唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (65) 触等相応門 (47) 護法正義を述べる (Ⅵ)

2011-11-29 23:02:18 | 心の構造について

 「若し染心の中に散乱無くんば、流蕩(るとう)に非ず染汚心に非ざるべし。若し失念と不正知と無くんば、如何ぞ能く煩悩を起こして現前せん。」(『論』第四・三十五左)

 (若し染心の中に散乱が存在しないのであれば、心が定まらず乱れ動くことはないので染汚心ではない。若し失念と不正知とが存在しなければ、どうして煩悩を起こして現前させるのであろうか。)

 本科段は五遍染師が散乱と失念と不正知は遍染の随煩悩ではないと云う説を論破します。つまり、散乱と失念と不正知は遍染の随煩悩であることを述べます。

 「次には初師の唯だ五に倶なりと許すを難ず。若し染心の中には散乱無くば応に流蕩に非ざるべし、善心等の如し。既に流蕩有ることは散乱に由るが故に。」(『述記』第五本・六十五右)

 染心の中に散乱が存在しなければ流蕩ではないことになる。流蕩とは「流は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」といわれます。心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はとろける・とろかすという意味があります。水がゆらゆら揺れ動く様子を言い、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱ハ、アマタノ事ニ心ノ兎角(とかく)ウツリテミダレタルナリ」(『ニ巻抄』)と述べられています。「染心の中に散乱が存在しなければ流蕩ではないことになる」というのは、心を流蕩させるのは散乱の働きですから、流蕩であるはずの染心に散乱が無かったならば、流蕩は染心ではないということになり、それは善心か無覆無記心になる。流蕩が染心である限り散乱が存在するわけですから、散乱は遍染の随煩悩であると云う論証になります。

 失念・不正知が遍染の随煩悩であると云う論証は明日考察します。