唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (10) 分別倶生門 (9)

2014-06-30 22:46:41 | 心の構造について

 本質と影像について

 造論の主旨において、八識それぞれは「識体転じて二分に似る」と護法は論じていました。識が起こると、識そのものが見分と相分に投げ出されるのですね。それが識所変といわれています。識が変化したものである。

 例えば、花を見る場合には、まず眼識が花を見て、第六意識が花を認識するという構造になります。六識の関係からはこの通りなのですが、深層意識ですね、阿頼耶識といわれる第八識の行相・所縁が問題になります。『論』には「不可知の執受と処と了となり」と。内に根を有し、外に器世間を変現しているのですね。器世間が、生きとし生きる者の所依処であることを明らかにしつつ、所依処は識の相分であると見極めたのですね。内に根を有しということはですね、諸々の種子と根を有する身体であるといっているのです。そして種子と有根身は、「識に執受せらるる。摂して自体と為して安と・危と同するが故に」という有名な言葉が語られています。つまりですね、識が起こると、「識が転じて」所縁に似る相分と、能縁に似る見分とになり、見分が相分を縁じて認識が起こるという構造になっているのですね。これを「阿頼耶識は因と縁との力の故に自体生じる時に、内には種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。即ち所変を以て自の所縁と為す。」と。

 識所変が自の所縁であるというわけです。『解深密経』には「識の所変は識の所現である」。外界に存在するすべては、識が変化したものであり、その変化したものは識の所現であると語っているのです。

 花を喩に出していますが、眼識が花をみる。意識が花を認識する。阿頼耶識が第八識所変の花を見ている。識体は阿頼耶識。識所変の花は相分。所変の花を見ているのが識所変の見分という構造ですね。

 「ありのまま」とよくいわれますが、ありのままとは、根本的存在ということなのでしょう。根っこにあるそのものを指して、「ありのまま」といわれれいるのでしょうが、私たちの認識は、前五識と阿頼耶識の中に第六意識と第七末那識を介在させて認識l構造を形成しているのです。この認識構造の中で、根本となるものは第八識所変なのですね。花で喩えるならば、第八識に変現(所変)された花なのです。この花が本質になります。阿頼耶識と一体なのですね。不即不離の関係です。不一不二といってもいいのでしょう。眼と花と阿頼耶識が一体となり、「ありのまま」の世界を現出するのです。

 しかし、眼識が花を認識する時は、眼識所変の相分上に認識された花を、眼識所変の見分が認識を起こすのです。見分が能縁として相分に働きかける、この場合には相分は能縁に対して所縁となるわけです。

護法菩薩は八識別体を明らかにされましたから、阿頼耶識が縁じている花を本質として、眼識が認識をしている花とはおのずと違うということになります。眼識が捉えた花は、眼識の相分上に直接的な所縁として見分が認識していることなのです。これを親所縁といいますが、親所縁は、第八識所変の花を直接見るのではなく、第八識所変の花を本質として、眼識の相分上に花を変現し、変現された花を所縁として見分が花を見という構造です。ですから、眼識上に現れた花は本質にたいして影像といわれています。

 この構造は意識に於ても同じになります。眼識が捉えた花を本質として、意識は意識が転じた相分上に花を認識するわけです。本質は純粋です。分別を起こしませんが、影像は分別を起こします。これは何々の花だ、或は、色とりどりの花を認識できるのは影像なんですね。ここは五識と意識との関係になりますが。眼識と意識、耳識と意識乃至身識と意識との関係です。眼識と乃至身識とは交わりませんから問題にはなりません。

 そうしますと、意識を本質とした時には、何が影像になるのかですね。意識の根拠です。意根の問題が提起されます。そこに見出されてきたのが第七末那識ですね。迷いの構造はここを押さえないとはっきりしてきません。意識の根拠と、第七末那識の所依・所縁と第八阿頼耶識の所依と所縁。意識と末那識と阿頼耶識の関係ですね。このところは次回に考えていこうと思います。

 まわりくどい言いかたになってしまいますが、我見がどこから生じ、我見がどうして転ずることができるのかを考えていく場合にはさけて通ることができないところですので、しばらくお付き合いください。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (9) 分別倶生門 (8)

2014-06-29 11:13:54 | 心の構造について

 今回より、正義(ショウギ)である護法菩薩の所論について説明します。

 「有義は、彼の論は麤相(ソソウ)に依って説けり、理実を以ていわば、倶生も亦常見に通ず。」(論』第六・十六右)

