唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (8) 頌曰 (2)

2015-05-31 14:45:44 | 第三能変 随煩悩の心所
  随煩悩の三種類
 「論。曰至名隨煩惱 述曰。長行爲二。初釋體・業等相。後諸門釋。初門有六。初釋得名。二束爲三位。三釋體・業。四解頌中與・并・及字。五解隨名之通局。六解廢立 釋頌之中隨煩惱字。謂忿等十・及忘念・不正知・放逸餘假染心所。是貪等法根本麁行差別分位名隨煩惱。無慚・無愧・掉擧・惛沈・散亂・不信・懈怠七法。雖別有體。是前根本之等流性名隨煩惱。由根本爲因此得有故。此據正義。又説唯四是實 言等流者。謂同類義。勢非強勝 。然非因故。不名根本。不能生餘染心所等。或等流者是等流果 若爾即根本後方生非倶時義 此説同時爲等流果。六十二二解。一云隨惱於心。二隨煩惱而生。今同後義。」(『述記』大正43・457b~c)
 今日は「頌の中に随煩悩の字を釈す」以下の『述記』の所論を伺います。
 「謂く忿等の十はと及び忘念と不正知と放逸との、余の仮の染の心所は、是れ貪等の法の根本の麤なる行の差別の分位なり。随煩悩と名づく。」
 随煩悩の二十の心所の分位差別と等流性は、昨日図で以て示しました通りです。
 忿等の十の小随煩悩と大随煩悩の中の放逸と失念と不正知との十三は、貪等の根本煩悩の麤なる行の分位の差別であると説明しています。尚、何故三位をもって随煩悩と名づくのかという問いに対しましては、次科段で説明されますので、本科段では省略します。
 「無慚・無愧・掉擧・惛沈・散亂・不信・懈怠の七法は、別に体有りと雖も、是は前の根本の等流性なり、随煩悩と名づく。根本を因と為す由って此(随煩悩)は有ることを得るが故に。此は正義に據る。又唯だ四(無慚・無愧・不信・懈怠)のみ是れ実なり。」
 随煩悩は、「根本の等流性なり」と云われていますから、根本煩悩の等流であることが解ります。等流とは同類の意味なのです。等流性の条件なのですが、随煩悩個別の体を持つものであるということでなければなりません。しかし、「根本を因と為す由って此(随煩悩)は有ることを得るが故に」と云われていますように、単独で生起するものではなく、必ず煩悩を因として(煩悩を依り所として)生起するということに他なりません。
 分位仮立法に由る随煩悩 ― 十三
 等流性に由る随煩悩(実法) ― 七
という二つの理由で随煩悩と名づけられています。「煩悩に随って生ず」と云われていますのが正義になります。

 仮法と実法について
 実法は、因縁所生の法で、因と縁とによって生じた存在で、五識で認識されたもの。量でいえば現量になります。そこに概念的思考で捉えられたものを仮法と云われます。直接経験が実法であり、思いが加わったものが仮法といえる。言葉に由って認識された存在を云う。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (7) 結前生後 頌曰 (1)

2015-05-30 15:28:58 | 第三能変 随煩悩の心所
 「煩悩の分位差別・等流性なるが故に随煩悩と名づく」   
 前を結んで後を生ず。
 十煩悩の諸門分別が已わりまして、十煩悩に付随して起こってくる煩悩について説かれてまいります。
 「已に根本の六の煩悩の相をば説きつ。諸の随煩悩の其の相云何。」(『論』第六・二十三右)
 第三能変に入りまして、六位の心所の中、遍行・別境・善・煩悩が説かれまして、本科段から『論』巻第六の末尾に至るまで、随煩悩が説明されます。概略でも示しておりますが、随煩悩は三種類に分けて説明されます。大・中・小の三種類ですね。これが『頌』によって明らかにされます。
 「頌に曰く 随煩悩と云うは、謂く忿(フン)と恨(コン)と覆(フク)と悩(ノウ)と嫉(シツ)と慳)(ケン)と、誑(オウ)と諂(テン)と害(ガイ)と憍(キョウ)と、無慚(ムザン)と及び無愧(ムキ)と、掉挙(ジョウコ)と惛沈(コンジン)と、不信(フヒン)と並びに懈怠(ケダイと、放逸(ホウイツ)と及び失念(シツネン)と、散乱(サンラン)と不正知(フショウチ)となり。」(『論』第六・二十三右))
 随煩悩には、二十の心所が数えられます。本頌には随煩悩の種類のみが挙げられていますが、大・中・小の随煩悩を分けて説明するのは、ひとえに護法菩薩の功績になります。
   六位の心所を図式で示しますと、
 遍行 ― 作意 ・触 ・受 ・ 想 ・思
別境 ― 欲 ・勝解 ・念 ・定 ・慧
善 ― 信 ・慚 ・愧 ・無貪 ・無瞋 ・無癡 ・勤(精進)・安 (軽安)・不放逸 ・行捨 ・不害
煩悩 ― 貪 ・ 瞋 ・ 癡 ・慢 ・疑 ・悪見
随煩悩  
  小随煩悩 ― 忿 ・恨 ・覆 ・悩 ・嫉 ・慳 ・誑 ・諂 ・害 ・憍
  中随煩悩 ― 無慚 ・無愧
大随煩悩 ― 掉挙 ・惛沈 ・不信 ・懈怠 ・放逸 ・失念 ・散乱 ・不正知
不定 ― 悔 ・眠 (睡眠)・尋 ・伺
となります。
次に、随煩悩とはどういうものなのかが説明されます。(第四段・第五の位を明らかにする。)
 「論に曰く、唯だ是は煩悩の分位差別なり。等流性なるが故に随煩悩と名づく。」(『論』第六・二十三右) 論に説かれる。ただ是れ(随煩悩)は、煩悩の分位の差別である。随煩悩は煩悩の等流生である為に随煩悩と名づけられるのである。
 本科段は、煩悩の分位の差別を明らかにしています。具体的に色々な形を持って現れてくる、根本煩悩の区別されたいろいろな面、忿であるとか、恨であるとか、覆であるとかですね。縁によって時と共に区別される煩悩の形を分位差別として、等流性である。つまり性質を変えないで斉しく流れ出てくるものという、分位差別と、等流性という二面をもって、煩悩に附随しながら具体的に働いてくる煩悩を随煩悩と呼ぶんだ、ということになるのでしょう。
         分位の差別(分位仮立法)
  随煩悩 {
         等流性
 「述して曰く。長行に於て二と為す。初に体と業との等き相を釈す。後に諸門を以て釈す。初門に六有り、初に得名(随煩悩の名の由来)を釈し、二に束ねて三位(三種類)と為す。三に体と業とを釈す。四に頌の中の「与」「並」びに「及」の字を解す。五に随の名の通局(ツウキョク)を解す。六に廃立を解す。」(『述記』)
 長行(ジョウゴウ)について二つに分かれて説かれ、随煩悩の心所の性と業について説明される部分と、諸門分別を以て、諸門から随煩悩の心所を分析し、説明される部分とに分けられる、ということです。その初が六つに分けられて説明されてくるわけです。
 本科段はその初になります。 
 

第三能変 第四 随煩悩の心所について (6) 概略 (6) 大随煩悩 (3)

