唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門 (2) 三受について

2012-11-30 21:36:44 | 心の構造について

 三受について

 「順の境の相を領して身心を適悦(じゃくえつ)するを、説いて楽受と名づく。違の境の相を領して身心を逼迫するを、説いて苦受と名づく。中容の境を領して、身に於いても心に於いても、逼(ひつ)にも非ず悦(えつ)にも非ざるを、不苦楽受と名づく。(『論』第五・二十一左)

  •  順の境の相を受け入れて、身心を喜ばしめることを楽受という。(適はかなう・悦はよろこび)
  •  違の境の相を受け入れて、身心を圧迫せしむることを苦受という。
  •  中容の境を受け入れて、身においても、心においても圧迫するにも非ず、喜ばしめるでもないものを不苦楽受という。

 「領納して己に属するを受と名づくるが故に通ぜり。順と違との境相を領ずるに倶に身(根)を適して心を悦すると、倶に身を逼し心を迫すると別なり。故に三の受を成ず。或いは身と及び心とに倶に通じて適悦し倶に逼迫するなり」。(『述記』)

 「三受の中に、何が故に但だ苦楽を説いて名と為して、憂喜と標せざるや。苦をもって楽に対し、倶に三性に通ず。憂を以って喜に対する理則ち然らず。寛を以って狭を摂し、但だ苦楽と名づく。又苦と楽と行相猛利なり。」(『樞要』)

 受とは領納の義で。すなわち、(境を)受け入れて(領して)自分に属させること。境は対象ですから、対象を自分の中に受け入れて、そこから発生する感情、感受のことです。それに三受あるといわれ、また五受ともいわれます。

           ー      ・     ― 

 「論に、順境の相を領してというより不苦不楽というに至るは、問う。身識は一時に順違の境を領す。何れの受と相応するや。答う。伝にニ釈有り。一に云く、一時に能くニ境を領すること無きが故に随って一と倶なり。ニに云く、即ち一時の中に能くニ境を領す。境倶に至るが故に其の勝境に随って但一受と倶なり。五倶の意の何んの境の勝たるに随って受と倶なるが如し。故に此れ亦爾るべし。問う。受も五受有り。何んの意をもってこれを合す。答う。喜楽と憂苦と歓威と相以せり。故に合して三と為す。若し爾らば何んぞ喜憂捨と言わざるや。答う。軽を以って重に従え狭を以って寛に従う。楽苦は多地の識に通ずるが故に。(『演秘』)

            ー      ・      ー

 『述記』の説明では適悦の適は身に対していい、悦は心に対していっています。心身に適い、楽しいことが適悦という意味だといっています。その反対に逼迫とは心身を圧迫するという意味をもちます。

 順境の時は身心は適悦する。このことを楽受といい、違境の時、即ち逆境の時には身心は逼迫される。このことを苦受というわけです。このいずれでもない中容を捨受というのです。しかし心得ておかなければならないことは、私の身心の外に順・違・中容があるわけではありません。私の身心に適う事が楽受であり、適わなく疎外することが苦受であるわけです。また私には何の関係も持たないと思われることに対しては苦楽を感ずることはありませんので捨受ということになります。しかし私の関心事にたいしては苦楽を感じますから三受相応することになるのです。


第三能変  受倶門 (1)

2012-11-29 21:52:23 | 心の構造について

P1000579
 第三能変 三段九義中、第二段、第六・受倶門を解釈する。

 「此の六転識は、易脱(やくだつ)し、不定なり、故に皆三受と相応す容し、皆順と違と非ニとの相を領するが故に」。(『論』第五・二十一左)

 (この六転識は、易脱し、不定である。その為に、すべて三受(苦・楽・捨)と相応すると知るべきである。何故なら、すべて順と違と非二との相を領納するからである。)

  • 易脱(やくだつ) - 間断し転変すること。六識は、末那識や阿頼耶識のように間断がないものではなく、間断し転変するものであるという。
  • 順 - かなうこと。
  • 違 - かなわないこと。あるいは背くこと。
  • 非ニ - 順と違のいずれでもないもののこと。
  • 領納 - 感覚・知覚すること。心に受け入れること。
  • 受 - 五遍行の一つ。感受する心の働き、作用、感情のこと。三受は苦受・楽受・捨受をいう。六識がいずれの受と相応するのかという意味が説かれています。
  •  不定 - 前六識は苦・楽・捨の感受作用が、それぞれ互いに起こるために不定という。六識は苦・楽・捨のすべてを受け入れることから感受作用が互いに起こり得るのである。

