唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

随煩悩ー悩(相手にさからう心)

2010-01-31 07:39:50 | 心の構造について
「悩(のう)」について
「忿と恨とを先と為して。追触暴熱(ついそくぼねつ)して很戻(こんらい)するを以って性と為す。」
 先の忿と恨を心の中にもちつづけける、すなわち怒りと恨みを心の中に蓄えてもちつづけ、折に触れ思い出してまたカッとなって腹が立つのですね。「很戻」は很はさからうという意味・戻は「もとる」と読み、これもまたさからうという意味なのです。『漢語林』によりますと「ねじけもとる・道にそむく」とあります。很はもと・る。戻はもと・る。そむく・たがうという意味でねじまがるという意味もあるそうです。おそらくは怒ったり怨んでいることに由ってひがみっぽくなるのでしょう。『二巻抄』では「悩は、腹を立て人を恨むるに依って、ひがみもとおれて心の中常になやます。其の言はカマビスク・ケワシク・イヤシク・アラクシテ・ハラグロク、毒々しき心なり」と説明しています。これは蛆螯(だっしゃく)の具体性を述べているのです。螯ははさみですね。毒虫が挟んで刺す様を蛆螯というのです。ひがみ事が捻じ曲がって心が常にいらいらするのですね。いらいらしますと暴発しますよね。そのことが自分の心を刺して(悩み苦しめ)、やがて相手にも暴言を吐いて悩み苦るしめることになるのです。カマビスクは囂(かまびすし・いー騒がしい)ということになり、荒々しく毒々しく相手を罵倒し咬みつくような暴言を引き起こすほどの怒りの心を「悩」というのです。自分の中だけで収まればいいのですが、この「悩」という心所は「他を蛆螯する」といわれているのです。「此れも亦瞋恚の一分を体と為す」。のです。先の『二巻抄』の説明はひじょうにわかりやすいのですが『論』には「謂く往悪を追い現の違縁に触れて。心便ち很(ひがみ)戻りて。囂暴(ごうぼうー騒がしく、荒々しい)凶鄙(くひー言葉がきたない・凶も鄙も卑しいという意味)の麤言(そごんー荒っぽい言葉)を発して他を蛆螯するが故に」と述べられています。囂暴凶鄙麤言には「サハカシク・アシク・イヤシク・アラキ」と説明が施されています。瞋恚は自分の心の中で渦巻いている怒りですが、それが縁に触れ忿となり恨みを懐きやがて俗に言う汚い言葉ですね、そのような暴言です、大きな声を発して相手を威嚇し辺りかまわず騒がしくするのですね。それによってですね。相手をも悩ませることになるのでしょう。逆に言うと、辺りかまわずわめき散らし暴言を吐く背景には瞋恚という自分の心の中のわだかまりが因となるのいでしょう。ですから相手を攻撃していると思っているのだけれども、本当は自分を蛆螯していることになるのではないでしょうか。

随煩悩ー覆(ふく)罪を隠そうと思う心

2010-01-30 00:11:09 | 心の構造について

「云何なるか覆と為す」。次に「覆」について語られます。「覆」はおおうということですが、何を覆うのでしょうか。自分にとって都合の悪いことを覆うのですね。身に覚えがあります。マアーいつもそうです。隠しますわ。追求されると余計に隠します。どうにもならなくなった時に観念するのですが、ただ観念するのでは無いですね。怒り、腹立ち、恨みが心の中に芽生えます。どうにもこうにも救われがたいですね。そのような私ですが「覆」について考えてみたいと思います。ここは本当に大事なところですのでじっくりと考えたいのです。何が本当か、嘘か誠かを知っているのは自分なのですね。それを自分の都合、自分にとって何が利益をもたらすかを判断して真実を覆い隠してしまうのです。自分の心の中に閉じ込めてしまうと言った方がいいのかもしれません。ばれる時のことを思うとハラハラドキドキです。すでにここで後悔し、悩んでいるのです。後でばれると「あの時本当のことを言えばよかったと」後悔し悩むのですけれどね。くよくよしますね。心は悶々状態です。いつばれるか判らない悶々と、ばれてしまったという悶々で身動きが出来ない状態になりますね。これが「覆」という随煩悩なのです。 

