唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門 (43) 三受について 第四門

2013-01-31 23:29:32 | 心の構造について

 「或は唯第四定にのみ第七・八有り。彼の辺際は功徳勝れたるを以ての故に、七・八二識は功徳の依なるが故に、大悲と天住との等は並に、多は第四定なるが故に。

  •  天住(てんじゅう) - 聖住・天住・梵住の一つで、如来が住する三つのこころのありようをいう。色界の四つの静慮と無色界の四つの定をいう。

 或は唯五識は初定のみに在り。有漏の三識有るを以ての故に。尋・伺は上に無きが故に、有漏既に爾りというをもって無漏も之に翻ず。
 (問) 三の識は爾る可し、何ぞ鼻・舌の二識有ることを得る、彼には因無きが故に。香を変為せざるが如し、香の因闕くが故に。
 (答) 然らず。小乗の香を変ぜずというは、色界には種無きが故なり。大乗は具に境を変ずるを以て、亦香・味有るが故に鼻・舌識も亦有り。

                         (つづく)


第三能変  受倶門 (42) 三受について 第四門

2013-01-29 23:12:11 | 心の構造について

 今日もリハビリにいってきたのですが、院長先生と話をさせていただく中で、正しい姿勢を保つことが、いかに大切かということを教えていただきました。身体と悩の関係なのですが、身体は身体の都合のいい方向に進むらしいのです。そうしたら悩が誤認識を起こし、御認識が誤作動を起こして、それが正常な姿勢であると思い込むようになる、というのです。その結果、姿勢の歪み、腰痛を引き起こすのですね。ですから御認識を改善しなければならないということでした。それが身体からのSOSなのだ、と。これは唯識でいわれる認識の迷・謬と同じ構造ですね。正しい姿勢は認識論では二空ですね。二空に於て迷・謬しているのですが、迷・謬していることが正しい認識であると誤作意をしているのです。その結果、「惑・業・苦」という迷いの構造を生み出しているのですね。迷いの構造、即ち苦悩はこころのSOSなのでしょう。SOSが正しい方向に導く道しるべになるのですね。「はじめに光ありき」・「南無不可思議光」、はじめに南無阿弥陀仏ありき。ですね。

          ―      ・      ―

 引き続き、『述記』の所論です。

 問。無色界には無漏の眼根有り耶。(無色界に無漏の五根は有るのか、無いのか)
 答。有り。涙下ること雨の如くなるが如し、即ち定の眼の依処有り。実に根有るに非ず。故に有ると云うことを知るなり。色界の上の三定には無漏の五識有りと云う。此れを以て例と為す。

 問。八の地には皆無漏の八識有り耶。(八の地に無漏の八識は有るのか、無いのか。)
 答。有り。 (問)若し爾らば何が故に第七・八の無漏は唯捨とのみ相応する耶。
 答。常に第四静慮に処せるが故に、一類にして変ずること無きが故に、易脱に非ざるが故に、喜楽受は易脱し一類任運に非ざるが故に、余の地(下三定と無色定)にも(種子)有りと雖も、而も現前せず。無色界をば見道に傍に修するが如し、種のみ有って彼の現行に非ず。

  •  地とは場所、大地を意味すると同時に場所、段階、地位などの意味もあり、三界九地の場合は、心のありようによって住する場所あるいは段階・境界をいう。欲界を一つの地とし、色界の四つと無色界の四つとを合わせて九地という。総じて一切地という。八の地とは静慮無色の八を指す。

                (つづく)


第三能変  受倶門 (41) 三受について 第四門

2013-01-28 23:35:58 | 心の構造について

 『述記』の所論

 「論。於偏注境至三受容倶 述曰。此中所説一切義意。餘二偏注。不偏注等。皆如前説。由斯理故三受容倶。即以五十一・顯揚第一・十七等證。此亦有二師。一五識一念。二相續。一一如前三性中叙 此約因位。」 (『述記』第五末・九十七左。大正43・427a)

 (「述して曰く。此の中の所説の一切の義の意は、余の二(喜・楽)の偏注・不偏注の等きは、皆前に説くが如し。斯の理に由るが故に三の受倶なる容し。則ち五十一・顕揚の第一と十七等を以て証す。此にも亦二師有り、一に五識は一念のみと云う。二に相続と云う。一々に前の三性の中に叙しつるが如し。此れは因位に約す。」)

