唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (56) 五受相応門 (20)

2014-09-16 22:08:02 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 昨日は、瞋は欲界にのみ存在するので言及されないと述べましたが、瞋はただ不善である。不善はただ我に依存しているのですね。怒りは外を見ていないことが教えられます。たとえ善の怒りであっても自分にとっては腹立たしいことなのですね。

 父の兄弟で末っ子の弟がいるんですが、この叔父が理不尽なことをいってくるのですね。私は理を尽くして説明するのですが、全く聞いてくれません。相続のことなのですが、父の生存中に相続放棄の手続きをし、所有権移転が完了しているのです。この件に関して相続は無効だと言い張るんです。印鑑(実印)を押したこともなく、印鑑証明も挙げたことはない。すべて俺の知らんところで仕組まれたものだ、とね。

 ところがね、裁判所はこの申し立ては受け付けてくれないんです。そうしますとね、電話ストーカーですわ。たとえ法律は申し立て無効かもしれんが、俺は知らんのや。どう説明するんやと。ここですわ、叔父さんの言うことも一理ある、言い分を聞きましょうというとですね、まあ穏やかなんです。しかし叔父さんの知らんところで父が仕組むことなどできないでしょう。まして印鑑証明どうしてあげるんですか、というとですね、もう鬼の形相です。

 たとえ理不尽であっても俺の言うことを聞け、と。これにはまいってしまいます。気に入らんということでしょう。気に入らないから腹が立つ。自分が正義であるという思いがあるんでしょう。これが瞋というものではないでしょうか。自分には分からんけれども、叔父が私の心如実に示してくれているのでしょうね。をこれが不善であり、悪であるということになるのでしょう。瞋は欲界にのみ存在するものであることが頷けるわけです。

 何事も他人事ではないということですね。我は外境を内観し、我の心を外に投げ出し、投げ出された心を我が見ている、それが自己の姿であるということなのでしょう。

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 「余の受と倶起することは、理の如く知る応し。」(『論』第六・十九右)

 「 論。餘受倶起如理應知 述曰。貪等與喜・捨相應在何地。五見・及疑。與餘喜受等相應在何地等。皆令如理知。故言餘受倶等。逐難解已義之餘也。」(『述記』第六末・四十三左。大正43・452b)

 (「述して曰く。貪等の喜捨と相応することは何れの地に在るや。五見と及び疑と余の喜受等と相応することは、何れの地に在るや等、皆理の如く知ら令む。故に余の受と倶なる等と言う。難を逐って解し已る。義の余なり。」)

 前科段に於て説明されていることの外に、喜受・苦受・憂受・捨受の相応については言及されておらず、また慢と疑と五見の七煩悩についても楽受と相応し、色界第三禅までにおいて言えることであり、疑と独行の癡とは欲界では憂受と捨受とのみ相応すると説明されていましたが、喜受等については説明がありませんでした。

 このことに対して、これらの受以外については護法説に則って知るべきであると説明されます。即ち護法正義が示されている文言をもって知られるべきである、ということですね。

 護法の説(正義)

 薩迦耶見と辺執見の倶生起の煩悩は苦受・楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。
 分別起の煩悩は楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。

 分別起(見惑)の煩悩は、瞋以外は三界に通じ、倶生起(修惑)の煩悩も瞋以外は三界に通ずる。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (55) 五受相応門 (19)

2014-09-15 20:13:04 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 本科段より、煩悩と五受が相応する地について説明されます。(「下は倶なる地を明かす。」)

 「貪と癡との楽と倶なることは下の四の地に通ず。余の七が楽と倶なることは欲を除いて三に通ず、疑と独行の癡とは欲にしては唯憂と捨のみなり。」(『論』第六・十九右)

 貪と癡が楽受と相応することは、下の四地(欲界と色界の初禅・第二禅・第三禅)に通じていえることである。
 
他の七つ(慢・疑・五見)の煩悩が楽受と相応することは、欲界を除いて三(初禅・第二禅・第三禅)に通じて言えることである。
 
疑と独行の癡とは欲界では、ただ憂受と捨受とのみ相応するのである。

  •  欲界 - 欲望が渦巻く世界で、有情と器世間から成り立つ(「地獄等の四と、及び六欲天なり、並びに器世間なり、是を欲界と名づく。」)
  •  色界 - 浄妙なる色から成り立つ世界で、四つの天から構成される。初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天で禅天は静慮とも言われる。さらに四つの天は十七の天から構成される(色界十七天)。
  •  無色界 - 勝れた禅定によって成り立つ、色(物質的なもの)の無い世界で、四つの処から構成される。
  •  独行の癡 - 独行不共無明(ドクギョウフグムミョウ)。貪・瞋などの煩悩と相応せず、第六意識と相応して働く無明をいう。尚、末那識相応の無明を恒行不共無明という。

