唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・善の心所 ・三善根について (6)

2013-06-30 17:21:00 | 心の構造について

 昨日の『述記』の記述をもう一度読みます。

 「述して曰く。此れ総じて二を解す。其の諸の善心は随って何れの境を縁ずるや。一々の心の中、皆な着すること無く、恚ること無きは、此れは是れ功能なり。貪とは有と有具とに対し、瞋をば苦と苦具とに対して、二の別相を立つ。観とは謂く観待なり。慚と愧と、自と他とに観待するが如く、要ずしも無貪が有と有具とを縁じ、無瞋は苦と苦具とを縁ずるに非ず、故に善心に遍ぜり。慚と愧との如く説く。貪は三界に通じて発業し潤生す。総じて有と有具と説く。瞋はただ欲界のみに発業の力勝れたり。故に苦と苦具とに於いてと云う。然るに『対法』(巻一)は此れと同なり。『顕揚』(巻一)は瞋を但だ有情の重き処に約して論を為す。今能除の法は並に三界に通ず。
 下は無癡を解す。二有り、初に略、後に広なり。」

 『論』の文章は、無貪と無瞋の二の心所をまとめて説明しているのである。この二の善心はいかなる対象を認識しているのか、という問いが出されています。無貪と無瞋の行相は、有・有具・苦・苦具に対して執着することなく、怒ることもない働きを(行相見分)もつのであるが、この無執着・無恚は無貪・無瞋の功能であると押さえています。貪は有・有具、無瞋は苦・苦具とに対して生起する縁となるものである、と先ずその行相を明らかにして、問いが出されています。

 「有等に観ちて立つ」という意義があるのである、と。「観」は「観待」であると『述記』は説明していますが、『仏教語大辞典』には「他のものに依存すること。語源が「みる」という意味なので、観という字をつけて用いる。」と説明されています。「依存すること」をこの文章にあてはめてみますと、「無貪が有・有具、無瞋は苦・苦具を縁じ、これらに依存して存在している。」が、「慚と愧と、自と他とに観待するが如く」(前の慚と愧は自と他、即ち、法に対し、世間の法に対して立てられているのと同じであるが、必ずしも、これらに依存して立てられているものでもないのである、と。これらの主張は、善心には遍く無貪と無瞋の心所が存在しているのであると明らかにしているのですね。

 そして、貪は三界に遍じて、発業潤生(ほつごうじゅんしょう)する、発業と潤生という煩悩の二つの働きなのですが、行為を起こすこと(煩悩が原因となって発業が結果する)、結果した業が生存を潤す。「有情を縛して生死に処せしむ」といわれています。貪(三界に生存する有と、有をもたらす因である有具とに執着(耽着ともいいます)すること)で、無貪を障げ苦をもたらす働きがあるのですね。瞋は欲界のみに存在するといわれています。

 この瞋はですね、有情瞋と境界瞋と見瞋という三つの働きが有るといわれているのですね。他者に対する怒り、環境や事物に対する怒り、見解への怒りであるのです。総じては怒り、憎しみという心所なのですが、別しては、心にかなわない対象を憎悪し、自己の情に違背する事物に対して憎しみ憤り、心身を平安ならしめない心作用なのです。『二巻鈔』には「瞋ハ我ニ背ク事アレバ善事ニテモ必ズ怒ル心也」と述べられてあります。

 私は、ここに大切なメッセージが込められているように思うのです。瞋という怒りの心作用は「心にかなわない」或は「自己の情に違背する」ということに憤慨するということをいわれていますが、私たちが社会に対して憤慨するという時に、何を所依としているのかということなのですね。ここに釈尊の遺言を思い出します。「法を島(灯)とし、自を島(灯)とせよ」という、法を灯としてというのは、聞法です。聞法と社会生活は同じ土俵であるということを肝に命じなければなりませんね。

 無貪と無瞋の心所の説明は一応おわり、次に無癡の心所について説明します。

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第三能変 ・善の心所 ・三善根について (5)

2013-06-29 23:14:04 | 心の構造について

 「総じて二(無貪・無瞋)を解す。」

 「善心の起る時には随って何れの境を縁じても、皆な有等の於に著すること無く、恚(いか)ること無し、有等に観(まち)て立つ、要ず彼のみを縁ずるものにしも非ず。前の慚と愧とを善と悪とに観て立るが如し。故に此の二種は倶に善心に遍ぜり。」(『論』第六・四右)

 善心が起こる時(生起する時)には、随って(善心が)何れの(どのような)境(対象)を縁(認識)しても、皆(すべて)有等(有・有具・苦・苦具)の於(うえ)に、有等に対して著(執着)すること無く、恚(怒)ることもないのである。無貪と無瞋は有等に観(観待(かんたい)ーあることを縁とする)して立てるものではあるが、要(必ずしも)彼(有等)のみを縁じるわけではない。その訳は、前の慚と愧とを善と悪とに観(観待)して立てているようなものである。故に(このために)、この二種(無貪と無瞋)は、倶に(ともに)善心(善の心)に遍ぜり(遍く存在しているのである)。