 前とは、三性門における、難陀等からの批判を会通する『論』の記述を指します。「若五識中三性倶転。意随偏注与彼性同。無偏注者便無記性。故六転識三性容倶。」の文。三性を三受に置き換えて読まれています。

 果位(仏位)における受倶

 「論。得自在位至憂苦事故 述曰。此中果位。謂成佛時。或轉得無漏初地即得。唯樂・喜・捨。如五十七苦通無漏。以順無漏法無漏引生名爲無漏。非斷漏名無漏。故佛無苦。又佛六識三受並通。第六識以第三定有無漏樂故。五識唯有樂・捨無喜。雖有漏三識唯二地。然無漏五識。即依色界四地有。彼有所依五根故。文易可知故不須釋 問無色界有無漏眼根耶 答有。如涙下如雨。即有定眼依處。非實有根。故知有也。色界上三定有無漏五識。以此爲例 問八地皆有無漏八識耶 答有 若爾何故第七・八無漏唯捨相應耶 答常處第四靜慮故。一類無變故。非易脱故。喜・樂受易脱。非一類任運故。餘地雖有而不現前。如無色界見道傍修。有種非彼現行。或唯第四定有第七・八。以彼邊際功徳勝故。七・八二識功徳依故。大悲・天住等並多第四定故。或唯五識在初定。以有有漏三識故。尋・伺上無故。有漏既爾無漏翻之 三識可爾。何得有鼻・舌二識。彼無因故。如不變爲香。香因闕故。不然。小乘不變香。色界無種故。大乘具變境。亦有香・味故。鼻・舌識亦有  問初禪無鼻・舌。無漏即言有。以上無三識。無漏應言有 答一云。初禪無二識。有餘三識故。類餘二識有。上地五識本來無。無彼種類。如何有 又四靜慮皆有五識。但佛多起第四定者。以殊勝故 又解唯第四定有。如七・八識。此中三解任情取之 上來已解六識六門一差別・二體性・三行相・四三性・五相應・六三受説 無漏八識應束爲義幾師所説。」 
 成唯識論述記第五末 

 (「述して曰く。此の中には果位をいう。謂く仏に成る時なり。或は転じて無漏を得するときに初地にて即ち得るぞ。唯楽と喜と捨となり。五十七の如し、苦は無漏に通すと云うは、無漏法に順じて、無漏に引生せられるを以て名づけて無漏と為せり。漏を断ずるを無漏と名づけるには非ず、故に仏には苦無し。又仏の六識には三受並に通ず。第六識は第三定に無漏の楽有るを以ての故に。五識には唯楽と捨とのみ有って喜は無し。有漏の三識(眼・耳・鼻)は唯二地(欲界と初定)のみと雖も、然も無漏の五識は即ち色界の四地に依って有り、彼こ(色界)には所依の五根有るが故に。文易し、知る可し、故に釈を須いず。」) この後に問答が出され、自在位における受倶について明らかにされています。 (つづく)


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (19)  第一章第四節

2013-01-27 17:17:28 | 『阿毘達磨倶舎論』

 この下は、第四界繋門、初めに第三十頌を釈す。

 「欲界繋十八 色界繋十四 除香味二識 無色繋後三」

 欲界繋は十八なり。 色界繋は十四なり。 香・味と二識(鼻識と舌識)とを除く。 無色の繋は後の三(意界・法界・意識界)なり。」

 界繋(かいけ)とは、繋は繋属、被縛の義。三界の界繋につて論じられる。根・境・識の十八界はいずれの界に属するのかを論じる一段。

 欲界繋は十八界全部に通じ、色界繋は十四界、即ち香・味の二境と鼻・舌の二識を除く。香・味は段食の性で、欲界には存在するが、色界には存在しない。仏教では香を嗅ぐのも食の一つとし、従って、香・味がないから、鼻・舌の二識も無いという。そして、無色界には色法が無いから五根・五境は無く、従って五識も無い、有るのは、後の三、意界と法界と意識界だけが存在する、という。

 

 


第三能変  受倶門 (40) 三受について 第四門

2013-01-27 00:23:52 | 心の構造について

 順・違・中とも「自分が」中心になって述べられているのですね。自分の心にかなうか、かなわないかが主張の根拠になります。

 次に第四にさらにその理由を説明する。

 「偏注(へんしゅ)の境の於には一の受を起すが故に、偏注無きときには、便ち捨を起すが故に。斯に由って六識には、三の受倶にある容し」(『論』第五・二十六右)

