唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 八識分別門 (1)

2010-09-30 23:29:59 | 心の構造について

第三能変 別境 八識分別門 (1)

   八識における別境の心所の有無について

 「第七・八識には、此の別境の五、位に随って有無なりということは、前にすでに説くが如し」(『論』)

 「述曰。この七八識の、もしは因もしは果の位に、あるいは有あるいは無なりということ、前にすでに説けるが故に」(『述記』)

 八識分別とは、八識各々における五別境の有無と相応について述べるところです。

 「前にすでに説くが如し」は、『論』巻第三・第四・第五の記述を指します。巻第三に於いては、阿頼耶識について述べられていました。阿頼耶識について、有漏位においては遍行の五のみが相応し、別境は存在しないことが説かれています。無漏位においては、遍行と別境のすべての心所と、善の十一の心所の合計二十一の心所が相応することが説かれています。(「然も第八識に総じて二の位有り。一には有漏の位。無記性に摂む。唯触等の五の法のみと相応す。但前に説きつる執受と処との境のみを縁ず。二には無漏の位。唯善性のみに摂む。二十一の心所と相応す。謂く遍行・別境の各々五と善の十一となり。・・・」(『選註』p55・『新導本』p112)

 巻第四では、「然も此の意と倶なる心所は十八なり。謂く前の九の法(四惑と五遍行)と八の随煩悩とならびに別境の慧となり(即ち、我見なるが故に)。」(『選註』p95・『新導本』p182)別境の慧という意味は、対象(境)を了解するということ、簡択する働きです。我見の体が慧、即ち、簡び分ける働きをもつものということです。末那識は、四惑(我癡・我見・我慢・我愛)と五遍行と八随惑と別境の慧との合わせて十八の心所と相応すると説かれています。

 巻第五では「未転依の位には、前に説く所の心所と相応す。已転依の位には、ただ二十一の心所とのみ倶起す。謂く、遍行と別境との各々の五と、善の十一とぞ。・・・」(『選註』p96・『新導本』p196) 

 阿頼耶識においては、有漏位(因位)には、別境は存在しないが、無漏位(果位)には五別境はすべて存在する。末那識については、已転依の位(因位の中の無漏の場合)には五別境すべてが存在すると説かれています。

 


第三能変 別境 独並門 まとめ

2010-09-29 22:09:31 | 心の構造について

         第三能変 別境 独並門

      総・別についての『演秘』の説明

 『論』(巻第五・三十三・右)欲等の五は独或いは並生することを明かす中、護法の正義の中の文。総・別の言は伝に二釈有り。一に云く、ニニより五に至るをこれを名づけて総と為し、一々に別に起こすを説いて名づけて別と為す。二に云く、一のみ起きて四に至るをこれを名づけて別と為す。合して五種を起こすを説いて名づけて総と為す。詳らかにして曰く、後の解を正と為す。 (『演秘』)

 即ち、一つの別境の心所が生起する場合の五通りを「別」とし、その他の四を「総」とするのが第一説であり、第二説は、五つの別境の心所が生起する場合の一通りを「総」とし、その他を「別」とする。そして第二説を正義としています。

     別境の心所が、すべて生起しない場合について  

 「或いは有る心の位に五ながら皆起さず、四の境に非ざる卒爾堕心(そつにだしん)と及び蔵識と倶なるとの如きぞ。此の類非一なり」(『論』)

 (意訳) 或いは、ある心の位では五つの別境の心所はすべてが生起しない。その訳は、四つの境ではない卒爾堕心(そつにだしん)と、蔵識と倶であるような場合である。このような類は一つではない、多くみられる。

 「述曰、六識一時の中に五皆起こらず。四境現前するに非ずして、散の疑の境等に於て卒爾心の起れる六識の如し。皆此の欲等の五無し。此れは麤顕なるを挙げたり。乃至、等流にもまた亦此の事有り。義に准じて応に知るべし。或いは第八識と倶にも此の五亦無し。第七識においては、前の如く諍あり。故に知る、欲等は必定して倶なるに非ず」(『述記』)

 (意訳) 六識一時の中には五つの心所は、すべて生起しない。四境(所楽・決定・曾習・所観の境)は現れないで、散心の疑の境などで、五心の最初の段階である卒爾心に於いて生起する六識のようなもので、そこには別境の心所は生起しない。等流心などにも、亦同様である。或いは第八識とも別境の心所は倶に生起しない。第七識も同様である。以上のことから別境は、心王が生起する時には、必ず倶に生起して相応する遍行でないことがわかるのである。 

