唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? 『二十論』第一頌・第二頌。梵文和訳(引用)

2016-07-31 12:02:31 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 今回は、『唯識二十論』第一頌と第二頌の梵文和訳を、中央公論社『大乗仏典』より引用させていただきます。
 
 二十詩篇の唯識論(唯識二十論)
 「一 世界は観念である
 大乗においては、三種の領域からなるこの世界はただ表象にすぎないものである、と教えられている。経典(『華厳経』)に、
  勝者の子息たち(仏陀の弟子の呼称)よ、実に、この三界は心のみのものである、
 と言われているからである。心・意・認識、表象というのはみな同義異語である。ここに心と言われているのは、(それに伴って起こる心作用と)連合している心のことである。「のみ」というのは外界の対象の存在を否定するためである。
  このすべてのものは表象のみのものである。実在しない対象が(そこに)あらわれるがゆえに。あたかも眼病者が、実在しない網のような毛を見るように。(一)
 これに対し、人は反論する。
  (反論)「もし表象が(外界の)対象によって起こるのでなければ、(それが)空間的、時間的に限定されることも、(認識する人の)心に限定されないことも、また効用をはたすこともありえないはずである。(二)
 何がここに意味されているのか。すなわち、もしある色形(ルーパ。視覚の対象であるいろとかたち)などの表象が、色形などの対象によって起こされるのでなく、それらの対象がなくて起こるのであるならば、なぜその表象はある特定の場所に起こって、すべての場所に起こらないのか。しかもその場所においても、ある特定のときにのみ起こり、なぜつねに起こらないのか。(さらに、実在しない)髪の毛など(の幻覚)は、眼病のある人には起こるが、そうでない人々には起こらない。しかし、(ある色形の認識は)そのようにただひとりに起こるのではなく、その場所にそのときいあわせるすべての人々の心に起こるのはなぜか。また、眼病者が(幻覚で)見る髪の毛や蜂などは、髪の毛などの効用をはたしはしないのに、ふつう認識されるものは、(効用を)はたす。それはなぜか。
 夢の中で、食物、飲物、衣服、毒、武器などをわれわれは見ることがあるが、それらは食物などの効用を実際にはたしはしない。けれども、夢の中ではなく、(目ざめているとき認識されるものは)その効用をはたさないわけではない。ガンダルヴァの都城(蜃気楼のこと)は、実在しないのであるから、都城の効用をはたすことはない。けれども、(実在する都城)はその効用をはたすのである。だから、これら(の表象)が対象なくして(起こり、その意味で)実在しないものと同じであるならば、空間的、時間的な限定も、(特定)の人に限定されないことも、効用がはたされることも説明できない」
 (答論) それらが説明できないことはない。なぜならば、空間的限定その他は、夢と同じうように証明される。(第三ab頌)
 「夢と同じように」というのは、夢におけるようにということである。どのようにしてなのか。夢の中では、(実在する)対象はないけれども、すべての場所にではなく、ある特定の場所にだけ、村、園、女、男などというものが見られる。しかもその場所においても、いつでも見られるというのではなく、あるときだけに見られる。だから、対象が(外界に)実在しなくても、空間的に、時間的限定はありうるのである。
  また、特定の人に限定されないことは餓鬼のように(第三bc頌)
 なりたつと続くのである。「餓鬼のように」というのは、餓鬼たちにとってのようにということである。どのようにしてなりたつかというと(こうである)。等しく、
 みな膿河などを見るとき(第三cd頌)
 「膿河」とは、膿に満ちた河のことで(酥油(ソユ)つまり液化バターに満ちた瓶のことを合成語として)酥瓶(ソビョウ)と言うようなものである。というのは、餓鬼たちは(前世で行った悪い)行為(業)の結果として、同じ(餓鬼という)状態に陥っているので、すべての者が、(膿がありもしない河を)膿に満ちた河だと見てしまうのであって、ひとりだけがみるのではない。(河が)膿に満ちているのと同じように、尿や汚物などで満ちていたり、棍棒(コンボウ)や剣をもった守衛たちによって監視されていたりするのを、(すべての餓鬼たちは見るのだ)ということも、(詩頌の中の)「など」という語で含意されている。このように、対象が(外界に)実在しなくても、表象というものはひとりの心にかぎって起こるのではないということが証明されるのである。
  効用をはたすのは、夢の中のあやまちのように(第四ab頌)
 証明される、と知らねばならない。夢の中で、実際に性交することはないのに精子の漏出という形のあやまちがありうるように。このように、まず、(先に質問された)空間的、時間的限定をはじめとする四種の問題は、それぞれの比喩をとおして証明されるのである。」

