唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「下総たより」 『たのんで助かるとは』 安田理深述 (4)

2012-02-19 21:45:38 | 『たのんで助かるとは』 安田理深述

 「信仰の反省ということも、反省して頼むということでなしに迴心懺悔する。罪悪深重ということは信ぜられた結果、本願に照らされた結果、南無阿弥陀仏が我々にたまわった結果が無限に反省させられる。宗教の問題が何であるかわからなかったそのために南無阿弥陀仏は生まれてきた、成就させられた。南無阿弥陀仏は助ける法が成就されたということ。助ける法が成就されたのもかかわらず、我々のお助けは南無阿弥陀仏に成就されているにもかかわらず助からずに居るというのは、我々の固執がそれだけ深い。うなづいて助かる法は、頼んで助かる法は成就しておるにもかかわらず、此方が頼まん。うなづかずに居る。それが我執である。助けんのでない、助からんのである。助からずにおるということが、それが法がはっきりせん迄は助からんのも御尤もということになるが、法が成就すれば仏の問題は終わったように見えるけれども、そこに助かる法が成就しても助からずにおるという我々の問題、我々の問題が新しく仏の問題になる。

 仏教の問題というのは、我々が助かるか助からんかという機の問題が中心問題になる。南無阿弥陀仏は信心の問題を飛び越えて他にゆくのでない。南無阿弥陀仏の中に我々が明らかにされてくる。帰ってくる所は南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏に腹がふくれる。本来ふくれるように出来ておるのに、ふくれずにおった、ふくれてみればやはり南無阿弥陀仏の中である。

 親鸞は難信ということをいっておられる。それはどういうことかといえば、往生成仏は我々の問題であるにもかかわらず我々を超えておる問題。往生成仏はそれこそ難中の難。こうもいえるけれども、一応はそうであるが、本願を頼めば本願自身がそれを解決しておる。本願によって往生成仏の問題が解決されるという、本願からいえば往生成仏は必ずしも難でない。我々が自力で解決しようとすると難であるが、本願を頼んで本願で解決されるというと必ずしも難でない。難は寧ろ頼むということにある。頼めん、それが難中の難。往生成仏は必ずしも難でない。信に往生成仏を解決して下さる本願に目覚めるということが難中の難。本願の中心問題は信心一つということになってくる。

 結局仏法の中心問題を煮つめた所は信の一念にある。けれどもそれは不可能ではない。難信というのは不可能ではない、容易でないということ。難信というのは信が信自身を知った場合いうこと。難信というのは信ずる心の自覚内容である。信じない心には難信もないし易信もない、難も易も信がなければない。心が信自身を難信と知る。それは我々にあるべからざるものが、我々にあるという驚き。信というものは絶対に我々から出て来ない。我々にあるのは固執。分別の固執しかない。それが我々の本質である。理屈なしに本願を頼むというのは我々の心でない。我々の心でないというのは如来の心。信心というのは如来の心。如来の心をたまわる。如来の心に感動する心、感動すれば感動した心が如来の心である。そういう我々でない心が我々に起きた。我々に起きたものが我々の心でない、あるべからざるものがここにある。あるべからざるものという意味で、我々にあるものは分別の心しかない、そういうないという自己否定の懺悔を通して、そこに我々でない心がある。こういうのが難という。ただ困難という意味でない。かたじけないという意味をもったのを難信。つまり我々の固執というもので磨かれた仏の心、それが信心。固執を懺悔して仏の心に目覚める。固執を止めてでない。止められん固執というものの自覚を通して本願が自覚されて来る。そういう所に難信という言葉の深い意味があるのでないか。