 卒爾心については五月三日の項を参照してください。                             


第三能変 別境 独並門 十の三・五の四・五(一通り)・総別三十一

2010-09-28 23:18:19 | 心の構造について
 第三能変 別境 独並門 
 別境の心所が三つ生起する場合・四つ生起する場合・五つ生起する場合について述べる。
 「或る時には三を起す。謂く、所楽(しょぎょう)と決定(けつじょう)と曾習(ぞうじゅう)との於(うえ)に欲と解と念とを起す。是の如く乃至曾(ぞう)と所観(しょかん)との於に念と定と慧とを起す。合(ごう)すれば十の三有り。
 或る時には四を起す。謂く、所楽(しょぎょう)と決定(けつじょう)と曾習(ぞうじゅう)と所観(しょかん)との境の中に於て前(さき)の四種を起す。是の如く乃至定と曾習と所観との境の中に於て後の四種を起す。合すれば五の四有り。
 或る時には五を起す。謂く、所楽(しょぎょう)と決定(けつじょう)と曾習(ぞうじゅう)と所観(しょかん)との境の中に於て具(つぶさ)に五種を起す。
 是の如く四が於に欲等の五を起す。総と別と合すれば三十一の句有り。」(『論』第五)
 あらゆる場合を総合すると三十一の場合があるということです。起こる場合もあるし、起こらぬ場合もあるということで不定というのですね。『述記』には詳細が示されています。また総・別については『演秘』(第五本十六右)に二の解釈が示されています。
 十の三について
 「述曰。四境に於いて三の数を起すことを説く。初めは所楽を以て首と為して余に合すれば六有り。論には但だ一を挙げたり。謂く(1)所楽と決定と曾習とに於いて、合して欲と解と念との三を起す。(2)復た、所楽と決定と所観とを以て合して欲と解と定との三を起す。(3)復た、所楽と決定と所観とを以て、合して欲と解と慧との三を起す。(4)復た、所楽と曾習と所観とを以て、合して欲と念と定との三を起す。(5)復た、所楽と曾習と所観とを以て、合して欲と念と慧との三を起す。(6)復た、所楽と所観とを以て、欲と定と慧とを起す。是の如く決定を以て首と為すに三有り。謂く(7)決定と曾習と所観とに於いて、解と念と定との三を起す。(8)復た決定と曾習と所観とに於いて、解と念と慧との三を起す。(9)復た、決定と所観とを以て、解と定と慧との三を起す。是の如く(10)曾習と所観とに於いて、念と定と慧との三を起す。合すれば総じて四境に於いて欲等を起すこと十ケの三有るなり。この中には但だ初の一と後の一とを挙げたり。
 五の四有りを説く
 「述曰。謂く四の境に於いて更互に一を除く。謂く初に(1)所楽と決定と曾習と所観とに於いて初の四を起す。慧を除く。是の如く(2)前の四境に於いて定を除いて慧を取る。(3)是の如く四境のうち曾習を除く。即ち三境に於いて四を起す。念を除いて定を取る。(4)是の如く四境のうち決定を除く。三境のうちに於いて、四を起す。解を除き念を取る。(五)是の如く四境のうち所楽を除く。三の境において四を起す。欲を除き勝解を取る。即ち互に一を除き、合すれば四境に起すに亦五ケの四有り。この中には但だ後の一と初の一のみを挙げたり。」(『述記』)
 『論』には初の一句と後の一句を挙げて、後はこれと同様であると、初・後に代表させて述べています。最後は別境の心所が全部同時に生起する場合について述べています。これは一種類になり、五つが倶起する場合が一通りです。総・別は1~4の説明が総で、最後の5が別とする、といわれます。『演秘』の説明は次に譲ります。

