唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

八識倶転 ・ 八識一異 (3)

2010-12-31 11:15:41 | 八識倶転・八識一異

Dsc_0248300x198  本年最後の配信になりましす。早いもので今年も大晦日を迎えました。今年一年私如きのブログを読んでいただきありがとうございました。本年最後の書き込みは 『述記』では巻第七・本・終の記述になります。一応これで第三能変の概略を示し、年明けから第二能変 末那識について『成唯識論』に学んでいこうと思っています。皆様方のご指導・ご鞭撻よろしくお願いいたします。

 今日は夜更けから南御堂の除夜の鐘をつきにいかしていただきます。ブットン君も除夜の鐘をつくそうです。皆さん方も出かけられたらいかがでしょうか。Images

 また年が明け午前一時から修正会が勤まります。その後に法話が聞けます。心を新たに聞法させていただきましょう。(画像は南御堂ブログより) 2010年12月31日(金) 午前11時30分記す。

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 八識倶転・八識一異について (3)

          ー 八識一異 ・ 如伽陀説 ー

 「心と意と識との八種は、 俗の故には、 別なること有り。 真の故には相別なること無し。 相と所相と無きが故にと」

 (意訳) 心・意・識という八種の識は世俗諦(道理世俗諦)でいうならば、八識は別体である。しかし勝義の立場(二空)からは相は別であることはない。それは相と所相との差別が無いからである。

 今日は大晦日ですね。一年の締めくくりという意味と、新たな年を迎えるという節目の日ですが、実際には空です。私の心が大晦日を意識し、新年を意識しているに過ぎないのですね。国が変われば、新年の日は違いますからね。日本に住んでおられる各国の人の思いは違うわけです。ですから、真実は 「相と所相となきが故」 なのです。勝義の於に立ってしまえば、すべては無自性空になり、解脱していない者にとってはニヒリズムに陥ってしまいますね。『解深密経』に「我凡と愚とに於ては開演せず」という意味は、このことなのです。人間の心の中に大晦日を迎えるというのは、一年を振り返り、自分の姿を見つめ直すという機会を与えることなのでしょうし、節目を立てて、新たな視線に立って人生を見つめ直すスタートを切る、という意味があるのでしょう。そこに自分のこころの状態を知るという大切な意味が含まれているのではないでしょうか。迷っていることを知る、迷わせているのは何、を知ることが非常に大切なことなのです。意識起滅の分位の締めくくりに、安田理深先生のお言葉を記します。

 「迷っているという上に悟りの智慧がある。生命つまり、何か生きたもの、生きる用き、生きた生命というものは、固定されたような生命ではない。物質的生命でない。原始の生命。本能。これは無限の創造力をもつ。裸となった創造力理知とか文明とかを捨てて、そういうものに帰らんとする叫びがある。」(『選集』第四巻p43)

 次の第十七頌では、三能変をまとめとして、識転変して作り上げている私の世界を述べられています。初能変・第二能変を学ばせていただき、第十七頌を後に述べたいとおもいます。一応第三能変の記述を閉じさせていただきます。 

  

 


八識倶転・ 八識一異について (2)

2010-12-30 14:32:39 | 八識倶転・八識一異

Nishizaki06w                    入西鑑察の段・仁治三年(1242)、親鸞聖人七十歳

 「入西房鑑察のむねを随喜して、すなわちかの法橋を召請す、定禅左右なくまいりぬ。すなわち、尊顔にむかいたてまつりて、申していわく、「去夜、奇特の霊夢をなん感ずるところなり。その夢中に拝したてまつるところの聖僧の面像、いまむかいたてまつる容貌、すこしもたがうところなし」といいて、たちまちに随喜感歎の色ふかくして、みずからその夢をかたる。」(『本願寺聖人伝絵』真聖p730)Shinran8

 親鸞聖人と善光寺

  善光寺の如来の  

   われらをあわれみましまして

   なにわのうらにきたります  

   御名をもしらぬ守屋にて (善光寺如来和讃) 

 「親鸞においても、善光寺如来は太子と緊密な関連をもって理解されていたことが知られる。・・・定禅法橋が、親鸞の真影を写すに際して、親鸞が「善光寺の本願御房」であるという霊夢を感得した物語が、覚如の「本願寺聖人伝絵」に載せられているが、親鸞と善光寺との関係からみて、意味のないことではない。」(松野純孝著 『親鸞』p353より 三省堂刊) 

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   八識倶転 ・ 八識一異 について (2)

        ―  八識一異 八識の自性  ―

 初能変・第二能変・第三能変を結ぶにあたって八識倶転・八識一異が述べられます。「こころは一つか」という問いに答えているわけです。八識はどのように動くのか、一つの識なのか、八識は別体なのかという問いが先ずあるわけです。この問題については概略を示して、初能変・第二能変を学びおえてから再考したいと思います。『成唯識論』の立場は八識別体・八識は、別々の識体を持つということです。八識倶転を受けて八識一異が述べられます。

 「八識の自性は、定めて一とは言うべからず。行相と所依と縁と相応と異なるが故に。又一の滅する時に余滅するものにしもあらざるが故に。能 ・ 所薫等の相各異なるが故に。亦定めて異なるにも非ず。経に八識は水波等の如く差別無しと説くけるが故に。定めて異ならば因果の性に非ざるべきが故に。幻事等の如く定性無きが故に。前所説の如き識差別の相は、理世俗に依る。真勝義には非ず。真勝義の中には心言絶するが故に。伽陀に説くが如し。

 心と意と識との八種は  俗の故には相別なること有り

 真の故には相別なること無し  相と所相と無きが故にと。」(『論』第七・十八右)

  (解説) 第一説 ・  ここは三義を以て「定めて一とは言うべからず」を釈します。その第一行相とは見分である。識の自性(存在のありよう)はいつでも一つだとは言えない。それは、「行相と所依と縁と相応と異なるが故」だからである。行相は心の働き、所依は依り所となるもの、根。縁は対象、所縁。相応は心所で、多少の別ある、と。。「眼識は色を見るを行相と為す」。眼識は色を見る働きを持ち、眼根を依り所とする。耳識は聞く働きを持ち、耳根を依り所として動くわけです。このように「第八は色等を変ずるをもって行相となす等の如し」と、八識はいつも一つだとは言えないということです。