 本科段を『述記』は、三分科を以て説明をしています。

 「論。有義彼論至亦通常見 述曰。下文有三。一會前標擧。二引事。三類教。此初也。修道倶生亦有常見。瑜伽等依麁相説故。何謂麁相。謂得現觀者入無我觀。已知分別我已斷訖。出觀之時便生恐怖。今者我我何所在耶。即初我者倶生我也。又言我者分別我也。修道我義言我分別我何所在耶。依此初出觀時。縁涅槃起恐怖斷見。非修道中説無常見 此如何等。」(『述記』第六末・三十一右。大正43・449c~450a)

 『論』の「有義(護法の説)彼論至亦通常見」と解釈するならば、三分科をもって論じられるであろう。

  1.   前に会して標挙する。(第一師の説を会通して自説を挙げる。)
  2.  事を引く。(実際の事例を挙げて説明する。)
  3.  教に類す。(教証。主張の根拠と為る文献を挙げて、自説の正義を説明する。)

 此れは初なり。修道の倶生にも亦た常見有り。瑜伽等は麤相に依って説くが故に。 
 何をか麤相と謂う。謂く現観を得る者の無我観に入り已って、分別の我已に断ち訖ると知り、出観(シュッカン)の時に便ち恐怖を生じて、今我が我は何の所に在りと云う耶。即ち初我の者は倶生の我なり。又我と言うは分別の我なり。修道の我の義を以て我に分別の我は何れの所にか在る耶と言う。此に依って初に出観する時に涅槃を縁じて恐怖の断見を起す。修道の中に常見無しと説くに非ず。此れ何ん等の如し。」 

  •   現観(ゲンカン) - 見道における観察の総称。
  •   出観(シュッカン) - 四諦を観察してその観から出ること。

 第一師の主張は、辺執見の中で常見は分別起のものに限ると説いていました。それに対し、護法は常見も倶生起のものと、分別起のものがあると主張するのです。

 前段に於いて、第一師は、自説の正当性を証明する為に、主張の根拠である文献を挙げて論証しました。本科段に於て、護法は第一師の主張の根拠である文献を、そのまま引用し、会通して、第一師の主張は錯誤であると論破しているのです。

 『瑜伽論』(巻第八十六・八十八)・『雑集論』(巻第四・第七)等の内容は麤相に依って説かれているのである、と。いわば、大雑把に説かれているのであって、厳密には説かれていないのであると云っていますね。

 現観を学ぶ者は、「今、私の我は、どこにあるのか」という恐怖を起こすのは、倶生起の煩悩である辺執見の断見のみであるというのが第一の主張でありました。この解釈は一部分の状況を説いたものであって、大雑把にはその通りであるが、厳密には(理実を以てすれば)解釈の誤りがあるというのですね。

 護法正義

 辺執見の断見・常見は分別起にも、倶生起にも通ずるもである。

 前にも論じられていましたが、無我と聞いてですね。我は無いとなると、今の我は一体誰?なのか。「あなたは誰」と尋ねられて答える術をもっているのか、ですね。

 私は、パソコンに向かって打ち込んでいますが、この「我」と、これを読んで下さっている皆さん方の「我」はどこに存在しているのでしょうか、という問いかけですね。この我と我との関係性が縁起生であると教えられているのですね。

 このような問いに初めて答えたのが、五蘊仮和合という空観でしょう。縁起生だと。単立に独自の存在として存在する者は一人もいないという真実です。唯識では、依他起なる存在である。五蘊仮和合・依他起なる者として存在しているのが無我である空ということになりますでしょうね。

 この空を実体的に捉えますと、私が存在しているという執着に陥ってしまうのです。この執は倶生起のものであるという深い問題を抱えているのですね。もう一つは、空と教えられて、空を実体化するということですね、分別起の問題になりますでしょうね。

 このような二つの問題を抱えているのが「我」という問いだとすれば、辺執見の断見・常見は分別起と倶生起に通ずるものであるというのが護法菩薩の所論になり、正義であるという所以になります。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (8) 分別倶生門 (7)

2014-06-25 23:24:06 | 心の構造について

 世事を以て、第一師は自説を証明する科段になります。

 その前に、今日、「仕事が終わった後に、少し聞いていただきたいことが有るのでお茶していただけませんか」という旨のメールが知人から飛び込んできました。近くまで来ていただいて、お話を伺いました。この方はずっと以前から、自分の境遇は、自分の意に反して左右されている、私がこんなに苦しんでいるのは自分の伴侶のせいだと決めつけておいでになります。今日もそのことを延々と話されました。