釈尊伝 最終回

2010-09-27 21:40:00 | 生きることの意味
『釈尊伝』 質疑応答より ・ 最終回
 「朝日新聞でみましたが。京都府亀岡市矢田町の寺院で世襲制をやめるということを発表したと。山本現雄という若い住職が世襲制をやめるというわけで、朝日新聞に記者会見の模様がでていました。本人は大谷大学中退だそうです。やはりこの今まで知っているということに対して悩まれたわけですね。そしてそのあげくが大学もやめて寺に帰って、寺もやめるというて寺をでようともしたというようなことから、やがて友松円諦氏の真理運動というものに参加したというのですかね。そういうことから増谷文雄氏などの教えにも遇うたりして、それでタイトルが「釈尊にかえれ」というのだったのですね。釈尊ぬきの仏教になっておると。釈尊にかえるということでなくてはならんということで、まあ檀家にむかって、檀家は自由にどこへでもついてくれというたというようなことで、はじめは大変だったと。人々はあれは一派をたてるつもりじゃないかなんていったというのですね。よくよく聞いてみると檀家は二十軒ばかりしかないのですよ。それじゃ一派をたてるもありませんですが。それでも努力してだんだん若い人もくるようになって、会員組織にしたというのです。普通の家庭は一ケ月に二百円、それから未亡人とか年寄りだけの家庭は百円ということにして、なにか土曜日だけ寄り合うのですかね。それから一ケ月に一回だけ会費をだすのですかね。そんなことをしてきて、今では会員が二百五十人ほどになっているというのです。そんなことが書いてありました。
 これは、考えぬいたあげく思いきってやられたのだろうと思います。ある意味で仏教は釈尊にかえれというよりほかにないということでしょうね。釈尊にかえれというよりほかにないのだけれども・・・・・・。また、お経をあげてくれといわれれば、浄土三部経にかぎらず、般若心経でもどんなお経でもあげるというのです。そのお経もわからんからわかるように訓読であげると。三部経をあげてくれといわれると三時間あまりかかるそうですね。大変ですね。そういうようなことがでておりました。ある意味で、一つの考えぬいたあげくにふみきったのでしょうね。
 ただ、ここのところに、これはこれでいいと思いますけれども、問題は依然としてあるのですよ。死んだ者にお経をあげる必要はないと。これもわかります。生きた者にあげるお経が、今の訓読で読むところのわかるお経なんです。本当に来た者にあげるのだろうか。来たものにあげるのだったら仏壇に向かわずに来た者に向かってあげなければならんですね。あげられたものはたまったものではないですね。(笑)
 だから読んでみますと問題がありますね。本当に寺院規則改正ということは、まともにはいえんことなのです。これはやはり規則にしたがって変更しなければならんので、やはり総代会にかけて、そしてやらなければならん。とにかく反対しても通らんですよ。
 とにかくこれを読んでいろいろ感じましたが、仏教というのは、釈尊にかえれというのが仏教じゃないのです。釈尊というのは、これは歴史的人物です。これでは釈尊にかえるということを本当に思うのなら、釈尊の教えに従ってやっぱり比丘にならなくてはならんでしょう。そうでなくて寺におって釈尊にかえれというのでは口だけですよ。批判しますとね。寺を捨てて、どうか自分は住職をやめますから、新しい住職を選んでくださいと。自分は一比丘になって修行をはじめるからというて、やっぱり十二因縁を感ずるとか、八正道を行ずるか、とにかく釈尊の教え通りに行じなければならないでしょう。ですから釈尊の教えにかえれというのはかならずしも仏教ではない。やはり仏教ということでは、どこに着眼点を置くかと申しましたら、なんというても、われわれが今ここにおる。ここにおらなければどこかに帰えれば帰ったところで、ここにおると。そこに仏が今自分はどういうものであるかということを、それをみるべく教えているということです。
 そういう意味で真宗というものはたっておるわけです。今後の仏教というものの展開は、今申しあげたところからでないと本格的な展開はできないと思います。しかし今そういう話がでてきましたように、どうしても今までわかっている仏教というものでは、仏教そのものは依然として埋れておって遠く考えるよりほかはないでしょうね。それだけはいえますね。
 そういう意味では、こうして集まってくださったことはありがとうございました。こうしていろいろお話をしながらもわからしてもらうことが多々ございました。どうもありがとうございました。 (完)
          - ・ -
 『仏陀 釈尊伝』の内容及び質疑応答の一部を書き込ませていただきました。私は1966年の育成会に参加させていただき、蓬茨先生の講義を一週間泊まり込みで聞かせていただく機縁をいただきました。その当時の様子を思いだしながら書き込みをさせていただきました。私にとっては、自分を尋ねる初めの一歩でありました。迂余曲折を経て今日に至っておりますが、その感慨は身が覚えてくれています。補導にあたられた宮城先生には大変よく指導していただきました。その恩を仇で返してきましたことは慙愧に堪えませんが、その先生も先年他界されました。蓬茨先生の選集が出版されましたように、来年、宮城先生の選集が出版される予定であると伺っています、楽しみにしています。

釈尊伝 質疑応答より

2010-09-26 22:02:52 | 生きることの意味

   釈尊伝 質疑応答より (1)

 質問 応供は人々の供養に応ずるだけの徳があると。これはよろしいのですけれども。それだけの利益を人々に与えるということですが、利益は人に与えるものでなくて、自分のものとして自分の中にみるのではないですか。

 蓬茨 いやいやそうじゃないのですよ。仏陀は人の供養に応ずることができるという意味であって、仏陀以外は応ずることができないということに対する言葉です。

 質問 それだけの利益を人に与えるとは?

