唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(36) 結び

2015-10-07 23:01:25 | 初能変 第三 心所相応門
  

 「此の五は既に是れ遍行に摂めらる。故に蔵識と決定して相応す。」(『論』第三・三左)
 この五(触・作意・受・想・思)の心所は遍行の心所ですから、どのような心が起こる時にも必ず遍行する。よって、蔵識である第八識とも決定して相応して働くのである。
 「其の遍行の相は後に広く釈せり」(『論』第三・三左)
  「述して曰く、遍行の義を指す。及び心所等が(所縁の境の)総・別の相を縁ずることは、第五巻(『述記』は第六本)に自ら當に広説するが如しと。・・・」
 識体(心王)と心所との関係ですが、
  心王 ― 総相を取る(総論)。
  心所 ― 総相と別相を取る(総論と各論)。という関係です。
 まず心王(識体)が対象を概括的に認識し、それにもとづいて心所が詳細に動いてきます。(『唯識とは何か』p69より)
 心所は五十一ありますが、第六意識はすべて備えています。よって、心所論は巻第五に詳しく説かれます。遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六位五十一の心所が説かれるのです。
 「此の触等の五は異熟識と行相異なりと雖も、而して時と絵と同なり。所縁と事と等し。故に相応と名づく。」(『論』第三・三左)
 触等の五は心所ですが、異熟識は心王です。心王と心所の関係は、行相(見分・了別)が異なる。識は了別の作用をもっているが、触等の五とが、はそれぞれ行相が違う。触は境に触れることを性とし、受は領納することを性とし、想は取像を以て性とするように、それぞれ行相が異なっているが、時と依とは同じである。現行する時と所依は同じであると。
 時は同です。同じ刹那に生起している。今の刹那に同時に起こっていて、時がずれることがない。時は=刹那です。遍行とはこういう意味があるのですね。所依が同じであるというのは、根に依って起こっているということなんですね。異熟識には、所依の根があります。何に依っているのかと云いますと、第七識に依って起こっていますから、同じく第八識の所依の根と、相応する心所とは同じ根に依って起こっていますから、時と依とは定んで同じであると説かれているのですね。
 しかし、次ですが、「所縁と事と等し」と説かれているのです。
 事は自体分。影像相分を所縁と、これは等しい、相似の義であると云われています。識体は各々一つですが、境相は相似しているので、所縁と事とは等しいといわれている。
 「自体転じて二分に似る」と、識体が転じて見・相の二分に似て現れる。そして心所である触等の五は、本識の相に依って生じてきますから、心王と心所の所縁は相似している。自体分は同じではありませんが、識は識として自体分があり、そこから転じて二分に似る、心所の方も、心所の方で自体分があって、そこから転じて見相二分に似て現れてきます。所縁と事とは同じではないが等しい、それで相応と名づけるのだ、というわけです。
 説明不十分ですね。まとまりがつきましたら追記します。
 

初能変 第三 心所相応門(35)思の心所 (3)

2015-10-06 23:31:00 | 初能変 第三 心所相応門
  

 思の心所は、行動の原理を明らかにしたのでしょう。善悪業を起こすのは何故なのか。思というと、思いですから、考えると思いがちなのですが、そうではなくて、業を造るという行為に関係した心所であるわけです。為作造作の義といわれます。有為法です。
 法は有為・無為に分けられますが、「為」は為作・造作の意義を示し、因縁に依って生起し、生滅変化するものを有為法、そうでないものを無為法を示しています。有為はまた、有漏と無漏に分けられ、有漏は三性(善・悪・無記)に亘るけれども、無漏は善性に限るとされます。無為は無漏であり、善性であるわけです。
 造作とは、行為をなすことですが、現象的存在を形成する働きが最も強いことから行の代表として思があげられています。有為を形成する行為を為作造作というわけです。では、行為をする場合には何が中心となるのでしょうか。私たちは何を依り所として行為を成り立たせているのでしょう。そして、行為そのものが、私を形成している因となっているのですね。因は種子です。種子が発芽して現行するわけですが、現行するには現行する因(種子)があるわけです。それが思の心所であると云われるのですね。
 行為そのものは第六意識と関係するわけですが、ここに第七末那識が大きく関与してきます。位からいいますと、我愛現行執蔵位なのです。為作造作の中心は我なんです。自分の思い通りにしたいという欲求です。ああしたい、こうしたい、あれがほしいと思えば、ありとあらゆる手段を講じて為作造作します。策略を巡らすわけですね。それが意思の正体なのかもしれません。
 意はmanas、考えるものというところから、こころを総称していますが、常に我と我がもの(我・我所)分別を立てて、我を主とし、我所を従として、自己中心性を成り立たせているのです。自己中心の思いを成し遂げたいという欲求ですね。これがなかなか見えてこないのですね。少なくとも、少しでも見えて来たら、悲が生まれます。この悲が自己中心の我を救うのですがね。抜いた刀を元のさやに収めることは容易ではありませんね。ましてや曠劫以来の倶生起の分別は見えてきません。しかし、見えてこないという悲もあるのではないでしょうか。
 悲は抜苦を意味します、苦悩を除き、楽を与えるのは悲なんです。与楽は無瞋ですが、無瞋の背景には悲があり、悲は慚愧を生むのですね。慚愧には瞋恚は働きませんから、楽を与えるということが成りつのですね。(第三能変・善の心所・不害の項参照)
 行為には、何らかの目的をもっているわけですが、それは自分の為という目的です。それが行為の性なんですね。その主体が思の心所になるわけです。五蘊の中で、色・受・想・行・識の中で、行の中にはあらゆる心所が入っていますけれども、その中の主体は思の心所で代表させているのです。ありとあらゆる行為を成り立たせている中心が思の心所であるというわけです。
 思の心所が行動の原理であるというのは、このことなんです。行はサムスカーラ、サムスは諸、カーラは造られたもの、あらゆる造られたもは無常である。無常であるが故に、必ず壊れる、行は曠劫以来の習性として常ではなく、壊れるべくしてあるのもということなのでしょう。ここから、無常は無我につながるのでしょうね。つくられた我は壊れるべくしてある我である。
 思の心所はこのようなことを教えてくれます。
 「謂く能く境の正因等の相を取って、自心を駆役して善等を造せ令むるぞ。」(『論』第三・三左) と。

