唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(24)

2020-04-19 18:29:53 | 『成唯識論』は何を教えているのか。
 今日は。昨夜来より爆睡しました。ちょっと疲れがたまっていて、やっぱり歳ですね。身体は正直です。ちょっとすっきりしました。
 唯識は難解ですか。私は何処に向かって歩いているのか。どうなりたいのかを思索する学問になると思うんですよ。いわば、無条件の救いを実現する学問です。では何故無条件の救いが完成しなのでしょう。何が邪魔をしてるのか。この状況を唯識は詳しく説き明かしています。一言でいえば、唯識無境です。境は対象ですね。識は私の心の構造になります。私の心の構造のみが存在して、対象である境は無いといっています。この「無い」は実体的に固定的に存在するものではないということなのです。実は、私も実体的に固定的に存在するものではないんですね。
 それは縁に由って変化する存在であるわけです。ここで、我と法が語られます。唯識は我を明らかにし、無境は法を明らかにします。問題は我に囚われ、法に囚われている自己自身が問題であると指摘しているのです。
 現在の社会問題、これからも波状的に襲ってくるだろうと想像されるウイルスですね。核に代わって、人類が取り組まなければならない問題です。これが縁なのです。
 私個人が何ができるのか。無常である世界、無我である自己を明らかにすることが、最大限必要な課題であると思いますが、皆さんはどのように考えておられるのでしょうか。
 『大経』に「然るに世人、薄俗にして共に不急の事を諍う」と現在の状況を予言していますが、これは、いかにして生き延びていけるのかが、不急の事を諍うことに発展してくると指摘しているのですね。
 熏習に関しては、
 「唯だ識のみあって境はなし」(識の所現は識の所変なり)を言葉を変えて教えています。他人の行為は熏習しませんが、他人の行為にたいして思うことは熏習します。これ能なるが故です。そして即時ですから、時の前後は熏習しないということです。ただしですね、昨日のことであっても、「今」考えたり、それに左右されることは今の出来事ですから熏習されます。厳密ですね。未来のことは熏習されませんが、未来のことを今思うことは熏習されます。すべては「今」(刹那生滅)今といっても動いていますからね、意識されたときは過去の出来事になりますね。ですからね、熏習というのは思量を超えている。私の思いからは計らうことはできないのです。こういうのを自然(ジネン)と言い表されているんだと思います。
 私の判断というか、思いですね。思いから云うとですね、人生無駄だらけ、こんなはずではなかった、と。
 僕なんかは特にそうですね。過去に想いを馳せるのは悪くはありませんが、後悔ばかりが先行します。「何故・何故、ばかり」。しかし、はからずもです、仏法に出遇わしていただくことによって、今ある自分に気づかせていただきますと、すべては御縁の世界であったと頷きを得ますね。一つでも条件が欠けていたなら、今はありません。命は大事だといいますが、その命の大事さに遇うこともないでしょう。裏を返せば、自分の思いで生きてきましたね。自分の思いで生きてきたことが、どれだけ世間様に無理強いをしてきたのかに深々と頭が下がっていくのではありませんか。頭が下がった時に「すべては無駄ではなかった」といえるのではないのかな。種子が熏習し現行を生起する、という構造を阿頼耶識縁起として唯識は教えているのでしょう。
 「定散自力の称名は/果逐のちかいに帰してこそ/おしえざれども自然に/真如の門に転入する」 (『浄土和讃』)
自然(ジネン)は私の思い、計らいを超えている。超えているのは、私の思量の及ぶ範囲ではないということ。思いに先立って如来の用(ユウ)、働きが行きわたっているということなのでしょうか。そこを唯識は阿頼耶識の果相である異熟識(善悪業果位)であると明らかにしたのですね。因は善業か悪業(不善業)であるけれども、異熟識は無覆無記性であるという。転入ということが成り立つのは無覆無記に於いてですね。果は無記である、という所に聞法の大切さが伺えますが、如何なものでしょうか。


唯識入門(18)

2020-03-01 11:00:19 | 『成唯識論』は何を教えているのか。

 おはようございます。今回より熏習(くんじゅう)についてですが、阿頼耶識に熏習されることを意味します。つまり、身・口(語)・意の三業の種子が人間の心の要である阿頼耶識に植え付けていく、阿頼耶識からは植え付けられていくことになります。
 これを、現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ)といっています。阿頼耶識は、「The store-consciousness」と訳されていますが、storeは倉庫・貯蔵所・con-scious-nessは知覚としての意識になります。つまり、現実の私の行動のすべてが貯蔵所としての阿頼耶識に収められることになります。この収められたのが種子ですから、この一瞬に何を熏習させるのかが問われているのですね。
 過去は取り戻すことはできませんが、過去を受け止め、未来を開いていくのは、この一瞬の行動が決定権を握っているといえましょうね。それによって、過去のすべてが意味あるものとして頷けるのではないでしょうか。
 それでは、『成唯識論』から、熏習について学びます。
  熏習とは何か。『論』には、
 「何等の義に依ってか熏習の名を立つるや。所熏(しょくん)と能熏(のうくん)と各四義を具して種(しゅう)を生長(しょうちょう)せ令るが故に熏習と名く。」と。
 どのような理由から熏習という名を立てるのか。それは所熏と能熏に各々四義を備えて種子を生(新熏種子)・長(本有種子)するが故に熏習と名づけるのですね。
 一は所熏
 二は能熏
 三は種をして生・長せしめるが故に熏習と名づける。 
種子の六義の最後に引自果(いんじか)の意味が説明されていますが、色(しき)は色という自己の種子を熏し、生じるときも同じ自己の色の種子から生じ、心は心という自己の種子を熏じ、生じるときも同じ自己の心の種子から生じる。けっして色から心が生じたり、心から色が生じるということはないのです。
 よって因果の道理に錯乱はないことが証明されます。これを受けて、熏習に所熏の四つの性質と、能熏の四つの性質を明らかにしたのです。ようするに、熏習されるもの(所熏)と熏習するもの(能熏)とに分けて説明し、所熏になりえるものと、能熏になりえるものの特質を述べているのですね。
 所熏の四義は『摂大乗論)(しょうだいじょうろん)』にも説かれているのですが、能熏の四義は『成唯識論』独自の解釈になり、『摂論』を受けて『成論』が成立し、『成論』の背景に『摂論』があることがわかります。所熏の四義を備えたものが阿頼耶識なのですね。阿頼耶識を立てて初めて人間存在が立てられるのですが、これは唯識以前の仏教が六識で考えられていたと云う背景があります。それは意識の根拠、即ち意根の存在証明が不十分であるということなのです。眼識は眼根を所依とし、乃至身識は身根を所依とするわけですが、第六意識の所依は意根であるというわけです。意根は前滅の識を所依として成り立つと説明されるのですが、経験の積み重ね(種子)はどこに収まるのかの説明がつかないのです。無始以来の一切の経験が蓄積されている場所の説明ですね、表層の意識の奥深い所、深層に人間の非常に深い心があるのではないのかという眼差しが阿頼耶識を見出してきたのですね。そして阿頼耶識が阿頼耶識と名づけられるのは一切種においてであり、阿頼耶識はまた一切種識と呼ばれる所以なのですね。
 無始以来(曠劫以来といってもいいでしょう)の一切の経験の蓄積されている場所はどこにあるのか。これが所熏の四義になります。六識が六識が成り立っているのではなく、六識の行為を残し、蓄積していく場所があって、はじめて六識が生きて働いているのであることを明らかにしてきたのが大乗仏教であり、とりわけ唯識仏教であるわけです。
 ここからが唯識worldが始まります。また。

