唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (73) 第七、三界分別門 (10)

2015-03-27 19:58:58 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門
 春風に乗って、桜一気に開花しましたね。春爛漫です。もうすぐ学校の校庭も満開になりますね。(昨年の横堤小校門の桜です)

 後半は、『瑜伽論』巻第五十八等を会通する。
 『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623b)等には、上地にいる者は下地の煩悩を生起させることはない、と説かれている。また巻第六十二(大正30・645c)には、下地の諸法は上地に生れるときには現前しないと、説かれている。これ等の所論と、『論』の所論とは矛盾することになり、本科段において会通するのである。
 『瑜伽論』巻第五十八(大正30・623b)の所論は
 「諸の煩悩の纏にして未だ自地の煩悩の欲を離れざる者は自地に現起し、已に欲を離れたる者は即ち現起せず、若し下地に在りては上地の諸纏をば亦た成就することを得、上地に在りては下地の諸纏を成就すと説くことを得るに非ず。・・・」
 巻第六十二(大正30・645c)の所論は、
 「下地の諸法は若し上地に生ずれば現在前せず、上地の諸法は若し下地に生ずれば其の離欲の者は或は現在前す。若し下地に生じ上地に於いて愛を起こし、未だ離欲を依ず、定心ならざればまさに此の愛は是れ欲界繋なりと言うべく、まさに知るべし、此の愛は是れ染汚、或は不染汚なりと。・・・」

 「而も上に生れて下のを起さずと言えるのは、多分に依って説けり、或は随転門なり。」(『論』第六・二十左) 
 しかし、上地に生れて下地の煩悩を起こさないと(『瑜伽論』)に説かれているのは、多分(大体・おおまかに)に依って説かれたものである。或は随転理門によって説かれたのである。
 ① - 多分に依って説かれたもの。
 ② - 随転理門に依って説かれたもの。
 ①については、『述記』には、惑数に約すのと、起こる時に約すという二点が説明されています。惑数に約すというのは、「余の三見(辺見・見取見・戒禁取見)と疑等とは下のを起さざる故に、」、起こる時に約すというのは、「ただこの二時に此れ等を起こすが故に。」と釈されていますが、惑は煩悩の異名ですから、煩悩の数の多少の視点から、起こる数と、起こらない数によって、起こらない煩悩を多分として説かれているのであると会通してきます。つまり、上地にいる者は下地の邪見・瞋・痴・愛・慢・我見は起こすが、その余の三見と疑は下地のものをを起こすことはない、これを多分として『瑜伽論』には説かれているのですね。
 もう一つは、起こる時に約すという、時の視点からですね多分を説いてきます。謗滅時(分別起)と潤生時(倶生起)の二つの時を指しています。この二つの時は、上地にいる者は下地の煩悩を起こすわけですが、この時以外の多くの時には下地の煩悩は起こさないので、『瑜伽論』は多分に依って説かれたものである、と会通しているのです。
 ②についてですが、随転理門はよく出てきます。他の学説に随って記述するという方法です。ここでは有部の教説に順じて説かれたのであると会通しています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (72) 第七、三界分別門 (9)

2015-03-26 20:24:04 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門
 大阪管区気象台は26日、大阪市で桜(ソメイヨシノ)の開花を観測したと発表した。職員が大阪城公園西の丸庭園(同市中央区)の標本木で5輪以上の開花を確認した。平年より2日、昨年より1日早い。(朝日デジタル)
 