「論。此六轉識至非二相故 述曰。於中有二。初解因位受倶。後解果位受倶 因位中有二。初解本頌。後別分別 然此六識非如七・八。體皆易脱。恒不定故。易脱是間斷轉變義。不定是欣・慼捨行互起故。皆通三受所以如文。」(『述記』第五末・七十九右。大正43・423a) 

 (「述して曰く。中に於いてニ有り。初めに因位の受倶を解し、後に果位の受倶を解す。因位の中にニ有り。初めに本頌を解し、後に別に分別す。然るに此の六識は七・八の如くには非ず。体皆易脱し恒に不定なるが故に。易脱というは是れ間断し転変する義なり。不定というは、是れ欣と感と捨との行互に起こるが故なり。皆三受に通ず。所以は文の如し。」)

 心所相応門が解釈され、受倶門が解釈されます。受倶門とは、六転識が、どの受と倶に相応し、相応しないのかということを論じている箇所になります。受とは、五遍行の中の、一つの心所であり、心の作用(感受する心の働き、感情)を述べるところです。特に「受」を取り出して解釈されるところに「受」のもっていることの大切さを思います。


第三能変 心所相応門 (18) 心所について

2012-11-28 22:25:47 | 心の構造について

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本日御満座、坂東曲が奉じられました。

 

善と煩悩と不定の一切を説く。

 「善には唯一のみ有り。謂わく、一切地ぞ、染には、四ながら皆無し。不定には唯一のみあり、謂く一切性ぞ」。(『論』第五・二十一右)

 (善には、ただ一つのみ有る、それは一切地である。染には四一切はすべて無い。不定には、ただ一つのみ有る、それはつまり一切性である。)

「論。善唯有一至謂。一切性 述曰。善中地者。如次前説遍三地也。此中輕安不遍欲界。若如初説。從多分或加行等説故 染四皆無亦從多故。如無明・貪等。通三界地。八大隨惑1非皆通地及倶 以非皆通地等故。總言非四。依種類而作論故 後四不定通三性故。唯有一也。此所無義應審簡別」(『述記』第五末・七十九右。大正43・422c~423a)

 (「述して曰く。善の中に地というは、三地に遍ずるなり。此れが中に軽安は欲界に遍ぜざるをもってなり。若し初説の如くなれば多分或いは加行等に従って説くが故に。
 
染には四ながら皆無しというは、亦多に従うが故なり。無明と貪との等の如きは三界地に通ず。八大随惑は皆地と及び倶とに通ずるに非ず。皆地等に通ずるものは非ざるを以っての故に総じて四に非ずと言う。種類に依って論を作すが故なり。
 
後の四の不定は三性に通ずるが故に唯一のみ有り。此の所の無の義は応に審に簡別すべし」。)

 三界の中の欲界は欲望を依り処としていますので、散地ともいわれ、定ではなく、散の状態でありますから軽安は存在しないということになるのですが、厳密には一切地を三地と解釈して初めの有尋有伺地が色界の初禅の範囲にあり、ここは定の境地があり、軽安は存在することになります。従って善の範囲である一切地に軽安は存在するということになります。

  •  善は一切性は備えない。また一切時・一切倶を欠く。一切地のみ備える。
  •  染は四類有り。即ち煩悩(根本煩悩)・大随煩悩・中随煩悩・小随煩悩の四種。ここには四の一切は備えない、厳密には一切地及び一切倶を備える場合もあるが、多くの場合にはそうではないので、「多に従う」と説明されている。
  •  不定は、三性に通じる心所であり、一切性を備える。

 遍行の心所は、四一切を備える。別境の心所は、一切性と一切地を備える。善の心所は、一切地を備える。煩悩と随煩悩は染であるので、四一切を備えない。不定は一切性を備える。 (四一切については、26日の項を参照してください。)

 「此れに由って、五の位の種類差別せり」(『論』第五・二十一左)

 (此れに由って五つの位の種類を区別しているのである。差別はしゃべつと読み、現代用語でいわれる差別(さべつ)ではありません。区別とか差異という意味になります)

 総結を述べます。上来説明してきた、『頌』の五位の三句を解き訖る。心所とは遍行と別境・善・煩悩・随煩悩と不定の五である。

 「自下は、第二に第四の句の受倶を解す。」

 (以下では、『頌』の第四の句である、「皆、三つの受と相応す」を説明する。)