 貪と癡は楽受と相応するけれども、どの地に相応するのかが問われているわけです。先ず貪・(瞋)・癡は欲界の五識に存在し、欲界の五識は楽受と相応する。何故ならば、五識は思い量ることはない純粋な識であるのです。よって五識そのものは無色透明なのですが、その後ろに第六意識が働いていますので、第六意識の働きによって知覚行動が起って、ものごとを判断していくという構造が成り立っているのです。

 本来ならば、五識には貪・(瞋)・癡ということはないはずなのですが、後に第六意識が働いていますから、その影響を受けて貪・(瞋)・癡という煩悩が働いていくと見ていくわけですね。ですから五識に相応する受は楽受のみである、と。

 そしてですね、第六意識には当然、貪・(瞋)・癡が相応し、第六意識は三界すべてに存在する意識で、色界の初禅と第二禅と第三禅で楽受と相応すると云われますから、五識と相応する貪・癡が楽受と相応すると説かれているのですね。ただ、括弧で示しました瞋は欲界にのみ存在する煩悩ですから言及されていないのです。瞋は唯不善であるということですね。また欲界の第六意識には楽受は存在しないのです。

 色界第四禅は捨受とのみ相応しますから、これも言及されていないのですね。

 他の七つの煩悩は第六意識に存在するわけですが、第六意識は色界初禅と第二禅と第三禅に存在し楽受と相応しますから、当然七つの煩悩は楽受と相応するのです。

 疑は第六意識の分別起のみの煩悩であって、倶生起のものではありませんので、極苦処には存在しないのですね。そして五識にも存在しませんから楽受と苦受とも相応しないことになります。ただ憂受と捨受のみと相応すると説かれているのですね。喜受と相応しないのは、欲界において決定出来ない心がそのまま色界にある時には喜受は生じないと云われます。何故ならば、色界のうちの疑は上の静慮を疑っているからである、と。(『対法』の第七に云く、欲界に於て決定せず。心いまだ息まざれば、喜は生ぜざるが故に。」)

 独行無明は疑と同じく、理を以て説いているのです。

 

 


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (54) 五受相応門 (18)

2014-09-11 22:52:36 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 上来は実義門に依って説明してきましたが、下記は麤相門に依って説明されます。この科段は二門に分けられて説明されます。第一段は煩悩と五受との相応について、第二段はその相応する地について説明されます。

 初は、

 「此は実義に依って云う、麤相に随っていわば、貪と慢と四見とは楽と喜と捨と倶なり、瞋は唯だ苦と憂と捨との受とのみ倶起す。癡は五受と皆相応することを得、邪見と及び疑とは四と倶なり、苦をば除く。」(『論』第六・十九右)

 下は麤相を明かす。よって上来は実義門によって説明したものである。麤相門に随って説明すれば、

 麤相門に随うならば、

  ①貪・慢・薩迦耶見・辺執見・見取見・戒禁取見とは楽受と喜受と捨受の三受と相応する。 - 行相唯欣
  ②瞋は、ただ苦受と憂受と捨受のみの三受と相応する。 - 行相唯慼
  ③癡は五受とみな相応する。 
  ④邪見と及び疑とは、楽受・憂受・喜受・捨受の四受と相応する。苦受は除かれる。 - 行相相順

 麤は粗いとく意味ですから、本科段は大雑把(梗概ーコウガイ)に説明すると、

 先ず『述記』の所論から

 「論。此依實義至四倶除苦 述曰。下明麁相有二。初直明倶。後明倶地。此等初也。前據定得今隨相麁。貪・慢・四見行相唯欣非憂・苦倶。瞋唯慼行唯苦・憂・捨倶。邪見・及疑行通欣・慼。不在惡趣及非在五故非苦倶。五十五説。此據多分相應道理。行相相順故。如文可知。」(『述記』第六末・四十一左。大正43・452b)