 第二は「又もし一の識が滅するとき、余の七等は必ずしも滅するものではない」ということ。八の心は働き・依所も違うのであるから一体だとは言えない。その理由が「能・所薫等の相各異なるが故に」と、働きがみんな違う。これが第三の義です。前七識が能薫・第八識が所薫で、また前七識は因、第八識は果であると、『楞伽経』第七に説かれている。また、三性・異熟生・真異熟等、種々の相が異なるからである。 能薫 - 薫とは薫習のこと。現行・転識(顕在的な心)が潜在的な根本心・阿頼耶識にその種子(影響)を薫じること。薫じる七転識を能薫・薫じられる阿頼耶識を所薫という。 第二説 ・ 「亦定めて異なるにも非ず」を釈しています。ここも三義を以てとかれます。 第一の義は、必ずしも異なるものではないということ。『楞伽経』の第九巻の頌に 「八識は大海の水と波と  差別の相あること無きが如し」 と説かれている。また大海と鏡面とによって、多くの波をおこすようなものであり、そこには大海と鏡面と差別はない。それは一つの水と波のようなものである。 第二の義は、定めて異というならば、因果が成立しない。更互に因果となるからであり、法爾の因果は必ずしも別なるものではない。 第三の義は、一切法は幻事・陽炎・夢影のようなもので、必ずしも別の性があるわけではない。この三義で、八識は一つのものではないし、また別なるものではないといっているのですね。これが私の心の構造なのです。AかBではないのですね、またAかBかのどちらでもないということでもない、と。概念的には絶対矛盾しているわけですが、そこに同時に存在しているのが私の生命体なのです。八識は一なるものでもないし、別なるものではない、と教えられています。 「此の一異に非ずは、四勝義に依りて四の世俗に対して皆得たり」(『述記』)と。『瑜伽論』巻六十四に四重二諦について説かれています。要約しますと、世俗諦と勝義諦とを世間・道理・証得・勝義の四つに分けてそれぞれの四つがどのように相応するかを説いているのです。世俗の真理を世間世俗諦・道理世俗諦・証得世俗諦・勝義世俗諦とにわけ、それぞれ、道理世俗諦が世間勝義諦・証得世俗諦が道理勝義諦・勝義世俗諦が証得勝義諦に相応し、勝義諦の勝義は勝義勝義として、非安立一真法界(言葉で語られない真実の世界)を立て、真実とは何かを説き明かしています。 まとめとして、  「前所説の如き識差別の相は、理世俗に依る。真勝義には非ず。真勝義の中には心言絶するが故に」と。八識五十一の心所の総まとめです。八識五十一の心所の違いの相は道理世俗に依る。道理に依ってものを見る、という立場です。迷いは何故起こるのかということを分析的に明らかにしているわけです。勝義勝義という空の立場に立って、すべては無自性なるが故に空であるとはいわないのです。何故かといいますと、造論の意のなかで、「二空の於に迷・謬すること有る者の為に、生と解とを生ぜしめむが故なり」と述べられていました。勝義勝義を理解した上で、勝義勝義に迷い、謬っているのは何故かを明らかにして、生と解を生じせしめるのである、ということを忘れてはならないところです。 『述記』(第七本・九十八左)の記述を示しますと、  「もし爾らば、前来、所説の三能変の相は、これ何ぞ。これは四の俗諦のうち第二の道理世俗に依って、八等ありと説く。事に随って差別す。四重の真諦のうち第四の真勝義諦に非らず。勝義諦のうちに八識の理を窮めるに、分別の心と言と、みな絶するが故に。非一非異なり。四句分別等を離れたり。前の心所を心に望めて一異なること、第二の俗諦を以て第二・第三・第四の真諦に相対するなり。今は第二の俗諦を以て第四の真諦に対して論を為す。」 大乗仏教の真理を弁えた上で、迷いの構造を明らかにしているのが唯識なのですね。煩悩即菩提・生死即涅槃と一言でいってしまえば誤解が生まれます。生死は涅槃なのだから、迷う必要は無いわけです。しかし現実には迷い苦しんでいるのが私の姿です。それは何故かと疑問を呈しているわけですね。真勝義の立場に立ってしまいますと「心・言絶する」と。非一非異として八識を重層的に説明をし、「唯識無境」を明らかにしているのですね。 明日は最後の詩句について述べてみたいと思います。

参考文献 『瑜伽論』巻六十四より・第一真義理門を説く。

  「真義に略して六種ありと。謂く世間成真実乃至(道理真実・煩悩障行智所行真実)所知障浄智所行真実、安立真実、非安立真実なり。前の四真実は應に知るべし前の菩薩地の中にすでに広く分別せるが如しと。

 云何が安立真実なる、謂く四聖諦なり、苦は苦に由るが故に、乃至道は道に由るが故なり。

 所以は何ん、略を以て三種の世俗を安立す。一には世間世俗、二には道理世俗、三には證得世俗なり。

 世間世俗とは、所謂宅舎・瓶盆(びょうぼん)・軍・林・数(しゅ)等を安立し、又復た我・有情等を安立し、

 道理世俗とは、所謂蘊界処等を安立し、

 證得世俗とは、所謂預流果等の彼の所依処たる四諦を安立するなり。

 又復安立に略して四種あり、謂く前に説けるが如き三種の世俗及び勝義世俗を安立す、即ち勝義諦なり。此の諦義は安立すべからざる内の所証なるに由るが故に、但だ随順して此の智を発生(ほっしょう)せんが為めに、の故に仮立す。

 云何が非安立真実なる。謂く諸法の真如なり。」

  


 八識倶転 ・八識一異について (1)