 以上で、第三能変、心所相応門を閉じ、次に、三段九義でいえば、六の受倶門が述べられる。


第三能変 心所相応門 (17) 心所について

2012-11-27 20:44:08 | 心の構造について

 五位の一々について説明する。
 初めに遍行と別境について説明し、後に善と煩悩と不定のすべてを説明する。

 横道にそれますが、「境」ですね。阿頼耶識の相分です。相分とは何を示しているのかということなのですが、これは見分の働きですね、見分が見分の中に相分を映じているわけです。見分が主であれば、相分は客であるのですね、見るということは、見られる対象があるのですが、その対象は見るという働きの中に、すでに自分が作り出した映像を見て相分としているのです。ですから、見分はイコール相分なのでしょうね。見分・相分と分けるから解らないことになるのでしょう。外境が有って認識が成り立つと思っているのですが、そうではなく、外境は認識が成り立つ条件(縁)なのでしょう。そして認識が成立する時は、その仲介として我が全分に偏在して働いているのでしょうね。恰も水面下で浸透しているかのごとくです。そのことが自覚できた「時」に「曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁あることなし」という本来の自己に出遇うことができるのではないでしょうか。「思」の心所が大切な鍵になるようです。
 第七末那識が阿頼耶識の見分を縁じて我と為すということが頷けるのです。阿頼耶識の相分は本来無いわけですからね。

 『論』に戻ります。

 「五が中に遍行には四の一切を具す。別境には唯だ初の二の一切のみ有り。」(『論』第五・二十一右)

 (前科段に述べられたように、『瑜伽論』に説かれている五位の中では、遍行は、四つの一切を備える。また別境はただ初めの二つの一切のみを備えるのである。)

 昨日の『瑜伽論』の文をみていただければ、よく理解されるものと思います。遍行は四つの一切を備える。別境はただ初めのニつの一切のみを備えるのである。即ち一切性と一切地を備える。何故に一切時と一切倶を備えないのかといいますと、別境はすべての境を認識しないので、一切時の一切の認識対象を認識するときに必ず起こる一切時を備える事はなく、また相続しないので、無間断である一切時を備える事はないといいます。一切の心有る時には必ず起こるのが一切時でありますから、別境は心王が生起する時に必ずしも起こることはないので、一切時を備える事はないということになります。また別境の心所が起こる時には必ずしも四つの一切が並び起こるとは限らないので、一切倶を欠き、一切倶を備える事はない、と云う。

「論。五中遍行至唯有初二一切 述曰。一一如彼説。遍行具四。無處無故。別境有初二。不縁一切境。亦非相續。非心有即有。故無時也。又此未必並生無倶。」(『述記』第五末・七十八右。大正43・422c)

 (「述して曰く。一々彼に説くが如し。遍行には四を具す。処として無きことは無きが故に。別境には初めのニのみ有り。一切の境を縁ぜず。亦相続するもの非ず。心が有るとき即ち有るにも非ざるが故に時無きなり。又此れ未だ必ず並生するものはあらざるをもって倶なることなし。」)


第三能変 心所相応門 (16) 心所について

2012-11-26 23:36:47 | 心の構造について

 『成唯識論』と相違する『瑜伽論』の文を会通する

「然も瑜伽論に六を合して五とせることは、煩悩と随煩悩とは倶に是れ染なるが故なり。」(『論』第五・二十一右)

  「論。然瑜伽論至倶是染故 述曰。會文有二。如文易知。彼論・此論合開不同。彼論第三合六爲五。根本・及隨倶是染故合爲一也。」(『述記』第五末・七十七右) 

 (「述して曰く。文を会するに、ニあり。文の如く知り易し。彼の論と此の論とは合・開せること不同なり。彼の論の第三には六を合して五と為す。根本及び随とは倶に是れ染なるが故に。合して一と為るなり。」)

 六位の心所について、『瑜伽論』巻第三(大正30・291a)に「作意等」・「欲等」・「信等」・「貪等」・「悪作等」と記されているのは、煩悩と随煩悩はともに染のものであるから、まとめて一つとして、五位になると説明している。
 作意等とは、触・作意・受・想・思を指し、遍行の心所。
 欲等とは、欲・勝解・念・定・慧の別境の心所。(第十頌)
 信等とは、信・慚・愧・無貪等の三根と勤・軽安・不放逸・行捨・不害の善の心所。(第十一頌)
 貪等とは、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見・忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍・無慚・無愧・掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知の二十六の煩悩の心所。
 悪作(おさ)等とは、悔・眠・尋・伺の不定の心所
 

 『瑜伽論』の五位を説く

 「復四の一切をもって五が差別を弁ぜり、謂く、一切の性と及び地と時と倶とぞ」(『論』第五・二十一右)