 ここまで見てきたと思います。
 外界実存論者の反論も、論主の答えも的を得ているように思えます。
 認識対象がなかったなら、認識は起こらないというのも尤もなことですが、論主は夢の中の出来事で反論します。
 膿河については、一水四見の譬でもわかりますように、その境涯に応じて見る見方が違うということなのですね。そして、その境涯を決定するのが、「(第八阿頼耶識は)無始の時より来た一類に相続して常に間断なく是れ界と趣と生とを施設する本なるが故に。性堅にして種を持して失せざらしむるが故に」という、過去の業果として今の生が在るいうことなのです。此れを異熟と表しています。
 そして、夢の中の過ちのように、とまた夢の中の出来事をもって、夢の中では、(実在する)対象はないけれども、その効用はあると説明し、唯識無境を証明しています。

 ゆっくり、唯識無境の証明を『二十論』を通してみていきたいと思いますが、次回はその二、地獄の譬をもって、地獄の獄卒などが外界に存在しないことを明らかにしようとします。   (つづく)

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (57)九難義 (37) 世事乖宗難 (5)

2016-07-30 20:40:33 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 世親の答え
 「皆成ぜざるに非ず。頌に曰く。
 処と時の定まれる夢の如し。身の不定なるは鬼の同じく膿河等を見るが如し。夢にて損ずるに用有るが如し。(第二頌)
 論じて曰く、
 (夢の如し)とは、意の説くは、夢にて見る所の如しなり。謂く、夢の中には実の境は無きと雖も、而も或は有る処には村・園・男・女等の物有りと見るも、一切処には非ず、即ち是の処に於いて或る時には彼の村・園等を見るも、一切時には非ざるが如し。これに由って、識を離れて実の境は無きと雖も、而も処と時との定まれるは成ずることを得ざるに非ず。
 (鬼の如し)の言を説くは、餓鬼の如しと顕すなり。河の中に膿が満つるが故に膿河と名づく。酥瓶(ソビョウ)は其の中に酥が満つるを説くがごとし。謂く、餓鬼の同じき業の異熟たる多くの身は共に集まりて皆膿河を見、此の中に於いて定めて唯だ一のみが見るに非ざるが如し。
 (等)の言は、或は糞等を見る、及び有情が刀杖を執持して遮捍(シャカン)・守護して食することを得せしめざるを見るを顕示す。此れに由って、識を離れて実の境無しと雖も、而も多くの相続の不定の義は成ず。
 又、夢の中の境は実に無しと雖も、而も精血を損失する等の用有るが如し。此れに由って、識を離れて実の境無しと雖も、而も虚妄の作用の義成ずること有り。
 是の如く、且らく別々の譬喩に依りて、処の定まれる等の四義の成ずるを得ることを顕す。」

 酥瓶(ソビョウ) - 膿河との合成語。膿河とは膿に満ちた河のことで、液化バターに満ちた瓶のことを合成語として酥瓶と言うようなものである。

 世親は夢や餓鬼の喩をもって答えていきます。
 すべて成立しないことはない。それを頌として語る。
 「場所と時間が決定していることは夢のようなものである。
 特定の人に限定されないことは、餓鬼たちが同じ膿河をみるようなものである。効用があることは夢の中で過ちをなすような、ものである。」(第二頌)
 頌を論じて言う。
 「夢と同じように」というのは、
 夢におけるようにということである。どのようにしてなのか。夢の中では実在する対象はないけれども、すべての場所にではなく、ある特定の場所にだけ、村、園、女、男などというものが見られる。
 しかし、その場所においても、いつでも見られるというのではなく、あるときだけに見られる。だから、識とは別に実有の対象が外界に実在しなくても、空間的、時間的限定はありうるのである。
 (また、特定の人に限定されないことは)餓鬼たちによってのようにということである。
 河の中に膿が満ちているから、膿河と名づける。その瓶の中に酥(牛乳から作ったヨーグルト)が満ちているから酥瓶と呼ぶようなものである。つまり、餓鬼たちは、前世で行った(悪の)行為の結果として、同じ餓鬼という異熟を引果し、同じ餓鬼となった者たちは共に集まると、膿がありもしない河を膿に満ちた河だと見てしまうのであつて、ひとりだけがみ見るのではない。
 「等」と言うことは、
 河が膿に満ちているのと同じように、尿や汚物などで満ちていたり、こん棒や刀(剣)を持った守衛たちによって監視されていたりして食べさせないようにするのを見ることを顕している。
 このことによって、識とは別に実有の対象が実在しなくても、ひとりの心に限って起こるのではないということが分かるのである。多くの心相続に限定されないということは成り立つのである。
 (効用をはたすのは、夢の中の過ちのように)、
 夢の中の対象は実にないけれども、夢の中で、実際に性交することはないのに精子を漏出という形の過ちがあるように、このうように、識とは別に実有の対象がなくても、虚妄な効用の成り立つことがある。
 外界実在論者の批難という、空間的、時間的限定をはじめとする四種の問題は、それぞれの比喩を通して証明されるのである。
  (つづく)

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (56)九難義 (36) 世事乖宗難 (4)