2015-05-28 21:55:03 | 第三能変 随煩悩の心所
 
 散乱(落ち着きのない心)
 「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(ルトウ―ほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す」といわれます。失念は意識の対象に於いて不能明記であると、記憶できずに正念を障えてしまうと言われていましたが、散乱は正念をもてないことから意識の対象に於いて心が散乱するのです。散乱した心をほったらかしにして正定を障えるのです。正定を障えることに於いて悪の知恵の依処となるのですね。仏陀の最後の説法は「自を灯とし、他を灯とすることなかれ。法を灯とし、他を灯とすることなかれ。」自灯明・法灯明と遺言されました。法に由って明らかにされた自己を灯として人生に立ち向かうのが善の方向だと思います。それに反し自我中心に人生を考えるあり方が悪の方向になるのではないでしょうか。正念を障えて失念し、失念することに於いて散乱を招き正定を障えるのですが、そのことにより悪の知恵の依り処となるといわれるのです。
 流蕩とは「流は馳流(チル)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」といわれます。
 心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はとろける・とろかすという意味があります。水がゆらゆら揺れ動く様子を言い、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱は、あまたの事に心の兎角(とかく)うつりてみだれたるなり」(『ニ巻抄』)
 「散乱は別に自体有り。三の分と説けるは。是れ彼の等流なればなり。無慚等の如し。即ち彼に摂むるに非ず。他の相に随って説いて世俗有と名づけたり。」と、散乱と云う煩悩は独立して有ると言われます。三の分とは貪・瞋・癡の事ですが、この中に「散乱は有る」という説を退けるのです。「別に自体有り」と。 散乱の別相については、「散乱の別相とは。謂く躁擾(そうにょうー心が落ち着かない、心を落ち着かせない事)なり。」(「躁とは散を謂う。擾とは乱を謂う。倶生の法をして流蕩ならしむ」)軽躁という言葉がありますね。こころが落ち着かずそわそわしているのです。あるいは軽佻浮薄(けいちょうふはくー心がうわついて軽薄であるという意ー軽佻の佻は跳ね上がりで落ち着かない意)ともいわれます。散乱と云う心は独立して働いていると言われているのです。
 正念を障え、正定を障えることが失念や散乱をもたらすと言われていることを述べました。親鸞聖人は正念・正定をどのように捉えられているのでしょうか。『教行信証』行巻に、
 「いま弥勒付嘱の一念はすなわちこれ一声なり、一声すなわちこれ一念なり、一念すなわちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行なり、正行すなわちこれ正業なり、正業すなわちこれ正念なり、正念すなわちこれ念仏なり、すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。
 しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに衆禍の波転ず。すなわち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり。知るべし、と。『選択本願念仏集』源空集に云わく、南無阿弥陀仏往生の業は念仏を本とす、と。
 また云わく、それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らすべし。正定の業とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生まるることを得、仏の本願に依るがゆえに、と。已上」(真聖P189・192)
 正念・正定を仏の本願の内容とされています。「凡・聖自力の行にあらず。かるがゆえに不回向の行と名づくるなり。」と、 行の仏教から信の仏教へ質の転換をはかられました。この質の転換は「普く諸の衆生と共に」という万人に開かれた仏教への選びでもあったのです。このことを念頭に於いて今少し散乱と云う煩悩を考えていきます。
 「掉挙と散乱とのニの用何ぞ別なる」とひとつの問いをだされます。掉挙と散乱どう違うのかということです。答えは「彼は(掉挙)は解を易(か)えしめ。此れは(散乱)縁のみを易えしむ。解は理解する、考えるということですね。心がふらついて、理解したり、考えたりができない状態を掉挙というのですが、散乱は縁が変わる、心の捉える対象が一定しなく次から次へ変わって落ち着かないのです。次に「う~ん」という説明がでています。瞬間だけをみると変わらないが、一定の時間の中でみると落ち着きがないというのです。「一刹那には解と縁と易わること無しと雖も、而も相続するに於いて易わる義有るが故に」と。そうですね。この瞬間では変わることは無いですね。それが連続しないですよ。瞬時瞬時に心は変異していますからね。
 散乱とは、その性は心が散漫にして、きちんとしていないということです。正定を障へて不正見を起こすのです。掉挙(ジョウコ)と散乱との用の違いは「掉挙は心を挙す境はこれ一なりと雖も、倶生の心・心所の解をして縷縷転易せしむ。即ち一境に多解するなり。散乱の功は心をして別の境を縁ずることを易へしむ。即ち一心を多境に易へしむるなり。」(『述記』)と。私は「今」を考える上で大切な指摘をいただいていると思うのです。ただ単に「今」は不連続のとぎれた「今」になりますでしょう。今を大切にと云った時、瞬時を大切にすることが、つながりを大切にしているのかという問題が残ります。ですから今は「永遠の今」でなければなりません。今だけという今は縁に由って対象が変わりますから落ちつきがありません。間断しています。本当に「今」といういことは「無間断」でしょうね。散乱は「相続するに於いて易わる義有るが故に」といわれることには故あるかな、ということだと思うのですが。
 「染汚心の時には掉と乱との力に由って、常に念念に解を易え縁を易えしむべし。或いは念等の力に由って制伏(セイブク)せらるること 猨猴(エンコウ)を繋ぐが如く暫時住せること有るが故に掉と乱とは倶に染心に遍ず。」
 染汚心は末那識ですね。不善と有覆無記です。この心には掉挙と散乱との両方の力に由り、瞬時瞬時に解を変易し、縁を変易するのです。心が寂静でない状態では静かにものを考えるということはできないですね。また心が写り変わりますと落ち着かないでしょう。 猨猴(エンコウ)は猿です。大きな猿と、手長猿ですね。何を言っているのかといいますと、人の心は猿のようで、そわそわして落ち着きがないと。心が回転し動揺することを喩えて用いられています。「繋ぐが如く」正念・正定・正見等の力に由って制するのですが、その間、暫らくは掉挙と散乱の状態が続くのであって、それは染心であり、煩悩だと云っているのです。掉挙は定心という禅定において心が落ち着かないという状態ですが、散乱は日常的に起こる何事にも集中できない状態をいうのでしょうか。僕は家に居てですね。何かに集中しようとすると、これがですね、今まで何も思っていないことが次から次へと思いだして落ち着かないのです。右往左往しています。
 「染汚と云うは、不善と有覆となり。不善と云うは悪なり。有覆と云うは、悪までは無けれ共、濁れる心なり。此のニの性は皆な穢らわしき心あるが故に染汚性の法となづく。」
 不正知(誤って知る心)
 「不正知は、しるべき事をあやまちて知る心なり。」(『ニ巻抄』)境に於いて誤解を起こさせる心所なのです。正しく知るという事は智慧ですね。それに対し不正知は間違って知る心です。
 「云何なるか不正知。所観の境に於いて謬解(みょうげー誤った理解)するを以って性と為し。能く正知を障えて毀犯(きぼんーそこなうこと)するを以って業と為す。謂く不正知の者は、毀犯する所多きが故に。」(『論』)
 対象に於いて謬(ビュウ)は誤る、誤解することですね。解は理解、了解で、謬解は誤った了解ということになります。それが不正知の性格であると云われています。此の事に由り、正知という、はっきりと心にとめていることを妨げ、そこなうことが行為となって現れるのですね。『成唯識論』宗前敬叙分の造論の意趣に「迷・謬」とありました。迷は無明・縁起の理や真如の理に昏いのですが、謬は厄介ですね。知っているのですが疑っているのです。疑惑です。仏智疑惑という謗法です。知ったかぶりの仏教ということがありますね。知っているのですが間違って理解をしているのです。その誤った理解が正知を邪魔をする不正知です。
 1. 不正知は慧の一分に摂める。2. 不正知は癡の一分に摂める。3. 不正知は倶の一分に摂める。(慧と癡の両方の働きによるとする説)
 我執によって空・無我の理が覆われ、正しく簡び分けられないのです。第一説の慧の一分ということですが、慧は正しく分別するということですね。簡択の義といわれていました。不正知には慧という心所が働いているといわれているのです。しかし間違って働いているという事が厄介なのです。それが無知という無明煩悩と共に働いてくるのが不正知なのです。これもまた「染心に遍ず」といわれ、「散乱」と同じく悪と有覆無記の心です。
 境に迷って闇鈍に非ざるなり。但だ是れ錯謬して邪に解するを不正知と名づく。不正知、多く業を発し。多く悪の身語業を起こして、多く惑を犯す。」(『述記』) 間違った理解は、間違った行為を起こし、間違った身・口・意の三業を起こして多くの惑、迷いを生み出してくるのですね。惑染の凡夫といいあてられています私ですが、何が惑染かといいますと、はっきりと不正知であると、唯識無境といいますが、境に迷っているのではないですね。自己の執着が錯謬させているのです。自己の利益が優先されますから道理に反し邪に理解をしますから惑をもたらして来るのでしょう。
 ここまでが大随煩悩の説明になります。概略を示しましたので、個別にみていきたいと思います。 

第三能変 第四 随煩悩の心所について (5) 概略 (5) 大随煩悩 (2)

