唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

信頼・信仰・信心についてー(2)

2009-10-29 23:56:10 | 信心について

信心とは依頼心ではないのです。依頼する時は何かを期待するわけです。信頼も人間関係にとっては大切な要素ですし、これなくして社会は成り立ちません。しかし信頼も時に裏切られることがあります。また裏切る時もあります。これが世間なのでしょう。「世間虚仮・唯仏是真」とは聖徳太子のお言葉ですが、親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と『歎異抄』(真聖P640)に述べておいでになります。世間は信頼関係で維持されているのです。その信頼関係は二重構造に成っているということです。緊張関係で成り立っているといってもよいのではないかと思います。ですからいつも心が解き放たれない、「疲れたなぁ」という状態が続いていきます。信頼という重荷を背負っている限り、心休まるということはないのでしょう。何故そのようなことになるのかといいますと、「道理」を主にしていないからです。道理とは「法」です。法則といってよいのでしょう。「諸行は無常であり、諸法は無我である」というのが道理ですね。因縁所生の法ともいわれます。縁起によって起こってくるものです。今、私が書き込みをしているのも縁起の理によっているのです。一つでも縁がなければ(条件が整わなければ)、書き込みをすることはできません。私が今何かをしているということはすべての条件が整っているということなのです。「宗教」は利用するべきものではないのです。よく聞く話ですが「信心のおかげで病気が完治した」ということ、このようなことは宗教でも何でもないのです。ただの give and take です。「ご都合主義」といってよいのではないでしょうか。世間の闇とはこのようなもでしょうか。宗教は「~のためのあるものではない」のですね。 religion という言葉を使うのですが信仰というときには、faith (キリスト教をさします)という言葉を使うのですね。神を信じ仰ぐということです。この原点は罪という問題を孕んでいると思います。罪というのは自他の分別を持ってしまったということです。そこに神の許しを願うという信仰が起こってくる所以があるように思います。仏教も罪ということを言いますが、自覚において認識するのです。それが「信」です。道理に背いてしか生きていけない存在(反逆者)であるという、「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」の自覚です。この自覚が心を豊かにし、心を浄化する働きをするのでしょう。

 


信頼・信仰・信心についてー(1)

2009-10-28 00:11:58 | 信心について

「信」は生きて働いているものであり、信があってはじめて一歩一歩、私たちの生活の歩みが始まるのです。善の心所でいわれる「信」は仏教に入る入口といえましょうか。親鸞聖人の他力回向の信心と言いましてもその入り口は、親鸞聖人が歩まれた仏道、浄土真宗を信ずることから始まります。信ずることなく信心の獲得はありえません。信心獲得の徴が「すでにあたえられてあった」という恩徳なのです。話は元に戻りますが、仏教でいう「信」は「チッタ・プラサーダ」といいます。チッタは「心」・プラサーダは「澄む」という意味を持っています。仏教を信ずるということで、心が澄むといわれているのです。心の浄らかさですね。信ずるということは信心という意味なのです。仏を信じ・仏教を信じ・仏法を信じる、ということです。なぜ信じるのかということは「この現前の境遇に落在する」ことができるからである。そして深信自身・深く自身を信ずることができるということなのです。そうとしたならどうなるのかといいますと「豊かな人生をいただく」ということになり、空しくすぐることのない日々が約束されるということなのです。仏教では「現生正定聚」・「現生不退」といいます。

 私たち日常の「信」はどのようなものなのでしょうか。「信頼」とか「信用」という意味で使用しています。英語で言う「Belief」ですね。この言葉は人間関係において使われます。「私は~を信用する」とか「私は~を信頼している」という時に使います。この「信」は、私は日常の信の二重構造と言っています。いつでも「私は裏切られた」「信頼していたのは間違いだった」という裏構造が隠されているからです。いつでも「私が」という主語がつくのです。いわゆる自己中心の物の考え方です。簡単にいえば日常で使う「信」はBeliefです。人間関係に於いて使っています。信仰とか信心という宗教に関しての「信」とは違うのです。これははっきりしておかなくてはならないと思います。