2016-07-27 22:27:17 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 外界実存論者の論難は、一見非常に的を得ていますね。私たちの考え方に近いわけです。
 私たちの考え方は、物があって私が認識するという構図です。ですから、「この世界のものや現象はすべて私の心が作り出したもの、つまり、外界に認識対象となる事物は存在しない」とする唯識の考え方は否定されて当然のことなのです。
 では、唯識論者は、何故「唯識無境」と主張したのか。その論証が、外界実存論者の論難から導き出されてきます。
 
 つづきです。
 外界実在論の根拠について四つの疑問をだします。
 (1) 場所が決定していること。
 常識的には、物を認識する場合、物が外界に存在し、物を認識しようとすれば、有る特定の場所に行かなかれば認識は起こらないわけです。例えば、富士山を見たいと思いますと、富士山が見える場所に行かなければ見ることは出来ませんね。
 唯識無境だとすれば、どこにいても富士山は見えることになります。場所が決定していないわけです。しかし、認識は場所が決定していることが条件になるというのです。
 (2) 時間が決定していること。
 僕は沈みゆく夕陽に感動したことがありますが、瀬田の唐橋から沈みゆく夕陽をみようとすれば、時間が決定しているのです。お昼には見ることは出来ませんね。そうしますと、特定の場所と特定の時間が必須要件になるわけです。唯識の立場ではこのことを否定していることになるのです。
 どうでしょうか。外界実存論者の批難には納得できましょう。
 三番目になると、ちょっとややこしくなりますが、
 (3)場所と時間を共有すると、共有した者は同じ認識が起こると云います。
 原典には「相続」と「同一の処と時とに多くの相続有るに」の「相続」ですが、ここでは「共有した者」を指します。
 つまり、皆既日食等ですが、同一の場所と同一の時間を共有している有情は同じ皆既日食をみることになります。これも外界に物が存在するから認識を起こすことが出来るわけで、外界に物が存在しなかったら認識は起こらないではないかと批難するわけです。
  (4)唯識は幻影の喩を出しますが、実在論者は、用(はたらき)が有るか無いで判断を下しています。
 幻影や夢中の飲食・幻の城には用きは有りませんが、現実の物や現実の飲食物や現実の城には用きがあります。すべてが心の中の影像としますと、すべてに用きがなくなってしまうと批難してくるわけです。

 以上の四つの批難は、外界が存在すると云う立場からのものですが、本当にそのうなのかというのが唯識の立場になり、無境の立場から外界実存論者なの批難に答え論破します。
 外界実存論者の論難に対して、論主(世親)は頌をもって答えています。次回に譲りますが、皆様方も考えてみてください。真宗にとっても大きな問題提起だと思います。
 仏教は内観道だというけれども、真宗は外界をどのように見ているのか、その論証はどうなのか。こういうところで、宗乗と余乗の学びが必要とされるわけでしょう。

 ポケモンgoが社会現象になっていますが、バーチャルゲームでしょう。そこに夢中になるにはそれなりの理由があるわけでしょう。ポケモンゲットだぜ、あたかも実在するが如しですね。そのことが引き金としてトラブルが発生していますね。こんなところにも、幻影がトラブルを引き起こすと云う用きがあることになるんですね。こういうゲームは唯識無境を逆手にとって生み出されたようなものだと思いますね。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (55)九難義 (35) 世事乖宗難 (3)

2016-07-26 23:41:35 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 現代語訳
 教証
 「契経(『十地経』)に「三界は唯だ心である。心の外に別の法無し」と説かれていることに由ってである。心と意と識と了別とは名前の区別であって、同義語である。この経典の中で、「心」と説かれていることは、心に付随する心所をも含くまれている。「唯」とは外境を遮断するけれども、相応法である心所を取り除くものではない。」
 出典
 『十地経』(大正10・553a)に「三界此唯是心」(三界は此れ唯だ是れ心なり)
 心と意と識と了別とは名前の区別であり、同義語であることを以て、「三界は唯心なり」を論証し、教証として挙げています。
 心は心所と相応するもの。
 唯は心外と区別するもの。

 理証
 「内なる識が生起する時、外境(外界の対象)に似て現れる。眩瞖(ゲンエイ)という、眼がかすむ病に侵されている者が眼の前に存在しない髪の毛や蠅などが見えるようなものである。この現れている中には少しも実在するものは無い。」

 外界実在論者の批難
 「三界唯心という意義に対し、外界実在論者は論難して言う。それを頌にして言う。
  「若し識に実在する対象がないならば、すなわち、場所と時間が決定することと、相続が決定されないこと、作用をなすことが成り立たない」
 論じて言う。これは(頌の意味)どんなことを説いているのか?
 (1)もし実在する色・形などの外界の物を離れて色・形などの識が生ずるときに、それが外界の色・形によらないのであれば、どうして、その識はある所だけに生じて、一切の所には生じないのであろうか?
 (2)どのようなわけで、この同じ所において、ある時にだけ起こり、一切の時には起こらないのか?
 (3)同一の所と時間において多くの有情たちの相続が起こるのに、どうして決定していずれか一人の相続に識が生じないのか?眩瞖の人は髪の毛や蠅などの幻影を見るけれども、その病のない人はこのような幻影を見る識が生じないようなものである。
 (4)また、どんな理由で、諸々の眩瞖者の見る髪の毛などには用きはなく、夢の中え得られる飲食物・刀剣・毒薬・衣服などにも飲等の用きは無く、蜃気楼の都城などにも都城の用きが無いのに、それ以外の髪等の物には用きはないのではないのか?
 若し実に同じく色等の外境が無くして、唯だ内なる識のみが有って外境に似て生ずるのであれば、特定の場所と特定の時間・不特定な心相続に同じような識が生ずることは、作用を有するものというこれらはすべて成り立たなくなる。
 (つづく)