 要点は、善の心には無貪と無瞋が遍く存在し、どのような対象を認識しても執着を起こすことなく、また怒ることもないという働きがある、ということ。

 無貪 - (行相=見分)は、「執着することがない」

 無瞋 - (行相=見分)は、「怒ることがない」

 『述記』には「一々の心の中皆着すること無く、恚ること無きは、此は是れ功能なり。」

 「論。善心起時至倶遍善心 述曰。此總解二。其諸善心隨縁何境。一一心中皆無著無恚。此是功能。貪對有・有具。瞋對苦・苦具。立二別相。觀謂觀待。如慚與愧觀待自・他。非要無貪縁有・有具。無瞋縁苦・苦具。故遍善心。如慚・愧説。貪通三界發業。潤生。總説有・有具。瞋唯欲界發業力勝。故云於苦・苦具。然對法與此同。顯揚瞋但約有情重處爲論。今能除法並通三界 下解無癡有二。初略。後廣。」(『述記』第六本下・十三左。大正43・436b)

 (「述して曰く。此れ総じて二を解す。其の諸の善心は随って何れの境を縁ずるや。一々の心の中、皆な着すること無く、恚ること無きは、此れは是れ功能なり。貪とは有と有具とに対し、瞋をば苦と苦具とに対して、二の別相を立つ。観とは謂く観待なり。慚と愧と、自と他とに観待するが如く、要ずしも無貪が有と有具とを縁じ、無瞋は苦と苦具とを縁ずるに非ず、故に善心に遍ぜり。慚と愧との如く説く。貪は三界に通じて発業し潤生す。総じて有と有具と説く。瞋はただ欲界のみに発業の力勝れたり。故に苦と苦具とに於いてと云う。然るに『対法』(巻一)は此れと同なり。『顕揚』(巻一)は瞋を但だ有情の重き処に約して論を為す。今能除の法は並に三界に通ず。
 下は無癡を解す。二有り、初に略、後に広なり。」)

 明日は、『述記』の所論について考究します。

 

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第三能変 ・善の心所 ・三善根について (4)

2013-06-27 21:16:58 | 心の構造について

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YouTube: これでいいの~かな?0623OA

 「写興」を見させていただいて、「あ」っと思う場面が多々ありました。日頃からよく注意をして観察されているなぁと思い感心させられました。河野さん、頑張っておられますね、これからもますますの情報発信よろしくお願いします。

          ―      ・      ―

 「無瞋」の心所につて、補足します。親鸞聖人は『信巻』・現生十種の益釈において、信心に賜る利益を述べておいでになります。

 「しかれば、願成就の一念は、すなわちこれ専心なり。専心すなわちこれ深心なり。深心すなわちこれ深信なり。深信すなわちこれ堅固深信なり。堅固深信すなわちこれ決定心なり。決定心すなわちこれ無上上心なり。無上上心すなわちこれ真心なり。真心すなわちこれ相続心なり。相続心すなわちこれ淳心なり。淳心すなわちこれ憶念なり。憶念すなわちこれ真実一心なり。真実一心すなわちこれ大慶喜心なり。大慶喜心すなわちこれ真実信心なり。真実信心すなわちこれ金剛心なり。金剛心すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心すなわちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなわちこれ大菩提心なり。この心すなわちこれ大慈悲心なり。」(『信巻』真聖p241)

 信心とは、淳心・一心・相続心であることを道綽禅師は明らかにされていますが、慈悲とは衆生の苦を抜き、楽を与える、抜苦与楽ですね。これが如来廻向の利益であると明らかにされたのですね。この慈悲が、無瞋と関わっているのです。即ち、無瞋は瞋を対治する心所ですが、瞋の分位仮立である、忿・恨・悩・嫉・害・放逸を対治する働きがあるのですね。無瞋は慈の体であり与楽であるといわれ、楽を与えることに於いて苦を抜く、抜苦ですが、これが悲の体といわれているのです。

 「イカル心なきなり」という無瞋の心所は、法蔵菩薩の御修行を思い起こさせます。

 「不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起こさず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして、染・恚・痴なし。三昧常寂にして、智慧無碍なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして、志願倦むことなし。専ら清白の法を求めて、もって群生を恵利しき。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもって衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。空・無相・無願の法に住して、作なく起なし。法は化のごとしと観ず。麁言の自害と害彼と彼此倶に害するを遠離して、善語の自利・利人と人我兼利するを修習しき。国を棄て王を捐てて、財色を絶ち去け、自ら六波羅蜜を行じ、人を教えて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ねてその生処に随いて意の所欲にあり。無量の宝蔵、自然に発応す。無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。」(『大無量寿経』巻上。真聖p027)