 
 参考
 害を翻じた不害が善の心所に入られる理由、。
 「害も亦然なりと雖も、而も数々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に、彼が増上の過失を了知せしめむが故に、翻じて不害と立てたり。」(『論』第六・九左)
 随煩悩の害もただ第六意識のみに存在するといっても、しかし、しばしば現起して、他を損悩する為に、また無上乗の勝因である悲を障碍する故に、害の増上の過失を知らせんが為に、害を翻じた不害として立てたのである。
 害について
 「云何なるをか害と為す。」 害という煩悩はどのようなものであるのかという問いです。害は「そこなう」という意味で、傷つける、妨げるということです。他を傷つける、殺傷するということになりますね。それが害と云う煩悩の性質であるといっているのです。これは自分に不都合なことが起こると他を傷つける行為に及ぶ。これは日常茶飯事に起こっています。自分と云う他に変えられることのできない命を与えられていることへの目覚めがないのですね。それによって他を害することに於いて自分を守ろうとするわけです。これもまた顛倒ですね。『論』には
 「諸々の有情に於いて心に悲愍(ひみんー慈悲の心・愍はあわれむという意)することなくして損悩(そんのうー傷つける事)するを以って性と為し。能く不害を障えて逼悩ーおしせまる意)しるが故に。謂わく害有る者は。他を逼悩するが故に。此れも亦瞋恚の一分を体と為す。」
 と言われています。害というのは慈悲がないということ、ものをあわれみはぐくむことがなく相手を傷つけることを性とするのです。それによって慈悲する心を障へて相手に逼るのが働きとなるのです。自分の心に害心をもっているのですね。それが外に働くときに相手を傷つける行為に走らせるのでしょう。害は瞋恚の一分になります。瞋恚は、ものの命を断ずることなのですが ーニ河白道の火の河ですね。焼き尽くしてしまいます。- 害は相手を傷つけるということになりますから瞋の一分である。
 私たちは知らず知らずの内に相対世界・善か悪に染まっていて自己中心的にしか生きれなくなっているのですね。この善か悪と云う概念は時と場所によって変化するのですね。極端な例を挙げますと「殺」という問題です。仏陀は五戒の中で一番最初に「殺すことなかれ」という不殺生戒をいわれました。これは命の尊厳という眼差しから生み出されてくるものですが、私たちの常識から言えば「人の命は大切・しかし敵は殺してもよい。テロリストは排除すべきである。そして私に害を与えるものは排除する。」という発想が有るように思えてなりません。何故命は大切であり・尊厳なのかを根源から問う姿勢が求められているのでしょう。「私に害を与えるものは排除してしまう」という心の深層にメスを入れ「害」が本能であるという目覚めが不害へと転じていく機縁となるのではないでしょうか。
害は所対治されるもので、能対治は不害になります。
害もまた六識中第六意識にのみ存在する随煩悩の心所であるから、害を翻じた不害は善の十一の心所の中には入れられないはずである。にもかかわらず、何故害を翻じた不害は善の心所に入れられているのか、というのが設問であり、問いに対する答えが本科段になりますね。
 答えは、害は「數々現起し、他を損悩するが故に、無上乗の勝因たる悲を障うるが故に」という、害は悲を障礙する働き顕著である為に、というのがその理由である、と述べています。
 述記』には、三つの理由を挙げています。
 ① 「しばしば現起する」。害はしばしば現起する心所であり、他の煩悩・随煩悩に勝れている。
 ② 「他を損悩する」。嫉・慳には他を損悩する働きは無い。
 ③ 「無上乗の勝因である悲を障うるが故に」。害は、大乗仏教の勝因である悲を障礙する。
 前に戻ります。何故、無瞋とは別に不害の心所を立てられなければならないのか、 
 「慈と悲の二の相、別(コトナル)ことを顕さんが為の故なり」
 無瞋は慈の働き(与楽)、不害は悲の働き(抜苦)を明らかにし、「有情を利楽することに於て、この二の働きは勝れたものだからである」、と、理論上から、そして実際的な視点から説明されています。
 如来の願心は大悲心であるということが思いだされます。南無阿弥陀仏は法であると聞いて、理解していたんですね。感覚的にですが。しかし、はっきりと法であるということがどうも解らなかったんです。法というと無為法ですね。無為法というと真如。真如というと、虚空の如く、幻事のごとく、有にも非ず、無にも非ずということで、働きが見えてこなかったんです。はっと思いましたね、ああこれだ、と。迷いが大悲なんだと。苦しいことが大悲に預かっているんだと。教法を聞いていますと、教えの外に苦悩の原因を求めているような、教えを阻害している自分が有る、と。しかしそんな存在はないんですね。いうなれば法に迷っている、苦しんでいるということになりましょうかね。この苦悩が法の働きなんですね。法の中で苦悩しているんだな、と。疑惑とは胎宮というのは法を実体化している罪なんですね。法を実体化している罪を遍計所執性と表わしているんですね。気づきは、依他起性なんでしょう。それを包んで、まろやかな光の形をもったものが円成実性、南無阿弥陀仏なんですね。それが大悲として表現されているんではないかと思いました。大悲と倶にあるものが我が身、「大悲無倦常照我身」、大悲の働きに於て我が身が照らされている、「すでにして道有り」と。

