唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (39) 熏習論 (5) 所熏の四義

2014-04-30 22:20:23 | 『成唯識論』に学ぶ

 所熏の四義 第三は、可熏性(カクンショウ)

 『述記』「には、何故可熏性を説かなければならないのか、問いが設けられています。

 「若しは無記性なり。及び唯だ竪なるが故に即ち是れ所熏なり。本識と同時の想等の五数及び虚空等も是れ所熏なるべきや。」

 (ただ竪にして無記性であるものを所熏処とするならば、本識と同時の想等の五遍行(触・作意・受・想・思の五遍行)や虚空等も一類相続にして無記性であるから、第八識と同じく所熏処となりえるのか?という疑問に対して、可熏性でなければならない、と答えています。)

 「三に、可熏性。若し法が自在なり。性竪密に非ずして能く習気を受くるいい乃ち是れ所熏なり。」(『論」)

 自在とは自由自在といわれますように、法そのものは自由自在に動くということです。そして性竪密に非ず、と。ここで言われています「竪」は、かたい、という意味になり、「非ず」といわれていますから、柔軟性があるということでしょう。柔軟性があるから熏習が成り立つのである、と。

 可熏性とは、

  •  法の自在であること。
  •  竪密ではないということ。

 「此は心所と及び無為法とは他に依りて竪密なり。故に所熏に非ずと。」(『論』)

 法の自在であることは、「体自在にして他に依って起らず」ということになります。心所のように心王に依って起り、心王に属するものを簡び、即ち体自在であるので、第八識相応の五遍行を簡ぶのである。

 竪密ではないということは、無為法を簡んでいるのですね、無為法は、性常住(永遠不滅の真理)であり且つ竪密である。それであるから所熏処にはなり得ない、と。

ここで何を言おうとしているのかですね。大事なことは、聞くということ、仏法を聞く、所謂四諦の理を聞くということなんですね。聞くということがキーワードになります。開けは聞ですね。四諦の理というのは、「『経』に「聞」と言うは、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。」(『信巻』)ということでしょう。

 私たちは、知る知らないにかかわらずですね、真理の中に生きているわけですね。例えば法則ですね、宇宙の法則といってもいいかもしれませんが、知らなくても生きていくうえで何不自由はないのですね。これを仏教は法執と教えてきたのですね。それを遮っているものが我執になりますね。心の閉塞性が我執です。我執が真理(空)を覆ってしまうのです。我執は有為有漏として熏習されますが、真理そのものは熏習されません。所熏処となり得るものは熏習され得るものであるということ、ここが大事なところです。私たちは、業縁存在であるとか、遇縁存在であるということは因縁ですね。縁起性でしょう。縁起という真理の中で生かされているのですね。それを恰も自分一人で生きているかのように錯覚をしているのが私の姿です。このような執着が熏習されてくるのでしょう、これが可熏性であると教えているのですね。

 

 法(空)に触れるか触れないかのキーは私が握っているのですね。生きていく上で、「これでいいのかな」と云う素朴な疑問が聞くという扉を開いてくるのでしょう。扉を開いてみると、開かれた世界は広大無辺であったという驚きがあるのでしょう。孤独からの解放とは、まさに仏法に触れることから始まるのですね。


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (38) 熏習論 (4) 所熏の四義

2014-04-29 11:29:56 | 『成唯識論』に学ぶ

 所熏の四義 その(2) 無記性

 「二には無記性。若し法の平等にして違逆する所無くて能く習気を容(イ)る。乃ち是れ所熏なり。」(『論』)

 もし、法平等にして善悪の習気を違拒(イコ)するところが無いならば、熏習をうけることができるであろう。何故ならば、無記は善悪に執われないからである。善悪すべてを受け入れていくものが所熏となり得るのである、と。阿頼耶識を無記性と捉えていく見方は非常に大事なところであると思います。

 「此は善と染とは勢力(セイリキ)強盛(ゴウジョウ)にして容納(ユウノウ)する所無きが故に所熏に非ずと遮す。」(『論』)

