唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 不定の心所について復習。

2016-11-22 21:25:56 | 第三能変 不定の心所
  


 2016年4月16日より第三能変不定の心所の投稿がstopしておりましたが、『三十頌』第十五頌より再開したいと思います。はじめに復習の意味で、不定の心所をまとめてみました。第十五頌・第十六頌を読みおわりまして、第十七頌のつづきに入りたいと思います。
 
 六位の心所の中、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩と説かれてきました。最後が不定の心所になります。
 不定とは、読んで字の如く、定まっていなということですが、何が定まっていないのかといいますと、三性ですね。善か悪か無記かが定まっていない心所のことなのです。それが、悔・眠・尋・伺の四つなのです。
 もう少し詳しくいいますと、『論』には「論に曰く、悔・眠・尋・伺とは、善・染等に於て皆不定なるが故に。触等の定めて心に遍ずるが如きに非ざるが故に、欲等の定めて地に遍ずるが如きに非ざるが故に、不定の名を立つ。」(『論』第七・初右)と説いています。
 先ず、「善・染等に於て皆不定なるが故に」です。染は悪と有覆無記をさしますが、三性は善・悪・無記であってですね、善はどこまでいっても善、煩悩の心所は染という具合に定まっているわけです。六位の心所の中で最初の遍行は八識すべてに相応するわけですから、見方によっては不定のように捉えられますが、どの識に於いても遍行の五は具体性をもっているわけです。善とともに働き、悪とともに働き、無記とともに働いているのが遍行なのですが、不定は善につけば善になり、染(悪と有覆無記)につけば染になり、無記につけば無記になるという性格を持ってますので、不定と名づけられているのです。
 最初に「二に各々二あり」と述べられていますが、これは後程解釈されますが、「ニに各々ニあり」は悔と眠が一組で尋と伺が一組になり、それに煩悩に穢されている場合と、穢されていない場合、即ち染汚か不染汚かが定まらないから不定といわれるわけです。四種の心所が不定であることを示して、悔・眠と尋・伺のニはニ種各別で『述記』には十義の類別あることをしめしています。
 本科段より、『成唯識論』は巻第七に入ります。
 「已に二十の随煩悩の相を説けり。不定に四有り。其の相如何。」(『論』第七・初右)
 「頌に曰く。不定とは謂わく悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とのニに各々ニあり」(『論』第七・初右)  「ニ各ニ」(ニに各々ニあり)は不定の意義を顕わしています。
 「論に曰く。悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とは善・染等に於いて皆不定なるが故に。」(『論』第七・初右)
 初めに頌を釈し、後に意義をただします。
 「善・染等皆不定」といいますのは、此の三界と性と識は皆、不定であるからと云われています。善・悪・無記の三性において、染は不善と有覆無記を表しますが、それが定まっていないということになります。不定の四は三性を通じて性格が定まっていないのです。「信等」は善の心所ですから、いつも善です。また「貪等」の煩悩は染の心所ですから、いつも染です。しかしここでいわれる不定の四はどちらにも動くのです。どのようにでも変わり得る性格をもっているのが、悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)の不定の心所であるといっているのです。善につけば善になり、染につけば染になるという性格です。それでは一つ一つ見ていくことにします。
 「不定」の心所にはいります。はじめは「悔」についてです。
 「悔というは、謂く悪作(おさ)なり。所作の業を悪(にくむ)で追悔(ついけ)するを以って性と為し。止を障うるをもって業となす。」(『論』第七・初右)
 「初めに悔眠を解す。・・・悔は謂く悪作というは、体(悔)をもって因(悪作)に即す。即ち諸論に説く悪作と云うは是なり。悪作は悔には非ず。悔の体性は追悔するもの是なり。・・・悪作の体は何を以って性と為す。悪とは嫌なり。即ち所作の業を嫌悪す。緒の所作の業を心に起こして嫌悪し(因)、已て之を追悔する(果)。方に是れ悔の性なり。若し所作是れ悪なるときは名づけて悪作と為せば、即ち悔の体は唯善なり。ただ悪事を悔するが故に。若し所作を嫌悪するならば、体、寧ぞ悔にあらざるや。これ悔の因といわんや、若し先に所作を悪むで、方に悔を生ぜば、悪作(因)は悔(果)にあらず。その悪作の体は何ぞや。この義まさに思うべし。」(『述記』)
 悪作(おさ)は「悪作は我作す所を悪しきことしたりとして後に悔やむ心」といわれ、自分がかって為した行為を嫌悪して追悔することなのです。作した事・作さなかったことに対して悪む作用をいい、嫌悪を因とし追悔は果となるのです。ここで倶舎と唯識の解釈の違いについて説明をしておきます。読み方は倶舎では「あくさ」と読み、唯識では「おさ」と読みます。その解釈は倶舎では「悪事をなした事を悔やむこと、即ち悪事の所作を後に追憶して後悔する、」と考えますが、唯識では「作した事を悪むこと、即ち自分の作した行為を憎む」と解釈します。悪むから後悔が生まれるのだと考えたのです。
 作したこと(悪事を作した事を嫌悪して後悔する)を嫌悪する。
 作さなかった事を後悔する(善・悪ともに作さなかった事を後悔する)
 善の悪作と不善の悪作があるのです。悪を作さなかった事を後悔することは不善の悪作になります。
 唯識でいわれる「作したことを悪む」ということは大事なところですね。後悔すると云われるでしょう。悪むは後悔というわけにはいかにと思うのですね。もっと深い意味が有っていわれているのでしょう。後悔は自分にとって「しまった」という思いが残りますね。「すみません」と云う中に自分の思うように行かなかったという後悔です。どこまでも自己中心に考えます。「悪む」というのは懺悔という心が働きます。根底に無我の理が働いていて善悪共に後悔をするということなのではないでしょうかね。
 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」(『信巻』真聖p215)
『述記』に慚・愧について、「悪作の善なるものは是れ愧なり。悪を拒むを以っての故に。不善なるものは是れ無慚なり。賢善を顧みざるが故に。無記なるものは是れ慧なり。」と。所作を嫌悪するということは、自分のなした悪の行為を後悔し憎むという意義があるといいます。
 作すということは所作のことですが、所作が後悔を生みだしてくる。悪(お)が後悔の因になる。因に依って(依因)悔を生じ、悔を生じてくるのが悪という構図になります。「其の実は悪とは即ち是れ悔なり」と悪即悔ということに、ただ反省・後悔ということではなく無限の大悲に自身を問う歩みをしていかなければならないという事を示唆しているのではないかと思うのです。どちらにでも傾いていく後悔の心は、「この心を機縁として真実に触れていきなさい」ということではないのかな。
  悔は「止え障えるを以って業と為す」(『論』第七・初右)と。
「述して曰く、是れ五蓋(ごがい)の中の止の相に非ず。止の相は定と慧とに通ずる故に。心を止下せしむる故に。今、止というは即ち奢摩他能く心を止住す。止下せしむるに非ず。」(『述記』第七本・四右)
 五蓋とは心を覆う五種の煩悩のことです。蓋は「止」「妨害」と云う意味で、貪欲蓋・瞋恚蓋・ 小沈睡眠蓋・掉挙悪作蓋・疑蓋の五種。ここで云われることは五種の煩悩の相ではないという事です。それは止相は心を止めるということですから、定と慧に通ずるので、煩悩の止相ではないということになります。
 「悔」は定まらないという性質を持っていますので奢摩他を障碍するということになります。
 「悔」は奢摩他(定)を障えるを業と為す、と云われるのです。
 「此れは即ち果に於いて因の名を仮立す。先の所作の業を悪むで、後に方に追悔するが故に。先を作さざるを悔るをも亦、悪作に摂む。追悔して言うが如し。我先に是の如き事業を作ざるは是れ我が悪作なりと。」(『論』第七・初右)
 悪作が因で、悔の体が果になります。「悔に悪作と名づけるは因に従って名と為す。まず所作を悪むとはその因を顕し、後、方に追悔し、その果を明かす。」(『述記』)
 追悔とは後悔のことです。「作したことを悪(にく)む」と解釈されます。
 「所作を悪む」ということですが、作してしまったことを振り返って反省するということなのです。「にくむ」と云われますからただ単に反省するのではなく、善の心である慚愧が働いているのです。所作が因で、「悪む」が追悔で、果を顕わします。「追」は追体験といいますか、自分の作したことを、もう一度思い返し「悪む」という意識が生まれてくるのですね。「悔過」(けか)につながるのですね。過ちを悔いることです。そして悔い改めるということになるのですね。このことが追悔するということになります。ただ第六意識で懺悔が成り立つと云われているのです。
「悔と眠とは第六識とのみ倶なり。」(『論』第七・四右)
日常生活と共に意識されることが出来るのが懺悔心だと云っているわけです。これは私たちの日常の心で出来るんだと教えています。ここでも、罪を悔いることが出来るのか、出来ないのかは私の責任ということになるのです。決断は自らに委ねられているのですね。
 また『述記』には『顕揚論』から「已作と未作とに於いて追恋するを体と為す。障える業にも亦、奢摩他を障うといえり」をあげています。作した行為と、未だ為さざる行為に於いて追恋することが本質であり主体なのです。これも悪作に摂めるのであるといわれているのです。要するに、すでに為した行為と(~をしてしまったという後悔)、為そうと思ったけれども為さなかった行為(~をすればよかったという後悔)をも悪作であるということになるのです。これが不定の一番目に云われる「悔」の心所になります。
不定という心所は私の一挙手一投足、作したこと、作さなかったことも悪作になるということは、そこに心の働きにより、次の行為につながることになるのでしょうね。「所作というは、要ずしも先に有事の已作を悔むのみを名づけて悪作となすにあらず。」その理由は先に作さざりしを悔やむも又悪作というのである、というのです。次に行為につながるということに於いて止を障えるといわれるでしょう。奢摩他を障碍するのが「悔」ですから、不善であり、有覆無記になりますね。このことは私の生活に大きな示唆を与えていると思うのです。私の作したこと、作そうとおもったことに於いて、間断なく業を生みだしているのですね。間断なくという事ですから、真実を覆ってしまうのです。心の深層に深く横たわる私へのこだわり、自我愛、執着が善なるものも染にしてしまうのでなないでしょうか。「悪作の善なるものは是れ愧なり」といわれますが、その愧をも覆ってしまうのが染心なのでしょう。染心が私の心を支配して、あたかも染心が私であるが如く装ってしまい、真実を見る眼差しを覆い隠してしまっているのです。
 染心はただ不善です。現在及び未来に対して悪をもたらすものです。已今當の過去・現在・未来にわたり末那識相応の我執によって真実を覆い隠されたことを以って已造・未造の業をつくるのですね。宿業は非常に明るいところに立つ心です。宿業の自覚により闇を破るのですね。「無明の闇を破る」のは「宿業にあらずということなし」という眼差しから生み出されてくるものだと思いますね。「本願力」というのは無覆無記のパワーだと思います。どこかにあるものではなく、私にあって、私のものではない力でしょう。掴むのも離すのも我執です。「掴むことも、離すこともできません。」ということが本願に頷くということではないでしょうか。慈恩大師の釈門を読ませていただき「不定」の心所・「悔」が私に教えていることの意味を感じました。
 眠(めん)の心所に入ります。
 『二巻鈔』には「次睡眠(スイメン)ノ心所ト云ハ、心ヲクラカラシメ、身ヲ自在ニアラザラシムル心ナリ。人ハ睡(ネム)ルコノ心所ノ起(オコル)時ナリ。」と教えています。
 つまり、睡眠という心が起こると、心が暗く狭まり、身体がしびれ自由がきかなくなるということです。思い当たる節がありますね。講義の最中、眠ってはいけないと思い、先生の話を目をほじくるようにして聴こうとしていてもですね、身が眠っていますから、意識作用は働いていても、正常には働いていないということになります。これを禅定にあてはまますと、禅定を障える働きを持つのが睡眠ということになりますね。心をくらます心作用と云えると思います。
 詳しく言いますと、『論』には、
 「眠というは、謂く睡眠(すいめん)なり。自在にあらず。昧略(まいりゃく)にならしむを以って性と為し」(『論』第七・初左)
