唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (90) ・ 倶有依 (66) 護法の正義を述べる、(20)

2011-04-30 18:10:29 | 増上縁依(倶有依)

          ー 第七識の倶有依について ー

 初めに第七識の倶有依を挙げ、次に証を挙げる。

 「第七意識の倶有所依は、但一種有り、謂く第八ぞ、蔵識若し無きときには、定んで転ぜざるが故に。』(『論』第四・二十左)

(第七識の倶有依はただ一種である。つまり第八識である、若し蔵識(第八識)が存在しない時には、第七識は必ず活動しないからである。)

 第七識の倶有依は第八識のみであるというのが護法の説ですね。『唯識論聞書』(光胤)には「光胤申云。第八爲第七カ根本依之外ニ不共依ノ義用アル歟ノ事モ。同シ沙汰也。但聊染淨依ヨリハ別ノ義用アリトモ覺エタリ。第七八識既恒倶轉之邊ハ。根本依之外ノ事也。其故ハ根本依トナル事ハ。間斷識體ノタメニモ。根本依トハナル也。故ニ能所恒轉ハ。根本依之外歟」(大正66・715c20~25)と述べられています。第八識は第七識に対しては不共依である。第八識と第七識は間断することなく恒に倶転する識であり、能依・所依が間断することなく恒に倶転する第八識と第七識の関係では、互いを不共依とする。第八識は諸識に対して根本依であるけれども、根本依という場合には、間断がある識に対して言うものであり、第七識は間断がなく第八識と倶に活動することから不共依という関係になる、と。

 「第七意識」と云うことは『瑜伽論』巻第六十三に「一には阿頼耶識、二には転識なり、阿頼耶識は是れ所依なり、転識は是れ能依なり。此の転識に復七種あり、所謂る眼識乃至意識なり」と説かれていることによります。また、第八識が若し存在しない時には第七識も亦存在しないと説かれている。『瑜伽論』巻第五十一に「阿頼耶識有るに由るが故に末那識あることを得、」と。

 次に証を引く。

 「伽陀に説けるが如し、 阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、 心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得という。」(『論』第四・二十一右)

 (伽陀(『入楞伽経』第九巻・大正16・571c20「依止阿梨耶 能轉生意識 依止依心意 能生於轉識」の取意)に説かれている通りである。「阿頼耶識を依とすることに於いて、末那識は活動する。心と意とに依止して、他の転識は生じる。)

 『入楞伽経』第九巻・総品の中の頌に「阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して能く転識を生ずと。」と語られているのですが、『論』はこの『頌』の要を述べています。そしてこの文が第七識の倶有依は第八識であることの証拠であると示しているのです。

 「述して曰く、即ち『楞伽経』第九巻の総品の中の頌なり。旧偈には阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して、能く転識を生ずと云えり。稍此と別なり。此れに准ずれば前の依において好(よ)き証と為すに足れり。今の文は解すべし。」(『述記』九十五左)

 「此れに准ずれば前の依において好(よ)き証と為すに足れり。今の文は解すべし。」ということは、この『論』の文章は『頌』の前半と後半に分けて第七識の倶有依と前五識の倶有依と第六識の倶有依を示す証拠になる、と理解すべきである、と述べています。前半は「阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、」という部分ですね、第七識の倶有依は第八識であることを示し、後半の「心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得」という部分は、第七識と第八識を倶有依として前五識及び第六識は活動する、という証拠を示しているということになります。

              ―  雑感  ―

 護法菩薩の倶有依についての所論を学んでいるわけですが、ここまでのところを少し整理をしてみます。倶有依は依と区別され、倶有依というからには、決定の義・有境の義・為主の義・取自所縁の義という四義を備えていなければならないといい、これらの四義を備えているのが、内の六処である五根と第六識・第七識・第八識の意根なのですね。