 後半の部分です。
 上地に在る者が、下地の倶生起の煩悩を起こす場合について述べられます。
  「身は上地に在って、将に下に生ぜむとする時には、下の潤生倶生の愛を起こすが故に。」(身は上地に在りながら、まさに下地に生れる時には、下地の潤生の倶生起の愛(貪)を起すからである。)
 倶生起の煩悩は、輪廻する時に正潤生(主)となって生を潤(潤生)し、分別起の煩悩は助潤生となる。十二支縁起で云えば、老死・生・有・取・渇愛・受・触・六処・名色・識・行・無明(『大乗の仏道』東本願寺刊、より) 潤生の時に、上地に在りながら、下地の煩悩を起こす時であると説かれています。
 「潤生の愛を起こして下に生ずることも亦是れなり。即ち是れ倶生の無記の煩悩なり。この中に言うべし。我見・我愛、及び慢、無明なり。無明、愛は定有なり。我見、慢は不定なり。未だ必ずしも倶ならざる故に、所以に説かず。」(『述記』)唯識は、中有において生を転ずることがあるという立場になります。中有が有るとか無いという問題ではなく、中有があって初めて生有という、生まれることが起って来たんだと云う自覚でしょう。迷いと倶に生れて来たということでしょうね。それと、阿頼耶識には煩悩は存在しない、純粋無垢である、そこに救済の糸口があるのではないでしょうかね。煩悩と共に生まれてきたけれども、本識には煩悩は無いということなんですね。
 「有」と云われる、この場合はビハーバ(bhava)という生命的存在を指しています。私たちには分かりませんが、分別起の邪見を起したのか、或は倶生起の愛を起こしたのかに由って、人間界に生れてきたのでしょうね。一言でいえば、迷よった、ということでしょう。
 五悪趣という輪廻の主体なんですが、人間界はその中でも善趣といわれています。何故なのでしょう。三悪趣から転生したのかもしれません。また上地から転生したのかもしれませんが、いずれにせよ、ラストチャンスを与えられたことだと思いますね。人が人として生きるのは、菩提心をもって生きることであり、浄土を帰依処として現世に落在することでなければならんと思いますね。そのようなチャンスを与えられていることに頭が下がっていくのではないでしょうか。
 横川法語(源信僧都)
 「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや、家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。心におもうことかなわずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうきはいとうたよりなり。人かずならぬ身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。このゆえに、人間に生まるる事をよろこぶべし。信心あさくとも、本願ふかきがゆえに、頼まばかならず往生す。念仏もの憂けれども、唱うればさだめて来迎にあずかる。功徳莫大なり。此のゆえに、本願にあうことをよろこぶべし。また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生うたがい有るべからず。妄念をいとわずして、信心のあさきをなげきて、こころざしを深くして常に名号を唱うべし。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (63) 三性分別門 (4)

2014-10-01 23:24:31 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門

 倶生起の身見(薩迦耶見)・辺執見が有覆無記であることの理由が示されます。

 「當に知るべし、倶生の身辺二見は唯無記のみに摂むるを以て、悪業を發せず、数々(シバシバ)現行すと雖も、善を障えざるが故に。」(『論』第六・二十右)

 まさに知るべきである。倶生起の身見と辺執見はただ無記のみのものであるから、悪業を生起しないのである。何故なら、しばしば(間断がなく)現行するとはいえ、善を障礙しないからである。

 再録しますと、倶生起の煩悩に於て、有覆無記であるのは、貪・癡・慢・薩迦耶見・辺執見であるのですが、三界に通じて有覆無記であるのは、薩迦耶見と辺執見の二見のみであると言われています。貪・癡・慢で悪業を發するものは不善・悪業を發しないものは有覆無記であると説明されていましたが、本科段は再度。薩迦耶見と辺執見の倶生起にあっては悪業を發するものではないとし、有覆無記であると押さえているのです。

 本科段は「雖数現行不障善故」と如何に読めるかですね。一見矛盾をきたします。悪業が間断なく生起するならば善を障礙しますからね。

 『述記』の説明をみますと、「重ねて二見は無記性なるを以て悪業を發せずと云うことは前に同じなり。」

 前に同じという理由は① 細である。 ② 善を障礙しない。 ③ 自他を損悩しない。 ④ 数現行の四つの理由からであると述べています。

 分別起にあっては悪業を發するものは不善であるとしながら、倶生起にあっては悪業を發しないとし有覆無記であるとされているのは、私に思いますには、生まれきたのは無始以来の業を背負って生まれてきたのでしょうが、異熟果としては無記であると。一つのキイワードは「この身今生において度せずんばいずれの生においてかこの身を度せん」という「度す」という方向性が分別起を破って、この欲望に満ち溢れた世界の中で有覆無記として現行しているのではないのかと思うのです。