 無瞋の心所を通して、瞋の心所の働きしかない我が身の愚かさに気付かされるのです。瞋恚という、怒りしかない心と一体となつて、無瞋の働きは流転しているのですね、そのご苦労は私と共に、私に願をかけて目覚めを促しているのではないでしょうか、そのように思えてなりません。   (つづく)

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第三能変 ・善の心所 ・三善根について (3)

2013-06-26 21:44:09 | 心の構造について

 無貪について (2)

 「無貪ノ心所ハ、万ヅノ事ヲムサボル事ノ無き心ナリ。」(『二巻鈔』)

 意味としては、「万ヅノ事ヲムサボル事ノ無き心」・無貪という心が生ずることに於て貪る心がなくなるということなのです。「無き心」ということですから、貪が無くなって無貪ということではないのですね。ありとあらゆるものに対して執着を起こさない、執着しないことを性とする心所であると説明されています。

 「論。云何無貪至作善爲業 述曰。下別釋有二。初解無貪瞋。後解無癡。初中又二。初別解二。後總解之。有謂三有之果。有具即能生三有之因。相順之因唯是有漏。爲縁之因亦取涅槃。能發貪等故亦是具。中有・業・惑皆是業具。無著爲性。惡行不起故善能作」(『述記』第六本下・十三右。大正4・436a~b)

 (「述して曰く。下は別して釈するに二有り。初に無貪瞋を解す。後に無癡を解す。初の中に又二あり。初に別して二を解し、後に総じて之を解す。「有」とは謂く三有の果、有具とは即ち能く三有を生ずるの因なり。相順するの因は唯だ是れ有漏なり。縁と為るの因は亦た涅槃を取る、能く貪等を発するが故に、亦た是れ具なり。中有と業と惑とは皆な是れ業(私に云く、業の字は有の誤りか)の具なり。着すること無きを性と為す。悪行を起さざる故に善を能く作す。」)

 次に、無瞋の心所についてです。

 「云何なるが無瞋なり。苦と苦具との於に恚無きを以て性と為し、瞋恚を対治し善を作すを以て業と為す。」(『論』第六・四右)

 どのようなものが無瞋の心所であるのか。

 無瞋とは、苦(苦苦・壊苦・行苦の三苦を指す)と苦具(苦を生ずる因)とに対して、恚(怒り)が無いことを以て性とし、瞋恚を対治して、善を行うことを以て業とする心所である。

 教えられることは、「我に背く事有れどもイカル心なきなり」と説かれている『二巻鈔』のお言葉です。

 「無瞋ノ心所ハ、我ニ背ク事アレドモイカル心ナキナリ」

 苦具も、無貪の心所で説明されていましたように、すべてのことに対して怒らないことを本質とする心所なのです。「滅諦涅槃亦た是れ苦具なり」といわれています。自分の心にかなわないもの、それが苦を生ずる因となるということなのです。

 聞法も、憧れの浄土を夢みていますと、それは叶わない、はかない夢で徒労に終始するわけですね、そうしますとね、自分の思いにそぐわないものですから、自分の意に反するということで苦を生ずるわけです。無瞋とはこのような時に於いても怒りを生じないという心所なのです。

「論。云何無瞋至作善爲業 述曰。苦謂三苦。苦具即彼能生苦者一切皆是。准無貪中。滅諦涅槃亦是苦具。違理生故。」(『述記』第六本下・十三左。大正43・436b)

 (「述して曰く。苦とは謂く三苦なり。苦具とは即ち彼の能く苦を生ずる者の一切皆な是れなり。無貪の中に准ずるに、滅諦涅槃も亦た是れ苦具なり、理に違して生ずるが故に。」) 

 では瞋とはどのような心所なのでしょうか。根本煩悩の所で詳細をみていきますが、簡単に説明しますと、「苦と苦具とに於いて」 瞋という煩悩が起きるのだと言われているのです。苦は四苦八苦といわれますように、今の自分が壊れるのではという不安からくる苦ですね。(壊苦)。それから暑いとか寒いといいますね、それが苦になるのです(苦苦)。それから行苦です。自分が常にあるという思いがありますが、本来は無常・無我ですね。そのギャップに苦しむのだと言われているのです。この三苦を苦といわれるのです。苦具は苦に備わったもの、苦を生んでくるすべてですね。それが心を激しく乱すわけです。怨みですとか、嫉妬ですね。これ等が激しく心を乱し怒りを生んでくるのです。「一切能生活者」といっていますね。性は「憎恚」するといわれます。憎み怒るということです。怒るということはもう鬼の形相ですね。相手を睨みつけて、威嚇していますね。怒ったときを想像してみますと、眼を見開いて睨みつけていますでしょう。この心を瞋というのです。そして根に持つということがありますね。いつまでもですね。これを恚というのです。『成唯識論』には「苦・苦具とに於いて、憎恚するを以って性と為し。能く無瞋を障へて、不安と悪業との所依たるを以って業と為す。謂く瞋は必ず身・心をして熱悩して諸の悪業を起さ令む。不善の性なるが故に」と教えています。