 我々のうなづかん心から仏の心が磨き出される。我々のうなづかん心は懺悔であると共に、其うなづかん心というものをくぐって磨かれた仏の心をたまわる。ご苦労は仏にある。仏にあるというと神話的になるが、寧ろ信心にある。信心自身がご苦労しておる。我々の長い間の固執の下にあって、固執によって磨かれてきた。如来のご苦労というけれど信心の苦労である。我々の固執は信心を苦労させて来た。不可思議兆載永劫の苦労を経て来たのが信心である。我々の本当の心、それが又如来の心そのものである。如来が何所かにあって苦労されたというのでない。如来がうなづかん我々と結びつく所に如来のご苦労というものがある。我々と無関係に法蔵菩薩のご苦労があったのでない、如来と我々と結びつく所にご苦労がある。如来が我々と流転の運命を共にせられて、仏の心を成就する歴史とせられた。其歴史が成就したということが我々にとっては時機当来。時機当来してそれに目覚めるということが生まれて来た。容易ならん歴史に対する感動は難信。

 信仰と言いのは歴史的なものであって、ただ個人的思いには歴史はない。南無阿弥陀仏の中に南無阿弥陀仏の心。如来の心は南無阿弥陀仏の中に表現されておる。南無阿弥陀仏はそういう深い如来の心の名乗りであるし、又名乗りを通して、深いお心に対する感動である。我々の信心というものも、信心の自覚というものも本願の名乗りに対する感動共鳴である。本願に共鳴すれば共鳴した心が本願。其本願の心に立つならば、人間の罪悪流転を恐れぬ。如何に強い憍慢邪智も妨げることは出来ない。憍慢邪智を悲しむ心、憎む心よりももっと深い心、それが水のような非常に静かな如来の痛み。それに感動する。深い静かな心に感動する。感動したといっても、涙を流すよりも更に深いしずかな心である。 (完)

 あとがき 

 昭和四十六年は主人の身体も支障なく過すことが出来、病状も固定してきたのでないかと思い深く感謝しております。しかし前のように彼方此方と出かけて皆様にお会いするのは何時のことか、七十一という年齢もありとても元のようにという訳には参るまいと思います。私も今は看病からもほぼ解放されましたのと、先日或老人からの問に対して主人の話しましたのを書き取り清書して送りましたが大変感銘を受けましたので、、主人の参る代りにプリントしてお手許にお届けしたいと思いましたのが、この 「下総たより」 を出す動機でございます。 

 曽我先生追弔会の講話は去る十一月廿日金蔵寺で話しました内の一部を訓覇様の許可を頂きのせることが出来ました。話のままで而も要領筆記のようなことで間違いがあればひとえに私の責任でございます。

 このたよりは二ヶ月に一度位、日常の間に私一人聞くのは惜しいと思われるもの、或は講義の中で書留め得られたものをまとめてみたいと思っております。次号も御希望ならば其旨是非御申お越し下さい。          安田 梅 」

 あとがきに安田先生の奥様が書き留められました文章も記しました。 以上無断書き込みで全責任は書き込み者である 河内 勉(釈 誓喚)の責任であります。関係各位には大変ご迷惑をおかけいたしますが、後学相続の為にお許しをお願いいたします。お叱りは anjali.tutomu@tune.ocn.ne.jp  までお寄せ下さい。

 次回は「下総たより」第二号 「感の教学」 を配信する予定でおります。


「下総たより」 『たのんで助かるとは』 安田理深述 (3)

2012-02-05 20:29:28 | 『たのんで助かるとは』 安田理深述

 「我々が目覚めておらんということは、自力にもがいて南無阿弥陀仏の外に居る。併し先に言ったように外というものも、外と自覚すれば内、内も内と自覚せずば外になる。南無阿弥陀仏に救われずもがいていおるということも、南無阿弥陀仏にふれておる。助かった世界も助からん世界も凡て南無阿弥陀仏に於てある。もし南無阿弥陀仏がなかったら迷っておるということも言えん。迷っておるということも無駄になってしまう。迷うということも意味がある。南無阿弥陀仏の中に居りながら南無阿弥陀仏がわからん所に迷いがある。迷うということも南無阿弥陀仏にふれておる。南無阿弥陀仏は広大で、人類の流転も救いもみなそこに摂めてある。

