唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(2)

2012-10-31 23:49:13 | 唯識序説

 四分義は何を現わそうとしているのか、私たちの認識の構造は、心の奥深くに横たわっている自己中心的な思いによって成り立っているという問題を抉り出しています。
 第八識の行相と所縁、働きと、対象は何かという問題ですね、心は必ず何かを対象として認識をしているのです。「謂く、云く」と答えています。不可知というのは、阿頼耶識の認識と認識の対象とのありようをを表す概念で、阿頼耶識の行相(認識作用)は微細であり、阿頼耶識の所縁(認識対象)、阿頼耶識は何を対象としているのかというと、執受と処と了である。執受とは種子と有根身、これは微細に働く、処は有情の所依処で器世間のことだと云われています。了というのは、「了と云うは謂く了別」、これは行相であり、識は了別するということが行相になると云われているのです。
 『三十頌』では「謂く不可知の執受と処と了となり」と述べられていますが、注釈は「了」から解釈されています。

 先ず、「種子と有根身」ですが、種子は、「謂く諸の相と名と分別との習気なり」と、私たちの経験のすべてが種子として蓄積されているということ、これが習気といわれるものです。それと、有根身、「諸の色根と及び根の依処となり」と。
 所依処は識の相分であり、外境、外の世界であるということです。
 執というのは、「摂の義持の義」、受は、「領の義・覚の義」である、「摂して自体と為し、持って壊せざらしむ、安危共同にして而も之を領受す、能く覚受を生ずれば名づけて執受と為す。」と云われ、種子と有根身と阿頼耶識は、安らかな時にも、危険な時にも、一体となって働くいく、これが識の根底に於て「暴流の如く」動いていると教えています。 
 

 覚受 - 感覚。身体が苦・楽などを感じること。生きているということは、覚受が働いていることになります。  (つづく)
 


寄稿 唯識序説 四分義をめぐって、その(1)

2012-10-30 22:49:12 | 唯識序説

唯識は、2000年以上も前から仏教の世界では連綿として伝わってきた思想です。唯識とは、「ただ識のみあり」、ただ心だけがあるということです。「唯識」とは、私たちの苦悩の解明に心血を注いで発見した珠玉の名言です。
 ただ心のみがあるとはどういうことでしょうか。私たちは私と周りの外界(環境)、あるいは私と私とは無関係に存在すると考えている外界の二つがあると考えています。所謂、主客二元論です。具体的には私が意識してもしなくても山があり、川があると思っています。唯識はそれを誤りだと指摘するのです。では何があるのかといいますと、私の心が作り出したもの、私の心の映像(影像ーようぞう)といえるでしょうか。一つの絵画を鑑賞しても私の捉え方とあなたの捉え方は違います。山を見ても、川のせせらぎを聞いても人それぞれの捉え方があります。それは絵画があり、山があり、川があるから見ているのではありません。見ている私が作り出した映像なのです。そこにポイントをあて、心のあり方を追求してきたのが唯識といえます。中国、唐代、孫悟空でお馴染みの三蔵法師=玄奘三蔵によって天竺、今のインド、カシミール地方からもたらされたものです。玄奘は『唯識三十頌』を解釈した十大論師の説を、一つ一つ翻訳したのですが、それでは非常に煩雑になる為に、弟子の慈恩大師基ととも共に天竺より持ち帰った経、論を整理して『成唯識論』を編纂しました。これを糅訳といいます。また慈恩大師基を第一祖として法相宗が開かれました。日本には遣唐使の道昭(どうしょう)によって661年頃持ち帰られ、奈良の元興寺、法隆寺、薬師寺に伝えられました。それから717年には玄肪(げんぼう)が入唐して智周に学び734年、奈良、興福寺に法相唯識を伝えました。以来仏教徒は仏教の基礎学として、「倶舎論」(くしゃろん)とともに唯識を研鑽しました。学ぶといいましても学問として学ぶわけではありません。あくまでも学仏道として、佛になる道を学ぶのです。道元禅師も「仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうとは自己を忘るるなり」とお教えくださっています。親鸞聖人は「念仏成仏是真宗」と、仏教を学ぶということは佛になる道を学ぶのです。佛とは「本当の自己に目覚め、その目覚めの道をお教えくださった人」と私は理解をしています。それでは私たちは、なぜ本当の自己に目覚めることができないのでしょうか。何が障害になっているのでしょうか。それを唯識を学ぶことによって明らかにしていこうとしているわけです。
 
唯識という言葉が初めて出てくるのは、唯識の根本経典である『解深密経』です。この中の、分別瑜伽品に唯識の言葉が見出せます。
 「慈氏菩薩、復佛に白して言さく、『世尊、諸の毘鉢舎那(びばしゃな)三摩地所行の影像(ようぞう)は、彼、この心と當に異り有りと言ふべきや、當に異りなしと言ふべきや。』佛、慈氏菩薩に告げて日はく、『善男子、當に異り無しと言ふべし。何を以ての故に。彼の影像は唯是れ識なるに由るが故に、善男子、我、識の所縁は唯識の所現なりと説くが故なり」
 「識の所縁は唯識の所現なり」に見受けられます。所縁とは境の相分です。識は能縁の見分になります。
 私たちは普段何気なく見聞きしていることはあまり気にも留めていませんが、実はこのことは大変大きな意味をもっているのです。意識の上に上ってくる事柄について深くは考えませんが、実は意識が起こってくるには意識をコントロールする深い自我意識が働いているのです。意識は隋眠(ずいめん)、眠っている時は働いていません。しかし、眠っている時でも恒に働き、自身を執着している意識が有ると唯識は教えています。マナ識(末那識)といいます。このマナ識によってコントロールされた意識が深層の根本識(阿頼耶識ーアーラヤ識)に蓄えられていくのです。意識ーマナ識ー阿頼耶識という図式が成り立ちます。表に表れたのが意識になります。この表層の識に6つあります。すなわち眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。前六識といいます。これに深層の意識であるマナ識、阿頼耶識を加えて八識というのです。三層八識によって私たちの意識が構成されています。すべての見聞きした事はは自分のよしあしにかかわらず、阿頼耶識に蓄えられていくのです。そして折に触れ意識の上に現れてきます。現在は過去の蓄積されていたものが縁に触れて現れてきたものだと教えています。それで現行(げんぎょう)といわれています。阿頼耶識は蓄える所という意味で蔵識ともいわれています。世界の最高峰ヒマーラヤ、雪山ともいいますが、つねに雪を頂いている、蓄えているところから音写をして阿頼耶識といい、その意味から蔵識というのだと教えていただいています。すべての経験された意識は阿頼耶識に種子として蓄えられ、熟成(薫習ーくんじゅう)されます。意識は現行されたものです。この種子ー薫習ー現行は同時に起こってきます(三法転展同時因果)。現行されたものが種子となり薫習され、薫習されたものが縁にふれ現行されてくることから、三法は同時におこってくると教えています。私たちは本当に一期一会の時間を与えられていることがよくわかります。真宗では聞法を生活の柱にしなさい、「ものをいえ」(聞法からいただいた信心を表白しなさい)ともいい、自分の殻に閉じこまないで本当の自分に目覚めなさいと教えているのです。唯識でも聞薫習が大切であると教えています。
 末那識ーマナーの音写です。「思量するをもって性とも、相ともなす。」何を思量するのかといえば、我をおもいつづける、我の思いどうりにしたいと寝てもさめても思い続けるということを本質としているということです。この思量されたものが、阿頼耶識に蓄えられて、意識の上に上り現実の行動となって現れてくるのです。仏道を修するうえで一番大切なことはこの末那識の転換だといえるのではないでしょうか。仏陀の上で言いますと佛の四智の平等性智になろうかとおもいます。末那識転じて平等性智になるのです。自分のことしか思わなかった識(はたらき)がすべて差別なく平等にみる智恵に転換するのです。なんとも素晴らしいことではないでしょうか。
 「円融(えんゆう)至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。」(教行信証ー総序より)
 私は信心の智恵とは、我執の命が転じて公の命に生きる願いを賜るものだといただいております。「普共諸衆生 往生安楽国」という願いに生かされる、我執しかない私に図らずも、思いもしないような願いが起こってくることだと了解をしております。
 仏教の世界観ー蘊処界
釈尊滅後の仏教教団は仏陀釈尊の悟りの内容についての解釈の相違から部派に分裂していきました。初期仏教の代表は大衆部(革新派)と上座部(保守派)にわかれます。それから枝葉分裂を繰り返しますた。一つ一つの教団のことを『部派』と呼ぶことから、各部派の教えを内容とする仏教を『部派仏教』と呼ぶようになりました。その教えを阿毘達磨(アビダルマ)と呼びその代表が説一切有部です。これらの教説は実に煩瑣を極めていました。(現象世界は多様な構成要素の組み合わせの変化で有るとして、構成要素を五位七十五法に分類しました。)仏陀の願いであったすべての生きとし生けるものの救いからはほど遠いものでした。このような反省から大乗という大きな乗り物の仏教が興ってきました。その中核を担ったのが竜樹菩薩の中観派と無着菩薩・世親菩薩の唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)でした。中観派は真理の立場からすべては空である(一切皆空)。存在するすべてのものは仮に和合をしているにすぎない。一つとして実体として存在するものはないと説きました。有でもなく無でもないと説きましたから中観派と呼ばれました。そこから何故という疑問が出てきました。それはすべては空であるにもかかわらず、存在するものは実体として有ると執着するのは何故なのか。瞑想という瑜伽行を実銭して心の深層を明らかにしてきたのが唯識瑜伽行派なのです。
 
