唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(14)界を弁ず (1)

2017-07-28 22:05:16 | 阿頼耶識の存在論証
 
 私たちは有漏の身を生きていますから、老病死はさけられません。生もまた老病死は私そのものです。「生のみが我等に非ず、死もまた我等なり」とは清沢師の遺訓ですが、生のみの謳歌を考えるところに人生の問題があるのでしょうね。
 如何に死するかではなく、如何に生きるか。人生の問題、生きることの問題がすべてだと。そうしますと、老病死は厄介ですよ。老いたくない、いつまでも若くありたい。病気は嫌だ。死を考えない。人の死は自分の死と重ならないとですね。生死の問題に蓋をしているのが私たちのあり方ではないのかな、と思います。
 生死は刹那滅であり、いつでも新しいいのちの息吹があります。
 唯識は、阿頼耶識は断に非ず、常に非ず。無始時来界と教えてきました。また種子は相・名・分別の習気なり。その結果、私は、界・趣・生を選んで人間として、有為の世界・有漏の身を持って生み出されてきました。
 有為転変することは「流の如し」と。そこでは、私たちが経験することは、一度として同じことはないのですね。常に新鮮なのです。たとえ老病死を迎えたとしても、新鮮だといえるんです。
 親鸞聖人が叡山を下りられて六角堂に参篭されたことは『恵信尼消息』第三通によりますと、「生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候」ということであったのですね。これは後々、関東のご門徒が京都まで聖人を尋ねられた時のお言葉が物語っています。『歎異抄』第二条に「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。」と。
 わたしが本当に求めなければならない事柄は、生死の問題、往生極楽の道を問うことの歩みなのですね。この道が、すべてに意味を与えられていることなのでしょう。
 四食を考える上でも、識食は生死を問うわけです。そのことにおいて段食・触食・意思食が意味を持ってくるのですね。
 これをバラバラに考えますと、四食はいずれの界に存在するのかという問題になるわけです。
 「段食は唯欲界に於てのみ用有り。」(『論』第四・二右)
 段食の説明は省きますが、ただ単に食するだけであれば欲界だけの話である、と。学生時代に友がお昼時「餌ひらいにいこ」と言っていたことと何等変わらないのですね。いやだなぁと思っていましたが、その背景には、食によって育てられていると云う意味を感じていたのかもしれません。育てられていることを知っているということですね。
 源信僧都は「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。」と教えてくださっていると思います。
 俗語ですが、生きるために働く、働かんかったら飯が食えん。食えなかったら死んでしまう。というでしょう。それを安田先生は、「食っても死ぬ」と教えてくださいました。食っても死ぬんです。老病死は避けられないのです。
 食ということも大変大事なことを教えてくれています。七堂伽藍の中に食堂(ジキドウ)があるのも頷けますね。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(13)食の意味

2017-07-25 21:23:04 | 阿頼耶識の存在論証
  
 第三に、食の意味を説明します。
 「此の四いい、能く有情の身命を持して壊断(エダン)せざら令む、故に名づけて食と為す。」(『論』第四・二右)
 この四食は、よく有情の身命を保持し長養して(資養)壊さない、そのことに由って食と名づけるのである。
 食は身を養い、身を養うことにおいて生命を養っている。原語ですと、「能持」となりますから、積極的にですね、身命を保持して壊断せしめないということよりも、身命を養い育てるという積極的な意味が込められていると思います。
 しかし、身命を養い育てるには意味があるのでしょう。
 識食の意味ですね。第八識、いのちは有漏・無漏の分水嶺なのでしょう。いのちの意味を問うところに食の意味があるのでしょうね。ただ食べるだけですと餓鬼道です。対価を払って自分のものであるとするわけですから、すべては物質に換算してしまいます。
 私の所まで届いた物一つは、私のいのちそのもでしょう。
 仮に対価を払ってはいますが、いくら対価を払っても物は手に入らないですね。ここにもご縁は働いています。そこに手が合わさるのですね。
 お金を払って「ありがとう」です。「ありがとうございます。」で仏仏相念の世界が開かれるのですね。
 身近なところで、生かされている意味を知ることが出来る。一つ一つの出来事が生滅変化しながら私と積極的に関わっている。
 「いのち」の不思議は、回向されたものと言わざるを得ない。
 断煩悩の前に「いのち」は輝いている。
 素直になれない自分が、素直になれる時を待たれている、そこに食の意味があるのではなかろうか。
 『了義燈』(第四末・五左)には、
 定に入った者は、たとえば千日回峰行の行者は、段食を超えて、触食と意思食と識食によって、幾日も生命を維持しつづけることが出来るのであると述べています。
 何が言いたいのかといいますと、段食が問題ではないということですね。食べるだけなら、人間でなくても食べています。人間は段食を通して、段食を超えることが課題として、宿題として与えられている。これも回向ですね。よりそわれていると表現してもいいのではないでしょうか。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(12)

