唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 (8) 瞋の心所 (1)

2014-02-08 22:20:36 | 第三能変 煩悩の心所について

 明日は、午後三時より、旭区千林の正厳寺様にて、唯識の講義をさせていただきます。
 先月は阿頼耶識の三義について考えさせていただきましたが、今月はさらに深く考えてみたいと思っています。そして因相である一切種子識について触れてみたいと思います。『成唯識論』においては、種子というのは「本識の中に親しく自果を生ずる功能(クウノウ)差別(シャベツ)なり。」という定義があります。この定義の意味するところを少しでも触れられるように話せればと思っています。よろしくお願いいたします。

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 煩悩の心所の二は、瞋の心所について説明されます。

 「云何なるをか瞋(シン)と為す。苦と苦具との於(ウエ)に憎恚(ゾウイ)するを以て性と為し、能く無瞋を障え、不安と悪行との所依たるを以て業と為す。」(『論』第六・十三右)

 どのようなものを瞋の心所というのか。(答え)苦と苦具に対して、憎恚することをもって、その本質的な働きとし、よく無瞋を障碍して、不安と悪行の所依となることを以て業とする心所である。

  •  苦 ー「苦とは即ち三苦なり」。苦苦・行苦・壊苦の三種の苦のこと。詳しくは後に述べます。
  •  苦具 - 苦を生ずる因。 
  •  憎恚 - にくみいかること。

 「瞋」について考えてみますと、「苦と苦具とに於いて」、瞋という煩悩が生起するのだといわれています。苦は四苦八苦といわれますように、今の自分が壊れるのではという不安からくる苦(壊苦)。それから近頃は寒い寒いといいますね、それが苦になるのです(苦苦)。それから行苦です。自分が常にあるという思いがありますが、本来は無常・無我ですね。そのギャップに苦しむのだといわれているのですね。この三苦を苦とあらわしています。苦具は苦に備わったもの、苦を生んでくるすべてですね。それが心を激しく乱すわけです。怨みですとか、嫉妬ですね。これ等が激しく心を乱し怒りを生んでくるのです。性は「憎恚するを以て」といわれます。憎み怒るということです。怒るということはもう鬼の形相ですね。相手を睨みつけて、威嚇していますね。怒ったときを想像してみますと、眼を見開いて睨みつけていますでしょう。この心を瞋というのです。そして根に持つということがありますね。いつまでもですね。これを恚というと教えられています。『成唯識論』には「苦・苦具とに於いて、憎恚するを以って性と為し。能く無瞋を障へて、不安と悪業との所依たるを以って業と為す。謂く瞋は必ず身・心をして熱悩して諸の悪業を起さ令む。不善の性なるが故に」と教えています。

 『演秘』には、『瑜伽論』巻第五十五の中に瞋が発生する縁に十あることを挙げ、また五十八には、四種あることを挙げて説明しています。

 「論。云何嗔等者。五十五中由十事生。一己身。二所愛有情。三非所愛有情。四過去怨親。五未來怨親。六現在怨親。七不可意境。八嫉妬。九宿習。十他見 又五十八云。謂有四種。具如疏列。略爲二釋。一云。一於損己他見。二損己他有情。上損己言談下兩處。一云於損己。二他見他有情。餘二可悉。」(『演秘』第五本・三十二左。大正43・917b)

 瞋というのは、『瑜伽論』巻第五十五の中に、十事に由って生ずことを明らかにしている。

  1.  己が身(自分自身)
  2.  所愛の有情(愛する有情)
  3.  非所愛の有情(愛していない有情)
  4.  過去の怨親(過去の恨みと親しみ)
  5.  未来の怨親
  6.  現在の怨親
  7.  不可意の境(自分の意に叶わない対象)
  8.  嫉妬
  9.  宿習(シュクジュウ)過去世における繰り返し行ってきた行為で、「宿習を縁として煩悩が現行す」と云われています。
  10.  他見

 以上、ありとあらゆるものを縁として瞋は起こってくるのだということを教えています。己が身が総相であり、開くと二以下ということになりましょうか。自分自身の背景に瞋が有る、瞋というコンプレックスにさいなまれながら、瞋を覆って生きていますから、心が安らかにならず、そして悪を為すことの所依になってしまうのですね。忿・恨・悩・嫉・害という随煩悩は瞋の分位仮立法なのです。 (この項つづきます)


第三能変 煩悩の心所 (7) 貪の心所 (2)

2014-02-07 22:28:16 | 第三能変 煩悩の心所について

 「能く無貪を障え、苦を生ずるを以て業と為す」という一文について、更に詳しく貪の業について説明を加える。

 「謂く、愛の力に由って取蘊(シュウン)生ずるが故に。」(『論』第六・十三右)