 (「述して曰く。下は慼行を明かす。二有り。初に直ちに倶なることを明かす。後に倶地を明かす、此れ等は初なり。前には定めて得するに拠る。今は相の麤に随うなり。
 貪と慢と四見は行相唯だ欣(ゴン-よろこぶ)なり。憂・苦と倶なるに非ず。
 瞋は唯だ慼行(シャクギョウーうれう心で苦受と相応する)なり。唯だ苦、憂、捨と倶なり。
 邪見と及び疑とは、行が欣・慼に通ず、悪趣に在るにあらず、及び五に在るにあらず、故に苦と倶なるに非ず。
 五十五(『瑜伽論』)に、此は多分に相応する道理に拠ると説けり。行相が相順するが故に、文の如く知るべし。」)

 実義門とやや説明が違っています。実義門では、貪・瞋は五受すべてと相応すると説かれていましたが、麤相門では、それぞれ三受と相応すると説かれます。

 但し、四の疑と邪見は、分別起の煩悩であり、尚且つ第六意識相応の煩悩でありますから、倶生起に存在する地獄には存在しない煩悩ですので苦受とは相応しません。そして行相が相順しますから、楽受・憂受・喜受・捨受の四受と相応すると説かれています。

 倶生起の煩悩と分別起の煩悩の所在の在り方ですが、もう一度整理をしながら見つめ直す必要がありそうです。再考よろしくお願いいたします。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (53) 五受相応門 (17)

2014-09-09 22:49:27 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 後は、論書を引いて証拠と為す。

 「論に説かく、倶生の一切の煩悩は、皆三の受に於いて現行することを得可しといい、広く説くこと前の如し。」(『論』第六・十九右)

 論(『瑜伽論』巻第五十九。大正30・627c)に説かれている。倶生の一切の煩悩は、すべて三の受(楽受・苦受・捨受)において現行する、と。「すべて三の受(楽受・苦受・捨受)において現行する」と広く説かれていることは、前(巻第五)の通りである。その他は第一師が説かれていることと同じである。

倶生起の一切の煩悩とは、貪・瞋・癡・慢と悪見の中の薩迦耶見と辺執見は、楽受と苦受と捨受において現行すると説かれている。この『瑜伽論』巻第五十九の所論を以て、倶生起の煩悩は苦受と相応する証拠としています。

 尚、分別起の薩迦耶見と辺執見は、苦受を除いた四受と相応するという主張は、第一師と同じ見解であるということです。

 ただし、護法は地獄の第六意識には分別起の薩迦耶見と辺執見は存在しないが、苦受は存在すると云う立場にありますから、第一師の地獄の第六意識には苦受は存在しないと云う立場とはちょっと違いますね。しかし、共にですね、分別起に於る薩迦耶見と辺執見には苦受は存在しないということでは同様であるわけですね。

 第一師の説

 

 薩迦耶見と辺執見の倶生起の煩悩は楽受・喜受・捨受と相応する。
 分別起の煩悩は楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。

 

 護法の説(正義)

 

 薩迦耶見と辺執見の倶生起の煩悩は苦受・楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。
 分別起の煩悩は楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。

 

 「 論。有義二見至苦相應故 述曰。此第二師。分別二見同前。如地獄等極苦之處。無此身・邊分別見故。倶生二見亦苦受倶。在極苦處縁苦蘊故。」(『述記』第六末・四十二右。大正43・452a)

 

 (「述して曰く。此は第二師なり。分別の二見は前に同じ。地獄等の極苦の処の如き、此の身と辺との分別の見無きが故に。倶生の二見は亦苦受と倶なり。極苦処に在って苦蘊を縁ずるが故に。」)

 

 地獄の第六意識には身(薩迦耶見)と辺(辺執見)との分別起の苦受は存在しない。しかし倶生の二見は苦受と相応する。何故ならば、地獄に在っては苦蘊を縁ずるからである。

 

 分別起という問題は、「生きている間」という生の謳歌について語られていることなのでしょう。しかし、「生きている間」という考え方が落とし穴になっていることに気づきを得ないのが分別起の問題なのでしょうね。それが菩提を障えることになりますね。

 

 薩迦耶見と辺執見によって作り出された世界が地獄と呼ばれていますが、倶生起の煩悩の集まりである苦蘊を縁じて地獄を作りだしている。それに反し、菩薩は苦蘊を縁じて大悲を発起するのですね。生きるということのヒントがここに隠されているように思います。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (52) 五受相応門 (16)

2014-09-03 22:50:01 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 護法正義

 「有義は、二の見において若し倶生の者は、亦苦受とも倶なり。純受苦処にして極苦の蘊を縁ずるときには、苦と相応するが故に。」(『論』第六・十八左)