 昧は暗いという意味。ここでいう睡眠は心をくらます心作用のことで、心が眠っている状態を云います。眠っている状態のことを昧略と言い表しています。
 「これは身を不自在ならしむ。坐してまた睡るが故に。乃至、よく他が揺動すれども、また覚めざるを等なるが故に。これは心を極めて闇(昧)、軽(略)ならしむるを性となす。」(『述記』)
 自在と云う事がいわれています。自在は自由とは違って束縛の中の自由とでも言ったらよろしいのかなと思いますが、田舎に行きますと最近ではあまり見かけなくなりましたが囲炉裏の天井から自在が吊下がっていて自由自在に高さが調整できるのですね。変幻自在とも云いますように、どのようにでも変化ができることが自在といわれるのでしょう。「自在ならず」ということは、私は毎日の如く経験をするのですが、眠ってはいけないと思いつつ、うとうととしてしまいます。心が働かなくなるのですね。自分では仕事をしているつもりなのですが、実は堂々巡りの繰り返しなのです。眠気が襲ってきますと身の自由がきかなくなります。昧は暗いという事ですので、軽(略)だんだんと暗くなってくるのが睡眠と云うことになります。これもよくわかります。眠気が襲ってきますと目の前がだんだんと暗くなり意識が薄れて、いつの間にか眠っているのです。しかし鼾(いびき)をかいて熟睡をするという事ではなく、心が眠っていく状態ですので意識の底で眠ってはいけないという作用が有るのですね。ですから、うとうとしながら「はっと」するわけです。睡眠とはそのような性質をもっているのでしょう。
 「観を障うるを以って業と為す」(『論』第七・初左)
 先の「悔」は「止」を障うるとありましたが、この「眠」は「観」(毘鉢舎那)を障うると云われます。「即ち毘鉢舎那なり。これは別に観を障う。蓋のうちよく(掉)挙を障うが如くにあらず。挙は定と慧とに通じ心をして高ならしむ。(『述記』)
 睡眠は観察(かんざつ)を障碍するのです。観察は心を深く観るわけですから、眠っていては観察はできません。掉挙は「行捨と奢摩他とを障うる」といわれていました。仏道修行を妨げる働きが掉挙といわれ、奢摩他(止)を障碍するのです。「心をして境に於いて寂静ならざらしむを」といわれていますから、睡眠が観を障碍するという事とは違うというわけです。
 「奢摩他」について、
 「云何が作願する、心に常に作願したまへりき、一心に專念して畢竟じて安樂國土に往生して、實の如く奢摩他を修行せむと欲ふが故にのたまへり。」(『浄土論』真聖p138)
 「奢摩他」を譯して止と曰ふ。止は心を一處に止めて惡を作さざるなり。此の譯名は大意に乖かざれども義に於て未だ滿たず。何を以て之を言ふとならば、心を鼻端に止むるが如きをも亦名けて止と爲す。不淨觀の貪を止め、慈悲觀の瞋を止め、因縁觀の癡を止む、是の如き等をも亦名けて止と爲す。人の将に行かんとして行かざるをも、亦また名けて止と爲す。是に知ぬ止の語は浮漫にして正しく奢摩他の名を得ず。椿・柘・楡・柳の如きを皆木と名くと雖も、若し但木と云ふときは焉んぞ楡・柳を得んや。奢摩他を止と云ふは、て三の義有るべし。
 一には一心に專ら阿彌陀如來を念じて彼の土に生と願れば、此の如來の名号及び彼の國土の名号、能く一切の惡を止む。(妙声功徳)
 二には彼の安樂土は三界の道に過たり、若し人亦彼の國に生ずれば、自然に身口意の惡を止む。(清浄功徳)
 三には阿彌陀如來正覺住持の力をして、自然に聲聞・辟支佛を求むる心を止む。(主功徳)
 此の三種の止は、如來如實の功徳より生ず、この故に「欲如實修行奢摩他故」と言たまへり。(聖全1p315)
 前後しますが「悔」は「障止為業」と云われて、「奢摩他」を障碍するということでした。上の文章は『浄土論』の作願門の教えで、釈文は『浄土論註』によります。奢摩他は「止」と訳され心を一つのところに止めて悪を作さないことで、貪・瞋・痴を止むこといわれているのです。親鸞聖人はこの奢摩他・毘婆舎那は還相回向の利益として「証巻」に引用されています。その心は「化身土巻」に述べられていました。「宗師(善導)の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸・頓すなわちおのおの所宜に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れり」(玄義分)と云えり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」(定善義)と言えり。」「余」が大事ですね。「余はすなわち本願一乗海なり。」と示してくださっています。『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと。(真聖p285)
「毘婆舎那」は「観」と訳されます。正しい直観で明らかに観察することですね。「眠」はこの「観」を障碍すると云われているのです。作すこと、作さざることに悔いることが「止」を障え、「睡眠」が「観」を障えるといわれているのです。これは修行にとっての大敵ですね。真面目に修行をすればするほど「解脱」の問題は行を覆い被さってくるのではないでしょうか。親鸞聖人は徹底的に自身の心を観察されていたのでしょうね。『浄土論』・『浄土論註』のお心を御読みになり還相回向の徳として自身の解脱(救済)の道を教えてくださいました。その道は「念仏成仏是真宗」の一言で言い尽されますが、この功徳は「たとい睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。」と。もう迷いの世界には戻らないということなのです。ここを押さえて「正定聚住不退転」と云われているお心ではないでしょうか。
 修行に於いて睡眠は如何に大敵かは様々な論書に端的に教えられています。例えば『観念法門』に「若し比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、是の三昧を行學せんと欲はん者は、七日七夜、睡眠を除去して、諸の亂想を捨て、獨一に處止して、」といわれていますように、睡眠は一瞬にして迷いの世界に後戻りさせてしまうのです。
 「謂く睡眠(すいめん)の位には身をして自在ならざらしむ。心をして極めて闇劣(おんれつ)ならしむ。一門のみに転ずるが故に。」(『論』第七・初左)  
 「上の不自在を釈す。身不自在とは制せられ自ら専ならず。心の不自在とは心が極めて闇劣なるなり。一門のみに転ずるとは、ただ一の意識のみにあり。都て五識になし。闇劣に転ずるが故に。明了なるときなし。余の心が、また五識にもあるを別んがためなり。闇にして劣昧なること有り。明了なる時なきが故に。」(『述記』第七本・五右))
 「身をして自在ならざらしむ」という、睡眠は体の自由を奪っていくのですね。動かなくなってきます。
心が正常な働きをしないのは心が極めて暗くなってだんだんと動かなくなる状態をいいます。指も手も動きませんね。命令系統が断絶しているのでしょう。「心が極めて闇劣(おんれつ)ならしむ」です。意識のみが動いていて五識は働きません。この時の意識は朦朧状態です。説明しなくてもよくわけあることです。日常茶飯事に起こってきますし、聞法のときなど、本当に眠くなりますよね。聞かなあかん、聞かなあかんと思いつつ眠っています。手に鉛筆を持ったままでね。いやはや滑稽なんですがね。
 「一門のみに転ずる」と云われるのは、心は一つのものにしか動かなくなるのです。ここで云われます睡眠は普通の生活の中での睡魔とは随分様子が違います。煩悩・随煩悩・不定の心所はおしなべて見修所断の修行の中で問題になる事柄なのです。睡眠は暗くなるといわれますから意識が薄れてくるのですね。はきりしていた意識が劣ってくるということですね。
 「ただ一の意識のみにあり」という、闇劣か明了かとはっきりしているのです。禅定は明了なわけです。明了ということは六識すべてが生き生きと明らかに動いている、睡眠は暗くなるということに於いて禅定とは違うと云っているのです。
 「昧と云うは定に在るを簡び、略と云うは寤(さ)めたる時を別(わ)く。令(りょう)と云うは睡眠は体・用(ゆう)無きに非ざることを顕す。」(『論』第七・初左)
 三昧は禅定ですから睡眠は禅定ではないというわけです。そして醒めているときは心が生き生きとして働いているわけですから、それとは違うと、生き生きと働いていない時であって、生き生きとしている時ではないと言っているのですね。何故このようなことを云うのでしょうか。それは「体・用が有る」からだというのです。独自の働きが有るというわけです。睡眠と云う独自の働きが有って他の意識が左右されるのですね。他の意識が薄れて眠くなるのではないのです。睡眠と云う状態が他の意識を眠らせるのです、と教えています。「眠」という心所が有るということになりますから、定に簡ぶのです。
 睡魔という眠の心所があって、眠が働いてきて初めて眠りに就くことが出来るんだと教えています。ですから眠が働きませんと眠りに就くことはできません。いくら眠りたいと思ってもダメなんです。逆にですね、絶対に今日は先生の話を聞き逃すまいと思っていても眠の心所が動き出しますと抵抗ができません。ギブアップです。
 重ねて学習しますが、
 「昧と云うは、定に在るを簡ぶ。略というは寤(さ)めたるを別(わ)く。令(りょう)と云うは睡眠(すいめん)は体・用(たい・ゆう)なきに非ざることを顕す」(『論』)昧は暗い、略は「はぶく」と云う意味なんです。心の働きが劣ってくる、或いは、せばまってくることで、だんだんと眠くなり(前五識の働きが無くなって)、心が働かなくなる様子を睡眠と顕したのです。心の働きが劣ってくると云うのは、眠っている時は五識がはぶかれ第六意識だけが働いていることを云います。寤めている時は六識すべてが働いているわけです。このことを『述記』では「専注すること微細なりといえども、然も定と不同なり」といっています。「定」は「心を専注して散ぜらしむる」と云われていました。定と睡眠は似て非なるものであるということですね。睡眠はただ暗いということなのです。寤(さめる)は眠りからさめるということ、そして悟るという意味が有りますね。ねてもさめてもということです。寤寐(ごび)といわれます。
 「弥陀の報土をねがうひと/外儀のすがたはことなりと/本願名号信受して/寤寐にわするることなかれ」(高僧和讃・真聖p498)
 といわれていますから、「昧とは定に在るを簡ぶ」そして「寤たる時を別けるなり」といわれるわけです。
 「余の散心は闇なることを有りといえども、しかも軽略ならず(心が暗くせばまっているのではない)」(『述記』第七本・五右)
 定心・散心ともに修に関わる問題ですから、六識は働いていると云っているのです。「令」の言を置くのは睡眠は有体であるからで「方に身等をして不自在ならしむる等の用あり」と。体が有って五蘊を束縛する用・働きが有るというわけです。
 「無心の位に有るのは此の名を仮立せるなり。余の如く蓋纏(がいてん)なるを以て心と相応すべきが故に。」(『論』第七・初左)
 経量部の説は睡眠は実体として有るのではなく無心の位に仮に立てたものであると主張しているのです。この仮立するというを恐れて「令」の言をおいているのですね。いろいろな考えが有るのですが何が正しいのかはっきりと確かめる必要がありますね。余の如く蓋纏(がいてん)なるを以って心と相応すべきが故に。」蓋は五蓋ですね。「心を覆蔽し善をして転ぜざらしむ」のが蓋の働きなのです。
 五蓋とは
・ 貪欲蓋は、境界を貪するに由って出家を楽うを障う。
・ 瞋恚蓋は、犯を諌めるを瞋するに由って正行を覚るを障う。
・ 惛沈睡眠蓋は、惛沈は止を障え沈没を引くが故に。    
・ 悼挙悪作蓋は、悼、悔は挙を障え散乱を引くが故に。
・ 疑蓋は、疑は不決定なり、捨の位を障うが故に
 これらの五蓋は「止・挙・捨」の三位を障えるのです。「出家を楽うを障う」・「正行を修することを障う」・「正定に入ることを障え」るのです。止・挙・捨を修するのに障碍となるのに纏の心所が有るのです。纏に八種数えられます。「惛沈・睡眠・悼挙・悪作・嫉・慳・無慚・無愧」です。「その心を纏繞(てんじょう)して善品を修するにおいて、よく障となるが故に。」修を為そうとする心に纏わりついて妨げる煩悩が纏といわれるのです。
 惛沈・睡眠は「止」を障碍し、 
 悼挙・悪作は「挙」(努力をなし、または働きをなす心の状態)を障碍し、
 嫉・慳は「捨」(転捨ー煩悩などを滅し捨て去ること・迷いの状態を転じ捨て去る)を障碍するのです。
 疑は二利平等なるを捨と名づけるに依って、二利(自利利他)を障碍するのです。
 無慚・無愧は尸羅(しら、シ~ラの音写で戒のことですね。)を障碍するといわれています。
 尋(じん)と伺(し)について、
 「尋ト伺ト、物ヲイワントテ万ヅノ事ヲ押シハカル心ナリ。其レニ取ッテ浅ク推度(すいたく)スル時ヲバ尋ト名ヅケ、深ク推度スル時ヲバ伺ト名ヅク。」(『法相ニ巻抄』)