 小乗仏教以来、仏教の人間観・世界観は五蘊十二処十八界によって成り立っていると説きます。
 五蘊とは、諸存在を構成する物質的存在と五つの精神的作用を言います。
 色(しき)-物質的存在
 受(じゅ)-感受作用(事実を感受する心の働き)
 想(そう)-識別作用(事実を思い描く心の働き)
 行(ぎょう)-意志作用(心の意志的な働き)
 識(しき)-認識作用(識別・判断する心の働き)
これらは身体と心を構成する五つの要素といわれています。一つ一つが実体として有るわけではありません、仮に和合しているにすぎないのですから「空」であるといわれます。
十二処(六根・六境)
 六根(ろつこん)-心の働きを生み出す感覚器官
  眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根をさします。その対象が境です。 六境(ろくきょう)
  色境・声境・香境・味境・触境・法境
十八界ー六根・六境に六識をくわえたものです。存在の領域を十八に分類したもだといえます。
 六識(ろくしき)
  眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
根・境・識の和合によって生じた世界が十八界だといえます。五蘊の細分化が十二処であり、その細分化が十八界です。この五蘊・十二処・十八界が私の根拠という意味になります。それぞれが実体として存在するものではありません。仮に和合しているにすぎないと説いています。
 唯識の根拠は、『
解深密経』と
『華厳経』十地品「三界はこれ一心の作なり」に依るとされています。三界とは迷いの境涯をいいますが、この三界は外に存在するのではなくして私の心が作り出した世界だというのです。是は俗に「何事も心のもちよう」というような唯心論ではありません。なぜかといいますと、「心のもちよう」というのも 私が作り出したものだからです。三界は私の迷った識がつくりだした迷い、苦悩の世界だといえるでしょう。三界とは欲界、色界、無色界のことをいいます。欲界とは文字のごとく、欲望に満ち溢れた世界を言います。色界は世界は欲望だけで成り立っているのではなく、精神世界が大切で有るという認識で成り立っている世界のことを言います。無色界は欲界、色界というような認識を超えた究極の世界とでもいえましょうか。五趣(地獄、餓鬼、畜生、人、天)のうち、天上の世界といえるかと思います。この天上の世界をも迷いの世界だと見抜いてきたのが仏教なのです。
 
 『唯識三十頌』
  世親菩薩造
  大唐三蔵法師玄奘奉護法等菩薩。約此三十頌造成唯識。
  今略標所以。謂此三十頌中。
    
  初二十四行頌は唯識相を明かす。次の一行頌は唯識性を明かす
  後の五行頌は唯識の行位を明かす。ここに相・性・位の三分科を明らかにされています。
 二十四行頌の中に就いて。初めの一行半は略して唯識相を弁ず。次の二十二行半は広く唯識相を弁ず。(略説唯識と広説唯識を明かしています。)

 『唯識三十頌』は世親菩薩がお造りになられた偈頌です。この中に唯識のエッセンスが凝縮されています。ただ三十の短い頌ですので大変難解で古来よりたくさんの論師(ろんじ)が注釈書を書かれています。代表されるのが十大論師(十人の代表的な論師になります)といわれる方々です。
 十大論師は
 護法、徳慧、安慧、親勝、難陀、浄月、火弁、勝友、勝子、智月の十人です。
 玄奘三蔵はこれらの方々の論(注釈書)の中から護法菩薩の論を正義として『成唯識論』(じょうゆいしきろん)を弟子の基(後の慈恩大師)と共に纏め上げられました。『成唯識論』の表題には護法菩薩造 三蔵法師玄奘奉詔訳(三蔵法師玄奘詔を奉じて訳す)とあります。

    清沢満之先生は生きるということは「この
    現前の境遇に落在する」ものである、と教え
    てくださいました。ではどのようにしたら
    「落在者」に成れるのでしょか。共に唯識を
    学びながら考えてみたいと思います。
 『落在』 
世親菩薩に『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論)という書物があります。その中に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。)という一文があります。これは不虚作住持功徳成就といわれるところですが、世親菩薩はこの解釈に「すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を得証して、浄心の菩薩と上地のもろもろの菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得しむるがゆえなり。」と。私が本当に満足のできる人生を送るということは、何が起こっても、どんなことがあっても後悔をしない、それ自体が満足であるということを語っています。これは何を意味しているのでしょう。仏言に尋ねてみますと、人間的立場からは本当に満足のできる人生を送るということは不可能である、と教えているのではないでしょうか。人間的立場とは、一つのことを貫き通すことができない、どこかで挫折していかざるを得ないという現実が在るのではないでしょうか。挫折をしていけば元の木阿弥になってしまうのです。ここに聖の道が自力難行の道といわれる所以なのではないでしょうか。
 『末灯抄』に「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(真聖p601)と親鸞聖人はお教えくださいましたが、私から、自我の立場を超えることは不可能であるとするならば、どのようにしたら挫折をせずに、どのような境遇になっても現実から逃げずに現実を引き受けていくことができるのか、この問いにお答えくださったものであると了解をしております。仏の本願力に遇うということが唯一無二の、人生が空過することのない出来事になるのです。「落在」とは正にこの事ではないでしょうか。
 「煩悩を断じて涅槃を得る」断煩悩は仏教者すべての目標といってよいのでしょう。その断煩悩に難の質を見出されたのが親鸞聖人であり、親鸞によって「慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでにきくことを得たり。」(『教行信証』・総序より)と如来恩徳の深いことをお教えいただきました。ここに断煩悩の道が不断煩悩得涅槃の道として成就することになったのです。
 「難の質」とはいったい何なのでしょうか。厳しい修行をなさっておられる行者の方々にお叱りを受けることを重々承知しながら、私の領解を述べさせていただきます。私はごく普通の社会人で断煩悩という我執・法執を超えて涅槃を得る道を唯ひたすらに歩いたということは全ったくありません。しかし「本当に生きるということは自己を知ることである」という視点にたって聞法に励んでいる者であります。大胆に発言させていただきますと、大聖釈尊はすでにしてこの難の質を見極めておられたのではないかと思います。仏伝によりますと菩提樹下で悟りを開かれた釈尊は尼連禅河で沐浴をされ村人から乳粥をいただかれました。この様子を見ていたかっての修行仲間、五人の修行者はシッダールタは堕落したと釈尊の側を離れたと記述されています。修行者にはいつかは悟りを開くことができるのだという自負心があったのでしょう。三界のなかの最高の境地にまで達していたのですから、あと少しだ、もうすぐだ、という淡い希望があったのだとおもいます。しかし釈尊はその道を離れられました。ここに自己関心からはどこまでいっても超えられない「難」があることを自らに見出されたのではないでしょうか。励ましても励ましても超えられない、我執を超えれても法執が残る。ここに仏教徒の苦闘の歴史があるのだろうと思われるのです。「空」に胡座をかいてしまう。「もうこれでよいのだ」と。助かるべき自分もなければ助けるべき衆生もないと、「空」に沈む、あるいは「空」をつかむ、つかむことのできないものをつかんでしまうという妄想に駆られるのでしょう。
 我執・法執と簡単に言いますが、これは私の立場からは見えてこないものでしょう。仏法に教えられて初めて気付いていくものです。そこから自己を問うという姿勢が生じてくるものだと思います。ですから自己を問うといいましても、自分から起こした問いではないのです。仏法に触れることによって図らずも問われてきた問いなのではないでしょうか。仏法に触れるといいましたが、触れるということはどういうことなのでしょうか。どこかに仏法があって触れるのでしょうか。若しそうでありますならば触れる人、触れない人との差別が出てまいります。経典に『十方衆生』とか『諸有衆生』という呼びかけがありますが是は差別のない、すべての生きとし生きるものへの呼びかけであるはずです。では私たちはどこで仏法に触れているのでしょうか。そもそも仏法とはなんなんでしょうか。仏法は因縁所生の法といわれています。「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静・一切皆苦」(諸行は無常であり、諸法は無我である、涅槃は寂静であり、すべては皆苦しみである)と、初期の経典に四法印として今日に伝えられています。是は私たちの存在は縁的存在であることを教えています。因(私)と縁(条件)が揃って今が在るということです。それに逆らって生きているところに齎されるのが一切皆苦なのです。一切皆苦そのものが仏法に触れているのです。「よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(「歎異抄」より)と親鸞は信仰告白をされていますが、まさによき人の仰せを待って人生が転換し、一切皆苦が一切所求満足に転換していくのです。私たちは苦しんだり悩んだり、怒ったり愚痴ったりと休む暇がありませんが、それは何も無意味なことではなかったのです。苦しんだり悩んだりの脚下に仏法に触れていたのです。是は大変大事なことなのです。このことの意味をこれから学んでいきたいと思います。
 『成唯識論』の初頭に頌がおかれています。『唯識三十頌』本文の前に帰敬序と発起序がおかれ、これは安慧の作といわれています。