 偏注 - (六識三性容倶の項で説明されていますので参照してください) 五識の認識の強力なことを偏注という。

 偏注の境に対しては一つの受を起すからである。偏注がないときには、捨を起すからである。以上に由って、六識には、三の受が倶にあることが分かる。但し、注意が必要なのは一識に三受が並存するということではない、ということです。

 果位の受倶(仏位における受倶について)

 「自在を得つる位には、唯楽と喜と捨とのみあり、諸仏は已に憂苦の事を断じたまへるが故に」(『論』第五・二十六右)

 「(正しく文を釈す)此れが中に果位をいう、謂く仏に成る時、或いは転じて無漏を得るときに、初地にして即ち得る。唯楽と喜と捨となり。・・・」(『述記』)

 得自在位とは、仏位のことで、この位には、ただ楽受と喜受と捨受のみがある。なぜならば、諸仏は、すでに憂受や苦受の事を断じているからである、と。

 『述記』等の説明は、後に概略します。

 「前(さき)に略して標する所の六位の心所において、今広く彼の差別の相を顕す応し」(『論』第五・二十六右)

 前に略して説明をしてきた六位の心所について、今まさに詳しく個別の相を明らかにする。前所略標は三段九義中・心所相応門の略標六位である。

 『述記』の記述はこの科段から、第六本上の所論になります。


第三能変  受倶門 (39) 三受について 第四門

2013-01-25 23:07:13 | 心の構造について

 「論。此等聖教至故不繁述 述曰。此下第二例餘門也。此中聖教差別多門者。即明三・五受多門。謂有報・無報・界地繋・何地斷等名曰多門。恐有繁廣故略應止。 

 論。有義六識至無相違過 述曰。於中有三。一擧。二證。三會 第六識三受倶・不倶門。初師所説同三性中初引文解。如彼可知。餘文可解。」(『述記』第五末・九十七右。大正43・427a) 

 (「述して曰く。此れより下は第二に余門を例すなり。此の中に「聖教差別多門」というは、即ち三と五との受を明かす多門り。謂く有報と無報と界地繋(三界・九地)を何れの地に断ずる等、名づけて多門と曰う。繁廣なること有るかと恐れて、故に略して応に止むべし。」

 「述して曰く。中に於て三有り。一と擧し、二に證し、三に会す。第六識は三受と倶なり不倶なりという門なり。初師の所説は三性の中に初に文を引いて解するに同なり。彼しこの如く知る可し。余の文は解す可し。」)

 初師の所説が先ず述べられます。初師は、難陀等の説を指します。「第二師の云く」は護法の正義説です。

 初師の説の中が三つに分けられ説かれます。(1)初師の説を挙げる。(2)その主張の根拠を述べ、(3)『瑜伽論』等の論書との矛盾点を会通し、自説が正論であることを主張します。

 次に、護法の正義説が述べられます。 

 「有義は六識には三の受倶にある容し。順と違と中との境を倶に受く容きが故に、意は定めて五が受と同にしもあらざるが故に」(『論』第五・二十六右)

 護法正義は、六識には三つの受が、すべて倶に並び立つことがある。なぜなら、順と違と中との境を同時に受けるはずだからである。第六意識の受は必ずしも前五識の受と同じものとなるのではないからである。定中の意識は、喜受や楽受であっても、卒爾の耳識は、但捨受のみであるということがある。聞法会で先生の話に夢中になり楽受を受けている時、正座の状態では膝や足がしびれて苦受を感じます、しかし耳識は先生の声を聞いており、それは捨受であるという。

 

 ここは、前に三性の倶・不倶におけるのと同様であるので改めて述べる事はない、と『述記』には記されています。

 「第二師云 論。有義六識至五受同故 述曰。此亦同前引六十三文證三性倶。定中通喜・樂受。率爾耳識但捨受故。」(『述記』第五末・九十七左。大正43・427a) 

 (「述して曰く。此れも亦前に六十三(定中に声を聞くの文)の文を引いて三性倶なりと証するに同なり。定の中には喜(初・ニ定)・楽(第三定)受に通ず。卒爾の耳識は但捨受のみなるが故に」)

 

