唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

大坂坊主BAR staff日誌 (3)

2015-01-31 21:19:40 | 大坂坊主BAR staff 日誌
 
 昨日は午前中は雨、そしてとても肌寒い日でした。坊主BARには月に三度位入らさせていただいています。いろんなジャンルの人がお見えになり、質問等も多岐にわたります。迂闊な受け答えは出来ませんが、できるだけ自分にとって解る範囲で応答させていただき、勉強させていただいています。
 『スカット念仏』の著者でもあり、小松大谷高校の教諭でもあられます河合清閑師が、関空からインドネシア・バリ島の仏教遺跡を訪ねられる途中に立ち寄ってくださいました。いつも明るく無邪気な性格の師には華やかさと、人を魅了する両方を兼ね備えた魅力ある方ですね。昨日ももう一度真宗を勉強したいんや、と仰っておられましたが、飽くなき探求心といいますか、菩提心ですね。素晴らしいですね。
 菩提心は平易な言葉で表現しますと、「何故生きているんや」を問う歩みだと思いますね。今です。仏教では現行していると捉えますが、現在行じている、命は働いている、その意味を問うことだと思っています。今において、「生まれてきた意味」と、今において、「死することの意味」が見いだせてくるんではないでしょうか。
 
 そして昨日はもうひとかた、素晴らしい人にお会いすることが出来ました。僕にとってはたまたまの御縁なのですが、河合師がFB友達の大竹淳司様をお連れ下さいました。大竹氏は宗教全般に通じられ、その中から真宗はほんまもんや、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」、親鸞には立教開宗の意志は微塵もなかったことに敬服し真宗の教えを聞いていますと仰っておられました。金融関係のお仕事をされ、文楽や大衆演劇に精通されている多彩な方で、在野にはこのような方がおいでになるんやなぁと、改めて聖教に向き合わなあかんなと強烈な刺激を受けました。ありがとうございました。
 それからもう一つ、坊主BARにいく楽しみがあるんです。俗なことで失礼しますが、お昼をいただいてから23時過ぎまではお腹がもたないので、坊主BARに向かう途中で食事をいただきます。これが楽しみなんです。不謹慎ながら少々お酒も入ります。昨日は園田君ともつ鍋をいただきました。天六交差点西側の河野工務店が入居されていますビルの一階の博多もつ鍋屋さんです。こじんまりとした店構えで愛想のいい御夫婦かな?で切り盛りされている店でしたがとても美味しかったです。もつ鍋はこの店できまりです。乄のうどんも美味しかった。出汁がいいんでしょうね。ひれ酒ののどごしたまりませんね。 

 

初能変 第二 所縁行相門 (13) 有根身 (1)