 宗教に関して「信」と表現するときは、英語ではFaithという言葉を使います。「信仰」という意味です。キリスト教に於いて使われます。「神を仰ぎ信ずる」ということです。信楽峻磨先生は「信じるという信仰の中身は、自己の知性によって抵抗するのを疑う。神を信じる、仰ぐというのは、自分の知性を放棄する、捨てる。そうしなければ、理屈を越えて神を信じない限り、神は納得できないのです。これが信仰の中身です。」と教えてくださいました。(2007.5.13    信道講座より)信仰というのは人間の生きざまに関して言えることなのです。


善の心所ー「信」その3

2009-10-25 21:56:40 | 信心について

「核なき世界の構築・核廃絶へ」」という提言がなされました。本当に核廃絶の動きが出てくるのでしょうか。核の脅威は広島・長崎に投下されたときからわかっていたはずです。人間が人間を破壊する兵器をもったのです。その時点で核は破棄すべきであったのです。しかし破棄するどころか今は広島・長崎に投下された原爆の数百倍ともいわれる威力を持った核兵器が作り出されているのです。これは国家によるエゴイズムです。自分たちのために核を保有するのが目的でしょう。そうとしたのなら「核廃絶へ」という動きは核を持たざるを得ない人間のエゴイスト性に眼を向けるべきではないでしょうか。「自分たちのために」という人間の目覚めが今要求されているのではないかと思います。「末那識」の自覚です。問題は自分の中にあるということに気づかなければ核廃絶の提言が新たな核を生み出してくる温床になりかねません。為政者は国家の利益を最大限に追求し、国民にその恩恵をもたらすのが役目でしょう。そうだとしたら新たな世界の創造の理念を確立していかなければなりません。拡大再生産の停止や技術革新の停止など、退一歩できるかどうかですね。エコロジーも花形の産業になりつつありますが、マイナス要因はないのでしょうか。そのことに気づいていけば、私たちの根源的要求は私の根源からの求めてやまないものであったと気づくはずです。その要求は「~の為に」といった功利的なものではないということです。私のエゴはいつでも自分のために利用しようとします。仏法をも手段とするのです。しかし私はいったいどうなりたいのでしょうか。何を求めているのでしょうか。「仏道を習うとは自己を習うことだ。自己を習うとは自己を忘れることだ」とは道元の仰せであります。自分の欲望の為にすべてを利用しようとしても、欲望は際限なく無崖底の闇にさ迷うだけなのです。「自己を問う」ことがない限り私たちはどんなに頑張ってみても現在に落在することはないのでしょう。そのような,さ迷ういの人生を翻す働きをもったのが「信」なのです。「心をして浄ならしむるは信なり」とは唯識からの提言です。私たちには限りない欲望と共に、また限りない善を求める欲求があるのです。仏道を求めるのも善の欲求です。その入り口が「信」なのです。


