唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (27)  小随煩悩 害 (2)

2015-06-30 22:24:39 | 第三能変 随煩悩の心所
 
 害はどのような影響を与えるのか?
 「能く不害を障え」ることを以て性とし、有情の心を逼悩(苦しめ、悩ますこと)させる心所であるわけです。害は有情を悩まし、損なう心の働きですが、自分の心が不安定というかですね、自分の思い通りにいかないというフラストレーションが溜まって、自分の心をかき乱すわけでしょう。そんな自分の心を癒す為に、外に向かって攻撃的になるわけですね。それが具体的に現われたのが「害」の心なんですね。
    害 ―――― 不害の体は無瞋
  (所対治)     (能対治)
 不害の背景には、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)における禅定、三学(戒・定・慧)における定を修することのおいて智慧が生れてくるわけですね。その智慧の具体性が「不害」であり、「人を哀れむこころ」を育んでくるのでしょう。不害は善の心所です。善の心所は十一あるわけですが、一番最後に説かれてきます。
 「不害ノ心所ハ、人ヲ哀ムル心ナリ。慈悲トハ無瞋ト不害トヲ申ナリ。無瞋ハ慈ナリ、不害ハ悲ナリ。」(『二巻鈔』)
 「云何なるか不害ぞ。諸の有情において、損悩をなさざる無瞋を以て性と為し、害を対治し悲愍するを以て業と為す。」(論第六・』七左)
 「無瞋は、物の命を断ずる瞋に翻対(ホンタイ)せり、不害は、正しく物を損悩する害に違せり。無瞋は楽を与う、不害は苦を抜く。是を此の二が麤相の差別(シャベツ)と謂う。」(『論』第六・七左)
   
   無瞋 ー 物の命を断ずる瞋に翻対する。楽を与える(慈)。
   不害 ー 物を損悩する害に背違する。苦を抜く(悲)。
 何故、無瞋とは別に不害の心所を立てられなければならないのかということですが、 
 「慈と悲の二の相、別(コトナル)ことを顕さんが為の故なり」と説かれています。
 無瞋は慈の働き(与楽)、不害は悲の働き(抜苦)を明らかにし、「有情を利楽することに於て、この二の働きは勝れたものだからである」、と、理論上から、そして実際的な視点から説明されています。
 「述して曰く。理実には無瞋の体は是れ実有なり。不害は無瞋の一分の抜苦(苦を抜く)の義勝れたるに依るが故に、不害を仮立せり。
 問。前の大悲は無瞋癡の二法を以て体と為す。今何が故に(無癡を言わず)独り(無瞋の分位を以て)不害のみを言うや。
(答)彼(無瞋)は実の体に拠る。此れは仮に成ずるに約す。又彼は是れ大悲なり、此れは但だ是れ悲なり。四無量に摂す。」(『述記』第六本下・二十八右)
 不害は無瞋の一分の働きである抜苦勝れたる理由によって仮立されたものであると云われていますが、これは四無量に摂められるものである、ということ。四無量といいますのは、慈・悲・喜・捨無量であるということですね。禅定を修し、下化衆生の願いに生きる者としての四つの心をそれぞれの側面から表しています。
『倶舎論』分別定品第八の二の説明には、
 「無量に四種有り。瞋等を対治するが故に。慈と悲とは無瞋を性とす。喜は喜なり、捨は無貪なり。此の行相は、次の如く、楽を与うると、及び苦を抜くと、欣慰(ゴンイ)すると、有情等しとするとなり。欲界の有情を縁ず。喜は初の二静慮にあり。余は六、或は五、十とす。諸惑を断ずる能わず。人に起こり、定んで三を成ず、と。」
 また『倶舎論』第四章・修行階位論第八節・定所成の徳においては、
 無量というのは、(1)無量の有情を所縁とするという意味が込められています。一切衆生の為にという菩薩の願心ですね。私の上にかけられている願でもあるわけです。(2)無量の福を引くが故なり。(3)無量の果を感ずるが故である。
 何故、四種が説かれるのかというと、四種の多行の障を対治せんが為である。四種の多行の障(四障)とは、諸の瞋と害と不欣慰と欲の貪瞋である。この障を対治するのに四無量を建立する、と。慈と悲との体は無瞋であり、理実には悲は不害である。そして喜の体は喜受、捨は無貪であるということになります。
 本科段はここからが本旨になりますが、明日にします。簡単に言いますと、害は無漏法をも含めていると解釈していることです。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (26)  小随煩悩 害 (1)

2015-06-28 22:10:54 | 第三能変 随煩悩の心所
 

  害の心所について
 「云何なるをか害と為る。諸の有情の於に心に悲愍(ひみん)すること無く損悩するを以て性と為し、能く不害を障え逼悩するを以て業と為す。」(『論』第六・二十五左)
 (どのようなものが害の心所であるのか。害とは、諸々の有情に対し、哀れみ悲しむ心を持つことなく、害を加え悩ますことをもって本質とする働きを持ち、よく不害を障礙して、有情を追い詰め悩ますことをもって業とする心所である。)