 何を否定するのかですね。善と染(不善と有覆無記)は所熏になり得ないと否定しているわけです。『述記』に喩えが出されて説明されています。善悪の勢力が強いものは、恰も「沈・麝(ジン・ジャ - 沈香・麝香のこと)等の如き、及び蒜薤(サンガイ)等の如き、皆熏を受けず。」(『述記』)というようなものでる。沈香や麝香という勝れた香を発するものや、蒜(匂いのある草。例えばニンニク)や薤(野菜の名前。ニラ・ラッキョウなど)などの香臭を持つものは他の香臭の熏を受けないのと同じように、他の現行の熏習を受けることが出来ない、と説明しています。

 ここに、有覆無記と無覆無記がでてきます。第八識は無色透明、純粋なもであって、いずれにも違逆する所がない(無覆無記)から所熏処となり得るのである。即ち、私たちの無意識の底に横たわっている性質は無色透明であるということなのでしょうね。その上に我執ですね。我執が覆って染汚しているのですね。この染汚性を発見したのが大乗仏教、とりわけ唯識行派だったのでしょう。

 

 親鸞聖人は『信巻』(真聖p225)に「仏意測り難し、しかりといえども竊かにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」

 という心の発見が、人間性を取り戻していく唯一無二の道程になり得ることを教えておいでになるものだと思います。この心が無覆無記なんでしょうね。

 次に補足説明が出されています。

 「此に由って如来の第八浄識は唯だ舊種(クシュ)のみを帯せり。新しく熏を受くるに非ず。」(『論』)

 「如来の第八の無漏の浄識は、唯だ因中に在って曾(むかし)熏習せし所の此の旧種(無漏種子)をのみ帯(身につけること)せり。新しく熏を受くるには非ず。唯だ善なるを以ての故に、(有漏)の善等に違すること沈香津の如きが故に。」(『述記』)

 有覆無記とは、無記性の上に善悪を立てて、善悪の種子を熏習させているのですが、如来の浄識は唯善であるので新しく熏習することはないということですね。新しく熏習することが無いということは仏の浄識は、自覚・覚他・覚行窮満という、自利利他円満されているということでしよう。ここにですね、如来において私たちの救済は成就しているということになりましょうね。

 以前にも書き込みましたが、先程の『信巻』の続きにですね、『大経』が引かれています。法蔵菩薩のご苦労ですね。何故ご苦労されているのか、旧種があるからですね。旧種をお忘れにならない。だから、どこまでもどこまでも私たちに寄り添って「設我得仏・・・不取正覚」という誓いを立てられているのでしょう。「然るに世人、薄俗にして共に不急の事を諍う」ことの意味を種子として持っておられる。曾習ですね。そこから大悲心が生み出されているのでしょう。浄識の中に私たちの悩みや苦しみを知っておられるから、「一切衆生と共に」という歩みが生きて働いているのでしょう。

 ですから、熏習という時には、無記性であるということが一つの条件になるということであると教えられているのですね。

 


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (37) 熏習論 (3) 所熏の四義

2014-04-28 21:26:54 | 『成唯識論』に学ぶ

 所熏の四義(経験の蓄積される場所を明らかにする) 

 (1) 堅住性(ケンジュウショウ)について

 「一には堅住性。若し法の始終一類に相続して能く習気を持す。乃ち是れ所熏なり。此は転識と及び声(ショウ)と風(フウ)等とは性堅住なら不が故に所熏に非ずと遮す。」(『論』)

 法の始終一類とは、無始より仏位に至るまで、一類相続にして能く種子を保持することを述べています。これが所熏の一つの意義である、と。

 一類相続は、変化しない、同じ性質が同じ状態で保持されていく。そのような場所が阿頼耶識であり、熏習される所として所熏という意味になり、一類が竪の義、相続が住の義になります。

 「一類の性に相続して断ぜず、能く習気を持するを乃ち是れ所熏なり。」(『述記』)

 一類相続だから習気を持することができるのですが、反対に一類に相続しないもの、断絶のあるものは竪住性といえないということになります。

 ですから、次に竪住性に於て何を遮断するのか、除外されるものを述べているのです。

 それは、転易のあるものですね、七転識と七転識の心所等を遮す。時と場合によって変化するものは所熏ではないと遮するわけです。第七末那識にも断絶がある。それは末那識が転識して無漏智が起りますと、有漏から無漏への断絶がある(漏と無漏との性一類に非ざるが故に)。及び聲と風とその他のもの(根と塵と法処の色等)は散乱麤動していますから、熏習をうけるものは一類相続のものでなければならないと定義しているのです。

