唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (97) ・ 倶有依 (73) 護法の正義を述べる、(27)

2011-05-09 23:11:57 | 増上縁依(倶有依)

5月7日のつづきを述べます。

 「心所の法は識に随って応に説くべし。始めには但四のみ有り。乃至一有り。復各自と相応の心即相応の依を加えたり。初の五識の心所には五の所依有り。乃至第八の心所には二の所依有り。此れより前の三の師も皆自所立の識の所依に随って其の多少を説き、復各、自と相応の依を加うべし。」(『述記』第四末・九十八左)

 第二の段・心所の倶有依について説明するところです。

 「心所の所依をば識に随って説くべし、復各々に自の相応する心を加う。」(『論』第四・二十一左)  

 (心所の所依は識に随って説かれるべきである。また、各々(各心所の所依)に自らの相応する心識をも所依の一つとして加えるのである。)

 五識と相応する心所の倶有依は「五の所依有り」と。即ち、五根・第六識・第七識・第八識と、その心所が相応する識のひとつが加えられる。

 第六識と相応する心所の倶有依は、第七識と第八識と、その心所が相応する第六識そのものを加えて三の所依である。

 第七識と相応する心所の倶有依は、第八識と、その心所が相応する第七識そのものを加えて二の所依である。

 第八識と相応する心所の倶有依は、第七識と、心所が相応する第八識そのものを加えて二の所依である。

 以上のように、心所の倶有依については、その心所が相応する識の倶有依と、さらにその心所の相応する識をも倶有依(相応依)として加える、と説明しています。

 第三の段・総じて正を結ぶ。

 「若し是の説を作すときには、妙に理教に符えり。」(『論』第四・二十一左)

 (もしこの説をなす時には、妙に理と教にかなうのである。)

 倶有依(増上縁依)についての結びになります。『述記』には「総結正」と述べられ、護法の義を正説として結び、護法正義によるならば、理と教にかなうのである、と説明がされています。その間の事情について「第四の説は妙に理と教に符えり。前に引く所の如し。此れ等の義理は諸論に有りと雖も、文いい散じ隠れたるに由って諸賢究むること勿(な)し。今夜光に類して彼の義を顕す矣。(『述記』第四末・九十八左)と、感銘を以て述べています。この護法の説は諸論に説かれてはいるが、その文は不明確であった為に、意味が隠れ、諸賢もこれを明らかにすることが出来なかった。今、護法菩薩が夜光の珠玉に類するともいうべき説を明らかにされた、と。護法正義の倶有依説によって、依と所依の区別が明らかにされたのである、と。

 


第二能変 所依門 (96) ・ 倶有依 (72) 護法の正義を述べる、(26)

2011-05-07 22:32:32 | 増上縁依(倶有依)

 『樞要』巻下本・十八左

  「識種は現に自の境を取る能はず。依の義有るべしとは、疏の中に二の義有り。一に云く。前の師は識種は本識に依ると許す。本識は三の義を具す。種が與に所依と為るべし。種の果は現に自境を取ること能はず。果も自の所縁無きが故に。異熟識は彼が與に依と為るとも所依には非ずなり。故に種は依有りと説くれども有所依と説かず。又解す。此の解は識種は現行の與に所依と為すこと能はざれども、分位に差別の決定と為主とは有るべし。有境は無き故に。識の依の義は有るべしといえども、而も識が所依には非ず。上来の分位差別と云う。即ち染浄依なり。別與を以て名と為して分位差別と名づく。」

 第三師(浄月等)の説では、種子の倶有依について「若し識の種子ならば定んで一の依有り、異熟識ぞ、初に熏習する位には、亦能熏にも依る。」と主張していました。種子の第八識に対しては必ず現行第八識が倶有依となるということ。第八識の種子(住依ー種子を保持するという意味において種子を住する依として現行第八識を所依とするという。)この浄つは第八識に任持されるので第八識の現行を以て定依とし、能熏の七転識は生・長の依となるから七転識を以て不定依とするというのが浄月等の主張です。この浄月等の説を論破するのがこの科段であるということです。「現行八識の種子は現に自の境を取ることができない」ということ、「現行八識の種子は現行八識に自の境を取らせることができない」ということを以て、現行八識は種子に対しての依ではるが所依ではない、又種子は現行八識に対しての依ではあるが所依ではない、と論破しています。