八識の織りなす世界

2015-05-19 22:04:49 | 『成唯識論』は何を教えているのか。
 

 八識の織り成す世界 一部再録  
 識(自体分・自証分)体は、八識によって織りなされているわけです。つまり、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識ですが、本識は阿頼耶識、本識が転じて七転識、或は、「第七有って第六の依と為る」といわれていますように、六転識として、識の織りなす世界が説かれてきます。
 略していいますと、第八識の上に末那識が働き、第六意識はそれらを依所として動いているということなのです。
 第二能変・末那識の存在証明である第一教証には、心・意・識の意義が説かれています。
 「集起するをば心と名づけ、思量するをば意と名づけ、了別するをば識と名づく。是れ三の別義なり。是の如く三義は八識に通ずと雖も、而も勝れて顕なるに随って、第八を心と名づく。諸法の種を集め諸法を起こすが故に、第七を意と名づく。蔵識等を縁じて恒・審思量して我等と為すが故に。余の六を識と名づく。�跏動に間断師了別して転ずるが故に。」
 これは、第七識は第八識を依所として動いているということなのです。第七識の依所は第八識・第八識の依所は第七識という関係ですね。第八阿頼耶識は第七末那識を依所として動いていく。ここに、認識の重層性が語られているんです。第七末那識がキーポイントになります。第七末那識がなかったなら、迷いがなくなります。迷わないですむわけです。しかし、曠劫以来任運に恒に審に阿頼耶識を縁じて自の内我とする働きがありますから、命の誕生と共に我の意識、自他分別の意識が無意識の領域で動いているのですね。阿頼耶識を縁じて我見を起こしているのです。
 この構造が、本質(ホンゼツ)と影像で説かれるのです。本質と影像の間に介在し影響を与えているのが第七末那識である染汚識なのです。本質を疎所縁として、転識されている識の見分が染汚性をもって親所縁として相分を描きだし、固定化し、実体化して執着を起こし、本質である阿頼耶識そのものを染汚してくるという働きをもつのです。ここに宗教的問題が隠されてるようです。阿頼耶識は自己の生命の存在証明ですが、第七末那識によって染汚されるということに於て、転依しなければ、涅槃と菩提という勝果を得ることはできないのですね。阿頼耶識を本来の自己というなら、本来の自己はすでに与えられているのでしょう。本来の自己を覆っているのが第七末那識、第七末那識は我執の心、有我の心、我に執着している心ですから、本来性から顛倒しているわけですね。
 振り返りますとね、涅槃と菩提も既に与えられているというべきでしょう。しかし、本来に返れないと云う所に深い闇が自己の中を覆っている、それは何んだと。
 ここで末那識の存在証明が出されてくるのです。教証は『楞伽経』と『解脱経』です。そして六理証が存在証明として述べられます。こういう形で、末那識が、第二能変として位置付けをされたのです。
 聞法もですね、聞いているのは私なのですね。私が聞いている。しかし仏法は聴聞だと、聞くのではなく聴くんだと。私が聞くということは、末那識相応の我見によって私の都合に合わせて聞くということになります。ここが破られてこないと聞法にはなりません。
 仏法は無我にて候。
 常なるものは何一つない。
 この道理に反逆し苦悩しているのが私の姿、一生懸命私を掴まえてもがいている。私が描いたもののようにあるわけではないと教えられている。影像を影像と知った時、本質には触れ得ることはできないが、本質が働いているということは知り得る。それが「涅槃の一分を得る」ということなのでしょう。
 末那識は「異熟生の摂なり。異熟識に従いて恒時に生ずるが故に異熟生と名づく。異熟果には非ず。」
 (第七識は異熟生におさめる。異熟識に従って恒に生じるので異熟生と名づける。異熟果ではない。)
 認識は「識体転じて二分に似る」という構造で知られるわけですが、第八阿頼耶識の見分を縁じて我と為す第七末那識の存在が大きく横たわっていることが解ります。外境は無いということははっきりしたが、内に於いても、内なる外としての末那識の存在が迷妄と苦悩を生み出してくるのですね。我執・法執が覆っているということを唯識は教えています。
末那識の存在証明ですが、二経六理証を以て末那識の存在を証明されるわけですね。
 六理証は『摂大乗論』に依って証明されるのですが、最初に、不共無明を以て説き明かされていますね。
 「不共無明は微細にして恒行し真実を覆蔽すと云う。若し此の識無くば当に有に非ざるべし。謂く諸の異生は、一切の分に於て恒に迷理の不共無明を起こして真実の義を覆い聖慧眼を障う。・・・・・異生の類は恒に長夜に処して無明に盲いられて、昏睡して心を纏はして曽って醒覚すること無しと云う。」
 どうしても、六識だけでは説明のつかないところです。末那識が有るのか無いのかという問題ではなく、末那識が無かったならば説明がつかないということです。
「云何が知るべし。此の第七識は眼等の識に離れて別の自体有りと云うことを。」(『論』第五・八右)
(どのように知られるのであろうか。この第七識は、眼等の識を離れて、別の自体が有るということを。)
『成唯識論』は『唯識三十頌』本頌と長行によって成り立っています。第二能変は長行が大きく二段に分かれ、第一段は八段十義で説明され、前科段ですでに述べおわっています。これからの科段は、第二の二教六理証が述べられます。教と理を以て、第二能変の存在を証明する科段です。
「述して曰く、文の中に三有り。初には問。次には答。後には疑を釈す。下に唯だ六識と立つるを会するなり。小乗は此れは即ち是れ六識が過去に入る者なりと執す。故に此の問を為す。答の中に二有り。初には総じて教・理を以て量と為し、二には別して教・理を以て量と為す。」(『述記』第五末・十二右)
小乗(部派仏教)では第七末那識は説いていないのですね。第七末那識を認めていないのです。ですから、第六識まで説かれていない部派仏教に対して、第七末那識の存在を証明する必要があるのです。部派仏教では、この第七識に相当するのは、「小乗は此れは即ち是れ六識が過去に入る者なり」と云われ、生滅する六識が過去になったもので、これを意根というとする立場に立ちます。
 六識と離れて別の自体が有ることが、何故に解るのか、という問が先ず設けられ、それに答える形で以下二教六理証を以て、第七末那識の存在を論証していきます。尚、教・理証については第八阿頼耶識(五教十理証)と第七末那識の存在を証明する為に論証されます。第六識に対しては、部派仏教も承認している事柄になり、証明する必要はないからですね。
