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問題と云うか、間違いはどこから生まれてきたのということについて論議される所だと思います。僕はずっと、「唯識無境」という言葉に引っかかっていまして、「すべて」唯は「すべて」ですね、。すべてもらさないはということは、例外を認めないとうことでしょう。「唯」でもって何を表そうとしているのかに引っかかつているのです。
安慧さんは見・相二分は遍計諸執だという、しかし護法さんは依他起だといいます。
確かに迷いの構造は見・相二分の分別によって起こってくるものですが、見・相二分は自体分の用を表しているという点では依他起なんですね。本来分別するべきものものではないのです。
ここにですね、私たちは生来自他分別をもって生きているのですね、いや、自他分別無しでは生きていることができないような仕組みになっている。しかし、自他分別は自体分の用であるというのです。
用に気づきを得れば覚者です。目覚めた人ですね。目覚めと迷いは同一線上にあるといえないですかね。自己に関わった問題提起です。他者との関係ではありません、他者も自己の内にあるものです。
私は貴方の何を知っているのか、何も知りません。知っていることは、自分の描いた他者を貴方の姿を通して見ているにすぎないのです。しかし、阿頼耶識は貴方のすべてを受け入れている、が、私は貴方のことを何一つわかっていません。僕はね、ここに痛みを感ずるんです。
「あんたは鬼や」と言われたことがありますが、「なんでやねん、そんなん言われる筋合いない」と自己正当化を図っていました。「おまえ、さんざん好き放題してきて、いまさらそれはないやろ」と、俺の身にもなれ、と。これって相手のことを一つも受け入れていないですよね。もう少し言えば、「私がこうなったのはあんたのせいや」ということなんです。僕は素直に聞く耳を持ち合わせていません。逆に「何、言うてんねん、俺がどんなに苦労してきたかわかっているんか」と、自己正当化ですわ。
こういうような認識のあり方は違うと云っているのです。自分とは、実体として存在している在り方の否定です。縁起生なんだと、一つも固定化されたものは無く。すべたは縁によって起こり、縁によって去っていくものである。「分別と所分別は仮のもの」縁起されたもの、「此に由って皆無し」すべての現象は実体として在るのではなく、縁起されたものとして一刹那の泡のようなものであり、この一刹那の泡が三世を貫く真理であると言っているのですね。その鍵を握っているのが自体分だと思います。
「二分に似る」というでしょう。実我実法ではなく、似我似法だと。私たちは現象存在を実我実法と認識しているのですが、この認識を通して似我似法であると教えているのですね。
実我実法という認識は自己との関わりの中の出来事ではなく、自己との関りの無いところで展開される世界観ですが、外界は識に離れれては存在しない。つまり、我法は識を離れて存在するので無く、仮に我法を説いて、迷いの根本原因は「一切不離識」、識には離れては無いということを明らかにしているのでしょう。
すべては我が心の影像である。 おやすみなさい。