唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(36)

2020-08-15 11:02:06 | 『成唯識論』に学ぶ
 
 おはようございます。猛烈な残暑ですね。皆さまお気をつけて行動してください。
 先週のつづきになります。第八識の行相・所縁について考察しているところですが、第八識の識を自体として、行相を見分、相分上に種・根・器を変現しているわけです。ここは純粋経験になります。しかし、純粋経験が何故覆われてしまうのかを解き明かしているのが唯識を学ぶ上での醍醐味ですね。
 『三十頌』第十五頌に「依止根本識・五識随縁現」(根本識に依止す。五識は縁に随って現ず。)と表されていて、第六意識は常に根本識である第八識を依り所とし、五識は意識の影響下に置かれているわけです。しかし五識と第八識の関係は現量(分別を加えないありのまま)なんです。
 私たちの経験することのすべてを第八識はありのまま分別を加えないで認識しているのです。経験は五識に依って純粋なのですが、意識が介在することに於いて染汚されてしまうのです。意識が悪いわけではありません。意識も(第七末那識という自己に執着する心)にコントロールされてしまうのです。ですから、意識は三量(現量・非量・比量)に通じます。
 キーは第七末那識がどこで転依するかなんです。
 第七末那識が関与することに於いて、第八識は阿頼耶識と呼ばれます。阿頼耶識自体は迷っているわけではないのですが、第七末那識に覆われているところに、現存在として苦悩を感じているのですね。僕はね、苦悩は阿頼耶識の叫びだとおもっているのです。そういう意味では苦悩は菩薩道かもしれません。
 略説唯識で次のような言葉がありました。
 「内識が転じて外境に似る。我法と分別する熏習力の故に、諸識が生ずる時、我法に変似す。此の我法の相は内識に在ると雖も、分別に由って外境に似て現ず。諸の有情類は無始の時よりこのかた、此れを縁じて執して実我実法と為す。」
 「外境に似て現ず」が能変・所変の関係ですが、それを実体的にとらえ執着するところに我々の解決のつかない迷いがあるわけです。迷いにも二つの相があってですね、解決のつかない迷いと、解決のつく迷いがあるということなんだと思います。
 対象化された心は、対象化する働きの上に成り立ったものなんです。つまり、対象化された心は、心の影ということになります。こんな心では駄目だと思っている心が存在する、外に投げ出された心は影像になりますね。
 私たちは無始以来ですね、有漏(迷い)の種子を引き継いでいる。種子生現行・現行熏種子として展転同時因果として変現しているのです。これが因縁変になりますが、迷いは迷いの道理によって迷っていることなんです。これは解決のつく問題なんですね。 しかし、私たちは、分別によって自分に執着をしていますから、執着をした自分を立てますから、立てた自分が迷うわけです。この迷いは自分が問題になっておりませんから、解決のつかない迷いということになると思います。
 今しばらくは、第八識の内部の構造を学んでいくことになります。
 阿頼耶識は有漏(迷い)の識ですが、この有漏の識が変化して現れてくる。その現われ方に二種類あって、一つは因縁変であり、一つは分別変である。初めのは、因と縁との勢力に随って変現するもので、阿頼耶識の具体相は任運の義だと教えられているわけです。種子生現行、種子より現行を生じてくることは、因が熟して果となる、異熟ですね。これには力用があって、任運である。意識的な分別ではなく、自然に因縁の力に由って識が変化することなんです。このような識の対象となったものには実際的は働き(実用)があるのです。
 「有漏の識の変に略して二種有り。一つには因と縁の勢力に随って変ず。」(『論』第二・三十二右)
 『述記』は、「因縁生というは、謂く先業と及び名言の実種とに由る。即ち要ず力有るなり。唯任運なる心なり。作意するに由って其の心乃ち生ずるには非ず。」 と釈され、作意(思考・分別)をまじえなることなく、阿頼耶識が自然に対象の世界を変えていく、種子が現行を生む、過去の一切の経験が種子として熏習されているわけですが、私が生れてから現在に至るまでと言う時間経過をいうのではなく、不可知ですからわかりませんが、始めなき永遠の過去からの遺伝子情報が今、現行しているわけです。このような現行の在り方はごく自然であり、自ずから力と働きが有るわけです。これが一人一人の人格を形成しているわけですから、一人一人の唯識なんです。一人一人の阿頼耶識なんですね。三類境でいうところの性境です。これが因縁変になります。
 「ニに分別の勢力に随って故に変ず。」(『論』第二・三十二右)
 分別には私が入りますね。意識的な分別の力に由って変化することです。分別によって変化されたものには力用(実際の働き)がありません。考えられたものはすべて影像なんです。影には実際の働きはありませんが、それと同じですね。詳しくは、独頭の意識の心心所の相分、第七末那識の心心所の相分、第八阿頼耶識の心所の相分をいいます。
 「作意して生ずる心なり」と『述記』は注釈しています。作意して生ずる心は、籌度(ちゅうたく)する心である。籌ははかいごと、策略という意味ですから、自分の思慮分別によって作り上げられていく自己になります。此の場合は、自分の都合のいいように策略を巡らして対象を自分で変えていくのが分別変になりますが、「籌度することのない心」が因縁変で、本当の心なんですね。
 籌度(ちゅうたく)する心は、「思量し籌度して己が有と為さんと欲す」、自分の思い通りにしたいとする欲求が間違いを起こすことになると教えられています。
 「初めのは必ず用有り。後のは但し境のみと為る。」(『論』第二・三十二右)
 初めのは、因縁変。後のは分別変。分別変は対象となる、対象となるが力をもたない。つまり、考えられたもの、考えられた対象は任運ではなく、妄想ということです。
 随って、阿頼耶識の所縁、対象は外器・種子・五根が因縁となって現行が生ずる、心心所を対象とすることは考えられたものであって、考えられた心には、考えている心が変化したもので、考えている心には力用はありますが、考えられた心には力用は無いということになります。すべては妄念・妄想の世界ということになりますね。一生夢芝居に終わっていいのでしょうか。 またですね。

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