2015-01-29 21:42:34 | 初能変 第二 所縁行相門
 本科段は「有根身を解す」一段になります。略解において「有根身とは謂く諸の色根と及び根依処とぞ」を明らかにした上で、「執受と及び処とは倶に是れ所縁なり。阿頼耶識は因と縁との力の故に自体の生ずる時に、内には種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。」と釈されていました。
 第八識が変為したものの所縁は種子と有根身とである。種子と有根身は自らのものですから執着があるわけです。身と離れないものですから執受と云っています。もう一つの所縁は器です。器世間を変為している。外界です。外界も第八識が変為したものですが、器には執受はありません。器は共通したもの、共中の共になります。
 所縁は、第八識が変為したもの、「識体転じて二分に似る」、所縁は認識対象で相分。認識するものは見分、認識対象があるのは認識するものがあるということになりますね。それが種・根・器であるのです。第八識の具体相は主・客の関係で働いている。相分・見分の形で起っているのですね。見分は行相である。行相とは了別することであると釈されていました。行相と所縁の中の処と種子については昨日までに述べてきましたが、今日は有根身について考察することになります。
 有根身とは、「根を有する身」ということですが、五根より成る肉体は五根の集合体として第八識が変現したもの、自らの肉体は自らの因縁変によって変現せられたものということになります。種子生現行、人間としての果報が因であるところの善・不善の業によって人として現行している。自らの業の結果としての五根と五根を支えているり依り所の集合体である。例えば眼根が生ずる依り所となる根で、所依の根と云われています。色根そのものは不共中の不共、所依の根(根依処)は不共の共である、と。
             不共中不共 - 眼根等の如し。(色根・五根を勝義根と云う。)
     不共種相 〈
             不共中の共 - 自の扶根塵の如し。(五根の所依処で根依処と云う。)
 「身とは総名なり。身の中に根有るを以て有根身と名く。此の中に言う所の不共相の種とは、若し前説の如くならば、不共中の不共なり。自に即する根の如くなり。不共中の共とは身に在る色等の如し。」(『述記』第三本・七十一右)
 有情の身体は第八識の因縁力によって変為するところである。再論しますが、即ち過去の善・不善の業の因縁力に随って、五趣の在り方が決定されてくるわけです。また同一の趣であってもそれぞれに区別がありますのも過去の因縁の勢力に従って趣を異にすることになるのであると言っています。
 本文に入る前に概略を示しておきます。表面的にはこのように述べていますが、何故このような説き方になるのか考えて見る必要がありそうです。生現行は無覆無記であるということがヒントになるように思えてなりません。私は私の身において、私の境遇を引き受けていくことが出来るのであることを教えているようです。善導大師が「信心の業識」とはっきりさせられましたことも頷けることが出来るようです。自らは自らの業を引き受けて現世に生を得たことの信知が真実信と云われているのでしょう。
 「良に知りぬ。徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。」(『行巻』真聖p190)と。

初能変 第二 所縁行相門 (12)  無漏種子 (2)

2015-01-28 21:17:04 | 初能変 第二 所縁行相門
 唯識性についての学びです。三性がでてまいります。三性は、遍計所執性・依他起性・円成実性ですが、この三性についての注釈です。
 『論』の注釈によりますと、遍計所執性は虚妄である。自分の計らいで捉えているだけのもの。自分の計らいで捉えたものは虚妄だ、しかし、いうなれば裏付けがない。自分の無手勝流だ、と。でも、そこに貫く真実が働いている、それを諸法の勝義である勝義無性即ち円成実性であるということですね。これが真実だと。真実は虚妄を通して触れていく世界。虚妄も真実も依他起性であるならば、虚妄が有り難い。虚妄に手を合わせることに於いて真実に触れていくのでしょう。そこに阿弥陀の本願は確かに働いていますね。本願に頷いた時、「摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」。利益ですから、無上涅槃のの益ですね。虚妄が転じて真実に生き得る道が開かれる、頷けば、開かれていたことに気づきを得るのでしょう。そこを「唯識の実性なり」と云っているのではないでしょうか。唯識性と唯識実性、なんと含蓄のある言葉ではないでしょうか。
 先程は阿弥陀の本願といいました。阿弥陀の本願はどこに働いているのか、唯識は本性住種姓と云っているように思います。護法合生義に於いて少し触れていました。本有種子を本性住種というのだと。「一には本性住種姓、謂く無始より来た本識に依附し法爾に得る所の無漏法の因なり。」 人間の中には本来的に備わっている無漏法の種子が宿っているんだ、そういう性質が有ると見出したわけですね。経典には何の説明もされていませんが、私たち人間も含めて命ある存在は、無漏法の因が阿頼耶識の中で働いているということになりはしないのかと思います。それは働き(用)ですから不離識なんですね。無漏種子も識に離れずということに違わないということになります。
 元に戻りますと、無漏法の種子はどうなのかというといに対して、無漏法の種子は凡夫であっても、菩薩であっても第八識に依附している、依附しているものですから、第八識が変現したものではなく、所縁となるものでもない。従って第八識の有漏法に摂められるものではないということです。しかし「所縁に非ずと雖も而も相離せず。真如の性の如く唯識と云うに違せず。」。所縁ではないけれども相い離れたものでもない。真如は第八識に離れずに働いている。有漏でもなく、第八識が変現したものでもないが識に離れてあるものでもない、ということを明らかにしたのです。
 この辺の事情を『述記』は「識に離れざるに由るが故に唯識と言う。此の意は即ち是れ識に離れて外に別に実物有るものに非ざるが故に。真如性の識変ぜずと雖も、識に離れて外に無し。故に唯識と名ける。唯識は但だ心外の法を遮する故に。」と釈しています。
 自分の外に何らかの対象を立ててそれが実に有ると思う、その心を心外の法といい、そのような対象はすべて心の外に想定された虚妄なるものであって、実の法ではないといいます。依他起性なんですね。依他起を執すると遍計所執になる、それが虚妄ということです。依他起そのものが円成実性という真実である。
 ここは何を言わんとしているのかですが、一言で云うと、「執」ですね。執我から離れなさい。執している限り、本願も自分の手柄にしてしまいますよ。私たちは一生涯執我から離れることはできないけれども、善き人を通して教えに遇い、命と共に働いている阿弥陀の本願に頷きを得る時、「摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」 という大般涅槃の証しを得るのではないでしょうか。親鸞聖人は、康元二歳丁巳二月九日夜 寅時夢告云に「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」と超証されています。