 前五識の倶有依は五色根と第六識と第七識と第八識との識です。『瑜伽論』巻第一に「何等をか五識身と為すや、所謂眼識・耳識・鼻識・舌識・身識なり、云何が眼識の自性なるや、謂く眼に依って色を了別するなり。彼(眼識)の所依とは三有り、倶有依は謂く眼根なり、等無間依は、謂く意根なり、種子依は謂く即ち此れ一切種子を執受する所依にして、異熟に摂めらるる阿頼耶識なり。」との記述があります。五識身は五つの感覚ですね。五識に対して眼覚乃至触覚です。根(五根と意根)が所依であり、識(前五識・第六識・第七識・第八識)は能依になり、同時に存在するので倶有依となるのです。五識身といわれますように、先ず身をもっているということが大前提になります。身をもって感覚器官が働くのです。前五識が働くのは前五識の力ではないですね。第六意識(五倶の意識)が前五識に働きかけて物事を判断したり思考したりするわけです。五感覚器官と倶に働く意識に依って判断思考が行われるのです。そしてその深層に第七末那識が働いているのです。恒審思量といわれる潜在的な利己性が潜んで表層の意識を支えているといわれます。そしてこれらすべての根本に第八阿頼耶識があって、すべての経験を蓄えているのですね。このような重層的な構造をもって前五識は動いているわけです。前五識は身において支えられていますが、その働きは心・心所に依るわけです。所依の第四の条件に「心・心所をして自の所縁を取らしむ」と明らかにされ、所依の条件として、能依である心・心所をして自の所縁を取らしむるということです。

 前五識は、五根と第六識・第七識・第八識を倶有依とし、第六識は第七識と第八識を倶有依とし、第七識は第八識を、第八識は第七識を倶有依とする、と。第七識と第八識の倶有依が人間として非常に大切なことを教えています。「第七識の倶有所依は、但一種のみ有り。謂く第八識なり。蔵識若し無き時は定めて転ぜざるが故に」と説かれ、また、「阿頼耶識の倶有所依も、亦但一種のみなり。謂く第七識なり。彼の識若し無き時には定めて転ぜざるが故に。」と説かれ、深層意識の中で利己性に染汚された識が根本識に蓄積され、染汚されたままの識が表層の意識に伴って前五識が働いてくるのですね。これが迷いの構造になるわけですが、この迷いの構造を知らしめる働きが、法蔵願心ですね。現実的には苦悩を縁とするということでしょうね。苦悩を縁として苦悩なき世界を願う、その願いは利己性からは出てこないでしょう。利己性が利己性を知り利己性を内面から内破る働きが本来自身の中に備わっているのでしょうか。利己性と倶に如来の願心が恒に働いているわけでしょう。いうなれば、阿頼耶識と一体になっている働きではないでしょうかね。迷いの識は迷いの識のままで働いているわけではないでしょう。迷いを知らしめることを通して如来は如来の願心を表現しているのではないでしょうか。具体的には法蔵菩薩の働きであり、法性としては南無阿弥陀仏の御心でありましょう。こんなことを思う事です。


第二能変 所依門 (89) ・ 倶有依 (65) 護法の正義を述べる、その(19)

2011-04-29 16:03:06 | 増上縁依(倶有依)

 ー 六識の倶有依について、その(3) 聖教との相違を会通する。 ー

 「聖教に、唯第七に依るとのみ説けるは、染浄依なるが故に、同じく転識に摂め、近くして、相順せるが故に」(『論』第四・二十左)

 (聖教に第六識は唯第七識に依るとのみ説かれているのは、第七識は第六識の染浄依だからであり、第七識は第六識と同じく転識の一種であり、その理由は第七識は第六識に近いからであり、相順するからである。)

 「述して曰く、染浄依なるを以ての故に、所以は前の如し、一なり。同じく転識に摂む、二なり。近は三なり。相順と云うは、多く意識を引いて染汚の執等を起せしむること第七識に由ってなり。故に相順と言うは倶に計度するが故なり。第八の如きには非ず、四なり。所以に第八をば有る処に説かず。」(『述記』第四末・九十五右) 

 『述記』によりますと、聖教(『対法論』巻第二・大正31・702a22・「意識者。謂依意縁法了別爲性。」)等に第六識の倶有依は第七識のみと説かれ、第八識が倶有依として説かれていないのは、(1)第七識が第六識の染浄依であること、(2)第七識と第六識は倶に転識であること、(3)第七識と第六識が近いこと、「彼の意識の与に近き所依たりという」と。近所依であることを顕します。(4)第七識と第六識は相順するということ、相順ということは、第七識も第六識も倶に計度分別をする識である。即ち第七識も第六識も倶に計度分別があるために我執・法執を起こすので相順という。以上の四義をもって第六識の倶有依としては第八識より第七識が勝れているという理由から聖教には第七識のみと説かれているのであって、第八識が第六識の倶有依ではないということを説くものではない、と述べています。