 自分がこうなってしまったのは、全部他の責任であって、自分はこんなに苦しんでいるんだ、と。

 全部他の責任にして済むのだったらいいんですけれどもね。そうはいきませんね。苦しんでいるのは自分ですからね。この苦しみはどこからきているのかが問われなければなりません。仏法を聞いたら、苦しみはどっかに消えてしまうように思われているんですね。他のせいではなく、自分が自分の境遇をつくっていたんだ、と頷くことができてもですね、自分の境遇を背負うことができないという問題が生じてきます。仏法に遇うことが出来たら、自分の境遇を背負えるとばかり思っていたが、かえって自分の境遇を背負えない自分に出遇った。これは一体どういうことなんだ、と。どうでしょうか、仏法を聞いたら、物わかりのいい人になるのでしょうかね。私は、だんだん物わかりの悪い人になっているように思いますね。禅などに触れますと、竹を割ったような爽やかさがありますが、爽やかさに止まってしまうのではないでしょうかね。それでいいというのなら、それでいいのです。が、私はそうはいきません、という問題を抱えていますわ。「そうはいかないんだ、仏法を聞いたら、自分の境遇を引き受けることのできない自分に出遇った。何故なんだ」。「何故」を聞いていく歩みが仏法ではないのか、と思うんです、と。簡単に答えを導き出すのではなく、全部他人のせいにしながら、「どうもそうではないらしい」しかし「他人のせいにする自分って一体何者なんだろう」という問いをもって、仏法に尋ねる歩みを持たれてはどうですか、という主旨のことを話しました。

 しかし、世の中を恨んでおられるのですね。自分の生い立ちからですね。今に至るまでの道程そのものに恨みと怯えをもっておられます。他人事ではありません。自分も同じ問題をもっています。あの時、あの人の一言が、自分の人生を破壊した、と。本当にそう思っていますからね。ですから、仏法を聞いて、なんとか納得しようと。「今の自分に出遇うために、今迄の出来事があったんだ、と」。そう思いたいわけです。しかしね、僕は思うんですが、これは慰めでしょう。これ以外になにがありますか。自分の人生が左右された、一生懸命理由付けを探しているのですが、そんなものはみつかりっこないんです。はっきりしていることは、「自分の人生が左右されたかもしれないが、今、そのことを引き受けることのできない自分に出遇った」ということですね。「引き受けられんでしょう」ここが大事なんですよ。引き受けられん自分を聞いていきましょう、と答えておきました。なんか、自分に言い聞かせているようでしたね。

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 「故に禽獣(コンジュウ)の等きは、若し違縁に遇うときには皆我いい断ちなむかと恐れて驚怖(キョウフ)することを起すという。」(『論』第六・十六右)

 喩を挙げて説明し、自説の正論性を証明しています。

 そのために、禽獣などは、若し違縁(自分の命を脅かすもの)に遭遇した時には、みな「自分の命は絶たれてしまうのか」と恐れて、驚く恐怖することを起こすのである。

 倶生起の断見の証明としての例として挙げられているものです。もし、倶生起に常見があったとしたら、「絶たれてしまう」という恐怖は起きないと、逆説的に証明しているのですね。

 次科段から正義としての護法の説が挙げられます。即ち、第一師の説は誤りであると論破してきます。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (7) 分別倶生門 (6)

2014-06-24 23:10:41 | 心の構造について

 第一師の主張の根拠とされる文献を挙げ論証する。

 「『瑜伽』等に説かく、、何れの辺執見か是れ倶生なるや。謂く断見に摂むるぞ、現観を学する者是の如き怖れを起す、今我が我は何れの所にか在らむやと云う。」(『論』第六・十六右)

 現観(ゲンカン) - 見道における観察の総称。煩悩障を滅した清浄な智を現前に明晰に観察して理解し証すること。五蘊仮和合の外にアートマンは無いと観ずること。

 『瑜伽論』(巻第八十六・八十八)等(『雑集論』巻第三・第七など)に、次のように説かれている。
 どの辺執見が倶生起であるのか。
 つまり、断見に摂められるからである。現観を学ぶ者は、このような怖れを起こす。
 「今、我(倶生の我)の我(分別の我)は、どこにあるのか」、と。

 辺執見は、薩伽耶見(我見)によって執着された我に対し、「断である」(断見)「常である」(常見)と執着を起こす煩悩ですが、第一師の説は、辺執見の断見のみが、倶生起と分別起のものがあると主張しているのですね。

 「今者我我何所在耶」(今我が我は何れの所にか在らむやという)、深い問いですね。まあ、友人との会話の中で、「私を問え」というでしょう。答えはきまって私を問うたら私が消える、それは恐怖だといいます。私が私を否定したら、私そのものがなくなってしまい、何を頼りに生きていったらいいのかわからない。どこまでもどこまでも我に執着していかざるを得ない生き様が浮き彫りになってきます。無我に執するということが起ってくるのですね。これがここでは、倶生起の断見といっているのです。説明としては、倶生起の我は見道に於いては滅することは出来ないが、見道に於いては分別起の我は滅することは出来るわけです。そうしましたら、分別起の我は無くなったわけですが、倶生起の我が、分別起の我がないことから怖れを懐くのであるといっているのですね。