 「自の作れる罪に於いて利誉(りよ)を失うを恐れて隠蔵するを以って性と為し。能く不覆を障へて悔悩(けのうー後悔して悩むこと)するを以って業と為す。謂く罪を覆う者は。後に必ず悔悩して安穏ならざるが故に。」といわれています。『述記』によりますと「自ら罪を造りおわって財利・名誉を失うことを恐れるが故に、隠蔵を以って性と為す。・・・罪を覆う者、心憂悔す。此れに由って安穏にして住することを得ず」

 自分が築きあげてきた財産や名誉が一たびの罪に依って失ってしまう恐れがある時に、やっぱり守りたいですよね。ですからひたすら隠すのです。しかし心は憂い後悔するのですから平穏ではいられないのです。そしてこの「覆」は貪と癡のとの一分に摂めるといわれるのです。これはですね。因縁の道理を無視していますから惑・業・苦の法、セオリーです。こうすればこうなるのだという縁起の理を無視をして罪を隠すのですから癡の一分に摂められるのですね。そして財利や名誉に執着していますから貪の一分にも摂められるのではないでしょうか。自分を守りたいが為に嘘をついたり隠し立てをしたりするとですね、自分が安穏といわれる、安らかに穏やかに生活が出来ない状況に追い込まれるということになるのでしょう。心してこの「覆」という随煩悩を自分に問うて行かなければ成らないと思うことです。


随煩悩ー忿(ふん)怒る心・恨(こん)人を恨む心

2010-01-29 00:00:19 | 心の構造について

忿について学んでいます。これまでいろいろな煩悩について学びましたがこれは他人事ではなく私自身の心を言い当てられているのですね。私の心のありかたがこのように多様にわたっているのです。合わせ鏡のように私の心の状態が透き通って露にされています。『成唯識論』の記述は「現前の不饒益(ふようやくー自分にとって都合の悪いこと)の境(対象)に対するに依って墳発(ふんぱつームカッとし打ちのめすこと)するを以って性と為し。能く不忿を障へて杖(じょう)を執るを(凶器をもつこと、あるいは手をあげること)業と為す。謂く忿を懐く者は。多く暴悪なる身表業(表から見える身体の行動)を発するが故に。此れは即ち瞋恚の一分を体と為す。瞋に離れて別の忿の相・用無きが故に。」(腹を立てることによって凶器を持ち人を打ちのめそうと思う程に怒る心)であるといわれているのです。しかしですね。腹を立てる心を抑えて堪えていますと、恨みが生まれてきます。僕なんかはこの心が渦巻いています。いろいろな状況の中で許せないと思うことがあるわけですが表にはそのような姿は見せません。心の中で堪えているわけです。でもね、スウッと恨みが芽生えてくるんです。これが「恨(こん)」という煩悩なのです。「忿を先と為すに由って悪(にくしみ)を懐て捨せず。怨みを結ぶを以って性と為し。能く不恨を障へて熱悩(頭に血が上ってカッとなる)するを以って業と為す。謂く恨を結ぶ者は。含忍する事能はず。(じっと堪えることができない)恆に熱悩するが故に。(いつも・常に悶々とした状態で熱悩しているのです。)此れも亦瞋恚の一分を以って体と為す。瞋に離れて別の恨の相・用無きが故に」(「恨は、人をうらむ心なり。恨みをむすぶ人は、おさえ忍ぶ事あたわず、心のうち常になやまし)といわれるように、怒りの心を抑えて悶々としていますと,恨みや・根に持つという心がふつふつと湧き出てくるのです。

 補足   忿・恨・悩・害・嫉ー瞋恚の一分・ニ河譬の火の河で瞋憎

       覆・慳・誑・諂・憍-貪欲の一分・ニ河譬の水の河で貪愛

       この随煩悩は意識に伴いますから間断のある煩悩です。

       しかし貪愛・瞋憎は第七末那識の我愛によって執着されますので

       間断がなく四六時中働き続けているといわれています。私が意識

       する・しないに拘わらず深層の意識は自己を愛着し、自分の思う

       ようにコントロールしつづけているのです。そして縁に触れ表の意識

       に現れてくるのです。信心とはこの心の在り方を見定めること

       なのではないでしょうか。


煩悩ー煩悩を縁として(6)・随煩悩ー忿(ふん)