  •  取蘊 - 取は煩悩のこと。蘊は五蘊。五取蘊の取蘊のことで、五蘊は取より生じることから、取蘊といい、また取を生ずるから取蘊という。この場合、取は欲貪という煩悩であり、この欲貪が種子となり、未来と現在との有漏の五蘊が生じることを述べているのです。
  •  「愛の力」 - 貪のこと。

 『述記』はこの間の事情を次のように述べています。

 「若しは発業し、若しは潤生して、皆取蘊を生ぜしむ」と。貪によって煩悩を潤し(潤生)、業そのものを発し(発業)五蘊を生じる因となる、と説明をしています。

 「論。謂由愛力取蘊生故 述曰。若發業。若潤生。皆令取蘊生。非謂唯潤惑。上二界中。由愛靜慮等故。彼諸煩惱因此増長亦取蘊生。大論第八・五十五・及五十八・顯揚・五蘊・對法皆廣説貪相。然大論第八同此。」(『述記』第六末・二左。大正43・444a) 

 

 「疏。愛佛貪滅皆染汚收者。有義今解此等非是法執。若不堅著但起欣求。此既善心不可名執。可同有部名善法欲。若起染愛是煩惱貪 詳曰。如名起義既云貪佛。豈有貪法非是染執名爲善耶。若但欣求不起染執。誰言此等名之爲貪。又誰不知是善法欲勞爲分別。 
 論。謂由愛力取蘊生故者。釋此貪等聖教非一。大意無著但廣略異。蓋作者意取尚不同。今引異要同繁不取。顯揚第一云。業有五能障無貪爲業。障得菩提資糧圓滿爲業。損害自他爲業。能趣惡道爲業増長貪欲爲業。餘嗔等業皆有五種。初後二別。中三並同。思作可悉 五十五中貪由十事生。一取蘊。二諸見。三未得境界。四已得境界。五已所受用過去境界。六惡行。七男女。八親支。九資具。十後有及無有。」(『演秘』第五本・二十二右。大正43・917a~b)

 (「述して曰く。若しは発業、若しは潤生、皆取蘊を生ぜしむ。唯潤の惑を謂うのみには非ず。上二界の中には静慮等を愛するに由るが故に。彼の諸の煩悩は此れに因って増長す。亦取蘊生ずと云う。大論の第八、五十五、及び五十八、顕揚、五蘊、対法皆広く貪の相を説く。然も大論の第八は此の論に同じ。」)

 『演秘』の釈。

 (「疏に、仏を愛し滅を貪することは皆染汚に収むとは、有義は今解す。此れ等は是れ法執に非ず、若し堅著(ケンジャク)せずして但欣求を起すは此れ既に善心なり、執と名づくべからず。有部の善法欲と名づくるに同ずべし。若し染愛を起こさば是れ煩悩の貪なり。詳らかにして曰く、名の如く義を起す、既に仏を貪すと云う、豈、法を貪すること有るも是れ染執に非ずして名づけて善と為さんや。若し但欣求して染著を起こさざるをば、誰か此れ等をこれを名づけて貪と為すと言う。又誰か是れ善法欲と知らずして分別を為すことを労せん。」

 「論に、謂く、愛の力に由りて取蘊生ずるが故とは、此の貪等を釈する聖教一に非ざるなり。大意差無し、但広略異なり、蓋し作者の意取尚不同なり。今異なる要を引く、堂は繁を以て取らず。顕揚の第一(大正31・481c)に云く、
 業に五有り
 (1) 能く無貪を障ゆるを業と為す。
 (2) 菩提を得る資糧円満することを障ゆるを業と為す。
 (3)
 自他を損害するを業と為す。
 (4) 能く悪道に趣くを業と為す。
 (5) 貪欲を増長するを業と為す、と。

 余の瞋等の業も皆五種有り。初後の二は別なり。中の三はな並びに同なり、思作して悉(ツマビラカニ)にすべし。

 五十五の中に、貪は十事に由りて生ず
 (1) 取蘊(五蘊)
 (2) 諸見(諸の悪見)

 (3) 未得の境界(未だ得ていない境界)
 (4) 已得の境界(已に得ている境界)
 (5) 已に受用せし所の過去の境界(すでにうけた過去の境界)
 (6) 悪行、 (7) 男女、 (8) 親友、 (9) 資具(生活の為の道具、器具)、 (10) 後有及び無有(未来と断見)といえり。」)