初能変 第三 心所相応門(34)思の心所 (2)

2015-10-05 23:11:32 | 初能変 第三 心所相応門
 

 「思謂令心造作為性。於善品等役心為業。」(『論』第三左)
  思と云うは謂く、心を造作(ゾウサ)せしむるを以て性と為し、善品等の於に心を役(ヤク)するを以て業と為す。

 性は本性であり、不退という意義をもっている。思の性は造作(行為をなすこと)すること。
 業は、造作の働きで、心を役するこである。心を使って、行動を起こすこと。
 つまり、意思する心です。意思とは考え、思いという意味があり、業を表しますますが、もう一つの意志は、成し遂げようとする心、すなわち行を表します。
 受・想・思という流れを見ていますが、受は愛を起こし、想は言語を成り立たせ、そして思は業を成り立たせる。業は行為ですから、行為の本質は思であると教えているのです。
 この性と業について、『演秘』(第三末・六左)に、問いが立てられています。
 「論に「思と云うは謂く、心を造作(ゾウサ)せしむるを以て性と為す」とは、問う。性と業と何んぞ別なる。答う。有義は心をして総じて善等の法の中に於て造作せ令無るは此れ思の性なり。三性の中に於て改転(カイテン。変化すること)して造作することを説いて名づけて業と為す。・・・業は役して作さ令む・・・」
 と説いています。
 役は、駆り立てて働かせること。駆役(クヤク)と同義。

 思とは行為なんですね。思うだけではないんです。思うだけなら感情というもので、思は意思決定を伴うのですね。この考え方は、経量部の考え方なんですが、ここが、『倶舎論』は有部の論書であるとされているわけですが、『倶舎雹論』(阿毘達磨順正理論)を表された衆賢は、世親が経量部(きようりようぶ)の立場から説一切有部を批判しつつ『阿毘達磨俱舎論』を著すと,12年を費やして反論の書《阿毘達磨順正理論》80巻を書かれたのです。世親の意図を見破られたわけです。
 有部では、業は形色(ギョウシキ)とされ、長・短・方・円・麁・細・正・不正・高・下などの形をいうとされました。これが業の本質である、と。それに対し、世親は経量部の立場に立って、形は意志によって動く時に行為になると、有部の考え方を批判したのです。
 何事かを選択し、決断するのは意業、意の働きであり、それが具体化する場合には、身と口を以て発動する。発動は具体的な表現ですね。身・口・意の三業が和合して行為が成り立つわけです。身・口は直接的には業ではありませんが、意の発動になるときに業になるわけです。意を伴って、身が身による業(身体的行為・身業)となり、口が口による業(言語的行為・口業)となるわけです。意という意志的活動がその元にありますから、意業は思業ともいわれているのですね。
 
 ここで一応五遍行について見たわけですが、明日は五遍行のまとめをしてみたいと思います。

初能変 第三 心所相応門(35) 想の心所、追伸

2015-10-04 12:35:26 | 初能変 第三 心所相応門
 

 「想と云うは、謂く境の於(ウエ)に像(ゾウ)と取るを以て性と為し、種種の名言(ミョウゴン)を施設(セセツ)するを以て業と為す。」(『論』第三・三右)
 想の心所は、相状ですね、すがたかたちを取る、認識する、或は知覚する。認識対象である境をとらえること。「於境取像」という働きが想なんです。そして、この取ることに於いて、さまざまな名言、言葉が生み出されてくるわけですね。
 私たちが言葉でもって捉えている現象すべてが想による働きなのです。言葉がうみだされてきますと、言葉に由って、すぐ像を思い浮かべてきます。取像と名言は互いに相対して、互いに客となるという関係ですね。
 名言は「施設するを以て」と云われていますように、はじめから名言があるわけではなく、施設されたものであるということなんです。その理由を、
 「謂く要ず境の分斉(ブンザイ)の相を安立(アンリュウ)す。方(マサ)に能く随って種種の名言を起こすぞ。」(『論』第三・左)
 安立は、設定するという意味ですね。境の様々な区別を立てるとうこと。
 分斉は、区別を立てること。華厳では詳しく解き明かされています。『華厳五教章(けごんごきょうしょう)』または『五教章』とよばれている書物の中で,「華厳一乗教義分斉章」が設けられて説明されています。
 この理由について『述記』は詳しく釈しています。
 「述して曰く、此れが中の安立と云うは取像の異名なり。謂く此は是れ青にして青に非ざるには非ず。等しく此の分斉を作りて而も共相を取るを名けて安立と為す。此の像を取るに由って便ち名言を起こして、此れは是れ青。等くいい性類衆多なり。故に種種と名づく。
 諸論に名を説いて其の想と為るは、因に従って説く。想を説いて名と為るは果に従って説く(名は果、想は因)。世の人の汝が想は是れ何んぞ。名は是れ何等ぞと言うが如し。此の業をば但だ是れ意(第六意識)と倶なるの想と云う。余識と倶なる想は名を起こさざるが故に。・・・」
 想に由って、相状を作り上げるのですね。本当は相状は仮のもの、心が映じているだけなのですが、心に映じた相状を第六意識が具体的なすがた・かたちとして捉えているわけです。捉えてものに対して名言をつける。言葉を与えるわけです。その言葉は共通性をもっています。例えば、犬といったら犬を思い浮かべ、猫といったら猫を思い浮かべて、混乱をきたしません。これが共相ですね。言葉には共通した性格がありますが、私たち一人一人、言葉の指し示す共相によって、不共相の意識も起こします。この犬は可愛いとか、可愛くないとかです。このような判断が迷いを生み出してくることになるわけです。
 受・想はすばらしい生命のもっている能力なのですが、受は愛を生み、愛は愛着を生じて愛に執着することを必然します。また想は言葉という言語を通して思想を生みます。思想が生まれる時に非量という、自己中心的判断能力によってセクトをうむわけです。セクトはセクト間で争いを引き起こしますから、ぬきさしならぬ状況に陥ることも招来するわけですね。第六意識は現量でもあり、比量でもあり、非量でもあるわけです。第七末那識の影響下に置かれていますから、すがた・かたちを捉えた時に分別を起こします。自分にとっていいか悪いのかの判断を下すのですね、これが生命活動、生命の能力とでもいうのでしょうか。認識する働きと、認識することに於いて迷いを生むことにもなるわけです。これが次に説かれます思につながっていきます。