善の心所ー「信」その2

2009-10-23 23:16:49 | 信心について

古代インド、唯識の行者は瞑想の中から人間の奥深くに横たわっている意識を発見したのでした。私たちが悩んだり、苦しんだり、争いを引き起こす原因は自分の中にあると見いだしのです。それが自我意識の発見です。限りなく自分に執着する意識です。また唯識の行者は自我意識を超える方法も見いだしたのです。理論ではなく瞑想の中から「善」も行い得る意識をも見いだしたのです。それが「出世の末那」といわれるものです。私は、大胆に「仏性」と位置付けしたいのです。そして清沢満之師がいわれる宗教的要求、「人身の至奥より出る至誠の要求」が「善」に向かわすのではないかと思うのです。全ての人が持っている本能です。これを「一切の衆生は悉く仏性あり」といわれる所以ではないかと思います。私たちは今は眠った状態かもしれないが、必ず目覚めを待つ存在である、といえます。親鸞聖人は仏性について「信心仏性」といわれます。「信心よろこぶそのひとを/如来とひとしとときたまう/大信心は仏性なり/仏性すなわち如来なり」(浄土和讃)「信」が心澄浄といわれるこのは、そこにはエゴイズムがはいる余地がないからです。『成唯識論』には「信」とは「実と徳と能とに於いて深く忍し楽し欲して心をして浄ならしむるを以って性と為す。不信を対治し善を楽うを以って業と為す」と言われているのです。私の中には不純なものばかりではなく、真実を知る欲求があるということなのです。(追)「実・徳・能」についてー実有を信忍する。有徳を信楽する。有力を信欲するということ。

  1. 実有を信忍する。-事実として存在している真理(真に存在するもの)を信じ理解する。信忍は仏の慈悲を信じて、安らいだ心。(三忍の一つ。三忍とは真理を悟る三種の智慧のことで、信忍・順忍・無生法忍のこと)『正信偈』には「韋提と等しく三忍を獲、すなはち法性の常楽を証せしむ、といえり」(真聖P207)と述べられてあり、信心に賜る智慧のことです。
  2. 有徳を信楽する。-徳は三宝(仏・法・僧の三宝)のこと。徳あるものを信じ尊ぶということ。楽(ぎょう)は喜び慕うという意。
  3. 有力を信欲する。-信欲は信心への意欲、信じようという願いのこと。有力は自分に善を修める力が有ると信じること。そしてその力を得ようとする意欲のこと。

「信」の内実は智慧だと思うのです。親鸞聖人は智慧の念仏といわれます。「智慧の念仏うることは/法蔵願力のなせるなり/信心の智慧なかりせば/いかでか涅槃をさとらまし」と和讃のなかで教えてくださっています。わたしたちの方向性は大般涅槃なのですね。その大般涅槃に至る道が智慧の念仏といわれ、信心の智慧といわれるもので、法蔵願力より賜わるものであるといわれているのです。「信は願より生ずれば/念仏成仏自然なり/自然はすなはち報土なり/証大涅槃うたがはず」といわれているのです。『愚禿鈔』には「本願を信受するは、前念命終なり。・すなはち正定聚の数に入る。・即の時必定に入る。即得往生は後念即生なり」と述べられ、真実信心の大切さを教えてくださいました。


『善』ー「信」その1

2009-10-23 00:03:41 | 信心について

善は私たちにとって大切な行為ですが、本来、涅槃に向かう道なんです。涅槃はニルバーナといい煩悩が滅した状態を指します。煩悩は私たちを悩ませ苦しめますから、涅槃は私たちが本来求めている世界なのだと思います。その世界を彼岸ともいいます。彼岸を拠り所にした生活が一番望ましい在り方なのではないでしょうか。ではどのようにしたら彼岸を拠り所に出来るのでしょう。それが『善』なのです。善は浄らかな心です。善の心に付随する法(心所有法)の一番最初に「信」が挙げられています。『正信偈』に「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり」(源空章・真聖P207)と述べておいでになります。「信」の定義は龍樹菩薩の『大智度論』に「仏法の大海は信をもって能入と為し、智を態度と為す」と記されています。信は智と密接不可分の関係で捉えられています。親鸞聖人ははっきりと生死輪転の家は、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界と押さえておいでになります。これは仏法に疑いを持っていることから引き起こされる世界であるということです。そして涅槃を寂静無為の楽と、心澄浄の世界であると云われています。『歎異抄』に「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに(機の深信)、ただ念仏のみぞまことにておわします(法の深信)」と真実信心のみが「生死いづべき道」として指し示しておられます。唯識では第七末那識が我執(自我意識)として第八阿頼耶識に執着すると言われているのですが、その末那識に出世の末那といわれる働きがあるといわれています。無染汚の末那・已転依の末那ともいわれます。「審らかに無我の相を思量す」と、末那識は自分だけのことを思量するといわれているなかで、それだけではない無我という真理を認めているのです。これによって末那識が転依することが可能となるのです。そして「信」は「心をして浄ならしむを以って性と為し、不信を対治して善を楽ふを以って業と為す」といわれ、信によって心が浄くなることをいわれているのです。こころが浄くなるということは無我・無漏の智慧ですから自分のことがはっきりと見えるのです。「自己とは何ぞや」に答えてあるのですね。自覚・自らに覚めることを以って信を語らなければ、何を信ずるのかがはっきりしなくなります。信は不信というエゴイズムを払拭するものなのです。


