唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (57) 触等相応門 (39)

2011-11-19 22:38:55 | 心の構造について

 「疑」について (昨日のつづき)

 「疑とは(有無の)二分を猶予して決定せざる心所を性と為す。まさに知るべし、此の疑をば略して五相の差別に由りて建立すと。謂く (1)他世 (2)作用 (3)用果(因果)と (4)諸の諦(四諦) (5)実(三宝)の中に於て心に猶予を懐く等なり。(『瑜伽論』巻第五十八)

 疑う対象として五相が挙げられている。『論』ではそれらをまとめて諸の諦理といい、四諦とそれを貫く事と理があげられる。疑とは、因果の理の存在を疑い猶予する心である。 

 「云何なるをか疑と為す。 諸の諦と・理とに於いて猶予するをもって性と為し。不疑の善品を障ゆるを以って業と為す。謂く猶予の者には善生ぜざるが故に」(『論』第六・十三左)

 「諦」は四聖諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)のこと。「理」はその真理ですね。

 「疑ハ、何事ニモ其ノ理ヲ思ヒ定ムル事アタハズシテ兎角疑フ心也。」(『二巻鈔』)と良遍は簡潔に述べています。この疑う心は事と理にくらい無明から生じ、その結果、不疑の善品を障碍するのです。事と理とを信ずることができず、善を為すことを障えるのですね。

 少し脱線しましたが、「疑」の定義を伺いながら、十遍染説に於る疑と邪勝解の問題を再考します。前科段に於て「若し邪欲と邪勝解無き時には、心いい必ず諸の煩悩を起こすこと能はず」と。煩悩が生起する時には必ず邪欲と邪勝解が存在すると説かれていました。十遍染師は「疑」の煩悩は「理のみを猶予」するといい、遍染の随煩悩である邪勝解は事を印持する随煩悩であるとし、疑と邪勝解は相応するのであると説きます。ここに問題が生じるのです。「諦理等を疑するが如き豈印持有らんや」(諦理等を疑うような場合にどうして事を印持する邪勝解の働きがあるのか?)疑と邪勝解が相応するということであれば、一つの識に同時に二つの心所がばらばらに異なった対象を認識するという、あり得ないことが起こってきます。あり得ないということであるなら、この二つの心所は相応しないということになり、邪勝解は遍染の随煩悩ではないということになります。この問に対して十遍染師が会通しているのがこの科段になり、昨日の記述のような答えを出しています。即ち疑が理を疑う時にも、「色等の事に対し必ず猶予することがない」と邪勝解が生起し印持していることを述べています。それを『演秘』には「疑と勝解は倶時に生ずれども、境は理と事有り。疑は理を縁ず。勝解は事を縁ず。既に同じく取らざるを以て、便ち同一所縁の疑に違しぬ」と述べているのです。疑と邪勝解は相応し得ると十遍染師は主張します。