 蓬茨 ですから、ほかの人は損を与える。つまり乞食が物をもらいにくると物をやるでしょう。やったら損をしたのですもの、一文をやると一文だけ損をしたことになるでしょう。

 質問 いや、受けとった人は、与えてもらったのではなくて、自分の中にその法をみいだしたということでは・・・・・・。

 蓬茨 それは違います。この場合は仏という意味なんですから。われわれの考えでいうとあなたのおっしゃるようなことになりますけれども、仏という意義をあらわすときには、仏には自利と利他と、一応この二つにわけて考えますけれども、利他が主なんです。応供というもこれは利他の意味なんです。人が供養するというときに、受けとる人は受けとることによって地獄におちるということなんです。つまり乞食に物をやるでしょう。ありがとうございますというて受けとったら、これは三日したら乞食がやめられないですよ。これは地獄に落ちるのですよ。ですから受けとる資格のある人は、相手にそれだけ徳をかえさねばならぬのですよ。同じだけのおかえしをしたんでは同じ人間ですわ。ギブアンドテイクになってしまいますわ。

 ですから、仏陀は供養に応じられれるというのは、供養したものに対しては、その人が願うてもおらん以上の徳が与えられる資格があると。こういう意味なんです。ですから供養した人はそう思うておらんですね。これをあげたいと。これによって幸福を与えて下さいといっても、小さな幸福しか願わんのです。しかし、仏陀の方でそれに対して与えるところの幸福というものは、自分と同じ仏陀にまでなることができるという功徳を与えるということなんです。そうすると、本人は知らんからなかなかそこまでゆくのには骨がおれる。けれども、それだけの徳が仏陀にはあると。こういう意味で応供ということがいわれるわけです。ほかの人はその供養に応ずる徳がないから、うかつにもらわれないということです。比丘が托鉢して食物をうる場合にも、行乞したものを私的にできないというのはそこにあるのです。みな持って帰って、そして全体のものとして、それぞれが平等にわけあって食べると。つまり自分たちにはその功徳がないからですね。一応、仏陀の徳としていただいたのだから、それを自分たちがいただくのだ。これによって自分たちは修行して仏陀になるのだと。こういう意味で食を請うてあるくと。こういう意味なんですね。仏陀の徳によって食を請うのであって、そうでなければ乞食ですね。そういう意味で応供というのは、一つでてきておるわけです。

 それで、仏には如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊と。そういう意義をもった教えであるということですから、仏という意味をつらねたものから申しまして、われわれの問題としましては、なかなかそう遠く離れたものではありません。それが遠く考えられるということは、いわゆる今までの知識でありまして、知らず知らずに入ってくる知識でありまして、まず第一に二千五百年という年月ですね。そういう意味で遠く考えられる。それからみえるところのものが、過去のものが残っておりますから遠く考えられるのであります。言葉をたどってみると語られている言葉が、また遠く考えられると。それはそのはずでしてわれわれの考え、われわれのもちいる言葉。みなこれ異質の世界からの言葉がわれわれの日常の言葉になり、日常の思考になっております。近代になりましてから、西洋という異質の世界から伝わってきたものによって、われわれの頭が組織せられてきましたから、そういう意味で遠く考えられます。そういう意味で遠く考えられるわけを一つわかっていただきたい。わけはそういうわけがあったのだと。それで遠く考えられるわけがわかったら、問題は近きにあり。仏教そのものは、われわれ自身のもっておる問題に即して離れないところにあるのだと。

 そこからみるとどうとれるかということですね。これが今後の仏教というものの有り方でございますね。今日までの仏教を今後生かしてゆくというようなことでは、これは到底仏教が生きるということはないでしょう。むしろ仏教の本質というものを、われわれ自身の手もとというところにあるということからはっきりしていかねばならんのではないかと思います。仏教自体はそういう意味で二千五百年以前も今日も表現の差こそ違え、意義そのものにとっては、今でも生き生きとわれわれの生活に即した教えであるということは変わりありませんけれども、それをみつけなければならんのです。だからというて生きておるとはいわれない。そういう問題がございます。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より(東本願寺発行・真宗カリキュラム資料 1 仏陀 釈尊伝 p260~p266)


第三能変 別境 独並門 。 別境心所が二つ起こる場合

2010-09-25 23:50:59 | 心の構造について

 第三能変 別境 独並門 護法正義を述べる

  - 別境の心所が二つ生起する場合について述べる -

 「或る時には二を起す、謂く、所楽と決定との境の中に欲と勝解とを起す。或いは所楽と曾習との境の中に欲と念とを起す。是の如く乃至所観の境の於に定と慧とを起す。合すれば十の二あり」(『論』第五・三十二左)