  •  計度分別(けたくふんべつ) - 三種分別の一つ。三種分別とは、自性分別・計度分別・随念分別をいう。自性分別は現在一刹那の事柄を、随念分別は過去の事柄を思考するのに対して、計度分別は過去・現在・未来にわたる事柄を思考(思い計り推量する)分別のこと。
  •  護法における前五識の倶有依は五色根・第六識・第七識・第八識であり、第六識の倶有依は第七識・第八識であることを説き、次に第七識の倶有依について説明します。第七識の倶有依は第八識であることを論証します。そして第八識の倶有依は第七識であることを説明します。

『唯識三十頌』聴記より

 「第七識は染浄依である。これは、経験は五識と六識で成り立つが、そういう経験には有漏、無漏ということがある。花を見た場合に、私は花を見たと、私がということがつく。だれかの経験である。だれかという色彩「がつく。私の経験は、私というものによって色彩づけられている。私というものは、単なる認識主観でない。もっとふかく行為の主体、意欲の主体である。

 同じ紅葉でも、老人の低徊(ていかい)去り難し、もう一度は逢えぬという思いがある。紅葉がだれの紅葉でもない紅葉はない。愛着をもって色彩づけられている。ものの愛されるのは、第六識でも愛されるが、第六識の場合はものを愛する。けれども紅葉を愛したというが、紅葉において自分を愛している。だから、種々のものを愛することを可能にする愛が無ければならぬ。末那識が染が浄かが、第六識の経験が染か浄かを決定する。それで染浄依という。」

                『安田理深選集』第三巻p30


第二能変 所依門 (88) ・ 倶有依 (64) 護法の正義を述べる、その(18)

2011-04-28 22:51:06 | 増上縁依(倶有依)

 第二に難を会す。五識は第六識の倶有依ではないことを説く。

 「問う、五と倶なるには必ず意有るをもって、五は意を以て依とすといはば、意了するとき五無にあらざれば、五も意が依と為るべし。此の難を釈すらく、」(『述記』)

 (護法は第六識の倶有依は第七識と第八識の二種であると説いているが、五識は第六識を倶有依とし、五識と倶なるには必ず第六識を倶有依とする。五識は第六識を倶有依とするならば、第六識も五識を倶有依とするはずではないのか、という問いです。)

 「五識と倶にして、境を取ること明了なりと雖も、而も定んで有るにあらず、故に所依に非ず。」(『論』第四・二十左)

 (第六識は五識と倶に活動し、境(対象)を取る(認識する)ことが明了であるとはいっても、しかし五識は恒に必ずしも存在するものではないので、五識は第六識の倶有依ではないのである。)

 五識と第六識の関係は分別依としての倶有依です。(4月22日の項参照)、第六識と五識の関係は五倶同縁の意識ですね。第六識は倶有依としての四義を備えているが、五識は間断することがある。独頭の意識の時には五識は間断する。このことは四義の中の決定の義を欠くことになるのですね。よって、五識が存在しないときでも第六識は存在するので五識は第六識の倶有依ではない。しかし、倶有依ではないが(倶有依としても四つの条件を備えていないが)依ではある。

 「(五倶同縁の意識は)五識と倶にして意識明らかに了すと雖も、而も(若し独頭の意識は)定んで有るに有らず、五識無き時にも意識亦有り。故に此に説かず。取って所依と為さざれども是れ依の義有るべし。」(『述記』第四末・九十四左)

 

 


第二能変 所依門 (87) ・ 倶有依 (63) 護法の正義を述べる、その(17)

2011-04-27 22:21:57 | 増上縁依(倶有依)