 順境 - 自分の心にかなう対象のこと。

 

 違境 - 自分の心にかなわない、違する対象のこと。

 

 中境 - 順でも違でもない対象のことで、倶非の境という。


第三能変  受倶門 (38) 三受について 第四門

2013-01-24 22:43:41 | 心の構造について

 説明だけに終始していますが、問題は、何故こういうことを言わなければならないのか、私とどう関係しているのかが問われているのです。
 今日も、安全性を考えて?JR放出の踏切を渡って仕事場に行くようにしているのですが、開かずの踏切は、私におおきないらだちを与えました、何故なんでしょう。JRは時刻表にあわせて運転しているわけですから、何も私に障害を与えているわけではないのです。しかし私は私の都合で〝いらだち〟を隠しえないのです。判っていることなのに、反逆するのは何故なんでしょう。「迷い」はある、それが染汚性をもった心なのでしょう。心は有るのか、無いのかが問われているのではなく、迷いは有る、すべては私から出た問題であるけれども、私が他によって追い込まれているという自意識が心という言葉をもって表現されているのでしょう。

           ―      ・      ―

 三受と倶・不倶を弁える。

 「此等の聖教に差別(しゃべつ)の多くの門ありて、文の増広(ぞうこう)を恐れて、故(かれ)繁(はん)に述べず」(『論』第五・二十五左)

 (これらの聖教に、三受と五受を明らかにする多くの門があり、これらのすべてを述べると混乱をきたす。文の増広を恐れて詳しくは述べずに略す。)

 多門というのは『述記』に依りますと、三受・五受を説明する場合、その種類を分析し区別する多くの視点がある、そのことを「有報と無報と界地繋と何地にか断ずる等、名づけて多門と曰う」と述べられています。有は無に対して、形有る有質碍なもの、迷えるものの存在の世界を指します。界は三界(欲界・色界・無色界)地は九地を指し、これらに繋がれている存在は何地に於いて迷いの生存を断ずることができるのかを説いている門が多くあり、「繁広なること有らむかと恐って、故に略して応に上むべし」。ここは略して、詳しくは述べないということです。

       ー 三受が倶であることを述べる  ー

 難陀等の説と護法の説が述べられます。最初の難陀等の説は三つの部分から述べられ、初めにその説を挙げ、ニにその主張の根拠を証し、三に論書の記述との矛盾を会通する。

 問題は第六意識は三受と倶なのか・不倶なのかということです。

 (1) 「有義は六識に三の受倶あらず。皆外門に転じて、互いに相違えるが故に」。

 (2) 「五と倶なる意識は五が所縁に同なり、五いい三の受と倶ならば、意も亦爾るべし。便ち正理に違しぬ。故に必ず倶にあらず」。

 (3) 「瑜伽等に、蔵識は一時に転識相応の三の受と倶起すと説けるは、彼は多念に依っていう、一心と説けども一の生滅に非ざるが如し。相違の過無し」。(『論』第五・二十六右)

 『述記』には初説は三性を弁ずるなかで初めに文を引いて解釈するのと同じ論法であると述べています。

 (難陀等の説は六識には三つの受が倶(並存)することはないという。何故に、すべて対象を外界に転じて、その対象はそれぞれ互いに相違するからである。五識と並存し活動する第六意識の所縁は五識の所縁に同じである。もし五識が三受と並存し活動するというのであれば、第六意識も、また同じであり、三受と並存し活動するといわなければならない。そうであるならば、これは正理に相違していることになる。その為、六識には三の受と倶ではない。(例えば、眼識が楽受と倶であり、耳識が苦受と倶であり、鼻識が捨受と倶である場合、それらの識と所縁が同じというならば、意識は同時に苦・楽・捨の三受が倶であることになり、それは正理に違する、という)また、『瑜伽論』等に「蔵識(阿頼耶識)は、一時に転識相応の三の受と倶起する、と説かれるのは、それは多念によってであり、一心と説かれてはいても、一つの生滅ではないようなものである。従って、相違の過失はないのである。(ここは会通です。会通は自説と相違する説が実は相違しないと解消するのです。論にいわれることは、同時にということではなく、多念による、即ち、時間の経過の中での一時という意味で述べられているのであると解釈しています。同時ということであるなら、同一刹那に三の受が並存することになるけれども、多念である場合はその証拠とはならないというのです。)