 「仏教は無我にて候」と聞くわけですね。我という実体的な存在は無く、縁起の於に存在すると理解するわけでしょう、五蘊仮和合だと、色即是空・空即是色だと。そうしますと、瞬間に(刹那的に)何も無いと理解するんですね。虚無です。そして虚無にしがみつくのです。おもしろいですね。「無」だ、わかった。わかったことにしがみつく、執着ですね。無を実体化するわけです。そして安堵する。安堵するけれども安心はできないという矛盾を露呈します。

 「ああ、そうなんだ」と理解する我が有る、無我と聞いて、無我であると理解する我ある、という倶生起の問題が横たわっています。所知の問題が残ります。

 

 倶生起のものがある辺執見は断見のみであることから、第一師の主張は、証拠の文献を引用して、辺執見の中の断見のみが倶生起の煩悩であることが述べられ、常見は倶生起の煩悩ではないことがわかるとしています。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (6) 分別倶生門 (5)

2014-06-23 21:58:39 | 心の構造について

  「自分の偏光フィルター、、←これが、マナ識の現行?」、ここは非常に深いところですね。説明としてはマナ識の現行でしょうが、現行そのものは無記性であるといわれていますから、現行は染汚識ではないのですね。無記を染汚に染めていくのがマナ識の働きですね。無記は平等性、染汚は不平等性であると思うのです。現行の二面性といっていいのでしょうか。不平等性の中に平等性が内在している、深い智慧が現行の中に宿っていると思うんです。

 まぁ、論理的には、本質相分と影像相分について理解していかなければならないと思いますが、マナ識の現行の自覚といえば、これは自証分になるのでしょうね。ところが自覚したと同時に自覚の底にマナ識が働いている。自覚そのものが染汚性を持っているといわざるを得ません。しかし、そのことを自覚する働きもある、それを証自証分として押さえられてある、と思います。

 飛躍しますが、証自証分に於て、廻向の教学が成立するのではないでしょうか。機法二種深信ですね。唯識的にいえば、「無始の時より来、本識の中に親しく自果を生ずる功能差別」の自覚になるのでしょう。

 世親菩薩の『唯識三十頌』には世親菩薩自身の解釈はないといわれていますが、『浄土論』がそれに対応するものだと思うんです。

 「云何が廻向する、一切の苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願して廻向を首と為して大悲心を成就することを得るが故に」

 また、

 「大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察して応化の身を示し、生死の園、煩悩の林の中に廻入して神通に遊戯し教化地に至る、本願力の廻向を以ての故に。」

 この教示は、外界に向かって発せられたものではないでしょう。一切種子の心識の中に内在しているのを、第七・第八交互因果性において、第八識は「身に於て、蔵隠して、安危の義を同うするが故なり」と説かれています。

 「一切の種子は瀑流の如し」と、阿頼耶識の行相は「恒転如瀑流」。「恒」を常・一と錯覚し、常・一の主宰者である我が有ると妄想を起こしているのが第七マナ識ですから、第七マナ識を証明しているのが阿頼耶識ということになると思いますね。ここに阿頼耶識の回帰性が働いていると思うんです。それを、本願力廻向として世親菩薩は『三十頌』の帰結として『浄土論』を著されたと見ているのですが、まぁ部外者だから言えることかもしれません。

 ですから、「偏光フィルター」というのは紙一重のところに横たわっている深い闇といっていいのではないでしょうか。ああ、自己中やな、と思う底に潜んでいる自己中でしょう。「恒審思量」といわれていることは、「恒審」は阿頼耶識と同じです。「思量」というところにマナ識の特徴がありますね。「恒審」の錯誤です。錯誤がアートマンを生み出す根拠になっているのではないでしょうか。このアートマンを徹底的に「無」と喝破してきたのが大乗仏教でしょう。

 とりわけ、浄土真宗ですね。親鸞聖人は徹底して

 「決定して「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」と深信すべし。

 と表白されています。

 社会問題に首を突っ込むつもりは毛頭ありませんが、「阿頼耶識とマナ識の更互因縁性」の解明が待たれると思います。浄土真宗の責任は重大だと思いますね、いかがでしょうか。

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 辺執見が倶生起であるということの説明に、二解あることを挙げる。

 一には、倶生起の辺執見には唯だ断見のみがある。
 二には、麤相に依って説くので、理実には倶生起の常見にも通ずる、と云う。

 「辺執見の中に倶生に通ずるをば、有義は、唯だ断見のみなり、常見は相麤なるを以て、悪友等の力に方に引生せらる故に。」(『論』第六・十六右)