「第二の段に心所を解す。」

    ー 心所の倶有依を説明する。 ー

 「心所の所依をば識に随って説くべし。復各に自相応する心を加えたり。」(『論』第四本・二十一左)

 (心所の所依は識に随って説かれるべきである。また、各々(各心所の所依)に自らの相応する心識をも所依の一つとして加えるのである。)

 「心所の法は識に随って応に説くべし。始めには但四のみ有り。乃至一有り。復各自と相応の心即相応の依を加えたり。初の五識の心所には五の所依有り。乃至第八の心所には二の所依有り。此れより前の三の師も皆自所立の識に  (つづく)

 日付が変わりまして5月8日、午前1時45分になります。私事ながら昨日から父の体調が悪く入院をしていました。腎臓に疾患があり、心臓に送り込む血管がつまってしまっていて、スムーズに酸素を送り込むことが出来ない状態でした。でも少し様子をみて回復を待ちましょうという医師の判断でしたが、高齢でもあり急変したのですね。ちょうど今日の「心所の倶有依について」を考えている最中に病院から「おじいさんの体調が急変しました。」という電話が入りました。医師からの説明では酸素が十分に心臓に届いていない状態がつづいています。酸素を送り込んでいるのですが数値があがらないのです、と。その数値が90ないといけないそうですが、最大でも88までしか上がらず、本人も一生懸命呼吸をしているのですが、このままだと非常に危険です、数値が60を切るようなことがあれば、危篤状態になります。しかし今はなんともいえないので、一旦自宅待機をしていてください、もしもの時には電話をいれます、しかしその時は覚悟をきめてきてください、と。寝付かれない夜を迎えていますが、覚悟をきめて状態を見守っています。「朝に紅顔あって夕べには白骨となれる身なり」とは、どこかにある話ではなく私自身の身の上の事実であることを父が今、身をもって教えていてくださいます。


第二能変 所依門 (95) ・ 倶有依 (71) 護法の正義を述べる、(25)

2011-05-06 23:21:00 | 増上縁依(倶有依)

 種子識を説明する。(種子と現行八識の倶有依の問題)

 「識種不能現取自境。可有依義而無所依」(『論』第四・二十一左)

 『述記』にこの文は二義を以て解釈すると述べられ、伝統的に『述記』の理解に基づいて原漢文を二通りの読み方をし、二つの問題について説明がされています。『述記』によれば、浄月等が種子の第八識の倶有依説によれば、種子も生依・長依・住依の三義をそなえるから有所依であろうと問うことに対して答えていると説明しています。

 「第三師の云く、諸識の種子も応に有所依なるべし。七・八の現行識、三の義を具せるを以てなり。」(『述記』)という問いです。この答えがつぎの二義になります。

 (1) 現行依の義から答える。

 「識種は、現に自の境を取ること能わざれば、依の義は有る可けれど、而も所依たること無し。」

 (現行八識と種子との関係において、現行八識の種子は現に自らの境を取ることができないので、現行八識は種子に対しての依ではあるが倶有依ではない。)

 (2) 種子依の義から答える。

 「識種は、現に自の境を取らしむること能わざれば、依の義は有る可けれど、而も所依たること無し。」

 (種子と現行八識との関係において、現行八識の種子は現行八識に自らの境を取らせることができないので、種子は現行八識に対しての依では有るが、倶有依ではない。)

 (1)の問題について

 「其の種子識は現在に自の親しき現行の所縁の境を縁ずること能わず。前に宗を立てて、心・心所に自の所縁を取らしむるいい是れ所依の義なりと言う。種は心・心所に非ざるが故に。一の義を欠くるに由るが故に有依なる可けれども、有所依に摂むるには非ず。」(『述記』)