 上に述べました『瑜伽論』巻第三に一切性・一切地・一切時・一切倶を以って五位の差別(区別)を述べている。その文は下記の通りです。

 復次於心心所品中。有心可得及五十三心所可得。謂作意等。乃至尋伺爲後邊如前説。問如是諸心所。幾依一切處。心生一切地一切時一切耶。答五謂作意等。思爲後邊。幾依一切處。心生一切地非一切時非一切耶。答亦五。謂欲等。慧爲後邊。幾唯依善非一切處。心生然一切地非一切時非一切耶。答謂信等。不害爲後邊。幾唯依染汚非一切處。心生非一切地非一切時非一切耶。答謂貪等。不正知爲後邊。」
 (「復次に心心所品の中に於いて心起こり得可き有り。及び五十三の心所起こり有可き有り。謂く、作意等を始めとして乃至尋伺を後辺を為すこと、前(意地第二の一を指すー已に五識身相応地を説けり。云何が意地なりや、此れに亦五の相ありと應に知るべし。・・・彼の意識の助伴とは謂く遍行の作意、触、受、想、思と別境の欲、勝解、念、三摩地と・・・是の如き等の輩は心王と同時に倶有にして、相応する心所有の法なり、是れを助伴と名づく・・・)に説くが如し。問ふ。是の如きの諸々の心法、幾ばくか一切処の心に依って生じ、一切地に起こり、一切時に起こり、一切倶たるや。答ふ。謂く、作意等なり、思の後辺と為す。幾ばくか一切処の心に依って生じ、一切地にして一切時に非ず。一切倶にも非ざるや。答ふ。亦五有り。謂ゆる欲等なり。慧を後辺と為す。幾ばくか唯善に依るのみにして一切処の心に生ずるに非ず。然も一切地にして一切時に非ず、一切倶に非ざるや。答ふ。謂ゆる信等なり。不害を後辺と為す。幾ばくか唯染汚に依るのみにして一切処の心に生ずるに非ず。一切地に非ず、一切時に非ず、一切倶に非ざるや。答ふ。謂ゆる貪等なり、不正知を後辺と為す。幾ばくか一切処の心に依りて生じ、一切地に非ず、一切時に非ず、一切に非ざるや。答ふ。悪作等なり、伺を後辺と為す。」)

 『論』では四つの一切ということをもって五位の区別を説いているのです。遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の心所についての一切性・一切地・一切時・一切倶という四つの条件の有る無しによって六位の心所を分けるのです。その根拠が『瑜伽論』なのです。

  • 一切処の心 - 三性の心に遍在する三性の心王すべてに生起すること。 
  • 一切地 - 三界九地を有尋有伺地(欲界と色界の初禅)・無尋有伺地(色界初禅の大梵天)・無尋無伺地(色界第二禅乃至無色界)の三地に分類して、一切三地すべてに有ることをいう。
  • 一切時 - 他の一切の心有る時には皆起こることをいう。(1)一切の有心の時 (2)無始より間断しないこと (3)一切の境を認識する時 に必ず起こること。
  • 一切倶 - 「遍行の五の心所は定んで頭を並べて倶生し一をも欠かざるなり」同時に起することをいう。

 尚・一切処の処は三性のことです。

 遍行は四つの一切を備え、別境は、一切処と、一切地を備え、善は一切地を備え、不定は一切処を備える。煩悩(随煩悩を含む)には四つの一切はないとされます。上の『瑜伽論』の記述の大意は凡そこの通りになります。

 「論。復以四一切至及地時倶 述曰。即彼第三。以四一切辨五位別。謂彼言一切處・一切地・一切時・一切耶 此中解言。謂一切性・及地・時・倶。倶者即一切耶。謂定倶生故。處者三性。三性之處皆得起故。言時者。謂或一切有心皆有。或無始不斷。或縁一切境故總言時。地有二説。一云三界九地。二云有尋等三地。此解爲勝。輕安不遍故。性即三性。」(『述記』第五末・七十七右。大正43・422c)

 (『述して曰く。即ち彼の第三に四の一切を以て、五位の別を弁ず。謂く、彼に言う、一切処と一切地と一切時と一切倶と云えり。此の中に解して言う。謂く一切の性と及び地と時と倶なりと。倶とは即ち一切なり耶と云えり、謂く定んで倶生するが故に。処とは、三性なり。三性の処に皆、起こることを得るが故に。時と言うは、謂く或いは一切心有るには皆有り。或いは無始より断ぜず、或いは、一切の境を縁ずるが故に、総じて時と言う。地とは二説有り。一に云う、三界九地、二に云く、有尋等の三地なり。此の解を勝とす。軽安は遍ぜざるが故に。性というは、即く三性なり。」) 