 大乗仏教、特に法相唯識では、仏や涅槃、無漏法に執着することは貪に収める(貪であると位置づけされる)が、有部の教説では、上地や無漏を貪ることは善法欲(『倶舎論』巻第十九。大正29・102b~c)と位置付けされている。


第三能変 煩悩の心所 (6) 貪の心所 (1)

2014-02-06 21:43:20 | 第三能変 煩悩の心所について

 体と業ということですが、体は、本質或は本性をあらわし、業は、その具体性、本質がどのように働き、どのような結果をもたらすのかを明らかにしたものでしょう。

 貪の体と業について、「云何なるをか」これは根本煩悩すべてにかかってくる問いです。「どのようなものを」という意味になります。「どのようなものが貪の心所になるのか」という問いが出されています。

 体は、有と有具に対して、染著することであり、業は、よく無貪を障碍して、苦を生じさせる心所である。

 貪の特徴は、ありとあらゆるものを求めて貪るこころの働き、といっていいでしょうな。まあ一番身近な煩悩といっていいと思います。あらゆるものを我所とし、そこに貪るこころが働くときは、聞法といえども、無貪を障碍して苦を生じさせる因となるということなのです。

 しばらく『述記』の釈に学んでみましょう。

「論。云何爲貪至生苦爲業 述曰。自下第二門也。釋六爲六。於中各二。初出體・業。後逐難辨 云何等者。雙問體・業 於有有具等。即皆雙答。然有難處論覆成之 於有者。謂後有。即唯異熟三有果也 有具者。即中有。并煩惱業。及器世等。三有具故 或無漏法。論下文説與見等倶縁無漏起。縁生貪者皆名有具。薩婆多師縁無漏。貪是善法欲。今大乘説。愛佛貪滅皆染汚收。與見倶生縁無漏起故。無漏法能資長有亦名有具。五十八等不説此貪縁無癡者。下文自會。」(『述記』第六末・初左。大正43・443c~444a)

 (「述して曰く。自下は第二門なり。六を釈するを以て六と為し、中に於て各々二有り。初に体と業とを出し、後に難を逐(ヲ)って辨ず。(「逐」は、あとを追うという意)
 云何等と云うは、雙て体と業とを問う。有と有具とに於て等とは、即ち皆雙て答う。然るに難有る處は、論に覆って
之を成ぜり。有とは謂く後有(ゴウ)なり。即ち唯異熟の三有の果なり。 

 有とは、迷いの生存のことですが、これはすなわち、異熟現行の果になるわけです。三有の果といってあるわけですから、三界は虚妄、迷いの境涯の果が「今」という現行の生をいっているんですね。そして「今」が後の果を引き起こす因ともなるわけですから、輪廻という観点からは、貪の種子が阿頼耶識に熏習され、現行を生み、現行にまた貪の種子を熏習させる三界の苦果の連鎖を生み出してくるのでしょう。

 有具と云うは、即ち中有並びに煩悩と業と及び器世間との等なり。三有の具なるが故に。

 有具というのは、有を生じさせる因であり、その因に、中有並びに煩悩と業と及び器世間等という、ありとあらゆるものが因となる、ということを述べています。これが三界の苦を招く因となり苦果を引き起こしてくると云われています。

 或は、無漏法もあり(無漏法もまた、三界の苦果を引き起こす因と為る)。論の下文に、見等と倶に無漏を縁じて起ると説く(悪見と倶に起こる無漏、即ち無漏法を貪ること)。縁じて貪を生ずるは皆有具と名づく。
 薩多婆師(サッタバシ)は無漏を縁ずる貪はこれ善法欲なりという。今、大乗の説くところは、仏を愛し、滅を貪することは、皆染汚に収む。見と倶生して無漏を縁じて起るが故に、無漏法も能く資して有を長ず。亦有具と名づく。五十八等にこの貪が無
を縁ずと説かざることは、下の文に自ら会す。」)

 有部の教説では、無漏を縁ずる貪は善法欲であり、仏を愛し、滅(涅槃)を貪することは、仏道を修する上で何等問題はないとしていますが、大乗仏教は厳密に、貪することは、いかなることとはいえ苦果を引き起こす因となる、とし批判を加えています。善法欲は、欲の心所になるのです。貪の心所ではないということを、はっきりとさせているのです。「若し染愛を起こせば、是れ煩悩の貪なり」(『演秘』)と明確に答えています。


第三能変 煩悩の心所 (5)

2014-02-05 23:11:54 | 第三能変 煩悩の心所について

 第二門 煩悩の心所の体と業について説明する。六を釈するを以て六を為す。六とは、貪の心所・瞋の心所・癡の心所・慢の心所・疑の心所・悪見の心所である。

 一が、さらに二つに分けられ、体と業とが問われる。(中に於て各々二あり)