初能変 第三 心所相応門(34) 想の心所 (2) 思の心所 (1)

2015-10-02 23:12:32 | 初能変 第三 心所相応門
 

 想の心所は、「境の於(うえ)に像を取る」ことを本質としている心所であると言われているわけです。つまり、対象が何であるかと知る知覚作用ですが、唯識の命題は、「唯だ識のみあって境は無し」です。それならば境を知る知覚作用はおかしいのではないかという疑問が起こります。
 居酒屋さんにいって、カウンターの前においしそうな食べ物が並んでいますと、喉がうなりますが、一つ一つの食べ物を知る作用は言語を通してですね、言語を通して対象を捉えている。
 本来は自分の心が境に似て作り出したものなのです。ですから実体的に外界にあるわけではなく、仮に存在している。外界に在るとなると、それは遍計所執になりますね。迷いや苦しみをもたらす原因になりますね。言葉を通して会話も成り立ち、社会生活が成り立っているのですから、想という、対象が何であるかを知る知覚作用は大切なことではあります。それと同時に私たちは、固定化し、実体化してものを見る習性があります。本当は外縁なんですね。言語を通して、言語の本来もっている指向性に気づいていく。気づかせる作用というものを言語はもっている。
 言語化された対象を認識する中で、自己本来の心の豊かさに気づいていく、それが、唯識無境といわれる、すべては本識である阿頼耶識の変現であるという意味なのでしょう。
 「種々の名言を施設するを以て業となす」。想は種々の名言を起こす働きをもっている。名言は意識されたものですから、意識と相応する想のみが言葉を発することができるのです。「施設」が「建立發起」といわれますように、言葉を建立し、言葉を発することが施設の意味で、安立とも言われているのです。
 
 第五の相応は、思の心所です。
 先ず、第三能変、意識と相応する思の心所を伺います。
 「思は心に正因等の相を取って、善等を造作せ令む。心が起こる位に此の随一無きことは無し。故に必ず思有り」(『論』)
 思は、心に正因(解脱に向かわしめる善業の因)等の相を取り、善等を造作させる。心が起こる時に、此の善等の中の一つは無いことは無いのであって、必ず存在するのであるから、これからもわかるように、心が生起し活動するときには、思は必ず遍して活動するのである。よって思は遍行であるといえる。思とは意志のことです。意志決定をするということ。~にたいしてどうするのか、それを決定する心所ですね。
 阿頼耶識における思の定義。
 「思と云うは、謂く心をして造作せ令むるを以って性と為し、善品等に於いて心を役するを以って業と為す。謂く能く境の正因等の相を取って、自心を驅役(くやく)して善等を造せ令むるなり」(『論』第三・二左)と。
 良遍は『二巻鈔』において、「思ノ心所ハ、心ヲ善ニモ悪ニモ無記ニモ作成(つくりなす)ス心也」と簡潔に説明されています。
 「心の動機づけの作用。意志の発動。身・語・意の三業をつくる心作用」と説明されます。そして思業・思已業という分類がされます。身口意の三業によって私たちの行為は決定されるわけですが、それが思業・思已業に分類されるわけです。思業は意業です。心の中で思っているだけの業で、種々思考することですね。それに対し、思已業は心の中に思っていることが外に現れた業といえます。身体の動作・言語の発動です。また、思業は尋求思・決定思、思已業は動発思であるといわれています。考える事と、様々な行動を起こすことです。
 まず心の行為です。全ての行為の原点になるのが意志です。意業です。意志決定を通じて動発するわけですから、如何に私たちの意志が重要であるかがわかります。
 正因等の相」とは、『瑜伽論』巻三を引いて解しています。「此の邪と正と倶相違との行業の因相をば思に由って了別すと説けり。謂く邪正等行とは即ち身語業なり。此の行が因は即ち善悪の境なり。・・・」(『述記』)と。
 正因は善業を行わせる因となる認識対象をいう。(行因即境善悪)、邪因は悪業を行わせる因となる認識対象をさします。倶相違は無記の行為です。このように善・悪・無記の行為が意志によって決定されるということが教えられているわけです。意志が人生において如何に大事かが教えられています。悪に赴いていくならば、とことん奈落の底に沈んでしまいますでしょうし、涅槃に向かおうとするならば、そこに生きる事の意味がはっきりと見定められてくるのではないでしょうか。それを親鸞聖人は「往生極楽の道を問いきかんがためなりけり」(『歎異抄』)と見極められたのであろうと思います。