 教証とは、仏・菩薩の教えを以て証明するということになります。理証は、道理ですね。道理を以て証明していく。 「眼等の識に離れて」と。眼等の六識は部派仏教でも説かれていたということです。しかし、従来説かれていた六識を離れて別の自体が有るということをどのように証明するのかが問われているのです。八識別体が護法の立場ですね。
「聖教と正理とを以て、定量と為るが故に。」(『論』第五・八右)
(第七末那識の存在が知られるのは、聖教と正理(しょうり)とを以て定量(じょうりょう)とするからである。)
 定量 - ある認識や判断の正当性を裏付ける根拠。文献的根拠と、理論上から知られる根拠をいう。
 別して答える。(教と理から個別に答える。)
 「述して曰く、自下は別に答す。中に於て二有り。初には顕なる経に依って、教を以て有と証す。次に隠なる経に依って、理を以て有と証す。初の中に二有り。初には不共許(ふぐうご)の経、二には共許(ぐうご)の経。此れ等の経は大小に通じて有と云うを明かす。然るに七十六解深蜜経及び楞伽に大に文有り。小乗の謂く未来をば心と名づく。過去は是れ意なり。現在は是れ識なり等種々に分別して然も別体無しと云う。今は顕に経に於て別に体有りと言うことを。上には証じて解し已りぬ。」(『述記』第五末・十二左)
 教と理から個別に答えられるのですが、これが大きく二つに分けれるのです。第一は、二教証です。これは「顕なる経」(顕なる経典)に依って、教を以て第七末那識が存在することを証明します。第二は、六理証です。これは「隠なる経」(隠なる経典)に依って、理を以て第七末那識が存在することを証明します。
 初の二教証について、さらに二つに分けられて説明されます。第一の教証は、不共許の経典(大乗の経典)を引用します。小乗仏教では大乗経典は仏説ではないとして不共許の経典とされます。第二の教証は、共許の経典を引用します。大・小乗共に承認されている経典を以て論証します。
 小乗仏教においては、六識と別の体をもった末那識の存在を承認していなく、未来の心を心といい、過去の心を意といい、現在の心は識と名づけれられるのであって、同一の体であるとする。しかし、大乗仏教では、六識とは別の体をもった識が存在するという。その証拠が下に述べられる『論』の一文である。
 「謂く、薄伽梵(ばぎゃぼん)の処々の経の中に、心と意と識との三種の別義を説きたまえり。集起(じゅうき)するをば心と名づけ、思量するをば意と名づけ、了別するをば識と名づく。是れ三が別義なり。」(『論』第五・八右)
 (つまり、薄伽梵(仏の別名)が処々の経の中に於て、心・意・識との三種の別義を説かれているからである。集起(あつまること。業果である種子を集める阿頼耶識が心であると解釈する。)するものを心と名づけ、思量するものを意と名づけ、了別するものを識と名づけるのである。これが三つの別義である。)
 先ず第一教証が説かれます。大乗経典の引用です。不共許の経典といわれます。これは小乗仏教からの大乗仏教への批判です。仏説ではないと。しかし、ここでは先ず不共許の経典を挙げ、大乗経典に於て第七末那識の存在が証明されていると述べています。大乗経典においては、心・意・識は小乗のいうような働きではなく、集起するものを心と名づけ、思量するものを意と名づけ、了別するものを識と名づけ、それぞれ別個の存在であることが示されていることを明らかにし、即ち阿頼耶識は集起する心であり、第六意識は了別する心であり、思量する心は、末那識に他ならないとして、第七末那識の存在を証明しているのです。
「是の如きの三の義は、八識に通ずと雖も、而も勝れて顕わなるに随って、第八をば心と名づく。諸法の種を集す、諸法を起こすが故に。第七をば意と名づく。蔵識等を縁じて、恒に審らかに思量して我等と為るが故に。余の六をば識と名づく。六の別境の於には�跏動に間断し了別して転ずるが故に。」(『論』第五・八右)
(このような三つの義(集起・思量・了別)は、八識に通じて認められているとはいえ、勝れて顕著であることによって、第八識を心と名づける。何故ならば、諸法の種子を集め、諸法を起こすからである。そして第七識を意と名づくのである。何故ならば、第八阿頼耶識を縁じて、恒に審らかに思量して我等とするからである。他の六つ(眼・耳・鼻・舌・身・意識)を識と名づくのである。何故ならば、六つの別々の境に対して、�跏動に間断し、了別して転じるからである。)
「諸法の種を集す」とは「一切の現行の為に熏ぜらる。是れ諸法の種を集むるなり。」と、現行熏種子のことですね。そして「諸法を起こす」とは、「現行を依と為し、種子識を因と為して能く一切の法を生ず。故に是れ諸法を起こすなり。」と、種子生現行のことを表しています。
『瑜伽論』巻第六十三に「心等に具に此の通・別の名有り。」と述べられ、心・意・識の三つの言葉は八識に通じて呼ばれることもありますが、特徴的な性質という時には、心・意・識という三義を以て説かれています。通とは、従来説かれていた心です。小乗では六識のみ(六識体一説)を説いていました。別とは(八識別体説)勝義の道理に由る、と。勝義とは阿頼耶識と転識です。所依・能依の関係です。転識とは、眼識乃至意識の前七識です。第七意識は第七末那識の訳名であって、第六意識ではないということですね。ここに素晴らしい譬が出されています。「譬へば水浪の瀑流に依止するが如く、或は影像の明鏡に依止するが如し。」と。
 第七末那識を意と名づけるのは、蔵識等を認識して、恒に審らかに思量して我とするからである、と述べられているのですが、「等」と云うことは、有漏の末那識はただ我の対象である阿頼耶識のみを認識するわけですね。しかし、無漏でありながら、因位の末那識は第八阿頼耶識と真如とを認識対象とするのです。そして、果上の仏果を得た後は一切の法を認識対象とするから、『論』に「等」の字がおかれているのです。詳しくは等取といいますね。
 他の六識は別々の対象を認識するのですが、認識される六境の体は麁動であり間断するために、これに対する了別作用も麁動であり、また間断するものとなる為に識と名づける、と云われます。
 「余の六識をば識と名づく。六の別境の体は是れ麁動にして間断有る法に於て、了別して転ずるが故に。了し易きを以て麁動転易するを以て動と名づけ、続かざるを間と名づく。各々此の勝れたること有って、各別に名を得たり。何を以て心等は是れ第八等と知るや。」(『述記』第五末・十二左)