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (54)九難義 (34) 世事乖宗難 (2)

2016-07-24 16:47:28 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 私という存在は、
  縁と共に生れ、縁と共に生き、縁に生かされている。
  終わりなき始めから受け継がれてきた遺伝子が、両親を縁として、人と云う姿を以て、この世に「私」として誕生した。
  私が生れてきた背景に、どれほどのご苦労があったことか知る由もない。
  にもかかわらず、私が、私が、と自己主張して生きている。
  「生かされている」? 誰に? 何の為に?
  ???が果てしなくつづく。何故?

 何故と云う問い、問いが因として、人として果を受けたということであろう。
 源信僧都は、
  「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり。・・・  
   人かならず身のいやしきは、菩提をねがうしるべなり。・・・
   妄念はもとより凡夫の地体なり。・・・」
 凡夫の地体が、菩提を願うしるべであると教えられている。

 人としての気づきが、菩提を願わずにはおれないということであろうか。
 人間、いや、私という存在を自明のこととするところに問題が潜んでいるように思われるのだが、
 いつでも自分を立てて他を裁いている、このことは自分も他から裁かれている。
 裁くのではなく、裁いている自分は何処に立っているのか見定める必要がありそうだ。
 そうすれば、許し合い、認め合う世界が開かれてくるのではなかろうか。

 ご縁に生かされている、
  こういう眼差しがあれば、日常の生活の中で、
  生きることの意味を見出し、
  「このこと一つ」に目覚めよという、いのち、の促しが「これでよかったんだ」という安堵感をもたらすのではないであろうか。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 世事乖宗難 (2)
 答。
 「夢境等の如し。此の疑を釈すべし。」
 四つの疑問点を出し、唯識無境を問いただしているのですね。外界には物は有るのではないのか、とね。
 それに対して、四つの疑義は「夢境等のごとし」と簡略に答えています。夢の中の出来事のようなものだ、と。
 疑義は「心の外に実の対象がある」として問いをだしているのですが、
 答えは「心の外に実の対象がなくても」認識は成り立つというわけです。
 
 この質疑は『唯識二十論』に提起されているところです。
 先ず出典です。煩わしいですが、ゆっくり読みたいと思います。何故なら、問いかけは非常に常識的なんですね。尤もなことでよく解りやすいのですね、それに対して論主がどのように答えて来られるのかを知りたいのです。

 
「安立大乘三界唯識。以契經説三界唯心。心意識了名之差別。此中説心意兼心所。唯遮外境不遣相應。内識生時似外境現。如有眩瞖見髮蠅等。此中都無少分實義。即於此義有設難言。頌曰 若識無實境 則處時決定 相續不決定 作用不應成。
 論曰。此説何義。若離識實有色等外法。色等識生不縁色等。何因此識有處得生非一切處。何故此處有時識起非一切時。同一處時有多相續。何不決定隨一識生。如眩翳人見髮蠅等。非無眩瞖有此識生。復有何因。諸眩瞖者所見髮等無髮等用。夢中所得飮食刀杖毒藥衣等無飮等用。尋香城等無城等用。餘髮等物其用非無。若實同無色等外境。唯有内識。似外境生。定處定時不定相續有作用物皆不應成。非皆不成。頌曰 處時定如夢 身不定如鬼 同見膿河等 如夢損有用論曰。如夢意説如夢所見。謂如夢中雖無實境。而或有處見有村園男女等物非一切處。即於是處或時見有彼村園等非一切時。由此雖無離識實境。而處時定非不得成。説如鬼言。顯如餓鬼。河中膿滿故名膿河。如説酥瓶其中*酥滿。謂如餓鬼同業異熟。多身共集皆見膿河。非於此中定唯一見。等言顯示或見糞等。及見有情執持刀杖遮捍守護不令得食。由此雖無離識實境。而多相續不定義成。又如夢中境雖無實而有損失精血等用。由此雖無離識實境。而有虚妄作用義成。如是且依別別譬喩。顯處定等四義得成。」(世親造・玄奘訳『唯識二十論』大正31・74c)

 「大乗三界唯識(ダイジョウサンカイユイシキ)を安立(アンリュウ)す。契經(『十地経』)に「三界は唯心なり」と説くを以てなり。心(シン)と意(イ)と識(シキ)と了(リョウ)とは名の差別(シャベツ)なり。此の中に、心と説くは、意は心所をも兼ぬ。唯とは外境を遮すも相応を遣(ヤ)らざるなり。」
  