 護法は云う。薩迦耶見と辺執見の二の見において、倶生起のものは、また苦受と倶(相応)である。何故ならば、純受苦処に在って、極苦の五蘊を縁じる時には、苦受と相応するからである、と主張する。

 第一師と護法の主張の違いは、地獄の解釈によります。第六意識は十の煩悩と相応するわけですが、第一師は地獄の有情の第六意識には苦受は存在しないという主張をしています。しかし、護法は地獄の有情の第六意識には苦受は存在するという立場に立ちます。昨日も少し述べましたが、我・我所によって作り上げた世界を地獄というのでしょう。そこには喜怒哀楽は存在するのですが、根底には苦受が相応するということをはっきりさせたのです。何故ならば、独りよがりの世界だからですね。喜怒哀楽も執着から生み出されたものであるわけです。独りよがりというのは、倶生起のものなんですね。分別起はなんとかしようとする思いが強いですから、分別起の煩悩は地獄には存在しないと見抜いたわけですね。

 「論。有義二見至苦相應故 述曰。此第二師。分別二見同前。如地獄等極苦之處。無此身・邊分別見故。倶生二見亦苦受倶。在極苦處縁苦蘊故。」(『述記』第六末・四十二右。大正43・452a)

 (「述して曰く。これは第二師なり。分別の二見は前に同じ。地獄等の如き、極苦処には、この身・辺の分別の見無きが故に。倶生の二見はまた苦受と倶なり。極苦処に在って苦蘊を縁ずるが故に。」)


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (51) 五受相応門 (15)

2014-09-02 21:47:22 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 昨日は、第一師の主張を述べました。ただ第一師の説は、了解が浅いということで、誤りというわけではありません。むしろ、現実的には、身見及び辺見は楽受・喜受・憂受・捨受と倶起するという説は受け入れやすいものですね。

 楽しみが有ったり、喜びが有ったり、憂いが有ったりすることが人間としての営みですから、それが身見と辺見と相応しながら働いているということを知ることが大切なことなのでしょう。いうなれば、煩悩によって、楽・喜・憂という感情が起ってくるわけです。煩悩によって引き起こされたものである。しかし、煩悩によって引き起こされたものはすべて苦であるということ。釈尊は一切皆苦であることを見抜かれたわけですね。

 『観経』には、「唯(ヤヤ)、願わくは世尊、我がために広く憂悩なき処を説きたまえ」と、無憂悩処を韋提希は求めたわけです、しかし仏陀は第七観において「仏、当に汝がために、苦悩を除く法を分別し解説(ゲセツ)したまうべし。」と答えておいでになります。我が身から出る問いというか、求めることは、楽を欲し、喜びを欲し、憂いを除く法を求めているわけでしょうが、その根底にある煩悩具足の身が、煩悩具足のままに救われていくことは、苦悩を除く法を聞くことの他にはないんだということをはっきりさせているわけでしょう。

 蓮如上人が大切になさいました『安心決定鈔』末巻には、

 「『往生論』に「如来浄花衆 正覚花化生」といえり。他力の大信心をえたるひとを浄華の衆とはいうなり。これはおなじく正覚のはなより生ずるなり。正覚花というは衆生の往生をかけものにして、「もし生ぜずは、正覚とらじ」とちかいたまいし法蔵菩薩の、十方衆生の願行成就せしとき、機法一体の正覚成じたまえる慈悲の御こころのあらわれたまえる心蓮華を、正覚華とはいうなり。これを「第七の観」(観経)には、「除苦悩法」ととき、下々品には「五濁の衆生を来迎する蓮華」ととくなり。仏心を蓮華とたとうることは、凡夫の煩悩の泥濁にそまざるさとりなるゆえなり。なにとして仏心の蓮華よりは生ずるぞというに、曇鸞この文を、「同一に念仏して、別の道なきがゆえに」(論註)と釈したまえり。「とおく通ずるに、四海みな兄弟なり」(同)。善悪、機ごとに、九品、くらいかわれども、ともに他力の願行をたのみ、おなじく正覚の体に帰することはかわらざるゆえに、「同一念仏して別の道なきがゆえに」といえり。またさきに往生するひとも、他力の願行に帰して往生し、のちに往生するひとも正覚の一念に帰して往生す。心蓮華のうちにいたるゆえに、「四海みな兄弟なり」というなり。「仏身をみるものは、仏心をみたてまつる。仏心というは、大慈悲これなり」(観経)。仏心はわれらを愍念したまうこと骨髄にとおりて、そみつきたまえり。たとえば、火のすみに、おこりつきたるがごとし。はなたんとするとも、はなるべからず。摂取の心光、われらをてらして、身より髄にとおる。 」