 ここに一つ問題が提起され、経量部が説く色心互熏説を簡んでくるのです。

 「若し竪なるが故に可熏(熏習され得ること)なりと云はば、仏の本識は既に竪なり。是れ善等性なれども亦可熏と許すべし。此は経部の色心の可熏と云うことを簡ぶ。竪住ならざるが故に」(『述記』)

 経量部の色心互熏説を簡び、ただ第八識のみが所熏処であることを明らかにしているのです。問題は竪(一類相続)であるから可熏であると云うならば、仏の本識は元より竪である。しかし仏の本識は竪ではあるが無漏善性である。この無漏善性も可熏と認めるのか否か、という問題ですね。これに対して、次科段で答えられています。

 所熏の二つ目の意味ですね。無記性でなければならない、ということです。一類相続であって、そして無記性でなければ所熏とはいえないということを顕しています。   (つづく)

 

 


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (36) 熏習論 (2)

2014-04-26 11:36:45 | 『成唯識論』に学ぶ

 熏習論について学んでいますが、「熏とは發(ホツ)なり云々」の解釈をもう少し解説をしてくださいという要望がありましたので、私なりに少し考えさせていただきます。

 發とは一般的には、起こすこと、或は起こすこと、生じることを意味しますが、熏習論についての発には二つの意味があり、一つは開發(カイホツ)、(新熏種子を)初めて開きはっきりとさせることを熏という。もう一つは繫發(ケホツ)、繋は、つなぎとめること。本有種子であれば熏というという意味を持ち、本有種子をつなぎとめ生じることを熏という。

 無始以来、本有種子を心の中につなぎとめ相続し現行を生じて熏習していることが繫發という意味になり、現行から新たに生じてくる新熏種子を開發という言語でいい表しているのでしょう。

 「由」とは、所由(ショユウ)の義であって、いわれですね。理由です。「因と言うは即ち所由なる故に種子を謂う。」ということですが、ここは、能熏の七転識は種子を第八識に熏習し、種子は、種子生現行として、現行を生ずる本となることをいっています。

 「致」とは「いたす」ということ、ある状態に至ることを意味します。能熏の種子を第八識に植え付け熏習させる働きを「致」と表現しています。

 「近」は刹那滅のことを、近く現行の果を生ずる表現として用いられ、「數」は「しばしば」といわれていますように、數數熏習してとぃう意味になります。

 結論として

 「即ち(現行の)果を本識の内に発致し、種子をして生ぜしめ、近く生長せしむるが故に」(『述記』)と。

 能熏の働きが本識の内(所熏の義)に種子を発生(新熏種子)し、長養(本有種子)することをいい、能熏と所熏にそれぞれ四義を具備しなければならない、と説き明かしています。

 ここを以て、所熏(熏習される方)の四義について伺うことにします。          (つづく)


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (35) 熏習論 (1)

2014-04-24 22:11:56 | 『成唯識論』に学ぶ

 熏習とは何か。

 「何等の義に依ってか熏習の名を立つるや。所熏能熏各四義を具して種を生(ショウ)・長(ジョウ))せ令るが故に熏習と名く。」

 どのような理由から熏習という名を立てるのか。それは所熏と能熏に各々四義を備えて種子を生(新熏種子)・長(本有種子)するが故に熏習と名づけるのである。

 熏と云うのは、発(ホツ)、或は由致(ユチ)であり、習と云うのは、生であり、近(ゴン)でり、数(シュ)である。つまり種子の果を本識の中に発し致して、本識中に種子をして生じ近ならしめ生・長せしめるからである。
     一は所熏
     二は能熏
     三は種をして生・長せしめるが故に熏習と名づける。 

 この科段は種子の十門分別を説き終わって、新たに熏習の義を説明するところになります。

 種子の六義の最後に引自果の義が説かれていましたが、色は色という自己の種子を熏し、生じるときも同じ自己の色の種子から生じ、心は心ときう自己の種子を熏じ、生じるときも同じ自己の心の種子から生じる。けっして色から心が生じたり、心から色が生じるということはない。よって因果の道理に錯乱はないことを明かに説いていました。これを受けて、熏習に所熏の四つの性質と、能熏の四つの性質を明らかにしたのです。ようするに、熏習されるもの(所熏)と熏習するもの(能熏)とに分けて説明し、所熏になりえるものと、能熏になりえるものの特質を述べているのです。