2010-12-29 16:33:51 | 八識倶転・八識一異

Shinran61_4   吉水における 「信不退・行不退の図」

 「聖人 親鸞 のたまわく、いにしえ我が本師聖人の御前に、聖信房、勢観房、念仏房已下の人々おおかりし時、はかりなき諍論をし侍る事ありき。そのゆえは「聖人 源空 の御信心と、善信が信心といささかもかわるところあるべからず、ただ一なり」と申したりしに、このひとびととがめていわく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるる事いわれなし。いかでかひとしかるべき」と。善信申して云わく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆえは、深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおおけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、一たび他力信心のことわりをうけ給わりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば、聖人の御信心も、他力よりたまわらせたまう、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかわるところなし、と申すなり」と、申し侍りしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまわく、「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々は、わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよくこころえらるべき事なり」と云々 ここに、めんめんしたをまき、くちをとじてやみにけり 。」(『本願寺聖人伝絵」 真聖p729~730)Shinran7_3

     吉水に於ける 「信心諍論の図」

 「法然はひと息いれて、おだやかな口調で範宴にたずねた。

「わたしは日々つねに念仏を口にとなえて暮らしておる。その法然の念仏と、そなたがとなえる念仏とは、はたしてちがうところがあるであろうか。それとも同じ念仏として、変わるところがないのか。どうじゃ」

 範宴はしばらく考えた。遵西や蓮空の視線が針のように突き刺さってくる。そして、いった。

「同じ念仏でございましょう。すこしも変わるところはないと思います」

「なんと―」

 蓮空が怒りの声をあげた。遵西は呆れはてたといわんばかりに唇をゆがめ、首をふっている。

「安楽房は、この範宴の意見をどう思う?」

 法然がきいた。遵西は言下に答えた。

「とんでもない思いあがりでございます。反論する気もありません」

「よくそのようなことを」

 と、よこで蓮空がけもののような唸り声をあげた。

「我慢ももうこれまでじゃ」

 いきなりとびかかった蓮空の拳が、固い石のように範宴の顔を連打した。

「やめよ、蓮空」

 法然の声が厳しくひびいた。さきほどまでのおだやかな声とはまったくちがう、戦場の武者頭のような野太い声だった。

「わたしの念仏も、範宴の念仏も、そして蓮空や遵西のなんぶつも、ここにあつまるすべての人びとの念仏も、すべてみ仏とのご縁によってうまれる念仏じゃ。阿弥陀如来からたまわった念仏であることに変わりはない。そう思えば、この法然房源空の念仏も、そなたたちの念仏も、まったく同じ念仏であろう。範宴とやら、よう答えた。きょうからそなたを、この法然の仲間の一人として吉水に迎えよう。よいか」

 いま自分は、はじめて本当の師とめぐりあったのだ、と範宴は思った。」  (五木寛之著 『親鸞』巻下 p61~62より ・ 講談社刊)

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 八識倶転 ・ 八識一異 について 

      ―  八識倶転(1) 倶転を明かす ―

 「是の故に八識は一切の有情に於て心と末那と二は恒に倶転す。若し第六起るときには則ち三いい倶転す。余は縁の合するに随て一より五に至るまでを起すときには則ち四いい倶転し乃至八いい倶なり。是を略して識の倶転する義を説くと謂う。」(『論』第七・十六左)

 (意訳) このようなわけで、八識はすべての有情にに於いて倶に動いている。阿頼耶識と末那識は恒に倶転する。マナーという我執の心は、ときどき動くのではなく、恒に動いている。阿頼耶識を依り所として動いていく。若し第六意識が起こる時には、阿頼耶識と末那識とが一緒に動く。余(前五識)は縁に依り一つが動くときも有り、全部が動くときもある。それは縁によって違う。そして阿頼耶識と末那識の二つはいつも有る。則ち阿頼耶識と末那識と第六意識と前五識のいずれかが、起きている時には動いているわけですから、四つは必ず動いていることになります。それが倶に動いていく。これを略して識の倶転する意義を説くのである。

 「述曰。 五十一と七十六とに説けるが如し。上来、すでに三能変の本頌を解しおわる。 自下、第二に総じて分別をなす。 中において三あり。一に倶転を明かし、ニに問答分別、 三に一異の分別、これは即ち初なり。六の倶なることを弁ずるに因んで、八の倶転を説くなり。」(『述記』第七本・九十左)

 表層の六識は深層の識と深く重層的に関わって動いていくわけですね。「面は菩薩の如く、内心夜叉の如し」と云われることがあります。内なる自己を見つめていく。そこに六識ではわからないこと、六識を動かしている深層の働きが恒に倶に動いている。そこに人格が形成されていくわけです。道元禅師は「仏道をならうというは自己をならうなり」(『正法眼蔵/現成公案』)といわれています。「仏道を学ぶということは自己を学ぶことである。自己を学ぶということは自己をわすれることである。自己を忘れるということは、総てのものごとが自然に明らかになることである。総てのものごとが自然に明らかになるということは、自分をも他人をも解脱させることである。悟りのあとかたさえ残さないのである。そのことをいい現わして行くのである。」と。真実の自己に出会うことが他者をして他者を生かすことなのですね。親鸞聖人がいわれる「自信教人信」のまことをつくすこと、これが聞法の課題ですね。自己を知る自信力を得ることが仏道、仏教を学んで他者を知るのではありません。自分を知る、このことが八識倶転で教えられているのではないでしょうかね。

       

                                                                                     


第三能変 起滅分位門 五位無心 重睡・悶について(2)

2010-12-28 21:33:46 | 五位無心

Default  Hongwanji03               本願寺聖人伝絵第六段

「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。」(『御伝鈔』真聖p729・『歎異抄』p639)

         ー   ・   ー

      第三能変  起滅分位門

      ー  重睡・悶 (2)  ー

 極睡眠というのは、私たちが日頃、夢を見たりするような睡眠を指すのではなく、夢も見ない、起こらない極重の睡眠を指し,亦悶絶も極重の悶絶を指すのですね。

 「疲極(ひごくー身疲労し疲極す、といわれるように、つかれきっていること)等の縁あって睡をして有ることを得しむ。有心のときを名づけて睡眠となす。これを無心ならしむるが故に極重の睡と名づく。」(『述記』第七・八十六左)

