唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (49) 触等相応門 (31)

2011-11-10 22:03:37 | 心の構造について

 「若し爾らば何が故に『対法』等に五のみ説いて遍と為る。」(『述記』)

 (若しそうであるならば、どうして『対法論』(『雑集論』巻第六)等に五のみ(掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸)染心に遍在すると説かれているのであろうか。)

 この問に対して六遍染師が答えます。六遍染師の主張は遍染の随煩悩は不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知の六つであるとする。若しこの六遍染師の主張が正しいのであれば、『対法論』等に五のみ染心に遍在すると説かれているのか、という問題です。

 10月18日の項に五遍染師の論拠として『大乗阿毘達磨集論』巻第四・『雑集論』巻第六の記述が『論』に述べられています。

 「集論に説くが如し。惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す。」(『論』第四・三十二右)と。

 (『大乗阿毘達磨集論』巻第四に説かれている通りである。「惛沈と掉挙と不信と懈怠と放逸とは一切の染汚品の中に於て、恒に共に相応す」)

 五の随煩悩は遍く諸の染心と倶である。その証として『大乗阿毘達磨集論』巻第四及び『雑集論』巻第六には「惛沈と掉挙乃至恒に共に相応す」と本文と同様の文が出ている。

         ― 五遍染を説く文献を会通する ―

 「論に、五の法染心に遍すと説けるは、解麤細に通ずると、唯善の法に違せると、純の随煩悩なると、二性に通ずるとの故なり。」(『論』第四・三十四右)

 (『論』に「五つの法が染心に遍在する」と説かれていることは。行相が麤と細に通じることと、善の法に相違することと、純随煩悩であることと、二性(無記・不善)に通じることの義に依ってである。)

 『対法論』巻第六に四義をもって遍染の別義をあげて説明されています。今は『述記』の記述より説明しますと、

 「述して曰く、彼の論に遍と言うは四義に遍ずるを以てなり。      (1) 一には麤・細に通ず。忿等の十を簡ぶ。唯麤事なるが故に。     (2) 二には唯善法に違せり。即ち不信は信に翻じ懈怠は精進に翻じ惛沈は軽安に翻じ掉挙は捨に返じ放逸は不放逸に翻じ来るということを明して、即ち散乱の定の数より来るを簡ぶ。設い別に体有るにも、所障の定は三性に通ずるが故に唯善に違するのみならず。忘念・悪慧・邪欲勝解も彼の所翻に随って理いい亦然るべし。並に別境の数に翻じて来るが故に。

(3) 三には純随煩悩とは根本の惑と及び不定の四とを簡ぶ。彼をも亦通じて随煩悩と名づくる故に。貪等は唯善の中の無貪等のみに違すれども、然も純の随に非ざるが故に今簡ぶなり。

(4) 四には二性に通ずとは無慚と愧とを簡ぶ。

 斯の四義に由っての故に 『対法』 には五は染心に遍ずと説く。但染心には即ち皆有るには非ず。」(『述記』第五本・五十六右)

 というものです。四義の別義に由って「五つの法が染心に偏在する」と説かれているのであって、「染心には即ち皆有るには非ず」と。実際の遍染の随煩悩を挙げているものではないといいます。別義とは遍染の随煩悩の条件ですね。それに四つあるということです。

 一番目は「解(行相・見分の働き)が麤と細に通じること。これによって行相が麤のみである忿等の十が遍染から除かれる。細に通じないからである。

 二番目は「ただ善の法に相反すること」。随煩悩が善法を正反対にしたものでなければならない。不信ー信、懈怠ー精進、惛沈ー軽安、掉挙ー行捨、放逸ー不放逸とそれぞれ善の心所を翻じたもの。しかしその対象が三性に通じて善法を翻じたものといえない心所がある。従って三性に通じるものを除くという条件がつきます。散乱は定を翻じたものではあるが、所障の定は三性に通じる為に散乱は除かれる。同様に忘念・悪慧(不正知)・邪欲・邪勝解も染汚性であるが除外される。

 翻 - 正反対にしたもの。ひるがえすこと。

 三番目は「純随煩悩であること」。純随煩悩とは純然たる随煩悩であり、護法の正義である二十の随煩悩を指します。「唯二十の随煩悩のみと説けることは、謂く、煩悩に非ず、唯染なり、麤なるが故なり。」(『論』第六・三十二右))。二十の随煩悩の条件は一に根本煩悩ではないこと。二には、唯染であること。三には、行相が麤であること。詳しくは2010年3月1日の項を参照してください。「根本の惑と及び不定の四とを簡ぶ」

 四番目は「二性に通じること」。無記と不善(悪)に通じることによって、無慚と無愧が除外される。(10月25日の項を参照してください。)

 五遍染を説く文献は以上述べてきた通り、別義によって選び出されたものであって、実際に染心に遍在することを述べているものではなく、実際の六つを説く随煩悩と矛盾しないと会通しています。