2010-01-28 00:15:53 | 心の構造について

「意識には十を具す。」第六意識には全ての煩悩・随煩悩が働くといわれます。それだけではなく、善の心所も働くのです。世の流れに流されるのではなく、自分の意思を以って涅槃に向かう生き方ができるのです。私たちは目覚めているときは必ず何かを意識しています。「あれをしよう・これをする」と名言によって意思決定しているのです。それが第六意識に於いてなされていますから、此の第六意識が重要な役割をもっていると言えるのです。煩悩に翻弄されるか、善に向かうかの鍵を表層の意識がもっているのです。選択肢はいろいろあるのでしょうが、どの道を選ぶのかの決定は今の意識が握っているのですね。それほど此の第六意識は大切な心の領域なのです。私たちは常日頃様々な事に煩い悩んでいますが、その煩い悩みをしっかりと受け止めて善の方向に一歩を進めてみませんか。

 次に煩悩に付随したー随煩悩ーが語られます。煩悩の分位の差別です。ある時は怒り、ある時は怨みとなるということです。「論に曰く。唯是れは煩悩の分位の差別(しゃべつ)なり。等流性なるが故に随煩悩と名く」と。根本煩悩に付随して起きる煩悩なのです。分位の差別は三種有りと云われ、小随煩悩・中随煩悩・大随煩悩で随煩悩は二十種数えられますがまとめると三種になるということです。小随煩悩(第六識)は「謂く忿等の十は各別に起こるが故に」といわれいます。各別ですから各々別々に働くといわれるのです単独に起こるのですね。。中随煩悩(六識)は無慚・無愧の二つですが、「不善のみに遍ぜるがゆえに」といわれ、不善のみに働くのです。そして大随煩悩(七識ー六識に第七末那識をくわえたもの)ですが「掉挙等の八は染心に遍ぜるが故に」といわれています。「大」は範囲が広いのです。「染」は我執です。不善は悪ですし、染は我執ですから悪と有覆無記を含むということです。すこしみていきます。第一番目は忿という心です。「いかりの心」。瞋恚も怒りの心なのですがこの瞋恚に寄り添って「かっとなる」いかりです。瞋恚は心の中でぐっとこらえている状態の怒りで、それが直接的な行為となって現れたのが忿という「瞋恚の一分を体と為す。瞋に離れて別の忿の相・用(ゆう)無きが故に」煩悩ですね。何故起こるのかと云うとですね。これは自分に対する非難や自分が脅かされる状況になった時、自己防衛の形で急激な怒りがでてくるのです。「かっとなり暴力をふるう」ということがありますね。怒りは耐えなければならないのでしょうね。そうでなければ「多く暴悪なる身表業を発すが故に」といわれています。身体をもって表に現すということですから暴力をふるう・手を振り上げるということでしょう。どれだけ耐えることがあっても、手を振るあげるという行為が身を滅ぼしますから、忿という煩悩の出てくる元をしっかりと観察していかなければなりません。  