 「述曰。此れは(A)境において、ただ二を具する義を説く。故に二を起すと説く。(B)今、或いは二の境において二を起すと説く。」(『述記』第六本上二十一右) (A)の説は、一境に対して二の別境を具すというのですが、慈恩大師の言いたいことは何であるのか、はかりしれません。これからの課題として今は伏しておきます。(B)の説明により進めていきます。

 (意訳) 或る時には二つの別境の心所が起こる。例えば、所楽と決定との境に対しては、欲と勝解とを起すのである。或いは所楽と曾習(串習)との境に対しては、欲と念を起すのである。このように順次組み合わせて行き、所観の境に対しては定と慧を起す。これらの組み合わせは合計で十通りある。

 別境の二つの心所が起こる場合、その時には境が二つ有ることになる。その組み合わせが十通りあるということです。十ケの二という言い方をしています。

 「今。論にはただ欲の所楽のみをあげて合す。謂く(1)所楽と決定とを初となし、合して欲と解とを起す。(2)所楽と曾習との境をもって合して欲と念とを起す。(3)所楽と所観とをもって合して欲と定とを起す。(4)所楽と所観とをもって合して欲と慧とを起す。

 次に決定をもって初となし、余を合するに三あり。謂く(5)決定と曾習との境をもって合して解と念とを起す。(6)決定と所観をもって合して解と定を起す。(7)決定と所観をもって合して解と慧を起す。

 次に曾習をもって初とするに二あり。謂く(8)曾習と所観をもって合して念と定を起す。(9)曾習と所観をもって合して念と慧を起す。

 次に(10)所観をもって同じく定と慧を起す。一となす。

 今、『論』には三あり。初の二と及びこの後の一とを挙げる。総じて以前を合すれば、十ケの二の句数あるなり。(『述記』)

 『論』は最初の所楽の境についての(1)と(2)と最後の所観の境についての(10)を出して、他も同様であると述べています。


第三能変 別境 (独並門) 護法正義、その(5)

2010-09-24 21:49:38 | 心の構造について
 第三能変 別境 (独並門) 護法正義を述べる。
  ー 所観の境に対して慧のみ起す場合を述べる -
 「或いは所観の於に唯簡択のみを起す、謂く、専注せずして馳散(ちさん)して推求するぞ」(『論』)
 「述曰、或いは唯慧のみを起す。謂く掉挙(じょうこ)多き者は一境に専ならず。其の心を馳散して、法相或いは復た事理を推求す。唯慧のみ有って定無きことも亦世の共に成ぜる所なり。即ち四境の中に一々別に起こるなり。境互いに無き所なり。合わせて五種有り」
 (意訳) 或いは、所観に対して、ただ簡択のみを起す。その理由は、専注せずして馳散して、推求しているのである。
 『述記』によりますと、これは、つまり、掉挙(随煩悩の項参照・定を妨害する働きをもつ。「ウゴキサワギスル心ナリ」)が多き者は、一境に専注することができず、その心を馳散(心をあちらこちらに動かして)して、所観の様子や事理を推求(推し量り考え求める)する。つまり簡択の働きであって、この場合には慧のみ起こり、定は起こらないのである、と述べています。
 以下、別境の心所が二つ生起する場合・三つ生起する場合・四つ生起する場合・五つ生起する場合についてじゅ順次説明されます。