と云われますように、疲労ということが縁となっているのです。「身疲労し」といわれていますね。心が疲労し、とはいわれていません。心が疲労しているときは、睡眠も、うとうとだったり、夢心地だったりするわけです。「心が」という場合は不定の心所の一つで、眠(めん)といわれています。「眠とは、謂く心をして昧略ならしむを以て性と為す。」と。この時は、煩悩が種子として潜在している状態で、眠っている心ですね。

 ですから、無心の睡眠には不定の心所である眠の心所はないのです。身の分位であると。ただ眠に似たものであるので、仮に立てたといわれています。『述記』に問いを立てて答えています。

 「此の睡眠の時には、彼の体なしと雖も而も彼に由って、彼に似る、故に仮に彼の名を説く」(『論』第七・十五左)

 「問う、此に既に心所の眠なし。何を名づけて眠となし、而も論の中と大論の無心地等に説いて眠となすや、

 「(答え)これに二解あり。一に由、二に似なり。この眠の時には彼の心所の眠の体は無しと雖も、而も彼の加行の眠の引くに由る。あるいは沈重にして不自在なることは、彼の眠の心所ある時に似る。二義を以っての故に、無心なる身の分位を仮説して眠と名づく。実に眠にあらざるなり。」(『述記』第七本・八十八右)

 次に悶絶ですが、これも睡眠と同じように、身の分位になります。

 「大論の第一に、悶絶はこれ意の不共業なりと説けり。即ち悶の時に、ただ意識のみあるによる。悶は心所法にあらず。末摩(まつま・marmanの音写で死穴、死節ともいう。)に触するを以って悶が生ずること有るが故に。悶は即ち触処の悶なり。」

 「末摩というは梵言なり。此には死穴と云い、或いは死節と云う。順正理論の第三十に云わく、末摩は別物無し。身に異の支節ありて触する時は便ち死を致すといえり。」(『演秘』第六本・十九右)

 断末の叫びですね。悶絶とはそのような身の上に起こることなのです。風熱等の縁なくして、悶絶を起こすならば、これは心所であるけれども、風熱等の縁によって、身の分位を引くのである、と云われています。

 「二無心定と無想天と及び睡と悶との二と、この五の時と除き、第六の意は恒に起こる。縁が恒に具せるが故に。」(『述記』第七本・八十九右)

 (意訳)無想定と滅尽定と生無想天と睡眠と悶絶の五位を除いては第六意識は恒に起こるのである、何故ならば、第六意識が起こる縁が恒に起こっているからである。

 


『唯信鈔文意』に聞く (13)

2010-12-26 15:47:32 | 唯信抄文意に聞く

Img_1467341_57430272_0 Img_1467341_57430272_7  安居院 聖覚法印ゆかりの地

 安居院 西法寺(京都・大宮通り鞍馬口下がる東入る新町)

  「聖覚は藤原通憲の孫で、父澄憲は類まれな雄弁と呪力で雨を降らせたとして有名な天台の僧でしたが、聖覚も父に劣らぬ説教名人で、法然の瘧(おこり)を直した呪力の持ち主でした。聖覚は法然上人の弟子で、無二の親友親鸞を法然上人に引き合わせました。一の谷の合戦で平敦盛を討った熊谷直実を法然上人に紹介したのも聖覚で出家した直実は蓮生坊を名乗りました。
 往時の安居院は声明、唱導、法説、読経で名高く、父澄憲は唱導の名手で安居院流唱導の祖です。聖覚はそれを盛んにし皇室や公家とのつながりも強く、法然、親鸞の浄土門の立教には陰に陽に協力されました。」(西法寺掲示板より)

       『唯信鈔文意』に聞く  (13)  

