唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (62) 三性分別門 (3)

2014-09-28 13:01:22 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門

 では、欲界ではどうなのかという問いに答えます。

 上二界では「定に伏せらるるが故に」と。定に伏せられて、上二界の煩悩は有覆無記であることが示されましたが、欲界での問題ですね。

 「若し欲界繋(ヨクカイケ)のをば、分別起ならば唯不善のみに摂む、悪行を發するが故に、」(『論』第六・十九左)

 本科段も、分別起と倶生起に分けて説明されます。先ず、分別起ではどうなのか、ということです。

 分別起はただ不善である。何故ならば、一向に悪行を起すからである。(九煩悩で欲界に存在し、かつ分別起のものはという問いですね。対して分別起の煩悩が悪行を起すものだから、ただ不善である、と答えています。)

 次に、倶生起の問題です。二つに分けられて説明がされています。一つは、悪業を發するもの、二つには、悪業を發しないものについてです。

 第一は、悪業を發する場合について、

 「倶生は二有り、悪業を發するものは亦不善なり。瞋の性は定んで然なり。余の三(貪・癡・慢)の少分(発業)は自他を損するが故に。」(『述記』)

 「若し是れ倶生ならば、悪業を發するをば亦不善に摂む、自他を損するが故に、」(『論』第六・十九左)

 (もしこれが倶生起のものであれば、)悪業を發する欲界の貪・癡・慢の倶生起の煩悩は、また不善に摂められる。何故ならば、自他(現世と他世)を損なうからである。

 第二は、悪業を發しない場合について、

 「余をば無記に摂む、細にして、善を障えず極めて自他処を損悩するに非ざるが故に。」(『論』第六・十九左)

 余(倶生起の貪・癡・慢の中で悪業を起こさないものと、倶生起の身見と辺執見)のものは有覆無記でる。何故ならば、細であり、善を妨げず、現世と他世を損悩しないからである。

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 復習ですが、欲界の中での十の煩悩の中で分別起・倶生起を問わず、瞋はただ不善である。

 貪・癡・慢は(悪業を起こす時は)不善・(悪業を起こさない時は)有覆無記である。

 疑はただ分別起のみに存在する。疑は欲界に在っては不善、上二界にあっては有覆無記。

 身見(薩迦耶見)・辺執見は倶生起に在っては、ただ有覆無記。

 邪見・見取見・戒禁取見は分別起のみの煩悩で欲界に在っては、唯不善である。

 十煩悩の中で瞋を除いて、上二界に在っては分別起・倶生起を問わず、有覆無記である。

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 有覆無記である理由なのですが、

 (1) 細にして、(「一に微細に由る」。)

 (2) 善を障えず、(「二には善を障えず。善の位にも亦起こるが故に。第七識と倶なるものの如し。」)
 第六意識が善(信・慚・愧等)の時も、第七末那識相応の煩悩は恒審思量で働いているが、直接的には善を妨害することはない、という意味になります。

 (3) 自他を損悩しない、(「三には、極めて自他を損するに非ず。五十八に説く、しばしば現行(数現行)するが故に、此を並せば四因なり。」)

 (4) 数現行(『述記』の所論)を加えて四因に由る。数現行については次科段で説明されます。

 数(しばしば)とは、間断がないという意味です。『瑜伽論』巻第五十八に「倶生の薩迦耶見は、ただ無記性なり、數現行するが故に、極めて自他を損悩する処に非ざるが故なり。」と説かれています。

 結論は次回にゆずります。

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (61) 三性分別門 (2)

2014-09-26 22:24:29 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門

 上二界に在っては、倶生起・分別起を問わず、定んで無記であることを顕す。

 「上二界のをば唯無記のみに摂む、定に伏せられたるが故に。」(『論』第六・十九左)

 「余の九は二に通ず」をうけて、先ず、上二界ではどうかという問いに答えています。上二界に存在するものは、唯無記(有覆無記)のものである。それは、定に伏されているからである。

 上二界という禅定の世界では、煩悩はあるけれども、禅定に伏せられて無記になる。煩悩は悪(不善)であるけれども、禅定によって、不善は覆われ無記性として現前してくるわけですね。

 この科段においてもですね、「不断煩悩得涅槃」の持つ意味が窺えますね。聞法は欲界の出来事ではなく、禅定の世界なんですね。倶生・分別を問わず無記であると云っています。

 欲界の中に在って、欲界を超えて禅定の世界に身を置くと、煩悩はそのままに、煩悩は禅定に覆われて無記となる。無記は平等性をあらわしますから、自他不二ですね。僕はね、これがお蔭さまの世界ではないかと思うんです。煩悩は悪なんだけれど、煩悩が聞法に覆われて「ありがとう」といえる世界が共有される。お蔭様、仏仏想念の世界の現行です。

 覆ということも、真実を覆うとい意味と、煩悩を覆うという意味の二つの捉え方があるのですね。深い世界を言い当てていますね。  南無阿弥陀仏

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (60) 三性分別門

2014-09-25 22:09:06 | 第三能変 諸門分別 第六三性分別門

 本科段より、三性分別門に入ります。

 十の根本煩悩のそれぞれは三性(善・悪・無記)ではいずれになるのかを論じるところになります。

 「此の十の煩悩は何れの性にか摂めらる。」(『論』第六・十九左)

 三性とは善悪の問題です。そして善の煩悩は無いんですね。煩悩には悪のものと、有覆無記のものと、ただ有覆無記のものとがあることを論じられます。

 私たちは煩悩といえば直ちに悪のもの、身を煩わし、心を悩ますものとして捉えがちですが、根本煩悩を分析していきますと、煩悩と三性の関係、そして三界との関係について明らかになってきます。

 「瞋は唯不善のみなり、自他を損するが故に、余の九は二に通ず。」(『論』第六・十九左)

 瞋はただ不善(悪)のみである。何故ならば、自他(現世と他世)を損するからである。他の九は不善と有覆無記の二つに通じる。

 『述記』によりますと

 「瞋は唯不善の一性に摂めらる。起らざれば即ち已むべし。起る時は必ず自他を損する。現世と他世に皆損と名づくるが故に。余の九は二に通ずとは、此は総じて言うなり。」

 (「論。瞋唯不善至餘九通二 述曰。瞋唯不善一性所攝。不起即已。起必損自・他。現世・他世皆名損故。餘九通二。此總言也。」(『述記』第六末・四十四左。大正43・3452c)

 瞋は現世と他世を損する(傷つける)ということで、唯不善である、と述べられてあります。瞋は唯欲界のみの煩悩であり、怒りが有るということは正しく欲界にうごめく有情ということなのですね。瞋は倶生起のものと分別起のものとが阿存在しますが、欲界のみの煩悩であるということです。ですから前六識に働く煩悩で、第七識・第八識には働きません。

