唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(32)受の心所(8) 護法正義 (4)

2015-09-30 23:33:59 | 初能変 第三 心所相応門
  

 論主の答え。
 「然るに境界受は余の相に共ずるものには非ず。順等の相を領して定んで己に属する者を境界受と名づくるを以て余には共ぜざるが故に。」(『論』第三・三右)
   境界受は外のものを受け入れるのです。自性受は、同字の触を受け入れる、つまり、触とか作意の心の働きを受け入れるというのが自性受なのですが、護法菩薩の論旨は、境界受なんです。外のものを受け入れた時、そこに感情が生まれてきます。それを非常に大切になさっています。
 「所縁の境を領納す」、これが本当の受であるといわれます。理由は、「定んで己に属する」ということなんです。唯識無境といいますが、境が無いわけではないんですね。境そのものを認識するということが無い、認識できないというのが本当かもしれません。境は実体としては無い。自分の心が造り出したも、それが境である。
 阿頼耶識は言語を超えた世界を種子として蔵しています。法の世界ですね。無自性なるが故に空なり。言語を用いた瞬間に、言語に囚われて執着を起こします。それを戯論として押さえられていますが、唯識は境そのものを受け入れている阿頼耶識から認識を起こす時に、自我意識というフイルターを通して、或は被せて意識の上に実体として認識を起こします。
 いくら無自性で有ると言われても、無自性であることを解釈して、無自性なんだと実体化して認識を起こしています。何故なら、「私が」という囚われから離れられないからですね。囚われが、執われに変化して、固執を起こし、自他分別を起こしてきます。そこから生まれてくる感情、感受作用は、苦か、楽か、不苦不楽なんですね。
 順境の時は、楽という感情が生まれ。違境の時は、苦という感情が生まれます。倶非(捨)と云う感情は、無意識の状態に於いてのみ働く感受作用でしょうね。
 そこで、正理論師の説く自性受は否定され、認識される対象にもとづいて生じる感受作用である境界受をもって、受の本質としています。この辺の事情を『述記』は次のように述べています。
 「此の義は如何となれば、能く順と違と倶非との境相を領して、定んで己に属するを境界受と名づく。」と。

初能変 第三 心所相応門(31)受の心所(7) 護法正義 (3)

2015-09-29 23:34:38 | 初能変 第三 心所相応門
 私事ですが、家族が増えました。まだ名無しのごんべえです。体のメンテが終了した30日にお越しになります。花婿です。皆さんの応援よろしくお願いします(^_-)-☆  

 護法論師と正理師とのやり取りが交わされています。正理師の、受は自性受であるという主張を護法論師は理を以て破斥しておられます。
 第七に彼復た救して言く、
 「若し謂まく、王いい諸の国邑(こくゆう・領土)を食すと云うが如く、受いい能く触が所生の受の体を領するを以て自性受と名づくといはば。」(『論』第三・三右)
 「如王食国邑」これは順正理論の説になります。あなたの言っていることは、自性受ではなくて、因受と言うべきことではないのか、ということに対する反論というか、言い訳をしているのですね。
 護法さんは、そう言って批判なさいますが、そういうことではなくてですね。触に似て生ずると言っているのではなく、触を認識するのですが、それは触そのものを認識するのではなくて、言うなれば、例えばですね、王が国邑(領土)を食べているということがあるでしょう。それは、王が国そのものを直接食べているのではないですよね。国土に生じたところの穀物や、そこで育てられた家畜を食したりということと同じであって、受の触を領するというのは、受が触をそのまま領ずるのではなく、触に生じられた受の体を認識するのですから、それは自性受と名づけられるでしょう、と。反論をしているのですね。
 『述記』の所論は、
 「次下は第七に彼を復救して言く、王、邑を食すと云うが如き、土田を食するに非ず。土田に所生の諸の禾(カ・のぎへん、穀物の総称)稼(カ。穀物を植え付ける。生計を立てる。)等いい是れ王の所食なり。邑を食すと言うは、所依に従って説けり。邑の体は即ち土田なるを以ての故に。受も例するに亦然なり。触は土田の如し。受は禾稼の如し。受は是れ触の果なり。触は是れ受が因なり。受は能く所生の受の体を領触するを以て即ち自を領する義なり。自性受と名づく。触を領すと言うは所依に従って説く。邑を食すと言うとも彼が所生を食するが如し。」
 受は王
 触は土田
 所生の受の体は禾稼
以上が正理師の反論です。
 そういうように言うのならば、「理いい亦然らず。」
 正理師は正理師の反論によって、自らの所論に逆らった、矛盾をした所説を立てて反論しているではありませんか、と護法論師は指摘されます。自ら縁ずるを以て自性を領すると言うのであれば、貴方は、貴方の立てて所論に相違しますよ。「彼、心等は自を縁ずること能わずと計す。故に自を縁ずと説くは便ち自に違する失なり」と。
 触所生の受を認識するというのですが、受が受を認識することは出来ないわけですね。それは受が縁じて、それを認識するわけですから、「自を証ぜざるが故に」証は縁ずる、認識する、自らが自らを認識する、触が所生の受を受が認識して認識するということになるわけですね。自が自を認識するということは、正理師の主張は「自を証せず」、認めてはいませんね、というわけです。
 「理いい亦然らず。自の所執違しぬ。自を証せずと云うが故に。」(『論』第三・三右) ここで復た反論をしてきます。
 「自を領すと言うは、自を縁ずと謂うに非ず。受の自相を捨てざるを以て自性受と名づけるが故にと言はば」、こういう用に反論をしてくるであろうことを予想して、論破されてくるのですね。
 「若し自性を捨てざるを以て自性受と名づけると云はば、一切法は皆是れ自性なるべしょい。」(『論』第三・三右)
 自性を捨てないから、自性受と言うのであれば、自らが自らを縁ずるということでない。受の自相を捨てないから自性受というのであるならば、一切法は皆、自性を捨てていないから、すべて受になってしまうであろう。
 「一切の法は皆な自の体相を捨離せざるに由るが故に、まさに皆な受と名づくべし。(『述記』)
 このような所論は矛盾しているのではないか、或は嬰児をあざむいている、たわいもない理屈をつけているだけにすぎないだろう、と。
 「故に彼が所説は但だ嬰児を誘(あざむ)けり。」(『論』第三・三右)
 以上で、正理師の所論を論破し、護法論師は正義を述べます。「然るに・・・」次回にゆずります。