 護法の正義における五識の倶有依は、五色根と第六識と第七識と第八識であり、その中の一種でも欠いたときには五識は活動しない、と説かれているが、聖教には五識の倶有依は五色根のみであると説かれている。もしそうであるのならば、護法の説は聖教に違背するのではないのか、という問いがだされているのですね。その聖教との会通が「聖教に五識はただ五根に依るとのみ説かれているのは五根が五識の不共依だからであり、また五根と五識は必ず同境であり、近依であり、相順するからである。」と説明されているのです。不共依は眼識と眼根との関係のように他と共通でない所依をいいます。(10月26日・前五識の倶有依についての項参照して下さい。)また五根は五識の同境依となるということ。五根も五識も倶に現在の境を対象とするからですね。近とは五根と五識が相い近いということから近依といいます。(他の識は五識のためだけの倶有依となるのではなく、他の識の倶有依ともなるので、他の識は五識に対して遠依という。)相順は五根が五識と相い順じているという、互いに一致していることですね。なにが一致しているのかというと、五識と五根は境と有漏・無漏とを同じくするということです。五根は現前する対象を認識するので五識と同じであり、五識が有漏の時は五根も有漏であり、また五識が無漏の時には五根も無漏であるという関係です。

 五識の倶有依は五根・第六識・第七識・第八識であるけれども、五根は他の識に比べて不共・同境・近・相順の四義において勝れているので、『対法論』等の聖教には以上のような理由から五根を五識の倶有依とのみ説いているのであって、五根のみが五識の倶有依であると説いているのではないと会通しています。

 「下は第二の段なり」 ・ その二は、初めに第六識の倶有依を説明する。正しく第六識の倶有依を示す。次に五識は第六識の倶有依ではないことを説明し、第三に他の論書の所説と相違があることについて会通をします。

 「第六意識の倶有所依は、唯二種有り、謂く、七と八との識ぞ。随って一種をも闕きぬるときには、必ず転ぜざるが故に。」(『論』第四・二十左)

 (第六意識の倶有依はただ二種である。それは第七識と第八識とである。随って第七識と第八識のうちの一種でも欠いたときには第六識は、必ず転じることはないからである。)

 「此れは第六識に唯二の所依ありということをいう。」(『述記』第四末・九十四左)

 護法の説では第六識の倶有依は第七識と第八識の二種であることをのべています。証を引けば『瑜伽論』巻第五十一(大正30・580b14・又由有阿頼耶識故得有末那。由此末那爲依止故意識得轉、の文)・『顕揚論』巻第十七等に云われている。「阿頼耶識有るに由るが故に末那有り、末那を依として意転ずることを得等といえり。前の『摂論』に共依という文等の如き是なり。」(『述記』)と。阿頼耶識が存在することによって末那識が存在することができる。この末那識に依止することによって第六意識が転ずることができるのである、という『論』に説かれていることが根拠になります。


第二能変 所依門 (86) ・ 倶有依 (62) 護法の正義を述べる、その(16)

2011-04-26 22:53:10 | 増上縁依(倶有依)

- 五識の倶有依について、他の論書の所説と相違があることについて会通する ー

 「若し爾らば何が故に『対法』等第一の如き、眼識というは眼に依り色を縁じ色に似て了別す。乃至広説するや。」(『述記』)という問いが出されます。

 「聖教に、唯五根に依るとのみ説けることは、不共なるを以ての故に、又は必ず同境なり近なり相順せるが故に。」(『論』第四・二十左)

 (聖教(『述記』には『対法論』第一等の如し、と記されていますが、『対法論』第二の誤写ではないかと見られます。『対法論』第二(大正31・0702a17)に「眼識者。謂依眼縁色了別爲性。」と『述記』に記されている文章が出ています。巻第一には見受けられません。)に五識は唯だ五根に依る、とのみとかれているのは、五根が五識の不共依だからである。また、五根と五識は必ず、同境であり、近であり、相順するからである、と。)

 『対法論』第二に「眼識というは、謂く眼に依り色を縁じ色に似て了別するを性と為す。」という記述から五識の倶有依はただ五根のみではないのか、という疑問に答えているのが本科段になります。聖教に五識の倶有依は五根のみであるというのは、五根が五識の「不共依」であり、「同境」であり、「近」であり、「相順」である、と、その理由を示しています。

 「五根のみを言うことは不共なるを以ての故に。余識は依らざるが故に。一なり。また此れは必ず同境なり。二なり。又此れは相近きをもって余の依は遠きが故に。三なり。又此れは相順せり余の依は別なるが故に。四なり。所以に余の三依をば説かず。」(『述記』第四末・九十四右)と。