 識種(種子と種子識)は現前の所縁の境を認識しないということ。種子が現前の所縁の境を認識しないということは、このとき、現行八識は所依であり、種子は能依になり、現行八識は種子に所縁の境を認識させることが出来ないのである。(一の義を欠く)ということは倶有依の四義の内の第四義である取自所縁の義を欠くので依ではあるけれども、倶有依ではないという。

 (2)の問題について

 種子が現行八識に対する倶有依となるのかという問題について答えています。

 「此の文は現行は種を以て所依とせず。種子は有境の義を欠くことを以て種子は現が所依には非ず。」(『述記』)

 このとき、現行八識は能依であり、種子は所依となる。八識の種子は現行八識の自の境を認識させることが出来ないということ。種子は自らが認識する境を持たないので、四義の内の有境の義を欠くことになり、種子は現行八識の依ではあるが、所縁の境を認識することが出来ない為に、種子は現行八識の倶有依ではないという。

 「此れが中に二の解は、一には現行の第八は種が所依に非ずと簡び、二には種子は現が所依に非ずと簡ぶ。」(『述記』)

 尚、この二つの問題についての背景は『樞要』(巻下本・十八左)に述べられています。次回に述べてみます。

 

 


第二能変 所依門 (94) ・ 倶有依 (70) 護法の正義を述べる、(24)

2011-05-05 19:54:33 | 増上縁依(倶有依)

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大阪府藤井寺市にある藤の名所葛井寺(ふじいでら)の満開の藤の花です。ちなみに、藤井寺の地名はこの葛井寺に由来するそうです。

  

第二能変 所依門 (94) ・ 倶有依 (70) 護法の正義を述べる、その(24)

 「問う、六は七を依と為す、七が転ずる時に六は転ぜざるには非ずと云はば、八は七を依と為す。(所依の)七が既に転ぜし時には、(能依の)八も転ずべし。又八は七が依為る、依転ずるとき七も亦転ずと云はば、八は七を依と為す。依転ぜむ時(能依の)八も亦転ずべし。

 答う、此の義の中に於いて応に功力を設くべし。此れが中に転というは、謂く無漏に転ずるなり。

 又(六識は)各別の依なるが故にいう因を以て即ち色界の第八は亦色根にも依る。是れ(第八は)遍依なるが故に何が故に説かざる。」(『述記』第四末・九十六左)

 有色界(色界・欲界)では第八識は五根を執受するので、この執受の関係で云うならば、浄月等が主張するように有色界では色根が第八識の倶有依ではないのか、という疑問が提起されています。浄月等の第八識の倶有依について五色根が倶有依となると主張しています。(この項2011・3/24~4/5を参考にして下さい。)その答えがこの科段になります。

 「有色界には、亦五根にも依ると雖も、而も定んで有あるにあらざれば、所依に摂めらるるに非ず。」(『論』第四・二十一左)

 (有色界では第八識はまた五根に依って存在するといわれていても、五根は三界のどこでも存在するものではない。よって、五根は第八識の倶有依ではない。)

 「有色界では第八識はまた五根に依って存在するといわれていても」・第八識は第七識の他に五根に依っても存在していると言えるが、無色界では五根が存在しない為、所依の四義の中の決定の義を欠くことになり、そのために五根は第八識の倶有依ではということですね。しかし倶有依ではないが依ではある。『述記』の所論は「(決定の)一義を欠けたる故に、但だ依とのみなるべし。而も所依に非ず。亦論にも違せず。」と述べられています。


第二能変 所依門 (93) ・ 倶有依 (69) 護法の正義を述べる、(23)

2011-05-04 20:20:12 | 増上縁依(倶有依)

  この問題点について答えているわけですが、それが二つに分けられて説明されます。初は三位の文を会し、後に五根も第八識の倶有依ではないかという問題に答える。

 ー 「三位に末那無し」と説かれている問題について答える。 ー

 「而も、三位に末那無しと説けるは、有覆に依って説けり。四位に阿頼耶無しと言えども、第八無きに非ざるが如し、此も亦爾るべし。」(『論』第四・二十一右)