 瞋とは、「苦と苦具とに於て、憎恚するを以て性と為し、能く無瞋を障え、不安と悪行との所依たるを以て業と為す」心所である。

 「苦と苦具とに於いて」、瞋という煩悩が起きるのだと言われているのです。苦は四苦八苦といわれますように、今の自分が壊れるのではという不安からくる苦ですね。(壊苦)。それ自体が苦である(苦苦)。それから行苦です。自分が常にあるという思いがありますが、本来は無常・無我ですね。そのギャップに苦しむのだと言われているのです。この三苦を苦といわれるのです。苦具は苦を生ずる原因となるもの、苦を生んでくるすべてですね。それが心を激しく乱すわけです。怨みですとか、嫉妬ですね。これ等が激しく心を乱し怒りを生んでくるのです。「一切能生活者」といっていますね。性は「憎恚」するといわれます。憎み怒るということです。怒るということはもう鬼の形相ですね。相手を睨みつけて、威嚇していますね。怒ったときを想像してみますと、眼を見開いて睨みつけていますでしょう。この心を瞋というのです。そして根に持つということがありますね。いつまでもですね。これを恚というのです。『成唯識論』には「苦・苦具とに於いて、憎恚するを以って性と為し。能く無瞋を障へて、不安と悪業との所依たるを以って業と為す。謂く瞋は必ず身・心をして熱悩して諸の悪業を起さ令む。不善の性なるが故に」と教えています。
親鸞聖人は煩悩の身を生きる者を凡夫といわれていました。「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』真聖p545)と凡夫の心の内実を自身の身の上に於いて明らかに指し示してくださいました。この心の状態は日常的に起こっているもので、私の心のあり方を言い当てられています。鋭く厳しい指摘は「ひまなくして」ということです。いつでもですね、真実を知ろうとする心を徹底的に妨げるのです。欲もおおく、貪欲です。怒り、腹立ち、そねみ、妬む心は瞋恚ですね。それが臨終の間際まで絶えず、きえずといわれていました。煩悩の天敵は求道心・菩提心なのです。真実を知られたくないのです。ですから徹頭徹尾真実をしろうとするこころを妨害します。そして真実でないものを真実と思い込ますのでね。私はそれを頼りに生きているのです。この間の事情は善導の二河白道の譬えが絶妙に語っています。「月日は百代の過客にして、いきかう年もまた旅人なり」といわれますように人生は当てのない放浪の旅のようです。その中から一筋の光を求めて自分探しをするのも人生の大切な事ではないかと思うのです。自分探しをする時「自己とは」という問いの前に道を塞ぐように貪・瞋の煩悩が行く手を遮るのです。私の人生の中で初めて具体的に煩悩が問題になるのですね。二河白道は貪・瞋の煩悩を水火の譬えで言い表しているのです。「一切往生人等に白さく」と。求道心を持って道を歩む人ですね。真実を求めて歩いた途端、自分の中から障碍する貪・瞋の煩悩が頭をもたげてくるのです。ですから私の中から「能生清浄願往生心」(能く清浄なる願往生の心を生ぜしむる)が起こって来るわけは無いのです。「生ず」とは云われていませんね。「生ぜしむ」と云われ、ここに法蔵願心を思わずにはおれません。「設我得仏・若不生者・不取正覚」という願心ですね。私が目覚めるまで、どこまでも、地獄のそこまでも、あなたと共に流転していきましょう、という願心に限りない慈愛を感じますし、限りない恩徳を感ぜずにはおれないのです。親鸞聖人はこの「心」を「無上の信心、金剛の真心を発起するなり。これは如来回向の信楽なり。」と如来回向の信を明らかに指し示してくださいました。「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心なし。虚仮諂偽(こけてんぎ)にして真実の心なし」(真聖P225)は私のことを言い当てているのですね。この心に「今」決着をつける時なのではないかと思います。決着をつけた時、一つの白道が開かれてくるのではないでしょうか。この道を歩めというわけですね。なぜかといいますと、「我今回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん」と。いずれの道を選んでも「死」とまぬがれることは無いと云うことです。仏法不思議といいますが、聞法の縁ははかりしれないのです。縁無量ですね。よき人とのち値遇によって「我が身」が問われることになるのです。この時、死の問題が眼前に迫ってくるのです。死の問題はイコール生の問題であるわけです。生きることの意味が問われているのです。三定死の眼差しから歩むべき道が見いだされるのではないかと思います。それが「往生極楽の道」を問うということであり、「すでにこの道あり、必ず度すべし」ということに頷くことなのではないでしょうか。そして「我寧くこの道を尋ねて前に向うて去かん」という歩むべき道が定まるのです。「本願力にあいぬれば/むなしくすぐる ひとぞなき/功徳の宝海みちみちて/煩悩の濁水へだてなし」と、釈迦の發遣・弥陀の招喚の恩徳を謳われています。

 

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (59) 別境相応門 (3)

2014-09-23 16:25:51 | 第三能変 諸門分別 別境相応門
 

その余の六法についての説明です。

 「疑と及び五見とは各々四と倶なる容し。疑には勝解を除く、決定せざるが故に、見は慧と倶なるには非ず、慧に異らざるが故に。」(『論』第六・十九左)

 疑及び五見と別境の相応について説明される科段になりますが、
 (1) 「疑と及び五見とは各々四と倶なる容し。」
 (2ーa) 「疑には勝解を除く、決定せざるが故に、」
 (2ーb) 「は慧と倶なるには非ず、慧に異らざるが故に。」

 疑と五見とは各々四と倶である。即ち、疑は欲・念・定・慧と倶起し、勝解とは倶起しないのである。また五見を欲・勝解・念・定と倶起し、慧とは倶起しないのである。

 (その理由が示されます。)

 疑と倶である別境は勝解を除いたものである。何故ならば、決定しないからである。疑は不決定の境を縁ずるが、勝解は「決定の境に於て印持するを以て性と為す」心所であるからである。
 五見と倶である別境は慧を除いたものである。何故ならば、慧と異なることがないからである。

 疑と勝解とは、境と行相とが相違するから、疑と勝解とは倶起しないのである。

 次に、見は慧と倶ではないことが説明されています。五見の体は慧であることは既に述べられてありますが、「諸々の諦理に於て、顚倒に推度する染の慧を以て性と為し、能く善の見を障え、苦を招くを以て業と為す」心所で、別境の慧の心所が、悪しく働いた悪しき見解のことで、慧を以て体とするということは、五見の体は、別境の慧と同じである。しかし、「一心中に多の慧有るに非ず」と言われていますから、五見相互は不倶起であり、五見と慧は相応しないことになります。

 尚、ここに一つの問題が提起されます。『了義燈』(第五末・二十一左。)

 巻第四に於て末那識では、十八の心所が倶であると云われ、そこに我見と慧が倶であることが説かれていた。これは慧が複数並び立つことであり、護法がいう「一心中に多の慧有るに非ず」と矛盾をきたすのではないか、という疑問です。

 『了義燈』を読んでみますと、

 「論に『見は慧と倶に非ず、慧に異ならざるが故に』と云うは、問う、五見は慧に異ならず、慧と倶なることを得ずと云はば、何が故ぞ、前第四巻に第七も慧と倶なりと説くや、我見恒に行じて慧と異ならざるが故に。」

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 (2011年10月11日の投稿を参考にしていただければと思います。)

 慧について説明する。

 「慧は即ち我見なり、故に別に説かず。」(『論』第四・三十一右)

 (慧の心所は我見である。故に別に説かない。)

 「慧ノ心所ト云ハ、万ヅノ知ラント思フ事ノ徳失ヲヨク簡ビ弁ヘテ疑ヲ除ク心ナリ。是則チ智也。」(『二巻鈔』)

 我見は慧である。一識中に複数の慧が並存することはないので、第七識に我見が存在する以上、第七識に慧は存在しないのである、と。

 ただし、護法は第七識に慧は存在するという立場を採る。この意味は我見の体が慧であるとして第七識に慧は存在するというのであって、並存するということではない。

 「述して曰く、慧と我見とは二つ並ぶに非ざるが故に、五十五に説かく、見は世俗有なり。即ち慧の分なるが故に。余は別に性有りといへり。」(『述記』第五本・四十二左)

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 答う。二解有り。一に云く、一に倶有を以て倶と名づく。二に相応するを以て倶と名づく。前は倶有に拠っていい、此は相応に約していう。他性と相応す。自性に非ざるが故に。」

 (1) 倶有の意味である。相応の意味ではないから矛盾はしない。

 (2) 倶は相応の意味であるが心所の内容の相違で述べられているので並び立つと言えるのである。体が並ぶと云う意味ではない、という解釈になりますが、前者が正とされます。

 (雑感)