2015-05-28 21:39:43 | 第三能変 随煩悩の心所
 現象学的還元
  今日は大随惑の「不信並びに懈怠と放逸及び失念」についての概説をさせていただきます。
 大随惑 不信 不信とは仏法を信じない心です。真実に触れたくない心と言い換えてもいいのではないでしょうか。縁起の道理を信じないという事ですから、自分の思いを信ずる心ということになりますでしょうか。仏法の門は「信を以って能入と為し、慧を以って能度と為す」(『大智度論』)といわれますように「信」が大切なキーワードになります。すこし戻りますが「信」とは「実・徳・能に於いて深く忍じ楽し欲して心を浄ならしむを以って性と為す。」といわれますね。「一に実有を信ずる」(「一切法の若しは事・若しは理に於いて信忍する皆是なり」)実有ということは『演秘』には「因果の体・四諦の事」といっています。四諦の真理、因果の理を信じるという事ですね。今私がここに存在するという事は事実ですね、それは縁起の理にかなっているわけです。事実の中に真理があるのです。事と理は離れては無いという事ですね。事と理を深く信忍することが「信」のないようになるのです。「忍」は認識するということになります。ニは「有徳を信ずる」(「三宝の真浄の徳の中に於いて深く信楽する故に」)三宝の徳を信じ尊ぶということです。三は「有能を信ずる」(「一切の世と出世の善の於いて、深く力有れば能得・能成なることを信じて希望(けもう)を起こすが故に」)自分にも善を修する力が有ると信じ、その力を得ようと希望を起こすことになります。希望とは欲ですね。清浄意欲です。そしてこの三が心を清浄にするのです。ですから随煩悩でいわれる不信は信を崩壊する働きを持ちますね。不信は自己中心的に考えますから全ては疑いからはじまります。人間関係も砂上の楼閣です。自分の都合に合わせて聳え立っているだけですね。「信」は浄・「不信」は染汚です。不信は「実・徳・能」を信じないということになり、心を穢すことになるのです。「能く浄信を障えて惰の依たるを以って業と為す」と。怠惰が所依となるのです。「不信の者は懈怠多きが故に」といわれています。懈怠や怠惰の心の状態は自分の中だけにとどまらないのですね。「自相渾濁にして、復た能く余の心・心所をも渾濁すること極めて穢れたる物の自らも穢れ他をも穢すが如し」といわれますように、自分の穢れが他をも穢していくことになるのですね。これは自分の浄がまた他をも浄にしていく働きを持つという事をいわんとしているのですね。如何に自分の振る舞いが大切であるのかが教えられています。
 「正信偈」には「信」について、親鸞聖人は語られています。即ち「往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり」と。また「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり。」と示してくださいました。「諸行無常・諸法無我」という因果の道理を信ずるということは、他力に由るのですね。曖昧さがないのです。自分の中からは信心は生み出されないという確信ですね。その確信がなかったなら疑いしかでてこないということです。その疑いが迷妄の根源になり生死に振り回されることになるのでしょう。。「初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有に至らず。いかにいわんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と曰う」(真聖P190)と。
 金子大栄先生が「死の帰するところを、生の拠り所とせよ」と私たちの生きる方向を指し示した下さいました。「死の帰するところ」は浄土ですね。真実涅槃界です。三界は迷いの世界ですが、涅槃界は三界を包んで広大な世界です。私たちが何を拠り所として自分の生を生き得るのかといいますと、一言でいいますと、我執なのですが、その内は「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。」ですね。この染汚を包んで「如来、一切苦脳の衆生海を悲憫して」「利他の真心を彰す。」といわれています。我執と云う雑毒の行をふりむけて浄土往生を願うことは「これ必ず不可なり」なのです。我執をもって善を修すれども、「一切凡少、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭然を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。」(真聖p228「信巻」)といわれます。浄土を生の拠り所とすることに於いて、生の意味が変わるのですね。生活そのものの具体性は変わることは無いのですが我執か・浄土かを拠り所とすることが生活そのものの意味が全く違ってくるのです。孤独と云う闇に留まるのか、開かれた教人信に生かされるのかということですね。世界観が闇か開放かの違いです。世界を「一人がため」とうけとれるのか、受け取れないのか、私たちは「今」生死の淵に立たされているのです。私は唯識を学ぶ意義はここに有ると思うのです。これでもかと言うほど煩悩の心が説かれますが、それほど私の闇が深く、真実を覆い隠していることを教えているのだと思います。「利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生心はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。」と。人は機といわれますね。機会の機です。チャンスということなのですが、何が機なのかといいますと、人になれるのか、成れないのかは今がその機会であるということでしょう。ですから私たちはチャンスを生かされているのですね。ものにできるのか、出来ないのかは自己責任です。回向と云う問題もニ回向といわれていますから、往相・還相のニ回向ですね。私は回向の二面性だと思っています。表が往相なら、背は還相、表が還相なら、背は往相というようにですね、二つの回向があるということではないと思います。「至心回向」の内面が往・還の回向になるのではないでしょうか。信心をいただくということは、私をもって仏事に参加させていただくということなのではありませんか。「一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。」という命をさずかるのではないでしょうか。
 懈怠
 「不信の者は懈怠多きが故に」といわれていました。不信は浄信を障えて惰を依所とするのですが、惰の依とは懈怠であるといわれているのです。『論』に「善・悪品の修し断ずる事の中に於いて懶惰(らんだー怠け怠ること)なるを以って性と為し。能く精進を障えて染を増するを以って業と為す。」いわゆる廃悪修善です。善を修し、悪を断ずる事の中にといわれますね。廃悪修善という事実の中に懶惰であるということが懈怠の性格なのです。懈怠が精進を障えるのです。それだけではなく染を増すといわれます。汚染です。汚れを増長するのです。「謂く懈怠の者は、染を滋長(じちょう)するが故に。諸の染の事に於いて策勤(さくごん)する者をも。亦懈怠と名づく。善法を退するが故に」ここは大変に面白いことがいわれますね。策勤(さくごん)は努力です。悪いことに対して努力をすることも懈怠であるというのです。これは大切なことを教えていますね。自己中心的に物事を観て自分の思い通りに努力することも、一生懸命ではないのですね。懈怠なのです。私たちは一生懸命に努力することは素晴らしいことだと思っていますが、真理からみると懈怠なのです。そういえば訓覇信雄師は「本当に明らかにしなければならないことが見出せば仕事なんかしていられん、あんた達はようするに暇なんや、暇やから仕事に精を出しているんや」といわれていたことを思い出します。非常にインパクトの強い言葉の響きがあります。
 放逸
 「放逸は、罪をふせぎ善を修する心なく、恣に罪を作る心なり」(『ニ巻抄』)と、ほしいままに罪を作る心であるといわれます。欲望の欲するままに放置する心ですね。それを放逸だと。『論』に「染・浄品に於いて防し修すること能わずして縦蕩(じゅうとう)なるを以って性と為し、不放逸を障えて悪を増し善を損するの所依たるを以って業と為す。」染品(汚れた法)・浄品(浄らかな法)に於いて汚れを防ぎ、浄らかな法を修することができないことに歯止めがきかない状態を以って性質とするのです。染品(汚れた法)とは我執的なものであり、浄品(浄らかな法)とは執のまじらないことです。「防し修すること能わずして」ほしいままに罪を作る心なのです。「縦とは縦恣なり。蕩とは蕩逸なり。」(『述記』)縦はほしいままということです。蕩はだらしなくということですね。自分の欲望のままに、だらしのないことを縦蕩というのです。このこころが不放逸を妨げ悪という我執を増大させ善を損なうのです。
 「謂く懈怠と及び貪と瞋と癡とに由って染・浄品の法を防し修する能わざるを総じて放逸と名づく。別に体有るに非ず。」
 怠ける心・貪る心・怒る心・おろかな心の四つの心に由って、我執を防ぎ、浄らかな法を修することができないことを放逸と名づけるのであるといわれ、放逸として独自の働きがあるわけではないといっているのです。放逸の内容は懈怠・貪欲・瞋恚・愚癡なのです。だらしなく・ほしいままに歯止めが利かないことを放逸というのでしょう。悪を防ぐこともなく、善を修することもないだらしなさですね。本当に厳しい言葉が続きます。そんなことは無いと言いたいのですが世法に流されている状態では反論もできません。
 『末燈鈔』また「御消息集』(真聖P566)に放逸無慚とあります。好き勝手な振る舞いをしておきながら、他に対して慚愧の心がない、自らの罪を恥じる事のない心ですね。煩悩具足の凡夫を「放逸無慚のものども」と押さえられてあります。誰の事でもなく私の事を言いあてられているのです。
 失念 
 「諸の所縁に於いて明記すること能わざるを以て性と為し、能く正念を障えて散乱の所依たるを以て業と為す。」
 あらゆる対象に於いてはっきりと記憶することが出来ないことを性とするのが失念の本性なのです。正しい思い(正念)を妨げ散乱の所依となるのです。念は明記不忘といわれています。記憶して忘れない。何を忘れないのかと云いますと正念という正しい道ですね。正見を得る目的を念じ忘れないことが、八正道の中でいわれます。八正道は正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定という八種の実践法です。正しい道とは縁起を説いた仏法ですね。仏法を忘れないということ。仏に成る道があるということを忘れてしまうのが失念といわれています。そして失念は忘れるという念と道理が判らないという無明との一分に摂められるのです。年をとってきますとどんどん記憶が薄れて物忘れが激しくなるのです、実感しています。これも煩悩のなせることなのですが、失念は物忘れが激しくなるということではなく「後生の一大事」に眼を閉じていると云う事だと思います。生まれてからこのかたそして死を迎えるまで一度も自己を問う事がない、このことが失念の内容ではないかと思います。ですから失念しているという思いもないのでしょう。ものを忘れたということであれば、記憶をしていた時期があったはずですね。記憶をしていたが、いつの時からか忘れてしまったという事も失念でしょうが、仏教でいう失念は正念を忘れるという事なのです。正念を忘れると心が千千に乱れるのですね。散乱です。ですから散乱しているということは失念をしていることなのです。正念を忘れているから心が散乱するのですね。「失念に由るが故に、散乱を生起す。・・・明らかに善等の事を記すること能わざる故に名づけて失念と為す」(『述記』)
 「失念は倶の一分に摂めらる。・・・論に復た此れは染心に遍ずと説けるが故に」(「染心に遍ずと言うは唯、念の分のみに非ず。染心の有る時には念有ること無きが故に」)
 残りの散乱と不正知は明日にします。
 余談になりますが、世の中には宗教批判がおおくあります。中東地域の民族対立には必ず宗教対立があり、それが紛争の種になっている、という批判ですね。
また、「能令速満足 功徳大宝海」そんなことはありえないだろう、という批判ですね。ここでは多くを語りませんが、批判する立場が問題なんですね。批判する立場が宗教を利用するということが起こってくるわけです。そこが解らない。それを仏陀は無明と悟られたのです。人それぞれの宗教観は違います。違いますが、批判する立場の自己が問われていることは間違いのないことであると思います。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (4) 概略 (4) 大随煩悩 (1)