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 害の心所について、岡野守也氏がわかりやすく教えておいでになりますので、参考の為に要点を抜粋して記載します。
 岡野氏は、害の心所は能動的・積極的に人が人を否定する心と定義されています。
 「もう1つの随煩悩、「害(がい)」は、善の「不害」とちょうど逆の心の働きです。
人は人にさまざまなかたちで害を加えたいと思うことがあり、また実際害を加えます。
いじめや暴力や殺人から戦争まで程度には大きな幅がありますが、そこには人が人を否定する――しかも能動的・積極的に――心があるという点に関してはまったく同質です。
では、なぜ人は人を否定するのでしょうか?
(中略)
 害を加えたいという気持ちは、他の随煩悩、怒り、恨み、悩ませることともつながっています。そして、その背後には、意識上の根本煩悩のほとんどが関わっています。
 まず、人と自分が分離しているという思い込み、一体性へのまったくの無知、愚かさ・「癡」がベースです。
 そして、自分の都合の悪いことがあればいつでも腹を立てる可能性としての「瞋」の心がありますから、ちょっとしたきっかけさえあれば、すぐに怒り、悩ませ、害を加えようという気持ちが起こります。
 自分の利益へ過剰に執着する「貪」の心がありますから、ちょっとでも自分の利益が害されたら、徹底的に害し返してやるという気持ちになりがちです。
 また他と自分を比較して自分のほうが上だと思いたい「慢」の心がありますから、プライドを傷つけられた、面子をつぶされた、バカにされたなどなどと、腹を立て、プライドを傷つけられたのだから、こちらには傷つけ返す権利があると思ったりするわけです。
 まちがった思い込みの「悪見」のうち、特に特定のものの見方への執着である「見取見」と特定の戒律、禁止事項、モラルなどへのこだわりである「戒禁取見」があるので、自分の意見・思想や倫理感に合わない人には、「許せない」、「そういう考え方をするべきではない」、「そういう考えをする人間は存在しないでほしい」から始まって、「存在するべきではない」、「存在させないようにしたい」、「存在させないようにする」という完全否定・殺意にまで到ります。 その奥には、自分(たち)と他者がつながって一体のコスモスであることへの根源的無知・我癡、それどころか自分(たち)が実体であるという思い込み・我見、そして自分(たち)こそがすべての依りどころだという思い・我慢、そういう自分たちがいちばん大切で可愛いという執着・我愛という、4つのマナ識の根本煩悩がまぎれもなく働いています。
 マナ識を抱えた人間は、我愛の延長・拡大として自分(たち)に都合のいい人を愛することはできるのですが、都合の悪い人は、どうしても否定したくなるのです。
 そして、すべての人が自分(たち)の都合のいいようになるということはありえませんから、いつまでたっても害し合うこと・争いは絶えません。」(岡野守也の公開授業より)