2017-07-23 21:17:45 | 阿頼耶識の存在論証
 禅における食事のことば。
  
 真宗の味わい(龍谷学園HPより)
 「食」 それは「多くのいのち」をいただいています。
 「食」 そこには「みなさまのおかげ」がありました。
 「食」 仏さまの「ご恩」を深く喜ぶことができます。
 「食」「慚愧」と「歓喜」の心でもって「仏恩報謝」につとめてまいりましょう。
わたしたちは、食べ物をいただくことで、毎日を過ごしています。
この食事には多くのいのちをいただいています。またこの食事がわたしの口に届くまでには、多くの方のご苦労もありました。
阿弥陀さまは、わたしたちが、多くのいのちと、みなさまのおかげによって、初めて生きることができているのだと、明らかにしてくださいました。
このご恩を思い、お食事を大切にいただきましょう。
お食事をいただいたわたしたちは、尊いおめぐみをいただきました。多くのいのちと食事を用意してくださった方々のご苦労を思い、そのおかげでいのちをいただいています。
いまここにいのちあるわたしを、必ず救うと願い、支えてくださっているのが阿弥陀さまです。このご恩を思い、阿弥陀さまの願いに応えようと、精一杯に生きていきましょう。
 


前回のつづきになります。四食は、三蘊(色・行・識蘊)と五処(香・味・触・意・法処)と十一界(七心界と香・味・触・法界)に属すという説明ですが、少し詳細に説明しますと、次のようになります。
 三蘊について、
 段食は欲界繋の香境・味境・触境の三つが変壊(ヘンネ)する時に、よく食の事となる、と述べられていました。この三つは色蘊に属する。
 触食の体となる触の心所と意思食の体となる思の心所は行蘊に属する。
 識食の体となる諸識は諸蘊に属する。
 五処について、
 四食は、十二処中の香・味・触・意・法処に属すると云う意味になります。
  香境・味境・触境は、それぞれ香処、味処、触処であり、
  触の心所は法処
  思の心所も法処
  諸識は意処に属する。
 十一界については
 十八界中の十一界を指します。詳しくは、眼識界。耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界・意根界の七心界(識食の体)と香界・味界・触界(段食の体)・法界(触食の体・意思食の体)の十一です。四食は十一界に属するものである、ということになります。
 味わいが深いですね。そして、四食は有漏に限るものであるという認識が必要です。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(11)

2017-07-19 22:04:50 | 阿頼耶識の存在論証
  
   四食の次科段は、四食は、三蘊(色・行・識蘊)と五処(香・味・触・意・法処)と十一界(七心界と香・味・触・法界)に属すのであることを述べます。
 つまりですね、五蘊・十二処・十八界の三科の分類の中でどこの属するのかを問うているわけです。
 「是に由って集論(『大乗阿毘達磨集論』)に、此の四食は、三蘊(色・行・識蘊)と五処(香・味・触・意・法処)と十一界(七心界と香・味・触・法界)とに摂すと説けり。」(『論』第四・二右)
 『集論』第三(大正31・672b)と『雑集論』第五(大正31・716c)には「三蘊と五処と十一界にして一分を以て體と為すと説いているのであるが、ここでは略して説いているのは、集論等においては三科は有漏・無漏に通じて説いているのであるが、四食は、ただ有漏のみにおいて説くものであるという意味になります。
 ただ、ここは説明を要しますので、四食の配当は次回にします。
 日野原先生、お亡くなりになられていたんですね。先生の「死はGoodbyeではない」というメッセージに感動しました。死はGoodbyeではありませんね。若しGoodbyeだと、私は生まれてこなかったでしょう。私の所まで届いたんですね。この私のところまで伝わってきた「いのち」は「いのち」の意味を知れと云うメッセージだと思います。日野原先生は、本当に貴重ないのちを生き切られました。輝くいのちは、智慧の光として次世代に多大な影響を与えられるものだと確信します。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(10)識食(シキジキ)の体