 尋と伺という心所は、言葉を用いてすべての事を推し量る心だと云われています。そこで、浅く推し量る心を「尋」と名づけ、深く推し量る心を「伺」と名づけているのです。『成唯識論』をみてみましょう。
 「尋と云うは謂く尋求(じんぐ)なり。心をして悤遽(そうこ―せわしき様子)にして意言の境(意言の対象)に於て麤(そ―粗い)に転ぜしむるを性と為す。伺と云うは謂く伺察(しさつ)なり。心をして悤遽にして意言の境に於いて細に転ぜしむるを以って性と為す。」(『論』第七・二左)
 悤遽 ― 悤は忙しいとかせわしいという意味の字ですし、遽も慌ただしいとか忙しいという意味の字です。 
 心が忙しく慌ただしく動く、何に対して忙しく慌ただしいのか、『論』は「意言の境に於て」悤遽であると云っていますね。
 対象は言葉です。それを「意言の境」といいます。
 太田久紀師は「対象は言葉、意言の境です。言葉が言葉を対象にして動いていく。言葉を対象としながらいろいろと選び分けていく。ここではこの言葉を使う、ここではこれは使ってはいけない。言葉を自分で選ぶ、したがって悤遽なんです。悤も遽もあわただしいという意味。心の中ではいろいろと言葉についての詮索をしながら、心でものを考えていく。言葉は境でもあります。同時に動く心自体も言葉によって動いていきます。私達がものを考えるときには考える働きの中に言葉が有る。言葉無しにものを考えるということは私達はしませんね。独りで考えている時にも、言葉が選ばれて、言葉が並べられて、そして判断をしたり思索をしたりします。言葉を対象にして動くこと自体も言葉によっているのですけれど、仮に分ければ意言の境。対象に向かって動いていく心の働きを尋と伺という。同じ働きです。」と教えてくださいます。
 つまり、尋と伺はともに意言の対象(言葉)に於いて悤遽に転ずるのですね。せわしく・あわただしく心が忙しく揺れ動くのです。意言は心のつぶやきといいます。私たちは言葉を通して何事も判断しています。心の分別をデジタル化していろいろなことを考えているのですね。言い換えれば言葉を用いないと何事も考えられないのです。この言葉を名言といいあらわされていますが、言葉を通していろいろなことを求め、考えていく、それによって心が動いていくのです。これを尋と伺の二つの言葉に分けられて説明されています。意言の境と云われますから、心の中で描いた言葉、心のつぶやきが言葉を対象として動いていくのですね。それがせわしいのです。あわただしく、忙しいのですね。間断なく心は動いていますからね。「意言の境に於て悤遽に転ず」と押さえられているわけです。
 「ニの行相は同なり。故に一処に明かす。尋とは尋求なり。即ち七分別のうち尋求分別等なり。「心をして悤遽」の「悤」は迫、「遽」は急なり。意言の境とは意即意識なり。遍縁なるを以っての故に。これに三解あり」(『述記』第七本・十右)
 七分別(しちふんべつ)とは、七種分別のことで、七つの愚かさを云い、有相分別・無相分別・任運分別・尋求分別・伺察分別・染汚分別・不染汚分別の七をいいます。『瑜伽論』巻第一・(本地分中意地第二の一)に詳細が述べられています。そこでは「云何が所縁を分別するや」と問いが立てられて、「七種の分別に由る」と答えられているのです。
 尋求分別とは「諸法に於て観察尋求(かんざつじんぐ)して起る所の分別なり、」(存在するものが何であるのかと観察し追究する思考のこと)
 意言と言の字を加えた理由について三の理解が示されます。
• (1) 喩に従う。意識とおよび相応法とは、よく境を取るが故に。言説の言と相似す
• (2) 境に従う。言説の言はこれ声の性なり。この言が意の所取の境となる。言に従って名となす。ただ意言となづく。
• (3) 果に従う。意に由ってよく言説等を起こす故に意言となづく。意所取の境を意言の境と名づく。
 また一切の心所法等に通ず。しかも意のみこれ主にして勝れたる故に偏にとく。いまこの境は一切法に通ず。(『述記』第七本・十右)
 言葉を起こす因が尋・伺なのですが、遍行の心所の中の「想」も言葉を起こす因なのですね。「種々(くさぐさ)の名言を施設するを以って業となす」意識と相応する想のみが言葉を起こす因となるわけですが、この想を疎因として、尋・伺を親因となって言葉が具体性をもつわけです。尋求し伺察することがなかったならば言葉は具体性をもってこないのです。概念的思考が起こるのは尋求し伺察する心所があるからなのです。
 「此のニは倶に安・不安に住する身心の分位が所依たるを以って業と為す。」(『論』第七・二左)
 「身心もし安なるときは、徐緩なるを以て業となす。身心が安から不るときは悤遽なるを以て業と為す。倶に思と慧とに通ず。あるいは思をば安と名づく。徐にして細なる故に。思量の性なる故に。慧を不安となづく。急にして麤なる故に。簡択性なる故に。身心は前後に安不安あり。みな尋と伺による。故に所依と名づく。」(『述記』第七本・十一右)
 尋と伺は思(意志)と慧(知恵)との両方から構成され思の働きは徐(おもむろ)で細(深い)く、慧の働きは急にして粗いことから、徐緩(おもむろにゆるやか)で深く細やかに働く意志が安住をもたらし、性急にして粗く浅く働く知恵は不安住を引き起こすと考えられました。「思うこと深ければ慧発して安心なり。正しく慧を用いれば徐なり」「思が慧に随うときは不安なり」と説かれました。また尋が麤と云われるのは欲界のみに働き、伺は初禅に通じるといわれるところから分けられているとも云われています。
 「此のニ(尋・伺)は倶に安・不安に住する身心の分位の所依たるを以って業と為す。並びに思と慧との一分を用いて体と為す。意言の境に於いて深く推度せざると。及び深く推度すると。義類別なるが故に。若し思と慧とに離れて尋と伺とのニ種の体類の差別は。不可得なるが故に。」(『論』第七・二左)
 推度(すいたく)は推理のこと。「推度とは、先に対象を観察して判断決定をひきだすことである」と云われます。深く推理をしないのが「尋」で、深く推理をするのが「伺」ということになります。意識が働いていると云うことは言葉に依るわけです。言葉でもって対象を観察しています。言葉に依ると云う事はそこに分別が働きます。分別によって安心や不安に住します。『述記』には「安なるときは、徐緩を業となす。身心が不安なるときは、悤遽を業とす。ともに思、慧に通ず。」というわけです。
 「深く推度せざるを思となづけ、深を慧となづくというは、これにニ義あり。
•(1) 思は全に推度せず、深く推度せずとなづく。細に推度をなすにあらず。慧に翻じて義となす故に。対法論(『雑集論』第一)に推度せずというが故に。(「尋とは思に依り慧に依るとは、推度と不推度の位に於いて、その次第の如く、追及する行相意言分別なり。伺とは思に依り慧に依るとは、推度と不推度の位に於いてその次第の如く伺察する行相意言分別なり。)
•(2) 思は慧に深く推度すること有るが如くにあらずといえども、また浅く推度す。」(『述記』第七本・十一左)
 尋・伺は浅・深に推度するのであり、「対法に推度せずというは」、これは深く推度しないということです。そして尋・伺は思及び慧のニを離れて体・用、類の別であることは無いのです。思と慧との一分を体とするのですね。別体を立てないのです。尋は浅く推理し、伺は深く推理追求するのです。
 『倶舎論』に「尋伺の別とは、謂く心の麤細なり。心の麤性を尋と名づけ、心の細性を伺と名づく。」(巻四)と云われていました。尋は意言の境を粗く考える事で、伺は意言の境を微細に考察することなのです。尋は尋求(尋ね求める事)・伺は伺察(よく考える事)と説かれています。いずれも思と慧との両者から構成されますが、「慧」は「急にして麤なる故に」、慧を不安と名づけ、「思」は「徐にして細なる故に。思量性なる故に」安と名づけると。身心が安・不安を起こすのは、尋伺によって所依となると云います。即ち尋伺が徐に細なるときは身心は安住し、悤遽(そうこ―あわただしい)であるときは不安住であるのです。
 『雑集論』(大乗阿毘達磨集論)に、尋については「思に依り慧に依るとは推度と不推度の位に於いて、其の次第の如く、追求する行相意言分別なり。」と云われています。粗く働いている心の中の言語活動なのです。そして伺は「思に依り慧に依るとは推度と不推度の位に於いて、其の位の如く伺察する行相意言分別なり。」といわれ、心の中の細やかな言語活動なのです。推度とは先に対象を観察して判断決定することなのですが、尋は不推度といわれ、いうならば、いきあたりばったりです。何も考えなくして判断をし決定してしまう心の麤(粗さ)ということになり、深く推度するのが伺なのです。伺は意言の境を微細に考察することなのですが、意識の境ということになり、言説は意識に依って発起するから果に依り意言の名を立てているのです。いずれにしても心の中の活動はであれ、細であれ分位できるものではありません。単刀直入に推度することもありますし、深く考察をして推度することもあります。いつでも何かを未だ発動しない言語活動に於いて考えています。それが浅か深かは縁によるのでしょう。自分の心を満たすものとの出会いは安でしょうし、反対に満たさないものとの出会いは苦痛でしかありません。私たちは四六中この思・慧を所依とする尋伺に振り回されているのではないでしょうか。ここに「何故」という問いが回向されてくるのです。聞法はこの問いを聞く歩みになるのですね。聴くことを通して聞こえてくる声に耳を傾けなければなりません。「耳の底にとどまる」のは、聴こうとする姿勢が、自ずから仏言が聞こえてきた証になるのでしょう。
 「述して曰く、自下は第三に二各二を解し、尋伺を後に説くが故に。行相は同じきが故に。尋と伺とは初の二なり。染と浄とは後の二の文なり。文は易し知る可し。」(『述記』第七本・十二右)
 『三十頌』に出てまいります「二各二」とはどのような意味なのかが問われてきます。これに三説あり、第三説が正義とされます。
 「二各二」は悔・眠・尋・伺の四種の心所が不定であるという意義を説き、「二」は悔・眠の二と尋・伺の二に各々二種各別の意義が有ることを顕しています。 
 「二各二とは」について
 •第一説 「有義は尋と伺とに各染・浄の二種差別有りと云う。」(『論』第七・二左)
 前の尋と伺には染と浄の二類が有るのだという説になります。
 次が
 •第二説 (初めに前師を破す。)「有義は此の釈は正理に応ぜず。悔と眠とにも亦染と浄との二有るが故に。応に説くべし。前の如き諸の染の心所に是の煩悩と随煩悩との性有り。此の二(煩悩と随煩悩)に各不善と無記有り。或いは復た各纏と及び随眠と有りと云う。」(『論』第七・二右)
 (染の心所に貪等の煩悩と忿等の随煩悩が付随し、それに不善と無記との二の性質が備わっている。或いはこの二に各現行の纏と種子の随眠の二が有ると云う。
 纏は煩悩に纏わりついているものと云う意味になります。煩悩の異名。八纏・十纏を数えます。無慚・無愧・嫉・慳・悔・眠・掉挙・惛沈・忿・覆を十纏といい、自らの内心に潜んでいる悪への傾向が自らの身心を纏って自在にさせないことから名づけられました。随眠は悪への傾向で内在している煩悩のことです。表に現れていない内在化している煩悩のことを意味します。前の二(尋・伺)を煩悩と随煩悩と解釈し、後の二(悔・眠)は、その煩悩・随煩悩の二に不善と無記との二、もしくは現行の纏と種子の随眠の二が有りと解釈しています。
 • 第三説(正義) 「有義は、彼の釈も亦理に応ぜず。不定の四の後に此の言有るが故に。応に言うべし。二とは二種の二を顕す。一には謂く悔・眠となり。二には謂く尋・伺となり。此の二の二種は種類各別なり。故に一の二と云う言は二の二種を顕す。此れに各二有り。謂く染と不染となり。善と不染との各唯一のみなるが如きに非ざるが故に。或いは唯染を簡ぶが故に。此の言を説けり。有るところに亦説いて随煩悩と為すが故に。」(『論』第七・二右)
 安慧の説といわれ、これが正しい説です。「悔・眠」を一種類として染と不染が有り、「尋・伺」を一種類として染と不染とが有るということです。二種類の二とはこのことですね。上の二は悔・眠・尋・伺で、下の二は染・不染です。「種類各別」といわれますのは『述記』に十義顕されています。類別しますと(1)界繋の種類が別 (2)思と慧とによる種類が別 (3)仮実の種類が別 (4)断ずる時の種類が別 (5)上地の起と不起と種類が別 (6)支と不支と種類が別 (7)纏と蓋との性の種類は別 (8)語行と非行と別 (9)定散門に通ずることは別 (10)無漏に通ずる類が別ということで、「これに由って二の二は別なり」と云われます。四共に各々染・不染に通じるというのが勝義になります。悔・眠と尋・伺の二種類は染にも浄にも通じるのです。煩悩は染ということで一定していますが、この二種類は一定していないのです。ある時は染。ある時は浄と定かでないところから不定と名づけられました。
 
