唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

仏陀 釈尊伝ー真宗カリキュラム資料1-に寄せて

2010-04-30 23:44:30 | 生きることの意味

 生きる事の意味を求めて、真宗カリキュラムのテキストとして昭和45年に東本願寺から出版されました『仏陀 釈尊伝』(蓬茨祖運述)を唯識の巻頭言として掲載していきたいと思います。今日はその「あとがき」より何故教法を学ばなければならないのかを伺ってまいります。

 「釈尊伝に関して、宗祖は「如来般涅槃の時代をかんがうるに、周の第五の主、穆王(ぼくおう)五十一年壬申(みずのえさる)にあたれり。その壬申より、わが元仁元年甲申(げんにんがんねんきのえさる)にいたるまでニ千一百八十三歳なり」と、教行信証の化身土巻にのべられているばかりである。もとより、それは単に釈尊の入滅の時期を算定されたものではない。その前に道綽禅師の「当今末法にして、これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべきみちなり」の文につづいて「しかれば、穢悪濁世の群生、末代の旨際をしらず、僧尼の威儀をそしる。いまのときの道俗、おのが分を思量せよ」ということの背景としてであった。近代に入ってその記録そのものが、科学的考証の対象となって、教行信証の心は埋没していった。如来の涅槃は、釈尊の死期を考える以外の意味をもたなくなったのが、近代における釈尊伝である。

 しかし、釈尊の涅槃は単なる人間の死ではない。人間のもっとも恐れる死、すなわち生活の崩壊を真実に越えた人の正しい覚(さとり)の異名というてよい。宗祖は「涅槃ともふすに、その名無量なり。・・・・・涅槃おば滅度といふ、・・・・・真如といふ、一如といふ、仏性といふ、仏性すなわち如来なり」(唯信鈔文意)ともいわれている。この意味で、近代において釈尊伝が科学的にとらえられてきたことは、人間より離れていた仏を新しく人間に近づけたと思わせることになった。しかし、近づいたのは科学的思考であって、仏ではなかった。「信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり」(唯信鈔文意)という宗祖の言葉は、われら人間にほんとうに仏を近づける道はその教法しかないことをあらためて明示するものである。宗祖が真実の教は“大無量寿経”といわれた。その大経の序文には、その意味で釈尊の八相、すなわち釈尊伝が大経の聴衆の徳として語られている。・・・それぞれの青年研修会において、われら人間生活の上に釈尊伝の意味を考察したものである。・・・」

 釈尊の生涯が私とどのような関係があり、生死の狭間の中でうごめいている私の四苦八苦をどのように見つめ、正覚を得ることができるのかを少しづつ私の師とよばせていただいています蓬茨祖運師に尋ねていきたいと思っています。


第三能変ーその(7) 三性分別(三性の同異)

2010-04-29 23:24:13 | 心の構造について

 三性の同異を述べる。(第二に争って同異を申ぶー三性は同時に倶起するのか、または異時かという問い)

 問いー善・不善・倶非(無記)と云うは、六識ながら皆三性に通ずと雖も、諸識の性総じて同時ならば、唯是れ一性なりや同時に各別性に摂むと許すと為むや。

 「有義は、六識は三性倶にあらず。同じく外門に転じ、互いに相違えるが故に。(『論』)

 有義は(一応、難陀の説としておきます)、六識中に於いて三性が並び立つことは無い。なぜなら五識は同じく外境に向かって認識作用を起して、五識の三性は互いに相違するものだから。

 「所以はいかん。此の六転識は同じく外境を縁ず。諸の三性の等き互いに相違するが故に。『瑜伽』第三に説かく。又五識はニの刹那有るにも(又)相違って倶生するにも非ず。亦展転して無間に更互に生ずることも無し。五識生じ已って此れより無間に必ず意識生ず等といへり。五識既に倶生する義無し。是の故に五識は三性と倶ならずという。此れは宗義を立するなり。(同じく外門に転ず)というは第一因なり。宗の中に声を聞くことは我が許す所に非ず。三性倶起はたとい許すとも定心においては然るべし散位には無きが故に。五識の中に三性倶に転ずるものには非ず。」(『述記』)

 注 外門転(げもんてん)-内門転に対す。六識が外界の対象に対してはたらきを起こすこと。内門転は内面を認識する働きをいう。厳密には五識は、外門転の働きのみであることから「外門転の識」といわれ、第六意識は内と外の両方に向かって認識作用が働きますので、「内外門転の識」といわれます。そして第七末那識と第八阿頼耶識は内面にのみに向かって認識作用が働きますので、「内門転の識」といわれるのです。