 「稽首唯識性満分清浄者 我今釈彼説利楽諸有情」
  (唯識の性において満に分に清浄なる者を稽首す 我今彼の説を釈し諸々の有情を利楽せん)
 「稽首~者」は序分・帰敬序といわれるところです。
 「我今~諸有情」は発起序です。
まず最初に帰敬序がおかれます。これは唯識三十頌を釈するにあたり首(こうべ)を垂れて、五体投地をする。何に首を垂れるのかというと、唯識の性に満と分に清浄なる者に帰依をするという気持ちを表しています。
「稽」は一定の所にとどめおく、という意味があります。頭を地につけておくということでしょう。私たちが何かをする時にこの「稽」という感情は非常に大切なことではないかと思います。この感情は私的感情ではありません。老若男女の区別なく、手を合わせていくことはとっても大切なことなのです。私事になりますが十年前、父の体調の変化にともなって、名古屋から大阪へ転居をしました。子供は理不尽にも否応なく転校させられました。しかし、子供にとっては環境の変化がかなり厳しいらしく、日に日に明るさが影を潜めてきたのを覚えています。「友達がいないからつまらないし、休憩時間も一人ぽっち、名古屋に帰りたい」といって泣きじゃくっていましたね。私は、もっと環境に順応するものだと思っていましたのでかなりショックを受けました。こんな時どうしても子供を私有化してしまうのです。私は自分の意見を正当化して押し通そうとするのです。「おとうさんのいっていることがわからないのか」と、これはもう横暴です。「稽」という感情はどこにもありません。私からは「稽」はでてこないのです。「背負うた子に教えられ」ガツンと一喝されましたね。「稽首」するということは、私的感情を超え、身を投げ出して如来の前にひざまずくということなのです。
 如来といいましたが何に「稽首」するのかといいますと、「満分清浄者」に、といわれていまキ。「満」とは如来の事を指します。「分」とは菩薩のことをさします。先ず『唯識三十頌』を釈するにあたり帰依の感情を表しているのです。
 帰依ということは、身も心も喜ぶものなのでしょう。そこから「我今彼の説を釈す」るのは「諸々の有情を利楽せん」が為であるという、発起序が述べられます。
 ここに「経」・「論」を釈するのは個人的な事情によるものではなく、「諸々の有情」を利楽せんが為である。「諸有情」は人・法二空において迷・謬するものである。迷は迷い(無明)、謬はアヤマル謗法、疑いです。この者に正しい理解を生ぜしめるためであるといわれています。
『成唯識論』によりますと
 安慧等は
  「解を生ぜしむることは二の重障を断ぜしめんが為の故なり。我と法との執に由って二の障、具に生ず。若し二空を證しぬるときは彼の障も随って断ず。障を断ぜしむることは二の勝果を得しめんが為の故なり。生を続する煩悩障を断ずるに由るが故に真解脱を證す。解を礙ふる所知障を断ずるに由るが故に大菩提を得す。」
と釈しています。有情とは我執・法執に覆われて事実がみえない者の事です。執着が障礙の根にあるのです。作用は縛る。私が、私がといって自分をがんじ搦めに縛りつけるのです。そして縛り付けているのが私であることを知らないでいるのです。
 火弁等は
  「謬って我・法と執して唯識に迷へる者に開示して二空に達せしめ、唯識の理に於いて実の如く知を令めんが為の故なり。」と釈し、
 正義としての護法等は
  「唯識の理に迷謬せる者有り。或いは外境は識の如く無に非ずと執し、或いは内識は境の如く有に非ずと執し、或いは諸々の識は用は別に・体は同なりと執し、或いは心に離れて別の心所は無と執す。此れ等の種々の異執を遮せんが為なり。唯識の深妙の理の中に於いて実の如く解を得せ令めんとしての故に此の論を作れり。」と、この論を作るのはさまざまな異なる執着を取り除くためである。「唯識三十頌」を釈するにあたり宗前敬叙分(帰敬序・発起序)が先ずおかれます。
 「唯識性」について
『述記』には「唯識性というは、略して二種あり。
       一つには虚妄、即ち偏計所執なり。
       二つには真実、即ち円成実なり。・・・・・
      又二種あり。
       一つには世俗、即ち依他起なり。
       二つには勝義、即ち円成実なり。・・・・・
 又言わく、唯識に於いて相と性と不同なり。相とは即ち依他
なり。唯是れ有為なり。有・無漏に通ず。唯識即相なるを以っ
て唯識相と名づく。・・・・・性とは即ち是れ識が円成の自体なり。唯是れ真如なり。無為無漏なり。唯識が性なるを以って唯識性と名づく。・・・・・」と記述されています。
 ここには真実・勝義というものは虚妄・世俗と離れてはありえないことをあらわしています。私たちは何故迷っているのか、ただたんに無意味に迷っているのでしょうか。そうではないはずです。迷っていること自体、真実に触れているのです。真実に触れているからこそ迷ったり、悩んだりするのです。如来の催促とはこのようなことを指すのではないでしょうか。空観では色即是空、空即是色と言うのでしょう。
      迷っていることが大事なのです。
      迷っていることから逃げてはなりません。
         何故なら
      真実に触れているからです。・
迷っている世界を世俗というのです。真実を覆いかぶせている世界のことです。
 「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(『正信偈』より真聖p204)
と親鸞は表白しています。
 貪愛・瞋憎の雲霧が常に真実信心の天を覆っていても雲霧の下は、明らかにして闇きことなきがごとし、である。世俗をはなれて勝義はありません。私たちは世俗の真只中に生きているのです。それ以外に生きる世界はありません。勝義に触れることによって世俗を背負っていくことができるのです。
 虚妄ー偏計所執性(へんげしょしゅうしょう)
 世俗ー依他起性(えたきしょう)       }三性
 真実ー円成実性(えんじょうじつしょう)
 円成実を障碍するものが偏計所執であるわけです。そして世俗は依他起に由って成り立っていますが、その自覚がありませんので円成実を障碍するわけです。 二つの重障ー煩悩障・所知障(我執・法執)です。この二つが転じると二空になるわけです。人・法空(人無我・法無我) と。「我と法との執に由って二の障、具に生ず。」といわれています。障の根本に執があるわけです。
 ちょっと後回しになりましたが境・行・果、相・性・位、初・中・後についてふれてみたいと思います。これは『唯識三十頌』の組織になります。
 境・行・果 について
境は対象、行は方法、果は結果です。何を対象にするのか、その方法は如何にするのか、そしてどのような結果が生まれるのか、ということです。
安田理深先生「唯識三十頌聴記」によりますと三つの構造には必然性があるとして「瑜伽教学の論は、すべてこういう組織をもっているが、なかでも最も均整のとれた形をもって組織されたのが『摂大乗論』である。」といわれています。
 『三十頌』について
   境ー第一頌から第二十五頌まで
   行ー第二十六頌から第二十九頌まで
   果ー第三十頌
 です。
これをみてわかりますように『唯識三十頌』は教理に重点がおかれています。実践問題は『成唯識論』をみないとわかりませんが、第二十五頌の終わりのほうで「如是所成唯識相性。誰於幾位如何悟入。」(是のごとく成ぜられたる唯識の相と性とを、誰か幾ばくの位に於いて、如何が悟入するや。)と述べられています。これが実践問題になります。
   相             行 
     }境       位{
   性             果
『述記』によりますと「前の二十四頌は宗として識の相を明かす。即ちこれ依他なり。第二十五頌は唯識の性を明かす。即ち円成実なり。後の五頌は唯識の位を明かす。」
   相ー前二十四頌
   性ー第二十五頌
   位ー後五頌
『成唯識論』最後、釈結施願分に「此論三分成立唯識。是故説為成唯識論」(この論は三分として唯識を成立す。是の故に説いて成唯識論と為す」と述べられています。三分ということが初・中・後ということです。
『述記』によりますと「此の三十頌を初・中・後に分かつ。初めの一頌半は略して心に離れて別の我・法無しと標して、以って論旨を彰して唯識の相を弁ず。次に有る二十三行頌半は、広く唯識の若しは相若しは性を明かして諸々の妨難を釈す。後の五頌は唯識の行位を明かす。」と
   初ー初一頌半
   中ー次二十三頌半
   後ー最後の五頌
にあたります。まとめますと
           初(一頌半)
   相ー二十四頌{     
           中(二十二頌半)
   性ー一頌
          }後          
   位ー五頌
になります。   
                 