 参考文献 『瑜伽論』巻三の記述

  「即ち此の邪・正・倶相違の行為(ぎょうい)の因の相は思に由って了別す。・・・思は心の造作なり。・・・思は何の業をか作すや。謂く尋伺、身語業等を発起するを業と為す。・・・」
「思」の心所は、行動を起こすとか、意思決定ですね。私たちは意思決定も、意識で行っていると思うんですが、そうではないということを教えています。一言でいえば条件内存在です。意思決定があっても条件が整わなければ行動を起こすことは出来ません。「心をして造作せ令むるを以て性と為し」と。意思決定は、善・悪・無記のいずれかに決定する作用ですね。そして具体的な行動に移していくわけです。
 そしてこれらの五遍行が第八阿頼耶識と倶に働いているということです。意思決定をし、具体的な行動として動くのは阿頼耶識の具体相なのです。何をいっているのかといいますと、私たちは阿頼耶識を所依、依りところとして現実生活を送っているということなのです。本来は、我執を超え、法執を超えて命は与えられているということなのでしょう。

阿頼耶識と共に生まれ、阿頼耶識と共に生かされているということになりましょうか。善導大師はその著『観経疏』序文義に「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の精血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。」と、内因と外縁の因縁和合に深い恩をいただいておられます。自分は自分の生まれたいという意思決定により、父母の力を借りて生み出されてきたのであって、それは「自の業識」であるところの阿頼耶識の働きであるといえないでしょうか。
 
 曽我量深先生 『法蔵菩薩』より 
 「この末那識、阿頼耶識というのは、特殊の、深いところにある、一つの働きであると、まあ、こう言うておるのでございますが、この末那識というのは、つまり、言うてみれば、我というものである。「おれが」ということ。それから、「わがもの」ということ。「われ」と「わがもの」ということを始終ふかく思量し、思惟しておるところのはたらきがあって、深層意識と言われているものであります。つまり、私どもがわれ(我)と言い、わがもの(我所)と言うのを、我見・我所見と言う。我・我所を主我・客我とも言いますが、我というのは主我、我所というのは客我である。こういうように、迷いによって、まず、われというものをたてている。われというものをたてて行けば、われ以外の一切のものはわが所有であると、すべてのものを所有して行く。それで、まあ、この末那識が、迷いの根源である。
 意識のもう一つ深いところに、末那という意識があって、これは、ねてもさめても、はたらいているものであります。眠っておっても夢を見るということがありますけれども、しかし、もう夢すらも見ないということもあります。そういうことがありまして、第六意識というものはほとんどいつでも働いているというものでありましょうけれども、第六意識というものは、また、働かない時もある。ところが、第七識は、第六意識のもう一つ深いところにあって、ねてもさめても働いていて、しかも、第六意識のよりどころになるものである。
 いつでも第七識というものが内にあって、そして、それあるが故に、それによって、第六識というものは働いておるものである。第七識の末那というのがなかったならば、第六識は、よりどころを失うのである。まあ、こう言うので、この『成唯識論』では、第七末那識というものをたてて、これが、つまり、我々の迷いの根源である。もっとくわしくお話しなければ意味がはっきりしないんでありますけれども、とにかく、こういうようにしておくのであります。」(『法蔵菩薩』p32~p33)

初能変 第三 心所相応門(33) 想の心所 (1)

2015-10-01 22:37:10 | 初能変 第三 心所相応門
 

 遍行の五(触・作意・受・想・思)を説明していますが、これは遍行の心所一般にについて述べられているのです。後に第八識は捨受のみと相応すると明らかにされますが、それは、十二支縁起に於ける、受から愛が起こるとされますが、阿頼耶識に受が相応しても、阿頼耶識から愛は起こらないのです。阿頼耶識に煩悩は相応しない。阿頼耶識に相応するのは捨受である五遍行のみなんですね。
 それでは、遍行の心所の意味がわかりませんから、触とは何を意味し、乃至思とは何を意味するのかが説明されているわけです。
 受の心所を見てきましたが、受は「領納」(感覚・知覚すること。苦・楽を受け止め感じること)することなのですが、「定んで己に属する」ものであると教えています。感情や知覚は、自分の中から出てくるものであるということなのです。先日は大変美しいスーパームーンを見せていただきましたが、月にスーパーも何もないわけでしょう。また秋の月夜は何気なくもの悲しいというか、わびしげです。でも月が悲しいとか、わびしいということはないわけですね。見る側の感情ですね。ノエシスです。主観的側面という主体に関係して感情が起こってくる。それが領納という言葉の意味するところです。
 受一般の概念では、「受とは順と違と倶非との境を領納するを以て性と為し、愛を起こすを以て業と為す」心所であると定義されます。

 想の心所
 「想と云うは、謂く境の於に像を取るを以て性と為し、種々の名言を施設(せせつ)するを以て業と為す」(『論』第三・三右)
第三能変。第六意識における想の心所の働きをみますと、
 「想は能く自境の文斉を安立す、若し心が起こる時に此の想無くんば、境の文斉の相を取ること能わざるべし」(『論』)と述べられています。良遍は『二巻鈔』に於いて、「想ノ心所ハ、殊ニ物ノカタチヲ知リ弁テ、其ノクサグサノ名ヲ説ク也」と説明をしています。
 性は取像、像はかたちです。かたちをとる。対象の上に、外界から入ってきた情報を内なる認識をもって成立させていく。対象が何であるかを知覚する作用を想という。青色だと青色であって赤色ではないというように知る働きです。はっきりと知るときは必ず名言をもってとらえる。言葉を持って対象を把握する。業は名言を起す。言葉に由って理解する、概念化する。内なる知性とか感性によって言葉は生みだされてくるわけですから、言葉によって迷う・苦しむという事も起こってくるわけです。執着を起しますからね。「此の像を取るに由って便ち名言を起して此れは是れ青し等と云うなり。性類衆多なり。故に種々と名づく」と、このような働きをする“想”の心所がなかったならば、どのようにして認識作用が起こるのであろうか。想の心所があるから認識作用は起こる、この想が無かったならば、「境の文斉の相を取ること能わざるべし」と。想によって、「境の分斉の相を安立す」るわけです。すべてが対象となるわけですから、想は遍行であるわけですね。