 辺執見の中で、分別起及び倶生起に通ずるのは、
 有義(第一師)は唯だ断見のみであると云う。常見は相が麤(粗い)ものであり、悪友等の力(影響力)によって引生されるものである為に、常見は分別起のもののみであって倶生起のものはない、と主張する。

         断見 - 分別起・倶生起

  辺執見 {

         常見 - 分別起

 何を以て、相が麤であるというのかという問題が起こってきます。

 第一師の主張は、悪友、邪教、自の分別とによって生起するのであると云います。即ち後天的に引き起こされてくるものであるから、粗いと表現しているのですね。  (つづく)

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (5) 分別倶生門 (4)

2014-06-22 12:27:09 | 心の構造について

 「一切の有情は、皆もって世々生々の父母兄弟なり」(『歎異抄』真聖p628)

 高柳先生が『論註』を講義されている中で、
 「一切の有情は兄弟というこの言葉の背景が『論註』にあるのです。『論註』では「遠く通ずるに、四海の内皆兄弟」と言われています。そこにある「遠く通ずる」ということは、開かれた時間、歴史ということです。亡くなった人も含めて、一切の衆生が懐かしく感じられてくる。それは自分の深さは衆生に通じているからなのです。自分自身の深さが見えてくると、目の前の人の深さが見えて来る。年齢とか経験とか特性とか超えて、その人その人が実はもの凄く深い存在であり、批評などできないということが実感されてくるのです。

 これは、親子関係でも同じです。年が上の親の方が物が分っていて、親は子供に教える者だという思いこみです。先に生まれたと言ってみたところで、せいぜい20年か30年の話です。この一瞬という時間の重さっていうのは、年がいっていようが若かろうが関係ないんです。それこそ厳粛ということで言うと、次の瞬間に三歳の子が、目の前で交通事故で死ぬかもしれないんです。80歳で死んでも、3歳であるいは2歳で死んでもですね、それは一生を尽くしたということに変わりはないんです。ところが長生きをしたから、あるいは経験してきたから、何かを得てきたから偉い。そういう話になっちゃうんです。悟り満足するというのは結局ですね、自分が高いところに立ってしまうという問題が残るんです。それがもう真宗でちょっと流行っている人達もそうなっちゃているんですよね。
 そんなもんじゃないんです真宗は。親鸞も曇鸞もですね、私は直接お会いしたことはないですけれども、曽我量深という人もですね、底下というところにおられる。本当にそれは感じるんです。それが曽我量深という人で言うと、どんなに小さい子からもね、頭をちゃんと下げて聞くことができた人なんですよ。それはですね、小さい子からも学ぶ事があるっていうことではないんですね。今申し上げたように、年齢とか経験とかそんなものじゃなくて、存在そのものが深重であるということなのです。それは迷いの深さの尊さなのです。それが悟りに立つと見えないのです。」

 と教えて下さっています。また

 「これは精神医学とも関係しますけどもね、自分が今こういうふうに感じてしまうこととか、反応してしまうこととか、そういうもの全体が自分でもね、反省しても振り返っても分らない。人の事を判断する時も、自分の見え方・感性でしか判断できない。ということは、人のことは見えているようで、全部自分の偏光フィルターを潜ってしか見えていないということであり、相手そのものは見えていないということなのです。そうすると相手にも触れられないですし、実は自分自身にも触れていないんです。必然的に驕ったり、慢ということが起こってくるんですね。「慢」というのは傲慢だけではなくて、人と自分という対立関係なんです。比較という言い方も出来るんですが、対決関係なんです。人と自分との対立関係を慢というんです。
これは色んなスタイルがあるんです。対決といっても、いつも喧嘩しているんではなくて、難しい事言わなくても流してればいいんやというのも対決関係なんです。要するに世に処するスタンスということなんです。自分と他の関係のスタンスということなんです。そういう意味で慢にならざるをえないということがあるんですね。そういうところを実は、曇鸞大師という方は人間の弱さというか、色々なことに迷わざるをえない中身をですね、御自身が仏法に触れて謗法の罪、自分の見解に迷っていると、「迷っていた」ではないんですね。迷っていると、こういうことを受け取られた方なんですね。ですから真宗にとっては、曇鸞大師はとても大事な方で、七高僧の中で「本師」という言葉を使っておられるのは、曇鸞大師と法然上人だけなんですね。
 親鸞が直接お会いになっておられる方でいえば、法然上人だけですけども、もう一人「本師」という言葉を使われるのはですね、やはりそういう特徴があります。これはまた論註の中で申し上げますけどもね、人間にはとても深い迷いがあるという、これは自身の深さということなんです。」