初能変 第三 心所相応門(30)受の心所(6) 護法正義 (2)

2015-09-27 15:33:50 | 初能変 第三 心所相応門
   
 
 お知らせです。高柳正裕師が『往生礼賛』の講義を隔月に聞成防において講義をされておいでになりますが、今月は30日午後3時からの開講となります。5月度と7月度は十二光についての講義でしたが、その述中に於て師は次のように教えてくださいました。(案内文より抜粋)
 「・・・私というものに対する執着があるということは、私と私でないものという構造です。・・・逆に言うと私と私のものということです。親子関係にしても夫婦関係にしても、私の親とか・・・やはり根本的な分別と言ってもいいわけです。唯識では・・・分別は超えられる、分別みたいなものは超えられると、こういう言い方になりがちなのですが、むしろ親鸞聖人とか浄土教ではどこまでも深い分別というか執着を見ているのです。ここが大きな特徴だと思います。だからこそ無辺ということが光なのです。私たちは何処までいっても深い分別に閉ざされているというか囚われている。それを照らしてくる光なのです。もしもこれが解けていくのなら仏さまはいらないわけです。ですからどこまでも光を蒙ることにおいて、その深い執着、根本的な分別が照らし出されて離れられるということなのです。これは分別が破れたということではなく、そこが真宗の大きな特徴なのです。特徴というのか、どこまで皆さんが格闘するのか、深まるか、にかかっているのです。・・・自分が、分別が破れたとなると、非常に自分の中でゆがんだ葛藤が必ず起こってきます。もう終わったとなると。お釈迦さまも苦しんだのです。私は悟ったというところから歩まれたということがお釈迦さまのすごいところなのです。・・・我々の中に、これは気づいてないけれども、深い奥行きに何かの深い飢えがあって、そういうものが自分でも気がつかないような闇と言われるわけなのです。今日はあちこち出てくるのですが、闇というものはもちろん智、智慧に対してです。智慧に対して無明ということがあるのです。でも暗闇というのはただ単に知恵が無いことだと、ものが見えていなにのだという、こういう問題ではないわけです。そのへんは真宗というか仏教というのは非常に深いですね。ただものが見えていない、智慧がないのだ、というのではなくて、それは渇愛ということと重なっている。渇愛というのは深い欲望なのですけれども、その地として本願に出てくる、「欲生願国」なのです。「わが国に生まれんとおもえ」というのにやはり繋がっているのです。・・・」
 
 本願と私は別々のものではなく、本願によって私は繋がれている、そこに救済の事実があるのでしょう。聞法によって開かれてくる世界ですね、そんなことを感じました。

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 ちょっと前に戻りまして、心王と心所有法(心・心所)の相応関係につきまして簡単に整理をしたいと思います。『成唯識論』巻第二に「彼の相応法も応に知るべし亦爾なり。」と述べられ、心王と心所の相応について示され、心所法も心王と同じように、能縁・所縁という形を以て現ずることが明らかにされていました。
 心王は八識ですが、この八識には必ず相応する心所があるわけです。初能変の第三・心所相応門に於いては、第八識に相応する心所は何かを明らかにされていますが、それはただ五遍行である、と。
 心王 ― 八識
 八識に付随する心所を挙げますと、
 第八識 ― 五遍行(触・作意・受・想・思)
 第七識 ― 十八の心所と相応する。遍行の五と別境の慧と四煩悩(我痴・我見・我慢・我愛)と随煩悩の不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知・散乱と相応する。
 第六識 ― 五十一の心所すべてと相応する。
 前五識 ― 三十四の心所と相応する。遍行の五と別境の五(欲・勝解・念・定・慧)と善の十一(信・慚・愧・無貪・無瞋・無痴・勤・安・
不放逸・行捨・不害)と貪・       瞋・痴の三と随煩悩の無慚・無愧・不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知・散乱と相応する 
   「中秋の名月」(旧暦の8月15日)の27日は、関東地方は夜も曇りがちとなる見込みだが、翌28日は全国的に夜も晴れ間が広がり、今年最大の満月「スーパームーン」が見られそうだ。

初能変 第三 心所相応門(29)受の心所(5) 護法正義 (1)

2015-09-27 02:19:32 | 初能変 第三 心所相応門
 

 「彼の説くこと理に非ず。受は定んで倶生の触を縁ぜざるが故に。」(『論』第三・二左)
 護法菩薩の論破は一言を以て尽きています。正理師は自性受を以て受の自相と主張しているが、受は、触と倶生である、倶生であるところの触を縁ずるということはできない。つまり、所縁の対象とすることが出来ない。認識の対象としての触はどこにもないからであり、ここを以て正理師の説くことは理に合わないのである。
 『述記』は逆に問いを以て正理師に訊ねています。
「述して曰く、今は彼に問うべし。如何ぞ受は能く倶なる触を領すと説く。」
 何故、受は倶生の触を縁ずると説くのか?倶なる触を領納することはできないではないか。何故ならば、受は定んで同時倶生の触を縁ぜざるべし。同時に一緒に起こってくる触を、受は認識することはできないのである。受け取ることが出来ないんだということですね。
 よって
 「故に縁ずと云うを以て受いい触を領すと名づくとは説くべからず。・・・若し触は前にして受は後ならば、(相前後するならば)後の受が前の触を領すべし。既に前の触を縁ぜずんば如何が名づけて領とせんや。・・・」
 慈恩大師はやさしいですね。ここに救済方法を正理師に変わって弁明されています。
 論主の論破はよくわかります。しかし、触を縁じて受が起こると云っているのではないのです。
 「倶時の触に似るを以て説いて名づけて領とす。」(『述記』第三末・十六左)
 論主は、この主張をも批判して論破されます。
 「若し触に似て生ぜるを以て触を領すと名づけば、因に似たるの果は皆受が性なるべし。」(『論』第三・三右)
 『演秘』に喩がでています。
 「順正理を按ずるに云く。父の子を生む時に、子の媚好皆な父に似たるが如し。亦だ果を種より果を生じ因に似るが如し。受が触に従って生ずる、まさに知るべし。亦た爾なり。」(『演秘』第三末・五左)
 受は触を縁じて、それを受け取るのではなく、受は触に似て起こってくるのである。それを触を領すると名づけているのである、と。
 そうしますと、因が触で、受が果になります。つまり、因である触に似た果である受は、すべて受が性になってしまうであろう。それはおかしいではないか、と再論破されてきます。触に似て起こってくるのが受であれば、すべてが受になってしまうからですね
 「又既に因を受するを以て因受と名づくべし。何ぞ自性と名づけん。」(『論』第三・三右)
因を受するということであれば、因である触を受するわけだから、因受と名づけるべきであろう。どうして自性受と名づけるのか。論主が突っ込んだ問いをだされてきます。
 本科段の意味するところは、
「触は能く受を生ずるを以て、即ち是は受が因なり。既に因を領するを以て因受と名づくべし。自性受と名づけるや。理に於て成ぜんや。此れ名を難じて破す。」(『述記』)
 ここで、又慈恩大師が、何故、自性受というのか、と正理師に変わって釈明します。
 「受は是れ触が果なり。触は是れ受が因なり。受(王)は能く触(土田)の所生の体(禾稼(カカ)実った穀物)を領す。即ち受の自ずから領する義なり。自主受と名づく。触を領すと言うは所依に従って説く。邑を食うと言えども彼が所生を食うが如し。」と。