略説唯識について
初めの一頌半 
 由仮説我法 有種々相転 彼依識所変(仮に由って我・法と説く。種々相転ずること有り。彼は識が所変に依る。)
 ここからいよいよ本文に入ります。正宗分といいます。この一頌半は略説唯識といい、唯識を一言であらわしています。いきなりこのような始まりになっているのかといいますと、ここに『唯識二十論』を受けて、その答えを出されているのです。「初めに難に答えて執を破す」といわれています。
 「若し唯、識のみ有りと云はば、云何ぞ世間と及び聖教とに、我・法有りと説く。」というのが第一の難になります。
 「世間」・「聖教」ということ、『述記』に「毀壊すべきがゆえに、真理を隠せるがゆえに、之を名づけて世とす。世の中に堕せるがゆえに名づけて世間とす。・・・・・聖教と言うは、聖とは正なり。・・又、理に契い、神(真理)に通ぜる。之をなづけて聖とす。」と。
 疑問というのは、もし唯識無境というのであれば、世間と聖教とに我・法有りと説くのか、ということです。その答えとして「仮に由って」「我・法」と説くのである。「仮」とはみせかけ・本当ではない・実体がない・一時の間に合わせという意味があります。これは何を意味するのかといいますと、実体がないことを通して真実に触れさせるということかと思います。私たちの人生は善導大師が「隋縁存在」と教えてくださいましたように縁によってどのようにでも変わるものなのです。一つとしてこれだという実体はありません。「無自性なるが故に空」なのです。しかし私たちは私は有るのだと執して生活をしています。ここからはどのようにしても離れることはできないのです。ここがとっても大事な所なのでしょう。ですからこれを否定せず「由仮我法」と説くのであると教えてくださったのであると領解させていただいています。
私を離れて有るというのが分別です。これを二取といいます。識を能取、境を所取といい、この二取は分別にすぎないのです。私たちが現実だ、現実だといっていますが本当の現実に触れていないのです。私たちは現実を分別して分別の中に夢を見ているわけです。分別を立場にして解釈をしていますから不安におびえなければなりません。分別を破って現実に触れることに於いて本当の安らぎ、満足が生まれてくるわけです。
 また識を能変、境を所変といい『解深密経』に「識の所縁は唯識の所現と説く」と表せられ、あらわす識そのものは能変といい、あらわす識自身の構造はどのようになているのか、これを能変を問うといいます。能変を問うというところに、三類・八識の構造が明らかにされます。
     三類ー了別境(対象をいろいろ区別する)
        思量 (我を思う心)
        異熟 (最も根底にあるもの)
     八識ー眼・鼻・耳・舌・身・意・末那・阿頼耶識
『唯識三十頌』に於いては、それがなければ成立しないというものから出しています。何がといいますと、それは異熟であると。
  探求の順序によって・了別→異熟
  存在の順序によって・異熟→了別
この探求の順序については初期仏教では六識だけを追及しました。非常に綿密に理論を展開しています。この初期仏教の伝統を受け継いで六識だけでは人間全体を明らかにすることはできるものではない、ということから七識・八識を見出してきた。そこに大乗への展開があるといえます。
 唯識に於いては『唯識三十頌』によって三類・八識の構造が完成をしています。『摂大乗論』では七識(末那識)は阿頼耶識の中に収められていて、はっきりと表には出ていません。
 『摂大乗論』では「阿頼耶識は「所知依」(知らるべきものの依り所)であり、大乗では阿頼耶識が知らるべきものの依り所として説かれ、他に依ると妄想されたと完全に成就されたたに三種の実存(偏計所執性・依他起性・円成実性)が、知らるべきものの相として説かれ、ただ表象のみなること(唯識性)が、知らるべきものの相への悟入であることとして説かれ」ています。そして何故に阿頼耶識と呼ばれるのか、について「復た、何の縁の故に、此の識を説いて阿頼耶識と名づくるや。-一切有生の雑染品の法は、此に於いて摂蔵されて果性と為るが故に、~此れは亦た、心とも名づく。世尊が心意識の三を説きたまえるが如し。此の中、意に二種有り。第一は与(ため)に等無間の所依止の性と作る。無間に滅せる識が、能く意識のために生ずる依止と作るなり。第二は、染汚の意にして、四煩悩と恒に共に相応す。一は薩迦耶見、二は我慢、三は我愛、四は無明なり。此れは即ち是れ、識の雑染の所依たり。識は復た、彼の第一の依に由りて生じ、第二に由りて雑染なり。境を了別するの義あるが故なり。等無間の義の故に、思量の義の故に、意は二種を成ず。」このなかに、末那識という名はありませんが、阿頼耶識のなかに染汚の意としてのマナスがすでに見出されているのがよくわかります。
染汚の意は四の煩悩と恒に相応す、これが『唯識三十頌』にきますと、第七識ー末那識としてはっきりとした形を取って現れてきます。「次は第二能変なり。是の識をば末那と名ずけたり。彼(阿頼耶識)に依って転じて彼を縁ず。思量するを以って性とも相とも為す。四の煩悩と常に倶なり。謂く我痴・我見・我慢・我愛となり。及び余と触等と倶なり。有覆無記に摂せらる。所生に随って繋せらる。」と
 「有種種相転」-これは唯了・唯二・種種と、いろいろの内容を持って意識が起こってくることをあらわします。
 「彼依識所変」-我・法は妄想であって事実ではない、事実を此であらわします。彼は意識のあらわれにすぎないのです。そのあらわれかた、事実(此)能変(あらわす意識)は三類・八種類の識があるといわれています。意識の相をグループにわけているわけです。
 「此能変唯三」(此れが能変は唯し三つのみなり)と。
ここでは、「彼」「此」の言葉の使い方に注意が必要です。厳密に「彼」自分と離れて有ると思うものは妄想であって、我・法は事実として有るものではない、我・法は識の現れにすぎない。
 ここは日常の生活の場で私たちはどのようにしてすごしているのか、また世間といわれるものが何に由って成り立っているのか、鮮明にしています。日常とか、世間というものは私たちからは見えないものです。私たちからは日常とか、世間というのはちょっと間違っているかもしれないが、人間の能力、知性によって間違いを正していくことができるので有ると思っています。こいうのを妄想というのでしょう。私たちからは事実が見えないのです。だから妄想を事実と誤って事実を覆い隠しているのです。事実を如来といってよいのではないかと思います。一如来生という、真如の事実のみが見いだしてきたのが日常世間なのです。真如という如来を立場にしない限り私の事実は見えてこないのではないかと思います。如来に由って初めて私の妄想が明らかにされたのです。
 親鸞聖人はこのことを『恩徳讃』に
     「如来大悲の恩徳は
       身を粉にしても報ずべし
       師主知識の恩徳も
       ほねをくだきても謝すべし」(真全p505)
 と如来の恩徳を褒め讃えておいでになります。
如来との出会いによって初めて妄想しかない、自分が白日の下にさらされた。その感動を謳い上げています。

「謂異熟思量及了別境識」(謂く異熟と思量と及び了別境との識なり)
能変の数は三つのみあり、その能変の体を彰わしています。
       異熟識
       思量識   }唯三
       了別境識
この三類について『成唯識論』には、「謂く異熟、即ち第八識なり。多く異熟性なるが故に。謂く思量、即ち第七識なり。恒に審に思量するが故に。謂く了別境、即ち前六識なり。境の相の麤を了するが故に」、と述べられてあります。「謂異熟思量及了別境識」の「及」の言葉は六を合せて一種と為す。ここまでが略説唯識といわれるところです。唯識はこの一頌半で尽くされているということなのです。その内容を少し詳しく見ていきたいと思います。
 唯識の命題は「唯識無境」であると述べられてありましたが、それならば、どうして世間と聖教とに、我・法と説かれてあるのか。この疑問から我・法と説かれるのは「仮説」であると、仮に説かれたものに過ぎないということを明らかにしていていくのが『唯識三十頌』製作の意図であると思われます。
 『唯識二十論』(世界は表象のみのものであると証明する二十詩頌の論)に於いて「三界は心のみのものである」(『華厳経』取意)ことを証明してきました。「心、意、認識、表象というのはみな同義異語である。ここに心と言われているのは、(それに伴って起こる心作用と)連合している心のことである。「のみ」というのは外界の対象の存在を否定するためである。」(「大乗仏典」2中央公論社p429)私たちは現実と思っている世界で、世界は表象のみであるとは到底思うことはできません。私たちの思いは対象として山があり、川があります。私を離れて世界が存在していると思っています。そして対象としての世界が私を苦しめ、悩ませていくのだという思いで一杯です。私が悩んだり、苦しんだりするのはなになにのせいだと、だから対象を変えなければ私に満足は訪れないと思っています。有史以来の思いが今日の世界を築いてきたのです。それは又、如何にしたら満足を得ることができるかの悪戦苦闘の歴史といってよいのでしょう。結果今もまた満足を得るために日夜もがいているのです。この満足、不満足の戦いはこの先、果てしなく続くのでしょうか。唯識の論者は「否」と2000年以上もまえに「ただ識のみあり」と教えてくれました。『唯識三十頌』の著者世親菩薩に『浄土論』という書物があります。その中に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」(仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし。能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ」という一文があります。本願力に遇うてみれば、それが私の本当の願いであったと親鸞は教えてくれました。遇うてみれば「よろずのこと、みなもってそらごと、たわごとまことあることなし」と言い切られたのです。
 それは自分の思い、分別で持って構築されたものには真実はないという自己否定であったのです。自己否定されてみればそこに本当の自身の願いが実現しているのでした。でも私たちは自己保身のために(自分は一個の単独体として存在するーアートマンーと思っているがために)他を踏みにじり、顧みることなく自己を満足させようとして日夜奔走している有様です。そんな自己のありようを深く見つめ意識を解明したのが唯識なのです。意識を三層に解明し深層に潜む意識、表層に表れる意識と私の心の構造を明らかにしてきたのです。
 
