唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (32) 第七 根本相応門(本惑倶起門)(5)

2016-02-29 21:22:35 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 憍は唯癡のみと倶なり、慢とは解別(げこと)なり、是れ貪の分なるが故に。」(『論』第六・三十四右)
憍と慢とは行解が異なるといわれ、相応不相応の関係では、相応しないということなんですが、非常に解りにくいところですね。
 「自の盛んなる事の於(うえ)に深く染著(ぜんじゃく)を生じて酔倣(すいごう)するを以て性と為す」心所なのですが、何に対して驕るのかと云いますと、自分の地位や財産や名誉といった飾り物を誇るわけです。
 良遍は「憍ハ、我ガ身ヲイミジキ物ニ思ヒテオゴレル心ナリ。」(『二巻鈔』)と云い、自分を勝れている者と思い、そんな自分に執着し驕れる心であると説明しています。
 ここまでは昨日述べましたことですが、慢の心所は如何なるものなのでしょうか。
 「云何なるをか慢と為す。己を恃んで他の於に高挙するを以て性と為す。」心所であると説かれています、ここで憍と慢の違いが分かってくるわけです。
 憍は他者との比較の上で己を誇ることではなく、自分が自分に執着し酔倣する、酔いしれるわけです。自己陶酔ですね。
 慢と非常に重なることはですね、自己陶酔は我慢で、己を誇る慢心ですから、この方面から比較しますと、殆ど同じですね。慢から云いますと、恃己(じこ)の慢になるわけでしょうね。自分を恃む慢です。それと「己を恃んで他の於に高挙する」慢です。是を陵他(りょうた)の慢といわれます。人を見下した慢心です。
 良遍は「慢ハ、我ガ身ヲ慿テ人ヲアナヅル心ナリ。」とわかりやすく説明されています。慢は二つの意味があるわけですが、主として他者との比較の上に慢心が起こすことを背景にしている心所といえましょう。
 そうしますと、憍と慢との行解の相違点はどこにあるのか、ということですが、憍は自己を縁として生起する心所であり、慢は他者を縁として生起する心所なのですね。
 このような視点から『述記』の釈を読みますとはっきりします。
 「論。憍唯癡倶至是貪分故 述曰。憍唯癡倶。是貪分故。不與瞋・貪並。與慢解別。不與慢倶。憍縁自高擧生。慢亦縁他下逸起。故不倶生。」(『述記』第六末・九十七左。大正43・463c)
(「述して曰く、憍は唯癡と倶なり。是れ貪の分なるが故に。瞋と貪と並ぶにあらず。慢と解が別なり。慢とは倶ならず。憍は自らを縁として高挙して生ず。慢はまた他を縁として下逸(げいつ。見下すこと)して起こる、故に倶生せず。」)

 憍と慢とは心所は違うわけですが、切り離すことの出来ない心所でもあるわけです。驕る心、慢の心は、常に自分と関わりをもちながら意識が動いている時、自分の目線の背景には驕る心、慢の心があるわけですね。
 親鸞聖人は自分の心の中にうごめいている憍と慢の心を悪と押さえられたのだと思います。
 「邪見憍慢の悪衆生」は自分であったという頷きですね。どこかに悪衆生がいるのではなく、悪衆生である我が身が外界をして悪衆生と見下していたという、自己に出遇った感動のお言葉であると頷く者であります。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (31) 第七 根本相応門(本惑倶起門)(4)