末那識は、阿頼耶識に関係する自我愛の契機であるといえる。自我として愛着されているものは阿頼耶識、愛しているのは末那識、従ってノエシス・ノエマの関係である。」(安田理深師)は述べておられます。
 「謂く、契経に説けり。不共無明は微細に恒に行じ、真実を覆蔽すという。若し此の識無くんば、彼有るに非ざるべし。」(『論』第五・九左)
(つまり、契経(『分別縁起初勝法門経』・『分別縁起経』という。巻下)に説かれている。「不共無明は微細であって、恒に活動し、真実を覆蔽する」(取意)と。もし、この末那識が存在しなかったならば、彼(不共無明)も存在しないであろう。)
 不共無明(ふぐうむみょう) - 二種の無明(相応無明・不共無明)の一つ。独行無明ともいう。貪・瞋などの煩悩と相応して共に働くことなく、ただ四諦の真理を知らない暗い心のありようをいう。これがさらに二つに分けられる。恒行不共無明と独行不共無明である。恒行不共無明は末那識と相応して働く無明をいう。恒行とは、無始よりこのかた、恒に働きつづけているから恒行という。独行不共無明は意識と相応して働く無明をいう。貪・瞋などの煩悩と相応せず、ただ独り働く無明をいう。 相応無明は、前六識における貪・瞋などの煩悩と相応して起こる無明である。
 第一理証で述べられている無明は、恒行不共無明です。恒行不共無明の依り所は第七末な識なのです。第六意識は間断することが有り、恒行ではなく、第八阿頼耶識は煩悩と相応しないという論証から、もし末那識が存在しないならば、恒行不共無明もまた存在しないことになる。しかし恒行不共無明が存在する限り、末那識は存在すると論証しています。「真実」に二つの意味が施されています。無我の理と無漏の智慧です。無我の理と無漏の智慧を覆い隠し、それがまた虚妄を顕すことになるというのです。
 真実ということなのですが、『正信偈』に「無明の闇を破すと雖も、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり」と、親鸞聖人は語られています。「無明の闇を破す」ということについては、「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(『総序』)と。無明の闇はすでにして破られている、「しかし」、貪愛・瞋憎の雲霧が真実信心の天を覆っていると、我が身の現実を見据えられておられますね。真実とは、『唯識』では無我の理と無漏の智慧のことであると教えられています。諸法実相です。『唯識』では円成実性といいます。「覆眞實相顯虚妄相」と、覆っているものですから、現実は虚妄の相を現しているのです。『歎異抄』では「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と語られています。念仏は真実功徳相ですね。真実功徳相によって明らかにされた世界が、火宅無常の世界であり、我が身は煩悩具足の凡夫であることが一点の疑いもなくはっきりとしたということですね。闇は破られていることに於て雲であり、霧であることが見えたということです。見えてみれば、雲、霧は邪魔にならないというですね。無明の闇が破られて、「微細に、恒に行じ、真実を覆蔽」している末那識の存在が白日の下に晒されるのです。恒行不共無明が本性である、と。 
 「謂く、諸の異生は、一切の分に於て、恒に迷理の不共無明を起こして、真実義を覆い、聖の慧眼を障う。」(『論』第五・九左)
 (つまり、諸の異生は、一切の分(善・悪・無記のすべて)において、恒に迷理の不共無明を起こして、真実の義を覆い、聖の慧眼を障碍するのである。)
 諸の異生と述べて、聖者を除いています。理由は聖者は無漏智が現行する時、恒行不共無明が存在しなくなるからです。(煩悩具足の凡夫は)一切の分に於て、善も悪も無記の行為であっても、恒に迷理の不共無明を起こして、真実義を覆い、聖の慧眼である無漏智を障碍しているのである、と。  
(経と論を引用して恒行を証明しています。初に無着の『摂大乗論』巻第一を挙げる。)
 「伽陀に説けるが如し。「真義の心のみ当に生ずべきを、 常に能く為に障礙して、 一切の分に倶行す、 謂く不共無明ぞという。」(『論』第五・九左)
 (伽陀に説かれる通りである。「真義の心のみ、まさに生ずべきを、常に能く障礙して、一切の分に倶行する。つまり、不共無明である。)
 「頌曰 若不共無明 及與五同法 訓詞二定別 無皆成過失 無想生應無 我執轉成過 我執恒隨逐 一切種無有 離染意無有 二三成相違 無此一切處 我執不應有 眞義心當生 常能爲障礙 倶行一切分 謂不共無明此意染汚故。有覆無記性。與四煩惱常共相應」(『摂大乗論』本・巻上、大正31・133c~134a)