 ここで言われる有義の説は五識(第六意識も含む)そのものが同時に並び起こることを認めないため、そこには三性が並び立つことはないと主張しているのです。第一の根拠が「同外門転互相違故」になります。五識が外界を認識する時、同時に五識すべてが起こることは無いと主張します。一識の三性は善か不善か無記かのいずれかになりますから、五識相違ということは三性が並び立つことは無いということになると主張しているのです。次に第二の根拠が述べられます。(尚護法正義は「六識の三性倶にあるべし。」六識の三性は並び立つことがあると説いています。)


第三能変ー三性分別 その(6)六識の三性について

2010-04-28 23:57:38 | 心の構造について

 六識が善である場合について

 「此の六転識は、若し信等の十一と相応するをば、是れ善性に摂む。」(『論』)

 六識が「信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・軽安・不放逸・行捨・不害」の善の十一の心所と相応すれば六識は善性になるということになります。六識は先にも述べました通り、三性いずれの性にもなり得るのですが、では、どのような構造をもって善となり、不善となり、無記となるのでしょうか。その問いに対して答えているのがこの所になります。善の十一の心所は唯善なのです。ですからこの善の心所と共に働きますと六識は善性を保つことになるのです。

 『述記』には「善性に摂む」ことについて、厳密に述べられています。「此れが中に未だ必要(かならず)しも十一の法と倶ならず。不定の地の如きは唯十の法とのみ倶なるが故に。」何を云わんとしているのかは「不定の地とありますから、定地(禅定の境地)に於いては十一の善の心所と相応するけれども、不定地は、軽安を除いた十の善の心所と相応するのであるといわれています。(軽安の項参照)軽安は禅定の境地に於いてのみ得られるものであるから、不定地(三界の中の欲界)においては十の心所と共に働くのです。

 六識が不善(悪)である場合について

 「無慚等の十の法と相応するをば、不善性に摂む。」(『論』)

 「義をもって準ずるに、不善と善に返して亦しかなり。必ずしも十法と倶なるものには非ず。故に聚に望めて論を為す。不善の中の十は唯不善なるが故に。謂く瞋と及び忿等(等は恨・覆・悩・害・嫉・慳をいう)の七と諂・悔・憍を除いて無慚愧を取る。故に十を成すなり。」(『述記』)

 無慚等の十の法、十の心所は不善の心所ですね。そして六識がこの心所と相応するときは不善(悪)となるのです。不善の心所として十の心所が数えられるのです。瞋と忿・恨・覆・悩・害・嫉・慳との七と諂・悔・憍を除いて無慚・無愧の十です。不善と有覆無記に通じる心所は除かれているのです。

 「倶に相応せざるをば、無記性に摂む。」(『論』)

 善でもなく、不善でもない心所と六識が相応しない時には、六識は無記性となるということです。善・不善・無記という三性分別は何故起こるのかということについて、思の心所が大きく関わっているといわれています。思とは意思のことです。意思決定ということが三性に大きく関わるわけです。善の行為か悪の行為などを行わせる心の働きです。

 「思は心に正因等の相を取って、善等を造作せしむ。心が起こる位に此の随一無きことは無し。故に必ず思有り。」(『論』)(思は善業の因等の相を取り、善等を造作させる。心が起こる時には、善等の中の一つは必ず有る。ですから心が起こる時には必ず思は有るのです。心が働く時には必ず働いている心所なのです。故に思は遍行といわれます。)注ー「正因等」正因は善・邪因は悪・倶相違因は無記と云われます。因となる認識対象のことです。

 問題は六識の三性分別は六識と相応する心所、すなわち善の十一心所と相応することに依って善性となる場合、不善の十の心所と相応することに於いて悪性となる場合等があるわけです。心所の三性によって決定されるという部分と思の心所・意思決定によって六識の善・悪が決定される部分があるわけです。ここのところは十二分に検討されなければならないことだと思います。


第三能変ー三性分別 その(5) 無記

2010-04-26 23:49:38 | 心の構造について

 「善と不善との、益し損する義の中に於いて、記別(きべつー来世についての仏の予言・一つ一つ分別して予言するので「別」の字を加える。)す可からざるを、故(かれ)無記と名づく。」(『論』)