2016-02-28 10:18:31 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 第三は、憍と貪・瞋・癡・慢との相応について説明されます。
 「憍は唯癡のみと倶なり、慢とは解別(げこと)なり、是れ貪の分なるが故に。」(『論』第六・三十四右)
 (憍はただ癡のみと相応する。従って貪・瞋・慢とは相応しない。慢とは行解(ぎょうげ)が異なるからである。何故なら、憍は貪の一分だからである。)
 行解 ― 心のなかに生じる影像をとらえる認識のありようをいう。つまり、心・心所が対象に働きかけて、対象を認識する心のありかたです。
 憍とはどのような心所なのか、少し振り返りますと、
 小随煩悩の第十番目に説かれるのが憍(きょう)の心所です。
 「云何なるをか憍と為る。自の盛んなる事の於(うえ)に深く染著(ぜんじゃく)を生じて酔倣(すいごう)するを以て性と為し、能く不憍を障え染が依たるを以て業と為す。」(『論』第六・二十六右)
 (どのようなものが憍の心所であるのか。憍とは、自分のおごれることに対して、深く執着を生じて驕ることを以て本質とし、よく不憍を妨害し染を所依として働く心所である。)
 憍 ― おごる心の働き。
 何に対して驕るのかと云いますと、自分の地位や財産や名誉といった飾り物を誇るわけです。
 『顕揚論』巻第一に「謂く暫く世間の興盛(こうじょう)等の事を獲て、心に恃(たの)んで高挙(こうこ)すと云えり。」或は『対法論』巻第一には「一の栄利の事に随って、謂く長壽の相等と云えり。」と解釈されています。
 興盛とは世間での繁栄、或は過去と現在を比較して、現在が過去よりも裕福で勢力があること。これによってですね、心に恃んで驕ることである。自分を見忘れて、自分でないものを自分として恃んでいるわけです。これが縁となって憍が生起してくると云われています。
「憍ハ、我ガ身ヲイミジキ物ニ思ヒテオゴレル心ナリ。」(『二巻鈔』)と、良遍は説明しています。
 イミジキ ― すぐれている。すばらしい。
 (自分を勝れている者と思い、そんな自分に執着し驕れる心である。)
「能く不憍を障え染の依たるを以て業と為す。」(『論』第六・二十六右) 
(よく、不憍を障礙し、染法の依り所となることを以て業とする心所である。)
 不憍とは憍とは正反対の心所ですから、おごらない心の働きであり、不憍の者は一切の善法を生長させる働きを持つのですね。不憍とは無貪ということなのです。
 憍は一切の煩悩の所依と為る、つまり、憍が煩悩・随煩悩のすべての依り所となるという意味なんですね。ここは非常に大事なことを教えています。私たちの苦悩の根っこに、自己を高挙する心が働いているということなんですね。
 ここが見えないとですね、いつでも他を悪者に仕立て上げて自分を満足させようとするわけでしょうね。

 憍は、自分自身に深く執着を起こし、酔傲する、酔はようこと、傲はおごることですから、自分自身に酔いしれて自分自身に驕り深く執着を起こしているんですね。ここで憍酔の者は、何を障礙し、何を生長させるのかが問われるわけです。
 ・ 「能く不憍を障え、染の依たるを以て業と為す。」
 ・ 「憍酔の者は、一切の雑染の法を生長するが故に。」
 二つの理由を挙げて説明されています。
 一つ目の理由は、よく不憍を障礙(妨げる)して、染法(一切の有漏法。惑・傲・苦の雑染法)の依り所となることを以て業とする心所である。不憍とは何かという問題もありますが、憍の解釈から伺いますと、「自の盛んある事に対して深く染著を生じ、酔傲することのないことを以て性とし」そして、「不憍は憍を対治して、善法の依り所となることを以て、その働きとする心所である。」と云えましょう。
  
 「此れも亦貪愛の一分を以て体と為す。貪に離れて別の憍の相用無きが故に。」(『論』第六・二十六右)
(此れもまた、貪愛の一分を以て体とする心所である。何故ならば、貪に離れては別のものとして存在する憍の体も作用もないからである。)
 重ねて、「憍は、一切の煩悩・随煩悩の所依となる、」ここは注意しないといけないところだと思います。自らの驕り高ぶりは自らへの貪り、貪愛です。貪愛は他との比較ではないのです。ただただ我が身可愛さです。この独りよがりが、すべての迷いの依り所となっていると教えています。自分が幸せになろうと思って、自分を縛り、苦しめているという顚倒が起っているわけですね。

 次に憍と慢とは行解が異なるといわれ、相応不相応の関係では、相応しないということなんですが、非常に解りにくいところです。次回に考えてみたいと思います。今日は復習になりました。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (30) 第七 根本相応門(本惑倶起門)(3)

2016-02-25 22:44:30 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 昨日の『述記』の所論の中で、「不共無明の分位の忘念と不正知とは此の心に遍せず。即ち癡の分なるが故に。この義思うべし。不共無明は定んで倶なることを得と言わず。但だ(忘念と不正知とは)十と倶なりと言う。即ち此の無明の時は、或は慧の分有るが故に。然るに癡の分は定んで一切の染の心聚に遍ぜるが故に。不共無明の一法は、定んで悪慧と倶なりと言うに非ず。此の無明の聚の中には、余の法も此れと倶なるが故に。即ち無明に於いて仮に建立せるが故に。」と述べられていました。
 
 大随煩悩は染心に遍く存在するために、十の煩悩と相応するのですが、忘念は念と癡、不正知は癡と慧の一分である分位仮立法なのです。ここで問題が起こります。自類の心所が並起することはないわけですから、ここをどのように解釈すればよいのかということになりますね。
 つまり、忘念は念と癡の一分によって立てられた心所であり、不正知は癡と慧の一分によって立てられた心所です。その為に、別境の念と忘念が相応することになれば、念と念が複数並起することになります。同様に不正知も別境の慧と相応すれば慧と慧が複数並起することになり、通常あり得ない現象が起こることになります。
 護法は「染の念と染の慧とは念と慧と倶なるに非ずと雖も、而も癡が分とは亦相応することを得るが故に。」と釈します。これを色互相応(いろえそうおう)と云い、つまり、癡の一分を持つ心所とは相応することになり、複数が並起することにはならないと云うのです。

