唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(21)

2020-03-29 09:40:01 | 唯識入門
 おはようございます。二週間ぶりの更新になります。ちょっと体調を崩しておりまして一週間飛びました。お許しください。
 今日は昨夜来からの雨で寒いですね。関東甲信越では平地でも雪模様になっています。お気をつけてください。
 そして新型コロナウイルスの猛威は止まりません。本音は、買い物以外の一週間程度の徹底した外出禁止と操業停止が必要なのかもしれません。そうなると、パニックが起こるでしょうね。そこまでしなくてもという批判も起こるでしょう。
 身近な接触、特に濃厚接触は避けたいですね。
 自分は大丈夫という妄想は通じませんよ。
 こんな時だからこそ、ゆっくりと自分を見つめなおす機会が与えられている未曽有の時が熟しているのですね。普段は、いそがしい、忙しいと自分を忘れて動き回っていますが、それが一つのウイルスで木っ端微塵に飛び去ってしますような、そんなちっぽけな自分を頼りにしていていいんですかね。
 四苦八苦という言葉を耳にしますが、この四苦八苦を頼りにして生きている存在が私なんです。それが迷いなんですね。
 いのちは、あなたと共に生き続けている。
 私のいのちは私が自由にできるものではない。
 あなたのお蔭で、私のいのちが保たれ、育まれ、そして輝くことが出来る。
 そんな関係性に生かされている私が、私を軸に生きることが迷いなんだと。
 大乗仏教は、空・無我と教えました。
 人間存在は、空・無我に迷っているのですね。護法菩薩は、「二空に迷・謬すること有る者に正解を生ぜしめん。」そして、「諸の有情を利楽せん。」という願いに立たれたのです。
 欲に生きるんでなしに、願いに生き得る存在になりたいですね。
 前置きが長くなりました。
   「超世の悲願きゝしより
     われらは生死の凡夫かは
     有漏(うろ)の穢身(えしん)はかはらねど
     こゝろは浄土にあそぶなり」(帖外和讃)
 横道にそれますが、新興宗教の折伏を考えて見たらよくわかります。先ず、病気治癒と貧苦からの解放が謳い文句です。外の世界を変えることによって、心が豊かになり、幸せになるという説得の仕方です。病気とか貧苦を冬に喩え、唱題を縁として「冬はやがて春になる」、春は幸福ということでしょう。この説得力にみんな参ってしまうのですね。病気が治癒し、貧苦から解放されたら幸せになりますよ。共に題目を唱えて病気と戦い、貧苦と戦いましょう、そして勝利しませんか、ということです。
 このような考え方を、慈恩大師は、「善の色を以て四蘊に望めて因と為し、四を色蘊に望めて亦因と為すことを得と云う」(『述記』)
 と、顛倒の考え方であると指摘されています。そして、
 「此れ即ち然らず、唯自果を引いて因果随順せり」何故ならば、「功能同じなるが故に、名づけて因縁と為す。」
 と。
 「唯自果を引いて因果随順せり。」なんですね。
 阿頼耶識の中の功能差別(「諸々の種子(人格形成の因)は阿頼耶識の中においてですね、親しく(直接に)自果(現在の結果をもたらす)を生ずる功能差別なり。」)がですね、これが種子であるということになります。ここは、阿頼耶識があって、阿頼耶識の中に種子が詰まっているということではなく、功能(能力)差別(さまざまな種子の区別)が阿頼耶識を形成していることになろうかと思います。
 またにします。
 

唯識入門(20)

