唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (62)九難義 (42) 聖教相違難 (3)

2016-08-06 21:12:51 | 『成唯識論』に学ぶ
  

 世親菩薩は、本当に大切なこと、私が生れてきたことの意義を問われているのだと思います。
 私は、すっかり忘れてしまっているのですが、生れてきた時に、親の願い、子の思いが錯綜してあるのではないかと、そこを世親菩薩は紐解いてくださっていると思うのです。僕が生れてきた背景には母親のいのちが、いのちと引き換えの母親のいのちの願いが託されてあったのだと思うのです。
 今言えることは、
 「あなたを産んでも、私は母親としての役割を果たせません。産んだだけの母親です。しかし、あなたが健やかに育ち成長していくことを願っています。ごめんなさいね。」
 という声が聞こえてくるのです。
 私たちは、此の世に生をうけて、苦しむために、悩むために生れてきたのではありませんね。幸せになってほしいと云う願いを託されて育てられたと思うのです。それがどういうことでしょうか。苦悩の人生を歩んでいる現実があります。何故なんでしょう。
 僕は幼少の折に母は他界しましたので、母の記憶は全くありません。しかし、唯識は母親の胎内での出来事は逐一阿頼耶識が種子として宿していると云います。受胎してからの母の思いが私に伝えられていることは間違いのない事でありましょうね。
 僕の立場から言えることは、僕の思いの中には母の願いは全く伝わってきませんでした。今も殆ど伝わっていないと思いますが、子の親と成ることを通して、親が子に対する「産まれてきてくれてありがとう」は、そのまま母の願いであったであろうと思うのです。
 子を産んで母の誕生。私が生れて母と呼べる人がいる。ここが生の原点ではないのかなと思います。やがて母子の対立が生れます。成長する過程で大切な節目であることには間違いのないところですが、そこに我執も育てられます。自分という一人の誕生です。僕はなかなか問いを持つことができなくて、これ母親依存症なんですね。母親に出会えないコンプレックスです。このことに気づきを得ないところに悲劇が生れてくるんでしょうね。少なくとも、僕の場合はです。
 人生投げやりになって、生活は破綻し、親からは勘当され、それでも目覚めることはなかったですね。僕はどれほどの人に迷惑をかけたのでしょう、迷惑をかけていることが僕のいのちの支えになっているのだなと思うのです。
 まぁ言えば、赤ちゃんが赤ちゃんのままでおじいちゃんになったようなものです。赤ちゃんよりたち悪いかもです。苦悩する現実が与えられていますからね。我愛が成長し、我愛が一本立ちして、対立構造を生み出してくるのでしょうね。我愛は周りが見えないということでしょう。成長するにつれ、我愛に翻弄されていくわけですね。我愛は自己批判をしませんから、批判の対象は他に向かいます。
 ここを世親菩薩は指摘されているのでしょうね。我愛が苦悩という現実を生み出しているのだと。我愛は本当は平等を願っているのです。それは、苦悩を通して我愛の本当の願いに気づけということなんでしょう。
 親鸞聖人も「雑行を棄てて本願に帰す」と二十九歳の折に宣言され、八十五歳の夢告において「弥陀の本願信ずべし、本願信ずる人はみな、摂取不捨の利益にて、無上覚をばさとるなり」と頷かれるまで、ゆうに五十有余年の歳月を、私の為に苦しんでくださいました。まさに法蔵菩薩です。親鸞聖人が苦しまれたのではないのですね。私の為に苦しんでくださいました、ということだと思います。まさに阿弥陀如来の化身、法蔵菩薩の誕生です。法蔵菩薩の現行が宗祖としての親鸞聖人ですね。
 今、読ませていただいている『二十論』の教説は、私は何を以て苦悩しているのかを問いただしているのです。
 雑感で申し訳ありません。書き下しは明日にします。

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1 コメント

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Unknown (坂原照美)
2016-08-07 18:56:46
南無阿弥陀、シェアさせて頂きました
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