(「若し不共無明と 及び五同法と 訓詞と二定の別と 無ければ皆過失を成ず、 無想の生は応に 我執の転ずること無ければ過を成ずべし 我執は恒に随逐して 一切種に有ること無からん、 染の意を離れては 二有ること無く、三は相違を成ず、此れ無ければ一切処に 我執は応に有るべからず、真義の心の当に生ずべきに 常に能く障碍となり 一切分に倶行するを 不共無明と謂う。此の意は染汚の故に、有覆無記なり。四煩悩と常に共に相応す。色無色の二纏の煩悩の如く、是れ其の有覆無記性の摂なり。色無色の纏は奢摩他の摂蔵する所と為るが故に、此の意は一切時に微細に随逐するが故に。」)
 訓詞(くんし) - 言葉の語源や意味を解釈すること。 
(「なぜ、汚染された心が存在すると知ることができるのか。もし、この心がないとすれば、独立して働く無明が存在すると言えなくなるからである。・・・これについて詩句を説く。独立して働く無明がないことになり、同質の五識がないことになり、二つの禅定の区別がないことになり、意という言葉の意味がなくなり、たんなる無想情態の生命に我執がないことになり、その一生に煩悩の流失がないことになり、その善悪無記の中には、我執は起こらないことになる。しかし、汚染された心なしには涅槃も無い。汚染とそれから離れるということや、存在認識の三性質の事実に反する。それがなければ、一切のところに我執は発生することはできない。真理を覚ろうとするに際して、障害となって発生させない。つねに一切のところで働いているもの、これを独立して働く無明と名ける。この心は汚染されているので、有覆無記である。常に四つの惑いを伴っている。』コスモスライブラリー『摂大乗論』現代語訳より。)
 真義 - 真実義のこと。究極的な真実・真理(真如)をいう。真実義については『瑜伽論』巻第36(大正30・486b)に四種の真実義が説かれ、巻第64(大正30・653c)に六種の真実義が説かれる。『述記』には無漏の真智である、と説かれています。
 真義の心というのは、真如を縁じる心なのです。この真義の心は、無始よりこのかた有情に具備されているといわれています。しかし、末那識相応の恒行不共無明もまた無始よりこのかた間断することなく、恒に現行し、真義の心を障礙して、真義の心を現行させないのです。「倶行一切分」です。「此の無明は三性心に通じて、恒に與に倶起す。」と。三性すべてにですね。善も悪も無記の行に於て、この無明は起こるのです。すべての経験においてですね、この無明が相応して働いていると教えています。善を為して誇り、悪を為して嘆くのは、この無明が相応しているからであると教えられています。
 「是の故に契経に説かく。異生の類は、恒に長夜に処して、無明に盲(めし)いられ、�小酔して心を纏(まとわ)れ、曾って醒覚(せいかく)すること無しと云う。」(『論』第五・九左)
 醒覚(せいかく) - 迷いからさめること。
 昏酔(こんすい) - ねむく心が沈んでいる様子をいう。
(このために経典に説かれる。「異生の類は、恒に長い夜に身を処して、真実を明らかにする眼(慧眼)は恒行不共無明によって閉ざされ、昏酔して心をまとわれ、曾って迷いから醒めることは無かったという。)
 このような理由によって末那識の存在が証明されるということを表しています。不共無明は「行相微細にして知り難し」(微細常行行相難知覆無我理蔽無漏智)といわれていますように、恒時に行じて無我の理を覆い、無漏の智を蔽っているわけです。またこの不共無明は心所有法ですから、心王がなければないません。恒時というところから、前六識には間断があり、第八識は無覆無記であって、煩悩と相応するものではありませんから、いずれも不共無明と相応するものではないのですね。よって恒時に相応する第七識の存在が証明されるわけです。  何故、このようなことを言いますかとういうことですが、末那識は「恒審思量」といわれています。これは、我の自覚に於て、その自覚の底に末那識が働いているということなのです。「いたらぬ私です」という底に「いたる私が」潜んでいるのです。「僕が悪かったです」という見えない部分で「僕は悪くない」という自分が存在する。悪い・悪くないというところで自他分別が働いている、自他分別のところで妄執が働いているのですね。自他は縁起生ですからね。縁起に於て自であり、他であるわけです。分別されるものではないことが教えられている、それが出世の末那といわれているのす。