 (第一頌) 仮に由って我・法と説く 種々の相転ずること有り
       彼は識所変に依る 

       此が能変は唯し三つのみなり
 (第二頌) 謂く異熟と思量と 及び了別境との識なり

ここが所謂、略説唯識といはれるところです。このうち上の三句は古来より難を答し執を破し、略して論宗を標し、唯識に結帰すといわれており、そのいわんとするところは、実我・実法を破るために仮に我・法と説くのである。『成唯識論』には「愚夫所計の実我実法は都へて所有なし、但し妄情に随いて而も施設するが故に之を説きて仮と為す。(無体隋情仮) 内識が所変の似我・似法は、有なりと雖も而も実の我・法の性には非ず。然も(されども)彼に似て現するが故に説いて仮と為す。(有体施設仮)といっています。又、仮ということについて『述記』には「(仮)というに二種有り。一には無体随情情仮なり。多分は世間と外道との所執なり。彼の執する所の我・法は無しと雖も、執心の縁に随うて亦我・法と名づく。二つには有体施設仮なり。聖教の所説なり。法体は有なりと雖も而も我法に非ず。本体は名無けれども強いて我・法と名く。法体に称はざれども縁に随って施設せり。」と述べられてあります。
 「所有無し」と述べられているのは体無しということであり、無体の実我・実法を妄情に随いて執する(偏計所執)ということなのです。
 わたしが、わたしがといっていることは本来それ自体では成り立たないのです。ここに人間存在は関係存在といわれる所以があるのでしょう。関係を断ち切って個は成り立たないということなのです。今ここでパソコンに向き合ってキーボードに指を運んでいますけれども、指を運ぶことが成り立つのもどれほどたくさんの人の手を煩わしていることか知れませんし、自然の恵みを頂いて初めて何事かに向き合うことができるのです。私たちは体を持ち、意識が働いているので私というものが一個の独立体と思っているに過ぎないのです。私というものを誤解をしているのです。私を私の意識でもって解釈をしているのです。ですからどこまで行っても出口のない暗闇をさまよい続けるしかないのです。毎日、毎日、暗く痛ましい事件が報道されていますが何故、何故起こってくるのかの議論はまったくといっていいほどされていません。表面上の出来事がどのようであったのかというような客観的要素のみの追求が為されているようにしか見えません。「人事ではないのです」、私の深層に潜んでいるエゴがはからずも露呈されているのです。そのためにも「唯識」を学びましょう。
 蓮如上人も「仏法は無我にて候」と教えてくださいました。
「仏法には無我」と仰せられ候う。「われ、と思うことは、いささかあるまじきことなり。われはわろし、とおもう人、なし。これ聖人の御罰なり」と、御詞候う。他力の御すすめにて候う。ゆめゆめ、「われ」ということはあるまじく候う。「無我」と云うこと、前住上人(実如)も、度々、仰せられ候う。(蓮如上人御一代記聞書ー真聖p870)
 私たちは妄想の上に(砂上の楼閣の上に)私をたてているのです。それは非常に偏った見方であるということから偏計所執(へんげしょしゅう)と云われるのです。
 「種々の相転ずること有り 彼は識所変に依る」
種々さまざまな世界が現れてくるのは、識が転じて境に似て現れるので有るというのです。私たちの認識とは随分と違うようです。私たちの認識は自と他を分別して成り立っています。唯識はそのような自と他を分別するような自はないと教えています。実我・実法はないのだと。「世間と聖教とに我・法有りと説けるは但仮に由って立てたり。」ということなのです。
 我・法について
「我というは謂く主宰。」   主=自在、宰=割断
  「我は主宰の如しとは国の主に自在有るがごときがゆえに。及び輔宰のよく割断するがごときが故に。・・・主というはこれ我の体、宰というはこれ我所なり。或いは主は我の体の如く、宰は我の用の如し。」(「述記」)
我というのは自由自在に判断をしたり決断をしたりすること、という意味なのです。自由自在に決断をする力を有するもの、それを我というのです。どうでしょうか。私の生き方そのものを言い当てているのではないですか。どんなにあがいてもここからは抜け出せないのです。生存本能といいますか、これがなかったら生きるということが成り立たないのです。ここに非常に深い問題が隠されているように思います。生きるということは「我」をたてることなのです。しかし生きるということの実体は無我だというのですから、そこに深い問題が隠されているわけです。                
 「法と云うは謂わく軌持。」
 『「軌」とは謂わく軌範、物の解を生ず可し。「持」とは謂わく任持、自相を捨せざるなり。 一には体の有無対
          二には自性差別対
          三には有為無為対
          四には先陳後説対
前は唯有対なり。後は亦無にも通ず。』(『述記』)

 「軌」=軌範(規範)ー判断、行為などのよるべき基準
 「持」=任持ー独自の本質、性質を持っている。
といわれています。
 ただ「法」といっても外に「法」といわれるものが有るわけではありません。私の認識において有るといわれるわけなのです。私との関わりに於いて有るわけです。大事なことは私に認識されたものだということなのです。我・法というものが単独にあるわけではなく、認識し、認識されるという関係に於いて我・法が仮に存在するといわれているわけです。本当に大切なのは何なのか。問題の所在はどこにあるのかをしっかりと見極めていかなければ為りません。
余談になりますが、仏教には三学という学びがあります。よくご存知だと思いますが 戒・定・慧 の三学といわれるものです。戒は戒律、定は禅定、慧は戒を守り禅定を修することに由って得られるところの智恵です。仏教徒はこの三学を学び人生の依り処としてきたのです。宗派を超えて脈々と伝えられてきたものなのです。今でもスリランカなど南方仏教圏での仏教徒は戒律を非常に重んじ、その姿には仏教徒の有るべき姿が感じられるようです。
机上の空論にふけることなく仏教徒は「有るべき姿」を深く求めなくてはいけないのではないかと思います。すくなくとも私はそのような生き方をしていきたいと念じています。
 では親鸞聖人の仏教観はどのようなものだったのでしょうか。キイワードとして「無戒名字の比丘」を手がかりに考えてみたいと思います。
 「無戒名字の比丘なれど/末法濁世の世となりて/舎利弗目連にひとしくて/供養恭敬をすすめしむ」(「正像末和讃」愚禿悲歎述懐 )
 『教行信証 化身土巻』に
  最澄の「末法灯明記」を引用され、末法の比丘のあり方についてお考えを述べられています。 
(参照)戒律ー戒と律との合併語。「戒」は規律を守ろうとする自発的な心の働きという。「律」は他律的な規範を意味する。
 仏教教団が確立されることによって、教団の秩序維持に規範が必要になったために作られた種々の規律条項や違反の際の罰則を規定したものが律で、是を内心より自発的に守ろうとして誓う点を戒という。とうぜん、戒と律とは切り離されたものではなく、共に併行して教団の秩序維持に大きな役割を担うものであるため、是を戒律と併用したもの。(「仏教語大辞典」より)
 戒は人間が人間として生きていくために、人間を保持するために必要な守られなければならないものであると思います。


第三能変 心所相応門 (3) 心所について

2012-10-29 20:16:35 | 心の構造について

 「我に属せる物に我所という名を立つるが如し。」(『論』第五・二十右)

 

 (先の第三の繋属に関しての喩。心王に属するから心所というのは、我に属する物を我所というようなものである。)

 「論。如屬我物立我所名 述曰。擧喩已顯此亦如是 何故相應。唯説遍行等屬心。不説心屬於受等耶。爲答此問因解第二行相之門與心同異。」(『述記』第五末・七十一左。大正43・421c)

 二は、心所の行相を説く。
 「何が故か相応というを唯遍行等を心に属すと説いて、心王を心所の受等に繋属すと説かざるや。此の問いを答えんが為に因みに第二の行相の門と同・異なることを解す。」(『述記』第五末・七十一左)

 「心は所縁に於いて唯総相のみを取る、心所は彼に於いて亦別相をも取る。」(『論』第五・二十右)

 (心王は所縁にたいして唯総相のみを取るのであり、心所は所縁にたいして、また別相をも取るのである。)

 心所等の行相を説明する中に三の意義が示されます。(1)総挙ーまとめて述べる。 (2)証を引くー証拠を引く (3)結び。 (1)の中がさらに二つに分けられ、「心は境の総相にして但総じて取るのみにして、別して分別せず。青を縁ずるを言わば但総じて青のみを取り更に分別せず。心所は彼(心王の取る境)に於いて総と別との相を取る。故に亦という言を説く」(『述記』)

 初の説明になります。『述記』によりますと心王は総相(そのもののみ)にして別相を取ることはない。例えば青を認識する時、心王は青そのもののみを認識し、更にその青がどのような青なのか等の分別をして別相を取ることはない。しかし、心所は心王の取る対象に於いて総相と別相の両方を認識すると説かれています。

  • 総相ー認識対象そのもの。青色なら青色そのもの
  • 別相ーその青色に関する好き嫌いや、何の青であるのか等の認識対象の意味、内容をいいます。

 「論。心於所縁至亦取別相 述曰。上解心所義。下釋心所等行相。於中有三。一總擧。二引證。三結。心取境之總相。但總取而已。不別分別。如言縁青但總取青不更分別。心所於彼取總・別相故説亦言 何以心王唯取總相。心所兼取總・別二相。且釋名者 。」(『述記』第五末・七十三右。大正43・421c)