2020-03-15 09:51:51 | 唯識入門
 おはようございます。新型コロナウイルスの影響で、講座や法要が相次いで中止、延期になっています。異常事態です。アメリカの研究チームは空気感染もあり得るという見解を示しました。どこにいても感染のリスクを負っていることになるのでしょうね。できるだけの予防をして感染しないように努めなければなりません。
 そして、産業界では七月以降の受注が激減すると予想を立てています。つまり、今は受注残をこなしているだけなのです。経済が逼塞状態にあるということです。倒産件数も増えるのでしょうね。それに伴い、失業者も増えます。お金が回らないというのは、息ができない状態です。
 私たちに突き付けられた問題、問いかけは非常に深いものがあります。
 今日も、ネット学習は粛々として進めてまいりたいと思います。
 前回よりのつづきになります。今回は因縁果の、「縁」について考えます。縁とは条件です。条件が整って果が生じてきます。自らの因と、自らが引き寄せてきた条件が和合(わごう)して、現在が結果として動いているのです。
 ここをしっかり問い詰めておかないと、自己を問うということが成り立ちません。自己に遇うことが永遠に不可能になってしまいます。現在はここを問いかけているのですね。
 さまざまな縁が合することを待って現行する。因が果に成るためには縁を待つわけです。縁生です。縁によって生じてきます。縁は一つではありませんから、衆縁(しゅえん)を待つ、と云われています。衆縁を待って現行し、現行したものは種子として蓄積されていくわけです。種子が現行する為には、衆縁を待たなければならないのですが、現行しているということは種子が縁に触れて顕れているのでしょう、それが待衆縁(たいしゅえん)であり、種子である、ということなのですね。
 慈恩大師の釈はすばらしいです。
 「謂く、自らの種子なれども要(かな)ず衆縁和合(しゅえんわごう)せるを待って、種子転変(しゅうじてんへん)して現行等の諸果を起取(きしゅ)す。作用功能殊勝(さゆうくうのうしゅしょう)なるが方(まさ)に種子を成ず、故に種の自類の因縁合するに非ざるをば種子と名づけず。」(『述記』)
 他から持ってきたものは種子とはならないと。自らの目を開きなさいということを教えられたのですね。
 一つは、衆縁を待たないで、自然に生じてくるという、因縁生を否定した論理です。
 もう一つは、衆縁を待たないで、自然に生じてくるという、因縁生を否定した論理です。
 宮城先生は、
 「一切は 縁において生まれ 縁においてあり 縁において去っていく」(宮城 顗)
 と、教えられました。
 種子は衆縁を待って現行し、衆縁において熏習される、種子生現行・現行熏種子が成立つのは、待衆縁に依る。非常に大事なことを教えています。これが聞熏習につながってくるのですね。聞が縁となる、ということです。教法が生きて働いてくる時に縁となるのが聞なのですね。聞なくしては、教法は現実には働いてこないのです。
 今日はここまでにしておきます。

唯識入門(19)

2020-03-08 10:27:57 | 唯識入門
 
 おはようございます。あいにくのお天気ですね。前回よりのつづきになります。 
 直接的な原因と間接的な原因によって現在の自分が存在しているのですが、因の力とは、自分が溜めた力をいいます。因の力に随って善悪等を生ずると説明されます。生ずることが決定されているんだ、と。善の因は善として、悪の因は悪として、阿頼耶識の中に種子として溜められる。此の方程式が恒相続されていくのです。これが因縁なのですね。「親しく自果を生ずる功能差別」と云われている所以です。
 これは、前に熏習した時の現行の因の力に随って、善悪等を生起するは決定していることを表しています。因と果は雑乱しないということですね。果は異熟果(いじゅくか)として、時熟(じじゅく)、時が熟して現在しているわけです。ですから、現在の果は善悪というレッテルを貼り付けないのです。
 異熟果は、因善悪果是無記(因は善か悪であるけれども、結果としての現在は無記である。)と押さえられています。果は増上縁だと。果無記ですから、因縁ではないのです。善悪業の果は無記であるというのは増上縁であるということなんです。しかし、果無記の上に瞬時に善悪業が色づけされていくのですね。でも果は無記である、と。
 これはね、いつでも自身に出会っている自分が問われ続けられていることなんでしょう。
 自分の業果が今の自分を造り出してきたというのは疑いのない所でありますが、この果はどのような方向にも向いているのですね。善業は善業として相続し、悪業は悪業として相続していくのですが、果は無記である。純粋経験として、ここに転依(てんね・依り処が変わる)という世界が開かれてくる。
 狭い世界から、広い世界へ。転依すれば、広い世界から呼び続けられていた自己発見があるわけでしょうね。
 具体的には、家庭の問題を考えて見ますと、どうしても愚痴が出ますね。自分は一生懸命にやっているが認めてもらえない。どうにも面白くない、ということが日常茶飯事に起こってきます。
 時には、自分の行為を棚上げにして、あんたが悪い、こうなったのは自分の責任かもしれんが、そこをきっちりとホロ-をしてくれるのがあんたの役目だろう、それを放棄してしまったら、瓦礫が崩れるように倒壊してしまう。あんたよう考えや、と。本末転倒やけどね。
 このような行為が自分を作りだしているのですね。
 ここに二つの方向性が見いだせます。一つは愚痴をいって他を責めつづけるのか、もう一つは愚痴を縁として、今の環境を作りだしてきたのは自分であるということ。逆境を縁として自己を問うこと。増上縁としてですね。
 私をないがしろにしているのは私である。そんな貴方に出遇ってくださいと、
 すべては私が私自身に会う為の計らいであった。自尊心を傷つけられて怒りが立つのは当然のことなんですが、そこには深い意味があるんですね。
 頑なな心が崩壊する音を聞くんですね。どこまでも、どこまでも手を合わせられない自分に出遇っていくことが大切なことだと思います。
 私はね、手を合わせられないけれど、私に手を合わせてくれている働きのあることを、それをご縁というのでしょうね。合掌