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煩悩ー煩悩を縁として(5)末那識相応

2010-01-27 00:02:16 | 心の構造について

「末那には四有り」といわれています。四とは我癡・我見・我慢・我愛。末那識は此の心所と共に働くのです。いわゆる我執です。自己執着心ですね。これが微細に働くといわれているのです。第六意識と共に働く十の煩悩は荒々しく働くのですが、此の十の煩悩がもう一度我執という根本煩悩に染汚されて、気づかれないように微細に恒にですね、寝ても覚めても間断なく働き続けるのです。第六意識は有間断です。寝ている時には働かないのですね。意識に上に働く煩悩はある程度は自覚できるのでしょうが、末那識相応の煩悩は自覚不能です。自覚したその足元に我執がはたらいていますからね。自覚もまた我執なのです。いわば「自己中だな」と思う心が自己中なのです。この心をはっきりと第二能変として独立させたのが世親の『唯識三十頌』なのですね。そして第七識であると位置づけたのが『成唯識論』であるわけです。「是の識をば聖教に別に末那と名く。恒に審らかに思量すること余の識に勝れたるが故に」といわれています。恒審思量がこの識の性であり相でもあるわけです。私には気づかない心の深いところで自己を思い続けるエゴイズム性、恒に(ぴんと張りつめてたるまない心)審らかに(細かいところまで明らかにする心)自分にとって何が利益になるのかを思い量っているのが末那識といわれるのです。後に詳しく考察していきたいと思っています。ここではこの末那識から煩悩が働くのであるということをいっています。「蔵識には全に無し」といわれますから、命の無記性の上に私たちは我執の心を働かせているのです。『法相ニ巻鈔」にこのような言葉が語られてありました。「今此の煩悩・随煩悩は其の性必ず染汚(ぜんま)也。染汚と云うは、不善と有覆となり。不善と云うは悪なり。有覆と云うは、悪までは無けれ共、濁れる心なり。此のニの性は皆、穢らはしき心あるが故に染汚性の法と名づく」と。煩悩・随煩悩の性は「けがれ」ているということです。心を穢し濁すことであると。そしてその元にあるのが我執なのです。我執は無いにも拘わらず有ると思う思いが有る。有ると考えるから我執というのです。有ると思うおもいを見というのですね。悪見です。何故この様になるのかと言いますと、私たちは無始以来本当の自己に出遇っていないのですね。真の自己を知らないから自己の思いを自己だと錯覚しているのです。これが我執であり我見なのでしょう。そしてこの依は我癡、自己に対しての無明ですね。こういうのを顛倒(てんどう)というのでしょう。親鸞聖人の罪の捉え方は徹底した罪の自覚です。「蛇蠍姧詐(じゃかつかんさ)の心にて」「悪性さらにやめがたし」「無慚無愧のこの身にて」と、無知を知ったらどうにかなるというような質ではなく、もうどうにもならないというような「無有出離之縁」という自覚ですね。 語註ー 蛇蠍姧詐(毒をもった蛇や蠍のようなもので、わるがしこく、いつわりだけの心しか持っていない自分であるという意) 

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煩悩ー煩悩を縁として(4)

2010-01-26 07:13:52 | 心の構造について

命の領域に於ける問題提起が以前よりありましたが、私の力不足で応答することが適いませんでした。ずっと憶念しながらブログを綴っている中で『成唯識論』からのメッセージが届いてきました。それは「命の尊厳と命の公平性」に由るすべての命あるものは縁起されたものであるということに気づかされたのです。私にまで届いてきている(現行してきた)命を歩む私、そして今有る経験が根拠となり未来を孕んでくること。それが阿頼耶識であり、命そのものだということに出遇える縁をいただきました。今、私は何処へ向かって歩みを進めているのか、その現実の行動が新たな今を創造するのですね。「彼の親所縁は、皆有漏なりと雖も、而も所杖(しょじょう)の質(ぜつ)は、亦無漏にも通ず」いい言葉ですね。所縁にニ有りですね。直接的な対象が親所縁で、間接的な対象が疎所縁です。親所縁は皆有漏であるといわれています。疎所縁は間接的な対象、親所縁が主観で疎所縁は客観ということになります。この本質(ほんぜつ)は無漏にも通ずといわれるところです。主観は阿頼耶識の見分ですから、第七末那識の影響をもろにうけるわけです。阿頼耶識の見分を対象として第七末那識は働き、我執を植え付けるわけです。しかし疎所縁の本質は無漏の場合もあるということです。ここは何を教えているのかということですが、私は法を聞くということは我執を聞くということを教えているのだと思います。法を聞くのは浄土まいりをすることではなく、煩悩具足の凡夫であることを聞くのではないでしょうか。機法一体といわれる所以がここに有るように思われます。


煩悩ー煩悩を縁として(3)