2017-07-17 09:40:24 | 阿頼耶識の存在論証
  
 識食の体についての説明です。
 「此の識は、諸識の自体に通ずと雖も、而も第八識いい食の義偏に勝れたり、一類に相続して、執持すること勝れたるが故に。」(『論』第四・初左)
 此の識(識食)は、諸識の自体に遍満しているとはいえ、第八識が食の義ということでは他の諸識に対して偏に勝れているのである。
 何故ならば(理由を挙げます)①一類に ②相続して ③執持する作用が勝れているからである。
 従って、第八識をもって識食の体とするのである。
 識食の体は第八識であることを本科段は明らかにしています。
 三つの理由が挙げられています。(『述記』の釈より、)
 (1) 「改易せず恒に一類なり」(変化せずに恒に一類を保ち)
 (2) 「間断なくして、常に相続して」(不連続の連続という間断が無くして相続している)
 (3) 「執持すること勝れたるが故に」(執持する作用が勝れている)
 尚、この場合の執持は、維持する、保持するという意味。
 一類は、変化せずということですが、三性に於ける善・悪・無記の中、第八識は無覆無記として善でもなく、悪でもなく、ただ無記性であるということです。
 第七識はただ不善ですし、六識は三性に通じています。
 一類相続は、無始よりこのかた絶えることなく相続してきたことを表します。(恒に転ずること暴流の如し)
 ここで思い出されることは、第四教証の偈頌ですね。『入楞伽経』にも是の説を作す。
 「海の風縁に遇うて種種の波浪を起し、現前に作用転じて間断する時有ること無し。」という喩を以て、「眼識等の諸識は大海の如く恒に相続して諸識の波浪を起すこと無し。」という一文です。
 第八識と諸識とでは立ち位置が違うのですね。眼識は眼識として識体はあるけれども、眼識が耳識の体と成ることは無いのです。
 つまり、第八識が識食の体として六識を支えている。従って、六識は現行においてのみ段食であり、触食であり、意思食であるのですが、第八識の体である識食は現行と種子の二つの側面から食であることを明らかにしているのです。転識と本識の関係ですね。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(9)識食(シキジキ)