『成唯識論』は何を教えているのか。(4) 釈尊以前の仏教

2014-01-04 19:47:18 | 『成唯識論』は何を教えているのか。

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     聞成坊1月の法座案内

 1月11日(土) 『成唯識論』に学ぶ
    講師 河内 勉 師     

 1月23日(木) 『往生礼讃』講義
    講師 高柳 正裕 師
 いずれも午後3時より開講です。

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 曽我量深先生 『法蔵菩薩』 より

 「自分がすこしばかり研究しておりますところの『成唯識論』の中にある第八阿頼耶識と、法蔵菩薩というものとを照らしあわせてみますと、大体、一方は、自力聖道門のみのりでありますし、一方は、他力本願のみのりでございます。自力聖道門の方では、阿頼耶識として説かれておりますし、他力本願のみのりでは、阿弥陀仏の因位・法蔵菩薩として説かれているものである。そういう工合に私は了解していたわけでございます。    

              (中略)

 末那とか阿頼耶とかいうのは、心理学で言えば、深層意識というものでありましょう。言わば、ふつうの常識から見れば、一つの無意識ですね。無意識というようなところにあるのでありまして、つまり、ふつうの意識というものは、ときには、はたらきが断絶することがある。いちばん近いところでは、我々が深い睡眠をしているときには、意識は断絶しているのであります。そのときに、意識は断絶しているのに、その人は、なお生きているということは、私どもには自覚し得ないような深層意識というものがある。こういうようなことを考えられるのであります。

 そいいうことは、専門の学問があるのでありましょうが、私は心理学の学問をしているものではありませんけれども、これを仏教では「大菩提心」という。

 生死をのりこえる - 現在において現実というものがほんとうに分っていれば、迷いというものはありません。

 その現実とか現行とかいうものを正しく見ないで、それに対してプラスとかマイナスとかいうことをしている。我々の分別というものは、プラスの分別もあれば、マイナスの分別もある。すなわち、積極的な分別もあれば、消極的な分別もある。

 プラスもマイナスもなく、現実のあるがままというところに安住しておりますならば、なにも迷いというものはありません。現実とか現行とか、それ自体が迷いだというわけではありません。現実に対してプラスやマイナスの分別をしようとすることで、我々の迷いというものがはじまり、苦悩ということが起る。

 私どもには生死ということがありますが、生まれたり死んだりするそのこと自体は一つの現行でしょう。それがただちに迷いというわけではありません。生とか死について、一方を愛着し、一方を厭い恐れる。それが迷いです。生死そのものが迷いではない。

              (中略)

 もう一つ考えなければならないのは、煩悩ということがあります。けれども煩悩自体が悪いわけではない。業でもそうですね。業そのものが悪いのでも何でもない。煩悩というものにとらわれるでしょう。それにしばられる。しばられなければ、何ともない。けれども、我々はそれにしばられる。こちらから願って、しばってくれというようなものですからね。

 第三者が見ていると、あぶない話だなぁ、もうちょっと目をさましたらよさそうなものだが、と思うのですが、本人から見れば、それは、一種の三昧境に入ったような気持なのでしょうね。煩悩というものも、ある意味において、一種の三昧境というようなものと考えられます。

 だから、生死も、煩悩も、現行でしょう。法というものが、いろいろの縁によって、さまざまに変ってくるものだということが分れば、それにしばられることのないし、それに不安があるわけでもなく、また、それに圧迫されるということもない。

 仏様の眼から見ればそういうものであるわけだけれども、我々は、やはり、電燈の光に迷ってくる夏の夜の虫のようなものであります。光に迷って、いのちを失うのです。私は、虫がどう思っているか分かりませんが、灯に迷ってくる虫には、どんなにか光が美しく見えるのでしょう。光に接すれば、いのちをすててもいい、死んでもいいというふうに感ずるのでありましょう。どういうものか、まるで狂乱のようになって電燈にぶつかって行く。

               (中略)

 そういうようなわけでありますが、とにかく、阿弥陀如来は、平等の智慧というものから、平等の大慈悲心を働かしておいでになる。

 つまり、阿頼耶識は、大菩提心の一つの根源であり、自覚原理でありましょう。それでなければ、私どもに大菩提心というものが成り立たない。

               (中略)

 我々は、お念仏によって、自分が相対有限のものであり、愚かなものだということを本当に聞くことができる。しずかに聞くことができる。自分の分限ということを知らしてもらえる。

 自分の分限・分際を知らしてもらったことを「正定聚」と言う。

 我々は、『大無量寿経』の教えによって、分限を知らしてもらった。『法華経』は何を教えるか。『般若心経』は何を教えるか。それぞれ教えがあるにちがいない。『大無量寿経』は、われらに分限ということを教えてくれる。『法華経』にはこういう教えはないかもしれぬし、『般若心経』にもこういう教えはないかもしれぬ。とにかく、、『大無量寿経』の阿弥陀の本願によって、われらに相対の分限があることを教えてもらった。

 本願念仏の道とは、現在あたえられた分限に安んずることである。だから、いかなる環境を与えられても、不平もなければ、不満もないし、また不安もない。われらの環境というものはすべて、如来の与えたもうたものである。

 分限ということ、分限に安んずる、ということを知らしてもらった。だからして、こっちの方から、もっと下さいとは申しません。南無阿弥陀仏。これ以上の願いはない。もう一切の志願が満足する。「しかれば、名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたもう」。

 そんなら、我々の中にも、お念仏をいただいても、まだ不平を言うものがあるのは、どういうものでしょう。それは、お念仏のいわれが分からぬから不平を言うのだろうと思います。そういう人は、お念仏の尊さが分からぬひとなんでしょう。

 お念仏の尊さとは、つまり、相対有限の中に絶対無限があるということである。相対有限を知り、相対有限に満足すれば、相対有限がすなわち絶対無限である。それを南無阿弥陀仏と言うのでありましょう。

 これは、釈迦以前にあるところの仏法である。これは、人間として必ずそれがなければならぬところのみのりというものであります。・・・・・・・・・・。」

 