 善と不善というように、順益したり、あるいは違損したりすることの意味の中に於いて、順益や違損とは記別できないものを無記という。善でもなく、悪でもない性格を無記というのです。

 昨日の最後のところで「問題あり」と述べました。その問題とは「人・天の楽果」とありました。人として生を受けたという事は今一度涅槃に向かう人生を送りなさいと云う機会を与えられたという事なのですね。それと人・天の界は苦界なのです。「今一度」というのはその意味になります。人として生を受けたということは悪業の結果なのです。地獄・餓鬼・畜生の在り方を三悪趣といい、人・天を加えて五悪趣といいます。修羅をくわえて六道といわれますね。人として生を受けたという事は楽果でもあり、また悪趣の苦果でもあるわけです。ここに願いが隠されているのです。悪趣の果報をニ度と受ける事のない生き方が、人間として求められていることになるのです。それが善の在り方になります。「得あり・証あり・涅槃に由ってニ世の益を獲」る在り方が生まれると同時に私たちに求められているのです。ここをはき違えてしまいますと造悪無碍という異端が生まれてくるのですね。いわゆる「本願ぼこり」です。

 「弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり」(『歎異抄』十三条 真聖p633)

 此処に見え隠れすることは自己中心の傲慢性です。「本願を信じて助けられるのだから何をしてもかまわない」という詭弁であり、傲慢性です。唯識によって教えられることは私の深層の阿頼耶識から自己中心の末那識が生み出され、その末那識が阿頼耶識を対象として自己を汚していくという循環性が教えられているのですね。「依彼転縁彼」(彼に依って転じて彼を縁ず)と端的に述べられていますが、私の中に潜んでいるエゴイズムは外から入ってきたのではなく内的な、自己の中から出てくるのだと教えているわけです。ここをきっちりと押さえて聞法する姿勢が大切であると思います。


第三能変ー三性分別 その(4)

2010-04-25 23:24:29 | 心の構造について

 「人・天の楽果は唯一世のみを順益してニ世に非ざるが故に、名づけて善と為さず。是れ無記の果法なり。故に体是れ善に非ず。後世の中に於いて衰損を作すが故に。」(『論』)ここに何故このようなことを論じるのかというと、順益を以って善というのであれば、人・天の楽果も亦現に順益するから善と名づけなけらばならない。此の疑問に答える為に「人・天の楽果」は善とは名づけないというのです。六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の中にあってですね、人・天に生をうけたこと自体が楽果なのですね。「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生るる事、大きなるよろこびなり」(『横川法語』真聖p961)といわれますね。人として生を享け共に生を享受することができることは人間だからですね。しかし私たちは生をうけた途端に忘れているのです。「我はよし、他はわるし」の論理をもって自己肯定して苦にさいなまれているのですね。無色界の最高峰である非想非非想処であっても無限ではなく有限の楽なのですから、迷いを払拭することはできません。楽果としての人・天は後世に楽をもたらすとはいえないのです。「無記の果法」といわれています。人・天の果法は無記であるということです。果として人として生をうけたということですね。ここは大切なことを教えています。生まれたこと自体は無記だということです。厳密には無覆無記です。人は生まれながらにして無覆無記なのですね。人だけではありません、六道の異生すべてが無覆無記の存在なのです。差別し差別される所以はないのです。善因の果は善ではなく楽という果を感得されるのですし、悪因の果は悪ではなく苦という果を感得するのです。善を作しても永遠ではなく、悪を作しても永遠ではない輪廻の主体なのですから、ニ世にわたって利益をもたらすものではないといわれるのです。

 「能く此世・他世に違損するに為(をい)て故(かれ)不善となづく。悪趣の苦果は此世には能く違損を為すと雖も他世に於いてするに非ず。故に不善と名づく。」(『論』)

 これは「無記の苦果」といわれています。「身をして苦しましむが故に」と。私たちの善悪業の行為の結果がいずれにせよ、その業果は深層の阿頼耶識に種子として薫習されるわけですね。しかし阿頼耶識に蓄積された種子は無覆無記なのです。善悪業の増上縁(間接原因)をともなって現行するのですが、現行した阿頼耶識は何ものにも覆われていない無覆無記の存在なのです。こういうところに私たちは何か大きな過ちを犯していると思はざるを得ないのです。今の世間は不況に喘いでいますし、環境の変化も苦脳をもたらすのですが真実はどのなのでしょうか。私は「思いの執着」が真実を覆い隠しているのではないかと思っているのです。「因是善悪果是無記」(因は善か悪であるが果は無記である)ということの「因」は阿頼耶識を現行させる縁(増上縁)を仮に因といわれているのです。厳密に言えば「善因無記果・悪因無記果」ということになります。このような因果関係のことを異熟因・異熟果と云うのです。