 五根が不共であり、同境であり、相近であり、相順であるところから五識の倶有依と説かれているのであって、五識の倶有依がただ五根のみであるという意味において説かれているのではない、と会通しています。

 (不共依・同境依・近依・相順についての意味は次回に述べます。)

 

 


『唯信鈔文意』に聞く (30) つづき

2011-04-25 23:10:48 | 信心について

Wakakusa  書き込みが今日の日付になっていますが、実は昨日の夕刻に書き込んでいる途中にですね。子供が散歩に誘ってきました。その誘惑に負けまして、まあ車に乗って奈良まで行きましたが、その誘いの理由がですね、ガソリン代と夕飯と高速料金を出させる魂胆だったのですね。しかし、うれしいですね。もうすぐ成人になろうとする息子が親を誘ってくれて夕闇に沈む薬師寺や唐招提寺、そして、興福寺の五重塔をゆっくりと車を進ませながら車窓から眺めさせていただきました。若草山のドライブウエイを登り、山頂から奈良の都の夜景を楽しみました。そして、五月の連休には親鸞展に行こうと約束し、本山にも参詣したいと思いを馳せています。昨日のつづきを書き込みます。

 「方便自力です。利他教化地、方便権門の道路と、こういわれておりまして、十九願というものから利他ということをいわれておるわけです。

十九願ともうしますのは、単に『観経』の定散二善とかいうようなことだけでなくして、定散二善を説くためにはその前に一代教、一代の間の説法です。それはどれだけ説かれたかわからないけれども、まず八万四千の法門というものを説かれたといえば、みなこれ第十九願の「修諸功徳の願」というものに応えて説かれたものである、と。こういうことをいわれております。現実においては、八万四千の法門などを釈迦は説かなかった、と。釈迦は、縁起とか、五蘊とは、八正道というようなことを説かれたのだと、こういうてもかまわない。それはそれでいいのです。それが一代教です。なにも八万四千の法門というものが一つでも欠けたらいけないというわけではありません。四諦の法とか、縁起とか、八正道とか、五蘊とか、こういうようなことは、釈迦が説かれたものといえるけれども、あとはその後に出来たものだ、と。こういう常識ですね、これは常識ですからそれでいいんです。それが一代教というものです。釈迦の一代教というものです。

 その釈迦の一代教はどこから出たのかというと、それは第十九願から出たんだ、と。十九願なんか釈迦は説かなかったではないか、と。説かなかったというけれども、すでに一代教というて、釈迦が説いたということをいうたおるでないか。釈迦が説いたというておる以上は説かなかったとはいえない。それじゃ説かなかったわけじゃない、と。いや十九願とか、そんなものを説かなかったけれども、これこれを説いたということは、はっきりしておるんだ、と。それなら十九願も説いたんだ、と。そういうことになる。なぜかというと十九願の中に四諦ということもあるからです。五蘊の法もあれば、八正道ということも十九願の中にあって、それは修諸功徳の一つなんだ。修諸功徳の一つです。四諦ということを勉強してなるほどと思うのも一つの功徳なんです。十二縁起を勉強して、なるほどこういうことを釈迦が説いたのかと思うのも一つの功徳なんです。五蘊の法ということを学んで、なるほどこういうことを釈迦が説いたのかと思うのもそれも一つの功徳です。功徳の証拠には釈迦が説いたというておるではないか、と。釈迦が説いた、なぜいうのか。功徳があるからです。

 功徳ということになりますと、いろいろな功徳があります。こういうことさえ書けば試験に通るぞと教えて月給をもらうという功徳もある。いろいろ功徳があるんです。修諸功徳。どうもこれは、人によっては何かの加減で、自分はなにもしなかった、これだけのことしかしなかった、せめてこれだけが自分が世の中へ出て人のためにしたことであった、とそう思えばそれが功徳なんです。なにもできなかったけれども、この研究だけ一つ後に残した。それがせめてもの満足だと思うて目をつむるというようなことも一つの功徳です。その中にやはり「この功徳をもって」ということがないとはいえない。 