 種子生現行 - 現行されたものは無記性。

 無記性である現行が第七末那識に由って色づけされる。 - 現行熏種子

 善の種子・悪の種子として、- 種子生種子として阿頼耶識の中に記憶される、 - 表面化する時は因は善か悪であるが、果は無記として現行する。

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (62) 三性分別門 (3)

2014-09-28 13:01:22 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門

 では、欲界ではどうなのかという問いに答えます。

 上二界では「定に伏せらるるが故に」と。定に伏せられて、上二界の煩悩は有覆無記であることが示されましたが、欲界での問題ですね。

 「若し欲界繋(ヨクカイケ)のをば、分別起ならば唯不善のみに摂む、悪行を發するが故に、」(『論』第六・十九左)

 本科段も、分別起と倶生起に分けて説明されます。先ず、分別起ではどうなのか、ということです。

 分別起はただ不善である。何故ならば、一向に悪行を起すからである。(九煩悩で欲界に存在し、かつ分別起のものはという問いですね。対して分別起の煩悩が悪行を起すものだから、ただ不善である、と答えています。)

 次に、倶生起の問題です。二つに分けられて説明がされています。一つは、悪業を發するもの、二つには、悪業を發しないものについてです。

 第一は、悪業を發する場合について、

 「倶生は二有り、悪業を發するものは亦不善なり。瞋の性は定んで然なり。余の三(貪・癡・慢)の少分(発業)は自他を損するが故に。」(『述記』)

 「若し是れ倶生ならば、悪業を發するをば亦不善に摂む、自他を損するが故に、」(『論』第六・十九左)

 (もしこれが倶生起のものであれば、)悪業を發する欲界の貪・癡・慢の倶生起の煩悩は、また不善に摂められる。何故ならば、自他(現世と他世)を損なうからである。

 第二は、悪業を發しない場合について、

 「余をば無記に摂む、細にして、善を障えず極めて自他処を損悩するに非ざるが故に。」(『論』第六・十九左)

 余(倶生起の貪・癡・慢の中で悪業を起こさないものと、倶生起の身見と辺執見)のものは有覆無記でる。何故ならば、細であり、善を妨げず、現世と他世を損悩しないからである。

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 復習ですが、欲界の中での十の煩悩の中で分別起・倶生起を問わず、瞋はただ不善である。

 貪・癡・慢は(悪業を起こす時は)不善・(悪業を起こさない時は)有覆無記である。

 疑はただ分別起のみに存在する。疑は欲界に在っては不善、上二界にあっては有覆無記。

 身見(薩迦耶見)・辺執見は倶生起に在っては、ただ有覆無記。

 邪見・見取見・戒禁取見は分別起のみの煩悩で欲界に在っては、唯不善である。

 十煩悩の中で瞋を除いて、上二界に在っては分別起・倶生起を問わず、有覆無記である。

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 有覆無記である理由なのですが、

 (1) 細にして、(「一に微細に由る」。)

 (2) 善を障えず、(「二には善を障えず。善の位にも亦起こるが故に。第七識と倶なるものの如し。」)
 第六意識が善(信・慚・愧等)の時も、第七末那識相応の煩悩は恒審思量で働いているが、直接的には善を妨害することはない、という意味になります。

 (3) 自他を損悩しない、(「三には、極めて自他を損するに非ず。五十八に説く、しばしば現行(数現行)するが故に、此を並せば四因なり。」)

 (4) 数現行(『述記』の所論)を加えて四因に由る。数現行については次科段で説明されます。

 数(しばしば)とは、間断がないという意味です。『瑜伽論』巻第五十八に「倶生の薩迦耶見は、ただ無記性なり、數現行するが故に、極めて自他を損悩する処に非ざるが故なり。」と説かれています。

 結論は次回にゆずります。

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (61) 三性分別門 (2)