 

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第三能変 ・善の心所 ・三善根について (2)

2013-06-25 22:41:50 | 心の構造について

 無貪について

 「云何なるか無貪なる。有と有具との於に著すること無きを以て性と為し、貪著を対治し善を作すを以て業と為す。」(『論』第六・四右)

 どのようなものを無貪の心所というのであろうか。無貪とは有(三界の果)と有具(三界の因)に対して、執着することが無いということを性(本質)と為し、貪著を対治することを業とする心所である。

 生命的存在を「有」と言い表しています。例えば、三有生死(三界の苦果)という言いかたもされます。生命的存在とは、生命を与えられたという異熟果です。これは異熟果として迷いの生命を与えられたということなのです。人とは、人として生命を与えられてきたという所に、迷いの生存を翻じて仏果に向かべく命が与えられているということなのでしょうね。人として生まれたということが、倶生起の我執・法執とともに生み出されてきたということなのですね。そして、人して命を授かったということが仏果を得る千載一遇の機会として与えられているということなのです。

 論の表現では、異熟果は過去の善悪業の結果として(生命的存在が)現行しているということになるのでしょう。現行が異熟因として未来を孕んでいる、因に聞法が聞思を生み、積集し、浄土への方向性を与えてくるのですね。

 有具は、有を資助する因となるものです。三界の果を生じる因ですね。中有・煩悩・業・器世間などです。仏に成ろうとする意欲も、仏に愛着を起こしているところから貪欲といわれ、無漏なるものも有具といわれているのです。

 従って、無貪とは、三界に輪廻する因及び涅槃・仏というありとあらゆるものに執着を起こさないということを本質としている働きをいう心所なのです。無貪が能対治として貪を対治する働きをもつのです。   (つづく)

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第三能変 ・善の心所 ・三善根について (1)

2013-06-23 19:13:53 | 心の構造について
第三能変 善の心所にもどります。『倶舎論』の考究は、ただいま熟考中ですので、今月は休ませていただきます。
三は、無貪・無瞋・無癡の三善根について
「無貪等とは、無瞋・癡を等ず。此の三を根と名くことは、善を生ずること勝れたるが故に、三不善根を近く対治するが故なり。」(『論』第六・三左)
 本頌(第十一頌第二句)に述べられている善の心所の三善根を釈します。
 「無貪等」とは、無瞋・無癡を等取している。この三つを根と名づけるのは、善を生じることが勝れているからである、又三不善根を近く対治するからである。
    三善根(能対治) → 三不善根(所対治)
    無貪 → 貪
    無瞋 → 瞋   } 別対治。或は近対治
    無癡 → 癡                           (ごんたいち)
「論。無貪等者至近對治故 述曰。下文有二。初總。後別。總中又二。初牒頌顯。後釋善根。頌中所云無貪等三根。等者等取無瞋・無癡。釋根名者。生善勝故。有何勝也。三不善根正相翻對。近別對治故。此遠總對治。即正見也。非別治故。然准此下文。三不善根。由三義故。一六識相應。二正煩惱攝。此二簡諸一切心所非不善根。三起惡勝故。正釋根義。其此三法正對翻彼名爲善根。今准此文。善根由二義。一三不善根近對治故。簡餘一切善心所等不名善根。非不善根近對治故。二生善勝故。正釋根義。餘論無此。如文可解。」(『述記』第六本下・十二左。大正43・436a)
 (「述して曰く。下の文に二有り。初に總・後に別なり。別の中に又二あり。初に頌を牒し顕し、後に善根を釈す。頌の中に云う所の無貪等の三根と云う等とは、無瞋無癡を等取す。根の名を釈するは善を生ずること勝れたるが故に。何の勝れたること有りや。三不善根に正しく相い翻對して近く別に對治するが故に。此れを遠く総て對治するは即ち正見なり。別に治するに非る故に。然るにこの下の文に准ずれば、三不善根は三義に由るが故に、一に六識と相応す。二に正しく煩悩に摂む。此の二は諸の一切の心所の不善根に非ざるを簡ぶなり。三に悪を起こすこと勝れたるが故に、正しく根の義を釈す。其れ此の三法は正しく彼に對翻せり。名けて善根と為す。
 今此の文に准ずるに、善根は二義に由る。一に三不善根を近對治するが故に、余の一切の善の心所等をして善根と名けざるに簡ぶ。不善根の近對治に非ざるが故に。二に善を生ずること勝れたるが故に、正しく根の義を釈す。余の論には此れ無し。文の如く解すべし。)
 「無貪等」と述べられているのは、「無貪等の三根と云う等とは、無瞋無癡を等取す」ということ。そして三つまとめて述べられているのは、二つの理由に由る。一つは「根の名を釈するは善を生ずること勝れたるが故に」という、この三つがいずれも善をよく生じる根としての性をもつということ、二つには「三不善根に正しく相い翻對して近く別に對治するが故に」ということ。三善根が時間的に隔たりがなく三不善根を対治するということを明らかにしています。
 
