害はどのような影響を与えるのか?
「能く不害を障え」ることを以て性とし、有情の心を逼悩(苦しめ、悩ますこと)させる心所であるわけです。害は有情を悩まし、損なう心の働きですが、自分の心が不安定というかですね、自分の思い通りにいかないというフラストレーションが溜まって、自分の心をかき乱すわけでしょう。そんな自分の心を癒す為に、外に向かって攻撃的になるわけですね。それが具体的に現われたのが「害」の心なんですね。
害 ―――― 不害の体は無瞋
(所対治) (能対治)
不害の背景には、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)における禅定、三学(戒・定・慧)における定を修することのおいて智慧が生れてくるわけですね。その智慧の具体性が「不害」であり、「人を哀れむこころ」を育んでくるのでしょう。不害は善の心所です。善の心所は十一あるわけですが、一番最後に説かれてきます。
「不害ノ心所ハ、人ヲ哀ムル心ナリ。慈悲トハ無瞋ト不害トヲ申ナリ。無瞋ハ慈ナリ、不害ハ悲ナリ。」(『二巻鈔』)
「云何なるか不害ぞ。諸の有情において、損悩をなさざる無瞋を以て性と為し、害を対治し悲愍するを以て業と為す。」(論第六・』七左)
「無瞋は、物の命を断ずる瞋に翻対(ホンタイ)せり、不害は、正しく物を損悩する害に違せり。無瞋は楽を与う、不害は苦を抜く。是を此の二が麤相の差別(シャベツ)と謂う。」(『論』第六・七左)
無瞋 ー 物の命を断ずる瞋に翻対する。楽を与える(慈)。
不害 ー 物を損悩する害に背違する。苦を抜く(悲)。
何故、無瞋とは別に不害の心所を立てられなければならないのかということですが、
「慈と悲の二の相、別(コトナル)ことを顕さんが為の故なり」と説かれています。
無瞋は慈の働き(与楽)、不害は悲の働き(抜苦)を明らかにし、「有情を利楽することに於て、この二の働きは勝れたものだからである」、と、理論上から、そして実際的な視点から説明されています。
「述して曰く。理実には無瞋の体は是れ実有なり。不害は無瞋の一分の抜苦(苦を抜く)の義勝れたるに依るが故に、不害を仮立せり。
問。前の大悲は無瞋癡の二法を以て体と為す。今何が故に(無癡を言わず)独り(無瞋の分位を以て)不害のみを言うや。
(答)彼(無瞋)は実の体に拠る。此れは仮に成ずるに約す。又彼は是れ大悲なり、此れは但だ是れ悲なり。四無量に摂す。」(『述記』第六本下・二十八右)
不害は無瞋の一分の働きである抜苦勝れたる理由によって仮立されたものであると云われていますが、これは四無量に摂められるものである、ということ。四無量といいますのは、慈・悲・喜・捨無量であるということですね。禅定を修し、下化衆生の願いに生きる者としての四つの心をそれぞれの側面から表しています。
『倶舎論』分別定品第八の二の説明には、
「無量に四種有り。瞋等を対治するが故に。慈と悲とは無瞋を性とす。喜は喜なり、捨は無貪なり。此の行相は、次の如く、楽を与うると、及び苦を抜くと、欣慰(ゴンイ)すると、有情等しとするとなり。欲界の有情を縁ず。喜は初の二静慮にあり。余は六、或は五、十とす。諸惑を断ずる能わず。人に起こり、定んで三を成ず、と。」
また『倶舎論』第四章・修行階位論第八節・定所成の徳においては、
無量というのは、(1)無量の有情を所縁とするという意味が込められています。一切衆生の為にという菩薩の願心ですね。私の上にかけられている願でもあるわけです。(2)無量の福を引くが故なり。(3)無量の果を感ずるが故である。
何故、四種が説かれるのかというと、四種の多行の障を対治せんが為である。四種の多行の障(四障)とは、諸の瞋と害と不欣慰と欲の貪瞋である。この障を対治するのに四無量を建立する、と。慈と悲との体は無瞋であり、理実には悲は不害である。そして喜の体は喜受、捨は無貪であるということになります。
本科段はここからが本旨になりますが、明日にします。簡単に言いますと、害は無漏法をも含めていると解釈していることです。