雑感

2010-09-23 19:40:33 | 聞法の意義
 小・中・高の夏休みは先月末日を以て終わり、夏のいろいろな思い出を胸に第二学期の授業に励んでいますね。今日は気温もぐっと下がりました。一気に長袖です。秋は短いのでしょうか。異常気象に依って、紅葉もずいぶん遅れているようですが、行楽の秋・読書の秋・芸術の秋と、秋の夜長を楽しむ時節になってきたようです。私事ながら、息子の大学一回生の夏休みが終わり、後期の授業が明日から始まります。夏休み前に前期の試験も終っていて、おおいに学生生活を送っていたようですが、将来の目標が有るのか、ないのか、はっきりしなくて親としてははらはらどきどきの日常です。勉強好きの学生は勉強に精をだし、スポーツ好きの学生はスポーツに精をだし、遊びが得意な学生は遊びの中から自分にとって何が大事なことなのかをつかみ取ってもらいたいと思っています。先日も息子さんが司法試験に合格して喜んで話されていた知り合いの方がいらっしゃいました。嬉しかったと思います。一生懸命に頑張って、努力をして、難関を突破して掴みとられた栄誉には心から敬服し、おめでとうといったあげたいです。しかし大切なことは、一つの形から何を学ぶかなのですね。その点をはずしてしまいますと、合格・不合格或いは勝つ・負けるという差別を生みだしてくるのです。“生きていること・それが奇蹟”という眼差しが必要なのではなでしようか。「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大きなるよろこびなり・・・また妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念の外に別の心もなきなり。臨終の時までは一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて・・・」(『横川法語』)真聖p961)という眼差しですね。私たちは仕事に関しても、出来る人・出来ない人と差別をして接してしまいます。出来る人を優遇し、出来ない人を冷遇するという構図が成り立っているようです。子どもにしても出来る子・出来ない子と差別をしながら子育てをしているのではないでしょうか。恐らくそんなことはない、と否定されると思いますが、心の奥底ではどうなんでしょうか。勝てば官軍・負ければ賊軍ではないのですね。共に命をつなぐともがらなのです。この一点に立たれたのが親鸞聖人ですね。仏教学に立たれたのではなく、仏教の学びは自己と自己を存在させる大地、すなわち、身と土の問題に自分を尋ねられたのではないでしょうか。「共に是れ凡夫ならくのみ」(『十七条憲法』第十条・真聖p965)ここに本当の私の立脚地があると思いますが、いかがでしょうか。

第三能変 別境 ・ 護法正義を述べる(4) ・ 釈尊伝 明行足

2010-09-23 18:08:25 | 心の構造について

 『釈尊伝』 仏の十号について

       - 等正覚 ・ 明行足(みょうぎょうそく) -

 「それから等正覚。これは無上等正覚で、無上が略してあります。もう上がないということです。無上とは無限ということです。限りがないという意味です。そして、これにくらべるものは、他にないという意味とがあります。等正覚の等は、平等ということであり、平等は普遍ということです。あらゆるものにゆきわたってゆきわたらんことがないところの正しい覚りの智慧ということです。それで等正覚というのであります。

 それから明行足、行足と申しますのは、生活ということとしてみてよかろうかと思います。行も行く、足も行くですが、つまり生活は、今日では機械で生活するようになっているように思いますけれども、本当は生活は足なんですね。生活は足である。足ということは歩むということです。人間は歩むことを忘れた生活をしている。これが今日の生活でしょうね。歩みを忘れた生活。レジャーということを楽しむための生活は、歩みを忘れた生活です。ですから行はいわゆる無上等正覚の生活であります。しかもそれの歩みがあると。その歩みはどういう歩みかといいますと、仏陀の歩みはどこまでも限りがない。それは衆生、苦しんでいる人々をおとずれて、そしてことごとくみな解脱を得しめるという歩みを続けるということです。

            - 善逝(ぜんせい) -

 善逝は先に申しましたので・・・・・・。(善逝とはよく死ぬことができるということですね。われわはよく死ぬことができない。仏というのはよく死ぬことができるということです。本当に死ぬことができると。死ぬときに死ぬことができるということです。それはなぜかといえば、死を解脱したら、もう死なんのではない。それは死ぬときに死ぬことができると。それが本当に生きるという意味です。ですから仏教という意味をさらに考えてみますときに、この十号をおもいだしてみますと、意味がなかなか広いということがわかります)

            - 世間解(せけんげ) -

 世間解は、仏陀というたら世間のことをかえりみないと思いますから・・・・・・。一番世間のことのわかっているのが仏陀だということです。一番俗世間のことがわかっているのが仏陀である。普通は知らぬが仏であると。仏は極楽という覚りの世界は知っているけれども、われわれのような世界を仏さんは知らんことだと思うていますが、ところがそこが一番わかっているのが仏陀である。こういう意味なのです。これは曽我先生が申されていたことですが、昔、なんとかという罪人で、なにか先生の若い頃に新聞にでた大詐欺師がおったそうです。それがとうとうつかまって牢屋に入って、そこでさし入れてあるところの真宗聖典の大経を読んだというのです。そして下段の三毒段、五悪段を読んだと、そして彼がびっくりしたというのですね。仏さんというのは極楽のことは知っておるけれども、われわれのことは知らんと思うておったら、よう知っておるなぁと驚いたというのですね。いいことは知っているけど悪いことは知らんのが仏だと思うておったと。なんとまぁ悪いことを知っておるものだなぁと驚いたというのです。それから牢屋からでてきてから、さっそく真宗の信者になったというのです。そんな話を曽我先生がされたことがあります。ですから世間解といいますのは、普通は俗世間を離れて、もう迷いの世間というものと別れて覚ってしまったと。こういうふうに考えております。ところが世間のことを一番よくわかっているのが仏陀なんだと、こういう意味であります。