 「名言を施設する」というのは、名言を發することではなく、名言を安立するという意味なのです。言葉に由って対象を知ることが出来る。物を見ても、物に言葉を与えていなければ認識が成立しないのです。
 「施設と言はば、安立の異名なり。建立し發起するを亦施設と名づく」(『述記』第三末・二十右)。実体としては存在しないものを名や言葉でもって仮にあると説くことを施設といい、安立・仮説と同義語になります。
 
 「私たちは外のものを鏡のように知っていると思っていますが、けっしてそうではないというんです。自分自身で相を捉えてみて認識が成立するんです。言葉がさらにそれに加わっていくんです。むしろ言葉を通してものを見ていく。これが唯識の名所だと思います。言葉を通して外のものを見ていく。言葉を与えることによって認識がはっきりしてくる。正確にいいまうと、言葉を施設するのは、第六識の想のみであります。」と大田久紀師は述べられています。
 

初能変 第三 心所相応門(32)受の心所(8) 護法正義 (4)

2015-09-30 23:33:59 | 初能変 第三 心所相応門
  

 論主の答え。
 「然るに境界受は余の相に共ずるものには非ず。順等の相を領して定んで己に属する者を境界受と名づくるを以て余には共ぜざるが故に。」(『論』第三・三右)
   境界受は外のものを受け入れるのです。自性受は、同字の触を受け入れる、つまり、触とか作意の心の働きを受け入れるというのが自性受なのですが、護法菩薩の論旨は、境界受なんです。外のものを受け入れた時、そこに感情が生まれてきます。それを非常に大切になさっています。
 「所縁の境を領納す」、これが本当の受であるといわれます。理由は、「定んで己に属する」ということなんです。唯識無境といいますが、境が無いわけではないんですね。境そのものを認識するということが無い、認識できないというのが本当かもしれません。境は実体としては無い。自分の心が造り出したも、それが境である。
 阿頼耶識は言語を超えた世界を種子として蔵しています。法の世界ですね。無自性なるが故に空なり。言語を用いた瞬間に、言語に囚われて執着を起こします。それを戯論として押さえられていますが、唯識は境そのものを受け入れている阿頼耶識から認識を起こす時に、自我意識というフイルターを通して、或は被せて意識の上に実体として認識を起こします。
 いくら無自性で有ると言われても、無自性であることを解釈して、無自性なんだと実体化して認識を起こしています。何故なら、「私が」という囚われから離れられないからですね。囚われが、執われに変化して、固執を起こし、自他分別を起こしてきます。そこから生まれてくる感情、感受作用は、苦か、楽か、不苦不楽なんですね。
 順境の時は、楽という感情が生まれ。違境の時は、苦という感情が生まれます。倶非(捨)と云う感情は、無意識の状態に於いてのみ働く感受作用でしょうね。
 そこで、正理論師の説く自性受は否定され、認識される対象にもとづいて生じる感受作用である境界受をもって、受の本質としています。この辺の事情を『述記』は次のように述べています。
 「此の義は如何となれば、能く順と違と倶非との境相を領して、定んで己に属するを境界受と名づく。」と。

初能変 第三 心所相応門(31)受の心所(7) 護法正義 (3)

2015-09-29 23:34:38 | 初能変 第三 心所相応門
 私事ですが、家族が増えました。まだ名無しのごんべえです。体のメンテが終了した30日にお越しになります。花婿です。皆さんの応援よろしくお願いします(^_-)-☆  

 護法論師と正理師とのやり取りが交わされています。正理師の、受は自性受であるという主張を護法論師は理を以て破斥しておられます。
 第七に彼復た救して言く、
 「若し謂まく、王いい諸の国邑(こくゆう・領土)を食すと云うが如く、受いい能く触が所生の受の体を領するを以て自性受と名づくといはば。」(『論』第三・三右)
 「如王食国邑」これは順正理論の説になります。あなたの言っていることは、自性受ではなくて、因受と言うべきことではないのか、ということに対する反論というか、言い訳をしているのですね。
 護法さんは、そう言って批判なさいますが、そういうことではなくてですね。触に似て生ずると言っているのではなく、触を認識するのですが、それは触そのものを認識するのではなくて、言うなれば、例えばですね、王が国邑(領土)を食べているということがあるでしょう。それは、王が国そのものを直接食べているのではないですよね。国土に生じたところの穀物や、そこで育てられた家畜を食したりということと同じであって、受の触を領するというのは、受が触をそのまま領ずるのではなく、触に生じられた受の体を認識するのですから、それは自性受と名づけられるでしょう、と。反論をしているのですね。
 『述記』の所論は、
 「次下は第七に彼を復救して言く、王、邑を食すと云うが如き、土田を食するに非ず。土田に所生の諸の禾(カ・のぎへん、穀物の総称)稼(カ。穀物を植え付ける。生計を立てる。)等いい是れ王の所食なり。邑を食すと言うは、所依に従って説けり。邑の体は即ち土田なるを以ての故に。受も例するに亦然なり。触は土田の如し。受は禾稼の如し。受は是れ触の果なり。触は是れ受が因なり。受は能く所生の受の体を領触するを以て即ち自を領する義なり。自性受と名づく。触を領すと言うは所依に従って説く。邑を食すと言うとも彼が所生を食するが如し。」
 受は王
 触は土田
 所生の受の体は禾稼
以上が正理師の反論です。
 そういうように言うのならば、「理いい亦然らず。」
 正理師は正理師の反論によって、自らの所論に逆らった、矛盾をした所説を立てて反論しているではありませんか、と護法論師は指摘されます。自ら縁ずるを以て自性を領すると言うのであれば、貴方は、貴方の立てて所論に相違しますよ。「彼、心等は自を縁ずること能わずと計す。故に自を縁ずと説くは便ち自に違する失なり」と。
 触所生の受を認識するというのですが、受が受を認識することは出来ないわけですね。それは受が縁じて、それを認識するわけですから、「自を証ぜざるが故に」証は縁ずる、認識する、自らが自らを認識する、触が所生の受を受が認識して認識するということになるわけですね。自が自を認識するということは、正理師の主張は「自を証せず」、認めてはいませんね、というわけです。
 「理いい亦然らず。自の所執違しぬ。自を証せずと云うが故に。」(『論』第三・三右) ここで復た反論をしてきます。
 「自を領すと言うは、自を縁ずと謂うに非ず。受の自相を捨てざるを以て自性受と名づけるが故にと言はば」、こういう用に反論をしてくるであろうことを予想して、論破されてくるのですね。
 「若し自性を捨てざるを以て自性受と名づけると云はば、一切法は皆是れ自性なるべしょい。」(『論』第三・三右)
 自性を捨てないから、自性受と言うのであれば、自らが自らを縁ずるということでない。受の自相を捨てないから自性受というのであるならば、一切法は皆、自性を捨てていないから、すべて受になってしまうであろう。
 「一切の法は皆な自の体相を捨離せざるに由るが故に、まさに皆な受と名づくべし。(『述記』)
 このような所論は矛盾しているのではないか、或は嬰児をあざむいている、たわいもない理屈をつけているだけにすぎないだろう、と。
 「故に彼が所説は但だ嬰児を誘(あざむ)けり。」(『論』第三・三右)
 以上で、正理師の所論を論破し、護法論師は正義を述べます。「然るに・・・」次回にゆずります。