2017-07-16 07:53:15 | 阿頼耶識の存在論証
  
 今日から識食の説明に入ります。
 識食は、諸識の持つ作用を以て体とするもので、有漏の識が段食と触食と意思食との力に由って増長することがよく食の事となることを明らかにしています。
 「四には識食、執持(シュウジ・シッチ)することを以て相と為す。謂く、有漏の識が、段と触と思との勢力(セイリキ)に由って増長することにおいて、能く食の事と為る。」(『論』第四・初左)
 問題は「執持することを以て相と為す」一段だと思います。
 執持の定義は阿頼耶識の相分(所縁)の種子と有身根という、すべての存在を生じる種子(可能性)と五つの感覚器官とを絶えず、水の流れのように絶えることなく相続しつづける働きのことですが、本科段での執持の解釈は諸識に及んで述べられています。
 この識食は。諸根の大種を長養(チョウヨウ・養い育てる)することを以て、よく食の事となり、段食・触食・意思食の勢力に由って諸識を資長すると『述記』は釈しています。資長は資養&長養と同義語ですね。『瑜伽論』巻第五十七・六十六等に説かれている通りであると。
 例えば、眼識であれば、眼識のもっている眼根を維持し、養い育てるという働きを持つのが識食であるわけですが、それは八識に及ぶことを以て執持と言い現わしているようです。
 識が生起するのは、三和合と定義されていました。つまり、根・境を依り所として識は生起するわけですから、根が養い育てられることは、識もまた養い育てられることになるわけですね。ですから、本科段でいう執持は執も持も識を維持し保持することという広義の意味で使われているようです。
 次科段に於いて、「識食の体は八識に通ずれども、而も第八識のみ食の義勝れたり」(『述記』第四末・六右)と、識食の体は第八識であると説明します。
 次回は識食の体について『論』から学ばせていただきます。
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 昨日のFB投稿より転載
 「㋅27日投稿の田淵先生のお言葉
 「思うけど、煩悩、煩悩って、みんな嫌がるけど、煩悩さんに対して失礼やんか。煩悩があるから私で居られるんやで。」
 時がたってじわっと響いてくんです。
 唯識で本質と影像、疎所縁縁と親所縁縁の関係をなかなか具体的に表現することができなくて悩んでいたのですが、田淵先生のお言葉に触れて、本質はありのままということ、煩悩もありのままに現出している。しかし私たちはどうしても煩悩に執らわれてしまいます。それが影像なのでしょう。
 現在が有る、縁起されたものとして実有(依他起として)、因是善悪果無記と教えられていますが、現行している「今」(流れのように刹那生滅を繰返している現在)は、何ものにも遮られることのない無垢なる私として生かされて有る身だと思います。
 しかし、現実的には、ここが見えないですね。私が居る、私が見て、聴いて、味わって、感じて意識しているのではないですか。
 煩悩が溢れだす諸条件が整っています。しかし、煩悩を通さないと分からない、触れることの出来ない事実かも知れません。それほど煩悩は煩悩の正体を知られたくないのでしょう。その証拠に私たちは、生まれてから死ぬまで「私」といい、私が在ることに何等の疑問を持っていません。
 面白いですね、死にますと、本名が俗名になります。そして法名が与えられます。俗は仮ということ、仮名人なんですね。私たちは、本名は仮のものであることを無意識の中に承知しているのではないでしょうか。
 では、実のものは何なのか。それが仮和合であることが実有としての存在である私の実体なのだと思います。
 仮ですから、貴方との関係が破壊されれば、私の存在も無いということです。この関係が無条件であることが縁起的存在ということでしょう。
 また、業縁存在ともいわれます。業は異熟果です。阿頼耶識の果相、ここに能蔵としての阿頼耶識が蔵識といわれる所以がありますが、果相を因として、諸条件と向かい合っているのが縁でしょう。
 ですから、決定的に現行を引き出してくのは因に由るわけです。
 「因は種子」であり「無始の時より現在に至り、未来永劫に展転相続して親しく(直接的に)諸法(すべての環境世界)を生み出してくる直接原因であり、縁は間接的要因であるということですね。
 ここがはっきりしないのが、恒行無明ですが、無明が破られてくる時(「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」)に、我見の相が見えてくるのでしょう。
 宗祖は、
 「我見憍慢悪衆生」と押さえられています。我見は他と対峙します。怒りを生み出してくる根本原因ですが、私たちは、我見という、私の見解によって、奢り高ぶりを生じて他を抹殺している相が見えるんだと教えられているんだと思います。ここに回向と自覚の出遇があるのではないでしょうか。
 我見に依って慢心が生れ、慢心が我愛を生みだし、自分の都合でしか生き得ることの出来ない相が白日の下にさらけ出されるところに、慚愧のこころがいただかれるのですね。ここに煩悩が有りがたいご縁であると手が合わさるのではないでしょうか。
 田淵先生のお言葉から、こんなことを感じました。南無阿弥陀仏」

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(8)意思食 (4)