 違損(いそん)は傷つけ苦をもたらすものと云う意味になります。不善は此の世と他の世を、違損することから、不善と名づける。しかし、悪趣の苦果は、此の世に於いては傷つけ苦をもたらすものではあるけれども、、他の世に対しては、傷つけ苦をもたらすものではない。よって悪趣の苦果自体は不善ではない、と教えています。現世・来世にわたって不利益をもたらすものを不善(悪)というのです。不利益とは苦をもたらす行為ですね。悪趣の苦果は異熟果として現行していることですが、そのこと自体は他世において苦果をもたらすことではないことから不善ではないというのです。しかしここは大変問題を孕んでいると思います。

 


第三能変ー三性分別 その(3)

2010-04-24 23:56:12 | 心の構造について

 專立寺さんの日記に掲示板の言葉が紹介されていました。自分の身勝手さを実に柔らかく、そして厳しく表現されていましたので紹介します。 專立寺さんとは先日の永代経からのお付き合いになります。これからも日記を楽しみにしています。 

昨日は一日雨がふり続きました。

「朝、目が覚めたら、大雨だった。
 困ったなあと思いました。
 ますます大雨になりました
 わたしが勝手に困っているんだなあと思いました」

横山定男さんの言葉です。

掲示板の言葉をまだ紹介してなかったので
日記に書きました。

 *--*--*--*--*--*--*

世の中の苦しみは
一切自分勝手です

  ー横山定男ー

*--*--*--*--*--*--*

「困ったなあ、嫌だなぁと思って苦しんでいる。
 そのことは、どう考えても自分勝手なことだった。
 世の中の苦しみは、一切自分勝手です」

難波別院の機関誌『南御堂』新聞のカメラマンを
されておられた横山さんは、
若くして仏教の教えに出遇われ、
深い念仏者としての言葉と、
カメラのファインダーを通じて感じ取られた
人間のありのままの姿を素朴な言葉にして残されました。

その言葉が綴られた『ありのままがありたい』が難波別院から
発行されていています。

その詞集の中には、

「あたりまえのことを、
 そのままそうですかと言えるようになったらと、
 ひそかに喜んでいます。
 あたりまえを、そのままではなく、
 わたしが勝手に解釈して、その思いにしょうと思っている
 そんな人がいっぱいです。
 あたりまえは、あたりまえです
 この世の現実そのもの、
 そのままがあたりまえのようでございます」

「世の中の一切のことに、
 そんな筈ではなかったと、述懐するのであろうが、
 それは自分の勝手な思いを言っていることなんです。
 思い通りにならんなあ、そうはいかない。
 いろいろの出会いに会いつつ、
 あれもこれもその通りにいただけるようになれたらなあ、
 と思うことでした」

 というお言葉があります。(4月23日の專立寺日記より)

專立寺さんのHPはhttp://www.geocities.jp/y_saffron/ です。

唯識にもどります。

 「倶非とは謂く無記なり。善・不善に非ざるが故に倶非と名づく。」(『論』)

 倶非とは無記のことである。善や不善ではないので、倶非と名づけられる。六転識は三性(善・悪・無記)の価値体系からしますと、すべての性質を備えているのです。(「六識は三性倶なるべし」)

 「別して釈するに三有り。初めに正しく頌の文を解し、次に争って同異を申べ、後に果位は是れ何の性に摂むということを顕す。」

 「(初めに)の中に又ニ有り。初めに三性を解す。名字隠れたるが故に先ず解す。」(『述記』)

 倶非とは無記性である。三性の中の無記性であり、何故倶非と名づけるかは、倶非の自性は善・不善ニ種の自性ではないことを顕すので倶非という。無記の名を解釈することは後に述べる。且く何を名づけて善とするのかを述べる。(『述記』取意)