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「唯識入門」第七回目講義概要 (2)

2013-06-21 22:56:17 | 唯識入門

 「故に契経(『般若経』の異本)に説かく、苾芻(びっしゅ=比丘)当に知るべし、世間の沙門と婆羅門との等に所有我見(あらゆるがけん)は、一切皆、五取蘊を縁じて起こると。」

 沙門 - 息悪(そくあく)の義。悪を息(止息)すること。沙門の語義の解釈に用いられる語。

 婆羅門 - 浄行(清浄な行為)の種(諸の浄行者は一切の染汚法の種子の所依を転捨す)。四姓の中の一姓。

 有らゆる我見 - 能執の見分

 起五取蘊 - 所計の境

 護法の説の正しいことを証明する為に引用されたもので、引證という。要するに、護法は、相・見の二分は、縁起生であり、依他起性で、有である。しかし、我執は、無常の五取蘊の相を縁じて、妄執を起こす、妄執の我は、遍計所執性ですから、全く無であることを証明する為に『般若経』(『大般波羅蜜多経』難信解品を指すといわれています)を引用しています。

 ここからが、問いと答えです。「実我若し無くば、」と。実我が無いと言うのであれば、という問いが三問出されます。最後に総結が述べられますから、四段に分けられて問答さえます。

 先ず、第一問答です。

 問い(外道の反論)。「実我若し無くば、云何ぞ憶と識と誦と習と恩と怨との等きの事有ることを得ん。」

 憶と識と誦と習と恩と怨はどこから出てくるのかと言う問いになります。憶は記憶していること、識は認識していること、誦は読誦、習は習い事、恩は報いること、怨は怨み事を晴らすこと、等々が成立しないのではないかというものです。

 答え(論主の問い質し)

 「所執の実我は既に常にして変無しといわば、」(あなたが執着している実我は、常のものでなくてはならない、変化しないというのであれば、変わらないものである。)

 「後のも前(さき)のが如く是の事有るに非ざるべし。前のも後のが如く是の事無きに非ざるべし。後のは前のと体別なること無きを以ての故に。」(変化しないのであれば、前と後とは同じである。それならば、あなたの問いは成り立たない。変化がないのであるから、記憶等は成り立たない。)

 外人が言う。

 「若し謂まく、我の用こそ前後に変易すれ、我の体に非ずといわば、理いい亦た然はあらず。」(「常」(変化しない)であるというのは、我の体について言うのであり、我の用は前後で変化する、我の体は変化しないが、我の用は変化するんだ、と。
 しかし、その道理は間違っている。)

 次は、外人の考えを、仏教の立場から反論します。

 「用は体を離れずというを以て、常に有なるべきが故に。体は用を離れずというを以て、常に非ざるべきが故に。」(用は体を離れず、というあなたの考えからいうならば、体が有なら用も恒に有でなければならない。体は用を離れないのだから、用即体で、用が変易するならば、体もまた変易し、常ではないはずである。

 論主の正義が述べられます。

 「然も諸の有情に各本識有りて、一類に相続して種子を任持す。一切法の與(ため)に更互に因と為りて熏習する力の故に、是の如きの憶・識等の事有ることを得。」(仏教は無我を説くけれども、有情それぞれに本識(第八識)があって、一類に(間断なく)相続して種子を任持(維持)している、種子が現行を生じ(種子生現行)、現行は種子を生み(現行熏種子)、互いに因となり、熏習する縁起の法として、憶・識等のことが成り立つのである。

 「故に設くる所の難は、汝に於て失有り。我が宗に於てするには非ず。」(このようなわけであるから、あなたの説く論難は、あなたの方に問題・過失があり、私の方に失はないのである、と。)

 第二問答は、業と果報について、第三問答は、実我がないのであれば、誰が生死に輪廻するのか、また、誰が倶を厭い涅槃を求めるのかという問答ですが、この問答は、第一問答同様の論理をもって、外人の問いを、仏教の立場から問い質し、論主もまた問い質し、後に正義を述べ、外人の問いを破斥します。

 第四は、総結です。

 「此に由て故知ぬ、定めて実我は無くして但だ諸識のみ有って、無始の時より来かた前の滅すれば後の生じつつ因果相続す。妄熏習に由て我の相に似て現ぜり。愚者いい中に於て妄執して我と為すということを。」