初能変 第二 所縁行相門 (15) 無漏種子について (1)

2015-01-25 23:19:54 | 初能変 第二 所縁行相門
 それでは無漏法の種子は所縁となり得るのか、なり得ないのか?(有漏れ法の種器は所縁となり得るということを受けまして、無漏法の種器にちて問いを出しています。)
 「無漏法の種は、此の識に依附(エブ)せりと雖も而も此の性に摂めらるるに非ず。故に所縁に非ず。」(『論』第二・三十一右)
 無漏法の種子は、第八識に依附しているといいます。種子が所依とするところ、即ち阿頼耶識に存在していると説明しています。有漏・無漏を問わず、阿頼耶識の中に依附している、無始以来ですね。凡夫・菩薩を問わずです。第八識に依附しているわけですから、第八識が変現したのでもなく、所縁となるものではない。
 無漏法は能対治法である。有漏法は所対治法であるということなのですが、所対治は対治されるもの、有漏は断じられるものであって、断じるのは能対治法である無漏法ということになります。即ち無漏法に触れて初めて有漏が自覚され、無漏法に導かれて有漏が対治されるということなのですね。私が私の意志で有漏で有る所の煩悩を断ずるというのではないのです。私の意志で煩悩を断ずることは不可能だと教えているんです。対治するものでありますから能であって所ではないのです。従って『述記』には「識を対治するが故に、体性異なるが故に、相順せざるが故に、故に所縁に非ず。」(『述記』第三本・六十七左)と釈しています。有漏の第八識は有覆無記性であって、無漏は唯善性(無覆無記)でありますから相順しない。これは無漏種子は有漏第八識の性に摂められるものではない、従って有漏第八識の所縁ではないといいます。
 諸の種子とは、有漏第八識の所変であり、そして所縁であるすべての有漏の善悪等の諸法の種子をいうのであると結論ずづけています。
 ここで一つ問題が提起されます。
 唯識の定義は、一切不離識とか万法唯識といわれています。すべては心を離れては存在しない、ということなのですが、「心に離れない」と聞きますと、心は有ると捉えます。よく言われることですが、心のもちようだと。唯識はそうはいいません。心が有ると考えてもいけない。有とは実体化ですね。実体化の否定が唯識の性であるわけです。刹那滅という表現は心の有り様を的確に言い当てているようです。
 『法相二巻鈔』には、「心ヲ執シテ実ト思モ又迷乱ナリ、心ヲ執シテ心ノ外ニ置ク故ニ。空ヲ執シテ実ト思モ又迷乱ナリ、心外ニ空ノ相ヲ見ルガ故ナリ。此故ニ心ノ外ニ有リトヲボユル相ハ、色モ心モ有モ無モ皆悉ク実ノ法ニ
非ズ。
」「実にあるもの」ではなく、有るのは有・無という言語化された概念だけにすぎないと唯識は説きます。
 問題は、執する心なんです。執する心は迷乱であるということですね。「すべては心を離れては存在しない」と聞きますと、離れない心が有るんだと聞いてしまうのですね。良遍は「(なぜ迷乱かというと)心に執着して心を心の外に投げ出して心は存在する、或は事物は存在すると考えるのは迷乱である。」と云っているのですね。実に体あるものではない、ということです。しかし、この迷乱が大事なキーワードなんです。
 本頌の第二十五頌を見ていただければいいと思いますが、そこには唯識性が語られています。第二十頌・第二十一頌・第二十二頌で三性説が説かれます。それを受けて(若し三性有りと云わば、如何そ世尊一切法は皆自性無しと説き玉えるや。頌に曰く)第二十三頌・第二十四頌で三無性が明らかにされるわけです。「この性は即ち是れ諸法の勝義なり。是れ一切法の勝義諦なるが故に。」この性とは、円成実の勝義無性である、と。この勝義無性を釈して、第二十五頌ですね。「此れは諸法の勝義なり。亦は即ち是れ真如なり。常如にして其の性なるが故に。即ち唯識実性なり」
 「此の性は即ち是れ唯識の実性なり。謂く唯識の性に略して二種有り。一には虚妄。謂く遍計所執。二には真実。謂く円成実性なり。虚妄を簡ばんが為に実性と云う言を説けり。」(巻第九p3)
      虚妄 - 遍計所執性
      真実 - 円成実性
 復た二性有り。一には世俗。謂く依他起。二には勝義。謂く円成実なり。世俗を簡ばんが為の故に実性と説けり。」
      世俗 - 依他起性
      勝義 - 円成実性
 本科段はもう少し詰めて考えなければならないと思います。 (つづく)