 初めに所熏の四義が述べられます。

  •  竪住性(ケンジュウショウ)
  •  無記性(ムキショウ)               } 阿頼耶識
  •  可熏性(カクンショウ)
  •  能所和合性(能熏と共に和合する性) 

 後に能熏の四義が述べられます。

  •  有生滅(ウショウメツ)
  •  有勝用(ウショウユウ)              } 七転識
  •  有増減(ウゾウゲン)                 (現行)
  •  能所和合転(所熏と和合して転ず) 

 所熏の四義は『摂大乗論』にも説かれているのですが、能熏の四義は『成唯識論』独自の解釈になり、『摂論』を受けて『成論』が成立し、『成論』の背景に『摂論』があることがわかります。所熏の四義を備えたものが阿頼耶識なのですね。阿頼耶識を立てて初めて人間存在が立てられるのですが、これは唯識以前の仏教が六識で考えられていたと云う背景があります。それは意識の根拠、即ち意根の存在証明が不十分であるということなのです。眼識は眼根を所依とし、乃至身識は身根を所依とするわけですが、第六意識の所依は意根であるというわけです。意根は前滅の識を所依として成り立つと説明されるのですが、経験の積み重ね(種子)はどこに収まるのかの説明がつかないのです。無始以来の一切の経験が蓄積されている場所の説明ですね、表層の意識の奥深い所、深層に人間の非常に深い心があるのではないのかという眼差しが阿頼耶識を見出してきたのですね。そして阿頼耶識が阿頼耶識と名づけられるのは一切種においてであり、阿頼耶識はまた一切種識と呼ばれる所以なのですね。

 無始以来(曠劫以来といってもいいでしょう)の一切の経験の蓄積されている場所はどこにあるのか。これが所熏の四義になります。六識が六識が成り立っているのではなく、六識の行為を残し、蓄積していく場所があって、はじめて六識が生きて働いているのであることを明らかにしてきたのが大乗仏教であり、とりわけ唯識仏教であるわけです。

 概略はこれくらいにして、本論に入っていきたいと思います。        (つづく) 


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (34) 種子の六義 まとめ

2014-04-23 22:16:08 | 『成唯識論』に学ぶ

 上来、種子の六義をみてきましたが、まとめてみますと、一から三は、種子の義を述べてそれに違するものを遮し、以下四から六は余部の義の執を簡んで説かれています。そしてこの六つの条件を満たすものが種子であることを説いているのです。

  •  (1) 刹那滅 - 常法を遮す。
  •  (2) 果倶有 - 前後と定離とを遮す。
  •  (3) 恒随転 - 転識を遮す。
  •  (4) 性決定 - 余部の異性の因が異性の果を生ずるのを遮す。
  •  (5) 待衆縁 - 余部の(a)自然因と(b)三世実有論を遮す。
  •  (6) 引自果 - 余部の(a)一因説と(b)色心等も互いに縁と為る主張を遮す。

 結論が『論』には「唯本識の中の功能差別のみ、斯の六の義を具するを以て種と成る。余には非ず。」と説いています。

 阿頼耶識の中の功能差別のみがこの六の義を備えている。これが種子であるということになります。ここは、阿頼耶識があって、阿頼耶識の中に種子が詰まっているということではなく、功能(能力)差別(さまざまな種子の区別)が阿頼耶識を形成していることになろうかと思います。

 「上の転識等は種と名づくる義に非ざることを簡ぶ。此の中に別に上の六義を解するに、中には唯内種のみ具に六義有りと言う。」(『述記』)

 ここにまた一つ問いが出されています。内種と外種の問題です。『摂大乗論』には外種にも六義が見出されると説かれているが、外の穀麥種(コクミャクシュウ)を種子と名けるのか、名けないのかというものですが、これらの外種は識所変(第八識が変現したもの)であり、現行の法、果である。仮に種子と名けることがあっても、実の種子ではない、ということになります。