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第三能変 第六 不定の心所 (8) 「二各二」について

2016-04-16 23:59:00 | 第三能変 不定の心所
  

 「述して曰く、自下は第三に二各二を解し、尋伺を後に説くが故に。行相は同じきが故に。尋と伺とは初の二なり。染と浄とは後の二の文なり。文は易し知る可し。」(『述記』第七本・十二右)
 『三十頌』に出てまいります「二各二」とはどのような意味なのかが問われてきます。これに三説あり、第三説が正義とされます。
 「二各二」は悔・眠・尋・伺の四種の心所が不定であるという意義を説き、「二」は悔・眠の二と尋・伺の二に各々二種各別の意義が有ることを顕しています。 
 「二各二とは」について
 •第一説 「有義は尋と伺とに各染・浄の二種差別有りと云う。」(『論』第七・二左)
 前の尋と伺には染と浄の二類が有るのだという説になります。
 次が
 •第二説 (初めに前師を破す。)「有義は此の釈は正理に応ぜず。悔と眠とにも亦染と浄との二有るが故に。応に説くべし。前の如き諸の染の心所に是の煩悩と随煩悩との性有り。此の二(煩悩と随煩悩)に各不善と無記有り。或いは復た各纏と及び随眠と有りと云う。」(『論』第七・二右)
 (染の心所に貪等の煩悩と忿等の随煩悩が付随し、それに不善と無記との二の性質が備わっている。或いはこの二に各現行の纏と種子の随眠の二が有ると云う。
 纏は煩悩に纏わりついているものと云う意味になります。煩悩の異名。八纏・十纏を数えます。無慚・無愧・嫉・慳・悔・眠・掉挙・惛沈・忿・覆を十纏といい、自らの内心に潜んでいる悪への傾向が自らの身心を纏って自在にさせないことから名づけられました。随眠は悪への傾向で内在している煩悩のことです。表に現れていない内在化している煩悩のことを意味します。前の二(尋・伺)を煩悩と随煩悩と解釈し、後の二(悔・眠)は、その煩悩・随煩悩の二に不善と無記との二、もしくは現行の纏と種子の随眠の二が有りと解釈しています。
 • 第三説(正義) 「有義は、彼の釈も亦理に応ぜず。不定の四の後に此の言有るが故に。応に言うべし。二とは二種の二を顕す。一には謂く悔・眠となり。二には謂く尋・伺となり。此の二の二種は種類各別なり。故に一の二と云う言は二の二種を顕す。此れに各二有り。謂く染と不染となり。善と不染との各唯一のみなるが如きに非ざるが故に。或いは唯染を簡ぶが故に。此の言を説けり。有るところに亦説いて随煩悩と為すが故に。」(『論』第七・二右)
 安慧の説といわれ、これが正しい説です。「悔・眠」を一種類として染と不染が有り、「尋・伺」を一種類として染と不染とが有るということです。二種類の二とはこのことですね。上の二は悔・眠・尋・伺で、下の二は染・不染です。「種類各別」といわれますのは『述記』に十義顕されています。類別しますと(1)界繋の種類が別 (2)思と慧とによる種類が別 (3)仮実の種類が別 (4)断ずる時の種類が別 (5)上地の起と不起と種類が別 (6)支と不支と種類が別 (7)纏と蓋との性の種類は別 (8)語行と非行と別 (9)定散門に通ずることは別 (10)無漏に通ずる類が別ということで、「これに由って二の二は別なり」と云われます。四共に各々染・不染に通じるというのが勝義になります。悔・眠と尋・伺の二種類は染にも浄にも通じるのです。煩悩は染ということで一定していますが、この二種類は一定していないのです。ある時は染。ある時は浄と定かでないところから不定と名づけられました。
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第三能変 第六 不定の心所 (7) 尋と伺について