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 随煩悩を随時うかがいますと、貪・瞋・癡が三毒の煩悩といわれる所以が垣間見えますね。本科段の「害」も瞋恚の一分なのですが、瞋恚を依り所として、害と云う、有情を哀れむことなく(悲愍(ひみん)すること無く)、傷つけたり(損)、悩ませたり(悩)する心の働きなのです。三性でいえば、ただ不善なのですね。慈悲のない心と云ってもいいでしょう。
 「害ハ、人ヲ哀レム心ナク、ウタテク情ケ無キ心ナリ。世中ニ慈悲ノ性モ無キ物ト云ハ此心増セル者ナリ。」(『二巻鈔』)
 うたて - なぜか非常に。心情などがはなはだしく増していく意を表す。
 良遍は簡潔に説明していますが、「人ヲ哀レム心ナク」はもっと広義に『論』でも述べていますように、有情に対してと解していいのでしょう。命ある存在すべてに対してという意味になります。害とは、命あるすべての存在にたいして、慈悲の心が無く、生きものを殺したり、傷つけたり、縛ったり、打ちのめしたり、脅迫したりするなどの手段を用いて、生きとし、意kる者に対して損害を与え悩ますことなんですね。三面記事をみますと日常茶飯事に起こっています。痛ましい限りです。
 本科段での論題ではありませんが、「損悩するを以て性と為し、・・・逼悩するを以て業と為す」というのは五逆です。では五逆は何故起ってしまうのか、その背景にあるものは一体なにかという問題があります。こういうところから造悪無碍という、何をやってもいいんだという、摩訶不思議な解釈も生まれてきます。自己正当化の論理ですわ。
 1252年( 建長4 ) 親鸞、書状により関東の「造悪無碍」の風儀を制止 と、関東教団の中で造悪無碍がはびこっていたことが伺えます。
 『末燈鈔』第十六通(『御消息集』広本、第五通。真聖p566)に親鸞聖人はしたためておられます。「かえすがえす、あるべくもそうらわず。」と。また『歎異抄』第十三条ですね、
 「弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。(歎異抄)
 本願ぼこりと、造悪無碍の違いです。
 「阿弥陀仏の本願はどんな悪人でも救うというお約束だから恐れる悪はない」という人は『本願ぼこり』と言って間違った信心だから助からない」というのは本願を疑っている間違った信心ですよ、ということ。
 (歎異抄のかなり難しい文章。)
「阿弥陀仏の本願は、どんな悪人でも助けるというお約束だから、どんな悪も恐れる必要はない」というのは正しいのだが、「造悪無碍」という邪義との違いがわからないので間違って解釈されることが多い。祖師聖人御在世の時にも「阿弥陀様は悪人が好きなのだから、どんな悪をやってもかまわない、悪をやったほうが早く救われるのだ」という造悪無碍の邪義があって
聖人は『あるべくも候わず』と何度もいさめられている。
 「煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ。(『御消息集』広本、第一通。真聖p561)
 どんな悪も恐れることはないと阿弥陀仏の本願をほこる、『本願ほこり」なら、自己の悪性を照らされて「恥ずべし、傷むべし」の懺悔と、そんな悪性のかたまりが救われた歓喜があるが、造悪無碍には、悪を犯した懺悔もないし、当然救われた喜びもない。『本願ほこり」と『造悪無碍」とは全然違うのだが」(『生きる意味を知って』ブログより転載)
 「なにごとよりは、聖教のおしえをもしらず、また、浄土宗のまことのそこをもしらずして、不可思議の放逸無慚のものどものなかに、悪はおもうさまにふるまうべしと、おおせられそうろうなるこそ、かえすがえす、あるべくもそうらわず。きたのこおりにありし、善証坊といいしものに、ついに、あいむつるることなくてやみにしをばみざりけるにや。凡夫なればとて、なにごともおもうさまならば、ぬすみをもし、ひとをもころしなんどすべきかは。もと、ぬすみごころあらんものも、極楽をねがい、念仏もうすほどのことになりなば、もとひごうだるこころも、おもいなおしてこそあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、悪くるしからずということ、ゆめゆめあるべからずそうろう。煩悩にくるわされて、おもわざるほかに、すまじきことをもふるまい、いうまじきことをもいい、おもうまじきことをも、おもうにてこそあれ。さわらぬことなればとて、ひとのためにも、はらぐろく、すまじきことをもし、いうまじきことをもいわば、煩悩にくるわされたる義にはあらで、わざと、すまじきことをもせば、かえすがえす、あるまじきことなり。鹿島・行方のひとびとの、あしからんことをば、いいもとどめ、その辺のひとびとの、ことにひごうだることをば、制したまわばこそ、この辺よりいできたるしるしにてはそうらわめ。ただ、したからんことをばせよ、ふるまいなんども、こころにまかせよといえるとそうろうらん、あさましきことにそうろう。・・・」(『末燈鈔』第十六通(『御消息集』広本、第五通)
 歴史的には、この造悪無碍を糺す為に、善鸞が関東教団に父親鸞聖人の名代として使わされるのですが、後に善鸞事件が起こり、我が子善鸞義絶という、法に於ける厳しい裁定が下されることに成ります。
 害の心所の特徴は、性も業も有情を損悩すること、逼悩することなんです。三界では欲界にのみ存在する心所なんですね。 今日は脱線しました。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (26)  小随煩悩 諂 (4)

2015-06-28 12:34:53 | 第三能変 随煩悩の心所

  諂という心所は「師友の教えに堪任(かんにん)せず、名利を貪するが故に。」或は「無智の故に」(『述記』による)と、諂の存在は貪と癡の分位仮立法であり、諂そのものは体も作用も無い仮法であることを明らかにしています。
 「此も亦貪・癡の一分を以て体と為す。二に離れては別の諂の相用無きが故に。」(『論』第六・二十五左)
 (これ(諂)もまた、貪と癡との一分を以て体とする心所である。何故なら、この二つ(貪・癡)に離れては、この二つと別個のものとして在る諂の体も作用もないからである。故に諂は仮法である。)
 諂は覆の因であると云われているんですね。つまり、自らの過失を覆蔵するからである、と。果を以て因を顕すといいます。自らの過失を覆い隠す為に、他者の意を取るとするのは諂であるというわけです。野球でいえば、ツウシームやね。騙すわけ。ストライクと見せかけて逃げる、当然バッターは騙されますわ。このような関係を諂というんでしょう。自らの過失を覆い隠す為に、他者の意を取り自分を偽り曲げて、本心とは異なる態度や言動を示すわけですね。このような諂を因として、諂を覆ってしまう果が出てきます。