 第二は、慳と貪・瞋・癡・慢の相応について説明されます。
 「慳は癡と慢とは倶なり。貪と瞋とは並ぶに非ず。是れ貪の分なるが故に。」(『論』第六・三十四右)
 (慳は癡と慢とは相応するのである。しかし慳は貪と瞋と相応しない。何故なら、慳は貪の一分である分位仮立法だからである。)
 慳は癡と慢とは相応するけれども、貪と相応するものではない。それは慳は貪を自体とする心所だからなんですね。また瞋とも相応しないのは貪を自体とする慳は瞋とは相違するからである。貪と瞋の相応不相応の問題になります。当然貪と瞋は相応しません。
 
 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (29) 第七 根本相応門(本惑倶起門) (2)

2016-02-24 23:14:31 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 後半は、小随煩悩と根本煩悩の相応について述べられます。これが二つに分けられて説明されます。
 先ず、小随煩悩と見(五見)と疑との相応について説明され、次いで、貪・瞋・癡・慢との相応について説明されます。 
 本科段は初になります。
 「小の十は定んで見と疑とは倶起するに非ず。此は相麤動なり。彼には審細なるが故に。」(『論』第六・三十四右)
 (小随煩悩の十は絶対に五見と疑とは倶起(相応)しない。何故ならば、此れ(小随煩悩)は行相が麤動であり、逆に彼(五見と疑)は行相が審細であるからである。)
 小随煩悩の行相と根本煩悩の五見・疑との行相が違背することから相応しないと説明しています。つまり、小随煩悩の十は行相も体性も倶に麤動(粗い心所)であるが、五見と疑は行相が審細(細やかな心所)であるから相応しないのであると。

 次いで、小随煩悩と貪・瞋・癡・慢との相応について説明されます。小随煩悩と貪・瞋・癡・慢との相応について説明するのに、大きく四つに分かれて説明されます。本科段は初です。第二は慳と貪・瞋・癡・慢の相応について、第三は憍と貪・瞋・癡・慢との相応について、第四は覆と誑と諂と貪・瞋・癡・慢との相応について説明されます。
 初、
 「忿等の五法は慢と癡とは倶なる容し。貪と恚とは並ぶに非ず。是れ瞋の分なるが故に。」(『論』第六・三十四右)
  (忿等の五法(忿・恨・惱・嫉・害)は慢と癡とは倶である。しかし忿等の五法は貪と恚とは並起しない、つまり相応しないのである。何故ならば、忿等の五法は瞋恚の一分(分位仮立法)であるから。)

「論。忿等五法至是瞋分故 述曰。忿・恨・惱・嫉・害。容得慢・癡二法倶。非貪・恚二並。與貪行定相違故。瞋是忿等自體相故。由此證知。不共無明分位忘念・不正知。不遍此心。即癡分故。此義應思。不言不共無明定得與倶。但言與十倶。即此無明時。或有惠分故。然癡分者定遍一切染心聚故。非言不共無明一法。定與惡惠倶。此無明聚中。餘法與此倶故。即於無明假建立故。」(『述記』第六末・九十七右。大正43・463c)
 (「述して曰く。忿と恨と惱と嫉と害とは慢と癡 との二法と倶なることを得容し。貪と恚との二は並するに非ず。貪の行とは定んで相違するが故に。瞋は忿等の自體の相なるが故に。此れに由って證知す。不共無明の分位の忘念と不正知とは此の心に遍せず。即ち癡の分なるが故に。この義思うべし。不共無明は定んで倶なることを得と言わず。但だ(忘念と不正知とは)十と倶なりと言う。即ち此の無明の時は、或は慧の分有るが故に。然るに癡の分は定んで一切の染の心聚に遍ぜるが故に。不共無明の一法は、定んで悪慧と倶なりと言うに非ず。此の無明の聚の中には、余の法も此れと倶なるが故に。即ち無明に於いて仮に建立せるが故に。」)