『成唯識論』は何を教えているのか。(3) 八識の関係

2014-01-03 17:48:23 | 『成唯識論』は何を教えているのか。

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 曽我量深先生 『法蔵菩薩』より 

「この末那識、阿頼耶識というのは、特殊の、深いところにある、一つの働きであると、まあ、こう言うておるのでございますが、この末那識というのは、つまり、言うてみれば、我というものである。「おれが」ということ。それから、「わがもの」ということ。「われ」と「わがもの」ということを始終ふかく思量し、思惟しておるところのはたらきがあって、深層意識と言われているものであります。つまり、私どもがわれ(我)と言い、わがもの(我所)と言うのを、我見・我所見と言う。我・我所を主我・客我とも言いますが、我というのは主我、我所というのは客我である。こういうように、迷いによって、まず、われというものをたてている。われというものをたてて行けば、われ以外の一切のものはわが所有であると、すべてのものを所有して行く。それで、まあ、この末那識が、迷いの根源である。
 意識のもう一つ深いところに、末那という意識があって、これは、ねてもさめても、はたらいているものであります。眠っておっても夢を見るということがありますけれども、しかし、もう夢すらも見ないということもあります。そういうことがありまして、第六意識というものはほとんどいつでも働いているというものでありましょうけれども、第六意識というものは、また、働かない時もある。ところが、第七識は、第六意識のもう一つ深いところにあって、ねてもさめても働いていて、しかも、第六意識のよりどころになるものである。
 いつでも第七識というものが内にあって、そして、それあるが故に、それによって、第六識というものは働いておるものである。第七識の末那というのがなかったならば、第六識は、よりどころを失うのである。まあ、こう言うので、この『成唯識論』では、第七末那識というものをたてて、これが、つまり、我々の迷いの根源である。もっとくわしくお話しなければ意味がはっきりしないんでありますけれども、とにかく、こういうようにしておくのであります。」(『法蔵菩薩』p32~p33)

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    第八阿頼耶識       (種子・現行・熏習) 
       
↑↓       } 我
     第七末那識        迷いの根源(我・我所)
        ↓
     第六意識    
       ↓↑
      前五識

 種子・現行・熏習

 種子は一切万法の因(一切種子識)であり、生きているということが現行、種子が具体化した所の姿でしょう。果が因を証明し、因が果を予測しているということになる。ですから、現行は依他起性である。迷いには、迷いの法則があり、悟りには悟りの法則がある。迷いの根源は末那識ではあるが、任運法爾の種子・現行は阿頼耶識。阿頼耶識にかえれば異熟識になる。迷いを縁として迷いを転ずることが出来る。
 唯識の命題に「人人唯識」が云われているが、一人一人が任運法爾の阿頼耶識をもっていて、他を穢さない。すべてを受け入れておおらかである。そういう阿頼耶識をお一人お一人がもっていらっしゃる。
 本来、阿頼耶識を生きているんだけれども、末那識によって覆っているわけでしょう。覆っているのが我ですね。妄執です。妄は、実体がないのに実体が有るとして執着していることですが、無我を我と執して、無我を固定化し、私有化し、我として縛り付けて阿頼耶識を覆っているわけですね。
 『成唯識論』は、この迷いの相を解明し、迷いを転ずることに於て安楽という、いつ、いかなる状況に於ても不虚作(むなしくすぎることのない)人生を送ることが出来ることを教示しているわけでしょう。これを経典では「現生正定聚・住不退転」といわれ、本願成就の具体性を現しているのではないかと思われます。
 「今、此の論を造することは、二空に於て、迷・謬すること有る者に正解を生ぜしめんが為の故なり。解を生ぜしめることは二の重障を断ぜしめんが為の故なり。我・法と執するに由って二の障、具さに生ず。若し二空を証しぬるときは、彼の障も随って断ず。障を断ぜしむることは二の勝果を得せしめんが為の故なり。生を続する煩悩障を断ずるに由るが故に真解脱を証し、解を礙ふる所知障を断ずるに由るが故に大菩提を得。」

 我執・法執を転ずることにおいて得られる勝果は涅槃と菩提ですが、果は現行として与えられている、因は一切種子識である阿頼耶識です。因は、証大涅槃の真因であり、「これ念仏往生の願より出でたり。」。「出でたり」ですから、「常没の御凡愚・流転の群生、無上妙果の成じがたきにはあらず」。無上妙果は果として現行していることを暗に教えて下さっているわけでしょう。離言の言としてですね。
 「方便化身土」には「すでにして悲願います。」と教えられ、具体的に、「韋提別選の正意に因って、弥陀大悲の本願を開闡す」とあらわされ、『経』には「教我観於清浄業処」と言えり。「清浄業処」と言うは、すなわちこれ本願成就の報土なり。」と。

 

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『成唯識論』は何を教えているのか。(2) 五遍行

2014-01-02 16:51:33 | 『成唯識論』は何を教えているのか。

 深層意識の根底で動いている識、根本識ですが、これを第八阿頼耶識というわけです。この第八阿頼耶識が動いている時、生きている、生命が働いている時にですね、必ず第八阿頼耶識と共に働いている心所がある。それを遍行といいますが、五つあると云われています。触・作意・受・想・思の五つです。心王は阿頼耶識・心所は五遍行。心王が動いている時には恒に心王とともに働いている具体的な働きです。阿頼耶識といってもわかりませんが、触乃至思の心所が深層の所で働いている。どんな状況におかれても必ず働いている心所です。

 今日は、遍行の説明をするつもりではないのです。五番目の「思」の心所について考えてみたいのです。でも簡単に五遍行を説明します。

 「触」は触境ですね。「境に触れ令むるを以て性と為し。受と想と思等の所依たるを以て業と為す。」 境は外界であり、対象ですが、その対象に触れること、認識を可能としている心所が触の心所なのですね、この触が受・想・思の所依となるということです。触がなかったなら、受も想も思も起こってこないのです。

 ですから、花を見る、雲を見る、或は音を聞くということが可能なのは、「触」の心所が深層で働いているからなのです。鼻を見るという眼識、音を聞くという耳識、匂いを嗅ぐという鼻識、味わうという舌識、暑い、寒いと感じる身識、意思表示を行う意識もですね、「触」の心所が基盤となっているということなのです。どうでしょうか、当たり前と思っていることがですね、命の働きとして与えられているということなのですね。

 作意は「触」とともに、同時ですね。心を動かしていく働きです。僕はFBで、朝の挨拶のつもりで空の様子を投稿していますが、空に触れたと同時にですね、スマホのシャッターをおすという作意が働いているんですね。自分が起こしてように思うんですが、そうではないんですね。作意が働いて押すという行為が生れてくのです。