  1. 「善」について説明する。 「能く此世・他世に順益するに為(おい)て、故(かれ)名づけて善と為す。人天の楽果は、此の世には能く順益を為すと雖も、他世に於いてするに非ず。故に善と名づけず。」(『論』)善の定義が示されていますが、此の世の楽果だけを求めるのではなくニ世に亘って順益(利益=安楽)をもたらすものを善というのですね。『述記』をみてみますと「此れと(現在)他(過去・未来)とのニ世を順じ益せしむるを、方に名づけて善と為す。謂く有漏の善は前世(過去。現在に対す)にも益し、今世(現在・未来に対す)にも益し、後世にも益し、倶に楽果を得、人・天の仰ぐ所なり。無漏の有為・無為も亦爾なり。」と。即ち有漏(煩悩をもつもの)の善は三世にわたって、有情を利益し、楽果を得させるといい、また、同様に無漏の有為・無為の善も亦有情を利益し、楽果を得させるといいます。無漏有為の善は悟りの智慧です。無漏智のことで煩悩に汚されていない智慧のことです。因縁によって生起するのが有為ですが、その有為が無漏であることの善ですね、それと無為無漏の善、すなわち生滅変化せず煩悩の汚れのないこと(真如・涅槃)の善は、有情をして生死を超える智慧をもたらすものなのです。ここで大切なことは有漏の善、煩悩にまみれて行う善行もまた善に入ると云われていることです。煩悩にまみれてはいても、小さな、些細な善も大切にしていかなければばらないと思います。そうだからこそ「雑毒の善・虚仮の行」という慚愧も生まれてくるのでしょう。無漏の善が有漏の善になっていく第七末那識の働きを見つめる眼差しがありますね。「此世と他世とに生・死に違越せり。得あり、証あり、及び涅槃に由ってニ世の益を獲。」と説明されています。生死を超えさせる得が有り(無漏智は得るもの)、涅槃は証するもので有り、その涅槃に由って此世(現世)と他世(当来世)のニ世の利益を獲て、もはや悪趣に生まれることはないといわれています。 (続く)

第三能変ー三性門 その(2)問いと答え

2010-04-23 22:16:37 | 心の構造について
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第四の三性門を理解するのに初めに問いを寄せ、後に問いに依って答える。 「此の六転識は何の性にか摂むるや」(『論』)(この六転識は善・不善・無記の三性の中のいずれの性に摂められるのであろうか。)という問いです。
「然るに(『論』第ニ巻)前の第八識には心・心所を解きおわって性は無覆無記と言う。今この六転識は何の性になるのであろうか、ということは識を解してその性を明らかにするのである。」その答えが「謂く善と不善と倶非との性に摂む」と云われるのです。第ニ能変の下には心・心所を解き終わって三性門を分別しているが、今この段は心王を説き終わって心所相応門の前にこの三性門が置かれているのは何故なのか、という問いなのです。「第八識の三性門は心王と心所とを説き終わって後にこれを説くのであり、第二能変も亦同じである。第三能変は心王を説き終わって後に三性門が置かれている。心所を後にて、先に三性を説くのにニの解釈がある。一つは初能変の時は心心所の法はその性は必ず同なるを顕すのであって、心所相応門の後に三性門を説くのである。第三能変の時は心王の性に従がって心所もその性必定する理由を顕さんとして心所相応門の前に三性門を説くのである。二つには初能変・第二能変は心王も心所もその性必同である。依って心心所を説き終わって後に三性門が置かれるのであり、第三能変は心王は三性に通じるが、心所はそうではない。どういう事かと云うと善位の心所は善に限り、煩悩は染汚の性に限るのである。そうであるので心所相応門の前に三性門を説くのである。(『泉鈔』取意)
 「謂く、善と不善と倶非との性に摂む。」(『論』」)(六識は善・」不善・無記との三つともの性に通じるのである。)
 「此れは頌を挙げて答えるなり。即ち六識は並びに三性に通ずることを顕す」(『述記』)これは何を言おうとしているのかと云いますと、六識は善・不善・無記のいずれの性に定まっているのではなく、いずれの性にもなり得るということなのです。これは初能変が無覆無記・第二能変が有覆無記と定まっているのとは大きく異なる点であることに注意が必要です。六識は三性に通じるという事は十一の善心所(信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・軽安・不放逸・行捨・不害)と相応する位は善であり、十の不善の心所(無慚・無愧・瞋・忿・恨・覆・悩・嫉・慳・害)と相応する位は不善であるわけです。そしていずれの心所とも相応しない時は無記の六識なのです。古い論議の中に「凡そ性類門は思の心所の能なり」と云われていまして、「先ず三性の造作は思なり」、ということはよくよく考えなければならないことです。「思の心所は心を善にも悪のも無記にも作りなす心なり。」といわれ、心の造作、意の働きを意味します。心を動かすはたらきですね。 次は三性について個別に説明がされています。三段にわかれて説かれます。
  1. 頌の文を説明する。
  2. 三性の同異を述べる。
  3. 果位は、三性中のいずれの性に摂まるのかを説明する。
  