 『述記』には詳しく説明されています。先ず十の根本煩悩の中から、五見と疑と小随煩悩の相応について説明されましたので、残る貪・瞋・癡・慢の根本煩悩と小随煩悩の相応は如何という問題です。本科段は、忿等の五法(忿・恨・惱・嫉・害)と貪・瞋・癡・慢との相応について検討されます。
 忿・恨・惱・嫉・害の小随煩悩は瞋恚の分位仮立法であること。「瞋は忿等の自體の相なるが故に」ということ。忿等の五つの心所の自体は瞋であるということになります。従って瞋の分位仮立法である忿等の五つの心所は貪とは相応しないのです。貪は瞋と疑とは相応しないことは既に述べました。(煩悩の自類相応門において説明されています。)
 次に問題となるのは、忿等の五法は瞋とは並起しないということです。これは瞋と瞋との相応の問題です。二つの心所が並起することはないわけですから、瞋と瞋の分位である忿等の五法とは相応しないということになります。
 もう一つの問題は、「忿等の五法(忿・恨・惱・嫉・害)は慢と癡とは倶である」ということです。これは瞋と慢との相応・不相応の問題であり、瞋と癡との相応・不相応の問題になります。ここも煩悩の自類相応門で明らかにされていますが、瞋は慢と疑とは相応する、或は相応しない場合もあるが、瞋は癡とは常に相応するのである。癡はすべての煩悩と必ず相応して働きます。何故なら、諸々の煩悩が生起するおは、必ず癡を依り所としているからなんですね。
 
 詳細につきましては、2014年7月11日より2014年8月14日の項を参考にしてください。尚、自類相応門の自類とは煩悩法であり、問いと答えが示されています。概要としては、煩悩法について、煩悩同士の倶起(相応)を説明する科段になります。十煩悩の中で、同時に並存するものと、並存しないものがあることの問題を論じるところになります。例えば、貪の煩悩は瞋と疑とは倶起しないと説かれているが、その理由とは何なのか。逆に、慢と見とは相応すると説かれているのは何故か等、私たちの迷いの複雑さを解明してきます。十の煩悩同士がどういう関係になるのかが説かれますが、結びとして、「癡は九種と皆定めて相応す」と説かれています。癡は癡以外の九種の煩悩と必ず相応するんだ、ということですね。

『成唯識論』に学ぶ。 雑感 (2)

2016-02-21 23:44:09 | 『成唯識論』に学ぶ
今日が七十歳の誕生日。皆様方から暖かいお言葉をたまわりました。本当にありがとうございます。しっかりと胸に刻んで一歩一歩確かな歩みをつづけていけるよう精進いたします。

 昨日は触れませんでしたが、宗前敬叙分、帰敬頌、帰敬序には「唯識の性において満に分に清浄なる者に稽首す」そして発起序には「我れ今彼の説を釈して諸の有情を利楽せん。」と表白されています。『浄土論』の帰敬序にも「世尊、我一心に尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず」と。「偈の中に分って五念門と為す。」(『論註』)「礼拝門・讃嘆門・作願門を開かれ、発起序の「我」において国土荘厳十七種・仏荘厳八種・菩薩荘厳四種の三種二十九種荘厳が願心を以て荘厳されて云うことが明らかにされました。そして流通門、ここが廻向門として開かれてきます。「末後の一行は是れ廻向門なり。」ここにも「我」の一字がおかれています。「我」が三か所に配置されているわけですが、曇鸞大師はこの「我」を問題にされました。「我」は邪見語でもなれば、自らを大きく見せる自大語でもなく、如来より明らかにされた「我」、無我なる我であって、ここにですね、いかなる我であれ、浄土の入り口であるこの世の意義を自覚することの大切さを教えておられると思うんです。やっぱり、背景は無境なんでしょうね。本願は対象ではないということですね。本願は自体分が転じた本質相分であって、ここに影像相分として捉えていく我見が働いて流転していくのでしょう。むやみやたらに流転しているということではない、意味があると教えているのでしょう。
 
 「天親菩薩の一心は本願の三心の成就であって、即ち『無量寿経』下巻願成就の経文の意を天親菩薩自らが述べたものである。本願から見ると「我」は客であるが、客になることを通して本願の主となる客でる。『願生偈』は我の背景として本願を語ったのである。」と先達は教えてくださっています。「汝」と呼ばれた「我」ですね。
 よく紙一重のところが分からん、と聞きますが、紙一重のところで我を持ち替えてしまうのでしょうね。自己肯定の根の深さが知らされます。『十住毘婆沙論』序品の中で、この現生というものが六道輪廻の場所であると押さえられています。求道心の根っこに自己肯定の意識が働いている、そこが六道輪廻の存在としての人間存在であるということでしょうか。しかし、この六道輪廻は人間存在の命の私有化からもたらされるものであるという頷きなのでしょう。いうなれば、六道輪廻をする主体であるという自覚が回心と一つの出来事であると言えないでしょうか。
 
 『十住毘婆沙論』の序品の問いが、十地の意義を何故説くのかというものなのです。その答えとして次のように語られます。
 「地獄餓鬼畜生人天阿修羅の六趣は険難・恐怖・大畏あり。是の衆生は生死の大海に旋流澓(せんるかいふく)して、業に随って往来す。是は其の濤波(とうは)なり。・・・愛に随う凡夫は、無始より已来(このかた)常に其の中に行じて是の如く生死の大海に往来し、未だかって彼岸に到ることを得ること有らず。或は到る者有らば兼ねて能く無量の衆生を済度す、是の因縁を以て菩薩十地の義を説くなり。」
 そして輪廻を流転と押さえられています。
 「世間は愍傷すべし。常に皆自利に於いて、一心に富楽を求め 邪見の網に堕し、常に死の畏を懐きて、六道の中に流転す。」(『序品』第一)