初能変 第三 心所相応門(30)受の心所(6) 護法正義 (2)

2015-09-27 15:33:50 | 初能変 第三 心所相応門
   
 
 お知らせです。高柳正裕師が『往生礼賛』の講義を隔月に聞成防において講義をされておいでになりますが、今月は30日午後3時からの開講となります。5月度と7月度は十二光についての講義でしたが、その述中に於て師は次のように教えてくださいました。(案内文より抜粋)
 「・・・私というものに対する執着があるということは、私と私でないものという構造です。・・・逆に言うと私と私のものということです。親子関係にしても夫婦関係にしても、私の親とか・・・やはり根本的な分別と言ってもいいわけです。唯識では・・・分別は超えられる、分別みたいなものは超えられると、こういう言い方になりがちなのですが、むしろ親鸞聖人とか浄土教ではどこまでも深い分別というか執着を見ているのです。ここが大きな特徴だと思います。だからこそ無辺ということが光なのです。私たちは何処までいっても深い分別に閉ざされているというか囚われている。それを照らしてくる光なのです。もしもこれが解けていくのなら仏さまはいらないわけです。ですからどこまでも光を蒙ることにおいて、その深い執着、根本的な分別が照らし出されて離れられるということなのです。これは分別が破れたということではなく、そこが真宗の大きな特徴なのです。特徴というのか、どこまで皆さんが格闘するのか、深まるか、にかかっているのです。・・・自分が、分別が破れたとなると、非常に自分の中でゆがんだ葛藤が必ず起こってきます。もう終わったとなると。お釈迦さまも苦しんだのです。私は悟ったというところから歩まれたということがお釈迦さまのすごいところなのです。・・・我々の中に、これは気づいてないけれども、深い奥行きに何かの深い飢えがあって、そういうものが自分でも気がつかないような闇と言われるわけなのです。今日はあちこち出てくるのですが、闇というものはもちろん智、智慧に対してです。智慧に対して無明ということがあるのです。でも暗闇というのはただ単に知恵が無いことだと、ものが見えていなにのだという、こういう問題ではないわけです。そのへんは真宗というか仏教というのは非常に深いですね。ただものが見えていない、智慧がないのだ、というのではなくて、それは渇愛ということと重なっている。渇愛というのは深い欲望なのですけれども、その地として本願に出てくる、「欲生願国」なのです。「わが国に生まれんとおもえ」というのにやはり繋がっているのです。・・・」
 
 本願と私は別々のものではなく、本願によって私は繋がれている、そこに救済の事実があるのでしょう。聞法によって開かれてくる世界ですね、そんなことを感じました。

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 ちょっと前に戻りまして、心王と心所有法(心・心所)の相応関係につきまして簡単に整理をしたいと思います。『成唯識論』巻第二に「彼の相応法も応に知るべし亦爾なり。」と述べられ、心王と心所の相応について示され、心所法も心王と同じように、能縁・所縁という形を以て現ずることが明らかにされていました。
 心王は八識ですが、この八識には必ず相応する心所があるわけです。初能変の第三・心所相応門に於いては、第八識に相応する心所は何かを明らかにされていますが、それはただ五遍行である、と。
 心王 ― 八識
 八識に付随する心所を挙げますと、
 第八識 ― 五遍行(触・作意・受・想・思)
 第七識 ― 十八の心所と相応する。遍行の五と別境の慧と四煩悩(我痴・我見・我慢・我愛)と随煩悩の不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知・散乱と相応する。
 第六識 ― 五十一の心所すべてと相応する。
 前五識 ― 三十四の心所と相応する。遍行の五と別境の五(欲・勝解・念・定・慧)と善の十一(信・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・勤・安・
不放逸・行捨・不害)と貪・       瞋・痴の三と随煩悩の無慚・無愧・不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知・散乱と相応する 
   「中秋の名月」(旧暦の8月15日)の27日は、関東地方は夜も曇りがちとなる見込みだが、翌28日は全国的に夜も晴れ間が広がり、今年最大の満月「スーパームーン」が見られそうだ。

初能変 第三 心所相応門(29)受の心所(5) 護法正義 (1)

