唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (59) 触等相応門 (41)

2011-11-22 23:48:50 | 心の構造について

 「問、(邪)欲と(邪勝)解とは染心に遍すと云はば、論の文に何ぞ説かず。」 (問う。邪欲と邪勝解とは染心に遍在する遍染の随煩悩であるならば、どうして論書の中に邪欲と邪勝解を遍染の随煩悩とは説いていないのであろうか。)

 論書は五遍染説の根拠として挙げられる『阿毘達磨集論』巻第四や、六遍染説の根拠として挙げられる『瑜伽論』巻第五十五等を指します。(五遍染説や六遍染説の項を参照してください。)

 「余処に此の二を遍と説かざることは、非愛の事を縁ずるとき、疑と相応するときに、心の邪欲と勝解とは麤顕に非ざるが故に。」(『論』第四・三十五右)

 (他の論書にこの二つを遍染の随煩悩と説かれていないのは、非愛の事を縁じる時と、疑と相応する時に、心における邪欲と邪勝解は麤顕ではないから説かれていないのである。)

  •  非愛の事を縁じる時 - 自分にとって愛せない、好ましくない、或いは憎い対象を認識する時。
  •  疑と相応する時 - 疑の煩悩が理を疑う時のこと。

 従って、「非愛の事を縁じる時」と「疑と相応する時」は心の状態が麤顕(はっきりと認識されるありようをいい、強力であるということ。)ではなく、微弱であるが故に、他の論書には遍染の随煩悩として挙げられていないのである、という。作用は微弱であるが、体は有るということからこの二つは遍染の随煩悩であるといえるのであると。

 「述して曰く、余の論に此の二を遍と説かざることは、此の二は体染心に遍ぜりと雖も、若し非ありの事を縁ずるときは、情に則ち此の事を欲せず。疑を理する時には理を印せざるに由ってなり。此の二の境が於に、欲と勝解とは相麤に非ざるが故に。体は細にして是れ有とも相は顕著に非ず。説かざることは麤顕なるに約するなり。体を論ぜば実に是れ有なり。此の二が時には即ち欲と解と無きを以て説いて遍と為さずと云うことを顕す。此は体有るに據って所以に遍と言う。」(『述記』第五本・六十一右)

 「余は互に有無なることは、義いい前に得が如し。」(『論』第四・三十五右)

 (他の遍染の随煩悩の互いの有無については前に説いた通りである。)

 「述して曰く、五と云うが中に余の忘念等の三無きことは、六と説く家の其の五というを会するが如し。六と説くが中に沈と掉との二無きことは、五と説く家の六と説けるを会せるが如し。余の互に有無なることは、故に前に説くが如しという。」(『述記』第五本・六十一左)

 五遍染説は惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸が遍染の随煩悩であると説き、忘念(失念)・散乱・不正知の三が除かれていることは、六遍染師が五遍染説を会通するようなものであり、六遍染説に惛沈と掉挙の二が説かれていないのは、五遍染師が六遍染説を会通しているようなものであって、他の互いの随煩悩の有・無については五遍染説と六遍染説を述べた通りである、といいます。

 「此の意の心所は二十四有り。謂く前の九の法と、十の随煩悩と、別境の五を加うるとぞ。前の理に准じて釈せり。」(『論』第四・三十五右)

 (以上述べてきたように、十遍染を説く師の説は、第七識と相応する心所は二十四ある。つまり前の九つの法と、十の遍染の随煩悩と、別境の五つを加えたものである。前の理に准じて解釈せよ。)

  •  前の九つの法 - 四煩悩(我癡・我見・我慢・我愛)と遍行の五(触・作意・受・想・思)
  •  十の遍染の随煩悩 - 掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・忘念(失念)・散乱・不正知・邪欲・邪勝解
  •  別境の五 - 欲・勝解・念・定・慧

 「余の心所無きことは、上の如く知る応し。」(『論』第四・三十五右)

 (他の心所が第七識に相応しないことは、上の通り知るべきである。)

 「述して曰く、下は無を弁ず。此れと相応する善の十一と不定の中の四と根本の六の惑と忿等の諸随と無しと説くことは上の如く准じて説くべし。」(『述記』第五本・六十二右)

 十遍染師が説く第七識に相応しない心所について説明される。善の心所のすべて・四煩悩以外の煩悩・十遍染以外の随煩悩・不定の心所である。これらの理由については上のとおり知るべきであると。「此の意の心所は、唯四のみ有りや。」(『論』第四・三十左)以下の所論を指しています。随時参考にして下さい。

 以上で五遍染説・六遍染説及び十遍染説の所論がすべて述べられ、次の科段より護法の正義である八遍染説が述べられます。