 流転してきた自覚が六道を輪廻し、やっと人間としての生を受けた感動だと思うんです。僕は、六道輪廻の果として人間としての生を受けたという所に大きな意味があると思うんですね。善悪業果位として異熟識として、生存の根拠が語られているわけです。作意の心所の中で「謂く、此れが起こすべき心の種を警覚し、境に趣かしむる故に作意と名く」つまり、阿頼耶識の中の種子を目覚めさせ、心を起こし、心を対象に趣かしめる用きをもつものが作意というのだということですね。「彼(作意)縁に逢わざれば定んで生ぜざるが故に」(『述記』)と。いかなる縁に遇うのかが問われているわけです。我愛が現行している縁に会えば受は愛を引き、愛は取を招くわけです。

 随分横道にずれてしまいましたが、宗前敬叙分には、「正解を生ぜしめん」「唯識の理に於いて実の如く知ら令めんが故なり」「唯識の深妙の理の中に於いて実の如くを得せしめんが故に」。この理(ことわり)を理解するところから唯識の学びが始まるんですね。そしてまたこの理と解を正す為に『成唯識論』が作られた理由として語られます。

 「分からなくなったらはじめにかえる」、安田先生の言葉ですが、大乗の仏教が輪廻を語る時は、流転は生死流転を語り、輪廻は善悪業の果が六つの生存の在り方を自覚内容とするものではないでしょうか。夜分の投稿、ちょっとまた考えます。

 『成唯識論』に学ぶ。 雑感 (1)

2016-02-21 00:30:04 | 『成唯識論』に学ぶ
   『正信偈』

 護法菩薩は「唯識の理に迷謬せる者あり。」(唯識の真理を理解しない者(迷)や謬って理解する者(謬)がある。)
 迷謬せる者を四種類あげておられます。「迷」は無明、「謬」は謗法・仏智疑惑になります。
 (1)「外境は識の如く無に非ずと執し、」
 これが一番目です。境は対象ですから、対象は私と関係なく実在していると執着していること。外界実在論です。見渡せばあらゆるもの(一切諸法)は存在するではないか、どうして存在しないというのか。
 (2)「内識は境の如く有に非ずと執し、」
 二番目は、一切諸法が無であるように内識(心)も無であると執着する者がいる。心も無である、と。
 (3)「諸の識は用は別に体は同なりと執し、」
 三番目は、諸々の識(八識)という心のはたrきは(用)は別々、体は一つであると執着する者がいる。
 (4)「心に離れて別の心所は無しと執す。」
 これが四番目。心を離れて別に心所(心所有法・心の作用)は無いと執着している者がいる。

 これらの四種類を異執として挙げておらえます。このようなさまざまの異執を遮す為に、この『論』を造るのでると、論を造る意趣を述べておられます。
 唯識は説きます。1・2番目に対しては、唯識無境(唯だ識のみ有って境は無し)であり、境無識有(境は無なれども識は有である)である、と。3番目に対しては、体は八つある。八識別体である。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八つの体は別々である、と。そして4番目に対しては、心と倶に用く心所は五十一あるといいます。
 これらの異執は遠い昔の話ではなく、現在の私たちの思考方法と同じですね。
 このような有り方が批判され、四有という考え方が生まれてきた背景にあるように思います。
 四有とは、四つの生存のありかたで、中有・生有・本有・死有を繰り返しながら生死輪廻するといわれています。
 八識別体ではありますが、本識は阿頼耶識として末那識及び六識は転識といわれています。本識である阿頼耶識は自相・果相・因相という三つの相を持つといわれ、果相は異熟識とおさえられています。善悪の業の結果として人として生を受け、一類相続して変化しないものである。過去の業を背負った身であり、過去のすべてを分別することなく引き受けた身でもあるのです。
 一類相続して変化しない身は常であると錯覚され、我は変化しないものとして執されてくるのです。これが我執の成り立ちです。この我執が生死輪廻することになります。
 やがて生死輪廻思想が厭世観とも結びつき厭離穢土・欣求浄土の国土の実体思想を生み出してきました。これが中有から生有の問題です。どこに生まれるのか、浄土に生まれるのか、再び四有を繰返して輪廻するのかということから、臨終来迎思想が生まれました。初期の観経理解ですね。

 「あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮まりなからん。かくのごときの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げて言わく、「汝もし念ずるに能わずは、無量寿仏と称すべし」と。(『仏説観無量寿経』)

