識主体である見分(けんぶん)になります。見分は常に認識対象である相分(そうぶん)と一緒に働いています。私たちが誤解をするのが、相分と共にですから、相分(認識対象)が存在すると錯覚を起こすのですね。これが二分説になるのですが、二分説では認識の在り方が十分に説明がつかないわけです。
そこでですね、陳那論師が二分は自体から生ずると見抜かれました。自体分から認識するもの、認識されるものが転じているのだと。このような構造ですと、認識の在り方は、自体分、つまり自分から生まれているんだと、自己責任に於いて認識判断を行っているのが私であるということになります。これが三分説になります。
『論』の説明ですと、
「了」についての所論は、「了」とは、異熟識(ただいま現在の私)が、自分の所縁(対象)に於て、了別の用(働き)をもつことであって、四分の中では、見分に摂められる、と説かれているわけです。
そして、「然も有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず。」(有漏の認識作用は、自体が生ずる時に、皆な必ず所縁・能縁と云う対立した相を現わす。)
この「自体生じる時」という自体は、自体分(自証分)といいますが、これが私たちが認識するときの軸になるわけです。自体を中心に、外の境が実在すると思う対象の相を「相分」と名づけられ、そして実に外に認識する対象が実在すると思う働き、能縁の側面を「見分」と名づけられているのですね。自体を軸として、相分・見分が、外境は実在すると認識するのです。これが迷いの根本構造になります。二分の相は体に対して云われるわけです。体もまた実体化されているわけです。その体の上に現れる二分の相とは、私たちの外境は存在すると妄執している相なのですね。妄執している相が相分・見分として現行しているのです。これが三分説になるわけですが、二分説は、識の体は、能縁の見分が自体であり、相分が相であるわけです。二分説は、難陀の説になりますが、見分を相とはみないわけで、体であると。対象化しない、実体ではなく、作用であるとみているわけです。私たちに認識の底には、このように、二分に見ていくという構造があって、ものを知るということが成立しているのです。これを、
「識に離れた所縁の境有りと執する者、彼説く、外境は是れ所縁なり。」
私とは無関係に外の世界は存在する、私の主観を抜いて外境は有ると執着する見方です。しかし実際は主観の相違によってものの見方が違ってくるのですね。私の見ている世界と、他の人が見ている世界は違うのです、千差万別です。ですから、「識に離れた所縁の境有りと執する」ということは間違いだといえるわけです。
これに対してですね、相分は所縁であり、見分は行相である、と見ていく有り方ですね。「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」は、「相と見との所依の自体をば事と名づく、即ち自証分なり」と。
自証分は自覚作用であるということです。見分・相分は自内証であって、外的関係ではないと明らかにしているわけです。そうしますとね、私たちの認識はどのように成り立っているのでしょうか。私が見ているという認識はありますが、それは外に実在としての環境世界が有るという関係に於いて認識が成り立っています。外境を所縁とし、相分を行相・見分を事とみている有り方なんです。このものの見方が間違っていると指摘しているのが三分説になるのです。
所縁(対象)は相分・行相(作用)は見分という見方は、相分という心の影像、主観によって捉えらえたものを見ていることになります。自分が心の中に捉えた映像を、自分が認識して知るという構造です。これが識の本質になるわけです。この本質を自体分といいます。この自体分が無かったなら、見・相二分は外界の存在になり、外界は実在と見るという錯誤を生じるわけです。自体によって二分が成り立つのですね。自分が自分を知っている、他人は騙せても自分は騙せない、騙したことを自分は知っている、自分は自分から逃れる術はないというのが自体になるわけですね。道理です。自証をもって自体とする、これが道理である。見・相二分の所依が自体である。二分では判然としなかった識の構造が、体は識、用は二分ということで諸法唯識が成り立つのです。
三分は、陳那菩薩が経に依って道理を立てたいわれています。「然も心と心所とは、一々生ずる時に、理を以て推徴するに三の分有り。」といいますが、何故三分を立てるのか、という問いが出されます。「所量と能量と量果と別なるが故に、相と見とは必ず所依の体有るが故に。」と答えられています。量とは認識することで、所量・能量・量果で一つの認識が成り立つといわれています。認識されるものを所量、これは相分に当たるわけです。そして認識するものを能量、これは見分にあたり、認識の結果を確認する心の働きを量果といい、自証分にあたるのですね。果によって、能・所が完成する、量果によって、能量所量が完成するのです。認識は量果によって成り立つのです。量果が無ければ、能量所量は成り立たないのですね。そして量果が因となって、能量所量が働くのです。これを『述記』には、「相分と見分と自体との三種は、即ち所能量と量果と別なり。・・・・・若し自証分無くんば、総見の二分は所依の事無きが故に、即ち別体を成じて心外に境有るべし。今所依有りと言うが故に、心に離れて境無く、即ち一体なり。」と。「・・・・・」に喩が出されています。「尺丈を以て物(反物)を量る時、物(反物)を所量と為し、尺(ものさし)とは能量と為し、数を解するの智は名づけて量果と為すが如し。」と、反物と尺があるだけでは量ることはできないのです、そこに量る人がなければならないのです、量る人があって初めて能量・所量が意味を持ちます。量る人、即ち自体があって、見・相二分が成り立つのです。
これは教証として、『集量論』の伽他の中に説かれているのですね。「境に似たる相は所量なり。能く相を取ると自証とは、即ち能量と及び果となり。此の三は体別なること無しと云う。」と。「今此の三種は体是れ一識なり。識に離れざるが故に、之を説いて唯と為す。功能各別なり。故に説いて三と言う。」と『述記』の中で慈恩大師は説明されています。
またにします。
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