2017-07-08 13:22:14 | 阿頼耶識の存在論証
  
 パソコンでの検索も随分便利になっていいのですが、苦労して読む、或は専門図書を探すという地道な作業が必要としないのには、やっぱり問題が潜んでいるのでしょうね。
 今日は国立国会図書館のデーターベースから『国訳大蔵経』論部第十一巻(p637)より、意思食の喩を読んでみたいと思います。意訳は先日施しましたが、原漢文の読み下しを引用します。
 意思食は触食・識食の二食を摂し、触食・識食は意思食と相応することを明らかにしています。
 例(喩)が三題挙げられています。
 (1)「世に伝えて言う有り。昔、一の父有り。時に飢饉に遭い、他方に造らん(イタ)らんと欲すれども、自らすでに餞(ウ)えて嬴(チカラナ)し。二子(ニシ)あり、嬰稚(ヨウチ)なり。意(ココロ)に、携(タズサ)え去らんと欲するも、力の任(タ)えざる所なり。(乃ち)嚢(フクロ)に盛るに灰を以てし、壁上(ビャクジョウ)に掛け、二子を慰喩(イユ)して云わく、是れ麨(コガシ)の嚢なりと。二子希望(ケモウ)して、多時命(タジミョウ)を延べたり。後に人有り。至りて嚢を取り、為に開く。子、是れの灰なるを見て望絶えて便ち死せりと。」
 (2)「又、大海に於いて、諸の商人有り。難に遭い、舟は敗(ヤブ)れて飲食(オンジキ)倶に失うも、遥かに積沫(シャクマツ)を瞻(ミ)、疑いて海岸と為し、意(ココロ)に速に至ることを望んで、命延ることを得たり。時に触れるに至りて非なるを知り、望絶え、便ち死せりと。」
 (3)「集異門足論に説く。大海の中に大なる衆生有り。岸に登りて卵を産み、沙(スナ)の内に埋め、還りて海中に入る。母若し常に思えば、卵は便ち壊せず。如(モ)し其れ、念を失えば、卵は便ち敗亡(ハイモウ)すと。此れは(母の思が卵を能く持すること)、応に然るべからず。食の義に違するが故に。豈(アニ)他の思食能く自身を持せんや。理として、実に応に言うべし。卵、常に母を思えば、爛壊(ランエ)せざることを得。忘るれば、則ち命終ると。母を念(オモ)うの思を起こすは、触の位に在ればなり。」
 ここまでが喩ですが、次科段において、食を四とするのは何故かという問答が説かれます。非常に大事な所ですのでお読みください。
 「諸の有漏の法は、皆、有を滋長(ジチョウ)するに、如何(イカ)にして、世尊は、食は唯だ四と説けるのか。爾(シカリ)と雖も、勝(ショウ)に就きて四と説くものなれば、失無し。謂く、初(段食・触食)の二食は、能く身の所依(有根身)と能依(心・心所)とを益し、後(意思食・識食)の二食は、能く當有を引き(未来の生)、能く當有を起こす(現在の生)。
 所依と言うは、謂く、有根身なり。段食は、彼(触食)に於いて、能く資益(シヤク)を為す。能依と言うは、謂く、心心所なり。触食は、彼(段食)に於いて、能く資益を為す。
 是の如き二食は、已生(イショウ)の有(現在の有情)に於いて、資益の功能(クウノウ)最も殊勝なりとす。
 當有と言うは、謂く未来の生なり。彼の當生に於いて、思食、能く引く。思食引き已りて、業の熏ずる所の識の種子の力に従いて、後有(ゴウ)起こることを得るなり。
 是の如き二食は、未生(ミショウ)の有に於いて、引起(インキ)する功能最も殊勝なりとす。故に、有漏は、皆、有を滋長すと雖も、而も唯勝能に就きて、唯、四食の身と説くなり。前の二は義母(ヨウモ)の如し。已生を養うが故に、後の二は生母(ショウモ)の如し。未生を生ずるが故に。」
 『倶舎論』の論調から、その意を尋ねますと、私たちの生命の維持には食事を摂取することは不可欠なのですが、生命を維持するのは、未来に対して希望があるということに他ならないのですね。この未来に対して希望がある欲求が思の心所と相応して、生きようとする意欲が生じてくるのですね。
 ここで一応意思食の説明は終えます。
 次回は識食について考えます。






阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(7)意思食 (3)