- 無上士 ・ 調御丈夫(じょうごじょうぶ) ・ 仏世尊 -

 それから無上士、これは文字の通り、いわゆる無上と申しますのは、他に勝るものがないという意味ですね。士はどのような敵に対してもこれに勝って、これを降服させること。いわゆる一切の魔を降服させるという意味で無上士というのであります。

 それから調御丈夫、これは丈夫というだけですと、ますらお(剛勇な男性)というわけですけれども、単に男というだけでなくして、よくととのえられている。よく練られている。いかなることに出あっても、それを碍りなく解決してゆくところのますらおというような意味になるでしょう。

 それから仏世尊。仏という文字の意味になりますと、覚りという意味になります。自覚というてもよいですけれども、その中には自覚ということもありますが、同時に他のものをも覚すると、両面において覚するということですね。それから世尊。これは世においてもっとも尊重せられるということであります。こういうような意味がございます」。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より。 次回(9月26日、配信予定)は仏の十号のもつ意味についての質疑にはいります。非常に大事なことを教えられてありますので、またお読みください。

               - ・ -

 第三能変 別境 ・ 護法正義を述べる(4)

     - 所観の境に於ける、定の説明、その(1) -

 「彼の加行(けぎょう)の位に少しの聞思すること有りき、故に等持は所観の境を縁ずと説く」(『論』) (第一解)

 「述曰。此の愚昧の者の心を摂斂せる加行の位の中に於いて、少しく聞思すること有り。或いは師の心を眉間に斂(おさ)むる言を説くを伝聞するに依り、或いは独り経論を尋ねて心を斂むる語を見て、少しく簡択すること有り。然るに心を斂むる時には但所縁に住して、心を眉間に繋げて簡択すること能わず。此の定の所縁の境は、前の加行の位に従って、説いて所観の境と名づく」(『述記』)

 摂斂(しょうれん) - 摂も斂もおさめるという意味がありますが、摂にはまたおそれる・びくびくするという意味もあります。愚昧の者の心は、なにものかにおそれ、ざわめき、びくびくしているということではないでしょうか。私の心の状態ですね。何ものをも恐れないということであれば、心は常に平静を保っているのでしょうが、私の心は常にざわめいて、集中するということはありません。しかし、そのような心を抑えようと努力はしますね。その、ざわめいている心をおさめる(散心を止めようとする)のが加行位であり、この加行位に於いて聞思ということがある、と述べられています。

 (意訳) 問。所観は慧の境である。しかし『論』に定は所観を縁ずというが問題はないのか。答。問題はない。何故ならば、愚昧の者の定の加行位では、少しではあるが、聞思することがある。そのために等持(定)は所観の境を縁(認識)ずると説かれるのである。

 聞思は修を加えて三慧といわれるものです。智慧を修行の順序によって、聞慧・思慧・修慧の三つにわけたものです。このことから、聞・思は境を簡択する働きが有るということになりますから、慧があるということです。慧があることに於いて所観の境であることになり、聞思するということにおいて慧が起こらない境であっても、所観の境としてもよいというのです。

 師の心、師の指導ですね。私たちは無師独悟というわけにはいきません。眉間に心を集中して散乱する心をおさめるようにという、師の指導によって、間違いのないように修行をするわけです。これが聞慧ですね。あるいは、独りで(師の指導を受けながらということでしょう)経論を読み、真理を尋ねるなどをして、心をおさめる語を読んで、少しながら慧が簡択することが有る。これが思慧になりますね。そして修業することに於いて得られる修慧を加えて、三慧といいます。しかし、心をおさめる時にはただ所縁に住して、眉間に心を繋げて定は存在するが簡択することはできず、慧は起こらない。この定の所縁の境は前の加行位で慧の所観となっていたことから、所観の境と名づけるのである。

      - 所観の境に於ける、定の説明、その(2) -

 「或いは多分に依って、故是の言を説く。戯妄天の、一境に専注して貪瞋等を起すが如し、定のみ有って慧無し。諸の是の如き等は、其の類、寔(まこと)に繁し」(『論』)

 (意訳)あるいは、多分に依って、このように説かれるのである。戯妄天が、一境に専注して、貪欲や瞋恚を起すようなものである。「一境に専注して」、定のみあって、「貪瞋等を起すが如し」と、慧は存在しないのである。このような例は、その種類は非常に多いのである。

