その余の六法についての説明です。
「疑と及び五見とは各々四と倶なる容し。疑には勝解を除く、決定せざるが故に、見は慧と倶なるには非ず、慧に異らざるが故に。」(『論』第六・十九左)
疑及び五見と別境の相応について説明される科段になりますが、
(1) 「疑と及び五見とは各々四と倶なる容し。」
(2ーa) 「疑には勝解を除く、決定せざるが故に、」
(2ーb) 「は慧と倶なるには非ず、慧に異らざるが故に。」
疑と五見とは各々四と倶である。即ち、疑は欲・念・定・慧と倶起し、勝解とは倶起しないのである。また五見を欲・勝解・念・定と倶起し、慧とは倶起しないのである。
(その理由が示されます。)
疑と倶である別境は勝解を除いたものである。何故ならば、決定しないからである。疑は不決定の境を縁ずるが、勝解は「決定の境に於て印持するを以て性と為す」心所であるからである。
五見と倶である別境は慧を除いたものである。何故ならば、慧と異なることがないからである。
疑と勝解とは、境と行相とが相違するから、疑と勝解とは倶起しないのである。
次に、見は慧と倶ではないことが説明されています。五見の体は慧であることは既に述べられてありますが、「諸々の諦理に於て、顚倒に推度する染の慧を以て性と為し、能く善の見を障え、苦を招くを以て業と為す」心所で、別境の慧の心所が、悪しく働いた悪しき見解のことで、慧を以て体とするということは、五見の体は、別境の慧と同じである。しかし、「一心中に多の慧有るに非ず」と言われていますから、五見相互は不倶起であり、五見と慧は相応しないことになります。
尚、ここに一つの問題が提起されます。『了義燈』(第五末・二十一左。)
巻第四に於て末那識では、十八の心所が倶であると云われ、そこに我見と慧が倶であることが説かれていた。これは慧が複数並び立つことであり、護法がいう「一心中に多の慧有るに非ず」と矛盾をきたすのではないか、という疑問です。
『了義燈』を読んでみますと、
「論に『見は慧と倶に非ず、慧に異ならざるが故に』と云うは、問う、五見は慧に異ならず、慧と倶なることを得ずと云はば、何が故ぞ、前第四巻に第七も慧と倶なりと説くや、我見恒に行じて慧と異ならざるが故に。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(2011年10月11日の投稿を参考にしていただければと思います。)
慧について説明する。
「慧は即ち我見なり、故に別に説かず。」(『論』第四・三十一右)
(慧の心所は我見である。故に別に説かない。)
「慧ノ心所ト云ハ、万ヅノ知ラント思フ事ノ徳失ヲヨク簡ビ弁ヘテ疑ヲ除ク心ナリ。是則チ智也。」(『二巻鈔』)
我見は慧である。一識中に複数の慧が並存することはないので、第七識に我見が存在する以上、第七識に慧は存在しないのである、と。
ただし、護法は第七識に慧は存在するという立場を採る。この意味は我見の体が慧であるとして第七識に慧は存在するというのであって、並存するということではない。
「述して曰く、慧と我見とは二つ並ぶに非ざるが故に、五十五に説かく、見は世俗有なり。即ち慧の分なるが故に。余は別に性有りといへり。」(『述記』第五本・四十二左)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
答う。二解有り。一に云く、一に倶有を以て倶と名づく。二に相応するを以て倶と名づく。前は倶有に拠っていい、此は相応に約していう。他性と相応す。自性に非ざるが故に。」
(1) 倶有の意味である。相応の意味ではないから矛盾はしない。
(2) 倶は相応の意味であるが心所の内容の相違で述べられているので並び立つと言えるのである。体が並ぶと云う意味ではない、という解釈になりますが、前者が正とされます。
(雑感)