 尚、「恒」の意味は、『瑜伽論』に即していえば、一切処・一切地・一切時・一切倶に必定して生起していることですね。


「恒」と「常」について

2012-11-25 21:20:08 | インポート

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 『三十頌』の中で、「恒」の字は一か所、「常」の字は六か所<wbr></wbr>に使われています。阿頼耶識に関して「恒転如暴流」と、「阿頼<wbr></wbr>耶識をば断となすや、常となすや、非断・非常にして恒転するを以<wbr></wbr>ての故に。恒と云うは、謂く此の識は、無始の時よりこのかた一類<wbr></wbr>に相続して常に間断無く是れ界と趣と生とを施設する本なるが故に<wbr></wbr>。・・・此の識は恒に転ずること流の如しと説く」と、ここに「恒<wbr></wbr>」の字が使われています。末那識に於いては、「彼に依って転じて<wbr></wbr>彼を縁ず、思量するを性とも相とも為す」と説かれ、『成唯識論』<wbr></wbr>には、末那識とは「恒に審に思量すること余の識に勝れたるが故に<wbr></wbr>。・・・・・・染汚の意は恒時に諸の惑と倶に生滅す」」と、第八<wbr></wbr>識と第七識は相互依存関係に位置しますので、その性については「<wbr></wbr>恒」という、無始よりこのかた、未来劫を尽くして間断がない、と<wbr></wbr>いう意味で使われているようです。末那識は「恒に第八識に依って<wbr></wbr>所縁を取ると云うことを顕示する」と説かれています。又、未転依<wbr></wbr>の位に於いては、「恒に審に所執の我の相を思量す、・・・・・・<wbr></wbr>此の意は任運に恒に蔵識を縁じて四の根本煩悩と相応す。」と説か<wbr></wbr>れ、第八阿頼耶識と第七末那識においては、三世に通じて「恒」の<wbr></wbr>字が使われているようです。ただ、第六意識においては、第六意識<wbr></wbr>は阿頼耶識を依り所として常に現起してくるのですが、ここに「恒<wbr></wbr>」の字が使われていないのは、「除」があるということ、間断する<wbr></wbr>ことがある、意識されている間は間断することなく「恒」であるわ<wbr></wbr>けですが、「無想天と及び無心の二定と睡眠と悶絶とをば除く。」<wbr></wbr>と説かれて、表層の意識においては、常ではあるが恒ではないと説<wbr></wbr>かれているのでしょう。これは麤と細の相違によるものでしょうね<wbr></wbr>。「第六意識は麤動なり、・・・・・第七・八識は行相微細なり。<wbr></wbr>」と。起きている間は意識が働いているわけですから、この意識は<wbr></wbr>第八識、特に阿陀那識に依止して間断することなく麤動に働いてい<wbr></wbr>るわけですね。しかし深層の識においては、「ねてもさめても」で<wbr></wbr>すね、我執がはたらいているので「恒」といわれているのではない<wbr></wbr>でしようか。
 「如来」のはたらきは「ねてもさめてもへだてなく」といわれて<wbr></wbr>いますから、如来の行相は「恒」ですね。無始よりこのかたです<wbr></wbr>から、未転依の第七・第八識と共に活動し、衆生に目覚めを促すという働きをもって如来は<wbr></wbr>活動しているのですね、私に目覚めを促しているのです。それが五<wbr></wbr>劫思惟のご苦労ではないでしようか。従果向因の菩薩、法蔵菩薩そのものでしょう。                        南無阿弥陀仏


第三能変 心所相応門 (15) 心所について

2012-11-23 22:11:42 | 心の構造について

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随煩悩と不定の名の由来について

 「唯、是れ煩悩の等流性なるが故に、善染等に於いて皆不定なるが故に」(『論』第五・二十一右)

 (随煩悩の二十の心所は煩悩の等流性であるから随煩悩の心所という。また、不定の四の心所は、善・染等に於いてすべて不定であるので、不定の心所という。)

「論。唯是。煩惱至皆不定故 述曰。二十隨惑根本等流。等流者同類所引義。非前後等流也 於善染心皆不定者。即不定四。謂於善・染・無記三性心皆不定故 復説等言。下第七不定中。云於善・染・等皆不定故。彼復有言。非遍心起。非遍地有。總此三門。初門簡唯善・染心所。第二門簡遍行。第三簡別境。此中言等等取餘二門也。」(『述記』第五末・七十七右。大正43・422c)

 (「述して曰く。二十の随惑は根本(六の根本煩悩)の等流なり。等流とは同類として引かれたる義なり。前後の等流には非ず。善・染心に於いて皆不定というは、即ち不定の四なり。謂わく善と染と無記との三性の心に於いて皆定まらざるが故に。復(等)の言を説くことは下(『述記』七本)の第七の不定の中に

  1. 善・染等に於いて皆不定なるが故と云えり。彼復言へること有り。
  2. 心に遍じて(五遍行)起こるにも非ず。
  3. 地に遍じて(五別境)有るにも非ず。

 総じて此れ三門あり。初めの門は唯善・染の心所を簡ぶ。第ニの門は遍行を簡ぶ。第三は別境を簡ぶ。此れが中に(等)というは余のニの門(心に遍ずると地に遍ずると)を等取するなり。」)