 『論』には、内種と外種について説かれていますが、内種は因縁性であり、外種は増上縁である。因縁性は能生の果であるが、増上縁は所生の果であると説き明かしています。

 次に熏習について説かれます。所熏と能熏の四義を具して種をして生長することが熏習であると云われます。一切の経験が阿頼耶識の中に熏習されるといいますが、経験の蓄積の構造を熏習は明らかにしているのですね。経験を積み重ねることに於いて身心共に深まっていくと云うこともありましょうし、また逆にですね、悪を重ねることに於て粗暴というか凶悪になっていくということもありましょう。どちらも自分が養われていくことになりますね、この構造を熏習は教えてくれます。ややこしい所ですが、ゆっくり読んでいきます。     (つづく)

 昨日引用しました帖外和讃九首を掲載しておきます。

 帖外和讃 この九首和讃は京都常楽台の宝庫より発見され、古来、親鸞聖人の真作であろうといわれている。

  • 四十八願成就して  正覚の弥陀となりたまふ  たのみをかけしひとはみな  往生かならずさだまりぬ。
  • 極楽無為の報土には  雑行むまるゝことかたし  如来要法をえらんでは  専修の行ををしへしむ。
  • 兆載永劫の修行は  阿弥陀の三字にをさまれり  五劫思惟の名号は  五濁のわれらに付属せり。
  • 阿弥陀如来の三業は  念仏行者の三業と  彼此金剛の心なれば  定聚のくらゐにさだまりぬ。
  • 多聞浄戒えらばれず  破戒罪業きらはれず  たゞよく念ずるひとのみぞ  瓦礫も金と変じける。
  • 金剛堅固の信心は  仏の相続よりおこる  他力の方便なくしては  いかでか決定心をえん。
  • 大願海のうちには  煩悩のなみこそなかりけれ  弘誓のふねにのりぬれば  大悲の風にまかせたり。
  • 超世の悲願きゝしより  われらは生死の凡夫かは  有漏の穢身はかはらねど  こゝろは浄土にあそぶなり。
  • 六八の弘誓のそのなかに  第三十五の願に  弥陀はことに女人を  引接せんとちかひしか。 

阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (33) 種子の六義 (11) 引自果

2014-04-22 23:21:40 | 『成唯識論』に学ぶ

 種子の六義 その第六 - 引自果(インジカ) -

 「六(ムツ)に引自果、謂く別別の色・心等の果に於て各々引生(オノオノインジョウ)するが方(マサ)に種子と成る。此は外道の唯一因一切の果を生ずと執するを遮し、或は余部の色心等互に因縁と為ると執するを遮す。」

 引自果とは「別別の色・心等の果に於て各々引生するが方に種子と成る。」ことであり、これは外道の考え方、或は部派の考え方を否定して、正義を顕す為めに、種子は一因論でもなく、色法と心法との間に因果を考えることも誤りであると破斥しています。

 つまりですね、色は色、心は心でつながって相続しているのであって、混乱はしない。色は色の種子であり、心は心の種子であることを明らかにしています。ここは非常に厳密ですね。私たちの普通の考え方からしますと、身が病むと、心も病んできます。気というか、心ですね、落ち込みますね。しかし、唯識は、身は身の問題、心は心の問題であるとはっきり区別をしています。

             超世の悲願きゝしより
            われらは生死の凡夫かは
            有漏(うろ)の穢身(えしん)はかはらねど
            こゝろは浄土にあそぶなり

                        (帖外和讃)

 なんか、グサッときますね。横道にそれますが、新興宗教の折伏を考えて見たらよくわかります。先ず、病気治癒と貧苦からの解放が謳い文句ですね。それによって心が豊かになり、幸せになるという説得の仕方です。病気とか貧苦を冬に喩え、唱題を縁として「冬はやがて春になる」、春は幸福ということでしょう。この説得力にみんな参ってしまうのですね。病気が治癒し、貧苦から解放されたら幸せになりますよ。共に題目を唱えて病気と戦い、貧苦と戦いましょう、そして勝利しませんか、ということですね。