初能変 第二 所縁行相門 (14) 種子について

2015-01-25 14:37:05 | 初能変 第二 所縁行相門
 
 諸の種子とは、つまり」異熟識が持する所の一切の有漏法の種子である。異熟因・異熟果という、時を異にして生じた果を異熟、因が熟したという果ですね。この人間界に生れたのは、人間界に生れようとした因が生れたという果を引き起こしてきたのです。自らの因が自らの果を生み出した。自分が生れようとした意思が、この世界を選んだというわけです。分別をしていますから無漏法というわけにはいきません。有漏法の種子が開花した。その場所が人間界を選んだということになります。異熟識が変為した所の種子、第八識中にあるところの諸法生起の功能であって、これは因縁の力によって第八識自体分に摂められる功能ですね。第八識の中に自らの因によって自らの果を引き出すパワーを種子とよんでいるわけです。自体分が転じた所の所縁になります。
 しかし、人間に生れるには人間に生れる善業が不可欠になりますが、私たちは三悪道を離れて人間として生を受けたという事実があります。異熟因は善か悪(不善)なのですが、人間に生れたのは、人間として生まれようとした意思決定が過去世に善業を積んできたということですね。善・悪の業果が異熟果であり、果は無記性である。悪業の果としては三悪道ですね。地獄・餓鬼・畜生という境涯です。境涯ですから、たとえ人間として生を受けたとしても、三悪道に転落する可能性は大いに有ります。悪道の因の最たるものは謗法です。それと五逆です。これに由って人間性を喪失していきます。
 ここには大きな問題が孕んでいると思います。因から果へは、願うという意思が働いています。願って生まれた。願生です。願生が因となって生を得たということですね。果が因となりますから、因は願生です。「普共諸衆生 往生安楽国」という願に生きる者とならんという願に生きるのが、人間として生をうけた者の勤めであるということになると思います。ここをはっきりしないと生きることがぼやけてきます。有漏から無漏へ、
 異熟識は有漏法であるということですが、異熟識が変現する所の種子も有漏、有漏法の種子、だから所縁とすることが出来る、第八識の所縁となり得るわけですね。つまり、第八識見分の所縁となりますから、また第八識の相分中に摂することになります。
 次科段は、では無漏法の種子は如何なるものなのかという問いに答えています。

初能変 第二 所縁行相門 (13)