人間として-「今」をいただく(3)

2009-10-21 23:39:12 | 生きることの意味

先日、新興宗教にはまっている方と話をする機会がありました。まず驚かされたことは生まれつき信者だと言うのです。このしがらみから逃れる術はないと言っていました。自分一人だとまだ何とかなると思うが、家族全員が信者で勤務先も組織の一員だから、もう従うしかないと話してくれました。これは社会問題だと思います。新興宗教には日蓮系の占める割合が多いのですね。それは日蓮さんが即身成仏義など現世利益を表に出した布教をされたことに起因すると思われます。現世利益を巧みに利用したんですね。「祈れば願は叶う」というキャッチフレーズをもって、がん細胞のごとく教線を拡大していったのです。新興宗教にはまらない方法が一つあります。その代表者に慙愧心があるかどうかです。これはすぐにわかります。傲慢な態度や名利心(名誉や地位)を追いかけている団体は本性を隠していますから要注意です。話を聞いていますと「善の種を植えると仏界の生命を生きられる」と教えられているということなのです。これは間違いではないのですが意識のレベルで欲望を前提とした唱題は迷いを深くするだけです。仏教の世界観は「外界は存在しない。あるのは識だけである」要するに自分の外に実体的な世界は存在しないのであり、あるように見えているのは自分の心の影にすぎない、と教えているのです。また「善」の定義も曖昧です。唱題をすれば何もかもうまくいく、これが善の種であるということはあり得ないのです。藁をもすがる思いで入信されておられる方には大変申し訳のないことですが「自己を問う」姿勢がまったくありません。「善」というのは唯識論によりますと「信と慚と愧と無貪と無瞋と無痴の三根と勤と安と不放逸と行捨と及び不害となり」が善の心所であると教えられているのです。これは私の生きていく方向がどちらに向いているのかが問われているのです。仏教を聞いて聞いていきますと、自分の中にあるエゴが洗いざらい曝けだされます。それによって慙愧心が生み出されてくるのです。私の人生が涅槃に向いているのか、それとも火葬場一直線の人生なのか、分岐点は「自己と問う」姿勢があるのか、どうかなのです。こう考えますと新興宗教にはまるのは自分の姿勢が間違っているのがよくわかります。問題は自分の中にあるのです。


人間として-「今」をいただく(2)

2009-10-20 22:10:08 | 生きることの意味

人それぞれの立場を縁として「本当の自分に出遇う」ことが人として生を享けた私の存在理由なのではないでしょうか。仏教三千年の歴史も「ただこの事ひとつ」を明らかにしてきたのだと思います。ただ仏教もその伝来の過程で、本来の意味を時の為政者の思惑によって歪められてしまったという経緯があります。ようするに国体護持のために・五穀豊穣のために・疫病退散のために仏教を利用したのです。本来、仏教は「除苦悩法」なんですね。「生・老・病・死」の四苦と「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」の四苦をあわせて四苦八苦といいますが、この四苦八苦を引き起こしてくる根本の我執からの解放を求道者が求めてきたのです。仏陀釈尊は苦悩の根本要因は「のどが渇いて、常に渇ききって水を欲しがるような激しい自分にたいする執着(我執)である」と見抜いたのです。渇ききった愛ということで「渇愛」とも言われました。それがいつの間にか伝来の過程で本来の意味を失ってしまいました。仏教本来の意味を回復されたのが法然上人なのですね。南都北嶺の仏教の聖地にprotest・異議申し立てをしたのですね。「あなたたちの行っている仏教は間違っている」と正面きって抗議したのです。それが専修念仏の標榜なのです。念仏一つですべての人が救われるのだという当時としては非常にラジカルかつダイナミックな教えを宣言されたのです。それが「選択本願念仏集」として今に伝えられています。