2014-09-26 22:24:29 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門

 上二界に在っては、倶生起・分別起を問わず、定んで無記であることを顕す。

 「上二界のをば唯無記のみに摂む、定に伏せられたるが故に。」(『論』第六・十九左)

 「余の九は二に通ず」をうけて、先ず、上二界ではどうかという問いに答えています。上二界に存在するものは、唯無記(有覆無記)のものである。それは、定に伏されているからである。

 上二界という禅定の世界では、煩悩はあるけれども、禅定に伏せられて無記になる。煩悩は悪(不善)であるけれども、禅定によって、不善は覆われ無記性として現前してくるわけですね。

 この科段においてもですね、「不断煩悩得涅槃」の持つ意味が窺えますね。聞法は欲界の出来事ではなく、禅定の世界なんですね。倶生・分別を問わず無記であると云っています。

 欲界の中に在って、欲界を超えて禅定の世界に身を置くと、煩悩はそのままに、煩悩は禅定に覆われて無記となる。無記は平等性をあらわしますから、自他不二ですね。僕はね、これがお蔭さまの世界ではないかと思うんです。煩悩は悪なんだけれど、煩悩が聞法に覆われて「ありがとう」といえる世界が共有される。お蔭様、仏仏想念の世界の現行です。

 覆ということも、真実を覆うとい意味と、煩悩を覆うという意味の二つの捉え方があるのですね。深い世界を言い当てていますね。  南無阿弥陀仏

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (60) 三性分別門

2014-09-25 22:09:06 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門

 本科段より、三性分別門に入ります。

 十の根本煩悩のそれぞれは三性(善・悪・無記)ではいずれになるのかを論じるところになります。

 「此の十の煩悩は何れの性にか摂めらる。」(『論』第六・十九左)

 三性とは善悪の問題です。そして善の煩悩は無いんですね。煩悩には悪のものと、有覆無記のものと、ただ有覆無記のものとがあることを論じられます。

 私たちは煩悩といえば直ちに悪のもの、身を煩わし、心を悩ますものとして捉えがちですが、根本煩悩を分析していきますと、煩悩と三性の関係、そして三界との関係について明らかになってきます。

 「瞋は唯不善のみなり、自他を損するが故に、余の九は二に通ず。」(『論』第六・十九左)

 瞋はただ不善(悪)のみである。何故ならば、自他(現世と他世)を損するからである。他の九は不善と有覆無記の二つに通じる。

 『述記』によりますと

 「瞋は唯不善の一性に摂めらる。起らざれば即ち已むべし。起る時は必ず自他を損する。現世と他世に皆損と名づくるが故に。余の九は二に通ずとは、此は総じて言うなり。」

 (「論。瞋唯不善至餘九通二 述曰。瞋唯不善一性所攝。不起即已。起必損自・他。現世・他世皆名損故。餘九通二。此總言也。」(『述記』第六末・四十四左。大正43・3452c)

 瞋は現世と他世を損する(傷つける)ということで、唯不善である、と述べられてあります。瞋は唯欲界のみの煩悩であり、怒りが有るということは正しく欲界にうごめく有情ということなのですね。瞋は倶生起のものと分別起のものとが阿存在しますが、欲界のみの煩悩であるということです。ですから前六識に働く煩悩で、第七識・第八識には働きません。