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 人間関係の中で、というより、他者との御縁を通して、私が私に出遇っていく歩みが仏法だと思いますね。また自他との関わりの中で、自も他者も育てられていくわけでしょう。私は私の人生ですし、他者も、それぞれの人生があるわけですね。変わる訳にはいきませんね。それとですね、関わりの中で、本当に他者に触れているのかというと問題があるでしょう。ここなんですが、私の眼を通した他者である訳です。他者そのものとは出遇えていないんです。それは私も私自身に出遇っていないということになります。
    生まれ生まれ、生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に、死に死んで死の終わりに冥し(空海)
 生死の問題がはっきりすればいいわけですが、自と他という、二者が存在するわけではないでしょう。私が作りだした貴方と云う他者を、あたかも他者は存在していると妄執しているにすぎないのですね。しかしこれは非常に大事なことなのです。 自己形成は、自他の関係の中でなされるわけですが、私たちが気づきを得ないのが、身・口・意の三業と関係しますけれども、一旦口から出た言動はリセットすることはできないということです。それと、口に出さなくても、意業ですね、思ったこともまたリセットできないんですね。すべてが自己と云う身体を形成します。
 生まれたその瞬間から、自他の関係の中で、いろんな思いが錯綜しますが、その一つ一つが自己形成につながっているんです。そして「生きる」ことが瞬時瞬時業を尽くしているわけですね。そして新たな業を作りだしている。これはね、煩悩と関係しますが、業は、善か悪か無記のいずれかなんです。しかし現行したこの時に煩悩は一旦リセットされるんです。ここに煩悩を転ずるという契機をいただくんですね。
 私は、こうしてパソコンで通信していますが、私と関わっている他者のことは一つもわかっていないと思います。他者とは多分こんな方だろうなという偏見的な眼でしか見ていないと思います。それが僕なんです。僕は他者に語りつつ、自分と対話をしているのかもしれません。
 私たちは、いのちの働きの中で、瞬間に生死を生きさせていただいているわけで、生も現行なら、死も現行です。その瞬時に過去の業を尽くしているわけです。死をもってすべての業を返済するわけですね。完済です。そうしますと、私たちの課題は、「死」なんですね。死を明らかにする。前念命終・後念即生という善導大師のお言葉がありますが、他者との関係性の中で、他者は、僕に何を告げたいのかという、言葉にならない言葉を聞くことが大切なことであろうと思います。他者を御縁として、仏法に自己を訪ねる。関係的存在とは、こういう意味をもっているのではないでしょうか。
 僕もですね、こうしてパソコンを通して貴方方との御縁をいただいて、いろんなことが交差します。つながりの有り難さといえるのでしょうか。こうして書いている自分って何者?私はどこからきて、何をして、どこへいくのか。それを教えてくれるものが、他者の存在なのでしょう。


第三能変 第四 随煩悩の心所について (25)  小随煩悩 諂 (3) 雑感

2015-06-27 19:01:56 | 第三能変 随煩悩の心所
 
 少し休ませていただきました。前回は「「師友の正しき教誨(きょうけ)に任せざるが故に。」厳しい言葉です。逆に恨みますからね。聞く耳持たんということはこのことです。」で終えています。
 この「聞く耳持たん」ということにつきまして、少し私の愚痴を聞いていただきたいと思います。
 「聞く耳持たない」というのは、聞こえてくる声を聴こうとしない。聴くことを自分が遮断しているということですね。ここはなかなか気づきを得ないのですが、我執が働いています。自分と云う者に固執をしています。砂上の楼閣を一生懸命守ろうとしている愚かさがあるのですが、見えないからわかりません。自分の事は見えないんですね。しかし人のことはよく見えるのです。矛盾をきたすのですが、人には忠告をします。聞いてくれなかった腹をたてます。なぜ俺の忠告を聞かんのや、とね。しかし、人から忠告されると、聞きませんね。冷静に考えたらおかしいのですが、「自分の事は自分が一番知っているから、かまわんとってくれ」という、頑なな自分が居るのですね。
 人のことを云っているのではありませんで、私は忠告を聴かなかったですね。それどころか「貴方の言っていることは100%承知しているから、ほっといてくれ」とうそぶいていました。まあ、聴いておればですね、もう少しましな生活をしてたであろうと思いますがね。ともかくも、僕の放蕩はひどかったですから、みんながなんとか軌道修正させようと努力をしてくださったんです。しかし最後の最後まで(破産に追い込まれるまで)、聞く耳を持ちませんでした。それでもですね、我執と云う鎖ははずれなく、「なんとかなるんや」という炎は消えることは無かったですね。挙句の果てに、家庭崩壊です。そうしますと、責任の所在を他に転嫁するんですね。「俺のいうようにしとけば、ここまでひどくならんかったんや」と言って、家庭崩壊の責任はおまえにあると言って、自己正当化を図っていました。自己正当化は、闇を作ります。廻りが見えないんです。見えているつもりではいます。おおよその見当はついているんですが、歯車の回転が逆に回っていることがわかりませんから、なんとかしなければと焦って、ふんぎりというか、最後の決断が下せないでいるのです。幕引きが出来ない、「もう少し頑張れば必ず好転する」と焦れば焦るほど、底なし沼に足を踏みいれているようなものでした。
 そうしますとね、自分が蒔いた種なんですが、ストレスがたまります。そしたら憂さ晴らしですわ。夜の街にでていくんですね。そんな日々が続きましたね。しかし、心の底から遊ぶことは出来ないのです。明日の事を考えるとむねが張り裂けるくらい苦しいのです、でもそれを忘れようとして酒を煽り遊びほうけるのです。奈落の底で這いずっているような姿です。でもここまできますと手遅れです。手遅れでも、「ここまで来た責任は俺ではない、俺の責任ではないから面白くないんだ、お前が悪い、俺は真面目にやってきたんだ。どっから歯車が狂い出したのか見当もつかんが、とにかく俺は一生懸命家庭の為に働いたんや。」これが自己正当化の理由です。
 世間の人はこんな状況を見て、たくさんアドバイスをしてくれました。しかし、何度も言いますが、「あんたら俺のどこまで知っとんのや。なにも知らんと説教せんといてや。聞く耳持たんとはこのことです。今思えばですが、この時の声は如来の叫びだったんですね。僕の「なんとかしてくれ」という声を如来は察知して、意識の底から、人を介して「あんたの求めていることはこれや」と叫び続けていたんですね。
    「十方恒沙の諸仏は / 極難信ののりをとき / 五濁悪世のためにとて / 証誠護念せしめたり」(『浄土和讃』弥陀経意)
 五濁悪世はどっかにあるわけではありませんね。自分が作りだした世界です。正法の時であれ、我執が作りだす世界は五濁悪世です。そんな私の為に、開かれた世界を極難信と説きですね、易行難信です。易行は法、難信は私の問題です。易行と難信、常に格闘して、聞く耳持たなかったのですね。我執です。
 聞く耳持たん背景に我執が動いていることは確かですが、我執に気づくことは容易ではありません。容易ではありませんから、易行でありながら難信なんですね。しかし、そんなことには全く気づくことも無く傷心のどん底から、子供の産声を聞いたんです。聞こえたんです。聞こえると同時に世界が開かれました。亡き母の声も聞こえてきました。まさに証誠護念です。小さい頃、おじいちゃん、おばあちゃんが私の手を引いてお寺に連れて行ってくれたことがよみがえり、「なんで祖父母はお寺参りしていたんやろ」という問いと、仏青活動の中で、いろんな先生のお話を聞かせていただいていたことが点となって、私には一つの方向性を与えてくれました。それが今日までつづいていることに成る訳です。自分には聞く耳持たなかったのが人生の大半をしめましたが、そこから「何故聞くことができないのか」を課題として聞法しているところです。
 随煩悩のところで感じたまま綴ってみました。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (24)  小随煩悩 諂 (2)