 「云何なるを貪と為す。有と有具とに於いて、染著(ゼンジャク)するを以って性と為し。能く無貪を障へて苦を生ずるを以って業と為す。」(『論』第六・十二左)

 「云何」という言葉が置かれている意味は、貪についての、体と業を問うているのです。以下、瞋の心所等も、同じ意味になります。

 どのようなものが貪の心所であるのか。貪とは、有と有具に対して、染著(執着すること)することを以て性とする、よく無貪を障碍して、苦を生起させることを以て業と為す心所である。

  •  有 - 生命的存在(bhava)を指し、後有(迷いの生存)のこと。三有(三界)における異熟果。
  •  有具 - 「有」を生じる原因。中有と煩悩と業と器世間等。

 最初の三つの煩悩が三毒の煩悩といわれ煩悩の主といわれているのです。『述記』では、貪・瞋をまとめ「貪愛」といっています。それと癡です。癡は無明といわれますから煩悩を貪愛と無明の二つにまとめています。「貪」は「有」-私と 「有具」ー器世間ですね、私と私の世界です。世界といいましても私が作り出した世界ですね。一人ひとりの世界です。生まれた環境や育てられた環境、その人のもっている才能や経験によって人それぞれの世界観は違ってきます。貪りは一人ひとりの世界で染著し、そして苦を招来するのです。善の無貪を障碍して苦を生ずるといわれています。「貪愛」ということですが、「愛の力によって」といわれています。親鸞聖人も「貪愛・瞋憎の雲霧」と云われますね。愛を貪るということなのですが、何を愛し何を貪るのでしょうか。ここにいわれていることは、仏を愛し・仏道を愛し・涅槃の世界を愛することを貪る、貪愛するのであるというのですね。執着を起こすのです。ここは問題ですね。大事なことを教えられています。聞法に励む、仏道を歩むこと自体に貪りの心が働くのです。聞法が好きだ。、仏法が好きだというのが一番危ないのですね。貪れば皆、染汚に収められるのですから。「万のものを貪る心なり」といわれているのです。そして「貪」の深層にあって「貪」を起こしてくる働きですね。それを根本無明と云うのですね。ものの道理が判らないということです。私でいうと業縁存在であるということが判らないということになりましょうか。五蘊仮和合といわれても実感がありませんからね。仮和合が道理なのですが、私は私だと思っていますから。これが無明だと教えられるのですね。「諸の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に」と。

 愛の力によって貪る心が起きる。愛するということは美しい心です。人を愛し、芸術を愛する事は感性豊かな心ですね。清閑なひと時、そのひと時は日頃の喧騒を離れて静かに己を見つめる機会になります。しかしその全体が苦を生んで来るのだといわれているのです、これは問題ですね。

 『成唯識論』には有と有具とに於いて、これは有は異熟果・三有果であり有具は中有・煩悩・業・器世間であるといわれています。三有とは欲界・色界・無色界の三界に生存する存在をいいます。「三界は虚妄にして」といわれますように三界は迷いの境界です。何故かといいますと、煩悩と業です。「わたしはわたし自身の業が因となり苦悩する」といわれ、煩悩から業を生じ、その業に由って苦を生ずるのですね。いわゆる自縄自縛です。私が私に貪欲を起こすのだといわれているのです。愛ということはですね、ものを貪り執着することなのです。私から出てくる貪りはerosといわれ、性欲・生存欲・生存を否定する欲の三愛であるといわれています。これが業となり(欲を起こした行為と果としての苦です)行為と云う選択肢は多様ですけれども、いったん決定し行為・実行となるとですね、その結果は自己が責任を持って負わなければならないのです。貪る心を縁としますと、そこには必然として苦が生じてくるのですね。表層の意識で三毒の煩悩が起こってくるのですが、これはどこまでもどこまでも自己を愛してやまない深層に横たわっているマナス(末那識)という意識に染汚されているのですね。最初に愛は美しく、感性豊かであるといいましたが、その底に流れている自己愛にメスを入れ、自己愛を慈愛に転ずることができれば、美しくそして感性豊かな人生を送ることが出来るのではないでしょうか。仏教は三毒の煩悩を転じて、悔いのない、豊かな人生を送ることが出来るのであると教えているのではないでしょうか。

