「論。此等聖教至故不繁述 述曰。此下第二例餘門也。此中聖教差別多門者。即明三・五受多門。謂有報・無報・界地繋・何地斷等名曰多門。恐有繁廣故略應止。
論。有義六識至無相違過 述曰。於中有三。一擧。二證。三會 第六識三受倶・不倶門。初師所説同三性中初引文解。如彼可知。餘文可解。」(『述記』第五末・九十七右。大正43・427a)
(「述して曰く。此れより下は第二に余門を例すなり。此の中に「聖教差別多門」というは、即ち三と五との受を明かす多門り。謂く有報と無報と界地繋(三界・九地)を何れの地に断ずる等、名づけて多門と曰う。繁廣なること有るかと恐れて、故に略して応に止むべし。」
「述して曰く。中に於て三有り。一と擧し、二に證し、三に会す。第六識は三受と倶なり不倶なりという門なり。初師の所説は三性の中に初に文を引いて解するに同なり。彼しこの如く知る可し。余の文は解す可し。」)
初師の所説が先ず述べられます。初師は、難陀等の説を指します。「第二師の云く」は護法の正義説です。
初師の説の中が三つに分けられ説かれます。(1)初師の説を挙げる。(2)その主張の根拠を述べ、(3)『瑜伽論』等の論書との矛盾点を会通し、自説が正論であることを主張します。
次に、護法の正義説が述べられます。
「有義は六識には三の受倶にある容し。順と違と中との境を倶に受く容きが故に、意は定めて五が受と同にしもあらざるが故に」(『論』第五・二十六右)
護法正義は、六識には三つの受が、すべて倶に並び立つことがある。なぜなら、順と違と中との境を同時に受けるはずだからである。第六意識の受は必ずしも前五識の受と同じものとなるのではないからである。定中の意識は、喜受や楽受であっても、卒爾の耳識は、但捨受のみであるということがある。聞法会で先生の話に夢中になり楽受を受けている時、正座の状態では膝や足がしびれて苦受を感じます、しかし耳識は先生の声を聞いており、それは捨受であるという。
ここは、前に三性の倶・不倶におけるのと同様であるので改めて述べる事はない、と『述記』には記されています。
「第二師云 論。有義六識至五受同故 述曰。此亦同前引六十三文證三性倶。定中通喜・樂受。率爾耳識但捨受故。」(『述記』第五末・九十七左。大正43・427a)
(「述して曰く。此れも亦前に六十三(定中に声を聞くの文)の文を引いて三性倶なりと証するに同なり。定の中には喜(初・ニ定)・楽(第三定)受に通ず。卒爾の耳識は但捨受のみなるが故に」)
順境 - 自分の心にかなう対象のこと。
違境 - 自分の心にかなわない、違する対象のこと。
中境 - 順でも違でもない対象のことで、倶非の境という。