2015-05-26 20:11:05 | 第三能変 随煩悩の心所
  
 大随煩悩(大随惑)について
 大随煩悩には「掉挙(ジョウコ)」・「 惛沈(コンジン)」・「不信」・「懈怠(ケタイ)」・「放逸(ホウイツ)」・「失念」・「散乱」・「不正知」の八つがあげられています。「悼挙等の八は染心に遍せる故に大随煩悩と名づく」と。「自ら倶生すること得れば、但だ染に皆、遍じて倶生することを得るが故に。小と名づくべからず。染に皆、遍するが故に中と名づくべからず。・・・故に八を大と名づく。」(『述記』)「悼挙等の八は七識に遍ぜるが故に。説いて名づけて大と為す。」(『演秘』)と。「大」というのは染心にということです。「中随煩悩」が「不善に遍ず」といわれるのとの違いです。不善は悪ですが染心は悪と有覆無記の両方が含まれるということなのです。随煩悩に小・中・大と分位差別が説かれます。小随煩悩は第六識と相応するのです。意識的な分別心ですね。十の随煩悩と相応して働きますが、各別起といわれ各々、別々に働くといわれています。中随煩悩はニ有りますが、「遍不善」といわれ、不善の働きには必ずみられるといいます。六識と共に働きます。いわゆる眼・耳・鼻・舌・身・意の心と共に働くのですね。そして大随煩悩、大随惑ともいわれますが、「遍染心」といわれ、八数えられます。七識に働くのです。六識と末那識をくわえた七識ですね。末那識は染汚識ともいわれますし、有覆無記といわれます。有覆ですから汚れです。何に依ってかは、四の煩悩に覆われているからですね。我執によって覆われているのです。「染」とは不善と有覆無記との両方を含みます。末那識と働く時には有覆無記として働くのです。我意によって知らず知らずの内に人を汚していくのです。自と他をはっきりと選び分け、自の得を選びとるといわれています。(「慧」の心所で簡択・ケンチャク)「恒審思量」といわれ、恒に審らかに自分を思い量っているのです。この心は、心の深層に微細に働くのですね。ですから気づかないのです。小・中随煩悩は表層に働きますから見えるわけです。見えるものは何とかなるのですが、見えない大随惑は教えに出遇えない限り自覚することは無いのです。末那識は外には働きませんね。阿頼耶識の見分を対象としていますから、命を自分のものと執着を起こしているのです。
 今日は掉挙(ジョウコ)と惛沈(コンジン)についての概略を説明します。
 掉挙(ジョウコ)について
 掉(トチ・ふるう)はふり上げる、ふりうごかすという意味があり、挙は高く持ち上げるということです。掉挙は心の高ぶりであり、心が高ぶって揺れ動くということですね。冷静ではいられないという心の働きになります。
 「心をして境に於いて寂静ならざらしむるを以って性と為し。能く行捨(ぎょうしゃ)と奢摩他(しゃまた)とを障うるを以って業と為す。」(『論』
 「境」に於いてといわれますから対象です(対象世界を有とみなす見解。有執)、対象世界、私が見ている、考えている対象という思い込みに於いて「寂静ならざらしむ」ということです。平静ではいられないということですね。心が静かではなく揺り動かされるということになります。心が平静を保てないという事が掉挙(じょうこ)の本性なのです。行捨(ぎょうしゃ)は善の心所十一の一つに数えられ「心を平静正直にならしむる心なり」(『ニ巻抄』)といわれ、奢摩他(しゃまた)は止と訳し、心が寂静になった状態を言います。「行捨・奢摩他」を障碍するのです。行捨・奢摩他は修行に於いていわれることです。止観行といいますね。雑念を止めて心を一つの対象に集中し、正しい智慧を起こして対象を観察する修行のあり方です。心をいつも平静を保った状態で精進と貪らず・瞋からず・愚痴らずという三根を修めていくのです。いわゆる精進努力です。これを妨げる働きが掉挙なのです。
 「掉挙(じょうこ)の別相と云うは。謂く即ち囂動(ぎょうどう)なり。倶生の法をして寂静なら令しむるが故に。」 (謂く囂(かまびす)く掉(ふるっ)て挙動す。是れ此の自性なり。其の倶生する心心所法をして寂静ならざら令むるが故に。)
 囂―ゴウ(ガウ)・かまびすしい。がやがやと騒がしいこと。掉―トウ・チュウ掉舌(トウゼツ)-さかんにしゃべること。掉臂(トウヒ)―腕を振り動かす、ここはですね、がやがやと騒がしく、落ち着かず、心が揺り動かされることが掉挙の別相といわれています。
 仏道は精進ですね。生死いづべき道を求めるのです。その人を菩提薩多といわれてきました。菩提は自行化他であり忘己利他の精神ですから、そのありかたを妨害する働きが大随惑の最初に云われる掉挙なのです。心の中からですね。「やめとけ」というのです。心が寂静になり菩提と涅槃に向かうと末那識が困るのです。どこまでいっても自己を溺愛し続けますから、溺愛を否定されることは自我執着心にとって天敵なわけです。ですから騒がしく寂静になることを妨げて自己否定から自己を保守する働きをするのです。
 惛沈(コンジン)について
 惛沈(コンジン)―重く沈んだ心。「しずみおぼれたる心なり」(『ニ巻抄』)といわれ、心が重く沈んだ状態をいうのですね。掉挙の反対です。掉挙は高ぶる心といわれていました。「境」に於いて、私の境遇です。境遇は縁に依って与えられるものですね。縁に依って与えられた境遇に耐えられなく心が沈んでしまうのが 惛沈です。
 「心を境に於いて無堪任(ムカンニン―耐えられない)ならしむるを以って性と為し。能く軽安(キョウアン)と毘鉢舎那(ビバシャナ―観)とを障るを以って業と為す。」
 「述して曰く。此れは乃ち別して善の中の軽安を障う。通じて観品を障う。過失増することを顕わしてニを障ゆること有りと。」(『述記』)
 「境に於いて無堪任」ということが性質であると。自分にとっての境遇に耐えられないで心が重く沈んでしまうという状態ですね。「軽安と毘鉢舎那」とを障碍するということですから、修行においていわれることです。先に高ぶる心(掉挙)は奢摩他を障うるといわれていましたが、奢摩他は止・毘鉢舎那は観で奢摩他毘鉢舎那で止観と訳されます。心を禅定に保ち、ものの本質を観ずることなのです。それを障碍する心が掉挙であり、 惛沈なのです。軽安は善の心所の中にありました。のびのびとしているという心です。境遇に於いて煩悩を遠離し調和して軽やかであるというのです。
 「 惛沈(コンジン)は別に自性有り。癡の分と雖も而も是は等流なるを以ってす。不信等の如し。即ち癡に摂めらるるものには非ず。」(第三説)
 いろいろな説が紹介されているのですが、まず第一説は貪りの一分であるというもの。第二説は一切の煩悩に於いて共通して有るものという。そして第三説が本旨です。「 惛沈(コンジン)は別に自性有り」といい、独自の心所であるといっています。ですから癡の一分とか、一切の煩悩に共通して有るというものではなく、独立して働くというのです。心が高ぶったり、沈んだりするのは癡と共にとか、一切の煩悩と共にということではなく、独自に働いているといわれるのです。
 「惛沈は境に於いて 牢重(もうじゅう―暗く重い意識)なるを以って相と為し、正しく軽安を障ふ、而も迷・闇には非ず。」
 「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とは縁起の道理ですが、私は、内に虚仮を懐いて外に賢善精進の相をしめしているのです。このあり方が 牢重(もうじゅうー暗く重い意識)なのですね。曽我先生は「善人(賢善精進の人)は暗い、悪人(信心獲得の行者)は明るい」とよく仰せでした。佛道を歩むということは真実の自己に出遇うことなのでしょう。真実の自己に出遇うことに於いて我執に死して自信教人信のまことに生きる人生を賜ることなのですね。法然上人は「自行化他」に生きんといただかれたのであろうと思います。
 親鸞聖人は「親鸞一人がためなりけり」というところに、全世界を引き受けられたのではないでしょうか。
 概略としては、掉挙は「行捨と奢摩他を障ふる」といわれ、精進と無貪・無瞋・無癡の三善根の上に「心を平等正直無功用ならしむる作用」(行捨・ギョウシャ)と奢摩他(シャマタ・止・寂静)「心を摂して縁に住し、散乱を離るる」といいますが、その行捨と奢摩他を妨害するのが掉挙という煩悩ですね。この煩悩は貪の一分や瞋の一分というのではなく単独で、独自に働く煩悩なのです。
 惛沈は 惛昧沈重(コンマイジンジュウ)の義で、 惛も昧も暗いという意味で、沈重は怠惰・頑迷にさせる精神作用になります。「軽安と毘鉢舎那を障ふるを業と為す」といわれます。
 奢摩他毘鉢舎那という止観は仏教の大切な行ですが、親鸞聖人は『教行信証』信巻・証巻に『浄土論』『論註』を引用され還相回向の教証とされました。「奢摩他毘鉢舎那方便力成就をすることを得て、生死の稠林(チュウリン)に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしめたまうなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せんがために、とのたまえり。」と。
 衆生の救済です。救済という事の内実は「生死海を度す」ということですね。「生のみが我らにあらず、死もまた我らなり」という眼差しが、死して悔いのない人生を歩ませるのではないでしょうか。善導大師は「苦の娑婆を厭い、楽の無為を欣いて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境、軽爾としてすなはち階うべからず。苦脳の娑婆、輙然(チョウネン)として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。」と生死の元を絶つことが永く常楽に帰することであると教えています。生死の元は我執ですね。法に背いている自己です。そしてですね。法に背いている自己に目覚めるには「回向為首得成就大悲心故」(回向を首として大悲心を成就することを得たまえるが故に)という如来の願心に触れることが必要不可欠であるといわれているのです。それでなければ「親(マノアタ)り慈尊に従いたてまつらずは、何ぞよくこの長き歎きを勉(マヌカ)れん」と、苦脳の娑婆に生きていることを曇らせて微細に生死の元を覆い隠してしまうのです。それによって私たちは迷い乱れていることの自覚がもてないと教えています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (3) 概略 (3) 中随煩悩