                 つづく          


第三能変  受倶門 (37) 三受について 第四門

2013-01-23 22:11:35 | 心の構造について

 前回より、まとめて結ぶ。(護法正義)

 以上によってまさに知るべきである。第六意識の慼受の純苦処(地獄)にあるのは、苦根のみであるということを。

 「論。由此應知至亦苦根攝 述曰。五總結也。故知意慼受在純苦處亦名苦根。亦餘時意慼受憂故。若地獄中無樂等者。如何彼得有段食耶。以生喜・樂方成食故。六十六等。約餘趣處生喜・樂方名食。如大論第四等説。地獄中腑藏間風以爲段食。資養於身但令不壞相續名食。生其捨受非謂要生喜・樂。喜・樂者通雜受處語。下第七卷更有異釋。應引彼文。」(『述記』第五末・九十六左。大正43・426c)

 (「述して曰く。五に総じて結すなり。故に知る、意の慼受の純苦処に在るをば亦苦根と名づく。余時の意の慼受の憂に亦するが故に。若し地獄の中に楽等無しといわば、如何ぞ彼しこに段食(だんじき)有りと云うことを得る耶。喜・楽を生じて方に食を成ずるを以ての故に、六十六の等きは余趣の処に約して喜・楽を生ずるをもって方に食と名づけたり。大論第四等に説くが如き、地獄の中には腑藏(ふぞうーはらわた)の間の風を以て段食と為すと云えり。身を資養して但だ相続を壊せざらしむを以て食と名づけたり。其の捨受を生ず、要ず喜・楽を生ずと謂うに非ず。喜・楽というは雑受処に通じて語す。下の第七巻に更に異釈有り、応に彼の文を引くべし。」)

 第二の、護法正義をまとめて述べています。護法正義は五段に分けて述べられていました。純苦処においては、ただ苦受のみがある、純苦処は、分別する余地がないからである。また雑受処は尤重ではないから憂受と苦受との二つがあると主張しています。 


第三能変  受倶門 (36) 三受について 第四門

2013-01-22 23:38:38 | 心の構造について

001 未至地(未至定=色界初禅の近分定)には、楽受がないことを教証を以て説明する。

 「然も未至地には定んで楽根無し、彼こには唯十一の根のみ有りと説けるが故に。」(『論』第五・二十五左)

 (しかも、未至地には、決定して楽根は無い。何故なら、未至地には、ただ十一の根のみがあると、『瑜伽論』(巻第五十七)に説かれているからである。)

  •  十一根 = 信・勤・念・定・慧・無貪・無瞋・無癡・意・喜・捨。
 典拠は『瑜伽論』巻第五十七(大正30・615a)
 そこには楽根(楽受)は入っていない、未至地には楽受は無く、喜受があることがわかる。よって、仮に喜受を楽受と名づけているにすぎないと。
 
 「論。然未至地至十一根故 述曰。地法無故。五十七説彼唯有十一根。彼自言有喜無樂故。十一根者。謂信等五・二無漏・意・喜・捨。即苦名憂。義説爲二。即喜名樂二義説之也。」(『述記』第五末・九十六右。大正43・426c)
 
 (「述して曰く。地法として無きが故に。五十七に彼に唯十一根のみ有りと説きて、彼に自ら喜有って楽無しと言うが故に。十一の根と云うは、謂く信等の五と三無漏と意と喜と捨となり。即ち苦を憂と名づくるは義を以て説いて二と為る。即ち喜を楽と名づけば義を以てこれを説くなり。)
 
 「彼には唯十一の根のみ有りと説けるが故に」という根拠が示されています。この文言は『瑜伽論』五十七に由るわけです。そこには

 「問、未至地に幾ばくか得可きや。 答、十一なり。

 問、若し未至地に喜根ありといはば何が故に初静慮地の如く喜を建立せざるや。 答う、彼の地に於いては喜動すべきに由るが故なり。

 問、喜彼に於けるは何の教ありて証と為すや。 

 答、世尊の言うが如し、「是の如く苾蒭(ひつしゅ)よ、離生喜楽は其の身を滋潤(じにん)し、周遍(しゅうへん)して滋潤し、遍流(へんる)し遍悦(へんえつ)し、少分として充たず満たざるとあること無し、是の如きを名づけて離生喜楽と為す」と。」述べられています。概略しますと、欲望みなぎる世界を離れて、その上界である色界・無色界に生まれる時、その上界の定に身は潤わされ、心は悦び益される、その有様はわずかとして充填されず、満足されないことはないのである。そして、その感受は喜受となるのですが、身を滋潤し、といわれますように、その身ににも利益が及ぶことに成り、仮に楽の名を立てるというのです。色界初禅と第二禅の近分定に起こる感受は、身と心を潤すことから、これは喜受ではあるが、また楽受ともいう。