2015-01-24 21:29:12 | 初能変 第二 所縁行相門

  友が今日はデーとです。喜ばしい反面羨ましいという一面も有ります。しかし恋が成就するといいなと思います。美味しそうなスイーツ、目で楽しんで御馳走様です。
 昨日の投稿に笹栗様がコメントを寄こしてくださいました。ありがとうございます。何故唯識を学ぶのかの原点は『群朋響命』に書き記しています。よろしければお目通しいただければ有り難いと思います。
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 「諸の種子は謂く異熟識が持する所の一切の有漏法の種なり。此れは識の性に摂めらる。故に是れ所縁なり。」(『論』第二・三十左)
 諸々の種子は異熟識が保てるところのすべての有漏法の種子である。つまり異熟識の所変としての種子であり、これは有漏法の種子になる。何故ならば、阿頼耶識が有漏法であるからである。阿頼耶識の果相が異熟識と云いますが、自相は阿頼耶識で異熟能変識である。この異熟能変識の体は三相(自相・果相・因相)同時の異熟の七地以前におさめ八地以上に通ぜざるものである。阿頼耶識は七地以前までをいうわけです。八地以上仏果までは異熟識。まだ大円鏡智を得ていない位です。ですから有漏の識である。煩悩を断滅していない位です。しかし、業報の果としての身はもっているが、受けた果報を恨むことなく、果報を縁として菩薩道を歩む存在なのです。生まれたのは業果です。異熟因の果、因果関係ですから因縁なんですね。生まれたということは、私が願って生まれたということになりますね。「自の業識」です。そこを転じて仏果を得るということになりましょうかね。僕は、人間が此の世に生を受けたというのは仏になるために生れて来たと思うんです。仏とは、自分が本来の自分に出会えたということだと思います。自らが自らの意志で生まれ、仏に成る道を歩む存在が有情(衆生)という存在である。その過程は有漏であるということですね。有漏を縁とする、有漏を縁とすることなくして仏果は得られないということだと思いますね。体は本識、種子は用きであるわけです。つまり諸の種子は所縁・相分であるということになります。
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初能変 第二 所縁行相門 (12)

2015-01-23 22:08:05 | 初能変 第二 所縁行相門
 阿頼耶識の所縁について、先ず広く処について説かれていました。処とは、器界(器世間)のことですが、器世間は阿頼耶識が変為した所縁である。能変に対する所変、所変を以て自の所縁と為す、と。「阿頼耶識は因と縁との力の故に、自体生ずる時には内には種と有根身を変為し、外には器を変為す」。説明しますと、それぞれが異なっているように思うのですが、一つの事柄のあらゆる側面は同一時間に於いて生起することを表しているのですね。具体的には現行です。現行は果になりますから、阿頼耶識の果相は異熟です。異熟において現行している。その背景に因があるわけです。私を成り立たしめている背景ですね。無始以来というのは成劫で押さえられていました。私の命は無始以来の因を以て産声をあげたのです。産声をあげた時に、無始以来の因は果につながっているのですね。果が因を証明したわけです。異熟は無覆無記ですから、純粋透明な識なのです。因は悔やんでも悔やみきれない様々な我執に覆われているのでしょうが、身が引き受けている現在は無色透明であるということに驚きをかくせません。なんと素晴らしいことでしょうか。しかし、過去を悔やみ、後悔の念にさいなまされるのは現在を引き受けることができない愚かさであるのでしょう。どこまでも我執の深さを教えられるばかりです。
 略説では「執受と(処)とは倶に是れ所縁なり」と。執受は種子と有根身です。種子について再論されます。種子の定義は「本識の中にして親しく自果を生じる功能差別」であると云われていました。行相は了別である。阿頼耶識の働きはあらゆるものを区別しているのと一にして、種子もあらゆる経験を区別して、種子とし阿頼耶識の中に熏習しているわけです。同時因果と云われている所以です。体は阿頼耶識で種子は用になります。
 即ち、第八識は種子と有根身とを執持して自体とするものである。第八識は能執受、種子・有根身は所執受という関係ですね。所執受というところから所縁であり、能縁の用はないわけですから、第八識の見分の所縁となるわけです。所縁即ち相分です。
ここで種子を細かく分析しているのです。諸の種子というのは、異熟識の所変としての種子であり、此の種子は有漏法である。有漏法の種子である。何故ならば、阿頼耶識は有漏法であるからである、と。無漏の識は仏のみと云っているわけです。第七地までが阿頼耶識、第八地已上仏果までが異熟識、仏は一切種子識。仏果は大円鏡智という智慧のあらわれですが、異熟識という場合は業報の果ですね。有漏の業果、所謂、因は是れ善か悪、果は無記、この無記が異熟識です。仏果に至るまでの菩薩は業報の果としての体を持っているわけです。業の果報としての身をもっている。業の果報を縁として仏道に向かうのか、業報を受けることができずして、恨みをもって生きていくのか、不足だらけの人生を送るのかの分岐点になるわけですね。業報の果を他の責任として遍計所執するのか、業報の果を自らの責任として依他起の身を生きるのかが問われているわけです。
 本文は明日から記載します。