 禾稼について、幕末の志士、吉田松陰の遺言。
 「今日死を決するの安心は、四時の順環に於て得る所あり。蓋(けだ)し、彼の禾稼を見るに、春種し夏苗し秋苅り冬蔵す。秋冬に至れば、人皆その歳功の成るを悦び、酒を造り、醴を為り村野歓声あり。未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十一。事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば、惜しむべきに似たり。然りとも義卿の身を以て云えば、是亦秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば、人事は定りなし。禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十 百は自ラ五十、百の四時あり。十歳を以て短とするは惠蛄(夏蝉)をして霊椿(霊木)たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして惠蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずと。義卿三十、四時已に備亦秀。亦実その秕たると、その粟たると、吾が知る所に非ず。若し同志の士、その微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未だ絶えず。自ら禾稼の有年に恥ざるなり。同志其是を考思せよ。」

(訳)今日、私が死を目前にして落ち着いていられるのは、四季の循環というものを考えたからです。おそらくあの穀物の四季を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬それを蔵に入れます。秋や冬になると、人は皆その年働いて実った収穫を喜び、酒などを造って、村は歓声にあふれます。未だかつて、秋の収穫の時期に、その年の労働が終わるのを哀しむということは、聞いたことがありません。私は享年三十歳。一つも事を成せずに死ぬことは、穀物が未だに穂も出せず、実もつけず枯れていくのにも似ており、惜しむべきことかもしれません。されども私自身について言えば、これはまた、穂を出し実りを迎えた時であり、何を哀しむことがありましょう。何故なら人の寿命には定まりがなく、穀物のように決まった四季を経ていくようなものではないからです。十歳にして死ぬ者は、その十歳の中に自らの四季があります。二十歳には二十歳の中に自らの四季があり、三十歳には三十歳の中に自らの四季があり、五十歳や百歳にも、その中に自らの四季があります。十歳をもって短いとするのは、夏蝉を長寿の霊椿にしようとするようなものです。百歳をもって長いとするのは、霊椿を夏蝉にしようとするようなものです。それはどちらも、寿命に達することにはなりません。私は三十歳、四季は己に備わり、また穂を出し、実りを迎えましたが、それが中身の詰まっていない籾なのか、成熟した粟なのか、私には分かりません。もし、同志のあなた方の中に、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのなら、それは私のまいた種が絶えずにまた実りを迎えることであって、収穫のあった年にも恥じないものになるでしょう。同志の皆さん、このことをよく考えてください。


初能変 第三 心所相応門(28)受の心所(4)

2015-09-25 23:16:41 | 初能変 第三 心所相応門
  
 
 自性受と境界受
 「有いい是の説を作さく、受に二種有り、一には境界受、謂く所縁を領するぞ。二には自性受、謂く倶なる触を領するぞ。」(『論』第三・二左)
 先ず、順正理論師の説を挙げられます。その主張は、ただ自性受を以て受の自相とする。認識対象を受け取るのが境界受ですが、受は随触を領納するんだと、つまり、受は境界を領納するのではなく、触を領納するのであるから領納随触が受の自相であると主張しています。
 所縁の境を領納するのを境界受と名づけ、同時の触を領納(領納随触)するのを自性を領納すとなづけ、触に苦・楽・捨があるのだというわけです。境界受という受のあり方もあるんだけれども、受は直ちに境を受けこむのではなく、境が触れたその触を受けこむのであると、苦境が触れると苦触を生じ、苦触を受けこむと苦受が生ずる。楽境が触れると楽触を生じ、楽触を受けこむと楽受を生ずる。このような理由から、受は随順する触を領納するというわけです。
『倶舎論』の立場も、自性受を以て受の本質としています。
 前後しますが、唯識の立場から順正理論の主張は間違いであるとしていますが、順正理論は、正しい理に順ずる論であると世親菩薩は認めておいでになるわけです。『倶舎論』は膨大な『大毘婆沙論』二百巻をまとめて六百の頌を作り、それに対して解釈をほどこしたのが『倶舎論』三十巻なんですね、それに対して反論を加えた書が衆賢の著作とされる仏教論書。『俱舎雹論』(くしゃばくろん)なんです。この書を『大乗阿毘達磨順正理論』と呼んでいます。
この主張に対して賛同する外の評価を次科段で述べられます。
 「唯だ自性受のみ是れ受の自相なり、境界受は余の相に共ずるを以ての故にと云う。」(『論』第三・二左)
 余の心所法は触を領納することが出来ないので、唯だ自性受のみが受の自相である。受そのものですが、それは何を領するのか、それは同時の触を領するのだ、というわけです。つまり、根・境・識が和合するところに生ずる触を感受するこころが受の自相であると言っているのです。認識対象を受け取る、見たり、聞いたり、触れたりするような、その対象に対してうけとるのが境界受であるが、そのような境界を領ずるのではなく、倶なる触を受け取るのが本当の受である。触れたものを受け取る、認識対象を受け取るのではなく、触れるのと同時の触を受け取る、それが自性受であり、受の心所のみにしかない働きである。それに対して、境界受は、他のどのような心所にも受け取るということは共通してある。他の心所であっても境界を受け取っていますから、それが本当の受というわけにはいかない。これが衆賢論師の主張ですね。
 『述記』は、
 「唯自性受のも是れ受の自相なり。余の心所法は触を領すること能わず。是の相な無きが故に。若し境界受は余の心・心所に通ず。彼は能く境界の相を領するを以ての故に。」と釈しています。
 「二に論主破して云く、」以下護法菩薩の正義が述べられます。「彼が説くこと理に非ず。」と。
  