 ですから、十九願というのは、「臨終現前の願」と。臨終というのは、別に息が切れる時が臨終とは必ずしも限らないです。息が切れるというようなときには、息が切れていく本人はわからんので、風邪ひたのといっしょです。風邪ひくのはいつひたかわからずひくのです。死ぬのはいつ死ぬかわからずに死ぬのです。いま風邪ひいたと思うことはないんです。いつか咳が出てくるんです。風邪ひきまうとですね。熱が出たり、咳が出てきたりするのが風邪ひいたときで、いま風邪ひいたというときに覚えはないのといっしょです。死ぬときもいま死ぬというときはない。知らん間に死んでしまうのです。気がつくのは死なん人間の方です。もっとも、死なん人間も気がつかんうちに死んでしまうときもあるんです。大事な親と思うて見守っていてもなかなか死なん。もう駄目だというてから三日にもなる。それなのにまだ生きておるということがあるのです。ちょっと目を離した間に死んでしまうということがあるでしょう。普通は見守っておる方が臨終なんです。見られておる方より、まくらもとで見ておる方が臨終なんです。息をつめてますものね。一息一息数えて、いまにも自分の息が切れるような思いでですね。で、臨終というのは、ある意味において人間の最後の悔恨のときなんでしょう。最後の悔恨。懺悔というより悔恨です。いかに悪い人間であってもいま死ぬというときには、やはりないがしかの気持ちを覚える。

 臨終来迎ということは、実に浄土門においてのみ、往生極楽の教えにおいてのみある、非常に妙味のあるものです。常識的にはばかにしますけれども、ばかにしながらもみんな常識的にはまた一番親しめるところなんだろうと思います。しかし、宗祖はさらに一歩進んで臨終来迎ということが真実の仏法の、仏道の救済であるということならば、それ真実信心というものの働きでなくてはならないと。そういうことを述べられたのであります。 (つづく)


 『唯信鈔文意』に聞く (30)

2011-04-25 00:02:50 | 信心について

        『唯信鈔文意』に聞く (30)

                      蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より

 「それから、橋渡しというものからさらに一歩進めて、聖道の教行証も方便である、と。聖道の教行証というのは、浄土の教行証へ人々を導かんがための方便であるということから、さらに一歩進んで、聖道の教えといえども、浄土の教行証を根本として説かれたのである、と。そういう立場です。聖道門の教えというものは、したがって、時と所によって行が変わるわけでございます。行が変わっておりながら、同一のさとりに至るということが説かれるのです。同一のさとりというのは真実の証です。真実の証に至るというためには、万行を具足しなくちゃならんという。ですから、どの行をつとめましても、その行には行だけの功徳があるけれども、それで真実のさとりは開けないから、さらに他の行をつとめて、よろずの行が完全につとめられたあげく真実の証に至るのだと、こういう意味になります。

 それから、さらに、そういうふうにして、長い間修行をして、ようやくにしてさとりが得られるということを説かれたのは方便であると。衆生というものは、それ自体真如の理というものを具足しておるので、一念に、その真如の理を自覚したならば、ただちにさとりが開かれるのである。けれど、それはその人にわからないから方便として、万行をもって漸時に修行をしてさとりを開いていくという道を説かれたのだけれども、真実の教えは、一念に仏になれるということを説かれるのが、これが大乗至極の真実の教えである、と。

 こういうふうに、聖道門にも漸教と頓教と分けてくるようになります。しかし、そのさとりは現実においてはどこまでも今現にさとりを開くということでありますから、そういうことは証明のしようがないわけです。理論としては次第にさとりを開くというものにくらべれば、進んだ理論になるわけです。しかし、自然にさとりを開いたといいましたところで、そのさとりというものは、現実に常識の世界を出ることができないといたしますと、世間から名士であるとか、大家であるとかいわれる他にないでしょう。そういう人は極めて少ない。やたら多かったら値打ちがさがることになるでしょう。そういう意味があります。

 宗祖は、そういう意味におきまして、聖道門の教えというのも、第十九願をもとにして説かれたのであるということをいわれておるのであります。したがって、十九願をもとにして開かれた『方便化身土分類』の中にこの意義を述べられまして、いわゆる浄土門の中には正行、助業ですね、あるいは、雑行ということが説かれるのだ、と。雑行というのは何かというたら二乗です。人天二乗、あるいは聖道門の権大乗、実大乗当と教えられた行のことであるということです。それらはこの土においてさとりを得るという聖道門の教えである、と。 (明日につづきます。)