 このような考え方は、「善の色を以て四蘊に望めて因と為し、四を色蘊に望めて亦因と為すことを得と云う」(『述記』)ということであり、「此れ即ち然らず、唯自果を引いて因果随順せり」何故ならば、「功能同じなるが故に、名づけて因縁と為す。」

 余部(諸部派)の説ですけれども、熏習種子を五蘊の範囲内で考えているのです。ですから混乱を起こすのですね。色法が心法を熏習したり、心法と色法の間に因果関係を考えているのです。

 熏習種子は、「本識の中に親しく自果を生ずる功能差別」と教えられていましたが、功能差別が「別別の色・心等の果に於て各々引生」するということなのでしょう。余部を簡びつつ、種子とは如何なるものか明らかにしているのですね。

 「善等の色の種、善等の心の果を生ずべきに非ず」、色は色から生じ、意識は意識から生ずるのであって、色から心を生ずることはなく、色が心の因にはならないということなのです。

 前後していますが、もう一つの考え方は、一因論です。神の存在ですね。神からすべての現象が生れてくると云う、一因からすべての果を生ずるという考え方ですね。このような考えかたと区別をしているのです。『述記』には大自在天を一因として一切の果を生ず、と説明しています。このような考え方は縁起の否定ですね。仏教は縁起を説きますからね、唯識でも衆縁といっていました。さまざまな縁によって物事は生起するんだ、と。私が生きているということも、衆縁によって生かされているということですね。

 「唯本識の中の功能差別のみ、斯の六義を具するを以て種と成る、余には非ず。」


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (32) 種子の六義 (10) 待衆縁

2014-04-20 17:23:12 | 『成唯識論』に学ぶ

 待衆縁(タイシュエン) その(2)

 「一切は 縁において生まれ 縁においてあり 縁において去っていく」(宮城 顗)

 種子は衆縁を待って現行し、衆縁において熏習される、種子生現行・現行熏種子が成立つのは、待衆縁に依る。非常に大事なことを教えています。これが聞熏習につながってくるのですね。聞が縁となる、ということです。教法が生きて働いてくる時に縁となるのが聞なのですね。聞なくしては、教法は現実には働いてこないのです。法性は法性のままでとどまるのです。理として有る、空の論理も理としてあるわけです、無為真如としてですね。無為真如が現実に生きて働くには縁が不可欠であると、待衆縁は教えています。

 安田先生は、「異熟の因果は等流に対していうが、等流は諸法の因果であり、異熟因果は業に関する因果である。業は諸法の一つであるが、独特の意義をもつ。これは諸法の運命を決定する意義をもつ。存在それ自身を与えるのは等流因果であるが、業は存在の境遇を規定する。我の存在は五蘊であるが、五蘊の境遇を規定する。五蘊はいつでも、だれでも・どこでもありうるが、それを決定するものは業である。等流は諸法の因縁であるが、異熟因は増上縁である。歴史の世界は等流の因果だけでは解明できぬ。本質性だけは分かるが本質だけでは現実はない。本質から現実は演繹できぬ。本質を離れて現実は成り立たぬが、本質は永遠に本質にとどまる。そこに本質にとって偶然的なものが関係する。偶然がただ偶然でなく本質的必然に関係する、それを縁という。それが本質的必然が現実となるための不可欠の条件である。」(『選集』第二巻。p131)と教えて下さっています。

 「此は外道の自然因衆縁(ジネンインシュエン)を待たずして恒に頓に果を生ずと執するを遮し、或は余部の縁恒に無に非ずと云うを遮して、所待(ショタイ)の縁は恒に性有るに非ずと云うことを顕す。故に種は果に於て恒に頓に生ずるに非ず。」

 まとめてみますと、第四の性決定をうけているのですが、種子は性決定して、第三の恒相続ですね、既に恒相続であるから、果もまた頓に生ずるであろう、というのが自然外道の論理なのです。恒相続であり、性決定であろうともですね、刹那滅であるというとですね。刹那生滅であるが、衆縁が和合しなければ、現行の諸果を生ずることはできないと教えています。それが待衆縁である、と。衆縁を待たずしては現行は生じえないのであり、自然因が恒時に果を生ずるという説を遮すわけです。自然外道の「不待衆縁恒頓生果」の説と、余部の「三世実有法体恒有」の説を否定しています。