 「貪」が何故苦を生ずるのかという問題を考えてみました。『成唯識論』には「愛の力に由って取蘊生ずるが故に」と述べられているということも考えてみなければなりません。ここでは「取蘊生ずる」ということはどのようなことなのか考えてみたいのです。「愛」は自己愛・渇愛という十二縁起の愛ということであると教えられています。取は執着のことです。蘊は種類という意味です。五蘊という場合は「色・受・想・行・識/一切皆空」(『般若心経』)といわれますように、五蘊仮和合といい、本来は無我であり一切は皆空であることを言い表しているのです。しかし私は私として実体として存在し執着を起こすところから五取蘊といわれるのです。これは我執を伴っているような激しい執着だといわれているのです。私(我)と私の物(我所)として執着を起こすのですね。この様な心の状態を「貪」と言っているのではないかと思います。五蘊とはどのようなことなのでしょう。「色」は肉体を含む物質です。身体と言っていいのでしょう。「受」は感受作用で私の感覚ですね。「想」は表象作用で表現です。「行」は意思です。意識を生んでくる意思の働きです。「識」は色・受・想・行を統一する意識の働きですね。この五つは仮に和合して私というものを構成しているのです。しかし私はわたしだという思いがありますから「仮和合」とは思っていません。まして私に執着していますから、そこに苦を招来するのでしょう。

 今日は「貪」の心所の概略を述べました。明日は、『述記』の釈に学びながら、もう少し考えてまいります。


第三能変 煩悩の心所 (4)

2014-02-04 21:11:10 | 第三能変 煩悩の心所について
 

 煩悩ということですが、『成唯識論述記』(大正43・235c)には「煩とは是れ擾(ジョウ))の義。悩とは是れ乱(ラン)のぎ、有情を擾乱(ジョウラン))するが故に煩悩と名づく」と定義されていますし、第二能変末那識の心所相応門においては、四の煩悩についての定義がされてあります。「此の四は常に、内心を擾濁(ジョウジョク)し外の転識をして恒に雑染ならしむ。有情此に由って生死に輪廻して出離すること能はざるが故に、煩悩と名づく。」『選註』p90)

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 煩悩の名についての由来です。その内の「煩」の字と「悩」の字について分けて説明されてあります。

 「此の四ついい常に起こって内心を擾濁(じょうじょく)し、外の転識を恒に雑染成ら令む。」(『論』第四・二十九左)

 「擾」は乱れる、わずらわしいという意で、「擾濁」(じょうじょく)はみだしよごすこと。『述記』には「擾とは渾(こん)なり」と。「渾」も濁っているという意味です。雑染は三性の有漏に通ずる。

 (この四煩悩は常に生起し、内心を乱し、よごして、外の転識を恒に雑染にならしめるのである。有情は是によって生死に輪廻して出離することが出来ない。その為に煩悩と名づけるのである。)

 煩悩の煩については「内心を擾濁する」と、そしてそのことが外に六転識を恒に雑染するのである、と説明されています。

 「述して曰く、自下は却って煩悩の名を解す。先に名を列し及び体を出し已るに因みて方に煩悩ということを解す。此れ文の勢なり。今は煩の字を解す。擾とは乱なり、濁とは渾なり。此の四常に起こって内心を擾濁す。所余の六識の中の惑の他人の等を擾濁するが故に。体は是れ不善なるが如きには非ず。今は内(第八識)を縁ずるが故に外の六転識をして恒に雑染に成らしむ。雑染の言は三性の有漏に通ず。」(『述記』第五本・三十四左)

 (四つの煩悩はただ内心のみを擾濁し他者を擾濁するものではない。六識と相応する煩悩は他者をも擾濁するのでその性は不善であるけれども、第七識相応の四煩悩は内心のみを擾濁するのでその性は不善ではなく有覆無記である。)

 「『論』に「此四常起擾濁内心」とは、内心の義は伝に両釈有り。一に云く、内心というは体は即ち第八なり。第七識と相応する四の惑は第八識を縁じて有漏と成ら令むるに由って、故に擾濁と名づく。二に云く、内心というは即ち第七識なり。相応の惑に由って而して染汚に成る。名づけて擾濁と為すという。詳にして曰く、今は後釈に同なり。所以は何ん。答、内心を擾して外の転識をして恒に雑染に成ら令むと言う。雑染とは第八に由って、第七の能なるが故なり。また別釈せば、内心というは通じて七八二識を取る。第八は之れに由って有漏と成るが故に。」(『演秘』第四末・十七左)

 内心の意味について『演秘』には二つの意義と別釈としての意義と、合わせて三釈を挙げています。そして「後釈に同なり」として第二義を内心の意味として採用しています。「内心というは即ち第七識なり。相応の惑に由って而して染汚に成る。名づけて擾濁と為す」と。この四つの煩悩は常に生起し、相応する第七識を擾濁して染汚(有漏)とし、これに由って六転識を恒に雑染としていくのであるといわれています。