人間としてー「今」をいただく(1)

2009-10-19 18:39:49 | 生きることの意味

私のこれまでの人生を振り返ってみて「人間として大変申し訳のない人生を送ってきた」と慙愧にたえないのですが「自分の思い通りにしたい、そして思い通りやってきて、思う通りにならなかった」というのが実感なんです。自分の思い通りにしようとするところに無理があるのですね。若いときには自分の人生観を描いていますでしょう。僕も夢を描いていましたが見事に自分の思いに自分を裏切ってしまいました。それどころか自分の周囲の人たちにも随分と辛い目にあわせてしまったものです。それにもかかわらず今でも夢を描いています。夢の方向性が昔日とは違っているのですが。だから夢のために邁進し努力する姿は大変美しいものなんです。夢を棄ててしまったら生きた屍になってしまいます。私の夢が破綻したのはなぜかといいますと、一番考えられるのは家族を含め自分の周囲の人を説得する努力と勇気がなかったからです。一歩を踏み出すには勇気が必要です。勇気が人を惹きつけ、自分のやりたいことを実現するための理解を得られるのです。それを怠ってしまったら自分の殻に閉じこもっただけの夢に終わってしまいます。明日からでは遅いのですね。私なんかは「今日はもうええわ。明日からにしとこ」といつでも、明日明日と引き伸ばしていますが、これが自分勝手な思いなんでしょうね。せっかくの「今」というチャンスを逃しているのです。チャンスは与えられているのです。それに気づいたとき「今」が生き生きと輝くのでしょう。世間でいいますとね、いろんな職業に携わっておられる人がいますね。経営者であったり、従業員であったりして。また男性や女性という区別もありすね。また民族の違いもあるでしょう。いろんなカテゴリーのなかに人がいて社会は成り立っているのですが、大切なことはそのカテゴリーの中で自分を明らかにすることだと思うのです。経営者は経営者を縁として自分を明らかにする。従業員は従業員を縁として自分を明らかにする。男性は男性を縁として自分を明らかにし、女性は女性を縁として自分を明らかにするということではないかと思うのです。そこには一切の差別はありません。一如平等に与えられた人間としての出世の本懐なのです。「今」はすべての人に与えられた「人間として人間に成る」チャンスです。「今」をいただけるか、いただけないかの問題だと思います。縁を切ってしまって自己本位になることを罪福を願う人として親鸞聖人は厳しく叱咤されています。