 注・ ここでいう「等」は時間的な前後関係をいうのではなく、煩悩の同類として引かれるという意味です。随煩悩は根本煩悩の等流であり、同類として引かれたものであることから、随煩悩・随惑という。

 二十の随煩悩の内、忿・恨・覆・悩・嫉・慳。の十三は分位仮立法である。(分位仮立は一分ともいわれます)

  •  忿・恨・悩・嫉・害は瞋の分位仮立
  •  慳・憍は貪の分位仮立
  •  覆・誑・諂は貪と癡の分位仮立
  •  放逸は貪・瞋・癡の分位仮立
  •  失念は念と癡の分位仮立
  •  不正知は慧と癡の分位仮立

 これらの十三は仮法ということになります。無慚・無愧・掉挙・惛沈・不信・懈怠・散乱の七つは別体を持つが煩悩の等流であり、実法です。

三性分別 - 忿・恨・覆・悩・無慚・無愧・害・嫉・慳はただ不善(悪)。 誑・諂・憍・掉挙・惛沈・不信・懈怠・散乱・放逸・失念・不正知は不善と有覆無記に通じる。 

相応の識 - 小随惑の忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍は第六意識と相応し、他の識とは相応しない。 中随惑の無慚・無愧は前六識と相応し、末那識と阿頼耶識とは相応しない。 大随惑の掉挙・惛沈・不信・懈怠・散乱・放逸・失念・不正知は前七識(七転識)と相応し、阿頼耶識とは相応しない。

界繋分別 - 忿・恨・覆・悩・嫉・慳・害・無慚・無愧はただ欲界のみに存在し、誑・諂は欲界と色界の初禅に存在する。 憍・掉挙・惛沈・不信・懈怠・散乱・放逸・失念・不正知は、三界に通じて存在する。

三量分別 - 忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍は比量と非量であり、無慚・無愧・掉挙・惛沈・不信・懈怠・放逸・失念・散乱・不正知は三量に通ずる。

 「善と染と無記との三性の心に於いて皆定まらざるが故に」不定という。三性が定まらず、三界に遍ずるわけでもないということですね。不定の心所の四は(悔・眠・尋・伺)は第六意識のみと相応します。悔・眠は実法、比量と非量であり、欲界のみに存在し、尋・伺は思と慧の分位仮立法であり、仮法です。三量に通ずる。尋は欲界と色界の初禅、伺は欲界と色界の初禅及び無尋唯伺定(むじんゆいしじょう)に存在する。

  • 無尋唯伺定 - 色界の中間(ちゅうげん)禅には、尋の心所はなく、伺の心所のみ存在する禅定をいう。初禅と第二禅の間の定をさす。

第三能変 心所相応門 (14) 心所について

2012-11-22 22:32:49 | 心の構造について

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 遍行とは、遍く行きわたっているという意味ですから、いついかなる時にも偏在している、触・作意・受・想・思の五つは、八識すべての心王とともに働くと云われています。即ち、実法(種子より生じる心所ー実法か仮法かを問うこと、仮実分別)であり、三性(三性分別)に通じ、三界(界繋分別)に存在し、三量(三量分別)に通じ、八識(相応の識)すべてに偏在していることなのですね。
 別境の心所は、欲・勝解・念・定・慧の五つをいいますが、別別の境に対して生起するので別境という。

 善と煩悩の名の由来について

 「唯善にして心の中に生ずることを得可きが故に、性是れ根本にして煩悩に摂めらるるが故に」(『論』第五・二十一右)

「論。唯善心中至煩攝故 述曰。十一善法唯善心有。體性根本能生諸惑。即貪等六。」(『述記』第五末・七十七右。大正43・422c)

 「述して曰く、十一の善法は唯、善心のみ有り。体性根本にして能く諸惑を生ず、即ち貪等の六なり」) 
 

 十一の善の心所(信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・軽安・不放逸・行捨・不害)はただ善であり、必ず善としてのみ心の中に生じるもの。根本煩悩の六つの心所は性が根本であり、諸々の諸惑を生みだす。煩悩に摂められるから、煩悩の心所という。

 善の心所は、前六識と相応して働き、第七識と第八識とは相応しない。

  • 仮実分別 - 不放逸・行捨・不害は仮法、それ以外の七は実法。
  • 三性分別 - 善
  • 界繋分別 - 軽安は色界と無色界。それ以外の十は三界すべて。
  • 三量 - 現量と比量
  • 相応の識 ー 前六識 