 中東地域は今無法地帯となっていますね、痛ましいことですが、世界のなかで、あるいはイスラム文化圏と西欧文化圏の狭間でテロを生み出す環境はないのでしょうか。なかったとしたら、無いにも拘らずテロが横行したら、テロは極悪非道になります。しかしテロを生み出す環境があったとしたら、それは私たち一人一人の問題になります。私は私のなかにある闇が、テロを生み出す必然性があると感じています。その心の闇を鋭く抉り出して智慧を導き出しているのが唯識の教えなのですが、その根本にある言葉に耳を傾けたいのです。それは法然上人の父、時国の臨終間際の遺言です。法然上人が九歳のとき、父は事件に巻き込まれて夜襲を受け殺害されました。その場に居合わせた法然に父は「汝、さらに会稽の恥をおもひ、敵人をうらむ事なかれ、これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨をむすばは、そのあだ世々につきがたかるべし。」(法然よ、敗戦の屈辱を思い、敵を恨んではなりません。今回のことは、私自身の宿業によるものだからです。もし遺恨をもって仇討ちをすれば、怨みが怨みを呼んで、世々にうけつがれていくことになります。)この言葉の重みを世界の識者の方々は受け止めていただきたいのです。事件は起こってしまったのです。またいつ事件は起こるかは予測がつきません。敵と味方に反目している以上いつかまた忌まわしい事件は起こることでしょう。法然の父、時国は起こってしまったことは「先世の宿業なり」と受け止め「敵人をうらむことなかれ」と遺言しました。それは怨みは怨みを生み出すからであり、その怨みは世々に受け継がれ、暗黒の世界をつくりだすであろう、というものです。仏教は存在を衆生とも、有情とも呼び、菩薩の誓願は「諸の有情と共に」というものです。この誓願に生きるものが仏教の人間像です。一人として抹殺してよい命はないのです。すべて尊い命を宿しているのです。対立する組織ではあっても、その対立は私が生み出している闇なのだと自覚するべきでしょう。「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟」なのです。これらのお言葉に耳を傾ける時、道はすでに開かれているのではないでしょうか。
もう一つ問題提起させていただきます。
 我癡とは無明である。そして我見とは我執であると述べられてありました。第八阿頼耶識の見分を妄計して我とするのは、無我の理に迷っている無明が横たわっているからですね。親鸞聖人は「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」と。南無阿弥陀仏は我癡という無明を破ってくる働きがあるのだと教えられています。私たちの上に具体的に表れてくる我執は本願に背いている姿ですね。本願に背いているのは仏智疑惑です。仏の智慧より我の心のほうが偉くて仏をも裁く心をもっているのですね。ですから元は無明です。「此には無明を以て本と為せり」と。無明が因となり、我見・我慢・我愛は果となって現れてくるのであると説かれています。その元の無明を破る働きが念仏であると言うことですね。具体的には信心です。信心において無明を破る智慧をいただくのですね。智慧をいただいてみれば、迷妄多き、というより、迷妄しかない娑婆といわれる世界も生きうるに値する世界なのですね。もう一つ気になる出来事がありました。それは脱原発の集会です。何故脱原発なのかという議論は有無の見だと思うのです。生命の危機を晒す原発はもういらないという主張と、電気需要を多量に必要とする産業界からの、より安全な原発を推進するという主張がぶつかり合います。私にとって何が利益をもたらすのかという、私の立場から賛成か反対かを主張しているわけです。原発のある環境を推進するのか、それとも原発のない環境を推進するのか。環境を変えることにおいて私たちの生活環境をより安全により快適に暮らせるようにしようという議論が、原発推進か、それとも脱原発かということになります。しかしですね。この議論には、人間そのものを問う姿勢を伺うことが出来ませんね。快適な生活を要求する為に私たちが原発を推進してきたのです。「豊かな生活」を目指して自然を破壊してきたのも私たちです。その為に生態系が破壊され、地球全体が温暖化になり、CO2によってオゾン層が破壊されて、私たちの取り巻く生活環境は著しく悪化しているのです。これも私たちがもたらして来たものです。「人間そのものを問う」・「私を問う」という姿勢が微塵もないことから起こってきた現況ですね。ですから脱原発か、それとも原発依存かの議論は共に我見です。無明より起こってくる見解ですね。私たち一人一人は有情なのです。人間だけが尊いのではないのですね。命有るともがらの中にいながら、私たち一人一人が傲慢になっているのではないでしょうかね。人間だけ、いや私だけが偉いのだと。「自己とは何ぞや」という宿題が突きつけられているように思います。

 

 

 

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (58) 別境相応門 (2)

2014-09-21 00:20:30 | 第三能変 諸門分別 別境相応門

 貪等の四法は五別境と倶起することを明かす。

 「貪と瞋と癡と慢とは五と倶起す容し。」(『論』第六・十九左)

 貪と瞋と癡と慢とは、五(欲・勝解・念・定・慧)と相応する。

 「一境に專注(センシュ)するときに定有ることを得(ウ)るが故に。」(『論』第六・十九左)

 (何故ならば)此の四が一境に專注するときには定があるからである。

  •  一境(イッキョウ) - 一つの対象。
  •  專注(センシュ) - 心を一つのことに注ぎ込むこと。

 本科段は『述記』によりますと、「難を逐って之を解す」と述べられています。即ち何故、定のみを取り上げて説かれているのかですね。初に、四法は五別境と相応するといいながら、理由を述べるときには、「定有ること得るが故に」と、定のみが取り上げられているからですね。

 これについては、煩悩が定と相応することが理解しがたいから、特に定を以て五別境と相応するのであると解しています。

 この問題は後ほど出されてきますが、定と散乱の問題です。定と散乱は対の問題ですから、定と散乱とは相応しえるはずがないという問題です。

 後に説かれます随煩悩・別境相応門では二十の随煩悩は別境の五とはすべて倶起することが明らかにされているのです。

 その中の、散乱と定が相応し得ることの説明には

 「染定の起る時には、心亦躁擾(ソウニョウ)なり、故に乱は定と相応すというに失無し。」

  •  躁擾 - 心がさわがしく乱れる、動揺のこと。

 散乱と別境の定が相応することについて、染の定が起る時には心心所もまた心がさわがしく、乱れ動揺している。この心躁擾は散乱の別相でもありますから、その為に散乱は定と相応するということに過失は無い、というんですね。

 染の定というのが理解しがたいところですね。染の定も定に違いないのだからというのですがね。

 散乱とはどういう心所なのか尋ねてみますと、

 「云何なるか散乱。諸の所縁に於いて心をして流蕩(るとう・ほったらかしにすること)ならしむるを以って性と為し、能く正定を障えて悪慧の所依たるを以って業と為す」といわれます。失念は意識の対象に於いて不能明記であると、記憶できずに正念を障えてしまうと言われていましたが、散乱は正念をもてないことから意識の対象に於いて心が散乱するのです。散乱した心をほったらかしにして正定を障えるのです。正定を障えることに於いて悪の知恵の依処となるのですね。正念を障えて失念し、失念することに於いて散乱を招き正定を障えるのですが、そのことにより悪の知恵の依り処となるといわれるのです。

  •  流蕩とは「流は馳流(ちる)なり。即ち是れ散の功能の義なり。蕩とは蕩逸(とういつ)。即ち是れ乱の功能の義なり。」

 心が川の流れのように、流れる様子を散といい、蕩はとろける・とろかすという意味があります。水がゆらゆら揺れ動く様子を言い、心がだらしなく、しまりがない状態を乱というのです。「散乱は、あまたの事に心の兎角(とかく)うつりてみだれたるなり」(『ニ巻抄』)

 「散乱は別に自体有り。三の分と説けるは。是れ彼の等流なればなり。無慚等の如し。即ち彼に摂むるに非ず。他の相に随って説いて世俗有と名づけたり。」と、散乱と云う煩悩は独立して有ると言われます。三の分とは貪・瞋・癡の事ですが、この中に「散乱は有る」という説を退けるのです。「別に自体有り」と。

 散乱の別相について「散乱の別相とは。謂く躁擾なり。」(「躁とは散を謂う。擾とは乱を謂う。倶生の法をして流蕩ならしむ」)軽躁という言葉がありますね。こころが落ち着かずそわそわしているのです。あるいは軽佻浮薄(けいちょうふはくー心がうわついて軽薄であるという意ー軽佻の佻は跳ね上がりで落ち着かない意)ともいわれます。

 この散乱の義である躁擾が染の定が生起する時には心・心所もまた躁擾であるということから、散乱と定とは相応する、といわれているのです。

 この説明から何が窺われるのかですね。染の定は正定ではないですから、散乱の定というのも、染に対しては、一境に專注することに変わりはない、ということでしょうか。染に対して心が集中しているから散乱するのであると理解をしますと、四法が一境に專注する時には定が有るといえるのでしょうかね。

 この説明を伺ってみますと、私たちの固定概念が覆されます。定というのは禅定、心を研ぎ澄まして一境に專注することのように思いますが、反対に正定ではなく、染の定の場合にも、煩悩に心を研ぎ澄まして一境に專注するといえる、と。私たちは日常ですね、自分を立てて、自分の思い通りになるように心を研ぎ澄ましているのかもしれませんね。その時に起こってくるのが、貪・瞋・癡・慢という心所である、染の定に於いて生起するものであって、一境に專注する定と違背するものではないということになるのでしょうね。

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (57) 別境相応門 (1)

2014-09-17 21:56:17 | 第三能変 諸門分別 別境相応門

 第五は、別境相応門。 本科段は問起。

 「此は別境とは幾くとか互に相応する。」(『論』第六・十九右)