 (「述して曰く。上は、心所の義を解しつ、下は、心所等の行相を釈す。中に於て三有り。一に総挙。二に証を引く。三に結す。心は境の総相を取る。但だ総じて取るのみ。別して分別せず。青を縁ずと言うとき、但だ総じて青を取って更に分別せざるが如し。心所は彼に於て、総・別の相を取るが故に亦と云う言を説く。何を以てか、心王は唯だ総相を取り、心所は兼ねて総・別の二相を取るや。且く名を釈せば、」)

 心所の説明(『樞要』巻下本・三十一左。大正43・641a))

 「恒に心に依りて起こりて心と相応す、心に繋属せり。故に心所と名く」といわれていました。心所というのは要ず三つの意義を具えている。(1)恒に心に依って起こる。(2)心と相応する。(3)心に繋属する。と云われていました。心・心所の総・別の相に於いて、無為縁別なり。有為縁別なりと説くべし。有為縁の中に本質(ほんぜつ)有るも縁ずること別なり。本質無しと云うは境も亦別なり。相とは義なり。体に非ず相に非ず。」

 心王が総相、心所は別相を認識するのですが、相分に於いては総相の他に別相の相分があるわけではない。心・心所が同一の認識対象に向かうときは心・心所は各々総相を見出しているわけです。即ち心王は対象のおおまかな姿を捉え、心所はその対象のこまやかな姿を捉えるのです。青という同一の総相に対して、心所は自らの認識の行相に随って青の内容の相(意義)を認識するわけですから、総相とは別の認識対象としての相分があるわけではないのです。「本質有るも」と、本質相分は同一であるけれども、認識内容が違うということになります。 

 尚、見分・相分・自証分・証自証分については四分説で詳しく述べられています。(『選註 成唯識論』巻第二・P41)また、所縁については、親所縁縁・疎所縁縁(本質)としても詳しく述べられています。(『選註 成唯識論』巻第七・P170 所縁縁について参照)

 

 

 


第三能変 心所相応門 (2) 六位の心所

2012-10-28 20:50:35 | 心の構造について

P1000565
  「論。恒依心起至故名心所 述曰。自下別解有二。初解心所二字。後解遍行等義 解心所中復三。初解心所之義。次解行相。後總結之。此即初也 略以三義解心所總名 一恒依心起。心若無心所不生。要心爲依方得生故。若爾心望遍行應名心所 二與心相應。彼五説與心相應故。心不與心相應故。又時・依・縁・事四義具故。説名相應。由此色等亦非心所。既爾心具五義。與五相應應名心所 三繋屬於心。以心爲主。所繋屬之心有自在非所以是義故繋屬於心。有此三義故名心所 又初義顯遍行。恒依心故。第二顯餘一切心所。非恒依心。心相應故。第三正解心所之義 又解心王不名爲所。不屬心故。由此三義簡別心・色等。不得名心所 又解第一句顯一切心所得名心所。第二句簡一切色等不名心所。第三句顯心所得名爲所。以繋屬他。以非主故。心不名所 又初句簡無爲。不依心起故。第二句簡色・不相應。第三句正解心所得名所以。」(『述記』第五末・七十一左。大正43・421b)

 (「述して曰く。自下は別解するに二有り。初に心所の二字を解し、後は遍行等の義を解す。心所を解す中に三有り。初に心所の義を解し、次に行相を解し、後に総じて之を結す。此れは即ち初なり。略して三義を以て心所の総名を解す。
 ① 一に、恒に(他の)心に依って起こる(恒に心王に依って起こる)とは、心若し無きときは心所生ぜず。要ず心を依と為って方に生ずることを得るが故に。若し爾らば心は(他の)遍行に望めて応に心所と名づく。
 ② 二に、心と相応す(心王と相応する)。彼の五(五遍行)をば心と相応と説くが故に。心は心と相応せざるが故に。又、時と依と縁と事との四義を具するが故に、説いて相応と名づく。此れに由って色等も亦心所に非ず。既に爾らば心は五義を具す。五と相応するをもって心所と名づくべきや。
 ③ 三には、心に繋属す。心を以て主と為し、所は之に繋属す。心は自在なること有るをもって所に非ず。是の義を以ての故に心に繋属す。此の三の義有るが故に心所と名づく。
 又、
 (第一説) 初の義は遍行を顕す。恒に心に依るが故に。第二は余の一切の心所を顕す、恒に心に依るものにも非ざれども心と相応するが故に。第三は正しく心所の義を解す。
 又解す、
 (第二説) 心五をば名づけて所と為さず、心に属せざるが故に。此の三の義に由って心と色との等を簡別して、心所と名づくことを得ざらしむ。
 又解す、
 (第三説) 第一の句は一切心所を心所と名づくるを得ることを顕す。第二の句は一切の色等を心所と名づけざることを簡ぶ。第三の句は心所を名づけて所と為すを得ることを顕す。他に繋属するを以て主に非ざるを以ての故に心は所とは名づけず。
 又初の句は無為を簡ぶ、心に依って起こらざるが故に。第二の句は色と不相応と簡ぶ。第三の句は正しく心所の名を得る所以を解す。

 心所というのは、何について心所というのかを三説を以て答えています。心王は対象の総相を認識し、心所は対象の総相に加えて別相をも認識するといわれています。後に出てまいります。
『法相二巻鈔』は、第三の義を以て説明しています。

 「抑此八識ハ。心ノ中ノ本ナルガ故ニ。名之ヲ心王。此八ノ王ニ多ノ眷屬アリ。是ヲ名心所。具ニハ・名之ヲ心所有法。略テシ心所ト名ク。是モ同ク心ナレドモ。サマ種々ニコマカナル心ヲバ。心ノ眷屬トス。」(大正71・110a)

 『倶舎論』に学ぶは、今週休載します。


第三能変 心所相応門 (1) 六位の心所

2012-10-25 23:32:20 | 心の構造について

 第二段・第五門・心所相応門と、第六門・受倶門を述べる。

 「六識は幾ばくの心所と相応するや。」(『論』第五十九左)

 (六識は、いくつの心所と相応するのであろうか。)

「第二の頌は第五の相応と第六の受倶との門を解す。」(相応門と受倶門)

 「述曰。此問起起也」(『述記』第五末・七十一右。大正43・421b)

 (「述して曰く、此れは問起なり。」) 
 

 初めは問い、後に答えです。「六識与幾心所相応」は初めになります。三段九義の中の第二段にあたり第五が心所相応門・第六が受倶門にあたり、あわせて説明がされています。第九頌の「此心所遍行 別境善煩悩 随煩悩不定」が心所相応門にあたり、「皆三受相応」が受倶門になります。

 心所は正式には心所有法という名称です。心に属するもの、心の働きをいいます。心王に対して心に所有されたものという意味で、対象の種々なすがたを見るのですね。『弁中辺論』(大正31巻465上)に「差別を了することをもって名づけて受等の諸の心所法と為す」といわれ、『二巻鈔』では「此の八の王に多くの眷属あり、之を心所有法と名く。略して心所と名く。是も同じく心なれどもさまざま種々にこまかくなる心をば心の眷属とす。」と説かれています。

 

 この科段は心王である六識はいくつの心所と相応するのか、六識と相応して働く心所には、どのようなものがあるのかかが問われています。心所には五十一ありますが、第六意識のみが五十一の心所と相応し、前五識は三十四・末那識は十八・阿頼耶識は五の心所と相応するといわれているのです。

  問いに対する答え (その一・本頌を挙げる)

 「頌に曰く、 此の心所は遍行と、別境と善と煩悩と、随煩悩と不定となり。皆三の受と相応す」(『論』第五・十九左)

 (頌にいう。この心所は、遍行と別境と善と煩悩と、随煩悩と不定である。皆、三つの受と相応する。)

 『唯識三十頌』第九頌本文を挙げています。六位五十一の心所が述べられるのですが、ここでは六位の名が挙げられています。「皆三受相応」は受倶門にあたり、受の心所について述べられます。三受は苦受・楽受・捨受です。六転識は、皆、この三と相応すると述べられています。

「論。頌曰至皆三受相應 述曰。上三句列六位心所總名。下一句正解受倶」(『述記』第五末・七十一右)

 (「述して曰く。上の三句は六位の心所の総名を列ね、下の一句は正しく受倶を解す」

 「論に日く、此の六転識は、総じて六位の心所と相応す、謂く遍行等なり。」(『論』第五・二十右)

 (論に述べられている。この六転識は、総じて六位の心所と相応する、それは遍行等である。)

 前半は頌の上三句を六位の名を挙げて説明し、後の一句を受倶門として説明する。前半がまた二つに分かれる。初めは上三句の意を説明し、後に心所とは何かについて説明する。今は此の初めについて説明する。
 
後半は心所とは何かを説明しているのですが、心所の解釈を二つの視点より説明しています。初めは心所の二字を説明し、後は遍行等の意義を個別に説明します。

「論。曰此六轉識至謂遍行等 述曰。下文有二。初解心所等頌上三句。後解受倶。初中復二。初總解此心所等上三句意。後別解。此即總也。正解此字。指頌可知 何名心所。心所何義。」(『述記』第五末・七十一右)』