 次は、第六の引自果(インジカ)になりますが、次回にします。


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (31) 種子の六義 (9) 待衆縁

2014-04-19 23:26:30 | 『成唯識論』に学ぶ

 待衆縁(タイシュエン)

 「五には待衆縁、謂く此は要ず自の衆縁の合(ガッ)するを待(マチ)て。功能殊勝(クウノウシュショウ)なるが方(マサ)に種子(シュウジ)と成る。」

 さまざまな縁が合することを待って現行する。因が果に成るためには縁を待つわけですね。縁生です。縁によって生じてきます。縁は一つではありませんから、衆縁を待つ、と云われています。衆縁を待って現行し、現行したものは種子として蓄積されていくわけです。種子が現行する為には、衆縁を待たなければならないのですが、現行しているということは種子が縁に触れて顕れているのでしょう、それが待衆縁であり、種子である、ということなのですね。

 「謂く、自らの種子なれども要ず衆縁和合せるを待って、種子転変して現行等の諸果を起取す。作用功能殊勝なるが方に種子を成ず、故に種の自類の因縁合するに非ざるをば種子と名づけず。」(『述記』)

 ここも、外道の主張に対する答えになるわけです。先に何を遮すのか、何が遮されるのかを伺います。

 「此は外道の自然因衆縁(ジネンインシュエン)を待たずして恒に頓(トン)に果を生ずと執するを遮し、或は、余部の縁恒に無に非ずと云うを遮して、所待(ショタイ)の縁は恒に性有るに非ずと云うことを顕す。故に種は果に於て頓に生ずるに非ず。」

 遮するものに二つあると出されています。一つは、自然因。自然外道の主張になります。衆縁を待たないで、自然に生じてくるという、因縁生を否定した論理です。縁の否定の上に構築された自然因を肯定しています。 
 もう一つは、「三世実有、法体恒有」という考え方ですね。説一切有部の主張になりますが、法体は恒有であるから三世に実有である、という考え方です。そうしますと、縁はいつでもあるという主張になります。縁を待たなくても、縁は満ち満ちているという考え方を遮すわけです。因果の道理は縁を待つ、縁を待って現行という果を生じてくるわけですが、縁は恒有であるならば、諸法は一時に現行しなければならないという頓生になるわけですが、現実には現行は縁を待つということなのです。例えば、見る・聞くということもですね、縁を待って生じてきているわけです。縁を待つということは自我意識を超えていることなのですね。私たちは現実解釈を自我意識の上に立てますが、この考え方は自然外道と同じ論理なのです。

 縁を待つということはとても大事な事柄ですね。聞熏習ということを言ってきているわけですが、有漏から無漏へという転依は法を聞くことから始まるのです。法を聞くことが熏習されて種子として蓄積されると教えられていました。この種子が縁となるということですね。縁がどっかから無因で飛び込んでくることは有りません。私たちは迷いの境涯に生み出されてきたわけですが、そこには深い願いが隠されているのでしょう。願生という願いですね。迷いを超えるということはどのようなことなのでしょう。もう少し考えてみたいと思います。


阿頼耶識の三相門について・ 因相門 (30) 種子の六義 (8)

2014-04-18 23:11:22 | 『成唯識論』に学ぶ

 因相を、本頌では「一切種」といっていますが、『成唯識論』では「此れ(阿頼耶識)は能く諸法の種子を執持して失せざらしむるが故に一切種と名づく」と釈されています。定義としては、執持は摂するということ、「摂して自体と為して、持して、不壊ならしむ」という。

 阿頼耶識の中に蓄えられた種子は、一切種という、すべてですから、無始以来の過去を背負っているのですね。命は過去を背負って現行し、熏習される。熏習は種子となり現行しますから、熏習の面からは、永遠の未来をはらんでいるといえましょう。

 「種子ヨリ生ジテ種子ヲ熏ズ。」
 (存在するものは、阿頼耶識の中の種子より生じ、生じたものは、また阿頼耶識の中に種子を熏習する。)

 「熏ズト申ハ己ガ気分ヲ留メテ置ナリ。」
 (熏習とは、自己の気分を留め置くことである。)