 我々の救済の問題が本願によって、名号として回向成就されている。簡単にいえば、本願に我々の問題が問い、且つ答えられている。本願を我々の思いの上にもってくるのでなしに、本願に乗托するというのが帰依、本願に何かを頼むのでない。本願を頼む助けてくれと頼むのでない。長い間自分の思いを立場にしておったのが、本願を頼んで本願を立場にする。そこに立場がかわる。南無阿弥陀仏の主になる。本願を立場にする、人生観がかわるというのはそのこと。救いを頼むならば立場は昔と同じ、無始以来の立場を捨てん妄執である。何かお助けを頼むならばその根底には自己を頼んでおる、自分の立場で仏に依頼しておることになる。自分の立場を動かさずして、自分の力が足らんから、救いの確信が得られんからお助けということを仏に頼むならば、自分の立場にたっておるのである。仏を信ずるということでなしに、ただ自分の分別である。往生ほどの大事凡夫の計らうことにあらず、世間のことでないのを往生の問題という。自分が救われるということは自分を超えた問題である。

 仏法のことは無上殊勝の願を建立し、無上殊勝、往生成仏は無上殊勝というような問題、人間より寧ろ仏の問題。我々が往生成仏を考えると合理的なものになってしまう。地獄に  堕ちたくないとか。純粋の往生成仏は仏のお心、一大事は我々のも問題であるが、却ってそれは仏の問題である。我々の問題であるにもかかわらず我々が純粋に考えることが出来ん。結局信心といっても仏の心をたまわる。我々が信ずるというよりも、仏の方が我々衆生を自分の問題として願を起こされたのであって、それが成就しておるのが南無阿弥陀仏。それだから名号があるによって始めて我々が信を立てられる場所が与えられる。南無阿弥陀仏が信じたということの内容である。信じたということを加えるのでなしに、南無阿弥陀仏をもう一遍我々の所へもってくるのでなしに、もうもってくる必要がなくなった。我々の問題は仏によって答えられている。それが南無阿弥陀仏、それをもう一遍もってくれば助かるならば信じよう、助からんならば信じまいという自力の信心になってしまう。我々の助かる助からんを問題にすることもいらん、する必要がないというのが南無阿弥陀仏。そこに誓願不思議の、不可思議の働きというものに我々は感動するというだけである。大きな感動である、同心であり共鳴である。我々を超えて、我々というものに先立って、既に仏のお心の中心におかれておったという感動、その感動からいえば助からんでもよいということも言い得るのである。

 信心といえば特別のようであるが、名号に感動することである。不思議を思議で固めたいのに感動がないからである。不思議の本願に感動するということは、不可思議の本願が我々に名告ってくることである。名告ってくるのを行、感動するのを信。裏と表、名告ったものに感動するという面からいえば信、行信一体が南無阿弥陀仏。それだから、名告る方からいえば南無阿弥陀仏が本願の当体、感動する方からいえば南無阿弥陀仏が信心の当体である。仏の本願の当体が南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏の具体化されておるのが信心。名告りに感動しないということになると、自分の心の分別できめたいということになる。それは冷たい石のような、それが人間の無始曠劫よりもっている心、それが流転させておる。それを破って名告るのである。仏法にふれても自分の心に、本願の不思議の道理を合わせようという、つまり理屈にしよう、そうでない、理屈を破って道理である。道理は不可思議が道理である。それを自分の分別で理屈にしよう、理屈で助かろうというのである。本能は感動したい、感動させたいのであるが、それを覆っておる心が理知、理知が感動させない妨げておる。本願といっても何所か遠方にあるのでない。われわれの根底に本能として流れておるものが本願。それはものに感動する心、感動して名告たい心であるし、又感動したい心であり感動させたい心である。同じ仏の心といっても自分の中にあるのは、それが意識の底にあるのだけれども覆われておる。覆うているの心は理知である。理知が妨げておる。理知が獅子身中の虫、理知は妄想であるが理知を固執するのが罪である。信仰の罪は固執である。固執というものが妨げる。自慢するのも暗くなるのも固執で、つまり我慢我執邪見である。憍慢は固執したものを誇る心。信心を得ても得た体験というものを誇る。悲観するのも自慢するのも皆人間の心である限り固執である。それがコンプレックス。本能の中にあって、本能を理知で翻訳して悲観するのもコンプレックス。理知が理知ということを知らされて理知が回心懺悔する。その時に本願は理知なんかに妨げられん。我々の我執我慢以上の不可思議の働きで少しも妨げられん。理知を理知と知らされる訳である。