2015-05-25 22:28:41 | 第三能変 随煩悩の心所
 喉の局部麻酔と、麻酔注射の後遺症は、人それぞれなのでしょうが、僕の場合は非常に体がだるくて、重いですね。まあ、横になっているに限ります。その前に今日は早めの更新です。
  今日は、中随煩悩の二についての概略を説明します。
 中随煩悩、無慚・無愧(はじることのない心)
 慚・愧については、善の心所で考察しましたので参照してください。『論』には「云何なるをか慚と為す。自と法との力に依って賢と善とを崇重(シュウジュウ―崇め重んじる)するを以って性と為し。無慚を対治し悪行を止息するを業と為す。」自と法とに依って過悪を羞恥する。『述記』に「謂く賢徳ある者は若しは凡、若しは聖に於いては。崇敬することを生じ。一切の有漏無漏の善法に於いて崇重することを生ず。」また、 
 『論』には「謂く自と法とを尊し貴する増上に依って賢と善とを崇重し。過悪を羞恥し、無慚を對治して諸の悪行を息む」
 『述記』に「述して曰く。謂く自身に於いて自を尊愛することを生ず。増上と法とに於いて貴重することを生ず。増上とのニ種の力の故に。賢を崇め善を重し。過悪を羞恥す」と。
 慚は自と法に依る自です。我執の自ではないということです。その自に於いて恥じる心が生み出されるのですが、無慚は自と法に依らないのですね。自と法に於いて崇重しないのです。自灯明の自と法、これを顧みない心です。
 「自と法とを顧みずして賢善を軽拒(キョウコ)するを以って性と為す。能く慚を障碍し悪行を生長(ショウチョウ)するを以って業と為す。」
 恥じる心を妨げて悪を増長するのです。その結果「自と法とに於いて顧みる所無き者は。賢善を軽拒し過悪を恥じず。慚を障えて諸々の悪行を生長するが故に」といわれるのです。自分の行為が悪行とは思わないのです。思わないから恥じるということはありません。罪を犯しているという自覚がないのが無慚ということなのです。これは小随煩悩を内容として、自己中心的に他を利用する心が恥じる事のない心を生み出してくるのではないかと思います。慚・無慚は自己の問題なのですね。 無慚は自に於いてということでしたが、無愧は世間に対してということになります。
 「世間に顧みずして暴悪を崇重(シュウジュウ)するを以って性と為し。能く愧(ギ)を障碍し悪行を生長するを以って業と為す。謂く世間に於いて顧みらるること無きものは。暴悪を崇重し過罪を恥じず。愧を障えて諸の悪行を生長するが故に。」
 賢・善を崇め重んじるということがいわれていましたが、無愧は何を崇め重んじるのかと云うと暴悪なのです。暴悪崇重が性質だといわれています。これは暴悪というよりは何が賢・善かが解らないということではないでしょうか。解らないから感情的な資質を性とするのではないかと思います。それによって恥じる事が有りませんから、ますます暴悪を増長し恥じる心を障へてしまうのです。
 親鸞聖人は「無慚・無愧のこの身にて」と自身を深く信じられます。この信心は自と法とに依りますね。自と法を崇重することに於いて無慚・無愧のわが身をいただかれるのです。無慚・無愧の自覚が真の慚愧なのではないでしょうか。「無慚愧を名づけて人となさず」とは『涅槃経』のお言葉ですが、本当に人として生きていくのは、この無慚愧の我が身をいただいていくことに尽きるのではないかと思います。世間に於いてもですね。この人は本物だといえる価値判断は慚愧あることを標榜する人ではなく無慚愧を恥じる事の出来る人ではないでしょうか。随分前の事ではありますが同朋大学で公開講演会があり作家の高 史明師がお話しされた中で師が「慚愧をいただくことができました」と言われました事を思い出し、「無慚愧の私が慚愧をいただくことの恩徳を感ぜずにはおれません」という師の眼差しに深く感銘をうけました。
 『安心決定鈔』に『般舟讃』には、「おおきにすべからく慚愧すべし、釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」といえり。慚愧のニ文字をば、天にはじ、人にはず、とも釈し、自にはじ、他にはず、とも釈せり。・・・(弥陀・釈迦の恩徳)・・・いままできかざることをはずべし。・・・しらざることをおおきにはずべしというなり。「三千大千世界に芥子ばかりも釈尊の身命をすてたまわぬところはなし」(『法華経』)。みなこれ他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かわりて難行苦行して縁をむすび、功をかさねたまいしなり。この広大の御こころざしをしらざることをおおきにはじはず(慚愧)べしというなり。」(真聖P944)
 『論』に「不善心の時には、随って何れの境を縁ずるも皆、善を軽拒し、及び悪を崇重する義有り。故に此のニ法は倶に悪心に遍ぜり。・・・自と法とを自と名づけ、世間を他と名づく。或いは即ち此の中に善を拒し悪を崇せりと云う。己に於いて益し損するを自・他と名づくるが故に。・・・」
 無慚・無愧は遍不善の煩悩といわれ、私たちの行為は善か悪かそれともそのいずれでもない無記です。その価値観の中で悪心が働くときは此のニ法ですね、無慚・無愧があるというのです。悪心に遍ぜりと、悪のこころに遍く行き渡って、善を拒み悪を崇めるのです。「人間とは何か」と問われるとき、人間は善に向かって歩みを進める存在であるという事が言えるのではないかと思います。そうしますと善を拒むという行為は人間としての道をはずしていると言えるのではないでしょうか。また自と他に於いて恥じる事がないということは人として生きる事を放棄しているのではないでしょうか。やはり大事なことは慚愧心をいただくということではないでしょうか。
 「二つの白法あり、よく衆生を救(たす)く。一つには慙(ざん)、二つには愧(き)なり。「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は人に羞ず。「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて「人」とせず。名づけて「畜生」とす。(『涅槃経』真聖P257~258)
 六道という境涯がいわれますが、六道輪廻という迷いの境涯ですね。この迷いの境涯からの救済が慙愧といわれるのです。無慙愧はどこまでも迷いの淵に沈むことになるのですね。親鸞聖人が「無慚・無愧のこの身にて」と言われる背景は如来回向の信心をいただかなかったなら人として生きる事ができないという心の深層に光を差し込まれたのです。
 「無慚無愧のこの身にて・まことのこころはなけれども・弥陀の回向の御名なれば・功徳は十方にみちたまう」
 「小慈小悲もなき身にて・有情利益はおもうまじ・如来の願船いまさずは・苦界をいかでかわたるべき」
 自己中心的なあり方が如何に迷いを生み出し、「わたしはどこからきて・なにをして・どこにいくにか」という生きる事の方向性が定かではなく、自己の殻に閉じこもり孤独と云う闇に沈んでいかざるを得ないこの身に慙愧されるのです。そして私の生み出されてきた背景を知りえる事がなかったならば無慚・無愧のまま虚しく過ぎ去っていかざるをえないといわれているのではないでしょうか。
 「蛇蝎姧詐(じゃかつかんさ)のこころにて・自力修善はかなうまじ・如来の回向をたのまでは・無慚無愧にてはてぞせん」(真聖P509)
 という眼差しが眩いです。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (2) 概略 (2)

2015-05-24 18:57:43 | 第三能変 随煩悩の心所

 随煩悩の概略 partⅡ 小随煩悩の「誑諂與害憍」について
「誑」(オウ―たぶらかす) 
『述記』には、誑と云う心は、「自ら徳無きを偽って徳有りと詐す。」と。 詐はいつわる、あざむく、だますという虚言です。何故起こるのかと言いますと「利誉を貪するが故に。」といわれているのです。自分の利益と栄誉を貪る、つまり利誉を獲るために偽って自分には徳が有るのだというような顔をするのですね。要するに人々を欺いているわけです。「邪命を依と為す」 間違った生き方ですから邪命といいます。そのような生き方を依り処としているのですね。『論』には「利誉を獲んが為に矯しく(かたましく)徳有りと詭詐(きさ)するを以って性と為し。能く不誑を障えて邪命なるを以って業と為す。」といわれています。「あるがままの人生をあるがままに生きればいい」のですがそれができない自分がいるのです。「私はわたしになればいい」のです。それが道理なのですが、それに背いていろいろなものを身につけて自分を大きく見せようとしています。それもですね。できるだけ人の上に立ちたいからです。自分に自信をもてないのです。ですからいろいろな物を着飾って武装するのです。曽我先生は信心を「自信力」とお教えくださいましたが、その自信力がもてないのですね。何故かといいますと世間の富と栄誉に目が眩むのです。それが絶対の価値だと思い込むのですね。これが顛倒といわれることなのです。裸で生まれてきたのですから裸で生きればいいのです。ありのままの人生とはそのようなことなのではないでしょうか。それがなかなかできないのですね。自分をよく見せたいんです。これが「誑」ということです。私の心が言い当てられています。「心に異謀を懐いて多く不実邪命の事を現ずるが故に。此れは即ち貪と癡との一分を体と為す」と。心に自分を偽って他人をたぶらかすために謀略・謀を懐いて多く間違った生き方をするのですね。「心に意、同じきに非る異の謀計を懐いて。詐(いつわっ)て精進の儀を現ず」るのです。親鸞聖人は「愚禿が心は内は愚にして外は賢なり」と自身をみつめておられますね。「内は愚にて」ということが謀計を懐いてということでしょうし、「外は賢なり」が精進の儀を現すということでしょう。そして「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて」とあるがままに生きることを宣言なさいます。それは「貪瞋邪偽 硬詐百端(とんじんじゃぎかんさひゃくたん)にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり」(真聖P215・436)という心の中に渦巻く様々な煩悩を見切っておいでになるのです。私たちははこのことがわからないのですね。ですから煩悩に翻弄されるのです。翻って真実の業に目覚めなさいと教えて頂いているのではないでしょうか。
 諂(テン―へつらう心
『法相二巻抄』には「諂は、人をくらまかし迷はさんが為に、時に随ひ事に触れて、矯(かたま)しく方便を転(めぐ)らして人の心をとり、或いは我が過を隠す心也。世中に諂曲(てんごく)の者と云うは此心増せる人なり。」と述べられています。人を騙して迷わす為に、時に随っていろいろな方便を駆使して人を自分の方に惹きつけようとするのです。それは自分の過失を隠すためなのですね。人をまるめこみ、だますのです。人に近づいておべんちゃらを使いへつらう心をいいます。自分の本性を隠しているのが諂の特徴です。自分の本性を隠してのらりくらりとつきまとい相手に取りいろうとするのです。矯はよこしま・心がねじけて正しくないということ。 何処まで行っても悪賢く偽りしかないということなのです。諂曲は自分の本性を曲げて人の気に入るように、心にもないことをいうことなのですね。本当に自分の事が言いあてらています。此れは自分に対する貪りと道理を無視した癡から引き起こされるといいます。
 『論』(『成唯識論』以後略して『論』といいます。)には、「他を網(コメ)せんが為の故に矯しく(かたましく―いつわって)異なる儀(カタチ)を設けて険曲(けんごく―よこしまに)なるを以って性と為し。能く不諂と教誨(きょうけ―誤ったものを正しく直す)とを障うるをもって業と為す。謂わく諂曲の者は。他を網悁(もうけん―網でとらえること)せんが為に曲げて時宣(じき)に随って矯しく方便を設けて。他の意を取り或いは己が失を蔵(かく)さんが為に。師共の正しき教誨に任ぜざるに故に。此れも亦貪と癡との一分を体と為す。」と説かれています。
 『論』によりますと諂曲の者は師友ですね、師匠や友人の忠告を聞かない、聞く耳をもたないのです。獲物を捕えるためにじっと茂みに隠れているような猛獣みたいなものです。言葉巧みに網をかけるのです。これがへつらう心だと言っているのですね。ここには自分は存在しません。他に気に入られようとする心でいっぱいなのです。険曲は相手を自分の思い通りにしようというのに油断がないような心といわれています。『述記』には「名利を貪るが故に諂する、是れ貪が分なり。無智の故に諂するならば癡が分なり。・・・謂わく自の過を覆蔵す。・・・覆の因なり・・・罪を覆う故に・・・」と、自分の罪を覆い隠してしまうという過失が諂なのですね。「脚下照顧」もう一度自分を問い直す必要がありそうです。
 害(ガイ)
 「云何なるをか害と為す。」害という煩悩はどのようなものであるのかという問いです。害は、そこなう、という意味で、傷つける、妨げるということです。他を傷つける、殺傷するということになりますね。それが害と云う煩悩の性質であるといっているのです。これは自分に不都合なことが起こると他を傷つける行為に及ぶのです。これは日常茶飯事に起こっています。自分と云う他に変えられることのできない命を与えられていることへの目覚めがないのですね。それによって他を害することに於いて自分を守ろうとするわけです。これもまた顛倒ですね。
 『論』には「諸の有情の於(ウエ)に心に悲愍(ヒミン―慈悲の心・愍はあわれむという意)することなくして損悩(ソンノウ―傷つける事)するを以って性と為し。能く不害を障えて逼悩(ヒツノウ―おしせまる)するが故に。謂わく害有る者は。他を逼悩するが故に。此れも亦瞋恚の一分を体と為す。」と定義されています。
 害というのは慈悲がないということ、ものをあわれみはぐくむことがなく相手を傷つけることを性とするのです。それによって慈悲する心を障へて相手に逼るのが働きとなるのです。自分の心に害心をもっているのですね。それが外に働くときに相手を傷つける行為に走らせるのでしょう。害は瞋恚の一分であるといわれるのです。瞋恚はものの命を断ずることなのですが(ニ河白道の火の河ですね。焼き尽くしてしまいます。)害は相手を傷つけるということになりますから瞋の一分というわけですね。
 私たちは知らず知らずの内に相対世界・善か悪に染まっていて自己中心的にしか生きれなくなっているのですね。この善か悪と云う概念は時と場所によって変化します。極端な例を挙げますと「殺」という問題です。仏陀は五戒の中で一番最初に「殺すことなかれ」という不殺生戒をいわれました。これは命の尊厳という眼差しから生み出されてくるものですが、私たちの常識から言えば「人の命は大切・しかし敵は殺してもよい。テロリストは排除すべきである。そして私に害を与えるものは排除する。」という発想が有るように思えてなりません。何故命は大切であり・尊厳なのかを根源から問う姿勢が求められているのではないでしょうか。「私に害を与えるものは排除してしまう」という心の深層にメスを入れ「害」が本能であるという目覚めが不害へと転じていく機縁となるのではないでしょうかね。
 小随煩悩の最後に説かれているのが、憍(キョウ―おごる心)です。
 憍はおごりたかぶることですから、慢心と同義語になりますね。「邪見憍慢悪衆生」という憍がこの心所です。自他を比べて他をしのぐ心のことをいいます。「我が身をいみじき物に思ひておごれる心なり」(『ニ巻抄』)といわれています。
 『論』には「自の盛事(ジョウジ)に於いて、深く染著(ゼンジャク)を生じて酔傲(スイゴウ)するを以って性と為し。」
 自の盛んなることに於いて深く執着を起こし自らに酔って傲慢になることを性質とすることが憍だというのです。自分のために自分に執着を起こし自分を満足させようとし、そのことによって自己陶酔をするのですね。「一の栄利の事に随って、謂く長寿の相等なり。即ち是は此れ興盛の事なり。」自分にとっていろいろな誇りがありますね。まぁ差別にもつながってくるのですがね。家柄・美貌・学識・健康・名誉・権力などなど他に誇りおごれるのですよ。それに酔いしれている自分がいるわけです。この酔いしれるというのは大変危険を孕んでいるのです。
 聞法の落とし穴という問題もあるのですが、聞いたことが誇りになり、聞いたことに酔いしれるということが起ってくるのですね。本当に気をつけなければいけません。
 「能く不憍を障えて染の依たるを以って業と為す。謂く 酔傲(スイゴウ)の者は、一切の雑染の法を生長(しょうぢよう)するが故に。此れも亦貪愛の一分を体と為す。」と定義されています。
 雑染法とは、いわゆる我執です。我執があることを雑染というのですね。善も悪も無記もです、我執が働いている限り有漏法なのです。すべてが毒が混じった行為になるのです。毒とは利己性です。他の為と言いながら自分を満足させようとする心の働きをいいます。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (1) 概略 (1)

