
昨日の投稿で、いささか強引なところがありました。僕自身も整理が付かないままに投稿したことお詫びいたします。
「触等亦如是」の後に、「恒転如暴流」(恒に転ずること暴流のごとし)という因果法喩門と伏断位次門がと説かれてきますから、この二門を含めて判断しますと、次のようになります。
例同できるのは、
果相門
不可知門
所縁門
相応門
三性門
伏断位次門
例同できないものは、
自相門
因相門
行相門
受倶門
因果法喩門
となります。
本科段でいいますと、第八阿頼耶識と、第八阿頼耶識と相応する心所である「触等」が「亦如是」というのは、例えば、果相門でみますと、果相門は異熟ですが、異熟と相応する心所も亦、異熟ということなのですね。以下、触等も不可知であり、触等も執受と処を所縁とし、自以外の五法と相応し、無覆無記であり、阿羅漢果において断捨されるものである。
そして、自相門である阿頼耶識と、因相門である一切種と、行相門である了と、受倶門である唯捨受と、因果法喩門である常転如暴流は心王に属するものですから、触等とは例同しないということを明らかにしたのですね。つまり、阿頼耶識の心所を阿頼耶識に例同して、その意義を明らかにしたのです。これは唯だ阿頼耶識陀の問題ではなく、八識全般にわたっての問題になります。八識全体に触・作意・受・想・思は遍行しますから、第七末那識と相応する五遍行は有覆無記であるわけですね。第三能変第六意識になりますと、五遍行は三受(苦・楽・捨)と相応することになります。
悩みが深いほど、触れてる世界が深い。
自分が意識しない世界で、教えられ、仏法に触れた証が、
今、苦悩を縁として華を開かそうとしている。
自分はいつしか他に責任を押し付け、自分の立ち位置を確保したいと思っているけれども、
道理は、理に違するものとして苦悩を与えてくる。
苦悩は理に違することに対する必然の理(ことわり)なのである。
いま、宗祖に出遇い、自分の生い立ちの背景の深さに気づかされる時、
「この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」。
アーラヤ識、迷い識であると共に、純粋無垢なる識として、
迷いの人生に、迷いとともに流転してやまないアーラヤ識。
汝が汝として呼びかけられた声を聞きえる時、
そこに与えられた世界は海一味であろう。
海一味に於いて、流れ出てきた河の染汚に深い悲しみをいただく。
人生とは、悲しみと慶びの紙一重の重なりの中の営みなのであろうか。
明日から御正忌報恩講が真宗本廟で厳修される。
報恩講に出遇させていただける、そこに生まれたことの意義が見出せる。
どんな生きざまであっても、いのちは輝いている。
有難い事である。南無阿弥陀仏。