2016-04-15 23:24:34 | 第三能変 不定の心所


 尋(じん)と伺(し)について、
 「尋ト伺ト、物ヲイワントテ万ヅノ事ヲ押シハカル心ナリ。其レニ取ッテ浅ク推度(すいたく)スル時ヲバ尋ト名ヅケ、深ク推度スル時ヲバ伺ト名ヅク。」(『法相ニ巻抄』)
 尋と伺という心所は、言葉を用いてすべての事を推し量る心だと云われています。そこで、浅く推し量る心を「尋」と名づけ、深く推し量る心を「伺」と名づけているのです。『成唯識論』をみてみましょう。
 「尋と云うは謂く尋求(じんぐ)なり。心をして悤遽(そうこ―せわしき様子)にして意言の境(意言の対象)に於て麤(そ―粗い)に転ぜしむるを性と為す。伺と云うは謂く伺察(しさつ)なり。心をして悤遽にして意言の境に於いて細に転ぜしむるを以って性と為す。」(『論』第七・二左)
 悤遽 ― 悤は忙しいとかせわしいという意味の字ですし、遽も慌ただしいとか忙しいという意味の字です。 
 心が忙しく慌ただしく動く、何に対して忙しく慌ただしいのか、『論』は「意言の境に於て」悤遽であると云っていますね。
 対象は言葉です。それを「意言の境」といいます。
 太田久紀師は「対象は言葉、意言の境です。言葉が言葉を対象にして動いていく。言葉を対象としながらいろいろと選び分けていく。ここではこの言葉を使う、ここではこれは使ってはいけない。言葉を自分で選ぶ、したがって悤遽なんです。悤も遽もあわただしいという意味。心の中ではいろいろと言葉についての詮索をしながら、心でものを考えていく。言葉は境でもあります。同時に動く心自体も言葉によって動いていきます。私達がものを考えるときには考える働きの中に言葉が有る。言葉無しにものを考えるということは私達はしませんね。独りで考えている時にも、言葉が選ばれて、言葉が並べられて、そして判断をしたり思索をしたりします。言葉を対象にして動くこと自体も言葉によっているのですけれど、仮に分ければ意言の境。対象に向かって動いていく心の働きを尋と伺という。同じ働きです。」と教えてくださいます。
 つまり、尋と伺はともに意言の対象(言葉)に於いて悤遽に転ずるのですね。せわしく・あわただしく心が忙しく揺れ動くのです。意言は心のつぶやきといいます。私たちは言葉を通して何事も判断しています。心の分別をデジタル化していろいろなことを考えているのですね。言い換えれば言葉を用いないと何事も考えられないのです。この言葉を名言といいあらわされていますが、言葉を通していろいろなことを求め、考えていく、それによって心が動いていくのです。これを尋と伺の二つの言葉に分けられて説明されています。意言の境と云われますから、心の中で描いた言葉、心のつぶやきが言葉を対象として動いていくのですね。それがせわしいのです。あわただしく、忙しいのですね。間断なく心は動いていますからね。「意言の境に於て悤遽に転ず」と押さえられているわけです。
 「ニの行相は同なり。故に一処に明かす。尋とは尋求なり。即ち七分別のうち尋求分別等なり。「心をして悤遽」の「悤」は迫、「遽」は急なり。意言の境とは意即意識なり。遍縁なるを以っての故に。これに三解あり」(『述記』第七本・十右)
 七分別(しちふんべつ)とは、七種分別のことで、七つの愚かさを云い、有相分別・無相分別・任運分別・尋求分別・伺察分別・染汚分別・不染汚分別の七をいいます。『瑜伽論』巻第一・(本地分中意地第二の一)に詳細が述べられています。そこでは「云何が所縁を分別するや」と問いが立てられて、「七種の分別に由る」と答えられているのです。
 尋求分別とは「諸法に於て観察尋求(かんざつじんぐ)して起る所の分別なり、」(存在するものが何であるのかと観察し追究する思考のこと)
 意言と言の字を加えた理由について三の理解が示されます。
• (1) 喩に従う。意識とおよび相応法とは、よく境を取るが故に。言説の言と相似す
• (2) 境に従う。言説の言はこれ声の性なり。この言が意の所取の境となる。言に従って名となす。ただ意言となづく。
• (3) 果に従う。意に由ってよく言説等を起こす故に意言となづく。意所取の境を意言の境と名づく。
 また一切の心所法等に通ず。しかも意のみこれ主にして勝れたる故に偏にとく。いまこの境は一切法に通ず。(『述記』第七本・十右)
 言葉を起こす因が尋・伺なのですが、遍行の心所の中の「想」も言葉を起こす因なのですね。「種々(くさぐさ)の名言を施設するを以って業となす」意識と相応する想のみが言葉を起こす因となるわけですが、この想を疎因として、尋・伺を親因となって言葉が具体性をもつわけです。尋求し伺察することがなかったならば言葉は具体性をもってこないのです。概念的思考が起こるのは尋求し伺察する心所があるからなのです。
 「此のニは倶に安・不安に住する身心の分位が所依たるを以って業と為す。」(『論』第七・二左)
 「身心もし安なるときは、徐緩なるを以て業となす。身心が安から不るときは悤遽なるを以て業と為す。倶に思と慧とに通ず。あるいは思をば安と名づく。徐にして細なる故に。思量の性なる故に。慧を不安となづく。急にして麤なる故に。簡択性なる故に。身心は前後に安不安あり。みな尋と伺による。故に所依と名づく。」(『述記』第七本・十一右)
 尋と伺は思(意志)と慧(知恵)との両方から構成され思の働きは徐(おもむろ)で細(深い)く、慧の働きは急にして粗いことから、徐緩(おもむろにゆるやか)で深く細やかに働く意志が安住をもたらし、性急にして粗く浅く働く知恵は不安住を引き起こすと考えられました。「思うこと深ければ慧発して安心なり。正しく慧を用いれば徐なり」「思が慧に随うときは不安なり」と説かれました。また尋が麤と云われるのは欲界のみに働き、伺は初禅に通じるといわれるところから分けられているとも云われています。
 「此のニ(尋・伺)は倶に安・不安に住する身心の分位の所依たるを以って業と為す。並びに思と慧との一分を用いて体と為す。意言の境に於いて深く推度せざると。及び深く推度すると。義類別なるが故に。若し思と慧とに離れて尋と伺とのニ種の体類の差別は。不可得なるが故に。」(『論』第七・二左)
 推度(すいたく)は推理のこと。「推度とは、先に対象を観察して判断決定をひきだすことである」と云われます。深く推理をしないのが「尋」で、深く推理をするのが「伺」ということになります。意識が働いていると云うことは言葉に依るわけです。言葉でもって対象を観察しています。言葉に依ると云う事はそこに分別が働きます。分別によって安心や不安に住します。『述記』には「安なるときは、徐緩を業となす。身心が不安なるときは、悤遽を業とす。ともに思、慧に通ず。」というわけです。
 「深く推度せざるを思となづけ、深を慧となづくというは、これにニ義あり。
•(1) 思は全に推度せず、深く推度せずとなづく。細に推度をなすにあらず。慧に翻じて義となす故に。対法論(『雑集論』第一)に推度せずというが故に。(「尋とは思に依り慧に依るとは、推度と不推度の位に於いて、その次第の如く、追及する行相意言分別なり。伺とは思に依り慧に依るとは、推度と不推度の位に於いてその次第の如く伺察する行相意言分別なり。)
•(2) 思は慧に深く推度すること有るが如くにあらずといえども、また浅く推度す。」(『述記』第七本・十一左)
 尋・伺は浅・深に推度するのであり、「対法に推度せずというは」、これは深く推度しないということです。そして尋・伺は思及び慧のニを離れて体・用、類の別であることは無いのです。思と慧との一分を体とするのですね。別体を立てないのです。尋は浅く推理し、伺は深く推理追求するのです。
 『倶舎論』に「尋伺の別とは、謂く心の麤細なり。心の麤性を尋と名づけ、心の細性を伺と名づく。」(巻四)と云われていました。尋は意言の境を粗く考える事で、伺は意言の境を微細に考察することなのです。尋は尋求(尋ね求める事)・伺は伺察(よく考える事)と説かれています。いずれも思と慧との両者から構成されますが、「慧」は「急にして麤なる故に」、慧を不安と名づけ、「思」は「徐にして細なる故に。思量性なる故に」安と名づけると。身心が安・不安を起こすのは、尋伺によって所依となると云います。即ち尋伺が徐に細なるときは身心は安住し、悤遽(そうこ―あわただしい)であるときは不安住であるのです。
 『雑集論』(大乗阿毘達磨集論)に、尋については「思に依り慧に依るとは推度と不推度の位に於いて、其の次第の如く、追求する行相意言分別なり。」と云われています。粗く働いている心の中の言語活動なのです。そして伺は「思に依り慧に依るとは推度と不推度の位に於いて、其の位の如く伺察する行相意言分別なり。」といわれ、心の中の細やかな言語活動なのです。推度とは先に対象を観察して判断決定することなのですが、尋は不推度といわれ、いうならば、いきあたりばったりです。何も考えなくして判断をし決定してしまう心の麤(粗さ)ということになり、深く推度するのが伺なのです。伺は意言の境を微細に考察することなのですが、意識の境ということになり、言説は意識に依って発起するから果に依り意言の名を立てているのです。いずれにしても心の中の活動はであれ、細であれ分位できるものではありません。単刀直入に推度することもありますし、深く考察をして推度することもあります。いつでも何かを未だ発動しない言語活動に於いて考えています。それが浅か深かは縁によるのでしょう。自分の心を満たすものとの出会いは安でしょうし、反対に満たさないものとの出会いは苦痛でしかありません。私たちは四六中この思・慧を所依とする尋伺に振り回されているのではないでしょうか。ここに「何故」という問いが回向されてくるのです。聞法はこの問いを聞く歩みになるのですね。聴くことを通して聞こえてくる声に耳を傾けなければなりません。「耳の底にとどまる」のは、聴こうとする姿勢が、自ずから仏言が聞こえてきた証になるのでしょう
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第三能変 第六 不定の心所 (6) 悔・眠の体について (2) 護法正義 

2016-04-14 22:02:09 | 第三能変 不定の心所
 

 護法正義が述べられます。
 「有義は彼の説も理亦しからず。思と慧と想とは纏と彼(悔・眠)の性にあらざるが故に。まさに説くべし。此のニ(悔・眠)は各別に体有りと。余の心所と行相別成るが故に。癡の相に随えて説いて世俗有と名づくと云う。」(『論』第七・二右)

 ここからは第四説で正義が示されます。最初は彼の説を破すことから、三段に分かれて述べられています。
 •(1) 欲界の染の思と慧との一分を悔となし、染の思と想との一分を眠となすを破す。纏の性となすにあらざるべし。これは思・慧・想なるが故に。余の思・慧・想の如し。即ちこれはニ界の全と、および欲界の一分との浄と無記なるものなり。あるいは余の染の思等の如し。謂く眠と悔とを除き、余の欲界の染とおよび上のニ界の染とは、みな纏にあらざる故に。これは即ち染分を纏となすを破す。
 •(2) 欲界の浄・無記の一分の思・慧を、かの悪作となし、一分の思・想を、かの眠の体となすを破す。総じて難じて云く、悪作等となる一分の非染の思・慧・想は、かの悪作等のニ法の性にあらざるべし。これ思・慧・想なるが故に。余の上界の思・慧・想等の如し。この量は文の准じて宗が具足することあり。宗の中の有法の思・慧・想および性をとっての故に、因となすこと亦得たり。
 •(3) 汝の染の悔と眠とは思・慧・想にあらざるべし。これ纏の性なるが故に。無慚等の如し。浄・無記の悔・眠もまた思・慧・想のあらざるべし。これかの悔・眠の性なるが故に。染の悔・眠の如し。染の悔・眠の体はすでに思等にあらずと成ず。故に同喩となすことを得。因明に許すが故に。然るに此れ(論)の文の中には、宗の中の法のみあり。非思慧想という。及び因も具足すること文の如し。この解は正に相順すべし。(『述記』第七本・九右))