第三能変ー三性門 その(1)

2010-04-22 23:51:02 | 心の構造について

 第三能変の九門の中の第四門にあたります。第一は六識得名・第二は自性・第三は行相で第四で三性門(三性分別)に入ります。三性とは善・不善(悪)・無記(倶非)のことです。この三性については以下説明をしていきますが、要点だけ述べますと、「善」については「能く此世・他世のために順益するが故に名づかて善と為す」人未来際に亘って順益を為すことを善といい、為さないことを不善と云うのですね。「悪趣の苦果は此世には能く違損を為すと、他世に於いてするには非らず。故に不善に非ず。」とい云い、人天の楽果や悪趣の苦果は此世・他世を問わず善・不善の立場からは倶非なるものになるわけです。六転識との関係では善の心所と相応する識であれば善に摂められ、不善の心所と相応する識であれば不善に摂められると云われています。ここに問題が提起され『論』および『述記』に詳しく説かれています。

 ちょっと横道にはいりますが、「ただ念仏」の一道を歩むのはどのような意味を持つのかを考えてみたいのです。私たちは幸いにも曽我量深先生や安田理深先生の教説に触れる機会を与えられましたが、真実を語られるのは「離言の言」でもって語られますから、両刃の剣なのですね。一歩間違えて聞きますと奈落の底に転落していきます。「指月の譬え」のように、どうしても月を見ず指に執着してしまいます。具体的には実体化の問題です。如来を実体的にみるのかということ、そして衆生を実体的に捉えるのかという問題になります。真実は私が明らかになったということが、如来を証明し、衆生を我が身に引き受けていけるのでしょう。「迷っていると思っていた」ことが「迷っていることがはっきりした」ことが如来の本願を証明するのでしょうね。本願を証明した歩みが迷っているそのまま、おおらかに生きる身に育てられるのではないですか。私がはっきりしないままの議論は両刃の剣で我が身を傷つけてしまいます。我が身の上に何が働いているのか真剣に問い糺していきたいものです。そうすれば如来と云い、法蔵菩薩と云い、十方衆生が我が身の上にどのように関係しているのかがはっきりするのではないでしょうか。唯識教学は聖道の学問ですが、私は信心の内容として唯識から学ぶ姿勢をとっています。明日から三性門の教説を学びます。


第三能変ー自性・行相 その(3) 伏難の義を会す

2010-04-21 23:53:22 | 心の構造について

 昨日の続きです。不共の所依・未転依の位・見分が所了を述べます。不共の所依とは不共依で同境依のことですが、前五識は五根を所依としていると経典には説かれていることについて会すわけです。未転依の位とは已転依の一切の法を縁ずるを簡んで、但、色等を縁ずるを言うのです。見分が所了というのは自証分を簡ぶのです。「了境為性相」とは、体と相とのニ門をいい、了は自性に通じ、即ち自証分であるわけです。行相は識の見分になり、相を縁じて境といいます。自証は見分が依り所となって見分を縁じて境と為すわけです。また「境を了す」というのは識の自証であり、亦、行相になるのです。経にたいする疑問に答えるのに、しばらく共依を除き、已転依の位を除いて説いているということなのです。そして見分の所了である相分を説いたということになり、自証分を説いていることになります。

 「余の所依と了とは、前に已に説きつるが如し。」(『論』)

 「余の依というは即ち分別依と染浄依と根本依となり。前の第四巻に解するがごとし。(『専註 成唯識論』p84)若し境に依って名を立つることは次前に説くが如し。余の了というは若し自証分は第ニ巻に解すが如し。(同上 p41)若し自在の五識の見分の境は次前に説くが如し。故に総じてという。後に四智を明かす(同上 p237~)と雖も今は但前のみを指す。」(『述記』)

 「余の所依」は『経』には不共依しか説かれていないが残る三つ、即ち分別依と染浄依と根本依は説かれていないけれども、これはすでに前の第四巻に説いたのである、といっています。「了」見分の働きについてもすでに、第ニ巻に説いている(四分義として見分・相分・自証分・証自証分)といいます。

