本年最後の配信になりましす。早いもので今年も大晦日を迎えました。今年一年私如きのブログを読んでいただきありがとうございました。本年最後の書き込みは 『述記』では巻第七・本・終の記述になります。一応これで第三能変の概略を示し、年明けから第二能変 末那識について『成唯識論』に学んでいこうと思っています。皆様方のご指導・ご鞭撻よろしくお願いいたします。
今日は夜更けから南御堂の除夜の鐘をつきにいかしていただきます。ブットン君も除夜の鐘をつくそうです。皆さん方も出かけられたらいかがでしょうか。
また年が明け午前一時から修正会が勤まります。その後に法話が聞けます。心を新たに聞法させていただきましょう。(画像は南御堂ブログより) 2010年12月31日(金) 午前11時30分記す。
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八識倶転・八識一異について (3)
ー 八識一異 ・ 如伽陀説 ー
「心と意と識との八種は、 俗の故には、 別なること有り。 真の故には相別なること無し。 相と所相と無きが故にと」
(意訳) 心・意・識という八種の識は世俗諦(道理世俗諦)でいうならば、八識は別体である。しかし勝義の立場(二空)からは相は別であることはない。それは相と所相との差別が無いからである。
今日は大晦日ですね。一年の締めくくりという意味と、新たな年を迎えるという節目の日ですが、実際には空です。私の心が大晦日を意識し、新年を意識しているに過ぎないのですね。国が変われば、新年の日は違いますからね。日本に住んでおられる各国の人の思いは違うわけです。ですから、真実は 「相と所相となきが故」 なのです。勝義の於に立ってしまえば、すべては無自性空になり、解脱していない者にとってはニヒリズムに陥ってしまいますね。『解深密経』に「我凡と愚とに於ては開演せず」という意味は、このことなのです。人間の心の中に大晦日を迎えるというのは、一年を振り返り、自分の姿を見つめ直すという機会を与えることなのでしょうし、節目を立てて、新たな視線に立って人生を見つめ直すスタートを切る、という意味があるのでしょう。そこに自分のこころの状態を知るという大切な意味が含まれているのではないでしょうか。迷っていることを知る、迷わせているのは何、を知ることが非常に大切なことなのです。意識起滅の分位の締めくくりに、安田理深先生のお言葉を記します。
「迷っているという上に悟りの智慧がある。生命つまり、何か生きたもの、生きる用き、生きた生命というものは、固定されたような生命ではない。物質的生命でない。原始の生命。本能。これは無限の創造力をもつ。裸となった創造力理知とか文明とかを捨てて、そういうものに帰らんとする叫びがある。」(『選集』第四巻p43)
次の第十七頌では、三能変をまとめとして、識転変して作り上げている私の世界を述べられています。初能変・第二能変を学ばせていただき、第十七頌を後に述べたいとおもいます。一応第三能変の記述を閉じさせていただきます。