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私たちは有漏の身を生きていますから、老病死はさけられません。生もまた老病死は私そのものです。「生のみが我等に非ず、死もまた我等なり」とは清沢師の遺訓ですが、生のみの謳歌を考えるところに人生の問題があるのでしょうね。
如何に死するかではなく、如何に生きるか。人生の問題、生きることの問題がすべてだと。そうしますと、老病死は厄介ですよ。老いたくない、いつまでも若くありたい。病気は嫌だ。死を考えない。人の死は自分の死と重ならないとですね。生死の問題に蓋をしているのが私たちのあり方ではないのかな、と思います。
生死は刹那滅であり、いつでも新しいいのちの息吹があります。
唯識は、阿頼耶識は断に非ず、常に非ず。無始時来界と教えてきました。また種子は相・名・分別の習気なり。その結果、私は、界・趣・生を選んで人間として、有為の世界・有漏の身を持って生み出されてきました。
有為転変することは「流の如し」と。そこでは、私たちが経験することは、一度として同じことはないのですね。常に新鮮なのです。たとえ老病死を迎えたとしても、新鮮だといえるんです。
親鸞聖人が叡山を下りられて六角堂に参篭されたことは『恵信尼消息』第三通によりますと、「生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候」ということであったのですね。これは後々、関東のご門徒が京都まで聖人を尋ねられた時のお言葉が物語っています。『歎異抄』第二条に「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。」と。
わたしが本当に求めなければならない事柄は、生死の問題、往生極楽の道を問うことの歩みなのですね。この道が、すべてに意味を与えられていることなのでしょう。
四食を考える上でも、識食は生死を問うわけです。そのことにおいて段食・触食・意思食が意味を持ってくるのですね。
これをバラバラに考えますと、四食はいずれの界に存在するのかという問題になるわけです。
「段食は唯欲界に於てのみ用有り。」(『論』第四・二右)
段食の説明は省きますが、ただ単に食するだけであれば欲界だけの話である、と。学生時代に友がお昼時「餌ひらいにいこ」と言っていたことと何等変わらないのですね。いやだなぁと思っていましたが、その背景には、食によって育てられていると云う意味を感じていたのかもしれません。育てられていることを知っているということですね。
源信僧都は「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。」と教えてくださっていると思います。
俗語ですが、生きるために働く、働かんかったら飯が食えん。食えなかったら死んでしまう。というでしょう。それを安田先生は、「食っても死ぬ」と教えてくださいました。食っても死ぬんです。老病死は避けられないのです。
食ということも大変大事なことを教えてくれています。七堂伽藍の中に食堂(ジキドウ)があるのも頷けますね。