 
 
  

初能変 第三 心所相応門(27)受の心所(3)

2015-09-24 22:44:53 | 初能変 第三 心所相応門


 受 ― 境(対象)を領納すること。
 境の相 ― 順・違・倶非がある。

 順境の相を領納すれば ― 楽受
 違境の相を領納すれば ― 苦受   }であり、
 いずれでもない場合は ― 捨受

 境を領納するのは、受の見分(行相)である。そこに苦・楽・捨が成り立つ。三受相応、開けば五受(苦・憂受。楽・喜受。捨受)になる。
 さらに、「受に二種有り」と。
   境界受 ― 外のものを受け入れる。(外のものを受け入れるという心の働き。「己に属する」)
 {
   自性受 ― 受が起こる同時の、触・作意の心の働きを受け入れること。(順正理論師の説で論破されます。)

 受の心所を概略しますと上記のようになります。
 
 「受と云うは、謂く順と違と倶非との境の相を領納するを以て性と為し、愛を起こすを以て業と為す。」(『論』第三・二右)
 「対象が己に関係する、対象の性質を主体に関係させるところに感情が成り立つ。快・不快は感情の範疇である。領納するのは受がそれ自身にもっている作用である。受の行相、感情独自の作用、それをもって「愛を起こすを業と為す」という。」(安田理深師。傍線は筆者)
 感情が「愛を起こす」条件なんですね。己自身の感情なんです。境は縁ですが、この場合の縁は無条件です。無条件の縁を以て、そこに己の感情が移入されるのですね。感情が移入されますと、それが条件となって起愛です。愛にとって受は不可欠の条件となっています。そのことを『論』には、
 「能く合と離と非二との欲を起こすが故に。」(『論』第三・二左)
 「起愛為業」の釈です。
 つまり、「楽受に於て未だ得ざるは合を希い、已に得るは復た乖離せずと云う欲有り。苦に於は未だ得ざるは合せざらんと云う欲あり。已に得たるが中には乖離せんと云う欲あり。欲と云うは欣求するなり。」(『述起』第三末・十五右)
 愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦の行相の的を得た説明です。この三苦は五蘊盛苦を縁として起こってくるのですね。どこまでも己の都合が最優先して起こってくる感情なんですね。
 さらに、『述起』はつづけます。
 「此の業は有漏と無漏とに通ずべけれども、今は唯だ無明と触とに生ぜられたる受に依って説く。ここに唯だ是れ愛とは染分に依って説く。いま縁起の中に受は愛に縁ぜらるるが故に、有漏の受は能く愛が縁となるが故に。」と。
欲なんですが、
 順境に対してですね、まだ順の境でないとするならば、順の境に合(領納)しようと欲し、既に順の境であれば、離れまいと欲するわけです。
 逆境に対しては、順境の反対の欲望を起こします、逆境でないならば、逆境にならないように欲し、逆境であるならば、離れたいと希求する。
 倶非の境に対しては、ここがわかりにくいですが、非二の欲を起こすと述べられていますから、いうなれば無の欲ですね、己の欲から発せられない中庸の欲とでもいうのでしょうか、例えばですね、講義終了後に黒板がよごれていますと、まあ誰かしかです、黒板を拭きに来られます。このような行為を非二の欲とでもいうのでしょうか。本当は、ここが問題なのですね。非二の欲は、善法欲であり、如来の願心、欲生心なのでしょう。そこに親鸞聖人は気づかれたのだと思います。如来の欲生心に触れられて、自分から出るすべての善行には我執という毒が混じっているのだと。身・口・意の三業の所修、ことごとく雑毒の善であり、虚仮の行だと慚愧の心をいただかれました。
 ですから、私たちからは、順か違かの二つしか選択肢はないのでしょう。ノンセクトという在り方もあるではないかと思われるかもしれませんが、それはノンセクトと云うセクトであって、そこで、順か違かの判断を下し、迷妄しているのですね。阿頼耶識は無記であり、倶非であるというのは如来の願心を表しているのであろうと思いますね。願心が具体化した相が阿頼耶識である、と。阿頼耶識は私を超えて、私の阿頼耶識として、私を支え続けている菩薩なんでしょうね。ここを忘れると、頼りになるのは我執しかないわけです。私たちはいかに阿頼耶識と対話することが大事であるのかが教えられます。

  

初能変 第三 心所相応門(26)受の心所(2)