   蓬茨祖運述 『唯信鈔文意』講義より

無碍光仏の御かたち

「無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆえに、この如来の智願海「にすすめいれたまうなり。」 「無碍光仏の御かたち」と申します、この 「かたち」という意味ですね、これは、かたちということになったら有限なものですね。つまり限定、かぎられる。かたちというものはかぎられる。無碍光仏にはかたちがあるとすれば、有限なものだということになるわけですね。かたちがないものだ、無限だと。形が無いということになれば、このかたちのないものは、かたちを本としておるところの凡夫には、かたちのないものには到底ふれることはできない。しかし、かたちがあるものであったならば、これは有限であるから、それによってさとりを得たといたしましても、そのさとりは有限でなくてはならぬ。こういう問題があるわけですね。 いま無碍光仏は誓願によって、このかたちをもうけられた。一切衆生、かたちあるところの生死の衆生、よろづの衆生を、大涅槃に導くためのかたちをもうけられたのだと。これによって、有限なる衆生はふれることができるということですね。しかしふれたものが有限だけであるならば、限られたものにすぎませんから、大涅槃にいたるということはできない。つまり窮極には、窮極と申しますのは、おんづまり、おんづまりには、やはり生死を断じたとはいえないということになるわけですね。断じたか、断じないか、はっきりしないことになるわけです。ここにそういう難儀な問題があります。 ところが 「無碍光仏「の御かたち」 はどういうかたちかということについて、 「智慧のひかりにてまします」 と。無碍光仏の御かたちは智慧のひかり。まあ智慧もひかりも同じものですね。智慧のかたちでまします。智慧のかたちは、すなわち光のかたち。ここに先程来のもとになっているこの誓願の尊号ですね。誓願の尊号ということがあって、はじめてこの無限のものが有限のかたちをとりつつ、有限のものをおさめとり無限に帰せしめるという、そういうかたちというものが示されることであります。 あとになって出てまいりますが、 「無碍光仏の御かたち」というときには、ここには法性法身と方便法身という二種の身というものを如来は持たれるのだという。諸仏如来は二種の身を持たれる。或いは諸仏菩薩は二種の身を持たれる。これは、法性法身というのは、かたちのない方ですね。無限の意義をもっておるものですね。かたちがない。法性法身にはかたちがないいろもない。かたちもない。いろがあったり、かたちがあったりするということはつまり有限である。有限であるということは無上とはいえないわけです。無上という以上は、法性法身、かたちというものがない、いろもないという意味になります。方便法身というのは、これはかたちがあるわけですね。 この法性法身というものは、これは一切衆生ことごとく法性法身というものをもたないものはないといえるのでございますね。しかし、その法性法身ということに迷いを生じたのが衆生としての意義であります。いろもなければかたちもないところに、生まれ死んだrりすることはないわけですけれども、そこに生まれるということが衆生というものでございますね。衆生は生まれてきたもの。生まれるということがあれば死ぬるということがあるわけです。展転無窮である。限りがない。我々がこの世に生まれてきた、そうすれば死ぬという。生まれてこないときは何もなかった。死んでは何もなくなってしまう。こういうんですが、それが迷いなんですね。生まれてこなかったときには何もなかったのではない、生まれて今も何もないんです。死んでからなくなるのではない。死なぬ前も、何もない。今も、何もないものなのです。 今はあると思っておるでしょう。生まれぬさきは何もなかった。死んだらまた何もなくなってしまう。土にかえるだけで、自分というものはなくなってしまう。生まれぬさきもなく、死んであらもないなら今もない。ないものをあると思うとるだけです。それが衆生ですね。ですから、生死の衆生、と。これがそのまま法性法身であるということが、大乗の意義ですね。大乗における衆生というのは、生死がないという。生死のままが生死がないというのが大乗の衆生の意味です。 『論註』 にこのことが出ています。 「小乗では、あまたの生死を受けるがゆえに衆生という。大乗では、不生不滅の義を衆生という」と。 「不生不滅」 ということは、これ、ないということでしょう。生せず滅せずですから。生じたと思うておるものはないのだ。死んでさきがなくなると思いているものもないんだと。不生不滅の義を衆生という、と。こういうふうにいうておりますですね。大乗の意味の衆生というのは法性法身ですから、こらは阿弥陀如来に限らず、諸仏に限らず、あらゆる衆生ことごとく法性法身でないものはないということなんです。しかし、それに迷うておる。つまり迷うておるということは、そういうことの認識がないんですね。つまり、それを知ることができない。そういうことについて、我々は大きな無知を知恵としておるのですね。その衆生をたすけるために、法性法身より方便法身というものを出されるのだ、と。 「法性法身に由って方便法身を生ず」 ですね。 「方便法身に由って法性法身を出だす」 です。方便法身は法性法身にかえってくる。これが自利と利他にあたるわけですね。法性法身は自利、方便法身は利他ですね。 「この二つの法身は、異にして分かつべからず。 一にして同じかるべからず。」 二にして分かつべからず、です。一つであって同ずべからず。一つだとうて、法性法身一つということにしてしまったら、法性性身もなり立たなくなるのですね。 (つづく)

 参考文献 『浄土論註』 (聖全Ip298) 「衆多の生死を受くるを以ての故に名づけて衆生と為るが如きは、此は是れ小乘家の三界の中の衆生の名義を釋するなり、大乘家の衆生の名義には非ざるなり。大乘家に言ふ所の衆生は、『不增不減經』に言たまふが如し。「衆生と言ふは即是不生不滅の義なり」。何を以の故に、若し生有らば生じ已て復生に无窮の過有るが故に、不生にして生ずる過あるが故なり。この故に无生なり。若し生有らば滅有るべし。既に生无し何ぞ滅有らむことを得む。是の故に无生无滅は是れ衆生の義なり。『經』(維摩經卷上意)の中に「五受陰、通達するに空にして所有无し是れ苦の義なり」と言ふが如し。斯れ其の類なり。」 

 『教行信証』証巻(真聖p290・聖全1-p337) 

「諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす。この二つの法身は、異にして分かつべからず。一にして同じかるべからず。このゆえに広略相入して、統(つうずる)に法の名をもってす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなわち自利利他にあたわず。」

        ー   ・   ー

       我が身と共に生まれ

       我が身と共に生き

       我が身と共に死す                                  

       それが法蔵菩薩 

       いろもなくかたちもましまさぬ

                   誓喚

        ー   ・   ー                                                                                                                                                      


第三能変 起滅分位門 重睡・悶について(1)

2010-12-24 23:03:33 | 五位無心

04_img01  熊谷堂 「信不退行不退」の図・熊谷堂 HPより

 「聖人 親鸞 のたまわく、「今日は信不退・行不退の御座を、両方にわかたるべきなり。いずれの座につきたまうべしとも、おのおの示し給え」と。そのとき三百余人の門侶、みな其の意を得ざる気あり、時に法印大和尚位聖覚、ならびに釈信空 法蓮上人 信不退の御座に着くべしと云々 つぎに沙弥法力 熊谷直実入道 遅参して申して云わく、「善信御房御執筆何事ぞや」と。善信聖人のたまわく、「信不退・行不退の座をわけらるるなり」と。法力坊申して云わく、「しからば法力もるべからず、信不退の座にまいるべし」と云々 よって、これをかきのせたまう。」 (『御伝鈔』 真聖p728)

        ー    ・   ー

   第三能変 起滅分位門 五位無心

   ー 第三解 重睡・悶について ー

 無想定・滅尽定は修行を通じて起こる無心ですが、次の睡眠(すいめん)・悶絶は自然に起こってくる無心の二定というのですね。

ただの睡眠・悶絶ではなく、極重の睡眠・悶絶といわれています。この位においては前六識は現行しないといわれています。

 「無心の睡眠と悶絶とは、謂く有る極重の睡眠・悶絶とには前の六識を皆な現行せざらしむ。」(『論』第七・十五左)と。 (未完)