 (「述して曰く。下の文に二有り。初に心所等の頌の上の三句を解し、後は受倶を解す。初の中に復、二有り。初に総じて此の心所等の上の三句の意を解し、後は別に解す。此れ即ち総なり。正しく此の字を解す。頌を指すことは知る可し。何ぞ心所と名づける、心所とは何の義ぞ。」)

 心所とは何かについての説明 

 「恒に心に依って起こって、心と相応し、心に繋属せり、故に心所と名づく。」(『論』第五・二十右)

 (心所とは恒に心に依って起こって、心と相応し、心に繋属する、その理由から心所と名づくのである。)

 心は心王のことで、八識です。この八識に属し八識に繋属する心の働きを個別に数えて心所というのです。正式には心所有法といいます。『述記』の説明を簡略しますと、(1)恒に心王に依って起こる。(2)心王と相応する。(3)心王に繋属する。ということになります。又『述記』には所顕と所簡とを四の見解を以って示しています。 初めに心所についは三つの部分より説明されますが、初めは心所の意味を説明し、次に行相を説明し、後は総括です。初めの心所の意味を三義を以って尋ねています。

 

  • 一に恒に(他の)心に依って起こる。心若し無きときは心所生ぜず。要ず心を依として方に生ずることを得るが故に。若し爾らば心を(他の)遍行に望めて心所と名づくべきや。」
  • 「二には心と相応す。彼の五(遍行)をば心と相応すと説くが故に、心は心と相応せざるが故に。又時と依と縁と事との四の義を具せるが故に。説いて相応と名づく。此れに由って色等は亦心所に非ず。既に爾らば心は五義を具す。五と相応するを以って心所と名づくべきや。」
  • 「三には心に繋属す。心を以って主と為し、所は之に繋属す。心は自在なること有るをもって所に非ず。是の義を以っての故に心に繋属す。」

 此の三の義有るが故に心所と名づく。(『述記』)

 『述記』本文は、明日記載します。

 

 


第三能変  三性門 その(41) 三性について、三性の同異

2012-10-24 23:17:01 | 心の構造について

 『了義燈』(第五本・二十三右。大正43・750c)に、護法正義である「六識三性容倶」について説明しています。

 「論。故六轉識三性容倶。本疏不説欲界之中有通果無記 要集云。倶舍第七從通果心無間生二。謂自界一即通果心。及色界一即加行善。此云欲界通果心者。唯是變化。依六十九云。又從欲界無記心無間色界善心生。如色界果欲界變化心。乃至又説此心爲欲界者。當知是彼影像類故。非自性故。要集意云。初言從欲界無記心無間色界善心生同倶舍論。如色界果下兩説。一同本疏。一云亦同倶舍 今謂不爾。初文即與後二文非別。云又從欲界無記心無間色界善心生者。據似欲界名爲欲界。非自性故。復即此心從於色界善心得生故。論總釋云又説此心爲欲界者。當知是彼影像類故。非自性故。前文復云諸神境智。或加行得。或生得。云生得者。謂生色等乃至云。又有欲界諸天及人一分福果所致。不説有加行得。若許欲界有從定引變化心者。即加行得。何故不説有加行得。五十四云。欲界無覆無記有變化心云。此唯是生得。謂天龍等。又云然無修果心。然顯揚論但説欲界有變化。或是業果。或是上界。似欲界故名爲欲界。非許欲界有定所引變化無記。」

 (「論に、「故に六転識は三性倶なることもある容し」という。本疏は、欲界の中には通果無記有りと説かず。」

  • 通果(つうか) - 通果心のこと。神通によってもたらされる結果の変化心等をいう。四無記心の一つ。
 

 「要集に云く、倶舎の第七に、通果の心従り無間に二を生ず。謂ゆる自界(欲界)の一つ、即ち通果心なり、及び色の一つ。即ち加行善なりという。此に欲界の通果と云うは唯だ是れ変化なり。六十九(『瑜伽論』)に依って云く、又、欲界の無記心従り、無間に色界の善心生ず。色界の果たる欲界の変化心の如くなり。乃至、又、此の心を説いて欲界と為せるは、当に知るべし。是れ彼(欲界)が影像の類なるが故なり。自性には非ざるが故にと云う。要集の意に云く、初に、欲界の無記心従り、無間に色界の善心生ずと云うは倶舎論に同なりと言う。
 「如色界果」という下は両の説あり。一は本疏と同じ。(欲界に通果心なし)一に云く、亦、倶舎に同じ(通果無記心あり)と云う。
 今謂く爾らず。(『了義燈』の解釈は)
 初の文と即ち、後の二の文と別に非ず。又「欲界の無記心従り、無間に色界の善心生ず」と云うは、欲界に似るに拠って名づけて欲界と為す。自性に非ざるが故に。復即ち、此の心は色界の善心従り生ずることを得。故に論に、総じて釈して、又此の心を説いて欲界と為ることは当に知るべし。是れ彼が影像の類なるが故に。自性には非ざるが故にと云えり。
 前の文(『瑜伽論』巻第六十九)に復云く、諸の神境智(じんきょうちー超能力を示現する智慧)に於て、或は加行得(修業・努力・実践によって獲得されるもの)なり。或は生得なりと云えり。生得と云うは謂く色に生ずる等、乃至云く、又欲界の諸天と及び人の一分との福果の所致有り。加行得有りと説かず。
 「若し欲界に定に従って変化心引かれること有りと許さば」とは、即ち加行得なり。何故か(欲界に)加行得有りと説かざる。五十四に云く、欲界の無覆無記に変化心有りといい、此は唯だ是れ生得のみなり。謂く天、龍等なりといえり。又云く、然るに修果の心は無し。然も顕揚論に但だ欲界に変化有るのみと説けるは或は是れ業果なり。或は是れ上界なり。欲界に似るが故に名づけて欲界と為す。欲界に定所引の変化無記有りと許すには非ず。」)

 以上で、三性門の説明を閉じます。次は第三能変・第二段・心所相応門を述べます。


第三能変  三性門 その(40) 三性について、三性の同異

2012-10-23 23:14:53 | 心の構造について

 「不善の中には、任運と分別と有り。此の五は皆通ず、亦五識も見断に通ずと許すが故に。此れが中に各煩悩と所知障有り、並に通じて意の引起するに由ると許す。故に下文に自ら説く。
 無記において皆有覆無記に通ず、亦意に引かれたるが故に。縁起経に説く。欲界意識には潤生(じゅんしょう・生存を潤すはたらき)の愛等を除く、亦有覆性有るが故に。四無記の中には唯だ異熟生と威儀と工巧とのみにして変化心は無し。通果ならば爾るべし。天眼・耳通は彼と倶なる慧なるが故に。然るに変化に非ざれども相い従いて四の中の変化に摂めらる。五識は威儀と工巧とを縁ず。威儀と工巧とを発すこと能わざるが故に。大論(『瑜伽論』)第一に説くが如し。五識は転心発業を作さざると雖も、亦随転心発業を作すが故に、即ち威儀と工巧と異熟生とに通じて摂む。変化無きことは、六十九に欲界に変化有りと言うと雖も是れ五識ならず。実は是れ上界繋なれども、意識の中の相似する者に拠って説く。或は所変化は欲界に似るが故に名づけて欲界と為しす。或は是れ生得の変化ならば但だ是れ異熟心に摂む。瑜伽に自ら是れ生得の変化と説くが故に。論文に自ら欲界には変化無し、色界には工巧無し、無色には又威儀無しと説くをもって、即ち今大乗は亦五識に通じて威儀工巧有り。四識は威儀を縁じ、五識は工巧を縁ずるを以てなり。若し爾らずんば異熟生に摂むべし。
 小乗の是れ威儀の類なるを威儀心と名づくには同じからず。異熟生の心は寛し威儀心は狭しということは、処々に皆有って文勢皆類なり。」)

  •  異熟生心 - 因の善悪業によって生じたもの。
  •  威儀路心 - 行住坐臥の四種の身体的動作をする時の心。
  •  工巧処心 - 技術や知識をもって仕事をする時の心。
  •  変化心 - 仏・菩薩が神通力を得て人々を導き救済する時に起こる心。

 これに、自性無記を加えて、五種の無覆無記に分類される。

 「疏。六十九言欲界有變化等者。具如燈辨疏。四識縁威儀等者。略有三釋。以彼威儀多依道路故得路名 一云威儀即是表色。路體四塵。四塵是彼威儀所託名威儀路二云威儀四塵爲性。即發彼心名之爲路。爲彼依故。二皆依主 三云四塵總名威儀。與威儀色不相離故。是心所託即名爲路。持業釋也。縁彼威儀路之心皆依主釋 工巧處者亦有三釋。以彼工巧多依處所而施設之故得處號 一云工巧謂身・語二。身巧即以造殿堂等長等表色而爲其體。處即表色。所依色・香・味・觸爲性。語巧歌等。即以所發聲爲其體。處即歌等所依五塵 二云四塵・五塵名爲工巧。能發彼心名之爲處。爲彼依故。二並依主 三云工巧即名爲處。以四・五塵是心所託。持業爲目。縁工巧處心皆依主釋。」(『演秘』第四末・五十右。大正43・908b)