2015-09-27 02:19:32 | 初能変 第三 心所相応門
 

 「彼の説くこと理に非ず。受は定んで倶生の触を縁ぜざるが故に。」(『論』第三・二左)
 護法菩薩の論破は一言を以て尽きています。正理師は自性受を以て受の自相と主張しているが、受は、触と倶生である、倶生であるところの触を縁ずるということはできない。つまり、所縁の対象とすることが出来ない。認識の対象としての触はどこにもないからであり、ここを以て正理師の説くことは理に合わないのである。
 『述記』は逆に問いを以て正理師に訊ねています。
「述して曰く、今は彼に問うべし。如何ぞ受は能く倶なる触を領すと説く。」
 何故、受は倶生の触を縁ずると説くのか?倶なる触を領納することはできないではないか。何故ならば、受は定んで同時倶生の触を縁ぜざるべし。同時に一緒に起こってくる触を、受は認識することはできないのである。受け取ることが出来ないんだということですね。
 よって
 「故に縁ずと云うを以て受いい触を領すと名づくとは説くべからず。・・・若し触は前にして受は後ならば、(相前後するならば)後の受が前の触を領すべし。既に前の触を縁ぜずんば如何が名づけて領とせんや。・・・」
 慈恩大師はやさしいですね。ここに救済方法を正理師に変わって弁明されています。
 論主の論破はよくわかります。しかし、触を縁じて受が起こると云っているのではないのです。
 「倶時の触に似るを以て説いて名づけて領とす。」(『述記』第三末・十六左)
 論主は、この主張をも批判して論破されます。
 「若し触に似て生ぜるを以て触を領すと名づけば、因に似たるの果は皆受が性なるべし。」(『論』第三・三右)
 『演秘』に喩がでています。
 「順正理を按ずるに云く。父の子を生む時に、子の媚好皆な父に似たるが如し。亦だ果を種より果を生じ因に似るが如し。受が触に従って生ずる、まさに知るべし。亦た爾なり。」(『演秘』第三末・五左)
 受は触を縁じて、それを受け取るのではなく、受は触に似て起こってくるのである。それを触を領すると名づけているのである、と。
 そうしますと、因が触で、受が果になります。つまり、因である触に似た果である受は、すべて受が性になってしまうであろう。それはおかしいではないか、と再論破されてきます。触に似て起こってくるのが受であれば、すべてが受になってしまうからですね
 「又既に因を受するを以て因受と名づくべし。何ぞ自性と名づけん。」(『論』第三・三右)
因を受するということであれば、因である触を受するわけだから、因受と名づけるべきであろう。どうして自性受と名づけるのか。論主が突っ込んだ問いをだされてきます。
 本科段の意味するところは、
「触は能く受を生ずるを以て、即ち是は受が因なり。既に因を領するを以て因受と名づくべし。自性受と名づけるや。理に於て成ぜんや。此れ名を難じて破す。」(『述記』)
 ここで、又慈恩大師が、何故、自性受というのか、と正理師に変わって釈明します。
 「受は是れ触が果なり。触は是れ受が因なり。受(王)は能く触(土田)の所生の体(禾稼(カカ)実った穀物)を領す。即ち受の自ずから領する義なり。自主受と名づく。触を領すと言うは所依に従って説く。邑を食うと言えども彼が所生を食うが如し。」と。

 禾稼について、幕末の志士、吉田松陰の遺言。
 「今日死を決するの安心は、四時の順環に於て得る所あり。蓋(けだ)し、彼の禾稼を見るに、春種し夏苗し秋苅り冬蔵す。秋冬に至れば、人皆その歳功の成るを悦び、酒を造り、醴を為り村野歓声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十一。事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。然りとも義卿の身を以て云えば、是亦秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば、人事は定りなし。禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十 百は自ラ五十、百の四時あり。十歳を以て短とするは惠蛄(夏蝉)をして霊椿(霊木)たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして惠蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずと。義卿三十、四時已に備亦秀。亦実その秕たると、その粟たると、吾が知る所に非ず。若し同志の士、その微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず。自ら禾稼の有年に恥ざるなり。同志其是を考思せよ。」

(訳)今日、私が死を目前にして落ち着いていられるのは、四季の循環というものを考えたからです。おそらくあの穀物の四季を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬それを蔵に入れます。秋や冬になると、人は皆その年働いて実った収穫を喜び、酒などを造って、村は歓声にあふれます。未だかつて、秋の収穫の時期に、その年の労働が終わるのを哀しむということは、聞いたことがありません。私は享年三十歳。一つも事を成せずに死ぬことは、穀物が未だに穂も出せず、実もつけず枯れていくのにも似ており、惜しむべきことかもしれません。されども私自身について言えば、これはまた、穂を出し実りを迎えた時であり、何を哀しむことがありましょう。何故なら人の寿命には定まりがなく、穀物のように決まった四季を経ていくようなものではないからです。十歳にして死ぬ者は、その十歳の中に自らの四季があります。二十歳には二十歳の中に自らの四季があり、三十歳には三十歳の中に自らの四季があり、五十歳や百歳にも、その中に自らの四季があります。十歳をもって短いとするのは、夏蝉を長寿の霊椿にしようとするようなものです。百歳をもって長いとするのは、霊椿を夏蝉にしようとするようなものです。それはどちらも、寿命に達することにはなりません。私は三十歳、四季は己に備わり、また穂を出し、実りを迎えましたが、それが中身の詰まっていない籾なのか、成熟した粟なのか、私には分かりません。もし、同志のあなた方の中に、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのなら、それは私のまいた種が絶えずにまた実りを迎えることであって、収穫のあった年にも恥じないものになるでしょう。同志の皆さん、このことをよく考えてください。