第三能変 起滅分位門 五位無心 ・ 滅尽定について

2010-12-23 22:24:09 | 五位無心

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  画像は 『選択本願念仏集』 標挙の文  goo提供

 「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と、「釈の綽空」の字と、空(源空)の真筆をもって、これを書かしめたまいき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。」(真聖p399)教行信証後序・p727『御伝鈔』上末)

       ―    ・    ―

 第三能変 起滅分位門 滅尽定について

    滅尽定 第一段 第五 釈名

 「偏に受と想とを厭するに由って、亦彼の滅する定と名づく」(『論』第七・十三右)

 (意訳) 偏に受と想とを厭うことによって、七転識を滅する定と名づける。

 七転識の心・心所を滅するを滅定と名づける。その理由は恒行の染汚の心等が滅するからである。また、滅受想定とも名づけられる。滅受想定と云われるのは、遍行の中の受と想とを滅した定で、心所の中で特に心を悩ます感受作用である受と、言葉による概念的思考を引き起こして心を騒がす想とを嫌ってそれら二つを滅するから、滅受想定といわれる。

 二乗と七地以前の菩薩には、色界の四禅と無色界の四地(空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処)とを修して、受と想とを厭うことがあれば,滅受想定と名づける。「恒行の染汚の心等を滅する」といわれていますが、これは末那識を表しているのです。ですから、末那を滅するといっても、第七識を滅するのではないということです。末那識の滅尽定において学びましたが、人執は滅しても法執は残る、さらに法執を滅したとしても末那を滅したことではないのです。末那は平等智に転ずる識ですね。八地以上の自在の菩薩と如来とには有漏の第六識はないので、阿頼耶とはいわず、阿陀名といい、人執を起こすから阿頼耶というわけです。また法執を縁ずることで異熟識といわれていました。

 次には第二段から第六段の概略です。

  •  第二段 ・ 義の第六 「三品の修を弁ずる」
  •  第三段 ・ 義の第七 「初に修する依地を云う」、二乗と及び七地以前で未自在と名づく。(後に少し述べたいと思いますが、世親菩薩の課題は未自在の菩薩が自在の菩薩と違わないでいられるのかです。)
  •  第三段 ・ 義の第八 「無漏に於いて分別す」
  •  第四段 ・ 義の第九 「三学に於いて分別す」
  •  第五段 ・ 義の第十 「初起と後起との界地を云う」(初起の位は必ず人中にあり。後には上二界にも現前することを得)
  •  第六段 ・ 義の第十一 「一に見惑を明かす。二に修惑を明かす。」

 以上で滅尽定についての概略を記しました。まとめますと『論』の記述から要旨を伺いますと、

 「謂く有る無学、或いは有学の聖の、無所有までの貪を、已に伏し、或いは離る。上の貪は不定なり。止息想の作意を先と為すに由って、不恒行と恒行の汚心との心・心所を滅せしめて滅尽という名を立つ、身を安和ならしむる故に亦た定と名づく、偏に受と想とを厭いしに由って、亦た彼を滅する定と名づく」(『論』第七・十三右)

 の文につきるのではないかと思います。「有無学」というのは二乗の倶解脱で、「二乗の倶解脱に非ざる者を簡ぶ、入るを得ざるが故に」と、また独覚の中にも滅定を得ざる有り、部行独覚を簡んで有る無学と云われています。「有学の聖」とは、初二果を除くと。有学の中には異生あるを以って聖と簡び、第三の不還果中の身証不還の者がこの定を得るという。以下『論』の説明は12月3日・4日の項を参照してください。

        ―  雑感  ー

 仏道の課題は自利利他成就であることを述べています。二乗及び七地以前の菩薩には人執は滅することはできるが、法執は残るといわれています。二乗地に堕するを菩薩の死と名づく、といわれ、声聞は自利にして大慈悲を障える、ともいわれていますが、このことは何を意味するのかですね。生死解脱を目指して仏道修行をするのですが、その仏道が問題にされているのではないかと思うわけです。いうなれば、七地を超える課題です。『浄土論註』・不虚作住持功徳成就に二つの喩えを出して宿業を生きる凡夫の相が見つめられています。「人、飡(さん)を輟(とど) 止也貞劣反 めて士を養い、或は舟の中に?起(つみおこ)すこと有り、金を積みて庫に盈てれども餓死を免れず。」この初の喩えは『呉越春秋』巻二・巻四と『魯子春秋』第十に出る故事ですが、飼い犬に手を噛まれるということをいっています。即ち、呉の公子である慶忌が敵の臣下、要離を誤って信じ、食事や給与を与えて養っていたが、要離は有るとき船の中で、隙を見て謀略をめぐらし、公子である慶忌を討ったという裏切りの記事が載っている。また次には『前漢書』第九十二・三にでる故事が引用されています。登通という者が、漢の文帝に可愛がられ、大金を貯めるほどの幸せの境涯にあずかったが、逆にこの幸せを受けたことが仇となって次の帝、景帝の時には、この大金は没収され遂に餓死してしまうという、この二つの故事を引き合いにだして、宿業を生きるをえない人間がみつめられているのですね。虚作の相を示しています。凡夫の虚作の相は「虚妄の業をして作して住持すること能わざるに由ってなり」といわれています。このことは、人間の能力の上には利他は成立しないことを示唆しているのでしょうか。自利利他円満成就という大乗仏教の面目は「菩薩は出第五門の回向利益の行成就したまえると」、説かれ、成就は「回向の因を以って教化地の果を証す」と。この因と果は不虚作の相として、「本、法蔵菩薩の四十八願と今日の阿弥陀如来の自在神力とに依るなり」と。この願と力に由って未証浄心の菩薩が上地の菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得ることができるのであると、いわれるわけです。ここにですね。自利利他が円満成就する道が開示されたわけです。大乗仏教に於いて自利と利他の限界が七地として説かれています。修道は第六地(現前地)において般若が現前してくるところで完成するのですが、最後の作心が残るのですね。「菩薩七地の中に於して大寂滅を得ば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず、仏道を捨てて実際を証せんと欲す。」 真如のみを欲して仏道の目的を失い作心を以っての故に菩薩の願心である下化衆生を忘れ、七地の中に埋没してしまうのです。古来、七地沈空の難といわれ、自力の作願・回向では超えることができない、といわれているわけです。(前編・完)