 これらの十の煩悩は、別境(欲・勝解・念・定・慧)とは幾つが互いに相応するのであろうか。

 別境の視点から十の煩悩を見つめ、分析する科段になります。

 尚、別境については 2009年12月の投稿を参照してください。まとめについては再録させていただきます。

 学ぶことは、幾度となく繰り返し繰返しという積み重ねになります。煩雑かもしれませんが、少し元に戻って考えたいと思います。

 別境のまとめ

 「欲・勝解・念・定・慧という別境の心所は働く対象が異なるのですね。欲は所楽の境に於いて・勝解は決定の境に於いて・念は曾習の境に於いて・定・慧は所観の境に於いてというように異なる対象に於いては異なる心所が働いているわけです。ここで大事なことは欲から慧へと心の深まりがあります。はじめは漠然として欲の心所がいわれています。その欲にもいろいろあります。欲楽といい、欲望という違いもありますが、慧の心所から窺えますことは、慧は真実を知る智慧ですね。そうしますと別境の心所は仏道に向かわしめるということを主題としているということがわかります。私たちは自ずと仏道的生き方をしているわけです。そして別境はどの心に働くのかという問題になります。「第七・八識には」と、この別境は位(有漏・無漏)に随って有無があるというのです。有漏の阿頼耶識には別境は働かない・偏行だけが働きます。阿頼耶識は純粋ですから何事にも分別しないのですね。阿頼耶識が転依(大円鏡智に)しての無漏位には別境の全てが働くのです。これは願生という欲生心から無分別智まで一筋の道なのですね。第七末那識は転依(平等性智に)しての無漏位にはすべての別境は働きますが、有漏位では慧の心所だけが働くのです。何故かと言いますと末那識は我執ですから自他を簡びわけるのですね。自分の損得だけを思いつづけていますから、自分にとって損をしないように簡択(選ぶ)するわけです。その心所が慧です。仏道に方向が定まっていてもですね、最後の関門があるわけです。エゴイズムです。利己的に物事を変えていくわけですね。ここをどのようにして突破するかが仏道の課題として残るのですね。前五識は感覚器官ですが第六意識に左右されます・影響を受けますから六識には五つの心所が働くのです。この様に見ていきますと第六意識ですね。この作用がいかに大切なことかがはっきりと見えてくるわけです。欲を起こす、それはどの方向を向いているのか、優れた理解を以って確認をするわけです。方向を見極めるのです。そしてはっきりと記憶して忘れることがないのです。そして忘れることのない対象に精神を集中していく、そのことによって真実の智慧が獲得されるという流れになるわけですね。このような心の構造をしっかりと把握して聞法に励み、聞薫習することが大切な生き方ではないでしょうか。

 

 

 識の織り成す世界

 