初能変 第二 所縁行相門 (11) 処 (11)

2015-01-22 21:43:10 | 初能変 第二 所縁行相門
  「故に器世間の壊せんとする時にも初に成ずる時も有情無しと雖も、而も亦現に有り。」(『論』第二・三十左)
 故に、器世間が壊する時、又は初に成ずる時、壊劫の時には、この世界が段々に壊れてやがて有情が存在しなくなる。また、成劫の時にも、この世界が未だ成立していないわけですから、この欲界には有情が存在しない。けれども他方世界の欲界に有情が存在するならば、その有情が器世間を変為することができるのである、と。
 ここに問いが出されます。
 若しそうであるならば、
 「若し爾らば、人は水と見、鬼は火と見るが如き、その火の外器をば人何が故に見ざるものを而も共変と名づくるや。」(『述記』)
 餓鬼が火と見るものを人は火と見ないのは何故なのか? この問いに答えて次科段は開かれます。
 「此れは一切の共受用の者を説く。若し別受用ならば此れに准じて応に知るべし。鬼・人・天等の所見異なるが故に。」(『論』第二・三十左)
 これは、一切の共受用(共通に享受するもの)について、即ち共中の共のものについて答えているのである。若し、別の受用ならば、人・天・餓鬼・畜生の所見は異なるのである。一水四見の喩と同様の摂理を以て答えています。人間は人間の阿頼耶識を以て器世間を変為し、畜生は畜生の阿頼耶識を以て器世間を変為しているのですね。共中の不共である。
 ここで処についての所論は終わります。次科段からは、広く執受についての所論が展開されます。初に種子について、後に有根身について述べられます。

 
 

初能変 第二 所縁行相門 (10) 処 (10)