2010-01-25 06:40:46 | 心の構造について

すべての法則は阿頼耶識に於いてあるもの、「彼は識が所変に依る」ということですね。世親菩薩造・玄奘訳の『摂大乗論釈論』に於いて「無始時来界 一切法等依 由此有諸趣 及涅槃證得」(この心の領域は無始よりこのかた一切法等の依止となり、此れに由って諸趣(六道)及び涅槃の証果が有る。等は諸趣と涅槃の平等の依となること、迷いも涅槃の証も阿頼耶識に於いてあるものであるということ)ここは非常に大事な所です。宿業因縁といいますが宿業も縁起しているのです。宿業の因は煩悩でしょう、その果が諸趣ですね。仏智疑惑といいますね、罪が深いということは縁起の否定です。縁起を疑うということが独断・偏見になるわけです。迷いも悟りも法ですね。それが阿頼耶識に於いてあるものであるということになります。ですから十煩悩は「蔵には全に無し」、阿頼耶識には煩悩は働かないということなのです。何度も繰り返しますが私たちの心の深層である命そのものは煩悩ではないということが教えられているのです。有るのは何かといいましたら煩悩の種子も善の種子も平等に貯蔵されているのですね。浄土真宗で本願といいますね。四十八願です。その最初の願は無三悪趣の願といわれますね。国土の荘厳です、我が国には地獄・餓鬼・畜生の住まない世界にしたい。これが私たちの本当に願っている世界ですね。三悪道は苦と戦いの充ち満ちた世界ですが、これは縁起を疑うところから必然してくる世界ですね。縁起を疑うということは「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのこと、みなもって、そらごとたわごとまことあることなき」世界なのでしょう。しかし「に」といわれます。「に」に於いてまことの世界が開かれてくるのです。煩悩具足の凡夫の目覚めが「ただ念仏のみぞまことにておわします」という公明正大な世界を開くのです。そのはじめの願が我が国土には三悪趣がいないという誓願なのですね。「地獄・餓鬼・畜生あらば正覚を取らじ」と誓われるのです。これは架空の話ではなく、また神話でもなく「命の願い」なのでしょう。私の根源の願いであるわけです。その世界に目覚めるか、目覚めないかの違いだけでしょう。「一切法等」一切法はですね、すべては法則であるということです。煩悩にも転迷開悟にも平等に与えられているのが一切法で、煩悩も縁起・悟るのも縁起ということなのですね。

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煩悩ー煩悩を縁として(2)

2010-01-24 02:02:54 | 心の構造について

「心の領域は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の六つの差異(六道)があり、また涅槃を得るということもある。・・・もろもろの存在は蔵(アーラヤ)によって存在する。それは、一切の種子ともいうべき識(情報の集積体)であるゆえに、アーラヤと名づける。・・・すべての生命あるものの汚染された存在情態(法)は、この中に隠し蔵されて結果となるからである。また、この識はもろもろの存在の中に隠し蔵されて原因となるからである。また、さらに、もろもろの生命あるものは、この識を蔵し、それに対して実体的存在(我)という様相を見るので、アーラヤ識と名づける。・・・またアーダーナ(執持識)とよぶ。すべての現象している諸器官を執着・維持し、すべての生を受けるときの執着の根拠となるからである。・・・あるいは「心」と呼ぶこともある。「心・意・識」と言うとうりである。「意」には二種類ある。一つは、・・・識の発生する根拠なので「意」とする。二つめは、汚染された「意」で、常に四つの根本的な煩悩を伴っている。それは、身見(我見)・我慢・我愛・我癡(無明)である。この識は他の煩悩の発生源(依止)である。…外界を対象化し、それにしたがって順序の分別的認識をするようになるので、この二つを「意」と名づける・・・この心は汚染されているので有覆無記である。常に四つの惑いを伴っている。・・・」(『摂大乗論』応知依止勝相ー(訳)コスモスライブラリー摂大乗論現代語訳P38~46)                     