 (「疏に、六十九に欲界に変化有りと言う等とは、具に燈(『了義燈』第五本・二十三右。大正43・750c)に弁ずるが如し。
 疏に、四識は威儀を縁ず燈とは、略して三釈有り、彼の威儀は多く道路に依るを以ての故に路の名を得。一に云く、威儀は即ち是れ表色なり。路の体は四塵なり、四塵は是れ彼の威儀の所託なるをもって威儀路と名づく。二に云く、威儀は四塵を性と為す。即ち彼の心を発するをもってこれを名づけて路と為す、彼が依と為るが故に二皆依主なり。三に云く、四塵を総じて威儀と名づく。威儀の色と相い離れざるが故に、是れ心の所託なるを以て即ち名づけて路と為す、持業釈なり。彼の威儀路を縁ずる心なれば皆依主釈なり。
 工巧処とは亦三釈あり。彼の工巧は多く処所に依りて、これを施設するを以ての故に処の号を得。一に云く、工巧は謂く身語の二なり。身巧は即ち殿堂等を造る長等の表色成るを以て其の体と為す。処は即ち表色なり、所依の色香味触を以て性と為す。語巧は歌等なり、即ち所発の声を以て其の体と為す。処は即ち歌等の所依の五塵なり。二に云く、四塵五塵を名づけて工巧と為す。能く彼の心を発すこれを名づけて処と為す。彼の依と為るが故に、二並びに依主なり。三に云く、工巧は即ち名づけて処と為す。四・五塵は是れ心の所託なるを以てなり。持業をもって目と為す。工巧処を縁ずる心なれば皆依主釈なり。」)
  
  


第三能変  三性門 その(39) 三性について、三性の同異

2012-10-22 22:25:13 | 心の構造について

 戯論とは、戯れの見解のこと。「云何が戯論なる、謂く一切の煩悩及び雑煩悩の諸蘊なり。」(『瑜伽論』巻第十三)煩悩と煩悩に付属するものは正しくない見解ということがいえます。『毘婆沙論』巻第八十一には、愛戯論・見戯論の二種の戯論があることを述べています。

 以上、得自在の位には、第六意識はただ善性であることを説き、その理由は、仏の色心等は、道諦に摂められる、すでに永遠に戯論の種子(一切の有漏種)を滅除しているからである、と説明しています。

 「論。得自在位至戲論種故 述曰。自下顯在果位唯善性攝。若五識轉依。隨前二師所解位次。唯善性攝唯在佛也。唯善性故。不爾初地已去。五識之中尚有不善。八地已去或時亦有無記五識故。唯佛色・心是道諦故。唯善性攝。何以然者。諸戲論種已永無故。應細拾文推其義理 三乘無學・菩薩後得智中。何性六識倶起。然今不能煩文具解。雖知六識體通三性。五識之中通有覆者。如受中説。善中通生得・加行。加行有聞・思・修。論其五識。聞思於義自性即無。爲彼所引亦通所成。如聽經觀字而思法義。意成聞・思。所引眼・耳豈非亦是聞・思所成。非生得故。香積佛土鼻・舌等識。類此應知。後得智中淨土聽法所生五識。豈非三惠之所成也。成所作智即是修故。所成之言義寛遍也。此等皆由隨意引生故 不善之中有任運・分別。此五皆通。亦許五識通見斷故。此中各有煩惱・所知障並許通。由意引起故。下文自説 無記皆通有覆無記。亦意引故。縁起經説。欲界意識。除潤生愛等亦有有覆性故。四無記中。唯異熟生・威儀・工巧。無變化心。通果可爾。天眼・耳通彼倶惠故。然非變化相從四中變化所攝。五識縁威儀・工巧。不能發威儀・工巧故。如大論第一説五識雖不作轉心發業。亦作隨轉心發業故。即通威儀・工巧・異熟生攝。無變化者八十九雖言欲界有變化。不是五識。實是上界繋。據意識中相似者説。或所變化。似欲界故名爲欲界。或是生得變化。但是異熟心攝。瑜伽自説是生得變化故。論文自説欲界無變化。色界無工巧。無色又無威儀。即今大乘。亦通五識有威儀・工巧。四識縁威儀。五識縁工巧。若不爾者異熟生攝。不同小乘是威儀類名威儀心。異熟生心寛。威儀心狹。處處皆有文勢皆顯。(『述記』第五末・六十八左。大正43・421a~b)

 (「述して曰く。自下は、果位に在って、唯だ善性に摂するを顕す。若し五識の転依するときは前の二師の解する所の位次に随って、唯だ善の性に摂むれば唯だ仏に在るなり。唯だ善性なるが故に。爾らず、初地已去にも、五識の中に尚、不善有り。八地已去にも、或る時には亦無記の五識有るが故に。唯だ仏の色心のみ是れ道諦なるが故に。唯だ善の性に摂む。何を以て然とならば、諸の戯論の種已に永に無きが故に。応に細に文を拾(かんが)えて其の義理を推すべし。」)

 と、『述記』は説明しています。以上で大体意味は通ずると思われますが、一応読み下しておきます。

 (「三乗の無学と菩薩の後得智との中には、何の性の六識が倶起するや。然るに今煩わしく文に具に解すること能わず。六識の体は三性に通ずるということを知んぬと雖も、五識が中に有覆に通ずというは、受の中に説くが如し。

 (加行善・生得善を述べる) 

 善の中には生得(しょうとく・先天的に得られているもの)と加行(けぎょう・修行によって後天的に得られるもの)とに通ず。加行には聞・思・修有り。其の五識を論ぜば、聞思することは義に於て自性として即ち無し。彼(第六識)が為に引かれたるをもって亦(聞思の)所成にも通ず。経を聽き字を観じて法義を思うが如きは、、意いい聞思を成ぜり。所引(しょいん・結果としてもたらされるもの)の眼・耳も豈に亦是れ聞思所成(しょじょう・成り立つこと)に非ずや、生得に非ざるが故に。香積仏上の鼻・舌等の識も此れに類して応に知るべし。後得智の中に、浄土に法を聽くときは生ずる所の五識豈に三慧の所成に非ずや。成所作智は即ち是れ修なるが故に。所依の言は義いい寛く遍ぜるを以てなり。此れ等は皆意に随って引生せらるるに由るが故に。)

 以下は、不善の加行、任運と分別が説明され、次に、四無記が述べられます。明日読みます。


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (10)  第一章第二節

2012-10-21 17:30:37 | 『阿毘達磨倶舎論』

 今日は、第十四頌後半から、第十五頌を述べます。

 「受領納随触 想取像為体 四余名行蘊 如是受等三 及無表無為 名法処法界」

 (受は随触(ずいそく)を領納(りょうのう)す。想は像を取るを体と為す。四の余を行蘊と名く。是の如き受等の三と、及び無表と無為とを、法処法界と名く。)

 受蘊は随順する触を領納する。想蘊は心の内に想い考えることを体とする。第三句は行蘊、色・受・想・識の四蘊以外を行蘊と名づける。
 「如是受等三 及無表無為 名法処法界」の三句は、処界門を示している。受・想・行と無表色と無為法、これらすべてが十二処では法処、十八界では法界に摂められる。

 前段で、色蘊は五根・五境と無表色との十一種であるとし、五根五境を十二処では十処、十八界では十界とすると説明されていました。この段では、受・想・行の三蘊は、十二処、十八界ではどこに摂められるのであるのかを説明しています。

 第一句は受蘊についての説明です。
  受は、苦・楽を感じる感受作用で、領納といいます。触を領納するのですから、領納随触といわれます。境が触れたその触を受け入れ感受作用を起こす。即ち、苦境が触れると苦触を起こし、苦受を生ずるという。反対に楽境が触れると楽触を起こし、楽受を生ずる。この受に、苦受と楽受と非苦非楽受(捨受)との三受がありますが、さらに苦受を苦受と憂受に、楽受を楽受と喜受とに分け、全部で五受に分けられて説明しています。苦受と楽受は感覚的なもので、五感覚と共に働き(身受)、憂受と喜受は分別作用と共に働く(心受)といわれています。

 第二句は想蘊。
  想は、対象が何であるのかを知る知覚作用。「像と取るを体と為す」、また「想とは、謂く境の於に差別を取る相なり」と定義されます。言葉(名言)によって対象を、「これは男性であって、女性ではない」というように、明確に知覚するといわれます。六根に依って六想をわけることができます。

 第三句は行蘊
  色・受・想・識の四蘊以外を行蘊と名づけられます。不相応行をも含めます。即ち、心所の四十四法と不相応行の十四法の五十八法が数えられます。

 受・想・行と無表色と無為法、これらすべてが十二処では法処、十八界では法界に摂められ、法処・法界は四十六の心所と十四の不相応行、無表色と三無為法の合計六十四法であるとされます。

 十二処・十八界の説は、主観と客観を結びつけるものは何か、どうして認識が成り立つのかを、根・境・識でもって経験的世界のすべてを表そうとしたものなのです。根は識の依り所であり、境は識の対象、識は根を依り所とし、境を対象として、認識を成り立たせているのですね。

 お知らせ

  11月24日(土)より毎月第四土曜日・午後二時より、「唯識入門」 を大阪府八尾市本町の真宗大谷派聞成坊さんで講義させていただくことになりました。有縁の人々お誘いあわせ、聴聞してくださいますようお願いします。