 親鸞聖人は『教行信証』の信巻やその他で、次のように述べておられます。

 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。」(『信文類』真聖p215)

 「一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すべて「雑毒・雑修の善」と名づく。また「虚仮・諂偽の行」と名づく。「真実の業」と名づけざるなり。この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。」(『信文類』真聖p228)

 「愛心常に起こりてよく善心を汚す、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を炙うがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもってかの浄土に回向する、これ必ず不可なり。」(『浄土文類聚鈔』真聖p416)

 「『経』に云わく、「一者至誠心」。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生身口意業に修するところの解行、必ず真実心の中に作したまえるを須いんことを明かさんと欲う。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ。内に虚仮を懐きて、貪瞋邪偽奸詐百端にして悪性侵めがたし、事蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心起行を作すは、たとい身心を苦励して日夜十二時、急に走め急に作すこと、頭燃を炙うがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲うは、これ必ず不可なり。何をもっての故に、正しくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も三業の所修、みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なりと。」(『愚禿鈔』真聖p436)

 真実とは何であるかを明らかにして、自身の内面を照らし、四煩悩を契機として私たちの全ての行為は雑染であるとはっきりさせられたのですね。
 鶴田義光師のお言葉では「愚痴るもよし、苦悩するのもよし、背くのもよし、欺くもよし、」という世界に遊べるのでしょうね。「妄念はもとより凡夫の地体なり」と。私たちは凡夫に出遇っていないのですね。凡夫とは思っていません。都合の悪いときにだけ凡夫ですからと言い訳の言葉としては使いますけれどもですね。凡夫であると決断できた時、即ち「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」、罪悪深重煩悩熾盛の衆生の大地に立つことができるのではないでしょうか。四煩悩の教説は私たちの行為が何を依り所として生起しているのかを鋭く暴き出し依所の転換を求めているのではないでしょうか。

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 次は『雑集論』の所論について伺わなければなりません。『雑集論』(大乗阿毘達磨雑集論)第七(大正31・724b)に「 隨煩惱者。謂所有諸煩惱皆是隨煩惱。有隨煩惱非煩惱」(随煩悩というは、謂く、あらゆる諸の煩悩は皆な随煩悩なり。有は随煩悩にして而も煩悩に非ず)

 あらゆる煩悩は随煩悩である、といっているわけですね。しかし、その中で随煩悩であって煩悩ではないものがある、と述べていることです。随煩悩ではあるけれども、煩悩ではない、ということです。純然たる煩悩に付随したものが随煩悩といわれるものである、と定義しているわけです。根本煩悩に付随した二十の随煩悩ですね。これは根本煩悩に随って動くわけですから、煩悩が働かない時は随煩悩も働かないわけです。

 あらゆる煩悩は随煩悩である、ということは、心王・心所の関係において、心王に付随したもの、という意味で随煩悩といわれているのです。しかし、煩悩は随煩悩ではありませんので、随煩悩に対して根本となることから、煩悩と名づけられているのです。

 

 

 


第三能変 煩悩の心所 (3)

2014-02-03 21:35:09 | 第三能変 煩悩の心所について

 以下は、長行釈

 総名を釈す。 

 貪等の六は随煩悩の根本であることを明らかにする。

 「論に曰く、此の貪等の六は、性是れ根本煩悩に摂めらるるが故に、煩悩という名を得。」

 第一が、「煩悩」の名についての説明。(煩悩の名を弁ず。)
 第二が、煩悩の心所の体と業を説明する。貪等の六の根本煩悩についての説明。(体・業釈)
 第三は、諸門分別。(諸門を広く弁じ、此の六義を明かす。)

 ここはその初である。貪欲・瞋恚・愚癡・慢・疑・悪見の六は、性)(体)が根本煩悩に摂眼られるから、煩悩という名がつけられているのである、と。

 「論。曰至得煩惱名 述曰。此釋總名。謂貪等六是隨煩惱之根本故。雖復亦得名隨煩惱而根本攝。非唯等流性。得煩惱名不名隨煩惱。雜集第七説。諸煩惱皆隨煩惱。有隨煩惱而非煩惱。由此即顯根本名煩惱。亦得名隨。亦隨他生故。忿等但名隨不名煩惱。非根本故。」(『述記』第六末・初左。大正43・443c)

 (「述して曰く。此は、総名を釈す。謂く貪等の六は随煩悩の根本なるが故に。復た亦た随煩悩と名づくることを得と雖も、而れども、根本に摂して唯だ等流性のみに非ず。煩悩の名を得す。随煩悩と名づけず。雑集第七に説く。諸の煩悩は皆な随煩悩なり、有るは随煩悩にして煩悩に非ずといえり。此に由って即ち根本をば煩悩と名づくることも、亦た随と名づくるを得ることを顕す。亦た他に随って生ずるが故に、忿等は但だ随と名づけ、煩悩とは名づけず、根本に非ざるが故に。」)