2015-06-21 13:48:17 | 第三能変 随煩悩の心所
 
 諂うことですが、自分の意に反してですね、「誑」の心所をうけて、「名利を得るために、他を欺き、自分をつくろうわけですね」その「つくろいあざむく」具体性が「へつらう」という行為になって現われてきます。「誑」と「諂」は同じような心所ですが、
 室町時代の興福寺の学僧光胤(1396~1468)が著した『唯識論聞書』には
 「誑は、徳が無いのに徳があるように振る舞い、諂は、相手よりへりくだって、相手を尊重しているかのように振る舞うことである。そして時と場合によって自分を曲げる(諂曲)ものですが、誑は状況変化はなく、相手に合わせることはない。」と解釈をしています。つまり誑は常に頭を上げているのに対し、諂は状況変化に応じて頭を下げている状態ですね。
 「謂く、諂曲(てんごく)の者は他を網悁(もうけん)せむが為に、曲げて時の宜しきに順(したが)い、矯(かたま)しく方便を設けて他の意を取り、或は己が失を蔵せむが為に、師友の正しき教誨(きょうけ)に任せざるが故に。」(『論』第六・二十五左)
 悁 ― 「えん」・「けん」と読み、いかる、うれえる、いらだつの意味がある。忄は心を表します、音符は、ちいさなぼうふらの象形。心が小さくなるという。「網」はかける。網悁とは、他者を錯乱・混乱させて己の思うように導くことで、他者の心を網で捕えて自分の思いを実現したいという卑屈な心をいいます。
 (つまり、諂曲の者は、他者の意を網悁する為に、その時の状況変化に応じて、自分の本心を曲げ隠して偽り様々な方便を以て他者の意を取り込み、或は己の過失を隠す為に、師や友の教誨を受け入れないようにするからである。)
 『述記』の釈は、
 「論。云何爲謟至謟相用故 述曰。險者不實之名。曲者不直之義 爲網㥜他者。顯揚云爲欺彼故謟。或欺於彼而陵網於彼。」(『述記』第六末・七十三右。大正43・458c)
 (「險とは不実の名なり。曲とは不直(不正直・不明・不顕にして解行が邪曲なるが故に名づけて諂と為す)の義なり。他を網悁(かけこめん)が為にとは、顕揚に彼を欺かんが為の故に諂あり。或は、彼を欺いて彼を陵網するなり。)と。
 私たちは、不実であり、不正直であることを隠したいのですね。見透かされるのを恐れている。その為に、自分の不実や不正直さを指摘されるのを恐れて、他に対し媚び諂い、他者が自分にとって良い評価を与えてくれることを望んでいるわけですね。
 「師友の正しき教誨(きょうけ)に任せざるが故に。」厳しい言葉です。逆に恨みますからね。聞く耳持たんということはこのことです。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (23)  小随煩悩 諂 (1)