 熏習とは、表層的な七転識が阿頼耶識に種子を植え付けること(阿頼耶識から言えば、受熏)で、新熏種子という。

              熏習されるもの(所熏)
      熏習   {

              熏習するもの(能熏)

 「凡有為ノ諸法ハ皆ナ刹那刹那ニ生滅ス。刹那ト申ハ、時ノ至リテ短キ也。」

 刹那生滅生は「スグルハ即滅スルナリ、是ヲ過去ト名付ク。来ルハ生ズル也。是ヲ現在ト名付ク。イマダ来ラザル後後ヲバ未来トナ付ク。」と説明され、八識においては、「心ノ中ニ末那・頼耶ハタヘズ生ズ。意識ハウチマカセテハ絶ヘズ、希(マレ)ニ起ラザル時モアリ。五識ハ滅シテ軈(ヤガ)テ起ル事希レナリ。時々ハサル事モアリ。」

 種子から現行に至る過程には「縁」が介在する。阿頼耶識の中にある種子から一切の事象が生じてくるわけですが、現行してくる背景には数多くの縁が重層的に働いているのですね、それが、種子の六義においては、待衆縁において詳しく説き明かされているわけです。

 前回までに、刹那滅・果倶有・恒随転について説明してきましたが、今回からは、後の三義である、性決定・待衆縁・引自果について考えていくことにします。

 第四番目は性決定について述べられます。

 「謂く因力に随って善悪等を生ずる。功能が決定せるが方に種子と成る。」

 因力とは、自分が溜めた力をいいます。因力に随って善悪等を生ずる、と説明されます。生ずることが決定されているんだ、と。善の因は善として、悪の因は悪として、阿頼耶識の中に種子として溜められる。此の方程式が恒相続されていくのです。これが因縁なのですね。「親しく自果を生ずる功能差別」と云われている所以です。

 これは、前に熏習した時の現行の因の力に随って、善悪等を生起するは決定していることを表しています。因と果は雑乱しないということです。

 「此は、余部の異性の因、異性の果を生ずるに因縁の義有りと執するを遮す。」

 余部は、有部等の諸部派を指しています。異性の因からは異性の果を生ずることはない。即ち、異性の因が異性の果を生ずるのを遮しているのですね。異とは異熟のことですが、異熟果は、因善悪果是無記と押さえられています。しかし部派の学説によりますと、因善悪果是無記が因縁だと、異性の因が異性の果を生ずるのは因縁であると主張しているのですが、唯識は、そうは云わないのですね、厳密です。それは増上縁だと。果無記ですから、因縁ではないのです。善悪業の果は無記であるというのは増上縁であるということですが、ここにも深い問題が隠されていますね。無記の上に瞬時に善悪業が色づけされていくのですね。しかし果は無記である、と。

 自分の業果が今の自分を造り出してきたというのは疑いのない所でありますが、この果はどのような方向にも向いているのですね。善業は善業として相続し、悪業は悪業として相続していくのですが、果は無記である。純粋経験として、ここに転依という世界が開かれてくるのでしょう。善悪業の因を引き受けている今に、善悪業を引き受けた所から、浄土への道が開かれてくるものであると思います。

 具体的には、家庭の問題を考えて見ますと、どうしても愚痴が出ますね。自分は一生懸命にやっているが認めてもらえない。どうにも面白くない、ということが日常茶飯事に起こってきます。しかし、この行為が自分を作りだしているのですね。ここに二つの方向性が見いだせます。一つは愚痴をいって他を責めつづけるのか、もう一つは愚痴を縁として、今の環境を作りだしてきたのは自分であるということ。逆境を縁として自己を問うことが、反って外界を増上縁として礼拝・讃嘆の世界が開かれてくるのでしょう。

 私をないがしろにしているのは私である。そんな貴方に出遇ってくださいと、すべては私の為の計らいであった。自尊心を傷つけられて怒りが立つのは当然のことでしょう。しかし、そこには深い意味があるんでしょう。頑なな心が崩壊する音を聞くんですね。どこまでも、どこまでも手を合わせられない自分に出遇っていることが大切なことだと思います。Mさん、どうかMさんがMさんに出遇っていける御縁を大切に、自分に出遇っていく御縁をいただいているんですね。肩の力を抜いてすべてを引き受けている身に出遇ってください。  合掌