 以上の問答を通して知られるように、実我は定んで無いということを。ただ諸識(八識)のみが有って、無始の時よりこのかた、前後滅生して因果相続されている。一類相続の中で、第八識の見分が常・一に似ていることから、第七識は第八識の見分縁じ、第七識の相分上に妄熏習し、実我となしているに過ぎないのである。生命そのものが、常のものであり、いつまでも自分は有る、私は変わらないものであり、自分の思う通りに出来ると思っているわけです。本能ですね。「無始の時より来かた」という頷きが、妄執が本能であると同時に妄執を縁として菩提を得ることもまた本能なのでしょうね、妄執を縁としない限り菩提に求趣することはできないという構造をもっているのですね。

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「唯識入門」第七回目講義概要 (1)

2013-06-20 23:01:50 | 唯識入門

「唯識入門」第七回目講義概要 (1)

 前回は倶生起の我執まで考究しました。今回は分別起の我執について考究します。前回にも分別起について書き込みましたが、改めて補足をしながら、講義レジメを作成しました。ご指摘・御批判をいただければ学びの一助になると思いますので、よろしくお願いします。

 「分別起の我執について述べられます。倶生起に対して今度は分別起の我執についてです。
 倶生起の我執は、「身と倶」といわれていましたが、分別起の我執は「身と倶にしも非ず」といわれて、倶生に異なることを顕しています。
「要ず」以下は分別の義を顕しています。「分別」は、邪教の分別と邪思惟の分別という後天的な分別を待って起こる、これが分別起の我執である、と。
邪教とは、仏教以外の諸思想の説なのですが、どうでしょうか、仏教以外ですから、西洋の諸思想や古代ギリシャの思想も含まれますし、古代インドのバラモンの思想も当然含まれています。それて邪分別ですから、自我意識に色づけされた自分の考えですね、これを邪分別といわれています。大まかに言えば、無我ではなく、有我を立てた思想全般ということになります。次に、
「唯だ第六意識の中のみに有ること在り」と説かれています。
分別起の我執は、唯だ第六意識のみに存する有間断にして麤猛のものである、ということです。これは執の所在を明らかにしています。「間断なり、麤猛なり、故に此の執有り」と。(『述記』第一末・十五右)
そして第六意識以外の諸識は、浅であり、浅は前五識・第八識を指し、細(第七識)なり、及び相続(第八識)するから、横計(おうけ)という、間違って考えるという邪分別を起こすことは無い。邪分別は必ず間断し麤猛である。第八識は浅にして間ではない、前五識は間では有るが浅である。第七識は倶に無い、従って分別起この我執は第六意識のみに在る我執である。
「分別の我執は亦現在の外縁の力にも由るが故に、身と倶にしも非ず。要ず邪教と及び邪との分別を待って然して後に方に起こるが故に分別と名づく」分別の我執は、「亦」といわれていますように、虚妄熏習の内因力と、現在の外縁の力にも由るのである、と。内因力の種子と邪教等の外縁との二縁に由って生起するということなのです。分別は、邪教の分別と邪思分別(自分の考え)で、この二つが外縁力です。そして執の所在は第六識である。「間断なり麤猛なり」という。『述記』には「内縁には必ず籍る。兼ねては外縁にも籍る。故に外縁に於て亦の字を説く」と説明されています。内因とは、阿頼耶識の中の種子を内的な原因で内縁といい、それより他の外的な原因を外縁といいます。そして「内的な因(自の種子)と(現在の)外縁とより生じるが故に縁生と名づく」、因を縁起、果を縁生と分けられて説かれていますが、生まれるということは、自の業種子と父母を縁として生まれてきたということなのです。生まれながらにして外縁を待ってということが分別が起こるということは必然なのです。邪分別とは、まあ、自分が一番だという考え方ですね。なんでもかんでも、自分の都合によって利用していくという計らい。。これは無分別智を証していないから、邪教に騙されるわけです。その因は我執です。外に因があるわけではない。内に騙されるような因をもっておる。分別起の二種の我執について「此に亦二種あり。 一には邪教に説く所の蘊の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して、実我と為す。 二には邪教に説く所の我の相を縁じて、自心の相を起こし、分別し計度して、執して実我と為す」と二種の分別起の我執が述べられています。一は、即蘊の我、五蘊そのものが我であると分別し、計度して実の我であると執着しているのです。この我執を見て、自心の相を起こす。五蘊は仮に和合して身体を構成しているのですが、仮に和合しているものを固定化し、実体化して虚像を描いています。存在が存在そのものとして存在しているという執着です。我が五蘊に即するというのであれば、五蘊と同じく常・一ではないであろう、と。我とは常・一の義といわれていますから、五蘊もまた常・一でなければならないのです。しかし、五蘊は積集の性(仮和合)と言われていますから、無常です。無常をもって常・一の我とはいえないということで、即蘊の我を破斥します。。二は、離蘊の我です。五蘊を離れて独立して我が有るとする説。考えられた我ですね。考えられたものとして有る、それが我の相です。我の相を認識して、自心の相を起こす、自心の相は前回も述べましたが、自心は縁起に依って起こってくるのですが、それを自分が考えた相であると錯覚して、実の我と執着を起こし、苦悩を起こしてくるといわれています。