 (『頌』に「三位に末那無し」と説かれているのは、有覆無記に依って説かれているのである。これは四位に阿頼耶識が存在しないと説かれていても、第八識の体が存在しないということではないのである。此れも亦同様であり、三位に末那識が存在しないと説かれていても、末那識の体が存在しないということではないのである。)

 「論主答えて曰く、有覆に依って説く。謂く三位無というは何の乗を障うにも有覆性において説けり。有覆無きが故に末那無しと言う、体無しと謂うには非ず。彼の二乗を障へざるの識(法執の第七識)と或いは無漏の識との亦有ることを得るが故に。五十一に四位に阿頼耶無しと言えども第八の体無きに非ざるが如し。此れも類するに応に然るべし。第七の体無きには非ず、既に間断せざるが故に依と為すことを得。

 三位と言うは、六十三等に説かく、謂く滅尽定と無学の位との聖道の現前するときなりといえり。

 四位に阿頼耶無しというは即ち五十一と及び『顕揚』十七等との四句の中に、転識を成就して阿頼耶に非ず。謂く声聞と独覚と不退の菩薩と如来との無心に入らざる位なりといえり。」(『述記』第四末・九十六左)

 三位に末那無しと説かれているのは有覆という我執によって説かれている(人我見相応の末那識・補特伽羅我見相応の末那識)のであり、識体の有無によって説いているわけではないという。本文の意味は、三位では第七識の識体そのものが無くなるのではなく、第七識の我執が無くなるという意味で説かれているのあって、三位においても末那識は存在して第八識と恒に転じ、第八識の倶有依になるということです。また、三位において我執の末那識は存在しないというが、法執の第七識は存在し有漏の識として転じている(法我見相応の末那識)。或いは、我執も法執も滅してしまい無漏となった平等性智相応の第七識も、いずれも第七識の識体が存在しなくなるということではないというのが護法の主張です。尚この護法の主張と安慧の主張をめぐっては、後に「起滅分位門」において述べられます。

 次に四位の説を示して、「三位に末那無し」ということの論証をします。四位に阿頼耶識が無いということは『瑜伽論』巻第五十一(大正30・582a)四句分別の第二に「或有成就轉識非阿頼耶識。謂阿羅漢若諸獨覺。不退菩薩及諸如來住有心位。」(或いは転識を成就して阿頼耶識には非ざる有り。謂く阿羅漢、若しくは諸の独覚、不退の菩薩及び諸の如来の有心の位に住するなり。)と説かれ、亦『顕揚論』巻第十七(大正31・567c)四句分別に「 或有成就轉識非阿頼耶識。謂住有心位阿羅漢獨覺不退轉菩薩及與如來。」(或いは転識を成就して阿頼耶識には非ざる有り。謂く阿羅漢と独覚と不退の菩薩と及び如来の有心の位に住するなり。)と説かれている所論によります。

 四位に阿頼耶識が無いと説かれていても、阿頼耶識の識体がなくなるという意味で説かれているのではないということと同様に第七識の識体が無くなるということではなく、この為に第八識の倶有依は第七識であり、第八識は第七識と倶に転じるということであると説明されています。


第二能変 所依門 (92) ・ 倶有依 (68) 護法の正義を述べる、(22)

2011-05-03 09:11:31 | 増上縁依(倶有依)

「第八識は恒に末那識と倶時に転じる」と説かれている。又、第八識は「恒に染汚に依る」と説かれている。これは即ち末那識のことである、と。

 これが護法の説を裏付ける根拠になるわけです。

 「六十三に恒に末那と一(ひとし)く倶に転ずと説けるが故に。

 又、蔵識は恒に染汚に依る、というは、即ち無性第三巻に「或いは有るが説いて言く、四煩悩と恒に相応する心を染汚依と名づく。」と云うが如し。世親の説に同なり。此に既に「恒に染汚に依る。」と言うに由る。知るべし、第八は七を以て依と為すということを。」(『述記』第四末・九十六右)