 本願は理知に妨げられず我々に名告っておる。念仏申さんとおもいたつ心、意識の底にあった心が意識の上に噴出する。それが念仏申さんと思いたつ心。念仏申さんという所に行信一体。名告りであると同時に勘当、感動が名告りである。そこに懺悔すれば理知をおそれん心があった。その本能は理知に妨げられん心、我々は妨げておったが本能は妨げられん。我々が妨げておるということを聞いて妨げんようにしようというのでない。固執は石のような心であるが、本願は水のような心、幾ら石があっても妨げられず水は流れる。いたって固きは石なり、水よく石を穿つ、石に妨げられず流れてくるのが水の不可思議の働きである。固執を自分の力で捨てるのでない、捨てられん固執に目覚めさせられる、それが回心。回心は立場がかわること、今度は本願が立場となる。立場の大転換、思いが立場であったものが、その思いというものがひっくり返る。消えてしまうのでない。本願が立場になってみれば、思いはあっても無いにひとしい。

 我執が罪だと知るという人は可なりあるが、我執が捨てられん。捨てにくいということに親鸞は泣いた。回心して捨てたと喜んだのでない、捨てられんと泣いた。自分を投げ出したというのが回心懺悔。我執を憎むべきものだと知っただけでない。知った我執が捨てられん、それが我執の正体である。我執は捨てられんのが本当の我執である。それは全身を投げ出す外に道はない。それが本願による自己否定。本願によって自己が否定された。そういう否定を通して本願は名告る。それは固執を捨てて本願が名告るのでなく、固執が捨てられんという懺悔を通して本願が名告る。そこに本願が名告る。我々が固執を捨てるならば立場は同じこと、そこに我々が捨てたのを誇る。それは固執しておったもとのままの立場である。捨てられんという所に立場がかわる。捨てられんままに本願が名告る。捨てられんという形で捨てる。立場がかわればあっても無いに等しい。本願に見破られた、固執を見破られたのである。」   (つづく・次回は2月12日に配信します。)

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         帰命無量寿如来 南無不可思議光  
         法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
         覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
         建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
         五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方

          

                                                                                    


「下総たより」 『たのんで助かるとは』 安田理深述 (2)

2012-01-29 19:18:37 | 『たのんで助かるとは』 安田理深述

 「たのめ助けんというのは、半分は頼め、半分は助けんという半分半分のようであるが、併し阿弥陀仏の方は学問上の言葉でいえば、法というべきものである。阿弥陀仏は法であり、南無は機である。機も法も本願として一体である。二つのものを合わせたのでない。南無ということによって機を成就する。本当の機というものはたのむという所にある。実は法からいえば法は機を超えて広大である。阿弥陀仏御自身である。しかしながら如何に衆生を助けようという法の本願があっても、我々人間が頼むことが出来んならば、法も助けようという働きを現わす訳にいかん、法も無駄になってしまう。法は無論機をこえておるけれども、機というものがなければ法も法として働くわけにいかん。機というものを却って法の方が求める。仏の方が我々に仏を頼むことを求める。我々が仏を頼むより先に、仏が我々に仏を頼むことを求められておる。それが頼めという呼びかけである。法から機を開く、助けるという法から頼む機を開く。その開いた機の中に、たのむという機の中に助けんという法全体が与えられておる。つまり廻向されておる。南無として、南無の中に頼む、南無の成就した我々の中に仏全体がある。だから法は広大である。機は位からいえば低い位であるが、その低い機の中に法全体がある。南無阿弥陀仏という名号の中心的意義は寧ろ南無という二字にある。たのむということがお助けである。頼んだ結果がお助けでなく、頼むことの中にお助けがある。南無阿弥陀仏であるが重点は南無である。