 「応に説くべし」以下正義が示されます。

 「これは正義を顕す。各別体あり。余の思等と行相ことなる故に。貪等の法は各別に体あるが如し。悪作、悔の性等は余法には無きところなる故に。『瑜伽論』に世俗有というは、これ癡の分なりと説けるを以って、癡の相に随って説いて世俗有と名づく。 小沈等の癡の分と名づけるものの如し。」(『述記』第七本・十三右)

 「悔」(後悔)とか「眠」(睡眠)は余法の一分ではなく独自の心の働きを持ち、積極的に働いているのであるというのが護法正義になります。悔・眠ともに善の時にも悪の時のも働くのです。「ニに各々ニ有り」といわれていました。何かに纏わりついて起こってくるのではなく一つの独立した心所としてあるというのが護法の説になります。要約しますと第一説は癡の分に仮に悔・眠を立てたと云います。第ニ説は悔・眠は善・染に通じるので、癡・無癡との一分で有ると云うのです。第三説は善・染に関わらず無記にも通じて、悔は思と慧とに依って仮に立てられ、眠は思と想とを体として仮にたてられたものであるとしています。正義はこれらの文を破して「各別に体有り」として悔・眠の独自性を示しているのです。
 「各別に体有り」これが正義なのですね。体が有るということは、悔(後悔)や眠(睡眠)は、それぞれ独自の心の働きがあるということであり、第一説から第三説の主張のような何かの上に立てられた仮法ではないということなのです。ですから、定まっていないのです。善にも不善にも無記にも働きます。
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第三能変 第六 不定の心所 (5) 悔・眠の体について (1)

2016-04-13 22:41:42 | 第三能変 不定の心所


次に悔・眠のニ種について別体が有るのか(実か)、無いのか(仮か)が述べられてあります。「総じて四説あり」(『述記』)と。
 悔は、止を障え、眠は観を障得えると云われています。止観に関係して、悔・眠は煩悩であると、つまり修道の妨げになるものとして問題視されたのでしょう。その解釈に四つ示されてあります。初めは悔・眠も随煩悩であるとされていますが、心所として独立し、不定の心所であることが明らかにされてきます。
 「有義は。此の二(悔・眠)は唯、癡を以って体と為す。随煩悩とも及び癡の分とも説けるが故に。」(『論』第七・初左)
 •第一説の主張は、『瑜伽論』巻第五十五に等に「是れ随煩悩並びに癡の分」と説かれているからであり、また『対法論』にも同様の記載が述べられていることから、この二の「体は癡なり」。睡眠は癡であるといいます。「癡は唯、染の中のみにあり。」癡の上に仮立されたものであるという主張です。
 ・第二説の主張は、
 「有義は然らず。亦は善にも通ずるが故に。まさに説くべし。此のニは染ならば癡を以って体と為し浄ならば即ち無癡なりと。論は染分に依って随煩悩及び癡の分に摂むと」(『論』第七・二右)
 この二は、「亦は善にも通ずるが故に」「唯、癡を以って体と為す」というのであれば、唯染のみであるが、そうでなないであろう。この二は善と染に通ずるものであって、染ならば癡であるというべきである。従って第一の説では不十分である。 若し、「唯、癡を以って体と為す」というのであれば随煩悩である。しかし、癡を体とする場合と、無癡を体とする場合がある。修行の中での汚れた睡眠は癡を以って体と為す、それは愚かさというものであるが、「浄ならば」夜、寝床に就くときの睡眠は無癡を以って体と為すのであると。
 ・第三説は「この説も亦理に応ぜず」と。無記がないではないかと疑問を呈します。
 「有義は此の説も亦理に応ぜず。無記は癡と無癡との性に非ざるが故に。まさに説くべし。悪作は思と慧とを以って体と為す。所作の業を明了にし思択(しちゃく)するが故に。」(『論』第七・二右
 悪作は後悔です。「悪作は思と慧とを以って体と為す。」と。後悔は思と慧とである。それは明了に所作を知ることができるから、慧を体とし、所作を思択することに於いて、思を以って体とする。知ることは「慧」ですし、思惟し選択することは「思」なのです。
 思択(しちゃく)は、熟慮・思考・考察することであり、智慧でえらびとり識別することであると云われています。智慧の働きのことですね。
 「睡眠は合して思と想とを用いて体と為す。種々の夢境の相を思想(しそうー心に浮かぶ思い)するが故に。論に倶に説いて世俗有と為すが故になり。彼の染汚なるは是れ癡の等流なり。不信等の如く説いて癡の分と為すと云う。』(『論』第七・二右)「論に倶に説いて」は『瑜伽論』巻第五十五からの引用になります。
 睡眠は思と想であると云っています。心に思う事。思の想の意で、想は像を意味しますね。表象作用のことです。想い浮かべるのですが、そこに思が働いているといっているのです。つまり、外から情報が入ってくるのではなく、外からの情報を選び分けていく作業を(私)が行っているのです。
 これによって三性に通ずることができると云っているわけです。
 この第一説から第三説に共通することは、悔・眠は仮立されたものであるということです。つまり、癡は煩悩であり、無癡は善の心所であり、第一と第二の説は、煩悩や善の心所の上に仮立されたものとして考えられています。第三説は「思・想・慧」は遍行と別境ですから、遍行と別境の上に仮立されたものということになります。
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第三能変 第六 不定の心所 (4) 眠 (2)

2016-04-12 21:18:37 | 第三能変 不定の心所


「謂く睡眠(すいめん)の位には身をして自在ならざらしむ。心をして極めて闇劣(おんれつ)ならしむ。一門のみに転ずるが故に。」(『論』第七・初左)  
 「上の不自在を釈す。身不自在とは制せられ自ら専ならず。心の不自在とは心が極めて闇劣なるなり。一門のみに転ずるとは、ただ一の意識のみにあり。都て五識になし。闇劣に転ずるが故に。明了なるときなし。余の心が、また五識にもあるを別んがためなり。闇にして劣昧なること有り。明了なる時なきが故に。」(『述記』第七本・五右))
 「身をして自在ならざらしむ」という、睡眠は体の自由を奪っていくのですね。動かなくなってきます。
心が正常な働きをしないのは心が極めて暗くなってだんだんと動かなくなる状態をいいます。指も手も動きませんね。命令系統が断絶しているのでしょう。「心が極めて闇劣(おんれつ)ならしむ」です。意識のみが動いていて五識は働きません。この時の意識は朦朧状態です。説明しなくてもよくわけあることです。日常茶飯事に起こってきますし、聞法のときなど、本当に眠くなりますよね。聞かなあかん、聞かなあかんと思いつつ眠っています。手に鉛筆を持ったままでね。いやはや滑稽なんですがね。
 「一門のみに転ずる」と云われるのは、心は一つのものにしか動かなくなるのです。ここで云われます睡眠は普通の生活の中での睡魔とは随分様子が違います。煩悩・随煩悩・不定の心所はおしなべて見修所断の修行の中で問題になる事柄なのです。睡眠は暗くなるといわれますから意識が薄れてくるのですね。はきりしていた意識が劣ってくるということですね。
 「ただ一の意識のみにあり」という、闇劣か明了かとはっきりしているのです。禅定は明了なわけです。明了ということは六識すべてが生き生きと明らかに動いている、睡眠は暗くなるということに於いて禅定とは違うと云っているのです。
 「昧と云うは定に在るを簡び、略と云うは寤(さ)めたる時を別(わ)く。令(りょう)と云うは睡眠は体・用(ゆう)無きに非ざることを顕す。」(『論』第七・初左)
 三昧は禅定ですから睡眠は禅定ではないというわけです。そして醒めているときは心が生き生きとして働いているわけですから、それとは違うと、生き生きと働いていない時であって、生き生きとしている時ではないと言っているのですね。何故このようなことを云うのでしょうか。それは「体・用が有る」からだというのです。独自の働きが有るというわけです。睡眠と云う独自の働きが有って他の意識が左右されるのですね。他の意識が薄れて眠くなるのではないのです。睡眠と云う状態が他の意識を眠らせるのです、と教えています。「眠」という心所が有るということになりますから、定に簡ぶのです。
 睡魔という眠の心所があって、眠が働いてきて初めて眠りに就くことが出来るんだと教えています。ですから眠が働きませんと眠りに就くことはできません。いくら眠りたいと思ってもダメなんです。逆にですね、絶対に今日は先生の話を聞き逃すまいと思っていても眠の心所が動き出しますと抵抗ができません。ギブアップです。
 重ねて学習しますが、
 「昧と云うは、定に在るを簡ぶ。略というは寤(さ)めたるを別(わ)く。令(りょう)と云うは睡眠(すいめん)は体・用(たい・ゆう)なきに非ざることを顕す」(『論』)昧は暗い、略は「はぶく」と云う意味なんです。心の働きが劣ってくる、或いは、せばまってくることで、だんだんと眠くなり(前五識の働きが無くなって)、心が働かなくなる様子を睡眠と顕したのです。心の働きが劣ってくると云うのは、眠っている時は五識がはぶかれ第六意識だけが働いていることを云います。寤めている時は六識すべてが働いているわけです。このことを『述記』では「専注すること微細なりといえども、然も定と不同なり」といっています。「定」は「心を専注して散ぜらしむる」と云われていました。定と睡眠は似て非なるものであるということですね。睡眠はただ暗いということなのです。寤(さめる)は眠りからさめるということ、そして悟るという意味が有りますね。ねてもさめてもということです。寤寐(ごび)といわれます。
 「弥陀の報土をねがうひと/外儀のすがたはことなりと/本願名号信受して/寤寐にわするることなかれ」(高僧和讃・真聖p498)
 といわれていますから、「昧とは定に在るを簡ぶ」そして「寤たる時を別けるなり」といわれるわけです。
 「余の散心は闇なることを有りといえども、しかも軽略ならず(心が暗くせばまっているのではない)」(『述記』第七本・五右)
 定心・散心ともに修に関わる問題ですから、六識は働いていると云っているのです。「令」の言を置くのは睡眠は有体であるからで「方に身等をして不自在ならしむる等の用あり」と。体が有って五蘊を束縛する用・働きが有るというわけです。
 「無心の位に有るのは此の名を仮立せるなり。余の如く蓋纏(がいてん)なるを以て心と相応すべきが故に。」(『論』第七・初左)
 経量部の説は睡眠は実体として有るのではなく無心の位に仮に立てたものであると主張しているのです。この仮立するというを恐れて「令」の言をおいているのですね。いろいろな考えが有るのですが何が正しいのかはっきりと確かめる必要がありますね。余の如く蓋纏(がいてん)なるを以って心と相応すべきが故に。」蓋は五蓋ですね。「心を覆蔽し善をして転ぜざらしむ」のが蓋の働きなのです。
 五蓋とは
・ 貪欲蓋は、境界を貪するに由って出家を楽うを障う。
・ 瞋恚蓋は、犯を諌めるを瞋するに由って正行を覚るを障う。
・ 惛沈睡眠蓋は、惛沈は止を障え沈没を引くが故に。    
・ 悼挙悪作蓋は、悼、悔は挙を障え散乱を引くが故に。
・ 疑蓋は、疑は不決定なり、捨の位を障うが故に
 これらの五蓋は「止・挙・捨」の三位を障えるのです。「出家を楽うを障う」・「正行を修することを障う」・「正定に入ることを障え」るのです。止・挙・捨を修するのに障碍となるのに纏の心所が有るのです。纏に八種数えられます。「惛沈・睡眠・悼挙・悪作・嫉・慳・無慚・無愧」です。「その心を纏繞(てんじょう)して善品を修するにおいて、よく障となるが故に。」修を為そうとする心に纏わりついて妨げる煩悩が纏といわれるのです。
 惛沈・睡眠は「止」を障碍し、 
 悼挙・悪作は「挙」(努力をなし、または働きをなす心の状態)を障碍し、
 嫉・慳は「捨」(転捨ー煩悩などを滅し捨て去ること・迷いの状態を転じ捨て去る)を障碍するのです。
 疑は二利平等なるを捨と名づけるに依って、二利(自利利他)を障碍するのです。
 無慚・無愧は尸羅(しら、シ~ラの音写で戒のことですね。)を障碍するといわれています。
 次に悔・眠のニ種について別体が有るのか、無いのかが述べられてあります。「総じて四説あり」(『述記』により)明日にします。
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第三能変 第六 不定の心所 (3) 眠(めん) (1)