十八界の所依と所縁に就いてですが『述記』に「今応に義に准ずるに因果に十八界を縁と為すること不同なるべし。頌に日く。因の見は各々応に随う。五には三あり。六にはニ有り。六は一なり。一は不定なり。自在と等とは分別すべしという。所依の頌は已に説きつるが如し。(『述記』巻第五本)前の文の中に準ずるにしばらく不共依にのみ依る。因(因縁依)と無間(等無間依)と及び染(染浄依)と同境(第六と五識と同境依と根本依)と共依との等を簡ぶ。故に未自在の位に他の所引に非ざるをいう。」『樞要』に「五三とは色等の五界は三の識の所縁なり。一に五識。ニに第六。三に第八。第八をば意界に摂む。「六にはニ有り」とは眼等の五界は六・八ニ識の所取(客観的対象ー知られるもの)なり。意界は通じて六七の為に所取す。「六は一なり」とは眼等の六識界をば、唯一意識のみ縁ず。第七・八識を意識界と名づけざるが故に。「一不定」とは即ち法界なり。」と述べられています。

 

 


第三能変ー自性行相 その(2)識という別名について

2010-04-20 23:52:13 | 心の構造について

 「斯に由って、兼ねて所立の別名をも釈して能く境を了別するを以って名づけて識とは為すが故に。」(『論』)

 「心意識の三種名の中に名づける所の識の別名なり。能く境を了別するを名づけて識と為す故に。謂く了別の行麤なるが故なり。心と意とを識と名づくに非ず。」(『述記』)

 「斯に由って」とは「了境為性相」を指し、立てられた所の別名をも説明して、よく境(対象)を区別して知ることを以って、識と名づけるからである。

  1. 「心」ー第八阿頼耶識を「心」といい、
  2. 「意」-第七末那識を「意」といい、
  3. 「識」-第六意識は「識」という別名を持つのです。「斯に由って」いわれていました「境を了すること」を自相・行相とも為す、といわれていたことが、同時に別名の識を説明したことになるといわれています。「境を了別」することが「識」と名づけられるからである、と説明されています。そして了別の働きは麤であるからともいわれます。

経典をもって会通する。

 「契経に説けるが如し。眼識というは云何ぞ。謂く、眼根に依って諸々の色を了別す。広く説かば乃至意識とは云何ぞ。謂く意根に依って諸法を了別すと。」(『論』)

 「下は経を会するなり。此の言は解すべし。謂く有るが問うて言く。且く眼識の如きは亦余の根にも依る。境を縁ずることも通じて能く一切の法を了す。云何ぞ、但眼にのみ依って色のみを了すと説いて、六(分別依)と七(染浄依)・八(根本依)との依って声等を了すとは言わざるや。経を牒して問うなり。此の問に答へん為の故に。次の論に云く。」(『述記』)

 『論』に言われていることから、経典の内容について疑問が起こると、『述記』には印されています。経典では眼識は眼根に依って諸々の色を了別すると説かれているけれども、眼識の依り所は眼根だけではなく、分別依・染浄依・根本依の三つとあわせて、計四つを所依としているのではないか。また自在位には一切法を了別するといわれている。にも拘わらず「但眼にのみ依って色のみを了すと説いて、六(分別依)と七(染浄依)・八(根本依)との依って声等を了すと」言わないのか。という疑問です。「眼根に依って諸々の色を了別す」とだけ言われていて自在位には眼識が了別するはずの声等の一切法を挙げないのかということです。未自在位では眼識の対象認識は色境のみですが、自在位では眼識が認識するのは一切法なのです。このことを会通するわけです。前五識の所依・識が依り所とするのは五根だけではなく、分別依・染浄依・根本依の計四つの所依を持つのです。先に述べた通りです。

 「彼の経は且く、不共の所依と未転依の位と見分が所了とを説けり。」(『論』)

 契経は、しばらくは不共依(五根)と未転依の位と見分の認識対象(相分)とを説いているのである。共依を説かないのではなく、ここでは除外しているということです。「未転依の位と見分の所了とを説いた」ということは、已転依の位と自証分も除外して説かないということになります。自証分は相分を認識対象とせず、見分を認識対象としているのです。ここではそれを除外して見分の認識対象である相分を説いているのです。眼識なら色境のみを説いているという事です。 また明日にします。