「問う、如(いま)諦理等を疑するに豈印持有らん耶。」(『述記』)
(問う、いま四諦の理等を疑うような場合にどうして邪勝解の働きがあろうか。)
この問に対しての十遍染師の答えが本科段になります。
「諸の理を疑うときには色等の事の於には必ず猶予すること無し。故に疑と相応して亦勝解有り。」(『論』第四・三十四左)
(諸々の理を疑う時には色等の事に対し必ず猶予することがない。よって疑と相応してまた勝解が存在する。)
- 猶予(猶預) - 疑い。疑惑のこと。
十遍染師は疑の煩悩に対して、疑は理のみを猶予(疑う)する煩悩であると主張します。従って事に対しては猶予することがない。邪勝解は事を認識し決定(印持)する随煩悩であるので、疑と相応して邪勝解が存在するというのである。(護法は疑の煩悩は理と事を疑うとする。)
この十遍染師の疑における理と事については「一心に事・理の二境を縁ず」るのであり、「理の於に疑うべきは事の於には必ず印せり。独り理のみを縁じて事の於に印せざることは有ること無きが故に」と。理に対し疑う時にも事に対して印持していると述べています。所縁は同一であるけれども行相は別であると。事と理とは相依関係から述べられているのです。「事と理と別なりと雖も然れども必ず相依す。」(『演秘』)と。また「疑と勝解と倶時に生ずれども、境に理・事有りて、疑は理を縁じ、勝解は事を縁ず」と述べ、疑も邪勝解も同じ体を認識していると会通します。