人間としてー「今」を考える

2009-10-18 15:35:52 | 生きることの意味

「一度だけの人生だから今を大切に生きましょう」「今やらなければいつやるんだ」という言葉をよく聞きます。それでわかったつもりでいるのですが、一度その中身を吟味してみる必要があると思います。「一期一会」という言葉もありますね。これは『山上宗二記』(千利休の弟子の宗二の著・茶湯者覚悟十体にみえる、一期に一度の会から)や『茶湯一会集』(「抑茶湯の交会は、一期一会といひて」)に語られているのですが「生涯にただ一度限りの交わり」という意味ですね。茶会に於ける一生に一度の交わりを大切にしましょうという意味の言葉が、好きな言葉の代表として使われているように思います。茶会といいますと主客の交わりが中心となり道具類の調和などトータルで織り成す侘びの芸術なのですが、ここでの一番大切なことは主も客も茶道具も主なんですね。それぞれが主となり主を取り巻く環境を最大限に引き立たせていくのです。ここに見事な調和の芸術が生まれてくるのですね。これが「一期一会」の本来の意味だと思います。このように見ていきますと「今」というのは「Eternal now」(永遠の今)を生きるということにつながると思います。進行形で「今」を考えますと過去になりますでしょう。点と点を結ぶ瞬間ですから。そうしますと点と点を連続して結んでいこうとしますと大変な修練が必要とされるわけです。いうなれば天台の「回峰行」(比叡山において、一日に山中を一周し、千日で終わる修行。平安中期より始まったといわれています。)や「篭山」(山に篭って一定期間下山しないで、大乗仏教を読み習う修行をすること)のような不眠不休の修練が要求されるわけです。それでも「今」を生きることに近づくことは出来るかもしれませんが「永遠の今」を生ききることはほとんど不可能なことだと思うのです。大乗仏教では「永遠の今」を「住不退」(不退に住すー再び迷いの世界に退転することのない境遇)と言い表していると思いますが、この不退の位を得るために菩薩は煩悩の火を掃うが如く修行に励むのです。「今」という言葉の中身は非常に厳しく、そして明日につながる・断絶しないことをもって「今」と言い表しているのです。龍樹菩薩は『易行品』に於いて「もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、恭敬心をもって執持して名号を称すべし」と示唆し親鸞聖人はこれをうけ「不退のくらいすみやかに/えんとおもわんひとはみな/恭敬の心に執持して/弥陀の名号称すべし」と龍樹菩薩を讃えられています。


人間として-教法に遇う

2009-10-17 23:54:22 | 生きることの意味

わたしは、曽我先生から本当に大切なことを教えていただきました。人間として真宗に遇いえたということが、どれだけ希有なことなのか「人身受けがたし、今すでに受く、仏法聞きがたし、今すでに聞く」と、三帰依文に教えられていますが、私たちは真宗に遇うことによって大切な命の尊さを知ることが出来るのではないでしょうか。私たちはいろんな経験を繰り返しながら自分の人生を築いていきますが、その対処は知らず知らず自己中心にならざるを得ません。その結果、自他の分別が起こってくるのです。82歳になる叔母がいるのですが、定年まで銀行に勤め、今は悠々自適に暮らしているように私には見えるのですが、訪ねていろいろ話をして見ますと、そうでもなさそうなんです。愚痴が湯水のごとく溢れてくるのです。一生懸命働いてきて「満たされないのはどうして」僕は何時も聞き役に徹しているのですが、居場所というのか、帰る場所がないということが愚痴となって出てくるのではないかと思っていいます。叔母には「老後はこのようにして暮らしていく」という夢があったと思うのですが、なぜか「何かが違う」と感じておられるのでしょう。先日も書いたのですが自分の身につけた「アクセサリー」が邪魔をするのでしょうね。アクセサリーにしがみついている自分に翻弄されているのでしょう。しかし「何かが違う」と感じるところに人間がもともと持っている「本当のことに出会いたい」という本能が働いているのだと思います。そのために生まれてきて、「本当のこと」を伝えるために「今」という時間が与えられているのではないかと思うのです。私たちは私の居場所を必死になって探し求めているのでしょう。その居場所は「これだ」と思っていたことが、いつの間にか、ずれて しまっていたということになるのではないでしょうか。そこに「教法に遇う」ということが本当に大切な大切なことになるのだと思うのです。仏教では私たちの帰る場所を浄土と表現しているのです。浄らかな国土、存在の有無ではないのです。経典には浄土は「三界を超えて」と教えられています。三界の向こうとは書いていないのです。超えるということは背中合わせということになるのだろうと思うのです。一番近くて一番遠い存在、それが浄土として、私たちの居場所として語られているのでしょう。