  心 - チッタ (citta)考えるもの。種子が積集されるところ。
  意 - マナス (manas)思量するもの。
  識 - ヴイジュニャ―ナ(Vijñāna)vi(分析・分割)+√jJaa(知)の合成語で、各別に知ること。認識を表す。
  了(了) ― ヴイジュニャ―ナプテイー(Vijñānapti)対象を知らしめること。
 
 「内なる識が生ずる時、外境に似て現ずる。眩瞖(ゲンエイ)有るもの髮(ハツ)・蠅(ヨウ)を見るが如し。」
  
  眩瞖(ゲンエイ) - 眩翳ともいいます。眼に膜がかかってはっきり見えないこと。眩はくらむ・まどうという意味が有ります。そして翳はかざすと云う意味があります。原語ではタイミリカ(taimirika)眼がかすむ病気の人を指します。
 
 「此の中に都て少分の実義も無し。
 即ち此の義に於いて有るが難を設けて言く。頌に曰く、
  若し識に実の境無くば、則ち処と時との決定(ケツジョウ)と、相続の不決定と、作用(サユウ)とは応に成ずべからず。(第一頌)
 論じて曰く、此れは何れの義を説くや。
  (1)若し実有の色等の外法を離れて色等の識が聖ずるに、色等に縁(ヨ)らずんば、何に因って此の識は有る処には生ずることを得て一切処(イッサイショ)には非ざるや。
  (2)何が故に此の処に有る時には識が起こり、一切時(イッサイジ)には非ざるや。
  (3)同一の処と時とに多くの相続有るに、何ぞ決定して随一に識が聖ぜざるや。眩翳の人は髪・蠅等を見るも、眩翳無きものに此の識の生ずること有るに非ざるが如し。
  (4)復た何れの因有りて、諸の眩翳者の見る所の髪等の用は無く、夢の中に得る所の飲食(オンジキ)・刀杖(トウジョウ)・毒薬・衣等には飲等の用は無く、尋香城(ジンコウジョウ)等には城等の用は無きに、余の髪等の者には其の用は無きに非ざるや。若し実に同じく色等の外境無くして、唯だ内識のみ有りて外境に似て生ぜば、定処と定時と不定相続と作用を有する物とは皆応に成ずべからず。」
  
  尋香城(ジンコウジョウ)はガンダルヴァーナガラ(gandharva-nagara)健達縛城(ケンダツバジョウ)とも訳される。帝釈天の雅楽を司る神で、香のみを食するとされます。幻の代表的な喩として用いられる。蜃気楼の都城は、その中で雅楽が奏でられることなどにより、ガンダルヴァーの作った城と呼ばれています。
 
 「皆成ぜざるに非ず。頌に曰く。
 処と時の定まれる夢の如し。身の不定なるは鬼の同じく膿河等を見るが如し。夢にて損ずるに用有るが如し。(第二頌)
 論じて曰く、(夢の如し)とは、意の説くは、夢にて見る所の如しなり。謂く、夢の中には実の境は無きと雖も、而も或は有る処には村・園・男・女等の物有りと見るも、一切処には非ず、即ち是の処に於いて或る時には彼の村・園等を見るも、一切時には非ざるが如し。これに由って、識を離れて実の境は無きと雖も、而も処と時との定まれるは成ずることを得ざるに非ず。
 又、夢の中の境は実に無しと雖も、而も精血を損失する等の用有るが如し。これに由って、識を離れて実の境無しといえども、而も虚妄の作用の義成ずること有り。
 是の如く、且く別々の譬喩に依りて、処の定まれる等の四義の成ずるを得ることを顕す。」

 もう少し見ていかなければなりませんが、一応ここまで読んでおきます。次回には現代語訳で紐解いていこうと思います。
 









「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (53)九難義 (33) 世事乖宗難 (1)

2016-07-22 23:48:16 | 『成唯識論』に学ぶ


九難義は、一切不離識に対する疑問、質問が問いとして出され、それに答えているわけですが、第二番目は、一切不離識に対する外境からの非難です。「外境実有論」・「外境実在論」からの批判に答えているのです。
 また、「外境実有論」・「外境実在論」を真正面から批判をし、其の主題としているのが『唯識二十論』になります。
 外界は自分の心の影であって、自分が思うような外界は存在しないというのが、「唯識無境」と表現しているのですが、ここに誤解が生じてきます。「無境」といいますから、対象物は無いのか、そんな馬鹿なことはないであろう。山があり、川があり、目の前に黒板があるではないか、それをどうして無いと言い切れるのかという疑問ですね。
 この時期ほんまに酷暑で、すごく疲れます。疲れて仕事帰りのビールの美味しいこと、言葉には出せませんが、アルコールの駄目な人にとっては荒唐無稽のことですね。つまり、ビールという実体はないのです。また同じビール党にしても、同じ味でいただいているのかというと、そうではありませんね。個人的にもそうです。暑い日と寒い日とでは味が違います。そしたら、どれがビールの味なのでしょう。このように、感じられるものは自分の味わいなんですね。
 人人唯識と云われますが、お一人お一人の世界観なのです。自分が作り出した影像を、あたかも実像であるかのように思い込んでいるだけなのです。
 ここが世間と出世間の考え方の違いと云うのでしょうか、ものの捉え方が相違するのです。
 第二の難が「世言乖宗(セジカイシュウ)の難」と云われていることです。
 唯識無境を説いているのですが、外界を認識するのは、内識のみであって、外境に似て現じて心の外に実の境は無いと云うのですが、ここで問題が提起されてきます。 
 