 識(自体分・自証分)体は、八識によって織りなされているわけです。つまり、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識ですが、本識は阿頼耶識、本識が転じて七転識、或は、「第七有って第六の依と為る」といわれていますように、六転識として、識の織りなす世界が説かれてきます。
 略していいますと、第八識の上に末那識が働き、第六意識はそれらを依所として動いているということなのです。
 第二能変・末那識の存在証明である第一教証には、心・意・識の意義が説かれています。
 「集起するをば心と名づけ、思量するをば意と名づけ、了別するをば識と名づく。是れ三の別義なり。是の如く三義は八識に通ずと雖も、而も勝れて顕なるに随って、第八を心と名づく。諸法の種を集め諸法を起こすが故に、第七を意と名づく。蔵識等を縁じて恒・審思量して我等と為すが故に。余の六を識と名づく。麤動に間断師了別して転ずるが故に。」
 これは、第七識は第八識を依所として動いているということなのです。第七識の依所は第八識・第八識の依所は第七識という関係ですね。第八阿頼耶識は第七末那識を依所として動いていく。ここに、認識の重層性が語られているんです。第七末那識がキーポイントになります。第七末那識がなかったなら、迷いがなくなります。迷わないですむわけです。しかし、曠劫以来任運に恒に審に阿頼耶識を縁じて自の内我とする働きがありますから、命の誕生と共に我の意識、自他分別の意識が無意識の領域で動いているのですね。阿頼耶識を縁じて我見を起こしているのです。
 この構造が、本質(ホンゼツ)と影像で説かれるのです。本質と影像の間に介在し影響を与えているのが第七末那識である染汚識なのです。本質を疎所縁として、転識されている識の見分が染汚性をもって親所縁として相分を描きだし、固定化し、実体化して執着を起こし、本質である阿頼耶識そのものを染汚してくるという働きをもつのです。ここに宗教的問題が隠されてるようです。阿頼耶識は自己の生命の存在証明ですが、第七末那識によって染汚されるということに於て、転依しなければ、涅槃と菩提という勝果を得ることはできないのですね。阿頼耶識を本来の自己というなら、本来の自己はすでに与えられているのでしょう。本来の自己を覆っているのが第七末那識、第七末那識は我執の心、有我の心、我に執着している心ですから、本来性から顛倒しているわけですね。
 振り返りますとね、涅槃と菩提も既に与えられているというべきでしょう。しかし、本来に返れないと云う所に深い闇が自己の中を覆っている、それは何んだと。
 ここで末那識の存在証明が出されてくるのです。教証は『楞伽経』と『解脱経』です。そして六理証が存在証明として述べられます。こういう形で、末那識が、第二能変として位置付けをされたのです。
 聞法もですね、聞いているのは私なのですね。私が聞いている。しかし仏法は聴聞だと、聞くのではなく聴くんだと。私が聞くということは、末那識相応の我見によって私の都合に合わせて聞くということになります。ここが破られてこないと聞法にはなりません。
 仏法は無我にて候。
 常なるものは何一つない。
 この道理に反逆し苦悩しているのが私の姿、一生懸命私を掴まえてもがいている。私が描いたもののようにあるわけではないと教えられている。影像を影像と知った時、本質には触れ得ることはできないが、本質が働いているということは知り得る。それが「涅槃の一分を得る」ということなのでしょう。
 末那識は「異熟生の摂なり。異熟識に従いて恒時に生ずるが故に異熟生と名づく。異熟果には非ず。」
 (第七識は異熟生におさめる。異熟識に従って恒に生じるので異熟生と名づける。異熟果ではない。)
 認識は「識体転じて二分に似る」という構造で知られるわけですが、第八阿頼耶識の見分を縁じて我と為す第七末那識の存在が大きく横たわっていることが解ります。外境は無いということははっきりしたが、内に於いても、内なる外としての末那識の存在が迷妄と苦悩を生み出してくるのですね。我執・法執が覆っているということを唯識は教えています。
末那識の存在証明ですが、二経六理証を以て末那識の存在を証明されるわけですね。
 六理証は『摂大乗論』に依って証明されるのですが、最初に、不共無明を以て説き明かされていますね。
 「不共無明は微細にして恒行し真実を覆蔽すと云う。若し此の識無くば当に有に非ざるべし。謂く諸の異生は、一切の分に於て恒に迷理の不共無明を起こして真実の義を覆い聖慧眼を障う。・・・・・異生の類は恒に長夜に処して無明に盲いられて、昏睡して心を纏はして曽って醒覚すること無しと云う。」
 どうしても、六識だけでは説明のつかないところです。末那識が有るのか無いのかという問題ではなく、末那識が無かったならば説明がつかないということです。
「云何が知るべし。此の第七識は眼等の識に離れて別の自体有りと云うことを。」(『論』第五・八右)
(どのように知られるのであろうか。この第七識は、眼等の識を離れて、別の自体が有るということを。)
『成唯識論』は『唯識三十頌』本頌と長行によって成り立っています。第二能変は長行が大きく二段に分かれ、第一段は八段十義で説明され、前科段ですでに述べおわっています。これからの科段は、第二の二教六理証が述べられます。教と理を以て、第二能変の存在を証明する科段です。
「述して曰く、文の中に三有り。初には問。次には答。後には疑を釈す。下に唯だ六識と立つるを会するなり。小乗は此れは即ち是れ六識が過去に入る者なりと執す。故に此の問を為す。答の中に二有り。初には総じて教・理を以て量と為し、二には別して教・理を以て量と為す。」(『述記』第五末・十二右)
小乗(部派仏教)では第七末那識は説いていないのですね。第七末那識を認めていないのです。ですから、第六識まで説かれていない部派仏教に対して、第七末那識の存在を証明する必要があるのです。部派仏教では、この第七識に相当するのは、「小乗は此れは即ち是れ六識が過去に入る者なり」と云われ、生滅する六識が過去になったもので、これを意根というとする立場に立ちます。
 六識と離れて別の自体が有ることが、何故に解るのか、という問が先ず設けられ、それに答える形で以下二教六理証を以て、第七末那識の存在を論証していきます。尚、教・理証については第八阿頼耶識(五教十理証)と第七末那識の存在を証明する為に論証されます。第六識に対しては、部派仏教も承認している事柄になり、証明する必要はないからですね。
 教証とは、仏・菩薩の教えを以て証明するということになります。理証は、道理ですね。道理を以て証明していく。 「眼等の識に離れて」と。眼等の六識は部派仏教でも説かれていたということです。しかし、従来説かれていた六識を離れて別の自体が有るということをどのように証明するのかが問われているのです。八識別体が護法の立場ですね。
「聖教と正理とを以て、定量と為るが故に。」(『論』第五・八右)
(第七末那識の存在が知られるのは、聖教と正理(しょうり)とを以て定量(じょうりょう)とするからである。)
 定量 - ある認識や判断の正当性を裏付ける根拠。文献的根拠と、理論上から知られる根拠をいう。
 別して答える。(教と理から個別に答える。)
 「述して曰く、自下は別に答す。中に於て二有り。初には顕なる経に依って、教を以て有と証す。次に隠なる経に依って、理を以て有と証す。初の中に二有り。初には不共許(ふぐうご)の経、二には共許(ぐうご)の経。此れ等の経は大小に通じて有と云うを明かす。然るに七十六解深蜜経及び楞伽に大に文有り。小乗の謂く未来をば心と名づく。過去は是れ意なり。現在は是れ識なり等種々に分別して然も別体無しと云う。今は顕に経に於て別に体有りと言うことを。上には証じて解し已りぬ。」(『述記』第五末・十二左)
 教と理から個別に答えられるのですが、これが大きく二つに分けれるのです。第一は、二教証です。これは「顕なる経」(顕なる経典)に依って、教を以て第七末那識が存在することを証明します。第二は、六理証です。これは「隠なる経」(隠なる経典)に依って、理を以て第七末那識が存在することを証明します。
 初の二教証について、さらに二つに分けられて説明されます。第一の教証は、不共許の経典(大乗の経典)を引用します。小乗仏教では大乗経典は仏説ではないとして不共許の経典とされます。第二の教証は、共許の経典を引用します。大・小乗共に承認されている経典を以て論証します。
 小乗仏教においては、六識と別の体をもった末那識の存在を承認していなく、未来の心を心といい、過去の心を意といい、現在の心は識と名づけれられるのであって、同一の体であるとする。しかし、大乗仏教では、六識とは別の体をもった識が存在するという。その証拠が下に述べられる『論』の一文である。
 「謂く、薄伽梵(ばぎゃぼん)の処々の経の中に、心と意と識との三種の別義を説きたまえり。集起(じゅうき)するをば心と名づけ、思量するをば意と名づけ、了別するをば識と名づく。是れ三が別義なり。」(『論』第五・八右)
 (つまり、薄伽梵(仏の別名)が処々の経の中に於て、心・意・識との三種の別義を説かれているからである。集起(あつまること。業果である種子を集める阿頼耶識が心であると解釈する。)するものを心と名づけ、思量するものを意と名づけ、了別するものを識と名づけるのである。これが三つの別義である。)
 先ず第一教証が説かれます。大乗経典の引用です。不共許の経典といわれます。これは小乗仏教からの大乗仏教への批判です。仏説ではないと。しかし、ここでは先ず不共許の経典を挙げ、大乗経典に於て第七末那識の存在が証明されていると述べています。大乗経典においては、心・意・識は小乗のいうような働きではなく、集起するものを心と名づけ、思量するものを意と名づけ、了別するものを識と名づけ、それぞれ別個の存在であることが示されていることを明らかにし、即ち阿頼耶識は集起する心であり、第六意識は了別する心であり、思量する心は、末那識に他ならないとして、第七末那識の存在を証明しているのです。
「是の如きの三の義は、八識に通ずと雖も、而も勝れて顕わなるに随って、第八をば心と名づく。諸法の種を集す、諸法を起こすが故に。第七をば意と名づく。蔵識等を縁じて、恒に審らかに思量して我等と為るが故に。余の六をば識と名づく。六の別境の於には麤動に間断し了別して転ずるが故に。」(『論』第五・八右)
(このような三つの義(集起・思量・了別)は、八識に通じて認められているとはいえ、勝れて顕著であることによって、第八識を心と名づける。何故ならば、諸法の種子を集め、諸法を起こすからである。そして第七識を意と名づくのである。何故ならば、第八阿頼耶識を縁じて、恒に審らかに思量して我等とするからである。他の六つ(眼・耳・鼻・舌・身・意識)を識と名づくのである。何故ならば、六つの別々の境に対して、麤動に間断し、了別して転じるからである。)
「諸法の種を集す」とは「一切の現行の為に熏ぜらる。是れ諸法の種を集むるなり。」と、現行熏種子のことですね。そして「諸法を起こす」とは、「現行を依と為し、種子識を因と為して能く一切の法を生ず。故に是れ諸法を起こすなり。」と、種子生現行のことを表しています。
『瑜伽論』巻第六十三に「心等に具に此の通・別の名有り。」と述べられ、心・意・識の三つの言葉は八識に通じて呼ばれることもありますが、特徴的な性質という時には、心・意・識という三義を以て説かれています。通とは、従来説かれていた心です。小乗では六識のみ(六識体一説)を説いていました。別とは(八識別体説)勝義の道理に由る、と。勝義とは阿頼耶識と転識です。所依・能依の関係です。転識とは、眼識乃至意識の前七識です。第七意識は第七末那識の訳名であって、第六意識ではないということですね。ここに素晴らしい譬が出されています。「譬へば水浪の瀑流に依止するが如く、或は影像の明鏡に依止するが如し。」と。
 第七末那識を意と名づけるのは、蔵識等を認識して、恒に審らかに思量して我とするからである、と述べられているのですが、「等」と云うことは、有漏の末那識はただ我の対象である阿頼耶識のみを認識するわけですね。しかし、無漏でありながら、因位の末那識は第八阿頼耶識と真如とを認識対象とするのです。そして、果上の仏果を得た後は一切の法を認識対象とするから、『論』に「等」の字がおかれているのです。詳しくは等取といいますね。
 他の六識は別々の対象を認識するのですが、認識される六境の体は麤動であり間断するために、これに対する了別作用も麤動であり、また間断するものとなる為に識と名づける、と云われます。
 「余の六識をば識と名づく。六の別境の体は是れ麤動にして間断有る法に於て、了別して転ずるが故に。了し易きを以て麤転易するを以て動と名づけ、続かざるを間と名づく。各々此の勝れたること有って、各別に名を得たり。何を以て心等は是れ第八等と知るや。」(『述記』第五末・十二左)

 