 こういう頼んで助かるという、頼むことによって我々が助けられるということが、我々に先立って名号として成就されている。そこに南無阿弥陀仏という名号が成就したということが人類の救いが答えられている。そこに仏の仕事は既に終わっている。仏が衆生を助ける法・南無阿弥陀仏は成就して仏の仕事は終わっている。あとは我々の頼むという仕事が残っておる。それは時機当来、あらゆる人々が時機当来して南無阿弥陀仏に目ざめる。

 時機当来といっても外から頼むのでない。頼めという言葉に気がつく。たのめということの中に頼むということが成就しておる。南無阿弥陀仏はこれからあるのでなくして始めからあるのだ。始めといえば南無阿弥陀仏が始めである。一切に先立って南無阿弥陀仏がある。本願といっても南無阿弥陀仏の根底であり、本願の言葉によって本願にふれる、南無阿弥陀仏という所に本願が現実になっている、名号はこれから実現される理想ではなくして本願の現実なんである。我々の知らん先に我々はその中に包まれておる。

 始めにある南無阿弥陀仏の中に、未来悠久の人類全体が最後の一人に至る迄救われる。人類全体の運命が摂められている。何よりも先にある古い南無阿弥陀仏が、それが常に新しい意味を語っているのである。古い南無阿弥陀仏に我々は新しい意味を発見する。古い南無阿弥陀仏に我々の自覚という新しい意味を発見してくる。新しく発見してみればもとからあったものだ。我々が目覚めるというのも、助けられるというのもその全体が南無阿弥陀仏の働きである。その古い南無阿弥陀仏のその中に、頼め助けんという永遠に新しいひびきというものが叫ばれている。お助けとか救われるとかいうけれども、救いというのは事実頼んで助かるというものも事実であるが、事実といってもいわれの他にない。頼めば助かるといういわれに、つまり道理、道理に救われる。或は道理が救いである。体験の事実というけれども道理の他にない。

 南無阿弥陀仏が凡て、本願成就の南無阿弥陀仏が凡てだということ、あらゆる人類老少善悪にかかわらず助かるといういわれがそこにある。いわれというのは本願の真理、真理にふれればそこに事実がある、事実は真理が真理自身を証明しておる。我々の救いは本願が本願自身を証明するという所にある。本願の真理を本願自身が証明しておる、それが事実というものである。仏様というようなそういう超越的存在に救われるのでない。道理に救われるのである。道理に救われた人を仏というのである。だから一番大事なことは、南無阿弥陀仏の道理がはっきりするということである。道理は理屈ではない。理屈には事実がない。道理は道理自身の中に純粋な事実が成就している、道理即事実である。理屈は事実にならん、道理にうなづいたことが事実である。それを頓極頓速という。それ程早いものである。我々がこれから体験したりするような、そういう自力の努力を必要とせん。南無阿弥陀仏は言葉であるが言葉が救いである、道理といっても言葉の意味である、本願というのは言葉、精神の言葉の意味が道理である。

                 (つづく) 次回は2月5日に配信します。


「下総たより」 『たのんで助かるとは』 安田理深述 (1)

2012-01-22 15:38:52 | 『たのんで助かるとは』 安田理深述

 「たのめ助けんというのは、南無阿弥陀仏という名号の我々に語っている意味です。名号は名であるけれども、名は一つの言葉、我々に名乗った言葉で、言葉の語る意味がたのめ助けん、名号は名である。名というのは我々に名乗る言葉、南無阿弥陀仏というのは仏の名前だけれども、仏の名といえば阿弥陀仏というだけでよさそうだけれども、そこに南無がついておる、阿弥陀という名でなしに、厳密にいえば南無阿弥陀仏という名前である。南無がついている所に我々に語るという意味がある。我々に南無と呼びかけている。南無は我々に対する頼めという呼びかけ、そひて阿弥陀仏というのが助ける。先ず助けるために呼びかける。阿弥陀仏は助けるであるけれども、併し助けるという鍵が南無にある。たのむという鍵をもって助けるという世界が開かれる。名にして同時に言葉である。我々に名のる所の言葉である。寧ろ仏の名というよりも、名前になった仏だといってよい。