 「若し唯内識のみにして外境に似って起こると云はば、
   (問)寧ぞ世間の情と非情との物を見るに、処と時と身と用との定・不定に転ずるや。
   (答)夢境等と如しと云って此の疑を釈すべし。」

 私たちの物の見方からすれば、「処と時と身と用」は実有ではないのかと疑問です。
 (1)処とは場所です。山河等ですが、山河等の外界は必ず一定の場所があって、他の場所では見られない。このことは即ち実有ではないのかという問いです。
 時とは時間ですが、花の種を蒔、やがて芽がでて、花が咲く、これは一定の時間に於いて成り立っているのではないのか。ということは時間は実有である。
 (2)この処と時について、若し能縁の識から変現する(我が心の影像)ものであれば、処を定めず、時を定めずに認識は成り立つのではないのかということですね。
 (3)身とはここでは有情を指しますが、同一の境を多くの人間が同一に認識するのは所縁の境体が実有であるからではないのか、という問いです。これから海水浴のシーズンですが、私の心を離れて海は存在する、きわめて常識ですね。これがどうして無境といえるのか、です。
 (4)用(ユウ)働きです。存在の働きですが、講義の時に白板があり、マーカーがあります。マーカーは字を書くためのものです。字を書くためのマーカーは存在するでしょう。無かったら書けないですね。マーカーも心の影だとすると、心で字が書けるという事になります。マーカーにはマーカー独自の用があるではないか、とね。
 こういう問いかけですね。
 皆さんも考えてみてください。どのように答えられるのでしょうか。やっぱり外界実在論を認められますか。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (52)九難義 (32) 唯識所因 (30) 理証

2016-07-21 20:44:46 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 「此の頌は且く染の依他に依って説けり。理実を以て云はば亦浄分の依他も有り。」
 依他とは依他起性、他に依って起きたもの、他は縁です。『摂論』に「依他縁起、故に依他起と名く。」現象的存在はすべて縁に依って生じてきますから、仮に有る存在です。仮有といわれています。つまり、実体的に存在するものではないということですね。
       染分の依他 (遍計所執性 - 迷い)
 依他 〈
       浄分の依他 (円成実性 - 悟り)

 親鸞聖人はこの辺は徹底されていますね。本願に出遇った慶びを、
 「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』真聖p545)
 と教えてくださいます。見事に依他の二面性を読み解いてくださっています。
 和讃の上では、還相回向が慚愧を通して往相回向として凡夫の上に成就していることを明らかにされているのですね。

 本来、執されたものは無なんですね。ですから否定されるわけです。遍計所執は妄想ですから無なのですが、現実には妄想は動いているわけです。それも縁起として。妄想を依り所としてですが、妄想そのものが我執なんですね、我執を縁、即ち条件として自他を分別し、他を色づけして悶々としている、それは有るわけです。有ることを通して無に触れる、その背景には不可知の真如が我執を包み込んでいる。しかし不可知の真如は如来の分限です。凡夫が言うと、そのまま真如をも執することになります。
 凡夫にとってというより、凡夫であることの頷きなんでしょうね。凡夫とは無分別の頷きですね。何故なら、凡夫が凡夫に頷くことは万に一つもないからです。若し頷くことが出来たら、その頷きは肯定的なものですね。我執容認です。
 依他において、迷うのか、悟のか。転迷開悟といわれますが、私の生活そのものが、迷か悟の二つしかないのでしょう。そして悟(覚)の内容として三願転入が語られる、信仰告白ですね。
 このように見ていきますと、仏法に触れることの大切さが身に染みてきますね。
          染分の依他
            ↓↑
 依他  〈    (聞法)
            ↑
          浄分の依他