 と、倶生起・分別起の懐いている問題点を鋭く指摘されています。「人間にはとても深い迷いがあるという、これは自身の深さということなんです。」と教えて下さっています。

 十煩悩の中の、疑と邪見と見取見と戒禁取見の四法は唯だ分別起のみであると説かれているのですが、これは悪友と邪教と自の分別の三縁に由って生ずるのであるというのが『論』の説明です。しかし、ここは自の分別の内容が悪友であり邪教であると読むべきではないでしょうか。またですね、分別の底に倶生の問題が横たわっているのですね。自他分別しているなという気づきの底に自他分別が働いているという深さですね。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (4) 分別倶生門 (3)

2014-06-21 09:41:24 | 心の構造について

 その二は、六煩悩の他の四煩悩である、疑・邪見・見取見・戒禁取見は唯だ分別起であることを明らかにする。

 「疑と後の三の見とは唯だ分別起のみなり。要ず悪友(アクウ)と或は邪教の力と自ら審に思察するとに由って方に生ずることを得るが故に。」(『論』第六・十九左)

 見道所断の分別起の煩悩について説かれます。鈍使で有る疑と、利使である邪見・見取見・戒禁取見は、ただ分別起のもののみしかない。(理由)何故ならば、かならず、悪友と或は邪教の力と自らが審らかに思察することに由って生ずるものであるからである。

 悪友
 邪教      } 三縁 = 分別起の煩悩の生起
 自の分別

 悪友は邪師のことを指しているのですが、邪師とは誰のことでしょう?教育や子の躾のことを考えて見ますと、教育や躾は、自と他との共存関係によって成り立っているのでしょう。しかし伝える側の問題として、はたして正しい教育・躾をしているのでしょうかね。

 生まれ持った倶生起の煩悩はいたしかたのないこととして、分別起は後天的な教えに由って生起してくる煩悩ですから、私は他に対して煩悩を押しつけているのではないのか、と思うんですね。勿論、煩悩を押しつけられてきた背景はあるのでしょう。そのことに気づきを得たならば正見・正思惟をもって事に当れるとは思いますが、「迷いの世界に輪廻し続けるのは、本願を疑いはからうからである。」という疑をもって、邪見・見取見・戒禁取見を教えているのではないだろうかと思うんです。已生の出来事は自らの責任をもって対処しなけばなりませんが、未生に対しては「悪友は自である」という自覚をもって、悪友は自であるのは何故なのかを問い糺していく姿勢が必要であると思われます。ここが聞法の大切な所であると思うのです。この視点が欠如しますと、所謂、聞不具足になるのではないでしょうか。聞不具足には、名聞・利養・勝他という自尊損他の計分別が背景として働いているのですね。

 教育をする、躾をすることは正しいことと信じて事にあたりますと、そこに落とし穴があるのでしょう。そこがわからないと、信不具足になりますね。聞不具足・信不具足から生み出されてくる世界は闘争堅固でしかないと、経(『涅槃経』)には説かれています。

 「また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏・法・僧ありと言わん、これを信正と名づく。因果なく、三宝の性、異なりと言いて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏・法・僧宝を信ずといえども、三宝の同一性相を信ぜず。因果を信ずといえども得者を信ぜず。このゆえに名づけて「信不具足」とす。」(『教行信証』化身土巻。真聖p352)

 (「また信には二種がある。一つには、正しい教えを真じるのであり、二つには、よこしまな考えを信じるのである。因果の道理があり、仏・法・僧の三宝があると信じるのを、正しい教えを信じるという。
 因果の道理がなく、仏・法・僧の三宝の本質が一体ではなくそえぞれ別のものであるといって、さまざまなよこしまな考え、たとえば富蘭那などの言葉を信じるのを、よこしまな考えを信じるという。仏・法・僧の三宝があると信じても、三宝の本質が一体であるということを信じておらず、また因果の道理を信じても、さとりを得た人がいることを信じていないのは、完全な信ではない。このひと人は、不完全な信しか得ていないのである。(中略)」)(意訳は本願寺出版の現代語訳を用いました。p518)

 正しい信でないと、いくら善事(三宝に依らない)を行じても、「悪果を獲得せん」と説かれています。悪果とは、「邪見を増長し憍慢を生ずるが故に。・・・涅槃道を迷失するなり。・・・煩悩を雑するは、この人還りて悪果報を受く。」と。

 「自らを問う」姿勢がないとですね、知らず知らずの中に、教育という現場で、躾という現場で煩悩で持って煩悩を洗脳しつづけていくのでしょう。「知らず知らずの中に」ということが、実は本当に問題にしなければならない事柄だと思いますね。「恒に審らかに思量するをもって性となす」という、恒審思量を本質的な用とする末那識の存在に気づきを得ることが、大切な、そして最も基本的な「生きること」の視点になるのではないかと思います。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (3) 分別倶生門

