朝夕めっきり涼しくなりました。いよいよ明日から九月度に入ります。講座日程です。
9月11日(日) 千林大宮 正厳寺 午後3時より5時半 『唯識論』講義 初能変 伏断位次門 聴講料 無料
9月14日(水) 八尾市本町 聞成坊 午後2時より5時半 『唯識論』講義 初能変 三性分別門 聴講料 1000円
9月25日(日) 鴫野 カフェマロカレ法話会 講師 菊池光高(高円)師 午後2時より~(要予約)1500円
他、姫路船場御坊にて 梶原敬一師の真宗カウンセリング。聞成坊にて 高柳正裕師『往生礼讃』講義 日程未定
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「是の故に我見は、実我をば縁ぜず。但だ内識が変現せる諸蘊を縁じて、自の妄情に随って種種に計度す。」(『論』第一・六左)
(このように、我見であっても、それは実我を縁じているのではなく、ただ内識の変現した諸蘊を縁じているのであり、我を縁じているのではなく、ただ我執の妄情に随ってさまざまに分別を起して「我」と思っているに過ぎないのです。)
「是の故に我執は、皆無常の五取蘊(ゴシュウン)の相を縁じて、妄(アヤマ)って執して我と為す。然も諸蘊の相は、縁より生ずるが故に、是れ幻の如くにして有り。妄所執の我は、横(ホシイママ)に計度(ケタク)せるが故に、決定(ケツジョウ)して有に非ず。」(『論』第一・七左)
(我執は無常の五取蘊(有為法)の相を縁じている(思うとおりにならない事実が有る)。にもかかわらず、自の妄情に随って五蘊と見ず、常一主宰の我(思うとおりになる)と執着している。しかも影像相分は、識体転じて二分に似る相であり、依他起性の法である。つまり、縁起の法であり有であるけれども、この有は幻のようにして有である。捉えようのないものであるが、妄所執の我は、妄分別によって、ありのままを見ずに、ほしいままに分別して、それを常住不変の「我」と誤り執するのです。この我は決定して有ではない、全く無であるもの、つまり、遍計所執性なのです。
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上記の結語は、犢子部の我論及び数論・勝論の我論に対する大乗の結論を示しています。
数論の主張は、「我は思である。思我は心心所を離れて別に自体がある。思はつまり我であり、その性は常住である」と云う。
犢子部は非即非離蘊を主張していました。犢子外道を筏蹉氏外道とも云います。
勝論の主張は「諸々の心が生ずる時は皆我より生起する」と云う。これは十句義に詳しく出ていますが、今は、『倶舎論』の所論から伺いたいと思います。(次回にします。)