 貪・瞋・癡は三毒の煩悩といわれています。煩悩の中で一番根本に成る煩悩であるということですね。そしてですね、「諸の煩悩が生ずるのは必ず癡に由るが故に」と押さえられていますから、根本煩悩の中でも、癡が一番深いということになりましょうか。貪は貪りですから、心のうち深くに根差して起こってくるものでしょうし、瞋は内なる怒りが外に向かって爆発するものなのでしょう、この貪・瞋を生起させる知的な煩悩が無明といわれる癡なのでしょう。


第三能変 煩悩の心所 (2)

2014-02-01 22:36:27 | 第三能変 煩悩の心所について

 (2010年1月8日の記載より)
 悪と煩悩ですが、煩悩という場合には、自分が問われているということになるのでしょう。しかし悪と云う場合は「他」との関係に於いて善か悪かということになるのではないでしょうか。他との問題と云うのは、本来は自分の問題で有るにも拘らず、問題をすり替えて、他を攻撃する場合に「悪」といわれているのでしょう。「自分のことを棚にあげてよくいうよ」というようにですね。三面記事を見て人事のように呟きますね。例えば、犯罪ですね。自分は犯罪を犯さない・法律を破らないという立場です。その立場に立って厳しく断罪していていますでしょう。独裁者と云う場合もですね、「けしからん」というわけです。しかし独裁者は誰のことでしょうか。「他」ではなく「自」なのですね。私です。私が独裁者なのですね。何事も自分の考えで、どうにでもなる、私は悪をなさないと自負しているわけですが、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という道理があるわけです。道理の深さ、眼差しが求められている。『歎異抄』第十三条に「一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害さざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」という眼差しですね。

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 「煩悩の心所の其の相云何。

 頌に曰く。 
 (第十二頌)煩悩とは謂わく貪と瞋と癡と慢と疑と悪見となり。
 論に曰く、此の貪等の六は。性是れ根本煩悩に摂めらるるが故に。煩悩の名を得。」(『論』第六・十二左)

 最初の三つの煩悩が三毒の煩悩といわれ煩悩の主といわれているのです。『述記』では、貪・瞋をまとめ「貪愛」といっています。それと癡です。癡は無明といわれますから煩悩を貪愛と無明の二つにまとめています。「貪」は「有」-私と 「有具」ー器世間ですね、私と私の世界です。世界といいましても私が作り出した世界ですね。一人ひとりの世界です。生まれた環境や育てられた環境、その人のもっている才能や経験によって人それぞれの世界観は違ってきます。貪りは一人ひとりの世界で染著し、そして苦を招来するのです。善の無貪を障碍して苦を生ずるといわれています。「貪愛」ということですが、「愛の力によって」といわれていました。親鸞聖人も「貪愛・瞋憎の雲霧」と云われますね。愛を貪るということなのですが、何を愛し何を貪るのでしょうか。ここにいわれることは仏を愛し・仏道を愛し・涅槃の世界を愛することを貪る、貪愛するのであるというのですね。執着を起こすのです。ここは問題ですね。大事なことを教えられています。聞法に励む・仏道を歩むこと自体に貪りの心が働くのです。聞法が好きだ・仏法が好きだというのが一番危ないのですね。貪れば皆、染汚に収められるのですから。「万のものを貪る心なり」といわれているのです。そして「貪」の深層にあって「貪」を起こしてくる働きですね。それを根本無明と云う、ものの道理が判らないということです。私でいうと業縁存在であるということが判らないということです。五蘊仮和合といわれても実感がありませんからね。仮和合が道理なのですが、私は私だと思っていますから。これが無明だと教えられるのですね。「諸の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に」と。

 論文大科 (三) 六煩悩
   煩悩位を弁ず。
     前を結して後を問う。
     頌を挙げて答す。
     長行釈

 先ず、問いに答えて、煩悩の心所について説明しています。

 頌にいう。
 「煩悩というのは、つまり貪と瞋と
癡と慢と疑と悪見とである。」

 本頌は、煩悩の名を列記するだけで、煩悩についての説明はありません。『成唯識論』において、護法が次科段より説明していきます。

 ここで一つ問題となることは、「癡」についてです。列記は三不善根として「癡」は、貪・瞋・癡として挙げられていますが、煩悩は無明から発生してきますので、(利である)貪・瞋・慢を生起さす根本の無明(癡)であり、ここから(鈍である)疑・悪見(薩伽耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見)が生起してくるものだと思います。とにかく、展開はともかくとして、煩悩の種類は十になるわけです。