2015-09-23 18:05:09 | 初能変 第三 心所相応門
   

 概略をしますと、受の心所は、自分の感情に応じた所縁の境(順境)にたいしては楽(適悦・歓)を感じ、それに違う所縁の境(違境)に対しては苦(逼悩・慼)を感じる。どちらのものでもない所縁の境(中庸)に対しては非楽・非苦である捨の作用を本質とするものであると説かれています。
 「受は能く順・違と倶非との境の相を領納するを以て性と為し愛を起こすを以て業と為す。」(『論』第三・二右)
 第三能変になりますと、第六意識で受け取る受は、
 「受は能く順と違と中との境を領納して、心等をして歓と慼と捨との相を起こさしむ。心が起こる時に随一無きことは無きが故に。」(『論』第五・二十七右)と説かれているのですね。
 「述して曰く、歓等の三相は、次の如く順と違と中との三境を配す。即ち是れ三受なり。余文は知るべし。」(『述記』第六本上・四右)と。
 ともかくですね、受の本質(本性)は領納すること。受け入れることです。触・作意によって起こってくるところの感情を受け入れることに三相があると述べているわけです。
 順境は、自分が気にいったものですね。違境は、自分が気に入らないものになります。倶非はどちらでもないものです。これを、順を楽、違を苦、倶非を捨というわけです。そして阿頼耶識に於る受は倶非、つまり捨受である、ということなのですね。業が「愛を起こす」とありますが、愛は渇愛、或は貪愛ですね。かえりますと、作意において我愛ですね、我愛が働いているところに色付けされたものが所依となって起こってくる感情は順か違なんです。捨という感情は、阿頼耶識の三位でいいますと、善悪業果位であるところの異熟識ですね。因は善か悪であるけれども、果は無記である。現行は無記性なんです。無記性というところで転依が語られます。つまり、いつでも、染汚が智慧に変化する機会を与えられているということなのですね。末那識転じて平等性智に転依する。だから、無始以来の我執が大事なんです。愛現行蔵位の我執ですね。我執が縁となりというのは、我執のところに、円融至徳の嘉号が働いている、働いているから、我執の自覚が起こり、我執の自覚が即、転じて徳と成す正智に転依(パリナーマ)するのでしよう。そこに頷きを得たのが、難信金剛の信楽でしょう。だからして、現行されていることがいかに大事かと云うことになります。
 「愛を起こす」とありますが、本来は慈愛、慈しみの心が起こるということなんでしょう。渇愛は慈愛を覆っているんですね。渇愛が求めているのは、慈愛なんです。足論ではないんですね。取り合えず今はこれを満足させたいということではないんです。もっと深いものを求めているのが渇愛なんでしょうね。慈愛、如来に触れたい、自己の本来性であるところのアーダーナに触れたい、でも直接的に触れることはできませんから、阿頼耶識を縁として、阿頼耶識の現行である見・相二分を行相・所縁として本来の自己に目覚めていく、そういう作業をしていかなくてはならないのではないでしょうか。真宗は横超だとはいいますが、やはり日々の聞法の積み重ねが横超の大菩提心を生起してくるのではないでしょうか。間違っているかもしれませんが,今の僕にはこれしか言いようがありません。
 元に戻りますが、受の心所そのことの直接の意味ではありませんが、『泉鈔』には、喩ですね、
 「或る人云う、譬は机を我が前に取らんとするは合の欲であり。此の机を余処へ押しのけるのは離の欲である。我が処へ取ることのせず、余処へ押しのけるとも思わず、人の前にあるのを、そのまんま受け取るとするのは非二の欲である。」(取意)と述べています。
 受は間髪を入れずですね、ある意味、法爾自然です。正直なんです、正直であるが為に、私たちは誤魔化すのですね。誤魔化しは自我の色付けです。正直な感情が働いているのに、正直になれない自分がいます。任運に法爾にというのは分水嶺ですね。有漏と無漏の分岐点と云ってもいいのでしょうね。仏法に触れているのか、触れていないのか、ここで触れるというのは聞法です。聞法は智慧の光ですから、光に照らされて闇が晴れる、晴れてみれば闇無きが如し。闇があっても障りにはならない、不断煩悩得涅槃です。ここが阿頼耶識の現行なんでしょう。
 受から受ける思いを綴ってみました。 明日から本論に戻ります。

初能変 第三 心所相応門(25)受の心所(1)

2015-09-22 19:49:11 | 初能変 第三 心所相応門
 

 このブログは第三能変から書き出しましたので、第三能変における遍行の説明も先にしておりました。初能変における遍行は無覆無記ですべて捨のみとなりますが、現行の意識になりますと、五受と相応することになります。この辺も比較しながら読みますと、いろんなことが見えてきます。
 現行された意識の上で、受はどのように動いているのか、そして水面下で受はどのような働きをもっているのかを探っていければと思います。
 今日は第三能変から少し読みます。
 この受の心所について、『法相二巻抄』における良遍の領解は「受ノ心所ト云ハ、楽ヲモ苦ヲモ、心ノ中ノウレヘ悦ビヲモ、何ニモアラザル事ヲモ心ニウケトル心ナリ」と述べています。『論』には「受とは謂く、順と違と倶非との境を領納するを以て性と為し、愛を起すを以て業と為す」と。「楽をも、苦をも」といわれていますように、私たちにはさまざまな感情があるのですが、その中で、楽と苦に関しての感情を受という、ということがわかります。三受・五受につきましては後述しますが、ただ大事な点は「愛をもって業となす」ということです。苦も楽も自我愛を生ずるということでは同じであるということです。苦からは逃れたい(違境)・楽からは離れたくない(順境)という愛執を起します。十二支縁起に於いてもですね、受→愛→取と、受を所依として愛がおこり、そこに執着を催す取が起こると定義されています。
 『述記』にはこの間の事情を簡潔に述べています。愛を起すを業とするのはなぜかと云う問いを出し「謂わく、楽受に於いて未だ得ざるときには合せんと希ひ、已に得するときには後乖離せざらんと云う欲あり、苦に於いては未だ得せざるには合せざらんとする欲あり。已に得たるが中には乖離せむと云う欲あり」と。
 第三能変では倶非を中といっていますが、中庸を得るという感情が大切であることを物語っているようです。中庸に於いて愛執から離れる事が出来るということを示唆しているからです。捨に三義有りといわれているのも頷けます。苦・楽・捨と言われる場合の〝捨〟(苦でも楽でもないという捨)・行捨の〝捨〟(平等・無功用という善の心)・煩悩の習気を総て捨てる場合の〝捨〟(煩悩との関わりを断っていくときの捨)、自分の中に捨という感情があるということ、これは大切に見て行かなければなりません。
 第三能変における受の心所の説明には、
「受は能く順と違と中(ちゅう)との境を領納して、心等をして歓と慼(しゃく)と捨との相を起さ令む。心が起こる時随一無きことは無きが故に」(『論』第五・二十七右)
『述記』の記述も巻三で詳しく述べていますので、ここは簡略に記述されています。「歓等の三相は、次の如く、順・違・中の三の境に配す。即ちこれ三受なり。余文は知るベし」と。
 受は順境と違境と中境(倶非境)との境を領納して、心等をして順境には歓(楽受)と、違境には慼(苦受)と中境には捨受の相を起させる。心が起こる時、歓と慼と捨等の中の(五受の中の)一つは必ず存在するのである。心が起こる時、即ち心王が生起し、働く時には必ず五受の中のどれかが遍するのであるから、受は遍行であると証明しています。
 慼(しゃく) ― うれうこと。苦受と相応する。
 この中で云われる「随一」という意味は「多くの中の一つ」ということで、ここでは五受の中の一つと云う意味です。「領納」は自分の心の中にしっかりと受け止めることです。自分にとっての問題であり、他人事ではないということですね。大雑把にいってしまいますと、社会問題とか、環境問題、自分を抜きにして、客観的にそれらの問題を考えてしまいますと、抽象論に始終するのではないではないでしょうか。問題の中心人物は、「私」なのですね。社会問題もですね。考えればネット社会では人と人との繋がりが遮断されていますし、人間関係を持ちたくない、独人でありたいという人が増えているようなのです。社会との関わりを断絶しながら生きていくというスタイルが徐徐に浸透しているといわれて久しいのですが、その傾向はますます強くなっているようです。問題は、他人事ではないのですね。あなたはどうなのかが問われているのです。他人事だと何でも言えるわけですが、自分の問題として受け止めるとそうはいかないのです。自分の心の中に〝自分さえよければ〟という愛執(我執)が白日のもとに晒し出さなければ問題解決の糸口にはならないのでしょう。