2015-05-24 11:07:58 | 第三能変 随煩悩の心所
  ブログでは煩悩の心所が終わりまして、煩悩の心所を承けて随煩悩の心所が説かれてきます。
 講義の方は初能変の一番大切な、四分三類唯識半学といわれている、認識はどのように成り立っているのかを学んでいます。本質・影像・見分・相分・自証分・証自証分という熟語がでてきます。非常に理解不能と云いますか、認識の摩訶不思議なことを解明しているわけですね。
 認識問題については、近代哲学においても重要な課題であり、認識問題を本質的な原理から解明しようとしたフッサールの現象学をも学び、洋の東西を問わず、現代の思考方法に沿った中で解明していく必要があるように思います。哲学は非常に苦手な分野でありまして、哲学を学ぶためには、哲学史を学ぶことが基本姿勢と云われているように思いますが、如何に学ぶのか、ほんまにしんどい作業です。僕が勝手に法友と思っている菊池 萠嬢の思索の深さには感服するものがありますが、僕のそばにこんなにも思索の深さを探求されているかたがおいでになることは、非常に心強いものがあります。彼女の思索の道程は『アポロンの雄鳥』に連載中ですので、是非読んでいただきたいと思います。ご一報いただければ送付いたします。第一号・第二号が世に放たれています。