唯識入門(18)

2020-03-01 11:00:19 | 『成唯識論』は何を教えているのか。

 おはようございます。今回より熏習(くんじゅう)についてですが、阿頼耶識に熏習されることを意味します。つまり、身・口(語)・意の三業の種子が人間の心の要である阿頼耶識に植え付けていく、阿頼耶識からは植え付けられていくことになります。
 これを、現行熏種子(げんぎょうくんしゅうじ)といっています。阿頼耶識は、「The store-consciousness」と訳されていますが、storeは倉庫・貯蔵所・con-scious-nessは知覚としての意識になります。つまり、現実の私の行動のすべてが貯蔵所としての阿頼耶識に収められることになります。この収められたのが種子ですから、この一瞬に何を熏習させるのかが問われているのですね。
 過去は取り戻すことはできませんが、過去を受け止め、未来を開いていくのは、この一瞬の行動が決定権を握っているといえましょうね。それによって、過去のすべてが意味あるものとして頷けるのではないでしょうか。
 それでは、『成唯識論』から、熏習について学びます。
  熏習とは何か。『論』には、
 「何等の義に依ってか熏習の名を立つるや。所熏(しょくん)と能熏(のうくん)と各四義を具して種(しゅう)を生長(しょうちょう)せ令るが故に熏習と名く。」と。
 どのような理由から熏習という名を立てるのか。それは所熏と能熏に各々四義を備えて種子を生(新熏種子)・長(本有種子)するが故に熏習と名づけるのですね。
 一は所熏
 二は能熏
 三は種をして生・長せしめるが故に熏習と名づける。 
種子の六義の最後に引自果(いんじか)の意味が説明されていますが、色(しき)は色という自己の種子を熏し、生じるときも同じ自己の色の種子から生じ、心は心という自己の種子を熏じ、生じるときも同じ自己の心の種子から生じる。けっして色から心が生じたり、心から色が生じるということはないのです。
 よって因果の道理に錯乱はないことが証明されます。これを受けて、熏習に所熏の四つの性質と、能熏の四つの性質を明らかにしたのです。ようするに、熏習されるもの(所熏)と熏習するもの(能熏)とに分けて説明し、所熏になりえるものと、能熏になりえるものの特質を述べているのですね。
 所熏の四義は『摂大乗論)(しょうだいじょうろん)』にも説かれているのですが、能熏の四義は『成唯識論』独自の解釈になり、『摂論』を受けて『成論』が成立し、『成論』の背景に『摂論』があることがわかります。所熏の四義を備えたものが阿頼耶識なのですね。阿頼耶識を立てて初めて人間存在が立てられるのですが、これは唯識以前の仏教が六識で考えられていたと云う背景があります。それは意識の根拠、即ち意根の存在証明が不十分であるということなのです。眼識は眼根を所依とし、乃至身識は身根を所依とするわけですが、第六意識の所依は意根であるというわけです。意根は前滅の識を所依として成り立つと説明されるのですが、経験の積み重ね(種子)はどこに収まるのかの説明がつかないのです。無始以来の一切の経験が蓄積されている場所の説明ですね、表層の意識の奥深い所、深層に人間の非常に深い心があるのではないのかという眼差しが阿頼耶識を見出してきたのですね。そして阿頼耶識が阿頼耶識と名づけられるのは一切種においてであり、阿頼耶識はまた一切種識と呼ばれる所以なのですね。
 無始以来(曠劫以来といってもいいでしょう)の一切の経験の蓄積されている場所はどこにあるのか。これが所熏の四義になります。六識が六識が成り立っているのではなく、六識の行為を残し、蓄積していく場所があって、はじめて六識が生きて働いているのであることを明らかにしてきたのが大乗仏教であり、とりわけ唯識仏教であるわけです。
 ここからが唯識worldが始まります。また。