第三能変 起滅分位門 五位無心 (末那識に学ぶ)

2010-12-22 22:45:05 | 五位無心

10myouonakimhonensoron_250    親鸞聖人伝絵より

  吉水門下 信心争論の図

 「聖人 親鸞 のたまわく、「今日は信不退・行不退の御座を、両方にわかたるべきなり。いずれの座につきたまうべしとも、おのおの示し給え」と。そのとき三百余人の門侶、みな其の意を得ざる気あり、時に法印大和尚位聖覚、ならびに釈信空 法蓮上人 信不退の御座に着くべしと云々 つぎに沙弥法力 熊谷直実入道 遅参して申して云わく、「善信御房御執筆何事ぞや」と。善信聖人のたまわく、「信不退・行不退の座をわけらるるなり」と。法力坊申して云わく、「しからば法力もるべからず、信不退の座にまいるべし」と云々 よって、これをかきのせたまう』(真聖p728)

             ー    ・   ー

 法我見と相応する末那識の所縁の境はなにかについて

 「彼は異熟識を縁じて、法我見を起こすなり。」(『論』第五・六左)

 (意訳) 彼(法我見と相応する末那識)は、異熟識を認識して法我見を起こすのである。

 「述曰。此の法執の心は異熟識を縁じて、法我見を起こす。法我見の位は既に長し。異熟の心も亦爾なり。」

 法執は無始より金剛喩定(こんごうゆじょう)まで存在するといわれています。法我見と相応する末那識は法執と相応する末那識ですから、「法我見の位は既に長し」と説かれているわけです。

 金剛喩定(金剛心) - 有頂天(非想非非想天)で最後の第九品の惑を断じる無間道で起こす定。最後の最後まで残った煩悩を断じ、次の瞬間に仏陀になる禅定。

 この位の名を善悪業果位といい、異熟の名があるわけです。

  •  無始より七地以前、二乗の有学までの第八識は - 阿頼耶・異熟・阿陀那の三つの名を持つ。
  •  菩薩の八地以上、仏果未満、二乗の無学の第八識は - 阿頼耶の名はなくなり、異熟と阿陀那の名で称されます。
  •  仏果と成った以降は阿陀那と称されることになる。

 第三能変に於ける五位無心を学ぶ中で、滅尽定について末那識の記述から学びました。我執を伏しても法執は残るということですね。我執は必ず法執によって起こるということ。そして二乗の有学の聖道と、滅尽定の現在前する時と、頓悟の菩薩の修道の位に有る時と、有学の漸悟の菩薩の生空智とその果の現在前する時とには、みなただ法執のみを起こすのである、それはすでに我執を伏しているからである、と。 この科段は末那識を述べるところで詳しく読んでいこうと思います。

 第三能変 起滅分位門 ・ 五位無心 ・ 滅尽定に戻ります。滅尽定についても無想定と同じく六段十一義をもって説明されています。ここまでは第一段五義を説明しました。

 


第三能変 起滅分位門 滅尽定について(末那識に学ぶ)

2010-12-21 22:44:50 | 五位無心

           Godenne01 親鸞聖人御絵伝・第一の巻 

                               Google 提供

「建仁第三の暦春のころ 聖人二十九歳 隠遁のこころざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅房に尋ね参りたまいき。是すなわち、世くだり人つたなくして、難行の小路まよいやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の大祖聖人、ことに宗の淵源をつくし、教の理致をきわめて、これをのべ給うに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽まで、凡夫直入の真心を決定し、ましましけり。」(真聖p724.『御伝鈔』)

ー 末那識・分位行相について ―

 第二、法我見と相応する位について

 「次のは、一切の異生と声聞と独覚とに相続せると、一切の菩薩の法空智と果との現前せざる位とに通ず。」(『論』第五・六右)

 (意訳) 次に法我見と相応する位について説明する。法我見と相応する末那識は、一切の異生と声聞と独覚とに相続するのと、一切の菩薩の中の法空智とその果との現前しない位とに通じて存在するのである。

 末那識が滅する状態は「阿羅漢と滅定と出世道とには有ることなし」と。無漏智が具体的に生起した位です。この位を聖者で、それ以前が凡夫。十地でいえば、七地以前が凡夫で、我執は無始より見道通達位まで存在するといわれています。・八地以上が聖者です。そして無漏智に生空智と法空智の二つがあります。生空智とは人空智ともいわれ、実体としての自己はいないという智慧・我見によって執着するような実体としての自我は存在しないという智慧です。この真理を観ずることを人空観といいます。そしてその智慧をさらにつきつめて、全ては存在しないという智慧に到達したのが法空智といわれています。

 「法空智とは、謂く無分別智、法空観に入るの時なり。果と云うは、即ち是れ此の正智が果なり。謂く法空の後得智と及び法空の後得智に依って滅定に入る位となり。無分別智に引起せられたるが故に法空智が果と名づく。此の時に第七識は必ず平等智を起こす。第六の法空心は細なれば、第七の法執、彼の法空智を障えり。法空智起こるが故に平等智生ず。」(『述記』第五末・二左)

 法空智とは、無分別智が法空観に入る時をいう。その果とは、この法空智による後得智と、この後得智による滅尽定に入る位を指す。この説明は、法空智と、その後得智と、後得智にによる滅尽定の三つを述べています。そしてこの位には必ず平等性智を起こすと述べられています。「法空智起こるが故に平等智生ず。」といわれる所以です。第六識が人空観を起こすなら、人執は断じられるが、法執は残り、法空智を障える、と。

 ですから、法我見と相応する末那識は、上に述べた三つの位を除いた状態が「現前しない位」になるわけですね。すべての異生と二乗と、「一切の菩薩の中で法空智と、その果との現前しない位」の菩薩が執着を起こす位になるのですね。