2016-04-11 22:13:17 | 第三能変 不定の心所
   

 眠(めん)の心所に入ります。
 『二巻鈔』には「次睡眠(スイメン)ノ心所ト云ハ、心ヲクラカラシメ、身ヲ自在ニアラザラシムル心ナリ。人ハ睡(ネム)ルコノ心所ノ起(オコル)時ナリ。」と教えています。
 つまり、睡眠という心が起こると、心が暗く狭まり、身体がしびれ自由がきかなくなるということです。思い当たる節がありますね。講義の最中、眠ってはいけないと思い、先生の話を目をほじくるようにして聴こうとしていてもですね、身が眠っていますから、意識作用は働いていても、正常には働いていないということになります。これを禅定にあてはまますと、禅定を障える働きを持つのが睡眠ということになりますね。心をくらます心作用と云えると思います。
 詳しく言いますと、『論』には、
 「眠というは、謂く睡眠(すいめん)なり。自在にあらず。昧略(まいりゃく)にならしむを以って性と為し」(『論』第七・初左)
 昧は暗いという意味。ここでいう睡眠は心をくらます心作用のことで、心が眠っている状態を云います。眠っている状態のことを昧略と言い表しています。
 「これは身を不自在ならしむ。坐してまた睡るが故に。乃至、よく他が揺動すれども、また覚めざるを等なるが故に。これは心を極めて闇(昧)、軽(略)ならしむるを性となす。」(『述記』)
 自在と云う事がいわれています。自在は自由とは違って束縛の中の自由とでも言ったらよろしいのかなと思いますが、田舎に行きますと最近ではあまり見かけなくなりましたが囲炉裏の天井から自在が吊下がっていて自由自在に高さが調整できるのですね。変幻自在とも云いますように、どのようにでも変化ができることが自在といわれるのでしょう。「自在ならず」ということは、私は毎日の如く経験をするのですが、眠ってはいけないと思いつつ、うとうととしてしまいます。心が働かなくなるのですね。自分では仕事をしているつもりなのですが、実は堂々巡りの繰り返しなのです。眠気が襲ってきますと身の自由がきかなくなります。昧は暗いという事ですので、軽(略)だんだんと暗くなってくるのが睡眠と云うことになります。これもよくわかります。眠気が襲ってきますと目の前がだんだんと暗くなり意識が薄れて、いつの間にか眠っているのです。しかし鼾(いびき)をかいて熟睡をするという事ではなく、心が眠っていく状態ですので意識の底で眠ってはいけないという作用が有るのですね。ですから、うとうとしながら「はっと」するわけです。睡眠とはそのような性質をもっているのでしょう。
 「観を障うるを以って業と為す」(『論』第七・初左)
 先の「悔」は「止」を障うるとありましたが、この「眠」は「観」(毘鉢舎那)を障うると云われます。「即ち毘鉢舎那なり。これは別に観を障う。蓋のうちよく(掉)挙を障うが如くにあらず。挙は定と慧とに通じ心をして高ならしむ。(『述記』)
 睡眠は観察(かんざつ)を障碍するのです。観察は心を深く観るわけですから、眠っていては観察はできません。掉挙は「行捨と奢摩他とを障うる」といわれていました。仏道修行を妨げる働きが掉挙といわれ、奢摩他(止)を障碍するのです。「心をして境に於いて寂静ならざらしむを」といわれていますから、睡眠が観を障碍するという事とは違うというわけです。
 「奢摩他」について、
 「云何が作願する、心に常に作願したまへりき、一心に專念して畢竟じて安樂國土に往生して、實の如く奢摩他を修行せむと欲ふが故にのたまへり。」(『浄土論』真聖p138)
 「奢摩他」を譯して止と曰ふ。止は心を一處に止めて惡を作さざるなり。此の譯名は大意に乖かざれども義に於て未だ滿たず。何を以て之を言ふとならば、心を鼻端に止むるが如きをも亦名けて止と爲す。不淨觀の貪を止め、慈悲觀の瞋を止め、因縁觀の癡を止む、是の如き等をも亦名けて止と爲す。人の将に行かんとして行かざるをも、亦また名けて止と爲す。是に知ぬ止の語は浮漫にして正しく奢摩他の名を得ず。椿・柘・楡・柳の如きを皆木と名くと雖も、若し但木と云ふときは焉んぞ楡・柳を得んや。奢摩他を止と云ふは、て三の義有るべし。
 一には一心に專ら阿彌陀如來を念じて彼の土に生と願れば、此の如來の名号及び彼の國土の名号、能く一切の惡を止む。(妙声功徳)
 二には彼の安樂土は三界の道に過たり、若し人亦彼の國に生ずれば、自然に身口意の惡を止む。(清浄功徳)
 三には阿彌陀如來正覺住持の力をして、自然に聲聞・辟支佛を求むる心を止む。(主功徳)
 此の三種の止は、如來如實の功徳より生ず、この故に「欲如實修行奢摩他故」と言たまへり。(聖全1p315)
 前後しますが「悔」は「障止為業」と云われて、「奢摩他」を障碍するということでした。上の文章は『浄土論』の作願門の教えで、釈文は『浄土論註』によります。奢摩他は「止」と訳され心を一つのところに止めて悪を作さないことで、貪・瞋・痴を止むこといわれているのです。親鸞聖人はこの奢摩他・毘婆舎那は還相回向の利益として「証巻」に引用されています。その心は「化身土巻」に述べられていました。「宗師(善導)の意に依るに、「心に依って勝行を起こせり、門八万四千に余れり、漸・頓すなわちおのおの所宜に称いて、縁に随う者、すなわちみな解脱を蒙れり」(玄義分)と云えり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきがゆえに、「たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず」(定善義)と言えり。」「余」が大事ですね。「余はすなわち本願一乗海なり。」と示してくださっています。『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと。(真聖p285)
「毘婆舎那」は「観」と訳されます。正しい直観で明らかに観察することですね。「眠」はこの「観」を障碍すると云われているのです。作すこと、作さざることに悔いることが「止」を障え、「睡眠」が「観」を障えるといわれているのです。これは修行にとっての大敵ですね。真面目に修行をすればするほど「解脱」の問題は行を覆い被さってくるのではないでしょうか。親鸞聖人は徹底的に自身の心を観察されていたのでしょうね。『浄土論』・『浄土論註』のお心を御読みになり還相回向の徳として自身の解脱(救済)の道を教えてくださいました。その道は「念仏成仏是真宗」の一言で言い尽されますが、この功徳は「たとい睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。」と。もう迷いの世界には戻らないということなのです。ここを押さえて「正定聚住不退転」と云われているお心ではないでしょうか。
 修行に於いて睡眠は如何に大敵かは様々な論書に端的に教えられています。例えば『観念法門』に「若し比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、是の三昧を行學せんと欲はん者は、七日七夜、睡眠を除去して、諸の亂想を捨て、獨一に處止して、」といわれていますように、睡眠は一瞬にして迷いの世界に後戻りさせてしまうのです。先ほどの「たとい睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。」ということは「いかにいわんや、十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力という」と結ばれています。私の上に「止観」を成就するということは、どのようなことなのかを親鸞聖人にお尋ねしたことです。
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第三能変 第六 不定の心所 (2) 悔 (2)

2016-04-09 22:49:36 | 第三能変 不定の心所
 桜前線も通りすぎ、まもなくフジの季節がやってきますね。今年は百毫寺に出かけたいと思います。そして野田藤ですね。写真は昨年度の藤井寺の葛井寺のフジです。 

 不定の心所に入っています。不定とは、読んで字の如く、定まっていなということですが、何が定まっていないのかといいますと、三性ですね。善か悪か無記かが定まっていない心所のことなのです。それが、悔・眠・尋・伺の四つなのです。
 もう少し詳しくいいますと、『論』には「論に曰く、悔・眠・尋・伺とは、善・染等に於て皆不定なるが故に。触等の定めて心に遍ずるが如きに非ざるが故に、欲等の定めて地に遍ずるが如きに非ざるが故に、不定の名を立つ。」(『論』第七・初右)と説いています。
 先ず、「善・染等に於て皆不定なるが故に」です。染は悪と有覆無記をさしますが、三性は善・悪・無記であってですね、善はどこまでいっても善、煩悩の心所は染という具合に定まっているわけです。六位の心所の中で最初の遍行は八識すべてに相応するわけですから、見方によっては不定のように捉えられますが、どの識に於いても遍行の五は具体性をもっているわけです。善とともに働き、悪とともに働き、無記とともに働いているのが遍行なのですが、不定は善につけば善になり、染(悪と有覆無記)につけば染になり、無記につけば無記になるという性格を持ってますので、不定と名づけられているのです。
 最初に「二に各々二あり」と述べられていますが、これは後程解釈されますが、「ニに各々ニあり」は悔と眠が一組で尋と伺が一組になり、それに煩悩に穢されている場合と、穢されていない場合、即ち染汚か不染汚かが定まらないから不定といわれるわけです。四種の心所が不定であることを示して、悔・眠と尋・伺のニはニ種各別で『述記』には十義の類別あることをしめしています。