第二能変 所依門 (85) ・ 倶有依 (61) 護法の正義を述べる、その(15)

2011-04-23 20:12:23 | 増上縁依(倶有依)

 次に第六識は五識の分別依と為ることを述べます。 

 「第六意識は前の五識が與に分別依と為る。與(ため)に依として同じく縁じて境を分別するが故に。」(『述記』)

 次に第六識は五識の分別依と為ることを述べます。第六意識は五識と認識対象(同一境)を同じく認識(縁じ)、その認識対象(境)を分別するからである。

 「五(識)は無分別なりと雖も意(第六識)は是れ分別あるを以て無分別の依と為す。」(『述記』)

 五識は無分別であるけれども、第六識が境を分別するので、第六識は無分別の五識の分別依となる。

 『瑜伽論』を以て論証します。

  「五十五に有分別心・無分別心を説くが如き、当に同じく現在の境を縁ずと言うべし。乃至三の因(明了・作意・資養の三因)に由るが故に等といえり。」(『述記』)

  •  明了(みょうりょう) - 明瞭ではっきり認識できること。第六識は五識によって明了に分別することができるが、また五識も第六識によって明了に対象を認識することができるということ。五同縁の意識。
  •  作意(さい) - 心を始動せしめて対象に向かわしめる心作用で、認識対象を認識しようと欲すること。
  •  資養(しよう) - たすけ養うことで、五識が生起することができるのは、第六識の資養による。

 これら三因によって第六識は五識の分別依であるという。

 不正義を示す。

  「同縁せざる定中にて声を聞く等の如くなること有りと雖も、多分と及び長時とに従って論を為す。故に分別依と言えり。此れは散位によっていう、定心を謂うには非ず。・・・定中の心も亦分別と名づく、故に第六識のみ唯此の名を得たり。」(『述記』)

 第六識と五識が同一境を同時に縁じていない時、即ち定中に声を聞く、ということなどもあるけれども、大部分は同一境を同時に縁じるのであり、あるいは長期間にわたって第六識を五識の分別依とする、という。

 次に第七識は五識の染浄依と為ることを述べます。

 「第七(識)は五識が與に染浄依と為る。五識は此の根本の染に由るが故に有漏と成る。根本浄なるが故に無漏と成る。全く浄を成じ已るときは五識を漏せざるを以て根本浄と名づく。」(『述記』)

 第七識は五識の染・浄の依と為ることを述べます。諸識が有漏であるのは、第七識の染に由るからである。そして根本の第七識が浄であれば五識も無漏となるのである、と。このように五識が有漏か無漏かは第七識に依るので第七識は五識の染浄の根本であるという。「全く浄を成じ已るときは」と、第七識が完全に無漏となった時(仏果)は五識は有漏ではないので、この時の第七識を根本浄という。

 次に第八識は五識の根本依と為ることを述べます。

 「其の第八識は前の五識が與に根本依と為る。前に説きつるが如くなるが故に。故に此の四の依は其の義差別有り。」(『述記』)

 第八識は一切種子識といわれますように、諸識(七転識)の根本依です。第八識に依って諸識が生起するわけですから、従って五識の根本依も第八識であるのです。

 このように五識の倶有依(護法の正義)を学びますと、私たちの心はどのような構造になっているのかが浮き彫りにされます。大田久紀師は「前五識には、五色根以外に、第六意識・第七末那識・第八阿頼耶識が倶有依としてうきだしてくることになる。すなわち、分別依・染浄依・根本依である。これらの識が根底にあって、底から前五識を支えながら、その活動を規定していくとされる。そしてこのように考えてくると、前五識の底に第六意識のみを捉えるのでは、唯識仏教の深い人間観が充分に明らかにされないということがわかる。第六意識の底に染浄依として末那識をおくことに於て、有漏の人間が根底から組み立てられるのであり、さらにその底に、根本依としての第八阿頼耶識が措定されることによって、論の他所で説かれた能変論がここに生きて唯識仏教としての人間観が具体化されてくる。・・・護法説の有漏の人間の認識の深さを端的に示すところである。」(『成唯識論』の末那識P7参照)と教えてくださっています。


第二能変 所依門 (84) ・ 倶有依 (60) 護法の正義を述べる、その(14)

2011-04-22 23:51:21 | 増上縁依(倶有依)