 『瑜伽論』巻第六十三・五十一及び『無性摂論』巻第三の記述を証として挙げています。第八識と第七識は恒に間断することなく倶に転ず、と、説かれていることが護法説の正義であることの根拠になっているわけです。

 次に浄月等・難陀等・安慧等の説との同異を説明します。

 「前の第三師(浄月等)は初に七を以て八が依と為すという。量に云く、是れ識性なるが故に倶有依有るばし、或いは間断無き識に依るばし、識体間断すること無きが故に、第七の如くと。故に此の第八に倶有依有りというは前師の成立しつるが如し。此れ等の諸説において第三と及び第四との第八に依有り謂く第七と説けるは、皆是れ三位に第七識有りという。

 前の第一師(難陀等)のは、無と言うは(第八識は所依無し)七と例を為すを以てなりと雖も、恒に相続すと言へり。故に依有ること無けれども亦是れ此れ(三位に第七有り)が流(たぐい)なり。

 第二師(安慧等)の説は唯だ独り第八に依有りと許さざれば、即ち此れ三位に第七無しという家(け)なり。亦此の義を作すに相違無きが故に。

 前の第二師の等の問ふらく、第八に既に依有り、謂く第七なりといはば、何が故ぞ三位に第七無しと説ける。即ち依の義不定になりぬるが故に」(『述記』)

 「疏に「此の義を作すに相違無きが故に」とは、三位に七無しと云う家も、亦安慧に同じく八は無しと云うことを成ず。亦此の義を作すとは亦安慧も三位に七無しということを顕す。」(『演秘』第四本・三十六左)

 第一師及び第三師の八識の倶有依説については既に述べていますが、安慧等は第八識に倶有依は無しと言う説を述べ、又三位に末那師という立場を採っているわけです。ですから、護法説に疑問を出され、『頌』に「阿羅漢と滅尽定と出世道とには(末那)有ること無し」(第七頌)と説かれているのは何故か、という問いが出されるわけです。既に護法の説及び論書にも「第八識は倶に第七識と転ず。」と述べられ、恒に末那識に依ると説かれていました。しかし、『頌』に「三位に末那無し」と説かれていることは、第七識は恒に転じているわけではないことになる。即ち第八識に対して第七識は不定依でり、倶有依とはならないと理解するべきであるのに対して、護法は第七識が第八識の倶有依であると主張するのは何故なのであろうか、という問いですね。この問いに答えているのが次の科段になります。


第二能変 所依門 (91) ・ 倶有依 (67) 護法の正義を述べる、(21)

2011-05-02 22:14:38 | 増上縁依(倶有依)

     護法の倶有依についての説 - 第四段 -

 第四段が四つに分けられて説明されます。(1)宗を標す。第八識の倶有依を挙げる。(2)証を引く。(3)違を会す。(4)種子を解す。これは第一である。

  「阿頼耶識の倶有所依も、亦但一種なり、謂く第七識ぞ、彼の識若し無きときには定んで転ぜざるが故に。」(『論』第四・二十一右)

 (阿頼耶識の倶有所依もまたただ一種である。つまり第七識である。彼の識(第七識)がもし存在しない時には第八識も必ず転じないからである。)

 「第八が所依も唯だ亦一種なり。謂く第七識なり。第七若し無きときは八は転ぜざるが故に。何を以てか然るというを知るとならば。」(『述記』)

 第二に典拠を挙げる。

 「論に、蔵識は恒に末那と倶時にして転ずと説けるが故に。又、蔵識は恒に染汚に依ると説けり、此れは即ち末那なり。」(『論』第四・二十一右)

 (何を以て知ることができるのかは、『瑜伽論』巻第六十三(大正30・651b)に「第八識は恒に末那識と倶時に転じる」と説かれている。又、第八識は「恒に染汚に依る」と説かれている。これは即ち末那識のことである。)

                    この項つづく 

 


第二能変 所依門 (90) ・ 倶有依 (66) 護法の正義を述べる、(20)

2011-04-30 18:10:29 | 増上縁依(倶有依)

