「問、何に縁ってか余の心所無しということを知らざる。」
「且く染に従へて答す」(『述記』)
「謂く、忿等の十は行相麤動なり、此の識は審細なり。故に彼と倶なるに非ず。」(『論』第四・三十三右)
(つまり、忿等の十の随煩悩は行相が麤動である。しかしこの第七識は審細である。従って忿等の十の随煩悩は第七識には倶に相応しないのである。)
(初めに少随煩悩を簡ぶ)
「前の根本の中において余の六無しということは、五の師皆同なるを以て下に別に説かず。又上に已に根本有ること無しと説くことは諸師同なるが故に。此の論には但五十一の心所のみを明かすが故に、邪欲と及び邪勝解とをば明さず。且く二十の随において忿等の初の十は皆解いい唯麤なり。此の識は審細なり。故に彼の十無し」(『述記』第五本・五十一左)と。
忿等の十の随煩悩(少随煩悩)は忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍の十です。これらの随煩悩は行相が麤動である。心が定まらず動揺している、しかし第七識の行相は審細である。従って少随煩悩と第七識の行相は相反するものであるから、第七識と少随煩悩は倶に相応しないのである、と。
(二に中随煩悩を簡ぶ)
「無慚と無愧とは唯是れ不善なり。此れは無記なるが故に彼と相応するに非ず。」(『論』第四・三十三右)
(無慚と無愧とは唯不善である。しかしこの第七識は有覆無記であるから無慚と無愧と相応することはない。)
「述して曰く、彼は唯不善なり。此れは有覆なるが故に」(『述記』第五本・五十二右)
無慚と無愧は三性では唯不善に摂められ、第七識の三性は有覆無記である。従って三性において無慚と無愧と第七識は相反するものであり、無慚と無愧とは相応しないと述べます。