 『百法論』では、癡は慢の後に説いてあるわけです。これは「利鈍に通じ上下に遍することを顕すが故に」と、癡が利と鈍に通じることをあらわして、利の性格を持つ煩悩と鈍の性格を持つ煩悩との間に癡が置かれていると説明されています、また、貪・瞋・癡という配置は「不善根なることを明かす故に。」と、護法は三不善根を明らかにする為に貪・瞋の後に癡を置いたのである、と説明しています。

「論。頌曰至癡慢疑惡見 述曰。百法等説癡居慢後。顯通利・鈍。遍上下故。此明不善根故在慢上 下長行釋。釋中有三。第一辨煩惱得名。解頌上二字。第二出體・業釋頌謂以下文。第三諸門廣辨明此六義。」(『述記』第六末・初右。大正43・443c) 

 (「述して曰く。百法等に癡を説いて慢の後に居(ヲ)くことは、利・鈍に通じ、上下に遍することを顕すが故に。此には不善根なることを明かす故に、慢の上に在り、下は長行を以て釈す。釈の中に三有り。第一に、煩悩の得名を辨じ、頌の上の二字を解す。第二に、體・業とを出して釈す。頌の謂より下の文を以てす。第三に、諸門を広く辨じて此の六義を明かす。」)

 「疏。百法等説者。百法顯癡通於利鈍。故安鈍利兩惑中間。唯識明癡是不善根。故貪・嗔下慢等上列。」(『演秘』第五本・三十二右。大正43・917a)

 (「疏に、百法等に説くとは、百法に癡は利鈍に通ずることを顕すが故に、鈍利兩惑の中間に安ぜり。唯識には癡は是れ不善根なりと明かすが故に、貪・瞋の下慢等の上に列ねたり。」


第三能変 煩悩の心所 (1)

2014-01-31 21:39:47 | 第三能変 煩悩の心所について

 三は、煩悩の心所について説かれます(本頌の第十頌から第十四頌)が、その前に、善の心所が説きおわって、煩悩の心所の相はどのようなものであるのか、という問いが立てられます。『述記』はこの科段から、巻第六末に入ります。

 「是の如く已に善位の心所をば説きつ、煩悩の心所の其の相云何。」(『論』第六・十二左)

 『述記』第六初右 成唯識論述記巻第六

 「述して曰く、別して六位諸心所を解する中に、三の門を辨じ訖(オワ)る。此は第四に當る。初は前を結び後を問う。文の如く知るべし。次は頌等を挙げる。」

 遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六位の心所の中に於て、すでに三位については説明し已った。ここは第四の煩悩について説明する。前の善の心所を結び、次に、煩悩の心所の相はどうであろうか。

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 今日から煩悩の心所について考えます。煩悩の心所は善の心所と対比します。善と煩悩を対比させているのですね。もうお気づきのことと思いますが、善の反対語は悪ですね。しかし悪といわずに煩悩と言っています。何故なのでしょうか。思うに、善は菩提・涅槃にかかわる心所なのですね。そうしましたら、菩提・涅槃を障へるのは何かといいますと煩悩なのです。煩悩障とか所知障といいますね。解脱をさえぎるものです。善悪という場合は相対的概念です。善悪は道徳規範になります。社会生活に於いては大切な規範でありますが、ここでいわれる煩悩は私自身が私に煩い悩むことなのです。自分で自分の心を乱すわけです。『述記』には「煩はこれ擾(にょう)の義。悩はこれ乱の義なり」と教えています。意味は心が騒がしく乱れるということです。煩も悩も自分の中で起こってくるといわれているのです。煩悩は何に由るのかというと、自分なのですね。自分に執われている心が起こすのです。また見たり・聞いたりすることに於て、私の心を煩わしく悩ませるということがあるのですが、これは対象が煩わしたり悩ませたりするわけではないのですね。そのような心を私が持っているということに起因するわけです。私たちは見える世界に執着していますから、見えない世界には眼を向けないのですね。そこが顛倒していると思うのです。「いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ」(真聖P630)ですね。やっぱり私たちはこの世に執着していますから、それを成り立たせている煩悩に由って、私の生き方が決定されてくるのでしょうね。煩悩は人生の方向を障碍する働きをするのであるということを知っておく必要が有ると思うのです。それでは煩悩にはどのような種類が有るのか、これから伺って見たいと思います。

 

 煩悩の心所については、以前に概略を述べていますので、今回は、前回の説明文についての補足説明になると思います。