          ー 第七識の倶有依について ー

 初めに第七識の倶有依を挙げ、次に証を挙げる。

 「第七意識の倶有所依は、但一種有り、謂く第八ぞ、蔵識若し無きときには、定んで転ぜざるが故に。』(『論』第四・二十左)

(第七識の倶有依はただ一種である。つまり第八識である、若し蔵識(第八識)が存在しない時には、第七識は必ず活動しないからである。)

 第七識の倶有依は第八識のみであるというのが護法の説ですね。『唯識論聞書』(光胤)には「光胤申云。第八爲第七カ根本依之外ニ不共依ノ義用アル歟ノ事モ。同シ沙汰也。但聊染淨依ヨリハ別ノ義用アリトモ覺エタリ。第七八識既恒倶轉之邊ハ。根本依之外ノ事也。其故ハ根本依トナル事ハ。間斷識體ノタメニモ。根本依トハナル也。故ニ能所恒轉ハ。根本依之外歟」(大正66・715c20~25)と述べられています。第八識は第七識に対しては不共依である。第八識と第七識は間断することなく恒に倶転する識であり、能依・所依が間断することなく恒に倶転する第八識と第七識の関係では、互いを不共依とする。第八識は諸識に対して根本依であるけれども、根本依という場合には、間断がある識に対して言うものであり、第七識は間断がなく第八識と倶に活動することから不共依という関係になる、と。

 「第七意識」と云うことは『瑜伽論』巻第六十三に「一には阿頼耶識、二には転識なり、阿頼耶識は是れ所依なり、転識は是れ能依なり。此の転識に復七種あり、所謂る眼識乃至意識なり」と説かれていることによります。また、第八識が若し存在しない時には第七識も亦存在しないと説かれている。『瑜伽論』巻第五十一に「阿頼耶識有るに由るが故に末那識あることを得、」と。

 次に証を引く。

 「伽陀に説けるが如し、 阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、 心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得という。」(『論』第四・二十一右)

 (伽陀(『入楞伽経』第九巻・大正16・571c20「依止阿梨耶 能轉生意識 依止依心意 能生於轉識」の取意)に説かれている通りである。「阿頼耶識を依とすることに於いて、末那識は活動する。心と意とに依止して、他の転識は生じる。)

 『入楞伽経』第九巻・総品の中の頌に「阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して能く転識を生ずと。」と語られているのですが、『論』はこの『頌』の要を述べています。そしてこの文が第七識の倶有依は第八識であることの証拠であると示しているのです。

 「述して曰く、即ち『楞伽経』第九巻の総品の中の頌なり。旧偈には阿梨耶 に依止して能く転じて意識を生ず、心に依る意に依止して、能く転識を生ずと云えり。稍此と別なり。此れに准ずれば前の依において好(よ)き証と為すに足れり。今の文は解すべし。」(『述記』九十五左)

 「此れに准ずれば前の依において好(よ)き証と為すに足れり。今の文は解すべし。」ということは、この『論』の文章は『頌』の前半と後半に分けて第七識の倶有依と前五識の倶有依と第六識の倶有依を示す証拠になる、と理解すべきである、と述べています。前半は「阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、」という部分ですね、第七識の倶有依は第八識であることを示し、後半の「心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得」という部分は、第七識と第八識を倶有依として前五識及び第六識は活動する、という証拠を示しているということになります。

              ―  雑感  ―

 護法菩薩の倶有依についての所論を学んでいるわけですが、ここまでのところを少し整理をしてみます。倶有依は依と区別され、倶有依というからには、決定の義・有境の義・為主の義・取自所縁の義という四義を備えていなければならないといい、これらの四義を備えているのが、内の六処である五根と第六識・第七識・第八識の意根なのですね。

