「憍は唯癡のみと倶なり、慢とは解別(げこと)なり、是れ貪の分なるが故に。」(『論』第六・三十四右)
憍と慢とは行解が異なるといわれ、相応不相応の関係では、相応しないということなんですが、非常に解りにくいところですね。
「自の盛んなる事の於(うえ)に深く染著(ぜんじゃく)を生じて酔倣(すいごう)するを以て性と為す」心所なのですが、何に対して驕るのかと云いますと、自分の地位や財産や名誉といった飾り物を誇るわけです。
良遍は「憍ハ、我ガ身ヲイミジキ物ニ思ヒテオゴレル心ナリ。」(『二巻鈔』)と云い、自分を勝れている者と思い、そんな自分に執着し驕れる心であると説明しています。
ここまでは昨日述べましたことですが、慢の心所は如何なるものなのでしょうか。
「云何なるをか慢と為す。己を恃んで他の於に高挙するを以て性と為す。」心所であると説かれています、ここで憍と慢の違いが分かってくるわけです。
憍は他者との比較の上で己を誇ることではなく、自分が自分に執着し酔倣する、酔いしれるわけです。自己陶酔ですね。
慢と非常に重なることはですね、自己陶酔は我慢で、己を誇る慢心ですから、この方面から比較しますと、殆ど同じですね。慢から云いますと、恃己(じこ)の慢になるわけでしょうね。自分を恃む慢です。それと「己を恃んで他の於に高挙する」慢です。是を陵他(りょうた)の慢といわれます。人を見下した慢心です。
良遍は「慢ハ、我ガ身ヲ慿テ人ヲアナヅル心ナリ。」とわかりやすく説明されています。慢は二つの意味があるわけですが、主として他者との比較の上に慢心が起こすことを背景にしている心所といえましょう。
そうしますと、憍と慢との行解の相違点はどこにあるのか、ということですが、憍は自己を縁として生起する心所であり、慢は他者を縁として生起する心所なのですね。
このような視点から『述記』の釈を読みますとはっきりします。
「論。憍唯癡倶至是貪分故 述曰。憍唯癡倶。是貪分故。不與瞋・貪並。與慢解別。不與慢倶。憍縁自高擧生。慢亦縁他下逸起。故不倶生。」(『述記』第六末・九十七左。大正43・463c)
(「述して曰く、憍は唯癡と倶なり。是れ貪の分なるが故に。瞋と貪と並ぶにあらず。慢と解が別なり。慢とは倶ならず。憍は自らを縁として高挙して生ず。慢はまた他を縁として下逸(げいつ。見下すこと)して起こる、故に倶生せず。」)
憍と慢とは心所は違うわけですが、切り離すことの出来ない心所でもあるわけです。驕る心、慢の心は、常に自分と関わりをもちながら意識が動いている時、自分の目線の背景には驕る心、慢の心があるわけですね。
親鸞聖人は自分の心の中にうごめいている憍と慢の心を悪と押さえられたのだと思います。
「邪見憍慢の悪衆生」は自分であったという頷きですね。どこかに悪衆生がいるのではなく、悪衆生である我が身が外界をして悪衆生と見下していたという、自己に出遇った感動のお言葉であると頷く者であります。