 前回「十の根本煩悩はどのような識と伴うのか」というところで、阿頼耶識には煩悩は無く、末那識(意)には四有りといわれているところを考えているところです。また煩悩にはですね。生まれつき持っている倶生起の煩悩と、生まれてからいろいろな経験を積んできて起こる分別起の煩悩があるといわれていますが、このことについてはまたの機会に譲ります。『摂論』第一章では阿頼耶識の名と本質について考察がなされていますがその中に汚染されて識と共に考察が進められているのです。それを世親菩薩は『唯識三十頌』において初能変は阿頼耶識の考察、第二能変は末那識(汚染された識)の考察として識の分別をされたのです。その意は私には図り知ることはできませんが、大胆に考えますと「命の尊厳」において別々にされたのではないだろうかと思うのです。「蔵識には全に無し」といわれることにおいて、命そのものには煩悩は働かないということ、命の主体は何ものにも覆われていない無覆無記であることをはっきりされたのだと思います。世親のもう一つの論書『浄土論』の帰敬序は「世尊我一心」ではじまります。この「我」ですが、煩悩に穢されていない「我」でしょう。我という命の主体は阿頼耶識ですね。このことにおいて我が透明性をもつのでしょう。私が生きているということは本来、透明性を持っているものです。私が単独に生まれ、単独に生きているのではありませんね。内因外縁といいますが、父母を縁とし環境を縁とし自らの意思をもって此の世に生を享受したわけです。これは無始無終の命の連綿としたつながりです。そして私にまで届いたのですね。私にまでなった命なのでしょう。公明正大なことですし、私利私欲ではないということです。私は私がと言って命を貪っていますが命の働きは純粋無垢だということを教えられているのですね。命そのものには迷いがないということ、迷っていないから私と共に流転出来るのであると思うのです。これが末那識だとそういうわけにはいかないでしょうね。末那識が主体だとしたら我執が主体ということになり私と共に流転はできないでしょう。内部分裂を起こしますよ。我執は我愛を満足させるために何が何でも利用しますからね。そして命の歴史にですね、私は法蔵菩薩の五劫思惟の修行を思い起こすのです。私の命にまでになって伝えられてきた歴史です。その重みは何ものにも変えることができない尊厳をもっているのではにでしょうか。


煩悩ー煩悩を縁として(1)

2010-01-22 23:45:17 | 心の構造について

少し戻りますが、随煩悩の前に煩悩ですね、「此の十煩悩に於いて誰は幾ばくとか相応する」と問いを出されて、最後に諸々の煩悩は「癡は九種と皆定めて相応す。諸の煩悩の生ずるは必ず癡に由るが故に」といっています。癡は無明ですね。無明は私たちには認識できないものです。意識される煩悩は認識することはできますが無明煩悩は仏陀の自内証ですから私にはわからないことです。わからないけれども仏陀の自内証ということで教えられているのです。癡は迷いの根源といわれているのです。仏道を障げるものです。無明が仏道に歩む姿勢を障害するのですね。しかし迷いの中からですね。どうしても止むにやまれない欲求が湧いてくることがあります。「本当のことを知りたい・真実とは何か」という欲求です。自身の内から湧出してくる「本当の自分に出遇いたい」という願いが聞法に突き動かすのでしょう。そうしましたら聞法は何を聞くのか、といいましたら「無明」を聞くのですね。「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と。無明を聞くのは無碍の光明に遇うということですね。無明煩悩を白日の下に晒すのは光明です。大悲の願船ですね。「円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智」といわれるわけです。ですから私たちは煩悩と戦う必要はないのです。煩悩が縁となり一歩前へ歩みを進めることができるのです。煩悩が輝くのですね。煩悩がなかったらどれほど楽かという思いがありますが、それでは「本当の自己」に出遇える縁を閉ざしてしまうのです。生きることの意味も、生まれてきたことの意味も、娑婆の縁つきなば彼の土へはまいるべきなりという、彼の土の意味もわからなくなり、ただ生殖本能だけの無味乾燥の生きる屍となってしまうのではないでしょうか。ですからね。煩悩は煩わしいことに違いないのですが有り難いご縁をいただけることにもつながってくるのですね。

 「此の十煩悩は何れの識とか相応する。蔵識には全に無し。末那には四有り。意識には十を具す。五識には唯三のみなり。謂わく貪・瞋・癡なり。分別無きが故に。称量等に由って慢等を起こすが故に」

 蔵、阿頼耶識です。この識には煩悩は全く無いとい


煩悩ー随煩悩について

2010-01-21 23:31:56 | 心の構造について

随煩悩は根本煩悩に付随して起きる煩悩のことです。「論」には小・中・大の随煩悩として三類に分けています。「小」は各別に起きる、各々別々に働く煩悩です。「中」は遍不善つまり六識の不善の働きに必ず見られる煩悩のことです。「大」は染心に遍ずといわれ、六識と七識つまり七識全体に働くといわれているのです。不善は善にあらずということですから悪です。それに対し染心は煩悩に染まっているということですから悪でもあるし、第七識の有覆無記・無記だけれども我執に覆われているということですね。我執に染まっているのであるということです。