 前五識の倶有依は五色根と第六識と第七識と第八識との識です。『瑜伽論』巻第一に「何等をか五識身と為すや、所謂眼識・耳識・鼻識・舌識・身識なり、云何が眼識の自性なるや、謂く眼に依って色を了別するなり。彼(眼識)の所依とは三有り、倶有依は謂く眼根なり、等無間依は、謂く意根なり、種子依は謂く即ち此れ一切種子を執受する所依にして、異熟に摂めらるる阿頼耶識なり。」との記述があります。五識身は五つの感覚ですね。五識に対して眼覚乃至触覚です。根(五根と意根)が所依であり、識(前五識・第六識・第七識・第八識)は能依になり、同時に存在するので倶有依となるのです。五識身といわれますように、先ず身をもっているということが大前提になります。身をもって感覚器官が働くのです。前五識が働くのは前五識の力ではないですね。第六意識(五倶の意識)が前五識に働きかけて物事を判断したり思考したりするわけです。五感覚器官と倶に働く意識に依って判断思考が行われるのです。そしてその深層に第七末那識が働いているのです。恒審思量といわれる潜在的な利己性が潜んで表層の意識を支えているといわれます。そしてこれらすべての根本に第八阿頼耶識があって、すべての経験を蓄えているのですね。このような重層的な構造をもって前五識は動いているわけです。前五識は身において支えられていますが、その働きは心・心所に依るわけです。所依の第四の条件に「心・心所をして自の所縁を取らしむ」と明らかにされ、所依の条件として、能依である心・心所をして自の所縁を取らしむるということです。

 前五識は、五根と第六識・第七識・第八識を倶有依とし、第六識は第七識と第八識を倶有依とし、第七識は第八識を、第八識は第七識を倶有依とする、と。第七識と第八識の倶有依が人間として非常に大切なことを教えています。「第七識の倶有所依は、但一種のみ有り。謂く第八識なり。蔵識若し無き時は定めて転ぜざるが故に」と説かれ、また、「阿頼耶識の倶有所依も、亦但一種のみなり。謂く第七識なり。彼の識若し無き時には定めて転ぜざるが故に。」と説かれ、深層意識の中で利己性に染汚された識が根本識に蓄積され、染汚されたままの識が表層の意識に伴って前五識が働いてくるのですね。これが迷いの構造になるわけですが、この迷いの構造を知らしめる働きが、法蔵願心ですね。現実的には苦悩を縁とするということでしょうね。苦悩を縁として苦悩なき世界を願う、その願いは利己性からは出てこないでしょう。利己性が利己性を知り利己性を内面から内破る働きが本来自身の中に備わっているのでしょうか。利己性と倶に如来の願心が恒に働いているわけでしょう。いうなれば、阿頼耶識と一体になっている働きではないでしょうかね。迷いの識は迷いの識のままで働いているわけではないでしょう。迷いを知らしめることを通して如来は如来の願心を表現しているのではないでしょうか。具体的には法蔵菩薩の働きであり、法性としては南無阿弥陀仏の御心でありましょう。こんなことを思う事です。


第二能変 所依門 (89) ・ 倶有依 (65) 護法の正義を述べる、その(19)

2011-04-29 16:03:06 | 増上縁依(倶有依)

 ー 六識の倶有依について、その(3) 聖教との相違を会通する。 ー

 「聖教に、唯第七に依るとのみ説けるは、染浄依なるが故に、同じく転識に摂め、近くして、相順せるが故に」(『論』第四・二十左)

 (聖教に第六識は唯第七識に依るとのみ説かれているのは、第七識は第六識の染浄依だからであり、第七識は第六識と同じく転識の一種であり、その理由は第七識は第六識に近いからであり、相順するからである。)

 「述して曰く、染浄依なるを以ての故に、所以は前の如し、一なり。同じく転識に摂む、二なり。近は三なり。相順と云うは、多く意識を引いて染汚の執等を起せしむること第七識に由ってなり。故に相順と言うは倶に計度するが故なり。第八の如きには非ず、四なり。所以に第八をば有る処に説かず。」(『述記』第四末・九十五右) 