2015-06-21 09:51:49 | 第三能変 随煩悩の心所

 お詫び
 私事で申し訳ありませんが、諸般の事情により明日より約一週間ブログの掲載ができなくなりました。せっかくお読みいただいているのに申し訳のないことですがお許しください<m(__)m>
 本科段より小随煩悩の第八、諂(てん・だましへつらうこころ)の心所に入ります。
 「諂ハ、人ヲクラマカシ迷ハサンガ為ニ、時ニ随ヒ事ニ触テ、姦(カタマ)シク方便ヲ転(メグ)ラシテ人ノ心ヲトリ、或ハ我ガ過ヲ隠ス心也。世ノ中ニ諂曲(テンゴク)ノモノト云ハ此心増セル人ナリ。」(『二巻鈔』)
 諂という心所は、人をあざむき、いつわりの言葉をめぐらして人をまるめこみ、人をだます心であるといわれています。ここでいう人とは、他の人を含めて、自分の事でもあるのですね。自分をもだまして、あざむいている心なんです。どのようにだましているかと云いますと、「時ニ随ヒ事ニ触テ、姦(カタマ)シク方便ヲ転(メグ)ラシテ」といいます。
 姦は矯しと同意になり、いつわるという意味になります。自分の過失を隠す為に、偽りの方便をめぐらして人をまるめこみ、だます心だといわれています。でもね、こんなこと日常茶飯事ではありませんか。素直に自分を見つめると頷けます。
 昨日は五組の同朋の集いが難波別院で勤まりました。講師の一楽師のご法話の中から問いをいただきました。それはいつでも自分の物差しで計ってしまう自分が居ることに気づけよという如来の働きに触れることが大切ですね。聞いていて本当にその通りやなと思いつつ、自分の物差しで計ってしまう自分が居るんですね。このような自分が世を穢すのでしょうね。世を穢しているのは自分だということの頷きが大切なことなのでしょう。そういえば、処(場所)は自体分が外に投げ出した所縁の相分なのでした。器世間の全体が阿頼耶識が変現したものなのですね。未だ見ぬ世界をも変現しているのが阿頼耶識なんです。広大無辺際なのですね。一楽先生は、広大とは、計ることのできない世界、すべてを受け入れている世界であると教えてくださいました。そこに触れた時に、私は如何に小さい、何時でも自分の思いで天秤にかけて生きていることであろうかと教えられるのです。
 「云何なるをか諂と為る。他を網(こめ)むが為の故に矯しく異儀(いぎ)を設けて険曲(けんごく)せると以て性と為し、能く不諂と教誨(きょうけ)とを障うるを以て業と為す。」(『論』第六・二十五左)
 (どのようなものが諂の心所であるのか。諂の心所とは、何か(例えば魚を網にかけて捕えるように(「網」にカケンカと注釈されています。)自分の本心を隠して相手の気にいられるように媚びる心なんですね、それを「へつらう」と言っています。いつわり、まげることを以て本質とし、よく不諂と教誨とを障礙することを以て業とする心所である。)
 異儀とは「ことなるかたち」であり、険曲は「いつわり」である。「網」は仕掛けですね。相手の意に添うように応じて自分の態度を変化させ偽りの姿を現して相手を騙そうとしている態度をいっています。教誨とは、教誨師といわれている方々がおいでになりますように、過ちを犯した人の過ちを悔いあらためさせる役割を持ったことですね。教誨を障えるというこは、諂は教誨を受け入れられないように働いている心所であるということですね。
 
 

第三能変 第四 随煩悩の心所について (23)  小随煩悩  誑 (2)

2015-06-20 08:44:00 | 第三能変 随煩悩の心所
 誑の業について
 「能く不誑を障え邪命を以て業と為す。」
 邪命とは、よこしまにいきわたる(邪に生き渡る)と注釈されています。生きることそのものが邪(よこしま)であるというのが誑の業である。そのことのもっている意味は、
 「謂く、矯誑(きょうおう)の者は心に異の謀(おもい)を懐いて、多く不実邪命の事を現ずるが故に。」(『論』第六・二十五右)
 (つまり、詐って人を騙す者は、心に本心とは異なる謀を懐いて、多くは不実で邪に生き渡る生き方をするからである。)
 即ちですね、邪命をもって依とするのは、利誉を貪るからなんです。ですから詐って人を騙す者は、「意が同なるに非ざる異の謀計を懐いて詐って精進の儀を現ず。」と。これは癡の一分であると見抜いているわけです。つまり、矯誑の者は、本心とは異なる謀りごとをもってですね、本心は利誉を得たいと思っているわけですが、利誉はいりません、このままでいいんです、財利や名誉には全く興味が有りませんと詐って精進の相を装って人を欺くわけです。他者はこのような精進の姿を見て、布施するにふさわしい人と騙されて、騙した矯誑の者は利誉を得ていくというのですね。多くは不実で邪であることをもって生きていく有様ですね。
 他人事ではなく、いつでもですが、自分を大きく見せたいという欲が起ってきます。坊主バーのstaffの時でもですね、いかにも仏法知ったかぶりをします。親鸞聖人はこのような生き方を鋭く批判されています。
  「よしあしの文字をもしらぬひとはみな
   まことのこころなりけるを
    善悪の字しりがおは
     おおそらごとのかたちなり」(『正像末和讃』)
 何故自分を大きく見せたいのでしょう。名利心が渦巻き、他と比較の上に慢心を懐いて勝他の心が働いているからなのでしょうか。
 ある新興宗教の勧誘方法に、病人と貧しい人を狙え、そしてもう一つが勝他の心を煽れというものだったんですね。いうならば心理作戦です。人を勧誘する能力が認められれば、学歴・職歴に関係なく幹部になれるという名利心をくすぐったんです。さらに人間の能力の限界、特に医療の現場におられる医師・看護師さんもターゲットになりました。どうしても超えられない壁が有ることに悩んでおいでになる人々に、信仰において乗り越えられる、医療の壁は信仰によって超えられるんだという暗示を与えて洗脳するという方法なんですね。こういう方法はすべて人間が持っている名利心・勝他心を巧みに利用したものなんです。そこから組織として信者さんをがんじがらめに縛って組織から抜け出せない状況を作り上げていくわけですが、そこがまた巧みなんです。完全に洗脳していますからね。洗脳は煩悩の働きと同じように、自覚がないんです。洗脳されているという自覚が有りませんから組織護持の為に邁進することに成ります。ひいてはそれが病気の克服であったり、社会的名誉を獲るためであったり、人を指導する立場の魅力に取りつかれたりですね。邪命なんですがね。見えてきませんね。自分だけの世界で蠢いていることがわからないという無明なんです。自分を貪り、正見を持てないという癡が晴天の真っただ中に闇を創造しています。
 誑の心所は、いろんなことを教えてくれます。「謂く、矯誑(きょうおう)の者は心に異の謀(おもい)を懐いて、多く不実邪命の事を現ずるが故に。」深い言葉です。
 「此は即ち貪と癡との一分を以て体と為す、二にはなれては別の相用無きが故に。」(『論』第六・二十五右)
 (誑は、貪と癡とのいちふんをもって体とする心所である。この貪と癡にはなれては、この二つと別個に体と作用もないからである。從って、誑の心所は仮法である。)
 