 又、五蘊に即するのでもなく、離れるのでもなく、というのであれば、我とはいえない、例えば「瓶等の如く」である。瓶等とは仮法ですから、仮法をもって我とすることはできない。故に彼が所執の実我は成ぜず、と。成り立たないと説かれていましたが、そのような自心の相を起こして、分別し計度して実我と執しているのが分別起の我執なのです。計度は簡単にいいますと、自分の損得勘定ですね、自分にとって、損か得かの判断を刀として分別していることなのです。しかし、この分別起の我執の行相は麤である、麤とはあらいこと、細という、微細のような目にみえないものではなく、麤猛という荒々しいものですから、断じ易いといわれます。見道に於いてその種子を断ずることが出来るのであると説かれています。「此の二の我執は麤なるが故に断じ易し。初の見道の時に、一切の法の生空真如を観じて、即ち能く徐滅す」と説かれています。麤というのは面白いですね。煩悩の心所には小随煩悩・中随煩悩・大随煩悩と三種に分けられているのですが、大はあらあらしい煩悩です、これは目に見えますから激しいのですね。しかし、荒々しいものほど対治しやすいといわれているのです。普通の感覚とはちょっと違いますが、大・中・小を引き起こしてくる背景がある、それが問題だというわけです。
私が生をうけるということは、内因と外縁に依るといわれています。内因とは、阿頼耶識の中の種子を内的な原因で内縁といい、それより他の外的な原因を外縁といいます。そして「内的な因(自の種子)と(現在の)外縁とより生じるが故に縁生と名づく」、因を縁起、果を縁生と分けられて説かれていますが、生まれるということは、自の業種子と父母を縁として生まれてきたということなのです。生まれながらにして外縁を持っているということが分別が起こるという必然なのです。
 次に、我執の所縁が述べられます。
 我執(倶生起・分別起の)は、何を所縁として、我と執しているのかとう問題です。答は、「無常の五取蘊の相を縁じて、妄って執して我と為す」ということだと。
 「自心の外蘊」は本質・疎所縁、第七識は、第八識の見分を執して、第七識の相分の上に我を立て(親所縁)、見分が我であると認識しているわけですから、心外であっても有る、直接見ているわけではないが、執せられた心外の法は本質があれば有である。本質がなければ無である。第七識の場合は、第八識の見分が本質ですから、有。ただ第六識の場合には、有もしくは無である。即蘊の場合は、五蘊は有為法ですから有です。離蘊は五蘊から離れてというのですから、五蘊を離れて存在は有りませんから、無です。「自心の内蘊」とは、親所縁・影像、これは、一切皆有である。即蘊・離蘊を問わず計度して我と執している者は、影像は必ず有る。我執は、無常の五蘊の相を縁じているわけです。無常の五蘊の相を、我の定義に云われていますように、常・一・主宰の我と妄執しているのですね。「識体転じて二分に似る」識体・相分・見分共に因縁所生の法ですから、我執が働いているのは内蘊の法ですから、一切皆有である。
 このように、我執は、「皆無常の五取蘊の相を縁じて、妄って執して我と為す」と、これは護法の立場からの説明です。安慧ではこのようないいかたはしません、こういうことにはならないのです。護法の言い方は、内蘊はすべて諸蘊であって、縁より生じていることになります。縁より生じたものは有であるが、妄所執の我は分別し計らってつくったものであるから有ではない、全く無である。例えば、縄蛇の喩でいうと、縄は縁生ですから有、蛇は妄執ですから無、というわけです。
 『述記』には「影像の相分は必ず是れ蘊なるが故に、相分を縁じて我と為す、・・・・・所縁縁を成ずうは必ず有法なるが故に。・・・内の相は依他縁生なるが故に有なり。外境は横計せるが故に定んで是れ無なり。」と。
 護法は、識体はもちろん、見分・相分ともに依他起性であり、この上に間違って執されたものを遍計所執性であるとする立場取ります。安慧は、識体のみが依他起性であって、その上に立てられた見分・相分は遍計所所執性であるという立場ですから、識体は有、見・相二分は無であるといいます。
 「無常の五取蘊」という表現は面白いですね。無我をいっているのですが、煩悩も無我だと。取は煩悩のことですから、煩悩でできた五蘊という意味ですね、これは無常である、我ではない、無我だと。そして諸蘊の相は、縁生ですが、相分上に現れたもの、親所縁ですから、幻の如く有る。無常の中での有、依他起なるが故に有であるわけです。それを妄って実と執するのが我執、これは無、遍計所執である。

 明日は(2)を追加します。

 尚、第七回目は、6月22日(土)午後三時より、聞成坊様を会所で行われます。

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第三能変 ・善の心所 慚と愧の心所について (17)