 随煩悩について(概略)
 随煩悩についてですが、本頌では第十二頌の後半第三句から第十四頌の上二句までに説かれています。本日は、第十二頌の後半部分の「随煩悩と云うは、謂く忿と恨と覆と悩と嫉と慳と」の概略を説明します。そして大随惑の散乱・不正知の概略を説明し終わりまして、『成唯識論』に随って考究を進めたいと思います。
  随煩悩は根本煩悩に付随して起きる煩悩のことです。「論」には小・中・大の随煩悩として三類に分けています。「小」は各別に起きる、各々別々に働く煩悩です。「中」は遍不善つまり六識の不善の働きに必ず見られる煩悩のことです。「大」は染心に遍ずといわれ、六識と七識つまり七識全体に働くといわれているのです。不善は善にあらずということですから悪です。それに対し染心は煩悩に染まっているということですから悪でもあるし、第七識の有覆無記・無記だけれども我執に覆われているということ。我執に染まっているのであるということです。  随煩悩の二十種は類別なること三有り。謂く忿等の十は各別に起こるが故に小随煩悩と名け。無慚等の二は不善のみに遍ぜるが故に中随煩悩と名け。掉挙等の八は染心に遍ぜるが故に大随煩悩と名く。
 「意識には十を具す。」第六意識には全ての煩悩・随煩悩が働くといわれます。それだけではなく、善の心所も働くのです。世の流れに流されるのではなく、自分の意思を以って涅槃に向かう生き方ができるのです。私たちは目覚めているときは必ず何かを意識しています。「あれをしよう・これをする」と名言によって意思決定しているのです。それが第六意識に於いてなされていますから、此の第六意識が重要な役割をもっていると言えるのです。煩悩に翻弄されるか、善に向かうかの鍵を表層の意識がもっているのです。選択肢はいろいろあるのでしょうが、どの道を選ぶのかの決定は今の意識が握っているのですね。それほど此の第六意識は大切な心の領域なのです。私たちは常日頃様々な事に煩い悩んでいますが、その煩い悩みをしっかりと受け止めて善の方向(聞法)に一歩を進めてみませんか。
 第一番目は忿(フン)という心です。「いかりの心」。瞋恚も怒りの心なのですがこの瞋恚に寄り添って「かっとなる」いかりです。瞋恚は心の中でぐっとこらえている状態の怒りで、それが直接的な行為となって現れたのが忿という「瞋恚の一分を体と為す。瞋に離れて別の忿の相・用(ユウ)無きが故に」煩悩ですね。何故起こるのかと云うとですね。これは自分に対する非難や自分が脅かされる状況になった時、自己防衛の形で急激な怒りがでてくるのです。「かっとなり暴力をふるう」ということがありますね。怒りは耐えなければならないのでしょうね。そうでなければ「多く暴悪なる身表業を発すが故に」といわれています。身体をもって表に現すということですから暴力をふるう・手を振り上げるということでしょう。どれだけ耐えることがあっても、手を振るあげるという行為が身を滅ぼしますから、忿という煩悩の出てくる元をしっかりと観察していかなければなりません。 
 これまでいろいろな煩悩について学びましたがこれは他人事ではなく私自身の心を言い当てられているのですね。私の心のありかたがこのように多様にわたっているのです。合わせ鏡のように私の心の状態が透き通って露にされています。『成唯識論』の記述は「現前の不饒益(フニョウヤク―自分にとって都合の悪いこと)の境(対象)に対するに依って墳発(フンポツ―ムカッとし打ちのめすこと)するを以って性と為し。能く不忿を障へて杖(じょう)を執るを(凶器をもつこと、あるいは手をあげること)業と為す。謂く忿を懐く者は。多く暴悪なる身表業(表から見える身体の行動)を発するが故に。此れは即ち瞋恚の一分を体と為す。瞋に離れて別の忿の相・用無きが故に。」(腹を立てることによって凶器を持ち人を打ちのめそうと思う程に怒る心)であるといわれているのです。しかしですね。腹を立てる心を抑えて堪えていますと、恨みが生まれてきます。言い当てられますね。いろいろな状況の中で許せないと思うことがあるわけですが、表にはそのような姿は見せません。心の中で堪えているわけです。でもね、ごく普通に恨みが芽生えてくるんです。これが「恨(コン)」という煩悩なのです。
 「忿を先と為すに由って悪(にくしみ)を懐て捨せず。怨みを結ぶを以って性と為し。能く不恨を障へて熱悩(頭に血が上ってカッとなる)するを以って業と為す。謂く恨を結ぶ者は。含忍する事能はず。(じっと堪えることができない)恆に熱悩するが故に。(いつも・常に悶々とした状態で熱悩しているのです。)此れも亦瞋恚の一分を以って体と為す。瞋に離れて別の恨の相・用無きが故に」(「恨は、人をうらむ心なり。恨みをむすぶ人は、おさえ忍ぶ事あたわず、心のうち常になやまし)といわれるように、怒りの心を抑えて悶々としていますと,恨みや・根に持つという心がふつふつと湧き出てくるのです。
 補足説明 ― 忿・恨・悩・害・嫉は瞋恚の一分・ニ河譬の火の河で瞋憎 
        覆・慳・誑・諂・憍は貪欲の一分・ニ河譬の水の河で貪愛
 この随煩悩は意識に伴いますから間断のある煩悩です。
 しかし貪愛・瞋憎は第七末那識の我愛によって執着されますので間断がなく四六時中働き続けているといわれています。私が意識する・しないに拘わらず深層の意識は自己を愛着し、自分の思うようにコントロールしつづけているのです。そして縁に触れ表の意識に現れてくるのです。信心とはこの心の在り方を見定めることなのではないでしょうか。
 「云何なるか覆(フク)と為す」。次に「覆」について語られます。
 「覆」はおおうということですが、何を覆うのでしょうか。自分にとって都合の悪いことを覆うのですね。身に覚えがあります。いつもそうですね。隠しますわ。追求されると余計に隠します。どうにもならなくなった時に観念するのですが、ただ観念するのでは無いですね。怒り、腹立ち、恨みが心の中に芽生えます。どうにもこうにも救われがたいですね。そのような私ですが「覆」について考えてみたいと思います。ここは本当に大事なところですのでじっくりと考えたいのです。何が本当か、嘘か誠かを知っているのは自分なのですね。それを自分の都合、自分にとって何が利益をもたらすかを判断して真実を覆い隠してしまうのです。自分の心の中に閉じ込めてしまうと言った方がいいのかもしれません。ばれる時のことを思うとハラハラドキドキです。すでにここで後悔し、悩んでいるのです。後でばれると「あの時本当のことを言えばよかったと」後悔し悩むのですけれどね。くよくよしますね。心は悶々状態です。いつばれるか判らない悶々と、ばれてしまったという悶々で身動きが出来ない状態になりますね。これが「覆」という随煩悩なのです。 
 「自の作れる罪に於いて利誉(りよ)を失うを恐れて隠蔵するを以って性と為し。能く不覆を障へて悔悩(ケノウー後悔して悩むこと)するを以って業と為す。謂く罪を覆う者は。後に必ず悔悩して安穏ならざるが故に。」といわれています。
 『述記』によりますと「自ら罪を造りおわって財利・名誉を失うことを恐れるが故に、隠蔵を以って性と為す。・・・罪を覆う者、心憂悔す。此れに由って安穏にして住することを得ず」と説明しています。
 自分が築きあげてきた財産や名誉が一たびの罪に依って失ってしまう恐れがある時に、やっぱり守りたいですよね。ですからひたすら隠すのです。しかし心は憂い後悔するのですから平穏ではいられないのです。そしてこの「覆」は貪と癡のとの一分に摂められるといわれています。これはですね。因縁の道理を無視していますから惑・業・苦の法、セオリーです。こうすればこうなるのだという縁起の理を無視をして罪を隠すのですから癡の一分に摂められるのですね。そして財利や名誉に執着していますから貪の一分にも摂められるのではないでしょうか。自分を守りたいが為に嘘をついたり隠し立てをしたりするとですね、自分が安穏といわれる、安らかに穏やかに生活が出来ない状況に追い込まれるということになるのでしょう。心してこの「覆」という随煩悩を自分に問うて行かなければ成らないと思うことです。
 次に「悩(ノウ)」についてですが、
「忿と恨とを先と為して。追触暴熱(ツイソクボネツ)して很戻(コンライ)するを以って性と為す。」と定義されています。
 先の忿と恨を心の中にもちつづけける、すなわち怒りと恨みを心の中に蓄えてもちつづけ、折に触れ思い出してまたカッとなって腹が立つのですね。「很戻」は很はさからうという意味・戻は「もとる」と読み、これもまたさからうという意味なのです。『漢語林』によりますと「ねじけもとる・道にそむく」とあります。很はもと・る。戻はもと・る。そむく・たがうという意味でねじまがるという意味もあるそうです。おそらくは怒ったり怨んでいることに由ってひがみっぽくなるのでしょう。『二巻抄』では「悩は、腹を立て人を恨むるに依って、ひがみもとおれて心の中常になやます。其の言はカマビスク・ケワシク・イヤシク・アラクシテ・ハラグロク、毒々しき心なり」と説明しています。これは蛆螯(だっしゃく)の具体性を述べているのです。螯ははさみですね。毒虫が挟んで刺す様を蛆螯というのです。ひがみ事が捻じ曲がって心が常にいらいらするのですね。いらいらしますと暴発しますよね。そのことが自分の心を刺して(悩み苦しめ)、やがて相手にも暴言を吐いて悩み苦るしめることになるのです。カマビスクは囂(かまびすし・いー騒がしい)ということになり、荒々しく毒々しく相手を罵倒し咬みつくような暴言を引き起こすほどの怒りの心を「悩」というのです。自分の中だけで収まればいいのですが、この「悩」という心所は「他を蛆螯する」といわれているのです。「此れも亦瞋恚の一分を体と為す」。のです。先の『二巻抄』の説明はひじょうにわかりやすいのですが『論』には「謂く往悪を追い現の違縁に触れて。心便ち很(ひがみ)戻りて。囂暴(ゴウボウ―騒がしく、荒々しい)凶鄙(クヒ―言葉がきたない・凶も鄙も卑しいという意味)の 跏言(ソゴン―荒っぽい言葉)を発して他を蛆螯するが故に」と述べられています。囂暴凶鄙跏言(ゴウボウクヒソゴン)には「サハカシク・アシク・イヤシク・アラキ」と説明が施されています。瞋恚は自分の心の中で渦巻いている怒りですが、それが縁に触れ忿となり恨みを懐きやがて俗に言う汚い言葉ですね、そのような暴言です、大きな声を発して相手を威嚇し辺りかまわず騒がしくするのですね。それによってですね。相手をも悩ませることになるのでしょう。逆に言うと、辺りかまわずわめき散らし暴言を吐く背景には瞋恚という自分の心の中のわだかまりが因となっているのでしょう。ですから相手を攻撃していると思っているのだけれども、本当は自分を蛆螯(ソシャ・因が転じて他者に乱暴な言葉を浴びせること)していることになるのではないでしょうか。
 次の「嫉(シツ)」とは嫉妬心ですね。妬み心です。自分には何の関わりがなくても他人が成功したこと等に妬むのです。お子さんをお持ちの方なら経験がおありになると思いますが、卒業式等で、成績優秀な生徒やスポーツで頑張った生徒が表彰されますね。そうしましたら「うちの子はなんであかんのやろ」と呟くのです。これが嫉妬心につながるのですね。人様を素直に喜んであげれない自分がいるわけです。
 「自の名利を殉(モト)めて他の栄に耐えずして妬忌(トキ)するを以って性と為し。能く不嫉を障えて憂 慼(ウチャク)するを以って業と為す。」といわれています。自分の名利を貪り求めて他の人が栄えたり、幸福であるのが耐えられない。そして妬み憎悪する。これが嫉の性格であるといっているのです。憂はうれい・ 慼(せきーうれい)これは自分で悶々とするのでしょう。そして腹が立って安穏とはしていられない状態になるのではないでしょうか。
 嫉の次は「慳(ケン)」という心が説かれています。欲深く物惜しみする心のことです。「財と法とに耽著(タンジャク・度を越して執着すること)恵捨(えしゃ)すること能わずして秘吝(ヒリン・大切にしてぐっと握って離さないこと。秘は秘密、秘かに・吝はおしむ。けちということ)するを以って性と為し。能く不慳を障えて鄙畜(ヒチクー鄙はいやしい・畜はたくわえる・いやしく蓄えるということ)するを以って業と為す」と言われているのです。
 鄙畜という財と法に執着して人に施さないという心が人間をきたなく・いやしくするのですね。
 『述記』の説明には「秘は蔵なり。慳は惜しむなり。慳の異目なり。鄙は鄙悪・畜は畜積、積集の異名。鄙悋慳澁(ヒリンケンジュウ)するを以って捨てることあたわざると名づく」、といわれています。
 財物と教法に執着するのですね。要するにケチなわけです。教えるということもですね、出し惜しみするわけです。隠し持って一番大事なことは教えないのです。この様な「慳悋(けんりん)の者は、心に多く鄙澁(ひじゅう)し財と法とを畜積(チクシャク)して捨する能わざるが故に。此れは即ち貪愛の一分を体と為す」と『論』には述べられています。財でも法でもつかんだら離さない。人のために施すことはもってのほかである、これは物惜しむということではなく、卑しくけちなわけです。この心が人間を小さくするのですね。この様な人には人を育てることは出来ないのでしょうね。またこの様な人に人はついてはいかないのでしょうし、このような人間にはなってはいけないことを教えているように思います。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (109) 結文

2015-05-23 18:28:04 | 第三能変 諸門分別 結文
 紫陽花がぼちぼち花を咲かせ、道行く人の心を癒してくれています。梅雨が近いのかな? 
  雑踏の、道行く人に、さりげなく、息づくいのち、有り難きかな
 
 
 今日は、諸門分別の結びです。
 「余門を分別することは、理の如く思う応し。」(『論』第六・二十三右)
 他の門を分別することは、理の通り考えるべきである。
 「述して曰く。謂く有無異熟と有漏無漏と、七随眠に摂して、八纏諸蓋に摂す。乃至、九品の等きを分別することは、皆理の如く思うべし。」(『述記』第六末・六十七左)
 『述記』の所論によれば、「余門」とは、十煩悩はいずれが有異熟か無異熟か、有漏か無漏と云う分析と、或は七随眠のいずれに摂めるのか、八纏のいずれに摂めるのか、五蓋のいずれに摂めるのか、或は九品の各々等のことである、と述べています。煩悩の十は十二門にわたって分析をしてきましたが、他の視点からの分析も考えられ、それらの分析は以上述べてきた十二問と同様に考えるべきであると結んでいます。
 七随眠とは、(仏教心理学HPより一部参照)
 随眠とは、表面に出てこない潜在的な煩悩のことです。

 表面的な心として表れて来ることはないので、普段は感じることができませんが、適当な所縁に出会えばすぐに煩悩として現れて来るものです。
例えば、柿の種には実がなっていませんが、柿の種には柿の実を実らせる潜在的な力がありますね?このように今は表面化していないけど、機会があれば表面化する可能性のある煩悩の種が随眠です。随眠を取り除くには阿羅漢になるしかありません。
 随眠(ズイメン)には次の7つあります。
 ① 欲貪の随眠 ― 一般的な五欲のもとになる貪心所を生じさせる潜在煩悩
 ② 有貪の随眠 ― 色界・無色界に生まれ変わって長生きしたいという貪心所を生じさせる潜在煩悩
 ③ 瞋恚の随眠 ― 怒りのもとになる瞋心所を生じさせる潜在煩悩
 ④ 慢の随眠 ― まわりと比較することでおごり高ぶる慢心所を生じさせる潜在煩悩
 ⑤ 見の随眠 ― 邪見のもとになる見心所を生じさせる潜在煩悩
 ⑥ 疑の随眠 ― 因果法則に対する疑いのもとになる疑心所を生じさせる潜在煩悩
 ⑦ 無明の随眠 ― 無明のもとになる痴心所を生じさせる潜在煩悩
 預流果(ヨルカ)を悟った場合
 預流果を悟ると、見の随眠、疑いの随眠がなくなり、以下の随眠が残ります。
 1.欲貪の随眠・・・一般的な五欲の随眠
 2.有貪の随眠・・・色界・無色界に生まれ変わって長生きしたいという随眠
 3.瞋恚の随眠・・・怒りの随眠
 4.慢の随眠・・・まわりと比較することでおごり高ぶる随眠
 5.無明の随眠・・・無痴の随眠
 一来果(イチライカ)では、煩悩が薄まるだけですので、新しく随眠がなくなることはありません。
 不還果(フゲンカ)を悟った場合
 不還果を悟ると、貪欲の随眠、瞋恚の随眠がなくなり、以下の随眠が残ります。
 1.有貪の随眠・・・色界・無色界に生まれ変わって長生きしたいという随眠
 2.慢の随眠・・・まわりと比較することでおごり高ぶる随眠
 3.無明の随眠・・・無痴の随眠
 阿羅漢果の場合
 阿羅漢果になりますと、全ての随眠がなくなります。随眠は煩悩の種ですから、もう煩悩は生じることはありません。

