唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(17)

2020-02-23 11:36:56 | 唯識入門
 おはようございます。前回では、何を以て種子とするかについて大切なところを述べました。
 種子について、護法菩薩は、人間は本来的に持つ一面(本性住種・ほんしょうじゅうしゅ)と、生活を通して吸収し取得していく一面(習所成種・じゅうしょじょうしゅ)とがあって、二面が備わったのが現実の生きざまであるという人間観を確立されたのです。
 『大乗阿毘達磨経』には、因果の性質を、「更互(こうご)に果性(かしょう)と為(な)り、亦常(またつね)に因性(いんしょう)と為(な)ると。」
 と、説かれています。同時因果の教証になります。また、「有情(うじょう)は無始(むし)の時より来(このかた)種々の界(かい)有り。」とも説かれ、「界と云うは、是れ因の義。即ち種子識にして、」
 種子とは因性なんですね。この因相を、本頌では「一切種」といっています。『成唯識論』では「此れ(阿頼耶識)は能く諸法の種子を執持(しゅうじ)して失せざらしむるが故に一切種と名づく」と釈されています。定義としては、執持は摂するということ、「摂して自体と為して、持して、不壊(ふえ)ならしむ」という説明がされています。
 阿頼耶識の中に蓄えられた種子は、一切種という。すべてですから、無始以来の過去を背負っている。命は過去を背負って現行し、熏習される。熏習は種子となり現行しますから、熏習の面からは、永遠の未来をはらんでいるといえましょう。
 ですから、
 「種子より生じて種子を熏(くん)ず。」(存在するものは、阿頼耶識の中の種子より生じ、生じたものは、また阿頼耶識の中に種子を熏習する。)ということになります。次回は熏習について考えてみたいと思います。
 『二巻抄』で、良遍和上は、
 「熏ずと申は己が気分を留めて置なり。」(熏習とは、自己の気分を留め置くことである。)
 と、教えてくださっています。
 熏習とは、表層的な七転識が阿頼耶識に種子を植え付けること(阿頼耶識から言えば、受熏)で、新熏種子といい、熏習されるもの(所熏・しょくん)、熏習するもの(能熏・のうくん)といいます。
 また次回に。

唯識入門(16)

2020-02-16 10:46:24 | 唯識入門
 おはようございます。あいにくの空模様です。午後から荒れ模様だそうです。お出かけされる方は気を付けてくださいね。
 今回は前回に述べました第一番目の刹那滅と第三番目の恒随転を結ぶような形の第二番目の果倶有(かくう)について考えます。
 言葉の難しさを感じます。どうしても、種子・現行・熏種子(くんじゅうし)と並びますと、それぞれが別に動いていると思ってしまいます。しかし、そうではなくて、現行の一つの側面を言い表しているのですね。
 現行は種子から引き出され、引き出された現行は、そのまま阿頼耶識(あらやしき)に熏習(くんじゅう)されているということです。
 深層の阿頼耶識の循環によって、私の生活は成り立っていることを教えています。
 縁に伴ってということがありますが、厳密には、その縁も自らが引いてきたことなんでしょうね。
 種子を因として、縁を伴って現行が果になります。これを異熟(いじゅく)と押さえています。過去の行為の結果が現在現行していることになりますね。これは元には戻せません。やり直しがきかないんです。
 しかし、現行に流されることなく、今を受け止める力を身につけることが求められますね。それこそですね、今がご縁なんです。昨日はお釈迦様が涅槃に入られた日、涅槃会も厳修されました。つまり、今をご縁として涅槃を求めることが大切な営みになるようです。
 そうしますと、今がとてつもなく有難いご縁になるんですね。
 こういうところが阿頼耶識の純粋性になると思います。私のいのちの根源は純粋なんです。純粋だからこそ、人生を見直すことができるんですね。僕みたいな不順な人間であってもですよ。見捨てられていないんです。
 果倶有の定義としては、種子は「現行(げんぎょう)と恒(つね)に倶(く)にあるもの」であることを明らかにしています。
 「二(ふたつ)には果倶有。謂く所生(しょしょう)の現行の果法と倶に現に和合するが方(まさ)に種子と成る。」と。
 種子は、所生の現行の果と倶に和合する。種子が表に現れたものを現行といいますが、この現行を果法といっています。現行の果法と種子は倶である、果と共にあるもの、異時ではなく同時存在なのです。因と果が時間的経過を経ているということではなく、同時同処をあらわしているのですね。種子生現行というでしょう。現行する為には縁があって現行するわけですが、縁のない時は種子生種子として、種子が種子として相続していくことになります。  
 第二の果倶有に於て、何が遮せられるのかですが、ここは第一の刹那滅ですね、これを受けています。
 刹那滅は刹那生滅ですから、同時であることを意味しているわけですが、
 一つの理由は、果倶有も同様に、前後を遮す、前後を否定しているわけです。種子は刹那の中で深く関わりあっている。常に因果同時であることを明らかにしています。
 ですから種子には前後が無いということになります。前の因(種子)が後の果(現行)となるという時間的前後を否定しています。倶時である。現行は種子の表面化ですね。種子があって現行するのではなく、種子の表面化が現行であるということになります。
 種子は阿頼耶識の中に蓄積され蔵されているわけですが、現行する時は種子生現行で同時なんです。種子があっても縁に触れないものは現行しません。
 二つ目の理由は、「定めて相離とを遮す」、定離(じょうり)です。
 私と無関係に種子はあるわけではないのです。「現在の時に因の用有るべし」と。永遠の今と言っていいのでしょうか。今を成り立たせているものが種子である、と。私が、今、現に生きているのは昨日のことでもなく、明日のことでもなく、今であるということ、これが種子のもっている意味であるのです。現行の果を生ずる種子は必ず現行と倶有であり、倶時であるわけです。大切なことを教えられています。
 またにします。