 いのちの営みは刹那なんです。一瞬のうちに消え去っていくいのちを相続しているのがいのちの実相です。阿頼耶識は「恒に転ずること暴流の如し」、私たちの執着は、諸行は無常であることは承知なんですね。私は老いる者であることは知っているが、無常の中でも変わらない自分はいると思っているのですね。それこそ、一類に相続して変わらない自分(アートマン)が存在しているという思いがあるわけです。これが迷いの根っこに根を張っていることいなり、それに気づきを得ない自分がいる、ここに迷いの主体である阿頼耶識と、目覚めを待つ阿頼耶識の二面性がうかがえるわけです。無住処涅槃の広大なる世界が今、現に、此処に広がっている、水に漂う浮き草のような自己ですが、自己の存在する世界は広大無辺なのですね。 雑感です、もう少しつづきます。
 

第三能変 随煩悩 諸門分別 (28) 第七 根本相応門(本惑倶起門) (1)

2016-02-18 22:25:51 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 上来は随煩悩と別境の相応について説かれてましたが、第七は、大・中・小の随煩悩と根本煩悩との相応について説明され、根本相応門(根本煩悩と相応する門)と名づけられています。
 初めに、中の二と大の八が根本煩悩と相応することについて説かれ、後に小の十と根本煩悩の相応について説かれます。
 本科段は初の説明です。
 「中の二と大の八とは十の煩悩と倶なり。」(『論』第六・三十四右)
 中とば、中随煩悩で無慚・無愧の二つを指します。
 大とは、大随煩悩で掉挙(のぼせ)、惛沈(おちこみ)、不信(まごころのなさ)、懈怠(おこたり)、放逸(いいかげんさ)、失念(ものわすれ)、散乱(気が散っていること)、不正知(正しいことを知らないこと)の八つを指します。
 大は微細に働く随煩悩で、染心に遍く存在しますから十の根本煩悩とすべて相応します。
 中の随煩悩も不善心に遍く存在しますから十の根本煩悩と相応します。

 但し、根本煩悩の中で、分別起と倶生起のもの、或は分別起だけのもの、そして、分別起は不善であるが、倶生起は有覆無記であるものがあり、根本煩悩の十の分別起で働いている不善は中随煩悩と相応しますが、倶生起は倶生起とのみ相応すると云われています。随煩悩も分別起と倶生起があるわけですから、倶生起の中随煩悩は不善と倶に相応しますから、根本煩悩の中の薩迦耶見の倶生起の煩悩と辺執見の倶生起煩悩とは有覆無記になりますので、中随煩悩の二とは相応しないことになります。
 余談ですが、これは欲界での出来事です。色界及び無色界では瞋は存在しません。瞋を除いた九は分別起及び倶生起はすべて有覆無起になりますから、色界及び無色界には中随煩悩は存在しないことになります。当然、小随煩悩も存在しません。大随煩悩は微細に働きますから三界を通じて存在します。このことに於いて三界は迷いの世界であることが知れるわけです。

 「三界は是虚僞の相、是輪轉の相、是无窮の相にして、蚇(しゃく) 尺音(しゃくのおん) 蠖(くわく) 屈(かが)まり伸(の)ぶる蟲(むし)なり一郭反(いちかくのかえし) 循環(じゅんかん)するが如く、蠶(さむ) 才含反(さいがんのかえし) 繭(けんI 蠶衣(さむえなり)公殄反(こうてんのかえし) 自ら縛わるるが如くなり。」
 「哀れなるかな衆生此の三界顛倒の不淨に締(しば) 結不解帝音(むすびてとけず。ていのおん) わるるを見そなわして、衆生を不虚僞の處に不輪轉の處に、不无窮の處に置て畢竟安樂の大淨處を得しめむと欲しめす。是の故に此の淨莊嚴功を起したまふなり。」
 「此の三界はけだし是れ生死の凡夫流轉の闇宅なり。」と。
 (『浄土論註』)
 善導大師は「帰去来(いざいなん)魔界には停まるべからず」(『定善義』・『法事讃』)と仏の正意を明らかにしてくださいましたが、魔界は自らが演出したものであったという自覚なんですね。
 宗祖も『証巻』・『真仏土巻』・『化身土巻』に「帰去来、魔郷に停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、尽くみな径たり。いたるところに余の楽なし。」と引用されています。
 『三界は是れ一心の作なり。」(『華厳経』)ただ識のみの世界なんですね。自らが自らの業に依って六道を流転してきた歴史があるという頷きですね。
 蚕と尺取虫の喩がだされて、三界は自縄自縛の世界であり、その世界を構成しているのは他ならぬ自分であると、曇鸞大師は「礙は自に有り」とご自身の機の深信を告白されています。
 宗祖親鸞聖人も、二種深信において、出離の縁有ること無しのわが身をいただいておられます。慚愧心と歓喜心のハーモニーが如来回向を見事に表現されているように思います。
  
