唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (62) 触等相応門 (44) 護法正義を述べる (Ⅲ)

2011-11-25 23:54:17 | 心の構造について

 過去・未来という他世の事を疑う時には、必ず現在に於て勝解の働きが存在する。他世について決定的に理解する(印持)勝解の働きが存在するから(邪)勝解及び(邪)欲は遍染の随煩悩であるという理解が生じる。しかし、護法は「他世は有りとせんか無しとせんかと疑える彼(他世)に於て、何の欲と勝解との相か有る。」と疑義を呈します。他世の有無を疑うということは疑の煩悩が生起していることであって、現在に於て勝解が生起しているわけではない。勝解は決定的に理解する心ですから、他世に対して有るか無いかと不確定な事柄に対しては勝解は働くことないのですから、従って(邪)欲と(邪)勝解は遍染の随煩悩ではない、と論難します。

 「難じて言く、未来は無と為すと疑うときは此れは我見も有るべし。我見は是れ推求(思考すること)なり。若し疑の推求する時には我見無しといはば、印持は是れ決定なり、疑の時にも勝解なかるべし。又他世等の於に疑うときには一心に勝解有りといはば、杭を疑うて人と為す時にも此の心に解有るべし。(『述記』)

 十遍染師は「所縁の事に対しまた猶予するのは煩悩の疑ではない。それは人か杭かと疑うようなものである」と。事に対して疑うのは煩悩の疑の働きではない、と主張していました。しかし、護法は「他世等に対して疑う時に、心に勝解が存在すると言うのであれば、杭を疑って人と為すという時にも勝解は存在するはずである、という。即ち疑の煩悩が理・事に対して疑いを生じる時には邪欲・邪勝解は存在しないと十遍染師の説を破斥します。

 第二解(奪って現を縁ずるの難)

 「二に云く、然るに去・来の若しは事若しは理の於に猶予を生ずる者、心現在の事を縁ぜずした但去・来のみを縁ずるには、何に於てが印を生ぜむ。釈種の涅槃の中に於いて猶予を生ずるは、何の印する相か有るや。故に知りぬ、欲と解とは染心に遍ぜざるなり。

 此れは亦去・来と理・事とに雙べて疑するという。前の解は但事のみを縁ずる疑なり。理を疑って引かれたるを以て亦見道断なり。難じて事を縁じて起こるが故に見道断に非ずとは言うべからず。行相理に迷て事を縁ずるが故に。見取等の如し。此れは行相深きを以て杭を疑うには同じからず。彼(杭を見て人かと疑う)は行相浅きを以て是れ煩悩には非ず。

 此れは第三師の十遍の疑を破しつ。若し爾らば何が故か十と倶なりと説かるや。初の師の解するが如し。」(『述記』第五本・六十二左)

 第二解も第一解と同じ主旨のことをのべていますが、第一解が事に約して難じていることに対して、第二解は理と事とに並べて疑を述べています。去・来という他世の理と事を疑うという時には、他世を認識する為には現世の確定が必要である。現在の事(存在)を認識せずしては他世のことを認識することはできない。そこにどうして印可を生じることができようか。未来の涅槃の理の中に於て疑を生じる時、現在の事をも猶予していることになる。従って(邪)欲と(邪)勝解は染心に遍在するものではない、と破斥します。