第三能変 第四 随煩悩の心所について (22)  小随煩悩  誑 (1)

2015-06-18 23:46:54 | 第三能変 随煩悩の心所

誑の心所について
 「云何なるをか誑と為る。利誉(りよ)を獲むが為に矯(かたま)しく徳有りと現じて、詭(いつわ)り詐(あざむ)くを以て性と為し、能く不誑 を障え邪(よこしま)に命(いきわた)るを以て業と為す。」(『論』第六・二十五右) 矯 ― (「きょう」を「かたましく」と読ませています)いつわること。矯誑(きょうおう)は偽って人を騙すこと。矯詐(きょうさ)もいつわること。ともに詐欺にあたります。
  詭詐(「きさ」を「いつわりあざむく」と読ませています。)
 (どのようなものが誑 の心所であるのか。誑 とは利益と名誉を獲る為に自分を偽って、あたかも自分には徳があるかのようにみせかけて、いつわりあざむくことを以て本質となし、よく不誑を障礙して、邪に生きていくことを以て業(業は働き)とする心所である。)
 「誑ハ、名利ヲ得ンガ為ニ、心ニ異ナルハカリ事ヲ廻ラシテ、カタマシク徳アリト顕ハス偽ノ心ナリ」(『二巻鈔』)
 誑という心所は、自分には徳がないのにもかかわらず、あたかも徳があるように偽って他を欺き、他を威圧する心の働きをである。「邪(よこしま)に命(いきわた)る」という表現は見事ですね。「よこしまにいきわたる」これは邪命の読みなんですが、生活そのものが、「よこしま」という方法を以て生き渡るということなんですね。
 煩悩・随煩悩とは考えれば面白いですね。前提条件があって働いてくる心所なんです。前提は自分にとって何が有益なのか、なにが不利益なのかを天秤にかけて、自分にとって有益なことに対してはなりふり構わず(今さえよければそれでいい)という思いで生きていく在り方が煩悩を生み出してくるんですね。煩悩というのはどこからか持ってくるものでは無く、自分が自分の利益の為に創造してくるもの、ですから実体は有りません。架空のものなんです。
 『述記』の所論は、
 「矯とは、不実の義なり。詭詐とは虚偽の称なり。謂く自ら徳無きを徳有りと詐偽して利誉を貪するが故に、邪命をもって依と為す。」と述べています。
 不実とは本当の姿ではないということですね。ここにですね、他を欺き偽って、徳があるように見せかけている自分が居るんですんね。何故なら、利益と名誉を欲っしているからなんです。
 世間は財産を得ること、名誉をえることに奔走しています。財があることによって、財に人は集まってきます。ここに自分は偉いと錯覚をします。名誉も本当は貧者の一灯なんでしょうが、財は得た、会社での地位も得た。後は世間での名誉だけだというわけです。最後は名誉にこだわるのですね。名誉は財があっての話になります。
 私達ごく普通の人間にとって言えることは、自分を大きく見せようとする心の働きは確かにあります。他を利用してまでもですね。例えば、有名人と友達だ、或は何々先生を知っているということで、他にたいしてすごいと思わせ、自分を過大評価させるわけです。いってみれば、これしかないと言っても過言ではないですね。
 誑は不誑を覆い隠して、邪命をもって生きていくことを生業とする心所であるのです。邪は正に対しますから、理に逆らった生き方になり苦悩が発生します。邪が横行していますが、心はいつまでも満足せず、寂しい、寂寞です。
 「利誉を貪する」と言われていますから、誑は貪の一分であるわけですし、又「邪命を以て」ですから癡の一分であることも明らかになります。 (つづく)

第三能変 第四 随煩悩の心所について (21)  小随煩悩 慳 (2)