 「無慚無愧のこの身にて
   まことのこころはなけれども
   弥陀の回向の御名なれば
   功徳は十方にみちたまう」

 「小慈小悲もなき身にて
   有情利益はおもうまじ
   如来の願船いまさずは
   苦海をいかでかわたるべき」

 「蛇蝎奸詐のこころにて
   自力修善はかなうまじ
   如来の回向をたのまでは
   無慚無愧にてはてぞせん」(『正像末和讃』)

第三能変 随煩悩 諸門分別 (27) 第六 別境相応門 (11) 散乱と定の相応について

2016-02-17 22:06:08 | 第三能変 随煩悩の心所
  
    「願力無窮にましませば
     罪業深重もおもからず
     仏智無辺にましませば
     散乱放逸もすてられず』(『正像末和讃』)

 本科段は、散乱と定が相応し得ることを説明します。
 「染定(ぜんじょう)の起こる時には、心(しん)亦躁擾(そうにょう)なり、故に乱は定と相応ということに失(とが)無し。」(『論』第六・三十四右)
  躁擾 ― 躁はさわがしい、擾はみだれるという意味になります。騒がしく乱れることが躁擾ということですね。
  
 問題提起ですが、『論』にはこのように説明をしていますが、「染の定が起こる時」というのはどのようなことなのでしょうか。染と定は対立概念ですから、染の定が起こるとは考えにくいのですが、定は心一境性ですから、多境を取る散乱とは違背するはずです。うがった見方をすれば、騒がしく乱れることに専念していることも定の一種、つまり染の定と云っているのでしょうか。疑問です。
 『述記』にも問いが立てられているのです。
 「問う、定は一境に専らなり。乱は多の縁を取る。如何ぞ倶起するや。」
 この問いに本科段は答えているのです。散乱と別境の定が相応し得ることについて、染の定が起こる時には心・心所もまた騒がしく乱れている、つまり躁擾である。このために、散乱と定とは相応するということに過失はない、と。
 『述記』の釈では、散乱の自相が躁擾であると説明しています。ここでいう散乱は多の縁を取るに非ず、と。
 疑問を解く鍵が定の心所を説明する所にありました。定は「所観の境の於に、心を専注(せんしゅ)にして散ぜらしむるを以て性と為す。」の「心専注」の意味について「心専注という言は、住せんと欲する所に即便ち能く住するということを顕す。唯一の境のみには非ず。」と説明されているのです。つまりですね、専注とは、心一境という意味が、心が一つの対象に心を注ぐということではなく、心を注ごうとする対象に向かって心を注ぐことであって、心を注ごうとする対象が変わっても、変わった対象に心を注ぎ、注ぐことに於いて生じてくるのが定であるといっているのです。 としますと、対象が何であるかによって定が生起する方向性が違ってきます。躁擾という対象に心を注ぐことにおいて生起する定は染汚されたものとなります。これを染の定といっているのでしょうか。
 散乱は正定を障礙するものですが、染定とは相応するということいなりましょうか。なにか理屈をこねているようでスッキリしません。

 心が騒がしく乱れているのは凡夫の性であると親鸞聖人は見極められました。
 「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。」(『一念多念文意』)
 凡夫は一途に無明煩悩を依り所として臨終の一念にいたるまでとどまらないことを以て性とする存在なのでしょう。「一途に無明煩悩を依り所とする」ことが染の定と教えているのかも知れません。そうすればですね、染定は散乱と相応し、散乱は正定を障礙するけれども、
  願力無窮にましませば
   罪業深重もおもからず
   仏智無辺にましませば
   散乱放逸もすてられず
 という、大悲心の中におさめとられていくのではないでしょうか。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (26) 第六 別境相応門 (10) 忿と念の相応について 

2016-02-15 21:18:57 | 第三能変 随煩悩の心所
  

 先ず問いが出されます。「問う、忿は現在を縁じ、念は曾習を縁ず。云何んぞ、此の二倶生することを得と説く。」(『述記』第六末・九十五左)
 忿と別境の念が相応し得ることを説明する。
 「念は亦現に、曾習(ぞうじゅう)せし類の境を縁ず、忿は亦刹那過去をも縁ずることを得るが故に、忿は念と亦相応することを得。」(『論』第六・三十三左)
 (忿と別境の念が相応しえることについて、念は過去に経験した事(曾習)のある認識対象を縁じるのであるが、忿もまた刹那の過去の認識対象をも縁ずることがある。従って、忿は念とまた相応することが出来るのである。)
 問いは、忿は現在の認識対象を認識する心所であり、念は過去に経験したことを認識対象として認識する心所である。現在と過去という時間的に相違するものが、どうして倶生することが出来るのか、という問いただしですね。この問いに答えているのが本科段になります。
 『述記』の説明から伺いますと、
 『述して曰く、念は曾習と現在の境を縁ず、是れ過去に曾習すること有るの類なり。故に念亦現在を縁じて起こる故に、忿と倶なることを得。」と、類境によって説明しています。体境・類境については、念の心所で復習をしました。
 念の境が体境と類境の二つに大別され、この体境と類境に二通りの考え方がある。
 第一義 直接的に、その体を縁じるものを体境、間接的に名等と縁じるものを類境とするもの。
 第二義 過ぎ去った体を縁じるのを体境、後に、重ねて、また縁じるのを類境とするもの
 本科段は、第二義の中の類境によって論じられています。

