「問う。若し理の於に疑する時は必ず事の於に印す。若し事の於に疑する時は則ち印する所無しといはば、此の疑と相応するに便ち邪解無けん耶。解の法は染に遍せざるべしなり。」(『述記』)
(問う、若し事に対して疑うことがあるならば、それは事に対して印持しないことになり、疑が事を疑うときは邪勝解は存在しなのではないのか。邪勝解は疑が生起している染心では起こりえないから遍染の随煩悩ではない。勝解は猶予の境に於ても疑心の中にも亦審決ではない心にも生起しないのであるから。)
「所縁の事の於に亦猶予するは、煩悩の疑には非ず、人か杭かと疑うが如し」(『論』第四・三十四左)
(所縁の事に対し亦猶予するのは煩悩の疑ではない。例えば人か杭かと疑うようなものである。)
十遍染師の答えは、事に対して疑うのは煩悩の疑でなはく、それは何かを見て、人か杭かと疑うようなものである、という。
「述して曰く、若し事の中に於て独り疑を生ずる者は、此れは是れ苦の事か此れは苦の事に非ざるや。理に迷うて疑を生ぜる者は此れは煩悩に非ず。杭を疑うて人かかと為すが如きぞ。是れ異熟生の無記心に摂したり、染汚心には非ず。若し是れ染心には必ず邪欲有り。故に此の(異熟無記)心の中には邪勝解無し。(大乗は)勝解は是れ遍行の法に非ざるが故に。」(『述記』第五本・六十右)
事に疑いが生じても、何かを見て人か杭かと疑うような日常の単純な間違いから生じるようなものであり、そこに邪勝解が存在しなくても疑と邪勝解は相応しないというような意味ではない、という。これは(事に対して疑うこと)異熟生の無覆無記心の働きであり、染汚心ではない。若し染汚心であるならば必ず邪欲も倶に存在する。異熟無記心の中には邪勝解は存在しない。しかし勝解は遍行の心所である、というのが十遍染師の問に対する回答になります。
疑が理のみを猶予し、事に対しては煩悩の疑ではないから、疑と邪勝解とが倶に存在するのに何等問題なないと主張します。