 末那識は、阿頼耶識に関係する自我愛の契機であるといえる。自我として愛着されているものは阿頼耶識、愛しているのは末那識、従ってノエシス・ノエマの関係である。」(安田理深師)は述べておられます。
 「謂く、契経に説けり。不共無明は微細に恒に行じ、真実を覆蔽すという。若し此の識無くんば、彼有るに非ざるべし。」(『論』第五・九左)
(つまり、契経(『分別縁起初勝法門経』・『分別縁起経』という。巻下)に説かれている。「不共無明は微細であって、恒に活動し、真実を覆蔽する」(取意)と。もし、この末那識が存在しなかったならば、彼(不共無明)も存在しないであろう。)
 不共無明(ふぐうむみょう) - 二種の無明(相応無明・不共無明)の一つ。独行無明ともいう。貪・瞋などの煩悩と相応して共に働くことなく、ただ四諦の真理を知らない暗い心のありようをいう。これがさらに二つに分けられる。恒行不共無明と独行不共無明である。恒行不共無明は末那識と相応して働く無明をいう。恒行とは、無始よりこのかた、恒に働きつづけているから恒行という。独行不共無明は意識と相応して働く無明をいう。貪・瞋などの煩悩と相応せず、ただ独り働く無明をいう。 相応無明は、前六識における貪・瞋などの煩悩と相応して起こる無明である。
 第一理証で述べられている無明は、恒行不共無明です。恒行不共無明の依り所は第七末な識なのです。第六意識は間断することが有り、恒行ではなく、第八阿頼耶識は煩悩と相応しないという論証から、もし末那識が存在しないならば、恒行不共無明もまた存在しないことになる。しかし恒行不共無明が存在する限り、末那識は存在すると論証しています。「真実」に二つの意味が施されています。無我の理と無漏の智慧です。無我の理と無漏の智慧を覆い隠し、それがまた虚妄を顕すことになるというのです。
 真実ということなのですが、『正信偈』に「無明の闇を破すと雖も、貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり」と、親鸞聖人は語られています。「無明の闇を破す」ということについては、「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」(『総序』)と。無明の闇はすでにして破られている、「しかし」、貪愛・瞋憎の雲霧が真実信心の天を覆っていると、我が身の現実を見据えられておられますね。真実とは、『唯識』では無我の理と無漏の智慧のことであると教えられています。諸法実相です。『唯識』では円成実性といいます。「覆眞實相顯虚妄相」と、覆っているものですから、現実は虚妄の相を現しているのです。『歎異抄』では「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と語られています。念仏は真実功徳相ですね。真実功徳相によって明らかにされた世界が、火宅無常の世界であり、我が身は煩悩具足の凡夫であることが一点の疑いもなくはっきりとしたということですね。闇は破られていることに於て雲であり、霧であることが見えたということです。見えてみれば、雲、霧は邪魔にならないというですね。無明の闇が破られて、「微細に、恒に行じ、真実を覆蔽」している末那識の存在が白日の下に晒されるのです。恒行不共無明が本性である、と。 
 「謂く、諸の異生は、一切の分に於て、恒に迷理の不共無明を起こして、真実義を覆い、聖の慧眼を障う。」(『論』第五・九左)
 (つまり、諸の異生は、一切の分(善・悪・無記のすべて)において、恒に迷理の不共無明を起こして、真実の義を覆い、聖の慧眼を障碍するのである。)
 諸の異生と述べて、聖者を除いています。理由は聖者は無漏智が現行する時、恒行不共無明が存在しなくなるからです。(煩悩具足の凡夫は)一切の分に於て、善も悪も無記の行為であっても、恒に迷理の不共無明を起こして、真実義を覆い、聖の慧眼である無漏智を障碍しているのである、と。  
(経と論を引用して恒行を証明しています。初に無着の『摂大乗論』巻第一を挙げる。)
 「伽陀に説けるが如し。「真義の心のみ当に生ずべきを、 常に能く為に障礙して、 一切の分に倶行す、 謂く不共無明ぞという。」(『論』第五・九左)
 (伽陀に説かれる通りである。「真義の心のみ、まさに生ずべきを、常に能く障礙して、一切の分に倶行する。つまり、不共無明である。)
 「頌曰 若不共無明 及與五同法 訓詞二定別 無皆成過失 無想生應無 我執轉成過 我執恒隨逐 一切種無有 離染意無有 二三成相違 無此一切處 我執不應有 眞義心當生 常能爲障礙 倶行一切分 謂不共無明此意染汚故。有覆無記性。與四煩惱常共相應」(『摂大乗論』本・巻上、大正31・133c~134a)
(「若し不共無明と 及び五同法と 訓詞と二定の別と 無ければ皆過失を成ず、 無想の生は応に 我執の転ずること無ければ過を成ずべし 我執は恒に随逐して 一切種に有ること無からん、 染の意を離れては 二有ること無く、三は相違を成ず、此れ無ければ一切処に 我執は応に有るべからず、真義の心の当に生ずべきに 常に能く障碍となり 一切分に倶行するを 不共無明と謂う。此の意は染汚の故に、有覆無記なり。四煩悩と常に共に相応す。色無色の二纏の煩悩の如く、是れ其の有覆無記性の摂なり。色無色の纏は奢摩他の摂蔵する所と為るが故に、此の意は一切時に微細に随逐するが故に。」)
 訓詞(くんし) - 言葉の語源や意味を解釈すること。 
(「なぜ、汚染された心が存在すると知ることができるのか。もし、この心がないとすれば、独立して働く無明が存在すると言えなくなるからである。・・・これについて詩句を説く。独立して働く無明がないことになり、同質の五識がないことになり、二つの禅定の区別がないことになり、意という言葉の意味がなくなり、たんなる無想情態の生命に我執がないことになり、その一生に煩悩の流失がないことになり、その善悪無記の中には、我執は起こらないことになる。しかし、汚染された心なしには涅槃も無い。汚染とそれから離れるということや、存在認識の三性質の事実に反する。それがなければ、一切のところに我執は発生することはできない。真理を覚ろうとするに際して、障害となって発生させない。つねに一切のところで働いているもの、これを独立して働く無明と名ける。この心は汚染されているので、有覆無記である。常に四つの惑いを伴っている。』コスモスライブラリー『摂大乗論』現代語訳より。)
 真義 - 真実義のこと。究極的な真実・真理(真如)をいう。真実義については『瑜伽論』巻第36(大正30・486b)に四種の真実義が説かれ、巻第64(大正30・653c)に六種の真実義が説かれる。『述記』には無漏の真智である、と説かれています。
 真義の心というのは、真如を縁じる心なのです。この真義の心は、無始よりこのかた有情に具備されているといわれています。しかし、末那識相応の恒行不共無明もまた無始よりこのかた間断することなく、恒に現行し、真義の心を障礙して、真義の心を現行させないのです。「倶行一切分」です。「此の無明は三性心に通じて、恒に與に倶起す。」と。三性すべてにですね。善も悪も無記の行に於て、この無明は起こるのです。すべての経験においてですね、この無明が相応して働いていると教えています。善を為して誇り、悪を為して嘆くのは、この無明が相応しているからであると教えられています。
 「是の故に契経に説かく。異生の類は、恒に長夜に処して、無明に盲(めし)いられ、惛酔して心を纏(まとわ)れ、曾って醒覚(せいかく)すること無しと云う。」(『論』第五・九左)
 醒覚(せいかく) - 迷いからさめること。
 惛酔(こんすい) - ねむく心が沈んでいる様子をいう。
(このために経典に説かれる。「異生の類は、恒に長い夜に身を処して、真実を明らかにする眼(慧眼)は恒行不共無明によって閉ざされ、惛酔して心をまとわれ、曾って迷いから醒めることは無かったという。)
 このような理由によって末那識の存在が証明されるということを表しています。不共無明は「行相微細にして知り難し」(微細常行行相難知覆無我理蔽無漏智)といわれていますように、恒時に行じて無我の理を覆い、無漏の智を蔽っているわけです。またこの不共無明は心所有法ですから、心王がなければないません。恒時というところから、前六識には間断があり、第八識は無覆無記であって、煩悩と相応するものではありませんから、いずれも不共無明と相応するものではないのですね。よって恒時に相応する第七識の存在が証明されるわけです。  何故、このようなことを言いますかとういうことですが、末那識は「恒審思量」といわれています。これは、我の自覚に於て、その自覚の底に末那識が働いているということなのです。「いたらぬ私です」という底に「いたる私が」潜んでいるのです。「僕が悪かったです」という見えない部分で「僕は悪くない」という自分が存在する。悪い・悪くないというところで自他分別が働いている、自他分別のところで妄執が働いているのですね。自他は縁起生ですからね。縁起に於て自であり、他であるわけです。分別されるものではないことが教えられている、それを出世の末那といわれているのでしょう。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (56) 五受相応門 (20)

2014-09-16 22:08:02 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 昨日は、瞋は欲界にのみ存在するので言及されないと述べましたが、瞋はただ不善である。不善はただ我に依存しているのですね。怒りは外を見ていないことが教えられます。たとえ善の怒りであっても自分にとっては腹立たしいことなのですね。

 父の兄弟で末っ子の弟がいるんですが、この叔父が理不尽なことをいってくるのですね。私は理を尽くして説明するのですが、全く聞いてくれません。相続のことなのですが、父の生存中に相続放棄の手続きをし、所有権移転が完了しているのです。この件に関して相続は無効だと言い張るんです。印鑑(実印)を押したこともなく、印鑑証明も挙げたことはない。すべて俺の知らんところで仕組まれたものだ、とね。

 ところがね、裁判所はこの申し立ては受け付けてくれないんです。そうしますとね、電話ストーカーですわ。たとえ法律は申し立て無効かもしれんが、俺は知らんのや。どう説明するんやと。ここですわ、叔父さんの言うことも一理ある、言い分を聞きましょうというとですね、まあ穏やかなんです。しかし叔父さんの知らんところで父が仕組むことなどできないでしょう。まして印鑑証明どうしてあげるんですか、というとですね、もう鬼の形相です。

 たとえ理不尽であっても俺の言うことを聞け、と。これにはまいってしまいます。気に入らんということでしょう。気に入らないから腹が立つ。自分が正義であるという思いがあるんでしょう。これが瞋というものではないでしょうか。自分には分からんけれども、叔父が私の心如実に示してくれているのでしょうね。をこれが不善であり、悪であるということになるのでしょう。瞋は欲界にのみ存在するものであることが頷けるわけです。