 と述べられてあります。いわば、我・我所を縁として我・我所を翻して「同一念仏無別道故」に生きる者と為らんという願心ですね。「無辺の生死海を尽くさんが為なり」という無私の道心が求められているわけなのでしょう。

 楽ということも、私たちが求めている楽は、少楽といわざるを得ませんね、大楽ではないということです。大楽は慈と言われているわけですが、慈は悲に依るといわれているんです。抜苦与楽という言葉を聞きますが、苦を抜くことが、楽を与えることにつながっているわけですね。善の心所に、不害という心所があります。不害が悲であるといわれています。「害せず」、害は相手に危害を与えることですが、害せず、というところには、相手を尊重する(無条件の愛)が働いているのでしょう。それが怒りをおこさないという無瞋という働きを生みだしてくるものと思われます。無瞋が慈しみであり、大楽を与える働きになるといわれているのですね。

 その大前提が、一切皆苦であるという自覚ですね。こいうところから、護法は第一師を批判してくるのではないかと思っています。

 尚、不害の心所につきましては、2013年の10月19日前後の投稿を参考にしてください。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (50) 五受相応門 (14)

2014-09-01 21:49:33 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 後半は、分別起の薩迦耶見・辺執見と五受との相応について説明されます。

 初めに、第一師の説、後に護法正義が述べられます。本科段は第一師の説になります。

 「分別の二の見は、四の受と倶なる容し、苦と倶成る蘊を執じて我我所なり常なりと為すと、断見の此に翻ぜるとは、憂と相応するが故にと云う。」(『論』第六・十八左)

 本科段は第一師(安慧等)の主張が述べられています。第一師は、分別起の二つの見は、四つの受(楽受・喜受・憂受・捨受)と相応するのである、と。
 何故ならば、極苦処において、苦と倶である五蘊に執着して、五蘊を我・我所と為し、また五蘊を常なりと執するからである。断見が常見と反対のものであるということは、断見が憂と相応するからである、と主張する。

 分別起の薩迦耶見と辺執見は、苦受を除いた、楽受と喜受と憂受と捨受と相応するという立場です。第一師の主張は、極苦処(地獄)にも分別起の煩悩が存在するといいます。倶生起の薩迦耶見と辺執見の二つの見は、ただ喜受と楽受と捨受とのみ相応し、苦受とは相応しないと主張していました。従って、本科段に於いても、苦受は存在せず、苦受を除いた四つの受と相応すると説明しているのです。

 「極苦処に在って、苦と倶なる蘊を執して、我・我所及び常と為す。見は憂と相応す。境は憂うべきが故に、唯不善なるが故に。」(『述記』)

 極苦処の第六意識には苦受は存在せず、憂受が相応すると主張しているのですね。五蘊は仮和合なのですが、実体として有であると執着を起こしているのが、我(我執)・我所(我所執)であり、これは常見ですね。常見は道理に反していますから、道理として憂いを起こすことになり、常見には憂受が相応すると云う主張になります。

 上記は、常見において憂受は相応すると述べていますが、辺執見のもう一つの論題である断見についても説明されています。

 「断見の此に翻ぜるとは、憂と相応するが故にと云う。』という一段です。

 この一文だけでは理解しにくいですが、

 「断見は楽と倶なる蘊を執して断と為す。亦憂と倶なる故に。楽を失せんかと恐るる故に、此に翻じてと云う。」(『述記』)

 断見は、すべてが無くなってしまうという考え方ですから、楽と倶である五蘊に執着し、断見によってこれが失われるという考え方に陥ってしまうわけです。ですから、楽を失うのではないかと恐れる心が憂いを引き起こしてくるのです。よって断見においても憂受と相応するのであるというわけです。

 「 論。分別二見至與憂相應故 述曰。分別二見得四受倶。在極苦處執苦倶蘊。爲我・我所。及常。見者與憂相應。境可憂故。唯不善故。斷見執樂倶蘊斷。亦與憂倶故。恐失樂故。故言翻此。喜・樂等可知。非在五識等故。無苦倶義。」(『述記』第六末・四十一左。大正43・452a)