2015-06-17 21:21:51 | 第三能変 随煩悩の心所
 
 「慳」は「能く不慳を障え鄙畜(ひちく、財などをけっちって蓄えること)するを以て業と為す。」(『論』第六・二十四左)
 ふと思うことがあるのですが、「ふと思うこと」は大事なことに触れているのではないのかな、と。それは~を障えるといわれているでしょう。「不」で否定されていますね。ここなんですね。いつでも能所の関係で説かれてきますが、能所は能変が転じて所変を生み出している。この所変が所縁・能縁という働きを持つということなんですね。「不」という否定の概念は能変の働きなんですね。つまり自証分。八識の自証分=自体分は識の根幹をなすものでしょう。そうしますと、煩悩(随煩悩も含む)は影像なんですね。影像は本質をもって影像です。本質がなかったならば影像は成り立たない。
 本科段では「慳」について述べているわけですが、慳は不慳の影像なんです。不慳は、惜しむことなく分かち合える心の働きなんですね。惜しむことのない心が、惜しむ心を作りだしてくる、非常に矛盾する事柄なんですが、さらに重層的に惜しむ心が自己崩壊して、惜しむことのない心を求めんが為に苦しむことが起ってくるのですね。苦が縁となる。苦は本質に触れているので、苦は不苦の回帰運動を起こすのでしょう。ですから、求道心・菩提心は人間のもっている特性と云いますか、一切衆生、すべての人が、心の中で願っていることが具体的に働いている姿が菩薩といわれる存在なのでしょう。菩薩は例えばですが「慳」から「不慳」へという運動ではないのです。異論は有ると思いますが、「不慳」に於いて「慳」を生じ、生じた「慳」を縁として「不慳」へという歩みを生みだしてくると思います。
 種子(因・習気)生現行(果)
         (因)・果は無覆無記       } 展転同時因果
          現行(因)熏種子(果・熏習)
 本来、従果向因なんです。無記性をもって迷いは成り立っているということでしょう。法蔵菩薩は従果向因の菩薩といわれますが、理にかなっているんですね。法蔵菩薩に限らずですね。菩薩は従果向因なんです。有情という存在も、従果向因なんです。本質に触れているから五逆誹謗正法を起こすんですね。一見矛盾していますが、此処が人間の性の複雑性を現しているのでしょう。
 「謂く、慳悋(けんりん・惜しむこと)の者は、心に多く鄙渋(ひじゅう・いやしくけちなこと)し、財と法とを蓄え積んで捨つること能わざるが故に。」(『論』第六・二十四左)
 (つまり、物惜しみする者(慳悋の者)は、心は多くいやしく・けちけち(鄙渋)し、財と法とを蓄積して他に施す(恵捨)することができないからである。)
 「此は即ち貪愛の一分を以て体と為す、貪に離れては別の慳の相用無きが故に。」(『論』第六・二十四左) 「対法は財を慳に約し、五蘊に云く、謂く施と相違せりと云えり。施既に法に通れば慳も亦爾なり。」(『述記』第六末・七十二左)
 (これは、貪愛の一分を以て体と為す心所である。何故なら、貪に離れては貪と別個のものとして存在する慳の体も作用もないからである。)
 「離貪別慳相用故」を以て、慳は仮法であるとする証明である。

第三能変 第四 随煩悩の心所について (20)  小随煩悩 慳 (1)

2015-06-16 21:31:35 | 第三能変 随煩悩の心所
 
 慳の心所について (物惜しみする心)
 「云何なるをか慳と為る。財と法とに耽著(たんじゃく、執着・愛着すること)し、恵捨(えしゃ、めぐむ・ほどこす・布施)すること能わずして秘吝(ひりん、物惜しみすること)するを以て性と為す、能く不慳を障え鄙畜(ひちく、財などをけっちって蓄えること)するを以て業と為す。」(『論』第六・二十四左)
 (どのようなものが慳の心所であるのか? 慳とは、財と法とに執着して、執着する為に恵み施すことができず、物惜しみすることを以って本質とする心所である。よく不慳を障礙し、いやしく蓄えることを以て業とする。)
 面白いですね、物惜しみする心とは。財に執着し、法をも自分の中に取り込んで執着するんですね。絶対に他に分け与えることはしない心なんです。
 「財・法とは資具と妻子と栄位(栄誉)の等き事を、皆名づけて財と為す。理教行果を皆名づけて法と為す。」(『述記』第六末・七十二左)
 財とは、資具、つまり生活の為の道具ですね、例えば箸や茶碗の一つ一つも執着の対象になる、我が持ち物なんですね。妻子も栄誉もです。すべて我が所有物になるんですね。
 法とは、教・理・行・果という仏教そのものが執着の対象となるということなのです。
 財と法とに執着をしていますから、それを投げ出すことはありませんね。投げ出すことなく、物惜しみするのが慳の働きであるといっているんですね。秘吝の「秘」は蔵という、仕舞い込む場所で、仕舞い込んだら出さないと云うのが「吝」で、惜しむという意味をもっている。
 慳は不慳を障礙して、鄙畜する心である、と。鄙畜の「鄙」は鄙悪(ひあく、いやしくわるい)、「畜」とは畜積(ちくしゃく、たくわえること)で積集(しゃくじゅう)の異名であると。「鄙悋慳澁」(ひりんけんじゅう)することを以て離さない、つかんだらはなさないということですね。「捨すること能わず」と。
 今日はちょっと疲れましたので、この位にします。おやすみなさい。