2015-01-21 20:55:23 | 初能変 第二 所縁行相門
  八尾別院大信寺本堂 
 「是に由って設ひ他方の自地に生ずれども、彼の識いい亦此の土を変為することを得。」(『論』第二・三十左)
 これに由って正義を述べるならば、設え他方世界という、三千大千世界の外の世界という途方もなく遠いところの自地であっても、もしそこに生ずると云うことがあるならば、彼の異熟識は他方世界を変為するのである。何故ならば、その地で色身を依持し、身を受用するわけですから、その地を変為することが出来るのである、と。
 自地とは、同じ欲界であれば。彼の異熟識は他方世界の欲界の器界をも変為するのであるということです。
 『述記』には、「現に居せる身に同なる他の三千界所依の処を説いて當地と名づく。彼の當地の一切の有情皆能く之(欲界)を変ず。唯是の一千界のみ変ずるに非ず。亦異地(上地)にして當に(下界に)生ずる者も(欲界を)変ずるにも非ず。(此の方の)欲界と(彼の方の)欲界と同なり。乃至上も亦爾なり。」(『述記』第三本・六十五右)
 仏教の世界観と云うのはすごいですね。私たちの住んでいる処は欲界なんですね。生まれた処は欲界という欲望が渦巻いている世界であった。そこにに身を置いたわけです。しかしまだ見ぬ世界であっても、他方世界の欲界を変為することが出来るといっているんです。これは外界の世界があって変為するのではない、異熟識が変為するんだということなんです。いつの日かですね。、私たち人類は宇宙の彼方で暮らすことが有るかもしれませんが、宇宙の彼方が有るわけではないんです。そこを処とする場合には色身を依持し受用することがあって土が変為する。同時なんです。同時に生れるということなんです。異熟識に離れて器界が存在するのではないのですね。
 これは、阿頼耶識は三千大千世界も虚空も包んでいる、差別をしていない。「広大にして辺際なし」なんですね。すべての世界を阿頼耶識は変為しているんです。私たちは、本来広大無辺際の世界を生きているんですよ。仏法に触れてですね、広大無辺際の世界を知る、分からなくっていいんです。私の命そのものが、広い世界を生き切っているんですね。そこが一期一会なんでしょう。一瞬一瞬完結しているんですね。一刹那といいますが、そうしますと、私たちは如何に狭い世界を作って、窮屈に生きているかが教えられます。何がそうさせるのかです。深い闇が覆っているんですね。私が私を覆っている、覆っている正体が私であった、ということなんですね。そんな私を問い、聞いていく歩みが聞法なんですね。生まれたと同時に宿題を背負っているんです。生涯かけて解き明かさなければならない宿題です。そこには世間の価値観は間にあいません。逆に世間の価値観は必要ではなくなるんでしょう。
 このこと一つを尋ねるために命をつなぎ、このこと一つに頷きを得よ、と。
 「時に韋提希、仏世尊を見たてまつりて、自ら瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投ぐ。号泣して仏に向いて白して言さく、「世尊、我、宿何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また何等の因縁ましましてか、提婆達多と共に眷属たる」(『観経』真聖p92)
 僕は思うんです。本当に聞きたいこと。出会いたいことは自分なんだと。今にして思えるわけですが、「自ら瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投ぐ。号泣して仏に向いて」が出来んかったですね。頭を挙げていたいばかりに逃げまくっていました。着飾っていますと本当の問いが見つからんのですね。そして本当の愚痴も出て来ないんです。愚痴は正法を聞く扉なんですね。愚痴と聞きますと、無明だと。煩悩が起ってくる基点になるようなもので悪であると思われるんですが、愚痴は仏法を聞いてきた証しでもあるんです。なにも間に合わん、世間の価値も、学歴も、職歴も、地位や財産も間に合わん、すべてが崩れ出し、自我崩壊の音が聞こえてきた時に、愚痴が輝くんです。南無阿弥陀仏と。

雑感 

2015-01-19 21:58:23 | 雑感
 私たちは言葉を以て事物を概念化し認識し判断していきます。黒板を見たときには黒板と云う言語を介して黒板を認識しています。それ以外に認識する方法はありません。ですから言語の持っている役割は非常に厳しいものがあります。「有る」というと実体化してしまいます。指さす先を観ようとはしません。指に執らわれて物それ自体の本質をしることができないのですね。論書を解釈する上でもなかなか難解なことが起ってきます。本質相分と影像相分についての釈もです。本識が変為した(識所変)器世間の中に相がありますが、この相は第八識所変の相なんです。しかし、私たちは直接この相を認識しているわけではありません。認識は本質相分を縁として第六意識の上に相をみているわけです。第六意識のレンズが本質を実体化している。物そのものは実体化できるものでは無いのですが、私たちは実体化を通して認識するという構造を持っているんですね。これが言語化の厄介なところですし、迷いを生み出す因ともなるところです。今日はこのようなことを教えられました。
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 今日は納期の関係で午前中は仕事にでました。11時に切り上げていったん帰宅。お昼をいただいて八尾までチャリ走行。今日は三時間走りました。徳庵から西堤を経由、楠根川沿いに道標がありました。御厨に入り融通念仏宗の念仏寺・天神社の奈良街道筋を南下しますと、史跡旧植田家です。そこから八尾街道を一路聞成坊様へ。大和川本流の長瀬川が当時の面影を伝えていますが、当時は東西幅200mもあったのですね。そしてこの地に木綿の藍染が根づいたようです。先日は北向き六地蔵さんを紹介させていただきましたが、左右に南無阿弥陀仏と書かれたお地蔵様もいらっしいました。FBタイムラインにも掲載しましたが、今日のブログの一ページとさせてください。m(__)m