 (「述して曰く。分別の二の見は四つの受と倶なることを得。極苦処に在って、苦と倶なる蘊を執し我・我所なり、及び常なりと為す。見は憂と相応す。境は憂うべきが故に、唯不善なるが故に。
 断見は、楽と倶なる蘊を執して断と為す。亦憂と倶なるが故に、楽を失せんかと恐るる故に、此に翻じてと云う。喜・楽等は知るべし。五識等にあらざる故に、苦と倶なる義なし。」)

 本科段はまた、無苦倶義と云われています。 

 

 次科段は、護法の正義が示されます。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (49) 五受相応門 (13)

2014-08-27 23:06:14 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 河合師から多くのメッセージをいただきました。ありがとうございます。河合師のコメントを読ませていただき、ふと感じたことがありました。僕は不思議に思っていることがあったんですね。それは、お寺の門を出ると元の木阿弥、「今日の話はよかった」と済ませてしまうことなんです。それは、聞いている、聞く立場の問題なのでしょうが、本人というか、私は、仏法を聞いている、と思っている立場なんですね。

  •  聞いている自分がいる
  • このように聞いたという自分がいる
  • 先生のお話はこういうことだったと解釈する自分がいる
  • 仏法を聞かせていただくと、どんなにか自己中心のエゴで生きているか教えられますね、と聞いている自分がいる

 どうも、ここで止まってしまう、留まってしまうように思われるんです。何故なんでしょうか。「ふと感じたこと」はですね、ここに関係する事なんですが、私たちの知り得る範囲は意識相応なんですね。ですから聞くということも、意識相応なんです。そしていろんな判断を下し、反省をし、仏法を聞いたら、いい人間になれるんや、という錯覚を起こしているんでしょうね。仏法を聞いていると云う錯覚に陥っているんです、ここが問題です。

 でも、私たちは、悪いことをしたら反省もしますし、仏法を聞いたら自己中心的な自分やなあと思います。すべて自分の思いであったと懺悔心も生まれてきますが、それが我愛という染汚心から出たものであることは知り得ないのですね。第六意識での判断能力は染汚心が下したもの、やっぱり我愛から一歩もでることができないような構造を私は持っているということなのですね。

 いうなれば、表層の段階では知り得ることは、深層の働きによって左右されている、それも染汚心という我痴(無明)、私の底に動いている私、この私は絶対に反省をすることはない。すべて自分にとって優位に導き出そうと、時を分かたず、寝ても醒めても自分を愛おしく思いつづけているんだと教えています。

 深層の、無意識の領域は「不可知」と示されているんです。知り得ることは出来ない、と。『摂論』を読みますと、染汚心も阿頼耶識の中で語られているんですが、阿頼耶識は、「無始より来」恒相続されてきたものですが、その阿頼耶識と倶に働いているのが染汚心という末那識であると云われています。

 そうしますと、知り得るはずのない深層の心の領域を、どうして知り得ることが出来るのでしょうか。

 問題としては、

 染汚心(我執)を知る、のではなく。我執を破る働きはどこから生まれてくるのか、ということ。ここに仏教学と仏法の違いがあるようです。学べば知ることは出来ます。しかし、知ってどうなるのかです。破られてこなければなりませんね。仏法に遇うことの第一義は我執を破る働きに出遇うことなのでしょう。

 『成唯識論』に阿頼耶識の自相の定義が、「謂く雑染のために(能蔵・所蔵・執蔵)互に縁と為るが故に、有情に執せられて自の内我と為らるるが故に、此は即ち初能変の識所有の自相を顕示す」と述べられてあります。そして阿頼耶識の因相ですが、「諸法の種子を執持して失せざらしむるが故に一切種と名づく。此れに離れて余の法は、能く遍く諸法の種子を執持すること得べからざるが故に」とですね、すべての現行の因は種子であると明らかにしているんです、そして種子とはですね、「本識(阿頼耶識)の中に親しく自果を生ずる功能差別なり」と教えられています。

 阿頼耶識は無覆無記であり、働きは「恒に転ずること暴流の如し」一時も休むことのない識なんですが、そこに寄り添うように、色を染めてしまう雑染(染汚心)の為に、識が濁ってしまうわけです、それが無始以来だということなんですね。いうなれば我執に覆われているということですね。しかし無記、有覆無記である。ここにですね、なにか大きなヒントがあるように思えるんです。