 五識の倶有依である理由と、種別について

 「随って一種をも闕きぬるときには、必ず転ぜざるが故に、同境と分別と染浄と根本と所依別なるが故に。」(『論』第四・二十左)

 (五色根と第六識と第七識と第八識のうちの一種でも闕いたときには五識は転じない。また同じ倶有依であっても五色根は五識の同境依であり、第六識は五識の分別依であり、第七識は五識の染浄依であり、第八識は五識の根本依であるという所依の種類の別がある。)

 「随って一種をも闕きぬるときには」というは、「彼の五識に望むるに並びに力有る故に、前の四義を具する故に。此の四の中に於いて、若し随って一種をも闕きぬるときには、必ず転ぜざるが故に」と『述記』には説明されています。即ち、五色根と第六識と第七識と第八識の四つはすべて五識に対して力があり、四義を備えている為に、この中の一つでも欠いた時には五識は転じることはない、と。

 「此の四と何ぞ別なる。五根は五識と同境依と為って共に現の境を取るが故に。余は不定なれば、独り此の名を得たり。」

 初は五根は五識の同境依であることを説明します。五根も五識も倶に現在の境(五境)を対象とするからである。他の識は必ずしも五識と同じ境を対象とはしないので同境依とはならないということです。 (つづく)


第二能変 所依門 (83) ・ 倶有依 (59) 護法の正義を述べる、その(13)

2011-04-20 22:30:51 | 増上縁依(倶有依)

 護法の正説である前五識の倶有依は五色根と第六意識と第七末那識と第八阿頼耶識であると説かれます。今はその要点を示しています。五色根と第六識が前五識の倶有依であることを述べ、次に第七識が前五識の倶有依であることを述べます。

 (第七識に依るを証す。)

 「何が故に七を以て依と為すを知ることを得るや。」(また何故に第七識を以て五識の倶有依とするのであろうか。)

 「『無性摂論』第一に第七有りと証するが中に言うが如し。謂く若し染汚に意有りと説かずば義符順ぜず等といえり。此れが中の意の言く、第七識の染有るに由るが故に、施等の有漏の善法無漏と成らず、彼の染識の所漏と為るが故に、・・・」(『述記』)

 『無性摂論』第一に説かれている。五識が第七識を倶有依と証している中に、五識が有漏であることは、染汚である第七識を倶有依としているからである。第七識の染汚あるに由って前六識が起こす布施等の善法が有漏になり、無漏とはならないのである。五識が有漏であるということは第七識の染汚の影響によるものであり、よって五識は第七識を倶有依としていることがわかる。『世親摂論』第一にも同様の主旨が説かれており、「故に知んぬ五識が有漏を成ずる中に、其の第七識乃し彼未だ究竟して滅せざるに至までは、終に無漏と成らず。・・・故に五識は有漏なり。」と。第七識が転じて平等性智に成るに至までは五識は有漏であり、無漏とはならないのである、と。

 (第八識に依るを証す。)

 「何を以て亦第八にも依るということを知るを得とならば、」

 「『世親摂論』第一に五(識)を同法という中に、彼の五識身は五根と阿頼耶識とをもって倶有依と為すこと、此れも亦是くの如し」

 (第八阿頼耶識を倶有依とすることは、「『世親摂論』第一にに説かれている通りである。五識身は五根と第八識を倶有依として説かれている。)

 「・・・『瑜伽』(巻第五十一)と『顕揚』(巻第十七)とに亦説かく、阿頼耶識有るに由るが故に色根を執受す。五識の識身之に依って転ず等といえり。又『顕揚』第一に阿頼耶識を解して転識等が與に所依因と作ると云えり。此の文は亦六・七が與に依と為ることをも証す。・・・故に知りぬ、五識は本識を以て共の所依と為すということを。」(『述記』)

 第八識は諸識の根本で、根本識といわれます。ですから根本識と七転識は共依の関係です。従って第八識は五識の倶有依であることがわかるのである。

 以上が五色根・第六識・第七識・第八識が五識の倶有依であるという理由を概略しています。

 次の科段で五識の倶有依であるという理由と倶有依としての種別を説明します。(どのような訳で、五識には五色根・第六識・第七識・第八識の四を備えることが必要なのであろうか、という問いに答えていきます。)