初能変 第三 心所相応門(24) 作意の心所 (7)

2015-09-21 12:56:02 | 初能変 第三 心所相応門
 

 受の心所に入る前に、何故五遍行なのかを第三能変の遍行の項を参照に、繰り返しになりますが復習したいと思います。
 『倶舎論』に於ける大地法の記述
「心所に且く五有り、大地法等の意なり。(1)触と欲と慧と念と作意と勝解と三摩地とは一切の心に遍ず受と想と思と。(2)信と及び不放逸と軽安と捨と慚と愧と二根と及び不害と勤とは唯善心に遍ず。(3)癡と逸と怠と不信と 小と掉とは恆に唯染なり。(4)唯不善心に遍するは無慚と及び無愧となり。(5)忿と覆と慳と嫉と悩と害と恨と諂と誑と 鉦と、是の如き類を名づけて小煩悩地法と為す。」

 心所に五有り、とは(一)大地法、(二)大善地法、(三)大煩悩地法、(四)大不善地法、(五)小煩悩地法をいいます。どの心王にも必ず遍く倶生するので「大」という。反対に「小」はいつも倶生するに限らないことを示しています。地は心王を指し、心所は心王を自分の拠り所として、いつも心王について起こる故に、心王を地と名づける。『倶舎論』では一度心王が起これば此の十の心所はいつも必ずついて起こるといわれています。世親はこれに解釈を施しています。
•(1) 受 - 感覚で、苦楽等を感ずること。「受領納随触」(受は随触を領納す)
•(2) 想 - 想い考えること。「想取像為体」(想とは像を取るを体と為す)
•(3) 思 - 心を造作すること。
•(4) 触 - 根・境・識とが三和合してそこに触を生ずる。
•(5) 欲 - 境に於いて希求する。
•(6) 慧 - 簡択の義。道理を択び分ける。
•(7) 念 - 明記して忘れず。(記憶)
•(8) 作意 - 心を警覚せしめる義。(注意作用)
•(9) 勝解 - 境に於いて印可し、判断すること。
•(10) 三摩地(定) -Samadhiで等持と訳す。心を一境に集めることで、定とも訳する。

 (参照文献 『倶舎論』講義 舟橋水哉著 p114~117)

 これが有部が挙げている十地法ですが、十地法が説かれているのに、何故「五」のみが遍行というのであろうか、という問いに答えているわけです。
「論。此中教者至四是遍行 述曰。即是別答。初教答。後理答。瑜伽五十六卷五十六卷亦引此經破經部等。大小共許。即阿含經。前者亦言起盡經也。此是初經。何故此中但説四者擧觸爲依。如前第三云。瑜伽何故唯説觸與受・想・思三法爲依。擧蘊勝故。即是觸生三蘊。且隱作意不説。即行蘊攝故 若爾何義故知作意必有。」(『述記』第六上・二左。大正43・427c) 

 (「述して曰く。即ち是れ別して答す、後に理を以て答す。初に教を以て答す。瑜伽五十六卷にも亦此の経を引いて経部等を破す。大小共許なり。即ち阿含経なり。前者はまた起盡経ともいうなり。これはこれ初の経なり。何故にこれが中にただ四のみを説くとならば、触を依とするを挙げたり。前の第三に云うが如し。瑜伽には何故にただ触は受、想、思の三法がために依となると説けるや。蘊として勝れたるを挙げるが故にといえり。即ちこれは触が三蘊を生ずるなり。且く作意をかくして説かざることは、即ち行蘊に摂するが故なり。
 若し爾らば、何の義の故に、作意も必ず有りと知るや。」)

 この科段は、大小乗共許の経典である『雑阿含経』を引用して証明の論拠としています。
 「触等は、四つ(触・受・想・思)とも、遍行である」と証明しています。根・境・識三和合して触がある。そして触と倶生して、受と想と思とがある、と。『論』では作意を後に説いて触・受・想・思を前に説いているのは、この四つは三和合と関係しているので、まとめて述べているのです。「触は三和合するが故に能く摂受する。受は三和合するが故に能く領納する。想は三和合するが故に名想言説を施設し、所縁を仮合して取る。思は三和合するが故に心をして造作せしめ、所縁の境に於いて随趣し希楽(けぎょう)する」、と説かれています。要するに根・境・識が和合するところに認識が成立する、と。

 「若し爾らば、何の義の故に、作意も必ず有りと知るや」(『述記』) 

 後半の作意が遍行であるということを証明するにあたり、このような問いが投げかけられているのです。

 「又、契経に説かく。若し根壊せず、境界現前するときは、作意正く起こって、方に能く識を生ずという」(『論』第五・二十七右)