 この行為が生れてくる背景にですね、いろんな条件が重なってきます。若い時は視力は1,5位でよく見えていましたが、最近は老眼が進んで老眼鏡を手放せません。何もかも霞んで見えなくなっています。見るという一つの事をとっても、私が見る対象は日に日に変化しているわけです。難しい言葉では、根・境・識の三和合といいます。この三和合が変異に分別して境に触れ令む、ということなのです。だから日に日に同じ道を通って仕事場に向かっているわけですが、同じだと思っているだけなんです、実は違うんですね。絶対化という問題が潜んでいます。

 そして「触」が所依となる受・想・思えす。受は受け入れる、領納することです。「順と違と倶非との境の相を領納するを以て性と為し」といわれています。対象に触れたことを領納する。すべてですね、取捨分別は行わないで、すべてのものを受け入れる、これが受の性です。「愛を起こすを以て業と為す」といわれています。業は何かと云いますと、執着です。同時にです。ここでもですね、三法展転因果同時ということですね。このことは明日考究したいと思いますが、受は執着を起こすわけです。三受相応とか、五受相応といいますが、苦・楽・捨・憂・喜・捨という、触れることにおいて受け入れるということが起こってくる、その時に五受という具体相が表面化してくんですね。

 次に「想」ですが、順次に起こってくるということで説明されますが、説明です。実際は同時なんです。言葉によって言葉を離れた世界を表現しているわけです。

 受までは、はっきりとしてた具体相はないわけですが、「想」に至って、認識の具体相が出てきます。僕はパソコンの前に座っているわけですが、パソコンである、椅子である、キーボードである、参考書である等々ですね。これを「境に於て像を取ると以て性と為し」といわれています。業は何かといいますと、名言です。言葉を以て認識するということですね。「種々の名言を施設するを以て業と為す」ということです。

 五番目が「思」の心所です。行動を起こすとか、意思決定ですね。私たちは意思決定も、意識で行っていると思うんですが、そうではないということを教えています。一言でいえば条件内存在です。意思決定があっても条件が整わなければ行動を起こすことは出来ません。「心をして造作せ令むるを以て性と為し」と。意思決定は、善・悪・無記のいずれかに決定する作用ですね。そして具体的な行動に移していくわけです。

 そしてこれらの五遍行が第八阿頼耶識と倶に働いているということです。意思決定をし、具体的な行動として動くのは阿頼耶識の具体相なのです。何をいっているのかといいますと、私たちは阿頼耶識を所依、依りところとして現実生活を送っているということなのです。本来は、我執を超え、法執を超えて命は与えられているということなのでしょう。

阿頼耶識と共に生まれ、阿頼耶識と共に生かされているということになりましょうか。善導大師はその著『観経疏』序文義に「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の精血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。」と、内因と外縁の因縁和合に深い恩をいただいておられます。自分は自分の生まれたいという意思決定により、父母の力を借りて生み出されてきたのであって、それは「自の業識」であるところの阿頼耶識の働きであるといえないでしょうか。

 では何故苦悩が起こってくるのかですね。第七末那識と第八阿頼耶識の関係が大きく左右してくるのですが、次回に述べて見ます。


『成唯識論』は何を教えているのか。(1)八識の分類

2014-01-01 22:20:07 | 『成唯識論』は何を教えているのか。

 明けましておめでとうございます。 大晦日は除夜の鐘を宗圓寺さんで、修正会を專立寺さんで迎えさせていただきました。新たな日を迎えられ、一歩一歩歩みを確かめながら、親鸞聖人が明らかにされました浄土の真宗に己を尋ねたいと思います。

 ブログにおいて、『成唯識論』を読ませていただいているわけですが、『成唯識論』は何を説いているのかですね。「造論の主旨」に、「二空に於て迷・謬すること有る者に正解を生ぜしめんが為の故なり」と説かれていますが、正解は何かということです。正解は二空であり、二空に於て二の勝果を得ることができる。真解脱と大菩提であると説いているのです。そして論全体を通して願われていることは「利楽諸有情」なのです。

 「利楽諸有情」を覆い、迷・謬することの相を明らかにしてきたのが『成唯識論』である、といっていいのではと思います。

 略していうならば、八識三能変として、迷いの構造を明らかにし、迷いを転依した世界を明らかにしているといえます。

 曽我量深先生は『法蔵菩薩』の中で次のように述べておいでになります。

 「それで、この『成唯識論』では、ふつうの我々の意識のはたらきというものにつきましては、六識で説いていますね。六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識である。
 私ども人間には五官、からだに感覚の機能するものがある。ものを見るのが眼識。ものをきく、声をきくのが、耳識。においをかぐのが、鼻識。それから、ものを味わうのは舌で味わうのでありますから、それを舌識と言う。それから、我々の触覚ですね。我々の全身に感ずるのは触覚でありましょう。その触覚による識というのが、身識。そういうのを感覚の識と言うのでしょう。それを五識と申します。それから、まあ、第六番目を意識(意
(ココロ)の識とよんでおるのでございます。これは、人間の分別です。人間がいろいろにものを考える - それが、第六意識であります。
 それから、もう一つ、第七識というものがある。第六識も意識であり、第七識も、シナの言葉に翻訳すれば、やっぱり、意識である。それで、区別するために、第七識は、言葉を翻訳しないで、「末那識」と言う。末那は、シナの言葉に翻訳すれば、やっぱり、意識というんでしょう。第六識も、言葉を翻訳しなければ、やはり、第六末那識でありましょう。第六末那識・第七末那識というようなことになるんだけれども、第六の方は、ふつうの意識 - ふつうの常識で考えられるところの意識のはたらきでございます。第七は、同じ意識でありますけれども、これは、もう一つ深いところに、人間の意識の底にあるところの特殊の深層意識というようなございます。
 それから、第八識も、やはり梵語を基礎にして、「阿頼耶識」と言う。これは、音を写したのでありまして、文字にはべつに意味はないのであります。それらを全体で八識と言う。」

 と、教えておられます。もう少し『法蔵菩薩』から教えられていることを曽我先生のお言葉をお借りして、「本願成就」の意味を考えたいと思います。     (つづく)