 「悔謂悪作悪所作業追悔為性」は既に述べましたので次に進みます。

 「止え障えるを以って業と為す」(『論』第七・初右)

 「述して曰く、是れ五蓋(ごがい)の中の止の相に非ず。止の相は定と慧とに通ずる故に。心を止下せしむる故に。今、止というは即ち奢摩他能く心を止住す。止下せしむるに非ず。」(『述記』第七本・四右)
 五蓋とは心を覆う五種の煩悩のことです。蓋は「止」「妨害」と云う意味で、貪欲蓋・瞋恚蓋・ 小沈睡眠蓋・掉挙悪作蓋・疑蓋の五種。ここで云われることは五種の煩悩の相ではないという事です。それは止相は心を止めるということですから、定と慧に通ずるので、煩悩の止相ではないということになります。
 「悔」は定まらないという性質を持っていますので奢摩他を障碍するということになります。

 「悔」は奢摩他(定)を障えるを業と為す、と云われるのです。

 「此れは即ち果に於いて因の名を仮立す。先の所作の業を悪むで、後に方に追悔するが故に。先を作さざるを悔るをも亦、悪作に摂む。追悔して言うが如し。我先に是の如き事業を作ざるは是れ我が悪作なりと。」(『論』第七・初右)

 悪作が因で、悔の体が果になります。「悔に悪作と名づけるは因に従って名と為す。まず所作を悪むとはその因を顕し、後、方に追悔し、その果を明かす。」(『述記』)
 追悔とは後悔のことです。「作したことを悪(にく)む」と解釈されます。

 「所作を悪む」ということですが、作してしまったことを振り返って反省するということなのですが、「にくむ」と云われますからただ単に反省するのではなく、善の心である慚愧が働いているのです。所作が因で、「悪む」が追悔で、果を顕わします。「追」は追体験といいますか、自分の作したことを、もう一度思い返し「悪む」という意識が生まれてくるのですね。「悔過」(けか)につながるのですね。過ちを悔いることです。そして悔い改めるということになるのですね。このことが追悔するということになります。ただ第六意識で懺悔が成り立つと云われているのです。
 「悔と眠とは第六識とのみ倶なり。」(『論』第七・四右)
 生活と共に意識されることが出来るのが懺悔心だと云っているわけです。これは私たちの日常の心で出来るんだと教えているのですね。ここでも、罪を悔いることが出来るのか、出来ないのかは私の責任ということになるのでう。
 また『述記』には『顕揚論』から「已作と未作とに於いて追恋するを体と為す。障える業にも亦、奢摩他を障うといえり」をあげています。作した行為と、未だ為さざる行為に於いて追恋することが本質であり主体なのです。これも悪作に摂めるのであるといわれているのです。要するに、すでに為した行為と(~をしてしまったという後悔)、為そうと思ったけれども為さなかった行為(~をすればよかったという後悔)をも悪作であるということになるのです。これが不定の一番目に云われる「悔」の心所になります。
不定という心所は私の一挙手一投足、作したこと、作さなかったことも悪作になるということは、そこに心の働きにより、次の行為につながることになるのでしょうね。「所作というは、要ずしも先に有事の已作を悔むのみを名づけて悪作となすにあらず。」その理由は先に作さざりしを悔やむも又悪作というのである、というのです。次に行為につながるということに於いて止を障えるといわれるでしょう。奢摩他を障碍するのが「悔」ですから、不善であり、有覆無記になりますね。このことは私の生活に大きな示唆を与えていると思うのです。私の作したこと、作そうとおもったことに於いて、間断なく業を生みだしているのですね。間断なくという事ですから、真実を覆ってしまうのです。心の深層に深く横たわる私へのこだわり、自我愛、執着が善なるものも染にしてしまうのでなないでしょうか。「悪作の善なるものは是れ愧なり」といわれますが、その愧をも覆ってしまうのが染心なのでしょう。染心が私の心を支配して、あたかも染心が私であるが如く装ってしまい、真実を見る眼差しを覆い隠してしまっているのです。『歎異抄』第十三条は非常にきわどい文章で、誤解も多くありますが、大乗仏教の真髄を発揮しているのですね。唯識を学んで自己を見る眼差しの厳しさを親鸞聖人から教えられます。

 「よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。」(真聖p633)

 宿業というところに自己の罪の深さを教えられます。已今當の過去・現在・未来にわたり末那識相応の我執によって真実を覆い隠されたことを以って已造・未造の業をつくるのですね。宿業は非常に明るいところに立つ心です。宿業の自覚により闇を破るのですね。「無明の闇を破る」のは「宿業にあらずということなし」という眼差しから生み出されてくるものだと思いますね。「本願力」というのは無覆無記のパワーだと思います。どこかにあるものではなく、私にあって、私のものではない力でしょう。掴むのも離すのも我執です。「掴むことも、離すこともできません。」ということが本願に頷くということではないでしょうか。慈恩大師の釈門を読ませていただき「不定」の心所・「悔」が私に教えていることの意味を感じました。

 「悔といふは謂く悪作(おさ)。所作の業を悪(にく)んで追悔(ついげ)するを以って性と為し。止を障るを以って業と為す」という『論』の要旨を身に受け、自分の所作を見つめていかなければなりません。
 
 
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第三能変 第六 不定の心所(1) 悔(け)について (1)

2016-04-08 22:46:57 | 第三能変 不定の心所
 今日は灌仏会
 

 六位の心所の中、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩と説かれてきました。最後が不定の心所になります。
 本科段より、『成唯識論』は巻第七に入ります。
 「已に二十の随煩悩の相を説けり。不定に四有り。其の相如何。」(『論』第七・初右)
 「頌に曰く。不定とは謂わく悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とのニに各々ニあり」(『論』第七・初右) 
 「ニ各ニ」(ニに各々ニあり)は不定の意義を顕わしています。
 「論に曰く。悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)とは善・染等に於いて皆不定なるが故に。」(『論』第七・初右)
 初めに頌を釈し、後に意義をただします。
 「善・染等皆不定」といいますのは、此の三界と性と識は皆、不定であるからと云われています。善・悪・無記の三性において、染は不善と有覆無記を表しますが、それが定まっていないということになります。不定の四は三性を通じて性格が定まっていないのです。「信等」は善の心所ですから、いつも善です。また「貪等」の煩悩は染の心所ですから、いつも染です。しかしここでいわれる不定の四はどちらにも動くのです。どのようにでも変わり得る性格をもっているのが、悔(け)と眠(めん)と尋(じん)と伺(し)の不定の心所であるといっているのです。善につけば善になり、染につけば染になるという性格です。それでは一つ一つ見ていくことにします。
 「不定」の心所にはいります。はじめは「悔」についてです。
 「悔というは、謂く悪作(おさ)なり。所作の業を悪(にくむ)で追悔(ついけ)するを以って性と為し。止を障うるをもって業となす。」(『論』第七・初右)
 「初めに悔眠を解す。・・・悔は謂く悪作というは、体(悔)をもって因(悪作)に即す。即ち諸論に説く悪作と云うは是なり。悪作は悔には非ず。悔の体性は追悔するもの是なり。・・・悪作の体は何を以って性と為す。悪とは嫌なり。即ち所作の業を嫌悪す。緒の所作の業を心に起こして嫌悪し(因)、已て之を追悔する(果)。方に是れ悔の性なり。若し所作是れ悪なるときは名づけて悪作と為せば、即ち悔の体は唯善なり。ただ悪事を悔するが故に。若し所作を嫌悪するならば、体、寧ぞ悔にあらざるや。これ悔の因といわんや、若し先に所作を悪むで、方に悔を生ぜば、悪作(因)は悔(果)にあらず。その悪作の体は何ぞや。この義まさに思うべし。」(『述記』)
 悪作(おさ)は「悪作は我作す所を悪しきことしたりとして後に悔やむ心」といわれ、自分がかって為した行為を嫌悪して追悔することなのです。作した事・作さなかったことに対して悪む作用をいい、嫌悪を因とし追悔は果となるのです。ここで倶舎と唯識の解釈の違いについて説明をしておきます。読み方は倶舎では「あくさ」と読み、唯識では「おさ」と読みます。その解釈は倶舎では「悪事をなした事を悔やむこと、即ち悪事の所作を後に追憶して後悔する、」と考えますが、唯識では「作した事を悪むこと、即ち自分の作した行為を憎む」と解釈します。悪むから後悔が生まれるのだと考えたのです。
 作したこと(悪事を作した事を嫌悪して後悔する)を嫌悪する。
 作さなかった事を後悔する(善・悪ともに作さなかった事を後悔する)
 善の悪作と不善の悪作があるのです。悪を作さなかった事を後悔することは不善の悪作になります。
 唯識でいわれる「作したことを悪む」ということは大事なところですね。後悔すると云われるでしょう。悪むは後悔というわけにはいかにと思うのですね。もっと深い意味が有っていわれているのでしょう。後悔は自分にとって「しまった」という思いが残りますね。「すみません」と云う中に自分の思うように行かなかったという後悔です。どこまでも自己中心に考えます。「悪む」というのは懺悔という心が働きます。根底に無我の理が働いていて善悪共に後悔をするということなのではないでしょうかね。
 親鸞聖人は『教行信証』の中で自身を懺悔されて、
 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」(『信巻』真聖p215)
 また『信巻』信楽釈に「雑毒の善・雑修の善」といわれるような自己の姿をみておいでになります。其の善行は「虚仮の行・諂偽の行」であるという確信を以って如来大悲の大海に身を任せておいでになる聖人のお姿を垣間みることができますね。『述記』に慚・愧についての記述があります。「悪作の善なるものは是れ愧なり。悪を拒むを以っての故に。不善なるものは是れ無慚なり。賢善を顧みざるが故に。無記なるものは是れ慧なり。」と。所作を嫌悪するということは、自分のなした悪の行為を後悔し憎むという意義があるのです。作すということは所作のことですが、所作が後悔を生みだしてくるのです。悪(お)が後悔の因になるのですね。因に依って(依因)悔を生じ、悔を生じてくるのが悪という構図になりますね。「其の実は悪とは即ち是れ悔なり」と悪即悔ということに、ただ反省・後悔ということではなく無限の大悲に自身を問う歩みをしていかなければならないという事を示唆しているのではないでしょうか。どちらにでも傾いていく後悔の心は、「この心を機縁として真実に触れていきなさい」という、後押しをされているのではないかと思いますね。
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