雑感

2016-07-20 23:22:36 | 雑感
  

 過去の投稿より
 「浄土真宗の正依の経典は『無量寿経』ですね。正しく依るということは、私の生活全体を『無量寿経』に問い、おまかせするということなのでしょう。「本願を説くを経の宗致とす」る『無量寿経』の根幹は第十八願です。そこに唯だ除くとしての、唯除の文が記されています。「唯除五逆誹謗正法」ですね。五逆罪と正法を誹謗する人を唯だ除く、と。この唯除の文は、一体誰を指しているんでしょうか。五逆の本質的問題は誹謗正法というてあるんでしょう。正面から言うと、誹謗正法なんですが、そこに隠されている問題は、私は何を依り所として生きているのかという問いかけであると思います。私の依り所は、三毒の煩悩といわれる貪・瞋・癡であると教えられているのでしょう。この煩悩を依り所としてしか生きていけないんですよ、ということを教えているんでしょう。貪・瞋・癡の根底に働いているのは我見ですね。我見がすべてなんでしょう。我見が五逆を生み出してくる根本の問題であることを、唯除の文は教えていると思いますね。どうあがいても我見しかないということです。そこに見出されてきた自身の姿が「無慚愧の我」でしょう。無慚愧に於いて我見が見出されてくることを唯除の文が教えている、他者の問題ではなく、自身の問題である訳です。社会を覆っている諸問題は何が問題なのか。日常茶飯事に起こってくる事件は何を起因としているのか。それを「誹謗正法」として押さえている『無量寿経』を大乗至極の教えとし、正依の経典としている浄土真宗が、正・像・末を貫いている本願一仏乗とし開顕されていることに有り難さを感ずるわけです。助かりたい、救われたいと思っていることが我見であった。どこまでいっても助からん身であった、私はあなたのこと何一つわかっていません、すべては私が作り上げた影でありました、影を見てあなたを判断している私に気づかされました、気づかされましたが、あなた自身を見ることは出来ませんということを知らされました、無慚無愧の我が身であります。私から出てくる自覚は「唯除」そのものなのではないでしょうか。「唯除」の自覚にのみ、人間性回復の道が開かれているのでしょう。

 いのちの営みは、
  はるか彼方の、いつとも知れず、あらゆる‟えにし(縁)〟のつながりにおいて、私にまで届いた。
  届いたいのちは、またはるか彼方の、いつとも知れず、あらゆる‟えにし〟のつながりにおいて受け繋がれていくのであろう。

 別境に「念」の心所がある。念の熟語には、念仏、憶念、信念etc、「念」は何を意味するのでしょう。
 念の心所は無記の性格?
 『成唯識論』巻第三に、「恒とは謂く此の識は無始の時より来た一類に相続して常に間断なくして、是れ界と趣と生とを施設する本なるが故に。」と。阿頼耶識の性格を明らかにしていますが、この一類・相続・無間断が念の性格でもあるんですね。
 念、曾習(ゾウジュウ)の境、即ち「無始の時より来た一類に相続して常に間断なく」、はっきりと記憶して忘れない性格なんですね。明記不忘だと。これが私のところまで届いている、業果ですね。欲界・人間趣・胎生という在り方を決定してきたのですね。
 人間界にのみ与えられた方向性。求める存在だということでしょう。何かを求めている。漠然としていても、不安を取り除きたい、歩む方向性を見出したい。私はどうなれば一番幸せになれるのかですね。
 仏教は大きく二つの方向性だと教えたのです。涅槃と菩提です。涅槃と菩提に背く在り方を謗法と押さえたのですね。どんなに自分の理想を描いたとしても、絵に描いた餅のようなものである、それではお腹は膨れませんよ、と。
 飛躍しますけれども、人間として生をうけたのは、涅槃と菩提を求める証として念ぜられている、憶念されているということなんでしょう。無始以来、念ぜられてきた歴史が、私を通して具体化しているのですね。生まれてからの歴史ではないということでしょう。
 人間に生まれるには、人間に生まれるだけの業を積んできたという背景があるわけです。そこには、生まれたら、人間に成れという願いがかけられているんですね。「成れ」とは「気づけ」ということと一体ですね。
 気づかなければ、「染の依他」を所依とし、染とは我執ですが、我執を所依として生きていかざるを得ないのですが、その背景に「浄分の依他」が支えている。
 僕は全くの依存症ですから、我執を所依として苦しむより、すべてを丸投げして、好きなように調理してくださいとお任せすることが楽なように思うんですがね。思いがある中はあきませんね。思いとの戦いかもしれません。今日もまた悪戦苦闘しましょう、悶々として。
 

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (51)九難義 (31) 唯識所因 (29) 理証

2016-07-19 23:23:41 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 FB投稿より覚書
 「いのちは99%では輝かない、いつも、いつでも、どこでも、何があっても100%の現在。
いったい我執は何を求めているのか?ですね。我執というと悪の元凶のように思われがちですが、ほんまですか。
僕はね、大胆にいい放つと、我執はいのちに気づけというsignal、願いだと思うんですよ。
我愛がね、我をおとしめることはしないでしょう。
signal、いのちのsos。Maxのsignalなんだと思いますね。
今いのちが生きている。今現在、今をおいていつ我は存在するのか。
「今」私の全存在が結実した瞬間である。