 「契経に説かく」という経は中阿含経第七を指しています。『述記』によりますと、中阿含経所収の『像跡喩経』に、「若し、根が壊れず、境界が現れる時は、作意が正しく起こって、よく識が生ずる」という、ことが記述されてあり、作意は、識が生ずる時に必ず存在する心所である、このことによって、作意は遍行であることが証明されると述べています。

 その二の証明は『起盡経』を引用して作意が遍行であることの証明です。

 「余の経に復言わく、若し此れが於に作意するときに、即ち此れが於に了別す。若し此れが於に了別するときに、即ち此れが於に作意す、是の故に此の二は恒に共に和合す。乃至広く説けり。此れに由って作意も亦是れ遍行なり」(『論』第五・二十七二右)

 また他の経にも、説かれている。「もし、此れ(認識対象を指す)に対し、作意する時には、認識対象に対して了別する。もし認識対象に対して、了別する時には、認識対象に対して作意する。この故に此の了別と作意は恒に共に和合する」そしてこのことは広く説かれている。此の理由に由って作意も遍行であるということがわかるというものです。

 「経にまた説くが故に、起尽経なり。前の第三巻、第八の遍行のうちに引くがごとし。顕揚論巻第一にも経を引いて、つねに共に和合す等といえり。および(瑜伽論)五十五にもまた四の無色の蘊は恒に和合す等といえり。即ち諸の経論は相乖返せず。相離せず相応するが故に和合と名づく。故に知る。(作意もまた遍行なり)ということを」(『述記』)

 『瑜伽論』五十五には、識が生ずる時、どのような遍行とともに起こるのか、という問いに答えて、それは作意・触・受・想・思である、と。そして不遍行の心法は(多種あるけれども、勝れたものとして)欲・勝解・念・三摩地(定)・慧の五である。

 作意(さい)とは能く心を引発する法であり、所縁に於いて心を引くを本質としている。私の関心事に心が引かれるのですね。いろんなことに触れるわけですが、私の認識は私が興味のあること、関心のあることにしか心が引かれません。触れたものすべてに心が引かれるとはいえません。作意が働くところに、同時に自我意識である末那識が働いているのです。作意と触の関係は触があって作意が働くのか、作意が先で触が機能するのかは難しい問題を残していますが、『瑜伽論』五十五では作意が先に説かれています。

 『論』では作意を後に説いて触・受・想・思を前に説いているのは、この四つは三和合と関係しているので、まとめて述べているのです。触は三和合するが故に能く摂受する。受は三和合するが故に能く領納する。想は三和合するが故に名想言説を施設し、所縁を仮合して取る。思は三和合するが故に心をして造作せしめ、所縁の境に於いて随趣し希楽(けぎょう)する、と説かれています。
 先にも述べましたが、私の認識する対象は多様なわけです。その中から瞬時に何を了別するかを選択しているのですね。それが作意になります。作意を働かしている原動力が第七末那識という自我意識です。ですから作意は自我意識の赴くままに自己関心事や興味のあることに、心を働かせるのです。警覚(きょうかく)の作用といわれます。心の働く時には必ず作意の心法は働いていると云う事になり、遍行であるということがわかるのです。
「作意は心を引いて自境に趣か令む。此れ若し無くんば、心も無かる応きが故に」(『論』第五・二十七左)
 作意は心を引いて(応に起すべき心の種を警覚(きょうかく・目覚めさせること)し境に趣か令むるが故に作意と名づく)自らが対象に働かせる心の働きである。もしこれがなかったならば、心もないことになる。このことからもわかるように、作意は心王が起こり活動するときには、必ず一緒になって活動する心の働きである。故に作意は遍行であることがわかる。『述記』には「種子なしというにあらず」と注意をされています。作意がなかったならば、「心も則ち起こらず」と。心の現行はなくなるけれども、種子まで無くなるのではないと云う事です。心の種子は存在するけれども、作意がそれを呼び覚まさなければ心の現行がないということになります。心・心所の種子を警覚するのは、作意の現行ではなく、作意の種子なのです。作意の種子がよく心・心所の種子を警して現行せしめ、自境に趣かせるわけです。従って心・心所が働くためには、作意は必然なわけですから、作意は遍行である、と。
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 昨日のFBより
 岩田さんが、お彼岸なのになんでシルバーweekとぼやいておられましたが、本当にそう思います。そんなことを思いつつ安田先生の著作を読んでいましたら、ほんまやなぁと思う箇所に出会いました。
 「・・・だからして、西田さんの宿は田中というところにありますが、あの、百万遍のちかくですわ。そこへ行くというと、外から見えるんですわ、西田さんの家が。と、二階の廊下を行ったり来たりする西田さんが。そういう人間の姿勢をとる場合に一番自然な形は逍遥するということじゃないかね。そういうことが言えると思う。
 仏教の方でもそういうことがあったんでしょう。
 だからして、それで遊行というような字があっあんだけども、長い散歩のことを遊行というんです。散歩的な旅行やね。これは商売の事件を片付けるというような旅行じゃない。だから今や、自動車が増えたり汽車が増えたり飛行機が増えたり、これは日本全体が商業が支配しとる。文化を。資本主義が支配しとるから忙しんだ。全部、経済が、あらゆる生活をですね、一貫しとる。それが日本の現状でしょう。だから、こんなようなところでは、ものは考えられやせん。宗教問題とか、そんなもの、飛行機に乗っとっては出て来ない。内面性というものが全く失われておるのが今の日本なんです。
 だから、遊行。仏陀の最後の旅行やね。それをあのう、その到着点を皆さん知っとられるように、クシナーラという所で入滅されたと。こういう具合に伝えられておりますわね。
 仏陀にはですね、摩訶迦葉とか舎利弗とかいろんな弟子があったけど、決して一つの道を二人で歩いちゃならんと。一つの道をですね。二人で行ってはならん、一人ずつ行けと。こういうのが仏陀の教えですわね。それで、インドでは雨期というもがありますから、それで安居というものがあってですね。
 形式的には日本にも安居があるけれども、向こうでは雨期というのが大変長い。乾燥地帯が全部、ガンジス河の水で埋もってしまう。普通の雨じゃないです。それだから外出できないんですね。それで、そういう時期を採用して一人一人が、散らばっとる仏弟子達が一ヶ所に集まるんですわね。それで安居というものが開かれてくる。その時に初めて皆な顔を合わせるわけです。ふだんは一人一人が別々の道を行っとる。ガヤガヤ騒いで旅行をしとる者は居らんのです。つまり、それは、個人の趣味だとか家族生活というものを捨てとる。そして、人類の為に法を語るということに、世の中に生きとる。自分の為に生きとりゃせんのです。自分に死んで法に生きとる。それだからして、そういう為に旅行しとるわけですわね。何か用事があって旅行しとるわけじゃない。それで遊行という字を付けるんですわね。遊ぶという字が付いていますが。・・・
 その最後の旅行記をまとめられたのをまとめたのが経典になっとる。『遊行経』です。最後のニルバーナ、涅槃に入られる時の経典ですから『涅槃経』と。『涅槃経』という名前も付いてとるけどもですね、『遊行経』という名前が付いとる。その最後の説法やね、その旅行の間に語られていったかというとですね、「法に依って他に依るな」と、それから「自己に依って他によるな」と。「法に依り、法を灯とせよ。他に依り、他を灯としてはならない」。それから、法と同時に我ということが言うてある。「我に依り我を灯をせよ。我以外のものを灯としてはならぬ」と。そいうことですね。法と自己との関係、こういうのが最後の旅行記の主題だ。そういう問題で旅行されたんでしょう。」
 この講義は1974年代のものです、今から30年ほど前のものですが、今でも瑞々しさをもって訴えてきますね。今ほど、仏教に我が身を聞く環境に身を置いている者にとって、「人類の為に法を語る」という姿勢が問われているのでは、と思いますね。
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初能変 第三 心所相応門(23) 作意の心所 (6)