 それは、無漏種子という仏種、仏性の問題です。ここがはっきりしないと、我執が破られていく構造はわかりません。そして、大乗仏教徒は修行の中で見いだそうと懸命の努力をされたんですね。その結果、己が修行の成果を回向して功徳を得ようとされたんですね。無漏種子は回向と大きく関わってくる問題でもあるんでしょうね。

 「不可知」であると云われながら、「雑染の為に互に縁と為って」迷いの構造が出来上がってくると喝破したわけです。僕は、わかりませんよ、わかりませんが、阿頼耶識には「能」という能動的な働きはありませんが、阿頼耶識がもともと持っている無漏種子の(知り得る)働きを感じられていたんではないでしょうか、そのように思えるんです。それを言葉に表現されたのが、『唯識三十頌』を著され、『浄土論』も著された世親菩薩ですね。「本願力回向を以ての故に」と。本願力回向のもっている本意を親鸞聖人は、『教行信証』に「往相の回向について、真実の教行信証あり」と明言されたのではないでしょうか。

 なかなかはっきりしないんですが、破られていく心と、破っていく力の出遇う場所(邂逅)が本願ではないのかと思うんです。そこにですね、「不可知」であるはずの深層無意識の心の働きが、本願という働きを持って染汚心を破ってくるのではないでしょうか。今日はこの辺にしておきます。 河合さん、ありがとうございました


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (48) 五受相応門 (12)

2014-08-26 22:13:28 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 第四に、薩迦耶見・辺執見の二見と五受との相応について説明されます この二見と五受相応については、二つの説が有り、本科段は第一師の説になります。第二師の説は護法の正義になります。

 第一師の説。

 「有義は、倶生の身と辺との二の見は、但喜と楽と捨との受とのみ相応す、五識と倶なるには非ず、唯無記のみなるが故に。」(『論』第六・十八左)

 有る義(第一師)は、倶生の薩迦耶見(身見)と辺執見(辺見)の二つの見は、ただ喜受と楽受と捨受とののみ相応すると説く。
 (何故ならば)薩迦耶見と辺執見の二見は五識と倶ではない(五識には薩迦耶見・辺執見の二見は存在しないということ。五識と倶なるのは貪・瞋・痴のみである。)からである。また倶生起の薩迦耶見と辺執見は、ただ無記のみのものだからである。

 倶生の薩迦耶見と辺執見の二見は無記であることは、『瑜伽論』巻第五十八に説かれている通りである。

 後半には、分別起の薩迦耶見と辺執見の二見は、四つの受(楽受・喜受・憂受・捨受)と相応すると説かれます。

 本科段は『述記』によりますと、倶生起の薩迦耶見・辺執見の二見は苦受と相応しない、

 「意には苦受無し。五識と倶に非ず、故に苦受無し。」というのが第一師の主張になるということを明らかにしています。

 また、「此の倶生は唯無記性なり」ということを以て憂受と相応しないことを示しています。

 「憂と相応せず、憂は(善・不善の)二性なるが故に。」

 唯無記性(有覆無記)であるということは善・不善である憂受とは相応しないということなのですね。

 本科段の意図するところは、受倶門において述べられているところでもあります。先に投稿しました「受倶門」のコピーを参照してください。

 「第六意識相応の有覆無記性の薩伽耶見と相応するのは憂根ではない。憂根は無記ではない。」

 という意味から、薩迦耶見・辺執見の二見は、五識と倶に非ずという理由から苦受とは相応せず、無記性という点から、憂受とも相応しない、従って、相応するのは、喜受・楽受・捨受のみと相応するのであると主張しているのですね。

 次科段は、分別起における五受との相応について説かれます。


第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (47) 五受相応門 (11)

2014-08-25 22:45:23 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 邪見と喜受の相応については、これもですね、邪見は因果撥無の見と云われていますように、悪を為しても、果として苦は生じないという因果の否定の上に、邪見は喜受と相応するんだ、と云われているのですね。悪因苦果の否定ですね。「本願ぼこり」とはこういうことを言っているのではないですか。
 昔のことですが、「悪人を救うのが真宗の本義であろう。ならば、あの悪人を救ってあげるのが我々の役目ではないのか。」とうそぶいておられた方がおられましたが、まさに邪見が喜受と相応することを証明されていたようですね。造悪無碍という考え方ですね。

 

煩悩の恐ろしい処は、煩悩は次の瞬間に引き起こされてくる果を否定しているということなのではないかな、と思うんですね。とにかく今の欲望を満足させ、つぎに起こるであろう果を考えないというところに悲劇性があるんだと思います。ある意味、人生のスパーンを長い時間の中で思考することも邪見ですね。ですから、喜受というのも、苦受の上に立てられた楼閣のような、夢幻のようなものでしかないんですね。

