本質と影像について
造論の主旨において、八識それぞれは「識体転じて二分に似る」と護法は論じていました。識が起こると、識そのものが見分と相分に投げ出されるのですね。それが識所変といわれています。識が変化したものである。
例えば、花を見る場合には、まず眼識が花を見て、第六意識が花を認識するという構造になります。六識の関係からはこの通りなのですが、深層意識ですね、阿頼耶識といわれる第八識の行相・所縁が問題になります。『論』には「不可知の執受と処と了となり」と。内に根を有し、外に器世間を変現しているのですね。器世間が、生きとし生きる者の所依処であることを明らかにしつつ、所依処は識の相分であると見極めたのですね。内に根を有しということはですね、諸々の種子と根を有する身体であるといっているのです。そして種子と有根身は、「識に執受せらるる。摂して自体と為して安と・危と同するが故に」という有名な言葉が語られています。つまりですね、識が起こると、「識が転じて」所縁に似る相分と、能縁に似る見分とになり、見分が相分を縁じて認識が起こるという構造になっているのですね。これを「阿頼耶識は因と縁との力の故に自体生じる時に、内には種と及び有根身とを変為し、外には器を変為す。即ち所変を以て自の所縁と為す。」と。
識所変が自の所縁であるというわけです。『解深密経』には「識の所変は識の所現である」。外界に存在するすべては、識が変化したものであり、その変化したものは識の所現であると語っているのです。
花を喩に出していますが、眼識が花をみる。意識が花を認識する。阿頼耶識が第八識所変の花を見ている。識体は阿頼耶識。識所変の花は相分。所変の花を見ているのが識所変の見分という構造ですね。
「ありのまま」とよくいわれますが、ありのままとは、根本的存在ということなのでしょう。根っこにあるそのものを指して、「ありのまま」といわれれいるのでしょうが、私たちの認識は、前五識と阿頼耶識の中に第六意識と第七末那識を介在させて認識l構造を形成しているのです。この認識構造の中で、根本となるものは第八識所変なのですね。花で喩えるならば、第八識に変現(所変)された花なのです。この花が本質になります。阿頼耶識と一体なのですね。不即不離の関係です。不一不二といってもいいのでしょう。眼と花と阿頼耶識が一体となり、「ありのまま」の世界を現出するのです。
しかし、眼識が花を認識する時は、眼識所変の相分上に認識された花を、眼識所変の見分が認識を起こすのです。見分が能縁として相分に働きかける、この場合には相分は能縁に対して所縁となるわけです。
護法菩薩は八識別体を明らかにされましたから、阿頼耶識が縁じている花を本質として、眼識が認識をしている花とはおのずと違うということになります。眼識が捉えた花は、眼識の相分上に直接的な所縁として見分が認識していることなのです。これを親所縁といいますが、親所縁は、第八識所変の花を直接見るのではなく、第八識所変の花を本質として、眼識の相分上に花を変現し、変現された花を所縁として見分が花を見という構造です。ですから、眼識上に現れた花は本質にたいして影像といわれています。
この構造は意識に於ても同じになります。眼識が捉えた花を本質として、意識は意識が転じた相分上に花を認識するわけです。本質は純粋です。分別を起こしませんが、影像は分別を起こします。これは何々の花だ、或は、色とりどりの花を認識できるのは影像なんですね。ここは五識と意識との関係になりますが。眼識と意識、耳識と意識乃至身識と意識との関係です。眼識と乃至身識とは交わりませんから問題にはなりません。
そうしますと、意識を本質とした時には、何が影像になるのかですね。意識の根拠です。意根の問題が提起されます。そこに見出されてきたのが第七末那識ですね。迷いの構造はここを押さえないとはっきりしてきません。意識の根拠と、第七末那識の所依・所縁と第八阿頼耶識の所依と所縁。意識と末那識と阿頼耶識の関係ですね。このところは次回に考えていこうと思います。
まわりくどい言いかたになってしまいますが、我見がどこから生じ、我見がどうして転ずることができるのかを考えていく場合にはさけて通ることができないところですので、しばらくお付き合いください。