唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三の四、仮実分別門 

2014-01-06 15:14:33 | 第三能変・善・第三の四、仮実分別門

 善の十一の心所の中で、いずれが仮法で、いずれが実法かを述べる。

 「此の十一の法に於て、三は是れ仮有なり、謂く、不放逸と捨と及び不害とぞ。義は前に説きつるが如し。余の八は実有あり、相と用と別なるが故に。」(『論』第六・十右)

 善の十一の心所のうち三つが仮法(仮有)でり、残りの八は実法(実有)であることを明らかにしています。これは『対法論』(阿毘達磨雑集論)、『瑜伽論』巻第五十五も同じ記述であり、不放逸・行捨・不害が仮法であることは既に述べた通りである、と。実有とは、存在するものがそれ自体のありようをしていることで、固有の相と用を持つものである。

 「第四假實 論。此十一法至相用別故 述曰。對法等同。五十五亦爾。彼言世俗有。世俗有言通假實故。如前已引。無癡善根無別體家。云如五見定世俗非體即假。以即別境之中惠故。無癡亦爾。雖言實有即惠善性。非如捨等用四法成體非別性 若爾不害例亦如惠 故今述正曰。與對法等同。三假八實。所以如文。」(『述記』第六本下・三十七右。大正43・441b)

 (「述して曰く。対法等も同なり。五十五も亦爾なり。彼に世俗有と言えり。世俗有の言は仮・実に通ずるが故に。前に已に引けるが如し。無癡の善根は別体無しと云う家は、五見は定んで世俗なれども体は即ち仮に非ざるが如し。即ち別境の中の慧なるを以ての故に。無癡も亦爾なり。実有と言うと雖も、即ち慧にして善の性なり。捨等の四法を用いて体を成じ、別性に非ざるが如くには非ず。若し爾らば、不害も例するに亦慧の如くなるべし。故に今正を述す。対法等と同じ。三は仮なり、八は実なり、というなり。所以は文の如し。
 第五に倶起なり。」)

 不放逸・行捨・不が仮法であることは前に説いている通りで、四法(精進・無貪等の三根)に離れて相(体、体性、体相)も用もないからです。また、不害は、無瞋を性とする心所で、有情を損悩せず、損悩しないことを以て仮に不害と名づけるのです。詳細は不放逸・行捨・不害の心所の項を参照してください。