 『述記』によりますと、聖教(『対法論』巻第二・大正31・702a22・「意識者。謂依意縁法了別爲性。」)等に第六識の倶有依は第七識のみと説かれ、第八識が倶有依として説かれていないのは、(1)第七識が第六識の染浄依であること、(2)第七識と第六識は倶に転識であること、(3)第七識と第六識が近いこと、「彼の意識の与に近き所依たりという」と。近所依であることを顕します。(4)第七識と第六識は相順するということ、相順ということは、第七識も第六識も倶に計度分別をする識である。即ち第七識も第六識も倶に計度分別があるために我執・法執を起こすので相順という。以上の四義をもって第六識の倶有依としては第八識より第七識が勝れているという理由から聖教には第七識のみと説かれているのであって、第八識が第六識の倶有依ではないということを説くものではない、と述べています。

  •  計度分別(けたくふんべつ) - 三種分別の一つ。三種分別とは、自性分別・計度分別・随念分別をいう。自性分別は現在一刹那の事柄を、随念分別は過去の事柄を思考するのに対して、計度分別は過去・現在・未来にわたる事柄を思考(思い計り推量する)分別のこと。
  •  護法における前五識の倶有依は五色根・第六識・第七識・第八識であり、第六識の倶有依は第七識・第八識であることを説き、次に第七識の倶有依について説明します。第七識の倶有依は第八識であることを論証します。そして第八識の倶有依は第七識であることを説明します。

『唯識三十頌』聴記より

 「第七識は染浄依である。これは、経験は五識と六識で成り立つが、そういう経験には有漏、無漏ということがある。花を見た場合に、私は花を見たと、私がということがつく。だれかの経験である。だれかという色彩「がつく。私の経験は、私というものによって色彩づけられている。私というものは、単なる認識主観でない。もっとふかく行為の主体、意欲の主体である。

 同じ紅葉でも、老人の低徊(ていかい)去り難し、もう一度は逢えぬという思いがある。紅葉がだれの紅葉でもない紅葉はない。愛着をもって色彩づけられている。ものの愛されるのは、第六識でも愛されるが、第六識の場合はものを愛する。けれども紅葉を愛したというが、紅葉において自分を愛している。だから、種々のものを愛することを可能にする愛が無ければならぬ。末那識が染が浄かが、第六識の経験が染か浄かを決定する。それで染浄依という。」

                『安田理深選集』第三巻p30


第二能変 所依門 (88) ・ 倶有依 (64) 護法の正義を述べる、その(18)

2011-04-28 22:51:06 | 増上縁依(倶有依)

 第二に難を会す。五識は第六識の倶有依ではないことを説く。

 「問う、五と倶なるには必ず意有るをもって、五は意を以て依とすといはば、意了するとき五無にあらざれば、五も意が依と為るべし。此の難を釈すらく、」(『述記』)

 (護法は第六識の倶有依は第七識と第八識の二種であると説いているが、五識は第六識を倶有依とし、五識と倶なるには必ず第六識を倶有依とする。五識は第六識を倶有依とするならば、第六識も五識を倶有依とするはずではないのか、という問いです。)

 「五識と倶にして、境を取ること明了なりと雖も、而も定んで有るにあらず、故に所依に非ず。」(『論』第四・二十左)

 (第六識は五識と倶に活動し、境(対象)を取る(認識する)ことが明了であるとはいっても、しかし五識は恒に必ずしも存在するものではないので、五識は第六識の倶有依ではないのである。)

 五識と第六識の関係は分別依としての倶有依です。(4月22日の項参照)、第六識と五識の関係は五倶同縁の意識ですね。第六識は倶有依としての四義を備えているが、五識は間断することがある。独頭の意識の時には五識は間断する。このことは四義の中の決定の義を欠くことになるのですね。よって、五識が存在しないときでも第六識は存在するので五識は第六識の倶有依ではない。しかし、倶有依ではないが(倶有依としても四つの条件を備えていないが)依ではある。

 「(五倶同縁の意識は)五識と倶にして意識明らかに了すと雖も、而も(若し独頭の意識は)定んで有るに有らず、五識無き時にも意識亦有り。故に此に説かず。取って所依と為さざれども是れ依の義有るべし。」(『述記』第四末・九十四左)