 不放逸・行捨・不害は仮法という意味は、不放逸・行捨は勤と無貪と無瞋と無癡の四つの心所の分位仮立であり、不害は無瞋の分位仮立であるので、仮法である。

 善の心所は唯善である。三界では、軽安は定の時のみに働くので欲界には存在しないということになります。それ以外は三界にわたって存在します。善の十一の心所は、(三量では)現量と比量であり、非量はない。

 善の四義(四種善) 

  • 自性善(じしょうぜん) - それ自身、善であるもの。慚と愧との根をいう。善の十一の心所は自性善である。
  • 相応善(そうおうぜん) - 慚と愧と無貪とに結びついている心・心所をいう。
  • 等起善(とうきぜん) - 善の心作用にもとづいて起こる身体的動作と言語表現で、自性善・相応善と等しく生起する身・語の表業・無表業および不相応行法をいう。
  • 勝義善(しょうぎぜん) - 解脱のこと。すべての煩悩が断ぜられて安楽な境地であるから善と名づけられる。

 煩悩の心所は随煩悩に対して根本のものであり、諸惑を生みだす根本でもある。

  • 仮実分別 - 悪見のみ仮法であり、その他の五は実法
  • 三性分別 - 瞋のみ不善であり、その他の五は不善・有覆
  • 界繋分別 - 瞋のみ欲界の存在し、他は三界すべてに存在する
  • 三量では - 貪・瞋・癡は三量すべて、慢は比量・非量、疑・悪見は非量
  • 相応の識 - 貪は前七識・瞋は前六識・癡は前七識・慢は第六・七識、疑は第六識、悪見は第六・七識    

第三能変 心所相応門 (13) 心所について

2012-11-21 22:34:31 | 心の構造について

 心王・心所は唯識の主体的側面と作用的側面をあらわすのですが、主体的側面を八識三能変として説きあらわしているのですね。八識は、八つの重層的構造をもつとする捉え方とし、三能変は心が三層をなして、深層から表層に向かって能動的に対象に働きかける捉え方をいいます。護法の論拠は八識別体説で、識体が別個に八つあるという立場です。造論の主旨のなかで「諸々の識は用は別に・体は同なりと執し、或いは心に離れて別の心所は無しと執す。」という「此の等の種々の異執を遮せんが為なり」といわれていますが、諸識は用は別・体は同という考え方があるのですね。この考え方は異執と破して、八識別体説をとります。これが法相唯識の立場です。『倶舎論』は識体は一つという立場をとります。

 法相唯識は五位百法の分類をしています。これは心王・心所有法から色法へという順に配列をされていますが、これは、「唯識無境」という、心を離れては如何なるものも存在しない立場に立って唯識転変の次第を配列しているのです。倶舎論の立場は色法から心が生起し働くという捉え方をし、五位七十五法の配列をしています。

  •  法相唯識の五位百法 -心王(8)・心所(51)・色法(11)・不相応行法(24)・無為法(6)
  •  倶舎の五位七十五法 -色法(11)・心王(1)・心所(46)・不相応行法(14)・無為(3) 倶舎の心王は一というのは、六根によって六識の相違があるだけで、識の体は一つという立場です。(六窓一猿の譬え)

 心所の名の由来について、

 「一切の心(しん)の中に定めて得(とく)す可きが故に、別々の境を縁じて而も生ずることを得(え)るが故に」(『論』第五・二十一右)

(遍行の心所の五は、一切の心の中で必ず得るものであるから遍行という。別境の心所の五は、別々の境を縁じて、生ずることができるものであるから別境という。)

 「論。一切心中至而得生故 述曰。釋名也 一切心可得。即遍行五。不問何心但起必有故 縁別別境而得生者。五別境也。此意即顯遍性・地等。唯縁別別境界方生。故餘不例。如五十五説。於四事中生五別境。如下當知。或倶・不倶。別事生故。」(『述記』第五末・七十六左)

 (「述して曰く。名を釈すなり。「一切の心の中に得す可し」というのは、即ち遍行の五なり。何の心なるを問わず、但起こる時は必ず有るが故に。別々の境を縁じて而も生ずることを得というのは、五の別境なり。此の意は、即ち三性と九地との等に遍く、唯、別別の境界を縁じて方ひ生ずということを顕すなり。故に余は例せず。五十五(『瑜伽論』)に説くが如し。四事の中に於いて五の別境を生ずといえり。下の(『述記』巻第六)如く当に知るべし。或いは倶にも不倶にもあり。別の事生ずるが故に」