 こういう存在のいのちを無我というのではないでしょうか。無我とは留まっていない。「恒転如暴流」なんでしょうね。
 テキーラ飲んで酔いつぶれても、
 野球観戦で一喜一憂していても、
 そのまんまが無我のいのちを頂いているのでしょう。そこに意味づけをする所に問題が発生するのではないでしょうかね。
 善とか悪とか、損とか徳とか失敗だとか成功だとか言いながら流転している事実があるわけですが、流転している事実が無我であり、無常のいのちの中を彷徨っていることに他ならないのでしょう。
 阿頼耶識は触・作意・受・想・思と相応しながら動いて、そこに意識の発動が一つの選択肢を決定してくるのですね。ですから、意識の発動が何を依り所としているのか、それは触だと、触が種子を選び取るのですね。種子は現行熏種子、現行は異熟を依り所とし、現行が新たな種子を熏習させるわけですから、この新熏種子が非常に重要になってきますね。今、阿頼耶識に何を放り込むのか。新熏種子が無始以来の有漏種子を無記性とするのか、染汚性とするのかという転依に関わる、生死一大事なのでしょう。
 仕事をしている。
 おしゃべりをしている。
 食事を頂いている。
 お酒を飲んでいる。
 その瞬間瞬間が新熏種子の誕生です。ここに仏法の課題が与えられている。離れたら観念に陥るというということなんでしょうね。
 依他起性、つまり縁起の他に生きている現在は無いのですね。そこにまた遍計所執性の自己存在が有るのも事実です。そして、実際に有るのは遍計所執の自己存在です。仏法は遍計所執の自己存在に出遇えと教えているのではないのかなと思うのです。
 「有と無と及び有との故に、是れ則ち中道に契えり」
 悶々として暮らしている、「虚妄分別は有り」の現実から逃避するのではなく、「有」のまんまが「無」であると教えているのでしょう。
 『弁中辺論』の頌についての了解は一応ここまでにして、最後の「此の頌は・・・」を読んでいきたいと思います。次回にします。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (50)九難義 (30) 唯識所因 (28) 理証

2016-07-16 22:14:10 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 迷いは他(縁)に依って起こるという意味で有である。因縁果の道理に依るのです。因は内因、縁は迷い。内因+迷い(縁)が惑を生じます。業果ですね。そして苦悩を招来するという図式んです。
 「虚妄分別は有なり」、無とは言えませんね。迷いは有ります、しかし迷いは何処から来るのかが見えないのです。
 身近な例でいいますと、仕事場での出来事です。僕の仕事である研磨は非常にハードで3Kの代表格です。僕がこの仕事を選んだのも、自分の生き様と大いに関係してきます。自分が選び取ったということです。もっといえば、これしか選択肢がなかったということでしょうね。まさしく業果です。
 そこで、最近特に思うことは、三十代・四十代の方が面接に見えられるんですね。どういうお考えで面接にこられるのかわかりませんが、仕事内容は簡単でそこそこの給与を持って帰れると思われるんでしょうね。危惧するのは壁を超えたことがないということなのです。皆さん方には信じがたいことかもしれませんが、殆どの方(100%)は職場を転々としておられます。辛抱したという経験が皆無なんです。
 「とにかく一度仕事して判断しなさい。」
 「はい、よろしくお願いします。」
 「でも、とにかく仕事覚えるまで辛抱して、手に仕事が身についたら先が見えるよ。」
 こんな会話をしながら仕事場にやってくるんですが、自分の思いを満たしたいという気持ちが強いのですね。
 楽をしたい。
 定刻に終わりたい。週末は休みたい。
 そして、叱られたくない。これ大きいですね。小言をいったら途端に明日から出てきませんからね。
 こういう考えから、どんどん自分で自分を追い込んで、行き場のないやるせなさ、どのように思っておられるのか、僕はこういう人たちとcommunication、意志の疎通をはかりたいと思うのですがなかなか実現しません。そういう場が実現するといいんですがね。
 自分の思いで自分をなんとしようとするところに、自分が見えないという闇が潜んでいるように思います。
「虚妄分別は有り」、見えたんですね。虚妄分別が。迷いの立場が見えたんです。これは人間の誕生ですよ。僕はこのように感じます。人間の誕生、五趣は迷いの境涯でしょう。迷いが解らんと云うのは、言葉が通じない世界のことですね。言葉が通じないところで共通点を見出して、或は利害関係で繋がりを保っているのではないですか。そんな中で、迷いの立場が見えた。虚妄分別、無分別智に出遇った証ですね。
 人間誕生は、迷いの自分がはっきりしたということなんではないでしょうか、少なくとも僕はそのように感じます。
 「有と無と及び有との故に、是れ則ち中道に契えり」と。
 虚妄分別は有、有は因縁生で無。しかし生滅変異しながら有の世界を生きているという現実が有る。この有が本当は一番大切な人間としての課題なのでしょうね。それをこの人生の中で問いとして答えていかなければならない。
 この問いと答えの関係が「中道に契えり」なんでしょう。中道とは、問いが見出されたという事なんだと思います。訓覇先生は「課題がみつかったらうろうろでけんやろ」と厳しく教えておられましたが、ほんまに聞く耳もたんといけませんね。 おやすみなさい。