 我々の南無阿弥陀仏の仏法に於ては、仏様といえば南無阿弥陀仏が仏様である。向うの方におさまっておる仏様でなく、我々に呼びかけ我々に阿弥陀仏自身を迴向しよう、つまり助けよう、助かるということは迴向にあづかることである。南無というのは我々を呼びさますことだ。呼びさまされた我々に阿弥陀仏全体を迴向しよう。それがお助け、我々を離れた向うの方に静止しておる仏様ではなしに、我々に呼びかけ、我々を助けようという一つの働き、働きとなっている仏様、我々を助けるという働きの他に仏はない。南無阿弥陀仏が御本尊である。

 そこで実存の根底に照らしてたのめ助けんという意義を明らかにしてほしい、ということであったが、実存の根底というのは本願、本願が我々の根底である。南無阿弥陀仏は本願の言葉であり、我々の根底である本願が我々に呼びかける言葉である。それで実存というけれども呼びかけられた実存になる。呼びかけられて目覚める迄は眠った実存である。やはり我々が我々の根底に目覚める所に我々が実存となる。そして実存に目さます言葉が南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を通して、或は南無阿弥陀仏によって、我々は自己の根底に目さませられるのである。そしてそこに実存となる。実は実存となれば、頼んで助かったのが実存の成就である。だからして我々は頼め助けんということによって、頼んで助かることを賜る。だから頼め助けんということを聞いた後でたのみ助かるのでない。つまりたのめ助けんという本願の言葉に対して、我々が外からその言葉の外から、たのめ助けんという言葉の外からたのみ助かるのでない。頼んで助かることを成就せんがために助けんという言葉がある。

 もっとはっきりいえば、たのめ助けんという言葉の中に頼んで助かっておることが成就されたある。頼め助けんのままが助かったことである。頼め助けんという言葉に対して、頼め助かることを加えるのでない。つまり頼み助かるということが南無阿弥陀仏によって迴向成就されておる。頼めという言葉に対して、そうですかといってたのむのでない。そういうことは出来んことだ、不可能なことだ、我々が頼み助かろうというようなことを思い計らうに先立って、南無阿弥陀仏の中にたのみ助かったことが成就してある。南無阿弥陀仏が既に成就してあるが故に、そこに我々のお助けに対して、あれこれ取り計らう必要はなくなったのである。頼め助けんという言葉にうなづくだけである。我々が本願の外から本願を求めるに先立って、本願の中に我々は居る。我々より先に本願の方が我々に頼んでおるのである。我々はそれを知らずにおっただけである。時機当来して今それに気がつかせられたのである。たのめ助けんということのまゝが頼み助かったことである。我々の其の根底に目覚めることが出来るのである。

 目覚めた我々を実存というのである。それ迄は実存といって眠っておった実存であった。だから実存ということも南無阿弥陀仏に於て成立するのである。南無阿弥陀仏の外で眠っておる、目覚めたというのは南無阿弥陀仏の中のこtである。凡て本来南無阿弥陀仏の中におるのだけれども、勝手に外へ出ておったのである。それが今や時節当来して本来中におったことを再認識するのである。改めて再認識すれば、外から内とかいうのも自覚の問題である。内にあっても内だということを知らなければ外である。外も本願を忘れて外に居ったことを自覚すれば内である。くれぐれも重要なのは実存を自覚でたまわるのであって、勝手に我々が実存になるのでない。自覚をたまわるのである。勿論たまわることも自覚するのだけれども、其自覚するということ自身が南無阿弥陀仏の働き、南無阿弥陀仏の中に自己を発見することである。其発見ということも呼びかけによって発見する。南無阿弥陀仏によって南無阿弥陀仏の中に自己を自覚せしめられるのである。                        (つづく)