中東地域は今無法地帯となっていますね、痛ましいことですが、世界のなかで、あるいはイスラム文化圏と西欧文化圏の狭間でテロを生み出す環境はないのでしょうか。なかったとしたら、無いにも拘らずテロが横行したら、テロは極悪非道になります。しかしテロを生み出す環境があったとしたら、それは私たち一人一人の問題になります。私は私のなかにある闇が、テロを生み出す必然性があると感じています。その心の闇を鋭く抉り出して智慧を導き出しているのが唯識の教えなのですが、その根本にある言葉に耳を傾けたいのです。それは法然上人の父、時国の臨終間際の遺言です。法然上人が九歳のとき、父は事件に巻き込まれて夜襲を受け殺害されました。その場に居合わせた法然に父は「汝、さらに会稽の恥をおもひ、敵人をうらむ事なかれ、これ偏に先世の宿業なり。もし遺恨をむすばは、そのあだ世々につきがたかるべし。」(法然よ、敗戦の屈辱を思い、敵を恨んではなりません。今回のことは、私自身の宿業によるものだからです。もし遺恨をもって仇討ちをすれば、怨みが怨みを呼んで、世々にうけつがれていくことになります。)この言葉の重みを世界の識者の方々は受け止めていただきたいのです。事件は起こってしまったのです。またいつ事件は起こるかは予測がつきません。敵と味方に反目している以上いつかまた忌まわしい事件は起こることでしょう。法然の父、時国は起こってしまったことは「先世の宿業なり」と受け止め「敵人をうらむことなかれ」と遺言しました。それは怨みは怨みを生み出すからであり、その怨みは世々に受け継がれ、暗黒の世界をつくりだすであろう、というものです。仏教は存在を衆生とも、有情とも呼び、菩薩の誓願は「諸の有情と共に」というものです。この誓願に生きるものが仏教の人間像です。一人として抹殺してよい命はないのです。すべて尊い命を宿しているのです。対立する組織ではあっても、その対立は私が生み出している闇なのだと自覚するべきでしょう。「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟」なのです。これらのお言葉に耳を傾ける時、道はすでに開かれているのではないでしょうか。
もう一つ問題提起させていただきます。
我癡とは無明である。そして我見とは我執であると述べられてありました。第八阿頼耶識の見分を妄計して我とするのは、無我の理に迷っている無明が横たわっているからですね。親鸞聖人は「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」と。南無阿弥陀仏は我癡という無明を破ってくる働きがあるのだと教えられています。私たちの上に具体的に表れてくる我執は本願に背いている姿ですね。本願に背いているのは仏智疑惑です。仏の智慧より我の心のほうが偉くて仏をも裁く心をもっているのですね。ですから元は無明です。「此には無明を以て本と為せり」と。無明が因となり、我見・我慢・我愛は果となって現れてくるのであると説かれています。その元の無明を破る働きが念仏であると言うことですね。具体的には信心です。信心において無明を破る智慧をいただくのですね。智慧をいただいてみれば、迷妄多き、というより、迷妄しかない娑婆といわれる世界も生きうるに値する世界なのですね。もう一つ気になる出来事がありました。それは脱原発の集会です。何故脱原発なのかという議論は有無の見だと思うのです。生命の危機を晒す原発はもういらないという主張と、電気需要を多量に必要とする産業界からの、より安全な原発を推進するという主張がぶつかり合います。私にとって何が利益をもたらすのかという、私の立場から賛成か反対かを主張しているわけです。原発のある環境を推進するのか、それとも原発のない環境を推進するのか。環境を変えることにおいて私たちの生活環境をより安全により快適に暮らせるようにしようという議論が、原発推進か、それとも脱原発かということになります。しかしですね。この議論には、人間そのものを問う姿勢を伺うことが出来ませんね。快適な生活を要求する為に私たちが原発を推進してきたのです。「豊かな生活」を目指して自然を破壊してきたのも私たちです。その為に生態系が破壊され、地球全体が温暖化になり、CO2によってオゾン層が破壊されて、私たちの取り巻く生活環境は著しく悪化しているのです。これも私たちがもたらして来たものです。「人間そのものを問う」・「私を問う」という姿勢が微塵もないことから起こってきた現況ですね。ですから脱原発か、それとも原発依存かの議論は共に我見です。無明より起こってくる見解ですね。私たち一人一人は有情なのです。人間だけが尊いのではないのですね。命有るともがらの中にいながら、私たち一人一人が傲慢になっているのではないでしょうかね。人間だけ、いや私だけが偉いのだと。「自己とは何ぞや」という宿題が突きつけられているように思います。