所熏の四義 第三は、可熏性(カクンショウ)
『述記』「には、何故可熏性を説かなければならないのか、問いが設けられています。
「若しは無記性なり。及び唯だ竪なるが故に即ち是れ所熏なり。本識と同時の想等の五数及び虚空等も是れ所熏なるべきや。」
(ただ竪にして無記性であるものを所熏処とするならば、本識と同時の想等の五遍行(触・作意・受・想・思の五遍行)や虚空等も一類相続にして無記性であるから、第八識と同じく所熏処となりえるのか?という疑問に対して、可熏性でなければならない、と答えています。)
「三に、可熏性。若し法が自在なり。性竪密に非ずして能く習気を受くるいい乃ち是れ所熏なり。」(『論」)
自在とは自由自在といわれますように、法そのものは自由自在に動くということです。そして性竪密に非ず、と。ここで言われています「竪」は、かたい、という意味になり、「非ず」といわれていますから、柔軟性があるということでしょう。柔軟性があるから熏習が成り立つのである、と。
可熏性とは、
- 法の自在であること。
- 竪密ではないということ。
「此は心所と及び無為法とは他に依りて竪密なり。故に所熏に非ずと。」(『論』)
法の自在であることは、「体自在にして他に依って起らず」ということになります。心所のように心王に依って起り、心王に属するものを簡び、即ち体自在であるので、第八識相応の五遍行を簡ぶのである。
竪密ではないということは、無為法を簡んでいるのですね、無為法は、性常住(永遠不滅の真理)であり且つ竪密である。それであるから所熏処にはなり得ない、と。
ここで何を言おうとしているのかですね。大事なことは、聞くということ、仏法を聞く、所謂四諦の理を聞くということなんですね。聞くということがキーワードになります。開けは聞ですね。四諦の理というのは、「『経』に「聞」と言うは、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。」(『信巻』)ということでしょう。
私たちは、知る知らないにかかわらずですね、真理の中に生きているわけですね。例えば法則ですね、宇宙の法則といってもいいかもしれませんが、知らなくても生きていくうえで何不自由はないのですね。これを仏教は法執と教えてきたのですね。それを遮っているものが我執になりますね。心の閉塞性が我執です。我執が真理(空)を覆ってしまうのです。我執は有為有漏として熏習されますが、真理そのものは熏習されません。所熏処となり得るものは熏習され得るものであるということ、ここが大事なところです。私たちは、業縁存在であるとか、遇縁存在であるということは因縁ですね。縁起性でしょう。縁起という真理の中で生かされているのですね。それを恰も自分一人で生きているかのように錯覚をしているのが私の姿です。このような執着が熏習されてくるのでしょう、これが可熏性であると教えているのですね。
法(空)に触れるか触れないかのキーは私が握っているのですね。生きていく上で、「これでいいのかな」と云う素朴な疑問が聞くという扉を開いてくるのでしょう。扉を開いてみると、開かれた世界は広大無辺であったという驚きがあるのでしょう。孤独からの解放とは、まさに仏法に触れることから始まるのですね。