 『成唯識論』より.    テキストデーターベースはhttp://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/
を参照(大正新脩大蔵経テキストデーターベース)

諸隨煩                                                                      諸々の随煩悩の其の相何ん。
惱其相云何。頌曰                   頌に曰く
    隨煩惱謂忿 恨覆惱嫉慳<vbr></vbr>             随煩悩とは謂く忿(ふん)と恨(こん)と覆(ふ             
    誑諂與害憍 無慚及無愧<vbr></vbr>             く)と悩と嫉(しつ)と慳(けん)と誑(おう)と
    掉擧與惛沈 不信并懈怠<vbr></vbr>             諂(てん)と害(がい)憍(きょう)と無慚と及
    放逸及失念 散亂不正知             無愧と掉挙(じょうこ)と惛沈(こんじん)と
論曰。唯是煩惱分位差別。等流性故名隨煩   不信と并びに懈怠と放逸と及び失念と
惱。此二十種類別有三。謂忿等十各別起故   散乱と不正知となり。「論に曰く」唯是れは
名小隨煩惱。無慚等二遍不善故名中隨     煩悩の分位(ぶんい)の差別(しゃべつ)なり
煩惱。掉擧等八遍染心故名大隨煩惱。      等流性(とうるしょう)なるが故に随煩悩と名
                             く。此の二十種は類別なること三有り。謂く忿等の十は各別に起こるが故に小随煩悩と名け。無慚等のニは不善のみに遍ぜるが故に中随煩悩と名け。掉挙等の八は染心に遍ぜるが故に大随煩悩と名く。

                              唯識とは                                                          唯識(ゆいしき)
聴きなれない言葉ですが、2000年以上も前から仏教の世界では連綿として伝わってきた思想です。是は「ただ識のみあり」、ただ心だけがあるということです。いうなれば心の解明になろうかと思います。「唯識」とは、私たちの苦悩の解明に心血を注いで発見した珠玉の名言です。
 ただ心のみがあるとはどういうことでしょうか。私たちは私と周りの外界(環境)、あるいは私と私とは無関係に存在すると考えている外界の二つがあると考えています。所謂、主客二元論です。具体的には私が意識してもしなくても山があり、川があると思っています。唯識はそれを誤りだと指摘するのです。では何があるのかといいますと、私の心が作り出したもの、私の心の映像(影像ーようぞう)といえるでしょうか。一つの絵画を鑑賞しても私の捉え方とあなたの捉え方は違います。山を見ても、川のせせらぎを聞いても人それぞれの捉え方があります。それは絵画があり、山があり、川があるから見ているのではありません。見ている私が作り出した映像なのです。そこにポイントをあて、心のあり方を追求してきたのが唯識といえます。中国、唐代、孫悟空でお馴染みの三蔵法師=玄奘三蔵によって天竺、今のインド、カシミール地方からもたらされたものです。弟子の慈恩大師基(じおんだいし き)とともに天竺より持ち帰った経、論を整理して『成唯識論』(じょうゆいしきろん)を編纂しました。また慈恩大師基を第一祖として法相宗が開かれました。日本には遣唐使の道昭(どうしょう)によって661年頃持ち帰られました。奈良の元興寺、法隆寺、薬師寺に伝えられ、それから717年には玄肪(げんぼう)が入唐して智周に学び734年、奈良、興福寺に法相唯識を伝えました。以来仏教徒は仏教の基礎学として、「倶舎論」(くしゃろん)とともに唯識を研鑽しました。学ぶといいましても学問として学ぶわけではありません。あくまでも学仏道として、佛になる道を学ぶのです。道元禅師も「仏道をならうとは自己をならうなり。自己をならうとは自己をわするるなり」とお教えくださっています。親鸞聖人は「念仏成仏是真宗」と、仏教を学ぶということは佛になる道を学ぶのです。佛とは「本当の自己に目覚め、その目覚めの道をお教えくださった人」と私は理解をしています。それでは私たちは、なぜ本当の自己に目覚めることができないのでしょうか。何が障害になっているのでしょうか。それを唯識を学ぶことによって明らかにしていこうとしているわけです。(「親鸞に学ぶ」HPより抜粋)