 所縁の境は、「彼は異熟識を縁じて、法我見を起こすなり」と説かれます。 (所縁の境については次回に述べます。)                           


『唯信鈔文意』に聞く (12)

2010-12-19 18:12:05 | インポート

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『唯信鈔文意』 親鸞聖人真跡本

      画像はgoo提供です。

    『唯信鈔文意』に聞く (12) 大涅槃にいたる

 蓬茨祖運述 『唯信鈔文意』講義より

  「『十方世界普流行』というは、『普』は、あまねく、ひろく、きわなしという」

 この 「あまねく」というのは、 「普」 の文字の意味から出ますが、 「ひろく、きわなし」 というのは、それから出てくるところでございますね。ですから、もとに如来の尊号ということがあるということを念頭におかなければならないわけでございます。そうしませんと、抽象的に文字の解釈にすぎないとしか見えません。 「ひろく」 ということは、これは十方世界でございましょうね。 「きわなし」 ということになりますと、無量ですね。はかりなしという。ですから十方世界の無量の諸仏が讃嘆せられるという意味があります。

  「『流行』 は、十方微塵世界にあまねくひろまりて、仏教をすすめ、行ぜしめたもうなり」

 これもよろずの如来、よろずの諸仏如来がすすめられるという意味があります。 「十方微塵世界にあまねくひろまりて、仏教をすすめ、行ぜしめたもうなり」。 十方諸仏と申しましても、名号を称揚讃嘆するということによって、諸仏になられるわけですから、本願によって、諸仏というものが衆生を教化せられるわけですね。それはやがて、如来の尊号があまねくひろまりて、仏教をすすめ、行ぜしめるということになります。

  「しかれば、大乗の聖人・小乗の聖人・善人・悪人・一切の凡夫、みなともに、自力の智慧をもっては、大涅槃にいてることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆえに、この如来の智願海にすすめいれたまうなり」

 この「十方微塵世界にあまねくひろまりて、仏教をすすめ、行ぜしめたもう」 と。それによってどういうことが明らかになるかといえば、 「しかれば、大乗の聖人・小乗の聖人」、 「大乗の聖人」 ともうしますのは、大乗の菩薩、いわゆる十住十行ですかね。十回向十地というような、そういう菩薩の階級がございます。それから、 「小乗の聖人」 と申しますのは、これも四向四果と申しまして、阿羅漢にすすむためには、この四向四果という八段階の階級のさとりの境地が語られるわけであります。これはいずれも出家の人であります。出家の菩薩です。比丘であります。出家といえば比丘といわなくてもよいわけでありますが、いずれも出家の聖人である。

 「善人・悪人、一切の凡夫」 というのは、これは在家人です。善人といえば、まぁ仏陀に祇園精舎などを供養した給狐独長者、祇陀太子などですね。悪人ということになれば、物にあだをなしたいろいろな人がおりますね。外道の人であだをなした人もある。弟子になってからあだをなした提婆のような人もおります。あるいは阿闍世のような人もおります。その外の一切の凡夫、みなともに自力の智慧をもっては、大涅槃にいたることがない。この大・小の聖人となることはできるけれども、大涅槃にいたることはないのだ。なぜか。自力の智慧をもって進んださとりであるからですね。いわんや、 「善人・悪人、一切の凡夫」 は、自力の智慧というものも持たないわけであります。その自力の智慧を持っておる大・小の聖人でもあっても、大涅槃にいたるということはない。なぜかと。自力の智慧であるから、自力の力でさとるわけでありますから、さとったといっても、そのさとりは自分だけ、自分だけさとったことになって、他の人に及ぶということは少ないわけですね。

 大涅槃というのは、一切の衆生を、つまり一切の凡夫をみなさとりの至らしめた境界である。こういう意味になります。涅槃というならば、大乗の聖人・小乗の聖人も得られるであろうが、大涅槃となったならば、広大な涅槃ですから、一切の衆生をことごとく涅槃にいたらしめねば大涅槃とはいわれない。それは自力の智慧をもって開いた涅槃では及ばぬわけですね。したがって、自力の智慧をもっては大涅槃いいたることがないと、はっきりいわれるわけであります。

 このことを明らかにするために、大乗の聖人・小乗の聖人、あるいあは一切の凡夫ということが意味をもつわけですね。 (つづく) 次回は12月26日に配信します。「無碍光仏の御かたち」という意味について配信します。

       ー    ・   ー

 菩薩の行位と修行の階位について

十住(初住<十信も含める>~第十住

十行(初行~第十行)       

十回向(初回向~第十回向)

  第十回向が二つにわかれ 第十回向(初住より第十回向を三賢(順解脱分)-資糧位

  満心 - 四善根(順決択分) -加行位   

 資糧位と加行位が初阿僧祇 - 方便道

ここまでが地前の菩薩といわれます。以後の初地より第十地までを地上の菩薩とよばれます。

 次に通達位に入りますが、見道ともいわれ、ここで初めて(入心)無分別智の一部が現行し、真理を見るといわれています。

十地(初地~第十地)

  初地 - 入心 - 見道 - 通達位

      - 住心 -

      - 出心 - }修道 - 修習位 

  第十地(等覚を含む)

 初地より七地以前を第二阿僧祇・八地以上を第三阿僧祇となり第二阿僧祇と第三阿僧祇を聖道となり方便道とあわせて因道となります。

 仏果 ー 無学道 -究竟位 -果道

 よく初発心から仏果に至るまでの修行の時間が三大阿僧祇劫かかるというのはこういう意味があるのですね。しかしですね。仏果に至って初めて自利利他が円満成就するわけです。それまでは自利のみですね。自力の智慧をもっては大涅槃にいたることはできないのですね。因から果に向かうことができるという道があるということは、果より因に向かう道が想定されているということです。果が導いているわけですね。それが従果向因の菩薩です。『大経』に説かれます法蔵菩薩ですね。道すでにあり、ということです。