 

今日は、第二の、見取見と戒禁取見と憂受との相応について考えてみます。

 

「二取は若し憂と倶なる見等を縁じて、爾の時に憂と相応することを得るが故に。」(『論』第六・十八左)

 

二取は、見取見と戒禁取見ですが、此の二取が憂受と相応するというのは、この二取は、憂と相応する見等(見と戒と所依の蘊)を縁じる時に、憂受と相応するからである、と。

 

見取見は、前にも述べていますが、誤った見解を自己の見解とし、その見解が正しいものとしている人は、誤った見解を、最も勝れ、かつ清浄な涅槃を得る原因となると考える見解です。戒禁取見もですね、誤った戒を正しいとし、その戒に基づいての規範ですね。これも、涅槃に至る道として遵守するわけです。しかし、どちらも誤った見解ですから、涅槃は得られないのですね、そうしますと、涅槃に至る道だと思っていたのに、涅槃が得られない時、そこに生れてくる感情は憂受なのです。誤った見解の結果は憂受ということになりますね。

 

正見でないと、満足が得られないということなのです。「能令速満足」と『浄土論』に頌われていますが、この「速」ですね、「速」でないとそこには分別がさしはさんでくるんでしょうね。親鸞聖人は、この『頌』の意味をですね、

 

「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とのたまえり。この文のこころは、仏の本願力を観ずるに、もうおうてむなしくすぐるひとなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむとのたまえり。「観」は、願力をこころにうかべみるともうす、またしるというこころなり。「遇」は、もうあうという。もうあうともうすは、本願力を信ずるなり。「無」は、なしという。「空」は、むなしくという。「過」は、すぐるという。「者」は、ひとという。むなしくすぐるひとなしというは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。「能」は、よくという。「令」は、せしむという、よしという。「速」は、すみやかにという、ときことというなり。「満」は、みつという。「足」は、たりぬという。「功徳」ともうすは、名号なり。「大宝海」は、よろずの善根功徳みちきわまるを、海にたとえたまう。この功徳よく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに、とくみちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつがゆえに、大宝海とたとえたるなり(『一念多念文意』真聖p543)

 

と教えておいでになります。種子の六義の一番目が「刹那」であるといわれているのですが、間隔を入れずということが種子の意義なのですね。本願力が種子とし、現行の果が功徳大宝海で、因果同時である、ここに、「むなしくすぎることのない」人生が開かれてくるのでしょう。

 

     本願力にあいぬれば
       むなしくすぐるひとぞなき
       功徳の宝海みちみちて
       煩悩の濁水へだてなし (『高僧和讃』真聖p490)

 

 坊主バーのカクテルに、功徳大宝海というメニュがあるんですが、「本願力にあいぬれば」がキーポイントになりますね。もっと厳しくいいますと、仏法に遇えばいいのか、そうではないんだ、本願力に遇うということなんだ、ということなのでしょう。こういうところが教相というものではないでしょうか。

 

 もう一つ、「遊煩悩林」というカクテルもあるんですが、これもやはり「本願力にありぬれば・・・・煩悩の濁水へだてなし」と云われているのですね。本願力が主体になりますね。

 

 『浄土論』には、

 

 「出第五門というは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園・煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに、これを出第五門と名づく。」

 

 『教行信証』信の巻の御自釈に、『浄土論』を承けられて、

 

 「真に知りぬ。二河の譬喩の中に、「白道四五寸」と言うは、「白道」とは、「白」の言は黒に対するなり。「白」は、すなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。「黒」は、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善なり。「道」の言は、路に対せるなり。「道」は、すなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃無上の大道なり。」

 

 と釈されています。「無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善」は「白道即ち、本願力ですね、その本願力によって見出されてきたもの、本当の自己に出遇ってみれば、雑染であった、しかし、雑染は本願に出遇ったという喜びに他ならないんですね。

 

 功徳大宝海も、遊煩悩林もですね、私が起こすものではない、いうならば、私が起こすにも起こしようがない絶望の淵から輝いてくるものでしょう。教えに触れ、教えに自己を尋ね、自己を聴く歩みが、自己に絶望するんでしょう。絶望の淵に燦然と輝きを放っていたのが本願力であった、という感慨なのではないでしょうかね、ここに頭が下がってくるのでしょう。