2013-06-18 22:21:11 | 心の構造について

 『論』と『涅槃経』『対法論』等の説明の相異について会通する科段になります。

 『論』の解釈

 「慚」は「自と法との力に依って賢と善とを崇重する。・・・謂く、自と法とを尊し貴する増上に依って、賢と善とを崇重し、過悪を羞恥し、・・・」

 「愧」は「世間の力に依って暴悪を軽拒する」

ものであると説かれているけれども、他の文献では、慚と愧を「自と他を顧みる」もの、即ち「慚」は自を顧みる、「愧」は他を顧みるものであると説かれているのは、『論』の説明と相違するのではないのかという問いかけです。それに対し護法の説明が、『述記』には、二通りの解釈をもって説かれています。

 第一の解釈は、「自と法とを自と名づけ、世間を他と名づく」と。「自と法」を自、「世間」を他と名づける、ということに於いて、同義であると会通しています。

 第二の解釈は、「自」とは、「賢善を崇重する」、「他」とは「暴悪を軽拒する」という意味であることにおいて、同義であると会通しています。

 即ち、「賢善を崇重する」ことは「自」を顧みることであり、自を利益することである。また、「暴悪を軽拒する」ことは「他」を顧みることである。他を顧みることに於いて、暴悪が自分を損うことを「他」と名づけるのであると。

 この護法の会通は、従来の解釈を踏襲しつつ、慚と愧の本質的な意味を鮮明にしているように思えます。この護法の解釈を通して『信巻』引用の『涅槃経』の意味を正してみるのも一考かなと思います。

 「王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、「二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。「慙」は自ら罪を作らず、「愧」は他を教えて作さしめず。「慙」は内に自ら羞恥す、「愧」は発露して人に向かう。「慙」は人に羞ず、「愧」は天に羞ず。これを「慙愧」と名づく。「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。(『真聖』p258)

 横道にそれますが、「慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。」と述べられていますが、慚愧心の背景に「信」の存在があるのですね。善の心所の順位は、「信・慚・愧・・・・」と、信を以て慚愧心が生れるのです。そして、慚愧心が、少欲知足・師長恭敬を生み、あらゆる人々と通じ合える世界を開いてくるのですね。

 「信を以て」といいましたが、逆には、私たちは「恥の文化」をもって育てられてきました。もともと持っている、恥じる心が、教えに向かわしめるということにもなります。恥じる心が、信に向かわしめ、信が「賢善を崇重し、・・・暴悪を軽拒する」羞恥心を開き、そこに涅槃に向かう道が開顕されることになるのでしょうね。「不断煩悩」(煩悩を断ぜずして)は慚愧心ですね。機の深信です。なんともならん地獄一定の身であるという恥じる心が、涅槃に向かわしめる道を開いてくるのでしょう、それを「得涅槃」(涅槃を得)といわれている意義だと思います。  「慚と愧の心所」の説明は一応終了します。次回は「無貪等の三(善)根」について学びます。

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第三能変 ・善の心所 慚と愧の心所について (16)

2013-06-17 23:10:26 | 心の構造について

 自他について説明する。

 「然も聖教に、自と他とを顧みると説けるは、自と法とを自と名け、世間を他と名く、或は即ち此が中に善と悪とを崇し拒すといえり、己を益し損するに於て自他と名くるが故に。」(『論』第六・三左)

 前半は、しかも聖教に自と他を顧みると説かれているのは、自と法とを自と名づけ、世間を他と名づけているのである。
 或は、『論』の中に、善を崇し、悪を拒むと説かれている。或は、損益に於いて自他と名づけているのは『論』の記述と同じ意味である。この科段は『述記』に二釈を以て答えています。

 「論。然諸聖教至名自他故 述曰。下解自・他。其中二釋。一自身及法名自。世間王法等名他。内外異故。又涅槃經・對法等。説此二別顧自他者。崇善是顧自義。拒惡名顧他義。所以者何。下通二義。於己益名自。於己損名他。故即會自他是二別相。正理論師云。羞現罪因名自。現屬身故。羞罪果名他。非現屬己故。今顯別彼也。」(『述記』第六本下・十二右。大正43・436a)

 (「述して曰く。下は自他を解す。其の中に二釈あり。
 一に、自身と及び法とを自と名づけ、世間の王法等を他と名づけ、内と外と異なる故に。
 又(二に)、涅槃経・対法等に、此の二が別なることを説くに、自と他を顧みるは、善を崇するは是れ自に顧みる義なり。悪を拒するは他を顧みる義に名づく。所以は何ん。下は二義を通す。己に於て益するを自と名づけ、己に於て損するを他と名づくるが故に。即ち自他は是れ二の別相なりと会す。正理論師(巻十)云く、現の罪の因を羞するを自と名づけ、現に身に属するが故に、罪の果を羞るをば他と名づく。現に己に属するに非ざるが故に。今は彼に別なることを顕すなり。

 この科段は、他の文献と『論』の記述とを会通します。

                            (つづく)

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