唯識入門(15)

2020-02-09 13:12:54 | 唯識入門
 今日は、来週からまた初春の陽気になるそうですが、雨模様みたいです。今日明日はまだ冬型ですね、寒いです。
 前回から種子について考えていますが、少し論題から離れてですね、地獄・極楽を死後の世界と捉えると、死後の世界なんて信じられへんという返事が返ってきます。
 地獄・極楽は両極端のように聞こえますが、そうではないですね。地獄は極苦処とも、奈落(金輪際)ともいわれて、暗闇の世界を表しています。
 極楽はどうでしょうか。ネオン輝く繁華街を思い出してください。竜宮ですね。
 共に、自己を振り返る余裕はありません。そこでは言葉が通じない世界だと、よくいわれます。何故言葉が通じないのでしょう。それは自分の思い(自分の物差し)が強いからでしょうね。
 浦島太郎の物語や蜘蛛の糸で語られていることは、自己の物差しですね。自己中心の天秤が、それこそ、自然に出てきてしまうのでしょう。他者をかえりみる余裕が無い世界を表しています。
 人間世界はどうでしょう。地獄極楽の狭間に存在して、苦楽の中で生きることの意味を考えさせられる立ち位置に存在しているのではないですか。
 僕の若い頃、植木等のスーダラ節が流行りました。「わかっちいるけどやめられない」自分は分かったつもりで、分かったつもりを物差しとしているんですね。だから止められないのですが、往々にしてこのような間違いを起してしまいます。
 唯識は提言します。
 「外界は自己の心の投影」「他者は自分を映し出す鏡」「他者は自分の影像」であると。このことが分からんですね。自分では気づきを得ないという闇が覆っているのです。平気で差別をし、批判をしています。そのことを思う時、自分は世界の宰相になりたいのでしょうね。バーチャルでもいいから、自分が宰相として、世界をぶったぎっているのではありませんか。
 我の定義として、「我というは謂く主宰(しゅさい・自ら自己と他者を支配すること)。」であり、主とは自在、宰とは割断(かつだん・決断すること)と意味づけされています。
 支配するのは執ですね。自己を執することが他者をも支配する独裁として表面化しているわけでしょう。それを我というのですね。
 この執が種子の隠された意味になると思います。
 今日は三番目の恒随転(恒に随って転ず)についてです。
 「三には恒随転(ごうずいてん)、謂く要ず長時に一類相続(いちるいそうぞく)して究竟位(くきょうい)に至(いたる)が方(まさ)に種子(しゅうじ)と成る。」と教えています。
 恒随転とは、種子は一類相続して究竟位に至るまで断ずることがない。ここは第二番目の果倶有という異類と対応している所です。一類である。また、相続という点からは、第一番目の生滅と対応しています。種子は刹那滅ですが、刹那生滅を繰り返しながら同じ性質が変わらず相続していくということ。善の種子は善の種子とし、悪の種子は悪の種子として相続していく、非常に厳密ですね。種子生種子は自類相生し引生していくものである。他のものをもってくるわけにはいかないんですね。他者に変わってもらうわけにはいかないんです。
 「此は転識(てんじき)を遮(しゃ)す。転易(てんにゃく)し、間断(けんだん)するを以て種子法(しゅうじほう)與(と)相応せざる故に。此は種子の自類相生(じるいそうじょう)することを顕す。」
 転易とは、うつりかわることです。
 自類相生とは、阿頼耶識の中の種子は一刹那に生じては滅し、滅した次の刹那に自らとおなじ種類(自類)の種子を生じる(相生)ありようが不断に続く。この説は、外道の説く常一なる我(アートマン)と同じではないかと云う非難に対しての唯識側からの答えになり、阿頼耶識は非常非断の連続体であることを表す為に、「自類」という概念を用いています。
 恒随転において、転識を除外する、ということ。阿頼耶識に蓄積される種子は、その性質は変わらず自類相生であることを顕わしているのです。七転識は縁生ですから、条件が変われば、受け取り方も変わってくる、うつりかわり、間断が有るということになり、そのようなものは種子法と相応しない。変化するもの、転易するもの、そして間断があるものは種子ではない、種子は一類相続していくものであるのです。
 概念としては、現実の行動や思索のすべてが種子として揺ぎ無く蓄積されていて、そこから現実の行動が生み出されているということなんです。ここで無因論を破します。
 現行(現実の行動)は結果なんです。結果を生ずる種子は必ず現行と倶有であり、倶時であるわけです。
 非常に大事なことを教えていただいていますが、この刹那滅と恒随転の説明として、第二番目の果倶有(かくう)が説かれています。種子は、「現行(ゲンギョウ)と恒(ツネ)に倶(ク)にあるもの」であることを明らかにしています。
 次回に考えます。
 今日は長くなりました。すみません。眼を通して頂ければ幸いです。南無



