信心とは依頼心ではないのです。依頼する時は何かを期待するわけです。信頼も人間関係にとっては大切な要素ですし、これなくして社会は成り立ちません。しかし信頼も時に裏切られることがあります。また裏切る時もあります。これが世間なのでしょう。「世間虚仮・唯仏是真」とは聖徳太子のお言葉ですが、親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と『歎異抄』(真聖P640)に述べておいでになります。世間は信頼関係で維持されているのです。その信頼関係は二重構造に成っているということです。緊張関係で成り立っているといってもよいのではないかと思います。ですからいつも心が解き放たれない、「疲れたなぁ」という状態が続いていきます。信頼という重荷を背負っている限り、心休まるということはないのでしょう。何故そのようなことになるのかといいますと、「道理」を主にしていないからです。道理とは「法」です。法則といってよいのでしょう。「諸行は無常であり、諸法は無我である」というのが道理ですね。因縁所生の法ともいわれます。縁起によって起こってくるものです。今、私が書き込みをしているのも縁起の理によっているのです。一つでも縁がなければ(条件が整わなければ)、書き込みをすることはできません。私が今何かをしているということはすべての条件が整っているということなのです。「宗教」は利用するべきものではないのです。よく聞く話ですが「信心のおかげで病気が完治した」ということ、このようなことは宗教でも何でもないのです。ただの give and take です。「ご都合主義」といってよいのではないでしょうか。世間の闇とはこのようなもでしょうか。宗教は「~のためのあるものではない」のですね。 religion という言葉を使うのですが信仰というときには、faith (キリスト教をさします)という言葉を使うのですね。神を信じ仰ぐということです。この原点は罪という問題を孕んでいると思います。罪というのは自他の分別を持ってしまったということです。そこに神の許しを願うという信仰が起こってくる所以があるように思います。仏教も罪ということを言いますが、自覚において認識するのです。それが「信」です。道理に背いてしか生きていけない存在(反逆者)であるという、「罪悪深重煩悩熾盛の衆生」の自覚です。この自覚が心を豊かにし、心を浄化する働きをするのでしょう。