2015-09-20 20:04:45 | 初能変 第三 心所相応門
  
 
 触・作意の二つを以て受・想・思の所依となるのは、意識は何かの意識であるのと同じ構造で、受(感情)・想(表象)・思(意志)は、触と作意をもとにして、何かについて生起してくるということなのですね。
 種子は可能性でしょう。可能性であっても、まだ現行していない格納庫に収まったままの状態ですね。そこに司令塔としての作意が発進せよと働きかける。そうしますと、触れているところに向かって発進していく。どこに行くかわからんと云うことはないのです。ちゃんと目的地は定まっているわけでしょう。心の種を警覚して、境の方に引っ張っていく。
 例えば、お彼岸の時節ですと、彼岸花が美しく咲き誇っています、これは彼岸花に触れて、彼岸花を認識したところに、触と作意の心所が働きかけて認識が起こったのですね。常に、何かについて働きかけているのが遍行の心所になります。
 心所も引起しているわけですが、心王の方が主でありますので、「心を引くとのみ」説かれているのです。心・心所も引き起こすわけですが、主をもって、主には随が付随しますから、「心いい是れ主たるが故に、但だ心を引きとのみ説けり」と釈しているのです。
 ここで作意の釈は終わりまして、次に異説(誤りの主張)を挙げて論破します。『述起』には「然るに」とし、異説があることを示して『論』が編纂されていることを明らかにしています。
 「然るに、『順正理』第十一巻を解して、謂く能く心をして異境に廻趣(えしゅ)せしむ、但だ此の境に住せるときは行相微隠(ぎょうそうみおん)なりと云えり。故に叙して云く、」(『述記』第三末・十三右)
 廻趣 ― めぐらしおもむかせること。
 『順正理』 ― 阿毘達磨順正理論』(あびだつまじゅんしょうりろん)、略して『順正理論』とは、衆賢(しゅげん)の著作とされる仏教論書。『俱舎雹論』(くしゃばくろん)とも。漢訳のみ現存し、大正蔵では第29巻毘曇部No.1562に収録。世親によって説一切有部の教理が批判的に書かれた『倶舎論』に対して、それに反論し、説一切有部の教理を擁護するために、12年を費やして書かれたとされる。世親が説一切有部にいたころの先輩にあたる方。
 二つ出されています。
 一つは、「心を異境に廻趣せしむ」
 もう一つは、「一境の於に心持して住せしむ」
 これが作意の働きであると主張している。これは間違いであると論破しますが、先ず二つの説を挙げ、後に論破します。
 異説
 「有るところには、心を異境に廻趣せしむと説く。」(『論』第三・二左) 
 心の対象を変えさせるのが作意の心所であると主張します。つまり、作意が心に働きかけて、対象を変えさせる、あっちだ、こっちだとですね。心をしてめぐらしおもむかせる働きを持つ。こういうことが『順正理論』に説かれているんだ、と。
 次は、『対法論』に、この主張は雑集師の説で、獅子覚の釈論を指すといっています。「集論初に説く、所縁の境に於て、心を持して住せしむ。故に論に叙して言う。」(『述記』)
 「或るところには、一境の於に心を持して住せしむが故に作意と名と云う。」(『論』第三・二左)
 一つのことに心を住せしむるように働きかけ、心がそのように向くようにするのが作意の心所であると云う。一境に心を集中せしめる、という解釈ですね。
 論破の主旨は、一つめに対しては、心を他の方に向けていくのだったら遍行の心所ではない。遍行は何もしなくても、ずっと起こっている。作意は心の種に常に働きかけているわけですから、「異境に廻趣せしむ」というのは遍行ではないということになります。
 「此の境に住せる時は、異境に廻趣すること無くなりぬるが故に。」(『述記』)
 此の境をAとし、Bという異境に移させるのが作意だとしますと、Aに縁じてている時は作意はないということになります。これは遍行ではありませんね。
 二つめに対しては、「一境に住せしむる」のであれば、これは定の心所であって、作意の心所ではないということになります。
 まとめて、
 「彼倶に理に非ず。遍行に非ず、定に異ならざるべきが故に。」(『論』第三・二左)
 「遍行に非ず」を以て、正理師を破し、「定に異ならざるべきが故に」を以て、雑集論師を破す。
 しかしながら、「正理師の説は、新たに起こる異縁の勝れたることに対して説かれたものであり、雑集論師の説は、修の中に定を得て勝れたる作意によって説かれたのである」と注意を喚起しています。