2014-06-20 01:05:44 | 心の構造について

 倶生起は、身と倶なり。分別起は、身と倶にしもあらず、と云われています。貪・瞋・痴・慢は内に深く潜行し身と倶である。それに対し、同じ身と倶である身見(我見)は外に向かって攻撃するのです。それは内を守るためですね。知らず知らずの中に法爾自然にですね、身を守る為に我見と辺執見を生起させるわけです。我は一つのものを分断し、我中心の考え方に終始します。我が主で、他は従と云う関係ですね。これが倶生起の煩悩の特徴になります。自他を分断するのが生れ持っていると説かれているのです。これが間違いの元凶ですね。何故、自他を分断するのかを知れということなのでしょう。このような構造を知らなければ知らないまま過ぎ去っていくのでしょう。

 これが空過という内実ではないでしょうか。教えられいる教えに遇うことを通してしか知り得ないことなのですね。真実の教に遇うことを通して、自他平等の大地に触れていく。自他平等の世界を壊していたのは、実は他ではなく、自分であった、と。「礙は自にあり」という目覚めを通して、はからずも大きな地平が開かれていたということなのであろう。開かれてみれば、「道すでにあり」。救済の道理はすでに成就されていたとう感動と驚きが身を驚愕させるのでしょう。救済の構造は、救済されることのない目覚めを媒介として、六煩悩は身と倶なり、という深い指摘であろうと思います。

 貪・瞋・痴・慢は内なるコンプレックスなんでしょうね。ひた隠しにしているのですね。我見(身見)と辺執見で身を守ろうと働きかけます。見は劣等感の現われであり、慢は優越感の現われである。劣等感・優越感からの解放は、とりもなおさずコンプレックスからの解放になりますね。

 このことは阿頼耶識と現行識の更互関係から考察する必要がありますが、現行識は阿頼耶識が(衆縁を媒介として)流れ出してくるものでありましょう。ここには分別は働きません、法爾自然ですから、果は身が引き受けて、今・現に・ここに存在していることになりますね。現象内存在といってもいいのでしょうか。

 いえば、倶生の身と倶である煩悩の要求が、煩悩を成り立たせている大地なのかもしれません。煩悩の大地からの要求が、身と倶である煩悩を知れ、身を煩わし、心を悩ませるものは他にあるのではない、身と倶である。しかし現実には身を煩わし、心を悩ませているではないか。このことこそ唯一無二の「人身の至奥より出づる至誠の要求」と云われていることではないのか、と思います。無始より来た身と倶にして生起してきた煩悩が善巧方便として智慧に転依するのではないでしょうか。最近特にこのようなことを感じます。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (2) 分別倶生門

2014-06-18 22:19:15 | 心の構造について

 「総と別」についての所論

 『了義燈』の説

 「論。如是總別十煩惱中。本説若總若別但有十種。如貪・嗔等。各有總別差別行相。若是迷諦及自行相。不過總別。又要集斷未詳爲勝。然猶未盡。慢及三見名總。餘六名別。此亦不爾。此十煩惱倶通總別故但總云。」(『了義燈』大正43・758b)

 (「論如是總別十煩惱中」と云うは、本説に、若は総、若は別、但だ十種有りと云えり。貪・瞋等の如き、各の総別の差別行相有り。若し是れ諦に迷えると、及び自行の相とは総別に過ぎず。又要集に未詳を断ずるを勝と為す。然も猶、未だ盡きず。慢と及び三見とを総と名づけ、余の六を別と名づくと云えり。此れ亦、爾らず。此の十煩悩倶に総別に通ずるが故に。但だ総じて云うなり。」)

 諦に迷うということについては、後に説明されますが、概略としては、四諦の相に迷うのに総迷と別迷があることを説明されています。「然も諦相に迷うに総有り別有り」と。即ち、分別起の十煩悩(見所断の煩悩)が四諦に迷う迷い方について総と別とがあるということを明らかにしているのです。従って、本科段における総別は、分別起の十煩悩が四諦に迷う迷い方に総別あるということになる、と云われています。

 『演秘』の所論は、釈としては『了義燈』及び『述記』の説を踏襲しながら、総別について独自の見解を示しています。

 「論。如是總別等者。釋如疏・燈。今助一釋言貪等六名之爲總。惡見開五名之爲別。今雙言之名爲總別十煩惱也 或可。疏云若總若別意亦同此。」(『演秘』大正43・921a)