2017-07-06 22:42:32 | 阿頼耶識の存在論証
  
 識食に入る前に、意思識の補足をします。
 『成唯識論要講』で太田久紀師は意思食について次のように述べておられますので紹介します。
 「第三番目が意思食、「希望するを以て相と為す。」これもいいですね、意思食は希望です。希望する。意志の力、心の智から、そういうものによって私共は自分の命を支えていく。お経の中に出てくる話です。貧しい家の子供が危篤状態になった。出稼ぎに行っているお父さんが帰ってくるまでなんとかして支えてやりたいと、お母さんは布の袋にいっぱいお米をいれて枕元にぶら下げ、お父さんがかえってらしたら一緒に食べようねといって子供を励ます。子供はお父さんがかえるのを首を長くして待っている。ところがある日ねずみがその袋を嚙った。そうすると砂が落ちてくるのです。それを子供は見て、察しがつくのです。これはお母さんが私を励ますためにお米だといったのであって、本当は砂であったのだと分かると急に容態が悪くなって死んでしまった、という話であります。これが意思食です。哀しい話ですね。」(第二巻p57/58)
 論拠は『倶舎論』(大正29・55b)ですが、もう一つ喩が出されています。
 頌では、
 「頌曰 有情由食住 段欲體唯三 非色不能益 自根解脱故 觸思識三食 有漏通三界 意成及求生 食香中有起 前二益此世 所依及能依 後二於當有 引及起如次。」
 になります。
 (有情は食に由って住す。段は欲にして體は唯三なり、色に非ず、自根と解脱とを益する能はざるが故なり。触と思と識との三食は、有漏にして三界に通ず。意成と及び求生と食香と中有と起となり。前の二は此世の所依及び能依を益し、後の二は當有に於て引き及び起こすこと次での如し。)
 頌に対する論の説明が以下になります。
 「 昔有一父。時遭飢饉欲造他方。自既飢羸。二子嬰稚。意欲攜去力所不任。以嚢盛灰挂於壁上。慰喩二子云是麨嚢。二子希望多時延命。後有人至取嚢爲開。子見是灰望絶便死。又於大海有諸商人。遭難敗船飮食倶失。遙瞻積沫疑爲海岸。意望速至命得延時。至觸知非望絶便死
。」
 もう一つの喩は、「海で船が難破して食料を失った商人が海上はるかに浮かぶ泡を見て陸と思い、そこに早く行きつくことを望んで延命することが出来た。しかしこの場合もそれが泡であり陸ではないと知る時、望み絶えてすなわち死せり」と。
 私たちは、生きるということ、生きていることを当たり前としていますが、それは絶望の淵に立っていないから脳天気なのでしょうね。災害が起きる、或は不慮の事故に遭遇する等の時に、一縷の望みが生命を支えていくわけでしょう。たぶんですね、望みが断たれてしまいますと生きる気力を無くしてしまうのではないでしょうか。
 生きるということは意思の力なのですが、意思の力を支えているのが第八識、いのちそのものなのですね。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(6)意思食(イシジキ)(2)

2017-07-03 21:45:12 | 阿頼耶識の存在論証

希望(ケモウ)なのですが、、生きる望みがあることと解釈していいと思います。
 『摂大乗論釈』(無著造。世親釈。玄奘訳)から意思食を考えてみますと、 
 「意思食者。是能悕望。由希望故饒益所依。如遠見水雖渇不死」(大正31・332b)巻第三・所知依分第二の三にですね、識食の証明について述べられる中で四食の説明がされています。そしてこの意思食なのですが、「意思食とは是れ能く希望す、希望に由るが故に所依を饒益(ニョウヤク)す、遠く水を見れば渇すと雖も死せざるが如し。」と。
 これは希望の喩ですね。此の希望が無くなりますと「望絶便死」(望み絶えて便ち死せり)(『倶舎論』大正29・55b)と喩られていますが、(生きようという意欲の)意思が生きるという希望を抱かせるのですね。つまり、生きようとする意思がなかったならば、望絶便死なのです。
 意欲ですが、雑染の欲と善法欲という二つの欲が混在するのです。私は雑染の種子を所依としているわけですから、雑染の種子から出てくる欲は、雑染欲でしかありません。しかしこの雑染が手掛かりとなるわけです。識食までいきますと、はっきりしますが、第八識は無覆無記なんですね。つまり、現行は無覆無記という性格をもっているのです。因の雑染が現行の果において無記という色づけされない性格をもつのです。ここにですね、雑染欲が善法欲に転依する「今」という時が与えられているのですね。
 生きるということは、いつでも、どこでも、何があっても転依する時を待っているのではないかと思いますね。
 「此の思は、諸識と相応すと雖も、意識に属せるいい食の義偏に勝れたり、意識は、境の於(ウエ)に希望すること勝れたるが故に。」(『論』第四・初左)
 この思の心所は八識に通じて相応するのですが、意識に属するものを食ということはですね、意識において食の義が偏に勝れているからである。何故なら、意識は認識対象において他の識と比較して、希望することが勝れているからである、と。
 この間の事情を『述記』(第四末・五左)
 「(意識と相応する思は)深く勝れて希望し及び未来を縁ず、余(五識等)と倶なる思は希望すること勝るるものには非ず、此れに由りて亦准ずるに六識(第六意識)に属するものなり。體、六識には非ず。爾らずんば思食は體第六なるべし。」と。
 第六意識相応の思の心所が意思食の体であることを明らかにしているのです。
 六識の中で、前五識は現在を縁じてはいますが、過去と未来の対象は縁じていないのです。未来を縁じているのは第六意識なのですね。従って、「深く勝れて希望し及び未来を縁ず」るのは第六意識であるのです。
 意思食でいう思の心所は、欲の心所と倶に働くものですから、欲の心所は別境ですね。第八識は五つの遍行と相応しますが、別境とは相応しないのです。第七識も同様です。ですから第八・第七識は除外されます。

阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(5)意思食(イシジキ)

2017-07-02 14:38:11 | 阿頼耶識の存在論証
 
 第三番目に、意思食が述べられます。意思もまた「食」と成り、身を資養し、生の充実を図るものとして大変重要な要素を持っていることを明らかにします。
 「三には、意思食、希望(ケモウ)することを以て相と為す。謂く、有漏の思(シ)が欲と倶転(クテン)して、可愛(カアイ)の境と希(ネガ)うて、能く食の事と為る。」(『論』第四・初左)
 希望(ケモウ)とは、ねがい望むことですが、意思食は「寿命を貪愛し、存活を希望す」という有漏の思の心所が我欲と共に働き、愛すべき対象(可愛の境)を願うことが食の事と為ると述べています。
 随分昔のことではありますが、今でも心の片隅に残っている出来事があります。お稽古事を習っていました師匠の奥様が、病気ではないのですが早くに亡くなられました。ずっと寝たきりではあったのですが、お医者様でもどうしようもなかったのです。それはこの意思食が因となっているということを師からお聞きしました。
 生きるという生命力が欠如して、食する行為に移行しないのでした。そしてボチボチやせ衰えて、50代で老衰の為に亡くなられたそうです。
 食することは、生きようとする生命力が根底に働いているのですね。それを意思食と表したのだと思います。
 『述記』は、
 「若し可愛の境を希うことは未来と及び現在とに通ず」と述べていますが、生きようとする願いが無かったなら、現在も亦未来も無いということになるのでしょう。

 思の心所を振り返ってみますと、
 「思謂令心造作為性。於善品等役心為業。」(『論』第三左)
  思と云うは謂く、心を造作(ゾウサ)せしむるを以て性と為し、善品等の於に心を役(ヤク)するを以て業と為す。
 性は本性であり、不退という意義をもっている。思の性は造作(行為をなすこと)することである。
 業は、造作の働きで、心を役するこである。心を使って、行動を起こすことなのですね。
 つまり、意思する心です。意思とは考え、思いという意味があり、業を表しますますが、もう一つの意志は、成し遂げようとする心、すなわち行を表します。
 受・想・思という流れを見ていますが、受は愛を起こし、想は言語を成り立たせ、そして思は業を成り立たせる。業は行為ですから、行為の本質は思であると教えているのです。
 思とは行為なんですね。思うだけではないんです。思うだけなら感情というもので、思は意思決定を伴うのですね。何事かを選択し、決断するのは意業、意の働きであり、それが具体化する場合には、身と口を以て発動する。発動は具体的な表現ですね。身・口・意の三業が和合して行為が成り立つわけです。身・口は直接的には業ではありませんが、意の発動になるときに業になるわけです。意を伴って、身が身による業(身体的行為・身業)となり、口が口による業(言語的行為・口業)となるわけです。意という意志的活動がその元にありますから、意業は思業ともいわれているのですね。
 『了義燈』(第四末・二左)に問答を起して意思食の井美を明らかにしています。
 「問う。触食は能く喜楽を生ず。思食は必ず欲と倶なり。喜楽を摂益し、欲を自ら希望せば、受と及び欲とこれを説きて食と為すべし。」
 「答う。触に由りて受を起し、思に由りて欲を起こす、果を挙げて因を顕す。正しくは触と思に由る、此れを説いて食と為すなり。」と。
 そして『瑜伽論』巻第九十四を引用して論証しています。