 何事も他人事ではないということですね。我は外境を内観し、我の心を外に投げ出し、投げ出された心を我が見ている、それが自己の姿であるということなのでしょう。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「余の受と倶起することは、理の如く知る応し。」(『論』第六・十九右)

 「 論。餘受倶起如理應知 述曰。貪等與喜・捨相應在何地。五見・及疑。與餘喜受等相應在何地等。皆令如理知。故言餘受倶等。逐難解已義之餘也。」(『述記』第六末・四十三左。大正43・452b)

 (「述して曰く。貪等の喜捨と相応することは何れの地に在るや。五見と及び疑と余の喜受等と相応することは、何れの地に在るや等、皆理の如く知ら令む。故に余の受と倶なる等と言う。難を逐って解し已る。義の余なり。」)

 前科段に於て説明されていることの外に、喜受・苦受・憂受・捨受の相応については言及されておらず、また慢と疑と五見の七煩悩についても楽受と相応し、色界第三禅までにおいて言えることであり、疑と独行の癡とは欲界では憂受と捨受とのみ相応すると説明されていましたが、喜受等については説明がありませんでした。

 このことに対して、これらの受以外については護法説に則って知るべきであると説明されます。即ち護法正義が示されている文言をもって知られるべきである、ということですね。

 護法の説(正義)

 薩迦耶見と辺執見の倶生起の煩悩は苦受・楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。
 分別起の煩悩は楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。

 分別起(見惑)の煩悩は、瞋以外は三界に通じ、倶生起(修惑)の煩悩も瞋以外は三界に通ずる。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (55) 五受相応門 (19)

2014-09-15 20:13:04 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 本科段より、煩悩と五受が相応する地について説明されます。(「下は倶なる地を明かす。」)

 「貪と癡との楽と倶なることは下の四の地に通ず。余の七が楽と倶なることは欲を除いて三に通ず、疑と独行の癡とは欲にしては唯憂と捨のみなり。」(『論』第六・十九右)

 貪と癡が楽受と相応することは、下の四地(欲界と色界の初禅・第二禅・第三禅)に通じていえることである。
 
他の七つ(慢・疑・五見)の煩悩が楽受と相応することは、欲界を除いて三(初禅・第二禅・第三禅)に通じて言えることである。
 
疑と独行の癡とは欲界では、ただ憂受と捨受とのみ相応するのである。

  •  欲界 - 欲望が渦巻く世界で、有情と器世間から成り立つ(「地獄等の四と、及び六欲天なり、並びに器世間なり、是を欲界と名づく。」)
  •  色界 - 浄妙なる色から成り立つ世界で、四つの天から構成される。初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天で禅天は静慮とも言われる。さらに四つの天は十七の天から構成される(色界十七天)。
  •  無色界 - 勝れた禅定によって成り立つ、色(物質的なもの)の無い世界で、四つの処から構成される。
  •  独行の癡 - 独行不共無明(ドクギョウフグムミョウ)。貪・瞋などの煩悩と相応せず、第六意識と相応して働く無明をいう。尚、末那識相応の無明を恒行不共無明という。

 貪と癡は楽受と相応するけれども、どの地に相応するのかが問われているわけです。先ず貪・(瞋)・癡は欲界の五識に存在し、欲界の五識は楽受と相応する。何故ならば、五識は思い量ることはない純粋な識であるのです。よって五識そのものは無色透明なのですが、その後ろに第六意識が働いていますので、第六意識の働きによって知覚行動が起って、ものごとを判断していくという構造が成り立っているのです。

 本来ならば、五識には貪・(瞋)・癡ということはないはずなのですが、後に第六意識が働いていますから、その影響を受けて貪・(瞋)・癡という煩悩が働いていくと見ていくわけですね。ですから五識に相応する受は楽受のみである、と。

 そしてですね、第六意識には当然、貪・(瞋)・癡が相応し、第六意識は三界すべてに存在する意識で、色界の初禅と第二禅と第三禅で楽受と相応すると云われますから、五識と相応する貪・癡が楽受と相応すると説かれているのですね。ただ、括弧で示しました瞋は欲界にのみ存在する煩悩ですから言及されていないのです。瞋は唯不善であるということですね。また欲界の第六意識には楽受は存在しないのです。

 色界第四禅は捨受とのみ相応しますから、これも言及されていないのですね。

 他の七つの煩悩は第六意識に存在するわけですが、第六意識は色界初禅と第二禅と第三禅に存在し楽受と相応しますから、当然七つの煩悩は楽受と相応するのです。

 疑は第六意識の分別起のみの煩悩であって、倶生起のものではありませんので、極苦処には存在しないのですね。そして五識にも存在しませんから楽受と苦受とも相応しないことになります。ただ憂受と捨受のみと相応すると説かれているのですね。喜受と相応しないのは、欲界において決定出来ない心がそのまま色界にある時には喜受は生じないと云われます。何故ならば、色界のうちの疑は上の静慮を疑っているからである、と。(『対法』の第七に云く、欲界に於て決定せず。心いまだ息まざれば、喜は生ぜざるが故に。」)

 独行無明は疑と同じく、理を以て説いているのです。

 

 