 「述曰。これは第二解。あるいは所観の境は、多くは定と慧と倶なり。この愚昧の者は慧の数なしと雖も、余の多分に従って、故に定の境を説いて、名づけて所観となす。欲界の中の戯妄念天の如きは、多く染に耽るを以ての故に、一境に専注す。意憤恚天の眼を角(そばだ)て相視て心を専らにして死を致す。又或いは貪を起し、或いは他を瞋する等は、ただ専注のみ有って簡択すること無し。亦癡多きが故に、其の類一に非ず。此の如く愚癡闇昧多き者は、唯定のみ有るが故に、所観に於いて一の定のみを起すなり」(『述記』)

 (注) 戯妄念天(けもうねんてん) - 欲界六天の中間にある天。この世界の天人たちは種々の戯楽(けらく - 世俗の快楽を享受すること。快楽をたのしむこと)に耽って正念を忘れ去り、ついに天から去るという。

 意憤恚天(いふんにてん) - 意忿天ともいう。この世界の天人たちは種々の怒りを発することによって、天より去るという。

 例を挙げて説明しています。例とは戯妄念天と意憤恚天が一境に専注して、簡択の働きが無いことを挙げ、愚昧の者は定のみ存在して、慧が無いので、これらの場合には、所観に対して、定の心所のみが起こるという。  

               


第三能変 別境 ・ 護法正義を述べる(3) ・ 釈尊伝 (応供)

2010-09-22 23:08:24 | 心の構造について

        釈尊伝 仏の十号・応供について

 「応供は供養に応ずるということでして、われわれは人からなにかもらいますね、するとすまんとかありがとうとか申します。ところが仏陀だけは、ありがとうともすまんということもいらん。もらうだけの権利があるというわけではないが、人の供養に応ずる徳があるというわけです。つまり、くれた人がくれたことによって得るところの利益がある。仏はその利益を与えられる。仏はくれた以上の利益を与えられるということです。ですからお経をあげてお布施をもらいましても、われわれは大威張りでおれるのです。なぜかといえば、くれた以上の利益を相手に与えておる。これが応供です。本当をいうたら全財産をくれてもいい。けれどもわずかに紙に包んだものしかもらわない。けれどもくれた方は、全財産を包んでもおよばんほどの功徳をいただいているという意味があるのです。ただしわれわれでなくて仏陀ですよ。われわれはどうも向こうがみた通りに、みただけの利益しかないのでしょう。でもそれだけの利益があればこそくれるのであって、卑下することはいらんのです。向こうはそれだけの値うちがあるとふんでいるのですから、こちらはふまれることはないんです。・・・応供というのは、たとえば、あるとき仏陀になにもささげる物がなくて、砂一つかみをささげたと。それでもそのささげた功徳によって、その貧しいものが死後天に生まれることができたという物語があります。死後天に生まれるなんてあるだろうかと考えますけれども、それはそういうことではないのであって、一つかみの砂に対して、仏陀の与えられる功徳というものは、その人から貧しさを追い払って天の楽園に遊ぶような大きな幸福を与えたと。こういうような大きな幸福を与えたと。こういうような意味になります。それは昔は死後天に生まれるというふうにいわなければわからなかったのです。なぜかといえば、今砂一つかみをあげたからといって、急に天に生まれることはないのですから。以前と貧乏ですごすのですけれども、しかし本人は貧乏を貧乏をいささかもなげかない。非常に幸福感というものを感じて生きることができるようになったと、こういうようなことですね。ある意味で貧乏な人間は、死んで天国に生まれた人となって生きたと、こういえるのでしょうね。(つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

              - ・ -

      第三能変 別境 ・ 護法正義について(3)

 昨日のつづきになります。『述記』の記述から検証します。

 愚昧の類の極めて愚癡なる者は、散心を止めようと(斂と麤動の心を抑えようと)する為に、所縁に専注して、念を繋ぐのである。ただ所縁にたいして散心を止めようと専注しているだけであって、諸法の道理を簡び分けることはないのである。ただ眉間等を縁じて、心を住させる眉間定のようなものである。この時の中にはすべて定のみあって、慧はないのである。世間の人びとは皆共に周知のことである。従って、この場合は定も慧も同一の所観の境を対象とするが、定のみが生起し、慧が存在しない場合があり得るといわれています。しかし、ここに一つの問題が生じてきます。「若し爾らば、此の境を何ぞ所観と名づくるや。所観の言は慧の境なるが故に」、という問題です。この答えが次の科段で説明されます。

 昧(まい) - くらますこと。むさぼり。心の働きが劣っていることをいう。

 斂(れん) - おさめる。おさまる、という意。