 (「論。如是總別等とは、釈すること疏と燈との如し。今一に助けて釈して貪等の六を言うて之を名づけて総と為し、悪見を五に開いて之を名づけて別と為す。今雙べて之を言う。名づけて総別の十煩悩と為すなり。或は可と云うべし。疏に若総若別と云う、意亦た此れに同なり。」)

 貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の六 - 総
 悪見を開いて五見とした時の五見 - 別

 として説明しています。

 昨日も少し見てきましたが、十煩悩はすべて分別起として説かれ、その中の六煩悩(貪・瞋・癡・慢・薩伽耶見・辺執見)は倶生起にも通ずるものであるということになります。疑と三見(邪見・見取見・戒禁取見)を除いたものが、任運に生起する為に、倶生であるといいます。そしてこの六煩悩は思察(考察)する時にも生起しますから、倶生起のものと、分別起のものの二種があることを示しています。

 十煩悩をですね、分別起の煩悩でみますと、五鈍使・五利使という分け方がされます。

   貪
   

   
癡  } 五鈍使(混鈍とした煩悩でスッキリしない)
   慢     内なる煩悩(もやもや感)
   疑

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   薩伽耶見
   
辺執見
   
邪見    } 五利使(知的な煩悩。鋭利である。)
   
見取見     外に向かった煩悩(他を切り刻むもの)
   戒禁取見

 煩悩の中には、鈍使であるけれども、深く身に浸透して悩ますものもあれば、鋭利で、相手を切り刻んでいくという鋭さをもった煩悩もあるということが、鈍使・利使として教えられています。

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第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (1)

2014-06-17 23:02:26 | 心の構造について

 第三、十煩悩諸門分別

 諸門とは(十二門を以て構成される)、十二門から煩悩の心所が分析されます。

  1. 分別倶生門
  2. 自類相応門
  3. 諸識相応門
  4. 五受相応門
  5. 別境相応門
  6. 三性分別門
  7. 三界分別門
  8. 三学分別門
  9. 三断分別門
  10. 有事無事門
  11. 有漏縁無漏縁分別門 
  12. 縁事境縁名境分別門

 一に、分別倶生門、初めに、十煩悩が倶生起の煩悩か、分別起の煩悩かについて説かれ、この中がさらに二つに分けられ説明されます。その一は、貪・瞋・癡・慢・薩伽耶見・辺執見の六つについて説明されます。その二は、疑・邪見・見取見・戒禁取見の四つについて説明されます。

 この初が、正しく分別すると云われています。十煩悩が倶生起の煩悩なのか、分別起の煩悩なのかについて説明されています。

 「是の如き総と別との十煩悩の中に、六は倶生及び分別起に通ず。任運にも、思察するときにも倶に生ずることを得るが故に。」(『論』第六・十五左)

 このような総と別との十煩悩の中で、六つは倶生起及び分別起の両方に通ずるのである。何故ならば、任運の時も思察(シサツ・思惟観察)する時にも倶に生じるからである。

 六つは、貪・瞋・癡・慢・薩伽耶見・辺執見の六つです。これらの煩悩は分別起にも通じるということになります。倶生は「身と倶なり」ですね。いのちとともにあるもの、という意味になります。生命の誕生と共に、この六つの煩悩は宿っている、これは任運起だということですね。人人唯識ですからですね、人それぞれが担っている煩悩が有る、それらと倶に私は身と(六つの)煩悩と倶に生れてきたんだということでしょうね。深い問題を抱えて生まれてきているんですね。

 思察は分別起になります。思惟観察という、後天的な教えに依る煩悩ですね。習という、育っていく過程で身に付けていくのが分別起の煩悩です。

 倶生起はどうすることも出来ませんが、大切な所は、分別起ですね。正法に遇うことを通して目覚めを得ることができるんだ、ということです。これも分別起なんですね。

 「雑行を棄てて本願に帰す」。これ分別起なんでしょう。そして倶生起に目覚める。「出離の縁有ること無しと深信す」。ここに信心がすえ通るわけでしょう。ですから、分別起の煩悩は十すべてです。十すべての煩悩が縁となる、生活そのものが、本願に出遇う縁となるということを教えているのでしょう。

 「若しは総、若しは別、但だ十種有り。一に倶生分別なり。貪等の六とは鈍の四と利の二と、分別と倶生に通ずるが故に、疑と三見とを除く。任運に起るが故に、是れ倶生なり。思察して生ずるが故に是れ分別なり。顕揚の第一及び大論第八に、皆な此の六は倶生分別「に通ずと云うが故に。」(『述記』第六末・三十右)

 総・別は何を指すのかという問題がありますが、伝統的には『了義燈』の所論を勝れているとされています。後述します。今日は、諸門分別を説明するのに十門を以てすることだけを述べておきます。

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