第三、十遍染師の説
初に遍染の随煩悩は十有ると主張し、二に証を引き、三に理を立て、四に違を会通する。
この科段は初である。
「有義は復た十の随煩悩いい遍く一切の染心と相応すと説くべし。」(『論』第四・三十四左)
(有義(十遍染師)は、また十の随煩悩が遍く一切の染心と相応する、と説く。)
第三師の説を述べています。遍染の随煩悩は十有ると主張するところから十遍染師の説といわれます。即ち第七識と相応する遍染の随煩悩は掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知・邪欲・邪勝解の十であるとします。そしてこの十の随煩悩が遍く一切の染心(不善と有覆無記)と相応するのである、と。
そして、その証拠を挙げて論証します。
「瑜伽論に、放逸と掉挙と惛沈と不信と懈怠と邪欲と邪勝解と邪念と散乱と不正知の此の十は一切の染心に起こる、一切の処三界繋に通ずと説けるが故に。」(『第四・三十四左)
(『瑜伽論』巻第五十八に「放逸と掉挙と惛沈と不信と懈怠と邪欲と邪勝解と邪念と散乱と不正知の此の十随煩悩は一切の染汚心に通じて起こり、一切処三界の所繋に通ず。」と説かれている。)
「述して曰く、下は証を引くなり。五十八巻なり。惛と掉と不信と懈怠と放逸との五種有りと説くは、即ち初の師に同なり。忘念と悪慧と散乱と三種有りと云うことは第二の説に同なり。欲と勝解とを加える故に遍に簡ぶなり。」(『述記』第五本・五十八右)
(注) 初の師は五遍染師の説。第二の説は六遍染師の説を指します。「欲と勝解とを」は邪欲と邪勝解を加えるということ。尚、『瑜伽論』巻第五十八には随煩悩と名づける理由が示されています.
「云何名隨煩惱。略由四相差別建立。一通一切不善心起。二通一切染汚心起。三於各別不善心起。四善不善無記心起。非一切處非一切時。」
(云何が随煩悩と名づくるや。略して四相の差別に由りて建立す、一には一切の不善心に通じて起こり、二には一切の染汚心に通じて起こり、三には各別の不善心に於て起こり、四には善・不善・無記心に起こるも、一切処に非ず、一切時に非ざるなり。)
四相の差別に由って随煩悩と名づけるのである、と。一の不善心に通じて起こるとは、無慚・無愧であり、二の一切の染汚心に通じて起こることは放逸等の十の随煩悩をいい、三の各別に不善心に起こるとは、小の忿等の十の随煩悩であり、「若し一生ずる時は必ず第二無し」と。四には善・不善・無記心に起こる不定の四である。「尋・伺・悪作・睡眠此の四の随煩悩は善・不善・無記の心に通じて起こる」と。