 また、『述記』は、本科段は二つに分けて考えることが出来ると指摘しています。
 「此は念を以て忿の行に従へるなり。下は忿を以て念の行に従うなり。」と。前半は、忿の行相に念を従えて説明し、後半は逆に、念の行相に忿を従えて説明しているということなんですね。その説明が次に述べられています。
 「念は過去の次前の刹那を縁ず。亦過去を縁ずと名く。現在は一念なる故に、忿は分位の現在を縁ず。事の究竟せるに随って現在を縁ずと名く。即ち忿は亦刹那の過去を縁ず。忿と念との二法は随って行相に就いて、皆相応することを得、過失無きなり。」

 先ず、念は過去の認識対象を現在のものとして認識することが出来るということになります。このことは、忿が現在の認識対象(境)を認識する心所であることに違背するものではないということですね。つまり倶起するものである。
 例えば、過去の恨みとか、悔やまれることなども、現在の対象として起こってきます。過ぎ去った過去の出来事なのですが、そのことを対象として恨み等が起こってくるのは、現在の対象として認識しているからなんですね。
 過ぎ去ったことを思い出していろんな感情がわいてくる、特に過去の怨みを思い出して怒りですね、忿の心所ですが、過去のことを対象として、現在に忿が起こるのは、念がkのような出来事を現在の類境として認識していることにほかならにのですね。ですから現在んお境を認識して生起する忿と倶起することができるのです。
 また、念は過去の次前の刹那を縁ずと云われていますから、忿もまた刹那の過去を縁ずることが出来るわけです。つまり念と忿とが倶起することに何ら問題は無いということになります。

第三能変 随煩悩 諸門分別 (25) 第六 別境相応門 (9) 総説

2016-02-14 23:16:01 | 第三能変 随煩悩の心所
 

 上来、別境の五について復習をしてきました。別境の心所とはいかなるものかを念頭に置いて、随煩悩と別境との相応について『論』から学びたいと思います。『論』には随煩悩と別境の相応についてまとめて説明されています。

 第六・別境相応門
 「是の如き二十は、別境の五と皆倶起す容し、相違せざるが故に。」(『論』第六・三十三左)
 (このよに随煩悩の二十は別境の五とすべて倶起するのである。何故ならば、行相は相違しないからである。)

 「下は難を逐うて問答す。妄念は云何ぞ念と倶なるや、悪慧は如何ぞ慧と倶なるや。」(『述記』第六末・九十五右)
後半は、『述記』が問題点を指摘しています通り、随煩悩と別境の相応に関して若干の問題点がみられます。それにって説明がされてきます。
 (1) 妄念と念とが相応することについて説明する。
 (2) 忿と念とが相応することについて説明する。
 (3) 散乱と定とが相応することについて説明する。
 
 (1)についての『論』の記述。
 「染の念と染の慧とは念と慧と倶なるに非ずと雖も、而も癡が分とは亦相応することを得るが故に。」(『論』第六・三十三左) (第一の問題は、妄念と念がどうして相応するのかということですが、染の念と染の慧とは念と慧と相応しないと雖も、癡の一分とは念と慧は相応するからである。)

 「述して曰く、このうちの妄念は念を体となすは、別境のうちの念とは倶ならざれども、癡の分に通ずるものは、故に相応することを得。慧もこれに准じて知る。また癡の分あるが故に。この二を合して説くが故に、染の慧等という。」(『述記』第六末・九十五左)

 妄念は念と癡の一分に立てられた心所であるということが大前提になります。そして心所は複数同じものが並起することはないのです。従って妄念と念とは相応することはないのですが、どうして妄念と念とは相応するのかという問いになります。答えは、染の念と染の慧もいずれも染に違いはないのですが、問題は、別境の染の念と、別境の染の慧であって、妄念は念と癡の一分を体とし、癡の一分である念を染の念といい、染の慧であるというのは、慧と癡の上に仮に立てられた分位仮立法であって不正知に関する慧であることを示しています。この慧を染の慧というわけです。
 つまり、念や慧は、癡の一分を持つ心所とは相応し、また癡の一分を持つ心所は念や慧の一分を持つ心所と相応すし得るのであるということが云われています。