昨日は、瞋は欲界にのみ存在するので言及されないと述べましたが、瞋はただ不善である。不善はただ我に依存しているのですね。怒りは外を見ていないことが教えられます。たとえ善の怒りであっても自分にとっては腹立たしいことなのですね。
父の兄弟で末っ子の弟がいるんですが、この叔父が理不尽なことをいってくるのですね。私は理を尽くして説明するのですが、全く聞いてくれません。相続のことなのですが、父の生存中に相続放棄の手続きをし、所有権移転が完了しているのです。この件に関して相続は無効だと言い張るんです。印鑑(実印)を押したこともなく、印鑑証明も挙げたことはない。すべて俺の知らんところで仕組まれたものだ、とね。
ところがね、裁判所はこの申し立ては受け付けてくれないんです。そうしますとね、電話ストーカーですわ。たとえ法律は申し立て無効かもしれんが、俺は知らんのや。どう説明するんやと。ここですわ、叔父さんの言うことも一理ある、言い分を聞きましょうというとですね、まあ穏やかなんです。しかし叔父さんの知らんところで父が仕組むことなどできないでしょう。まして印鑑証明どうしてあげるんですか、というとですね、もう鬼の形相です。
たとえ理不尽であっても俺の言うことを聞け、と。これにはまいってしまいます。気に入らんということでしょう。気に入らないから腹が立つ。自分が正義であるという思いがあるんでしょう。これが瞋というものではないでしょうか。自分には分からんけれども、叔父が私の心如実に示してくれているのでしょうね。をこれが不善であり、悪であるということになるのでしょう。瞋は欲界にのみ存在するものであることが頷けるわけです。
何事も他人事ではないということですね。我は外境を内観し、我の心を外に投げ出し、投げ出された心を我が見ている、それが自己の姿であるということなのでしょう。
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「余の受と倶起することは、理の如く知る応し。」(『論』第六・十九右)
「 論。餘受倶起如理應知 述曰。貪等與喜・捨相應在何地。五見・及疑。與餘喜受等相應在何地等。皆令如理知。故言餘受倶等。逐難解已義之餘也。」(『述記』第六末・四十三左。大正43・452b)
(「述して曰く。貪等の喜捨と相応することは何れの地に在るや。五見と及び疑と余の喜受等と相応することは、何れの地に在るや等、皆理の如く知ら令む。故に余の受と倶なる等と言う。難を逐って解し已る。義の余なり。」)
前科段に於て説明されていることの外に、喜受・苦受・憂受・捨受の相応については言及されておらず、また慢と疑と五見の七煩悩についても楽受と相応し、色界第三禅までにおいて言えることであり、疑と独行の癡とは欲界では憂受と捨受とのみ相応すると説明されていましたが、喜受等については説明がありませんでした。
このことに対して、これらの受以外については護法説に則って知るべきであると説明されます。即ち護法正義が示されている文言をもって知られるべきである、ということですね。
護法の説(正義)
薩迦耶見と辺執見の倶生起の煩悩は苦受・楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。
分別起の煩悩は楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。
分別起(見惑)の煩悩は、瞋以外は三界に通じ、倶生起(修惑)の煩悩も瞋以外は三界に通ずる。