補足説明 「恒審思量(ゴウシンシリョウ)」について

2014-09-14 09:47:29 | 恒審思量の意味について

 『頌に曰く、次は第二の能変なり。是の識をば末那(まな)と名けたり。彼(第八識)に依て転じて彼(第八識)を縁ず。思量するをもって、性とも相とも為す。
 四の煩悩と常に倶なり。謂く我癡と我見と、並びに我慢と我愛となり。』
 この第七識は聖教において他の識とは別に末那と名づけられる、何故なら恒に審に思量すること、他の識に比べて勝れているからである。
 (1)末那というは意であると。阿頼耶識は心といわれ、六識は識という意義がある。総じて識と名づけられるのは、『楞伽経』に「識に八種有り」と云うをもって、識といえば通名である。『瑜伽論』巻六十三に「諸識を皆、心・意・識と名づくと雖も、義の勝れたるに随って説かば第八を心と名づけ、第七をば意と名づけ、余識をば識と名づくといえり。」というのが、聖教に説かれている証になるわけです。諸識をすべて心・意・識と名づけるのは通名である。しかしそれぞれの勝れたる特性をもって説くならば、第八識は心といい、第七識は意といい、その他の識は識と名づけられる、という証文を以て「是の識をば聖教に別に末那と名けたり」と述べられているわけです。
 (2)「又、諸識をば皆、意となすと雖も、これが為に意を標して余識は然んばあらずといはぬとぞ。総称を標すと雖も即ち別名なり」と、諸識は皆「意」と名づけられるが、その働きから、第七識が意というにふさわしく、諸識に別して特に意と名づけるのである。何故ならば、「恒に審らかに思量すること」が他の識より勝れているからである。「何が故に諸識を別に意と名づけずとならば、恒・審に思量すること余識に勝れたるが故なり」(『述記』)どのように勝れているのかは、次のようである。
? 恒 ー 第六識・前五識は恒ではない。不恒である。第六識は審らかではあるが、恒ではない。
? 審 - 第八識・前五識は審らかではない。第八識は恒ではあるが審らか思量するという働きはない。前五識は縁に依って生起するので、恒でもなく、審らかでもない。
 恒に審らかに思量するのは第七識のみであるので、第七識の特性である思量をもって末那と称し、マナス=意、と名づけるという。
 出世の末那といわれることもありますが、その場合は自在位によって名づけられ、そこには未自在位の末那は転依して平等性智と名づけられ、末那とは名づけないのであって、即ち有漏にのみ名づけられ、無漏には存在しないのである、といわれます。又「顚倒の思量を遠離して正思量有るが故に」、無漏にも通じて末那と名づけるのである、と。正思量の義をもって末那ということもあるのである。
 意を以て第七識の名とするならば、第七意識といってもいい、そうならば、第六意識と異なるというのはどういうことなのか、又第七識を意といい、意識と云わないのは何故か、という疑問がでてきます。『述記』によれば、「問いの中に二有り」、二つの問いの意味があるといっています。
 『述記』によれば、
(1)総と別があり、総じては八識はすべて識と名づけられる。別としては第七識は意と名づける。しかし総・別を合わせると第七識を意識と名づけ得られるという。ここに第七識を意識というのと、第六識を意識というのには、どこが違うのかとう問いが生まれます。
(2)『瑜伽論』六十三の記述から「転識に七種あり」と説かれている。この七番目の転識を意識という。そうとするならば、第六番目も意識であり、第七番目も意識であるということになり、どこにその違いがみられるのかという問いが生まれます。  
 『論』の応答は、 
(1) 第六意識は、第七識である意を所依として起こる識である。依主釈である。第七識は持業釈である。識の体、そのものが意であるということ。意即ち識である。
(2) 恒審思量の故に意の義は、特に第七識に親しい。
(3) 第七識は、第六識のために近所依となるということを顕さんとして、第七識を意と名づけるのである。
 「意」という名の由来
「此れは持業釈なり、蔵識という名の如し、識即ち意なるが故に。彼は依主釈なり、眼識等という如し、識いい意に異るが故に」(『論』第四・十二左)
 此の第七識を意識と称する場合は、持業釈(じごっしゃく)である。これは第八識を蔵識と名づけるのと同じであり、識即ち意である。彼(第六意識)を意識と称する場合は依主釈(えしゅしゃく)であり、これは眼根等に依る識を眼識等と名づけるのと同じである。第七識を意識という場合は識と意は同じものを指すが、第六識を意識という場合は、識と意とは異なるものである、という。)
?    第七識   意=識  意が識自体を指す。(持業釈)
?    第六識   意根による識(意根を所依とする識)、即ち、意根(第七識)を所依とする識であるという意味で意識と名づけられる。(依主釈)
「意というは、是れ自体なり。識というは即ち意なり。六釈(六合釈・りくがっしゃく)の中に於いて是れ持業釈なり。・・・阿頼耶識を蔵識と名づくるが如し。識の体即蔵にして亦是れ此の釈なり。此れは彼と同なり。故に指して喩と為す。いかんぞ此の釈を為るとならば、識体即意なるが故なり。其の第六識は体是れ識なりと雖も、而も是れ意には非ず。恒・審するものに非ざるが故なり。
(第六識依主の釈) 彼の依主釈というは、主というは謂く第七なり。・・・眼識等というが如し、というは眼は是れ所依なり。而も体是れ識なり。眼に依るの識なり。故に眼識と名づく。何んぞ此の釈を為るとならば、識いい意に異なるが故なり。能・所依別なり、依に従って名を得たり。」(『述記』第四末・五十左)
  (1)第六も第七も意識と称するならば混乱が起きる恐れがあるので、諸の聖教には第七識には意という名をたてるのである、という。そしてその反対の問いも立てられるのですね。第六識を意といい、第七識を意識と名づけてもいいのではないか、というものです。にもかかわらず、第七識を意というのは何故なのであろうか。前項でも説明されていましたが、意は持業釈で、意=識であり、意で第七識を説明しているわけです。意識は依主釈であって、第七識を所依として成り立っている識を意識というのですけら、これは第六識に限るわけです。いうなれば、理が成り立たないわけですね。意識という場合は「意根に依る識」なので、第七識を意識とはいわず、意と名づけるのです。
(2)また第七識について意という名のみを標示しているのは、第七識を心(第八識)と識(前六識)から区別するためである。その理由は第七識は積集し、了別することは他の識より劣っているからである。
八識はすべて心・意・識と名づけることができるけれども、増勝の義によって第七識を意と名づけるのである、と。
「積集の心の義と了別の識の義とは余の識より劣るが故に、後の心(第八識)と、前の識(前六識)とに簡ばんとして但意という名を立てたり。恒・審するが故に。」(『述記』第四末・五十一左)
積集(しゃくじゅう) - 蓄積すること。こころを心・意・識とに分類するとき、心の堆積する働きを積集という。深層の根源的な心である阿頼耶識が表層の業の結果である種子を堆積する働きをいう。又、業の結果である種子を集起する阿頼耶識が心であると解釈する。この場合には集起(じゅうき)といい、「集起の故に心と名づけ、思量の故に意と名づけ、了別の故に識と名づく。」といわれている。
以上のように第七識を “意” というのは、第八識の積集(種子集起)の心と前六識の了別の識とを簡ぶためである。それは、第七識は積集と了別とにおいては劣っているが、恒審思量の働きに於いては増勝の義、すぐれた特徴があるから、第七識を意と表現するのである。
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 「「光明は智慧なりとしるべし。」
 光明というものは、単にものを照らすだけが光明とおもわれますから、それで、 「智慧なり」 と、特に仰せになった意味は、ここに言葉はありませんけれども、信心の智慧という意味で見てもよいかと存じますが、お言葉ありませんから、必ずそう見ねばならぬというわけでもありません。
 大まかに 「光明は智慧なり」 と、ここでいわれているものがらは、信心の智慧ですね。そうしますと、光明は信心の智慧であるとすれば、本体は無碍光仏。御かたちの本体は、というたら尊号ということになるわけであります。ふつうは光明というたら、照らされることしか考えませんですね。ですから智慧とおっしゃった。さとるのだと。さとる智慧なんですね。法をさとる智慧。法性法身をさとる智慧。ふつうはただ照らされるという。阿弥陀如来の光明に照らされるとこういうておるのですけれども、照らされるのは照らさないところがあるのです。照らされたときにはですね。太陽の光とこの智慧の光と同じことでして、照らすといえば必ず照らさぬところがあるのです。
 智慧ということになったら、これは照らされるだけでなくして照らす。照らされることが同時に照らすという意義ですね。照らす意義があることをいわれるのであります。」  

          (蓬茨祖運師 『唯信鈔文意講義』より)
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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (54) 五受相応門 (18)

2014-09-11 22:52:36 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 上来は実義門に依って説明してきましたが、下記は麤相門に依って説明されます。この科段は二門に分けられて説明されます。第一段は煩悩と五受との相応について、第二段はその相応する地について説明されます。

 初は、

 「此は実義に依って云う、麤相に随っていわば、貪と慢と四見とは楽と喜と捨と倶なり、瞋は唯だ苦と憂と捨との受とのみ倶起す。癡は五受と皆相応することを得、邪見と及び疑とは四と倶なり、苦をば除く。」(『論』第六・十九右)

 下は麤相を明かす。よって上来は実義門によって説明したものである。麤相門に随って説明すれば、

 麤相門に随うならば、

  ①貪・慢・薩迦耶見・辺執見・見取見・戒禁取見とは楽受と喜受と捨受の三受と相応する。 - 行相唯欣
  ②瞋は、ただ苦受と憂受と捨受のみの三受と相応する。 - 行相唯慼
  ③癡は五受とみな相応する。 
  ④邪見と及び疑とは、楽受・憂受・喜受・捨受の四受と相応する。苦受は除かれる。 - 行相相順

 麤は粗いとく意味ですから、本科段は大雑把(梗概ーコウガイ)に説明すると、

 先ず『述記』の所論から

 「論。此依實義至四倶除苦 述曰。下明麁相有二。初直明倶。後明倶地。此等初也。前據定得今隨相麁。貪・慢・四見行相唯欣非憂・苦倶。瞋唯慼行唯苦・憂・捨倶。邪見・及疑行通欣・慼。不在惡趣及非在五故非苦倶。五十五説。此據多分相應道理。行相相順故。如文可知。」(『述記』第六末・四十一左。大正43・452b)

 (「述して曰く。下は慼行を明かす。二有り。初に直ちに倶なることを明かす。後に倶地を明かす、此れ等は初なり。前には定めて得するに拠る。今は相の麤に随うなり。
 貪と慢と四見は行相唯だ欣(ゴン-よろこぶ)なり。憂・苦と倶なるに非ず。
 瞋は唯だ慼行(シャクギョウーうれう心で苦受と相応する)なり。唯だ苦、憂、捨と倶なり。
 邪見と及び疑とは、行が欣・慼に通ず、悪趣に在るにあらず、及び五に在るにあらず、故に苦と倶なるに非ず。
 五十五(『瑜伽論』)に、此は多分に相応する道理に拠ると説けり。行相が相順するが故に、文の如く知るべし。」)

 実義門とやや説明が違っています。実義門では、貪・瞋は五受すべてと相応すると説かれていましたが、麤相門では、それぞれ三受と相応すると説かれます。

 但し、四の疑と邪見は、分別起の煩悩であり、尚且つ第六意識相応の煩悩でありますから、倶生起に存在する地獄には存在しない煩悩ですので苦受とは相応しません。そして行相が相順しますから、楽受・憂受・喜受・捨受の四受と相応すると説かれています。

 倶生起の煩悩と分別起の煩悩の所在の在り方ですが、もう一度整理をしながら見つめ直す必要がありそうです。再考よろしくお願いいたします。