 

唯識入門(14)

2020-02-02 10:42:35 | 唯識入門
 おはようございます。一週間早いですね。今日は穏やかな天候に恵まれています。お出かけ日和ですね。
 さて、今日は種子についてです。
 種子(しゅうじ)って何?という疑問がでてまいりますが、種子こそ現在の自分を規定している根幹を成すものなんですね。
 『論』では種子となるものを六つの方面から考究しています。すべてを紹介するのはかえって煩雑だと思いますので、大事なところだけを紹介したいと思います。
 種子を積極的に規定しているのが、種子の六義の中での第一番目の刹那滅(せつなめつ)と第三番目の恒随転(ごうずいてん)になります。
 有為法から種子を明らかにしています。有為法は生滅変化するもので必滅の用あるものです。
 刹那滅というのは、つまり、生ずると即座に滅する、間が無い(間断することが無い)けれども、その中で勝功力(しょうくりき・強い力)があるものが種子である。一刹那に生滅しながら私の人格を形成し、支えていくのが種子である、と云われているのです。
 種子生現行であって、種子と現行の間に断がないということですね。種子が有って現行が生起するということではなく、種子即現行即種子etcなのです。滅と生と滅と生との行間に命の躍動感があるのでしょう。いつも新しい命をいただいている、種子も現行も恒にリフレッシュされている躍動感なんですね。
 種子の第一の意味は、刹那滅であることを説いていますが、それに於いて何が除外されるのかといいますと、「常法」を除外する、常法は、転変することが無いからである。転変することのないものは、ものを生ずるという能生(のうしょう)の働きが無いからである、というわけです。
 転変することのないものは、真如ですね。無為法です。無為法を以て種子とすることはできないと説いているわけです。
 刹那滅という時は、そこに能生の用(ゆう・働き)が有って、そこで縁起が成り立っているわけです。それを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)といいます。
 つまりね、「本識の中に親しく自果を生ずる功能差別なり」と種子の定義がされていましたが、現行が因とすれば果は種子であって、時には因と果を同時に受け持っていると云う意味があり、生滅というところに種子の意義がるということなんです。
 次回は恒随転について説明します。