 総結

 「此れに由って応に知るべし、意地の慼受(しゃくじゅ)の純受苦処にあるをば、亦苦根のみに摂めらる」(『論』第五・二十五左)

 (以上によって知るべきである。第六意識の慼(うれい)受の純受苦処(地獄)にあるものは、苦根のみであるという。)

 これによって護法正義の論拠が示されています。 

 

 

第三能変  受倶門 (35) 三受について 第四門

2013-01-21 23:06:04 | 心の構造について

 第三の解釈

 「或いは彼の苦根は、身心を損するが故に苦根に摂められると雖も、而も亦は憂と名づく」(『論』第五・二十五左)

 「彼の地獄等の苦根は、通じて能く身・心を損ずるが故に、苦根に摂すと雖も、而も亦憂と名づく」と『述記』には述べられています。、地獄の第六意識の苦受は、身心を損悩するので、苦受といわれ、苦根に摂められるのですが、第六意識の慼受という意味からまた憂受とも名づけられるのである、しかし実に憂根ではない、と説かれています。

 例を示す(地獄は苦根のみであること)

 「近分(ごんぶん)の喜を、身心を益するが故に是れ喜根なりと雖も、而も亦は楽と名づくるが如し、顕揚論等に、具さに此の義を顕せり」(『論』第五・二十五左) 

 『顕揚論』第二(大正31・486b)に、「離生喜楽に滋潤せらる」と説かれていて、(離生喜楽は欲望や悪を離れたことから生ずる喜楽で、これにより初禅を得るという。
 この意味は、欲界を離れる時、その上界(色界)の定に人は潤わされ、その感受は喜受となるが、その益は心だけに及ばず、身をも潤すので、仮に楽の名を立てるのである。『顕揚論』第二に「経(雑阿含経第十七巻)に説くが如し、謂はゆる離生喜楽に滋潤せらる、乃至広く説く。是れを初・二静慮の近分と謂う等といえり。」 

 初めは初禅・第二禅の近分(ごんぶん)中の喜受は身・心を益することを、例をもって示します。即ち近分定に起こる感受は喜受であるけれども、身・心を益するので、喜根に摂すると雖も身を益することにおいて楽というのである。その証拠に『顕揚論』第二に詳しく説かれている。このことは、地獄の第六意識に憂根があると説かれているのも、この例にあるように、実際は苦根であると、いう。

「論。或彼苦根至而亦名憂 述曰。彼地獄等苦根。通能損身・心故。雖苦根攝而亦名憂」

 「論。如近分喜至具顯此義 述曰。初・二近分地中喜受益身・心故。雖喜根攝而亦名樂。此説在何處。顯揚第二論具説此義。謂彼論云。如經説所謂離生喜樂之所滋潤。乃至廣説。是謂初・二靜慮近分等。五十七・對法第七皆與彼同。故復言等。豈爲有樂言便近分有樂受 有亦何爽。」(『述記』第五末・九十五左。大正43・426c)

 (「述して曰く。初・二の近分地中の喜受は、身・心を益するが故に、喜根に摂すと雖も、而も亦、楽と名づく。此の説は何の処に在るとならば、顕揚の第二の論に具に此の義を説けり。謂く彼の論に云く、経に説くが如し。所謂る離生喜楽に滋潤する所なり、乃至広説す。是を初・二静慮の近分と謂う等といえり。五十七・対法の第七も皆彼と同じ、故に復、等と言う。豈楽の言有る為に便ち近分に楽受有りといわんや、有りというも亦何ぞ爽(とが)かなる。)

  •  離生喜楽 ー 色界の第四段階の静慮の初静慮のありよう。欲界の悪(我欲)を離れて生じた喜びと楽とを受けるありさま。
  •  滋潤(じじゅん) - うるおすこと。うるおし育てること。(「離生喜楽が其の身を滋潤す」)