 纏(テン)は随眠の潜在的な煩悩に対して、顕在的な煩悩になります。
 纏とは、まとわりつくものという意味。煩悩が心にまとわりつき、真理を覆い隠すもの。具体的に働く顕在的な煩悩を指します。八纏・十纏を数えます。
 無慚・無愧・惛沈(コンジン)・睡眠(スイメン)・掉挙(ジョウコ)・悪作(オサ)・慳(ケン)・嫉(シツ) - 随煩悩の各項目を参照してください。

 五蓋(ごがい、巴: pañca nīvaraṇāni, パンチャ・ニーヴァラナーニ)とは、仏教における瞑想修行を邪魔する5つの煩悩、「5つの障害」の総称。「蓋」(がい、巴: nīvaraṇa, ニーヴァラナ)とは文字通り、認識を覆う障害のこと。
 五蓋の内容は、以下の通り。
 ① 貪欲蓋 ― 渇望・欲望
 ② 瞋恚蓋 ― 悪意・憎しみ
 ③ 惛沈睡眠蓋 ― 倦怠・眠気
 
 ④ 掉挙悪作蓋 ― 心の浮動・後悔 ⑤ 疑(ぎ)蓋 ― 疑い
 
以上で第三能変・諸門分別・煩悩の心所について述べ終わりました。続いて随煩悩について考えてまいります。以前にも簡単に説明しておりますので、重複する所が多々あると思います。
 尚、第二能変の投稿は2011年1月1日よりはじめています。第二能変は『成唯識論』にそって考究していますので、お目通しいただければ幸いです。カテゴリを追加して更新したいと思います。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (109) 第十二 縁事境縁名境分別門 (3)

2015-05-21 22:14:03 | 第三能変 諸門分別 縁事境名境分別門
先日の講義の感想文をいただきました。
 「 昨日の講義から感じたことを綴ります。知り合いが病になったとします。病になった本人は当然落ち込むと思われます。病を縁とは受け取らず、悪と受け取る事が大半でしょう。病は悪であって、決して縁ではない。気持ちは塞ぎがちになると思われます。親しければ親しい間柄ほど心配すると思われます。親が病気をした時に心配するように。ここで思った事は、他人を見る際、結局は妄想、勝手な自分の思い込みがあるなと。普段元気な人が病気になれば驚きますが、病気がちの人が病気になってもあまり驚かない。ほんと勝手な話です。寿命なんて誰にも解らないのに。元気な人が若くして亡くなる事もあれば、病気がちの人が長生きする場合もあるのに。自我といったものが、勝手に妄想を作り上げているのでしょうか?
今の自分自身を作っているのは過去の自分。未来はまだ来ていない。一度経験したことは忘れておらず、自分自身では忘れていると思っていても心には溜め込まれている。思ったのですが、忘れていると思っていても経験したことは忘れていないのは、怖いですね。怖い思い出があり、恐怖心が残っているのが本人には解らず、無意識から急に意識的に自分自身を苦しめるのでしょうね。地震を体験した人が少しの揺れでも恐怖を感じるように。
しかし感想になってなくてすいません。言葉の意味がなかなか理解不能でして。唯識、心の構造でしたね。意識と無意識の層があり、阿頼耶識といった、全てを別け隔てなく受け取る層がある。自我といった無意識の層が勝手に自分の都合の良いように、ここでは目といった機能から取り入れた情報を写し出している。思ったのですが、いくら美しい夕日を見ても、自分自身の利益の為に動くようになっていれば、夕日の美しさも解らなくなるのかもしれません。
よく人は外に問題があり、内、つまり自分自身を問題にはしません。仕事、人間関係、全て外に問題があり、自分は悪くない。とするのが世間でしょう。夕日の美しさ、本当は自分自身の心の奥底にあるのかなと。
人間は弱いし、嘘も必要です。人間関係においては嘘だらけ、と感じる事もあります。しかし嘘の人間関係はいつか崩壊します。自分自身の利益の為に他人を利用しあい、最期には崩壊してしまう。 本当にしなければならないのは自身と向き合う事でしょう。諦めるな。とか言っているのではありません。諦めきれない自分自身がいる。と僕自身は気がつかなければならないでしょう。縁とは不思議なものだと思います。しかし縁とは何なのか?と考えた場合、自分自身が呼び込んでいるのでしょうか?それとも偶然なのでしょうか?良い縁は必然で、悪い縁は偶然と捉えているとおもいます。しかし良いと妄想しているだけ、悪い縁と妄想しているだけかもしれません。大金を手にしたばかりに破滅する人もいますし。会社が倒産して、新しい自分の才能に気づく人もいますし。
全ては自身の受け取り方、受け取り方の基準は今までの経験と言う物差し、自分自身にしかない物差しで量り、判断をする。他人と意見が合わないのは当然の事かもしれません。結果外に問題を転嫁する。依存してしまい、全てが上手くいかなくなる。そんな感じでしたね。僕自身。破滅までいかないのは過去の人々の縁、今の縁でしょうね。感謝しなければ。自分自身が呼んだ縁と思いたいです。嫌な人間、合わない人間はいます。何故嫌なのか、合わない人間なのか?そういった人間になりたくないからでしょう。ではどのような人間になりたいのか?解りません。それを探すために勉強しなければならないでしょう。まあもうちょい知らない人間、知らない場所に行かなければならないかも。全ては自分自身が作り出している世界。逃げる事は不可能。変える事は出来るかなと。自分自身が変われば、見えてくる世界は変わる。もっと自分自身を磨いて将来を変えよう。とか言っているのではありません。過去の自分自身と向き合わなければ、苦しい嫌な過去と向き合わなければ、いくら自分を磨いても仕方ない。過去の自分自身と向き合う為には、心の構造を知る必要があるのではないかと。というか過去の自分自身を見なければならない、と思ったから唯識に出逢ったのかもしれません。過去の自分自身なんて見たくもないですけどね。正直。笑顔を忘れた過去ですから。しかし過去の自分自身も自分自身が造った世界ですものね。今は言葉の意味より、自分自身と向き合わなければならないと思っています。
今日思ったのですが、意識しなくても歳は重ねていくんだなと。歳を重ねるぞ。と言う人はいませんか。なんか不思議でした。自分自身の姿はあまり観ず、他人ばかり見ているなと。40年間なんとか生きさせて頂いてますが、いつの間に40年経ったのだろうと。」

 河内 勉
 いつの間にか歳を取っていくもんですね。振り返ってみると、自分の思い通りに生きたいとあくせくしていたと思います。
 他人を利用しょうとかということでなしに、自分の思いを通したいところに、他人を利用していたと思います。
 しかし、利用した代償は、自分の身に降りかかってきます。それが今の自分の姿です。因果応報、理に叶っているんですね。振り返ってみるとですね、思い通りになったためしがありません。それほど、思いは通らないということなんですね。
 思いの中味は孤独ということだと思います。自分さえ良ければ、自分さえ裕福であれば、自分さえ幸せであればという思い込みが自分を支配していたと思います。
 人として生まれたのには意味がある。死することにも意味がある。何処に向かって歩いているのか、はっきりさせないと。貴方はまだまた若い。足元を見つめて、方向づけをしないとあきません。世間はそれの縁です。仕事も縁です。縁が尽きれば退職しなければなりません。しかし生きることをやめるわけにはいきません。
 生まれてきた意義は生死のとらわれから開放されることなんでしょう!
 いのちは公のもの。私物化できないものです。私物化しているいのちを公に開放することが、今の自分に課せられた宿題やと思っています。
 ほんまに、好き勝手に生きてきて、ええかっこ言うてもあきませんが、親鸞聖人に出会って、はっきりしたことです。無茶苦茶に生きてきて、ほんまに有り難い人生が与えられていたことに感謝しています。若し出遇っていなかったら、僕の人生は後悔ばかり、人を責めてばかりいたでしょう。「俺の人生無茶苦茶にしたのはあんたのせいや。なんでこんなに苦しい人生を送らなあかんのや」とね。紙一重とはこんなことを言うているのではないでしょうか。 (了)
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「他地(上地)と及び無漏を縁ずるは、分別所起の名境を縁ずと名づく。影像と本質とは相似せず。滅道は深遠なり。他処は遠き故に。依も縁も増せず。ただかの名を尋ね、かの名のみ増すべし。故に分別所起の名境という。或は、また名とは、即ち心心所の相分の名なり。また能分別によって起されたるが故に。これは瑜伽の五十八・五十九、対法の第六・第七の抄に説けるが如し。別の所以あり。」(『述記』第六末・六十六左)
 後半部分の『述記』の所論になります。
 煩悩が、滅諦と道諦と及び上地を縁ずる場合にあ、影像相分(親所縁)が本質相分(疎所縁―影像相分から見て疎である)と相似しないので、分別より起こる名境を縁ずると名づけるのである、という解釈になります。
 何を意味しているのかと云いますと、滅諦や道諦は無漏なんですね。また他地は定の世界であり、少なくとも欲界ではないということになります。しかし能分別する認識主体である煩悩は有漏であり、自地(欲界)に存在するものである。そうであるならば、影像と本質は相似しないということになります。影像相分の上に、本質相分を重ねて、影像相分が現出したものを縁じているにすぎないわけですから、滅諦や道地や他地といっても、それは名のみを縁じているということになり、後半部分の解釈は、名という境を縁じているという、「分別所起の名境を縁ずと名づく」といわれているわけです。
 ただ、名境は、五法の中の名を指しますので、認識主体である能縁の見分が現出した名を相分とするという解釈が正義となります。
 名前だけを認識して解釈をしているに過ぎないということですから、無漏法という名を対象としているわけですから、有漏にすぎないというわけです。