 瞋とは、「苦と苦具とに於て、憎恚するを以て性と為し、能く無瞋を障え、不安と悪行との所依たるを以て業と為す」心所である。

 「苦と苦具とに於いて」、瞋という煩悩が起きるのだと言われているのです。苦は四苦八苦といわれますように、今の自分が壊れるのではという不安からくる苦ですね。(壊苦)。それ自体が苦である(苦苦)。それから行苦です。自分が常にあるという思いがありますが、本来は無常・無我ですね。そのギャップに苦しむのだと言われているのです。この三苦を苦といわれるのです。苦具は苦を生ずる原因となるもの、苦を生んでくるすべてですね。それが心を激しく乱すわけです。怨みですとか、嫉妬ですね。これ等が激しく心を乱し怒りを生んでくるのです。「一切能生活者」といっていますね。性は「憎恚」するといわれます。憎み怒るということです。怒るということはもう鬼の形相ですね。相手を睨みつけて、威嚇していますね。怒ったときを想像してみますと、眼を見開いて睨みつけていますでしょう。この心を瞋というのです。そして根に持つということがありますね。いつまでもですね。これを恚というのです。『成唯識論』には「苦・苦具とに於いて、憎恚するを以って性と為し。能く無瞋を障へて、不安と悪業との所依たるを以って業と為す。謂く瞋は必ず身・心をして熱悩して諸の悪業を起さ令む。不善の性なるが故に」と教えています。
親鸞聖人は煩悩の身を生きる者を凡夫といわれていました。「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』真聖p545)と凡夫の心の内実を自身の身の上に於いて明らかに指し示してくださいました。この心の状態は日常的に起こっているもので、私の心のあり方を言い当てられています。鋭く厳しい指摘は「ひまなくして」ということです。いつでもですね、真実を知ろうとする心を徹底的に妨げるのです。欲もおおく、貪欲です。怒り、腹立ち、そねみ、妬む心は瞋恚ですね。それが臨終の間際まで絶えず、きえずといわれていました。煩悩の天敵は求道心・菩提心なのです。真実を知られたくないのです。ですから徹頭徹尾真実をしろうとするこころを妨害します。そして真実でないものを真実と思い込ますのでね。私はそれを頼りに生きているのです。この間の事情は善導の二河白道の譬えが絶妙に語っています。「月日は百代の過客にして、いきかう年もまた旅人なり」といわれますように人生は当てのない放浪の旅のようです。その中から一筋の光を求めて自分探しをするのも人生の大切な事ではないかと思うのです。自分探しをする時「自己とは」という問いの前に道を塞ぐように貪・瞋の煩悩が行く手を遮るのです。私の人生の中で初めて具体的に煩悩が問題になるのですね。二河白道は貪・瞋の煩悩を水火の譬えで言い表しているのです。「一切往生人等に白さく」と。求道心を持って道を歩む人ですね。真実を求めて歩いた途端、自分の中から障碍する貪・瞋の煩悩が頭をもたげてくるのです。ですから私の中から「能生清浄願往生心」(能く清浄なる願往生の心を生ぜしむる)が起こって来るわけは無いのです。「生ず」とは云われていませんね。「生ぜしむ」と云われ、ここに法蔵願心を思わずにはおれません。「設我得仏・若不生者・不取正覚」という願心ですね。私が目覚めるまで、どこまでも、地獄のそこまでも、あなたと共に流転していきましょう、という願心に限りない慈愛を感じますし、限りない恩徳を感ぜずにはおれないのです。親鸞聖人はこの「心」を「無上の信心、金剛の真心を発起するなり。これは如来回向の信楽なり。」と如来回向の信を明らかに指し示してくださいました。「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」(真聖P225)は私のことを言い当てているのですね。この心に「今」決着をつける時なのではないかと思います。決着をつけた時、一つの白道が開かれてくるのではないでしょうか。この道を歩めというわけですね。なぜかといいますと、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」と。いずれの道を選んでも「死」とまぬがれることは無いと云うことです。仏法不思議といいますが、聞法の縁ははかりしれないのです。縁無量ですね。よき人とのち値遇によって「我が身」が問われることになるのです。この時、死の問題が眼前に迫ってくるのです。死の問題はイコール生の問題であるわけです。生きることの意味が問われているのです。三定死の眼差しから歩むべき道が見いだされるのではないかと思います。それが「往生極楽の道」を問うということであり、「すでにこの道あり、必ず度すべし」ということに頷くことなのではないでしょうか。そして「我寧くこの道を尋ねて前に向うて去かん」という歩むべき道が定まるのです。「本願力にあいぬれば/むなしくすぐる ひとぞなき/功徳の宝海みちみちて/煩悩の濁水へだてなし」と、釈迦の發遣・弥陀の招喚の恩徳を謳われています。