  •  遍行の心所ー触・作意・受・想・思の五つで五遍行ともいう。「何の心を問わず」八識心王のいずれかを問うことなく、識(心王)が起こる時には三性(善・不善・無記)のいずれであれ、いかなる時も必ず五つが同時に起こり、倶に活動する。その故に「遍く」といわれています。「一には遍行。是に五あり。五ことなりといえども、みな心の起こるごとに普く必ずあるが故に遍行と名づく。」また、一切の心・一切の時・一切の所に普く起こる心所です。
 心所の数で『瑜伽論』には巻第五十三と巻第三に記述されていましたが、邪欲・邪勝解は巻第一(本地分中意地第二の一・第六・七・八の三識を説く。三識共に意根に摂められるので意といわれる。意識身相応地であるけれども略して意地という)に説かれていました。その内容は下に記載します。 

 「彼の意識の助伴とは謂く(遍行)の作意・触・受・想・思と(別境)の欲・勝解・念・三摩地・慧と(善)の信・慙・愧・無貪・無瞋・無癡・精進・軽安・不放逸・捨・不害と(煩悩)の貪・恚・無明・慢・見・疑・忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂憍・害・無慙・無愧・惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸・邪欲・邪勝解・忘念・散乱・不正知と(不定)の悪作・睡眠・尋・伺なり。是の如き等の輩は(心王と同時)倶有にして、相応する心(王)所有の法なり、是れを助伴と名づく。同一の所縁不同一の行相にして一時に倶有にして一々転ず。(是れ等心所有の法は)各自の種子より生ずる所なり。互いに相応し(能縁の)行相を有し、所縁を有し、所依を有す。」(彼助伴者。謂作意觸受想思。欲勝解念三摩地慧。信慚愧無貪無瞋無癡。精進輕安不放逸捨不害。貪恚無明慢見疑。忿恨覆惱嫉慳誑諂憍害。無慚無愧。惛沈掉擧。不信懈怠放逸。邪欲邪勝解忘念散亂不正知。惡作睡眠尋伺。如是等輩。倶有相應心所有法。是名助伴。)大正30・280b13

 「各自の種子より生ずる」といわれますように、五遍行は、個別の種子から生じるものなので、実法です。実法というのは、実体という意味ではなく、種子より生じた存在という意味です。三性はいずれであれ、三界にわたって働き(三界のどこにでも存在する)。三量(現量・比量・非量)のいずれの働きを持ち、相応する識は八識すべてになります。 

 実法とは、それに対して実法ではなく、作用(別用ーべつゆう)を一つの心所として立てた心所があります。「依色等分位仮立」(色等に依って分位に仮立する)といわれる分位仮立です。ただ色・心・心所のうえに仮に立てた仮法で不相応行であるといわれます。『論』では巻第一(選註ではp18~24)に詳しく論じられています。

 五位百法では心・心所・色法の後に心不相応行法として二十四数えられています。尚、『倶舎論』では十四です。『法相二巻抄』を見てみますと(『法相大乗宗二巻鈔』上・日本思想体系 鎌倉旧仏教p136)

 「次不相応ニ廿四トハ、又百法論ニ列ネタル廿四ナリ。是皆仮法ナリ。廿四ヲ不相応トナヅクル事ハ、五蘊ト申法門アリ。色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊是也。此五ガ中ノ行蘊ニハ、諸ノ心所並ニ得・命根・衆同分等ノ法ヲ摂メタリ。其中ニ心所と心王ト相応ス。相応スト云ハ、其トシタシク相伴フ義也。此ノ得等の廿四は、心王ト相応セザルガ故ニ不相応トナヅク。サレバ具ニハ心不相応行法トナヅク。此ノ廿四ハ心ニモ非ズ色ニモ非ズ、色法・心法ガ上ニアラザル義分ナリ。又別体ナシ。故ニ廿四ナガラ皆仮法ナリ。」

 心不相応行法とは行のうちでも心と相応しない法という意味です。五蘊説では行蘊の中に心不相応行法は摂められているのです。得・命根・衆同分等の二十四は心王と相応しないことから心不相応行法と名づけられているのです。分位仮立というのは、不相応行は色でも心でもないのですが、無関係というわけではなく、色・法との上に、それから分かれた位の働きを仮に得・命根・衆同分等の二十四の不相応行として立てているのです。 

 三量について(識はどのような認識のあり方をもつのであるのか)

 (1) 現量 - 前五識と阿頼耶識(蔵識)は現量。意識は現・比・非量の三量を認識する。末那識は非量。直接知覚といわれています。思慮分別を離れての認識のあり方を現量という。「分別を離れて境の自相に称う」といわれています。第六意識の中でも未だ分別していない状態(対象が何であるのか、言葉を用いて分別していないとき)と定心の意識も無分別ですから、現量といわれます。 

 (2)比量 - 境の共相を認めるという認識のあり方。必ず言葉を用いて認識することです。言葉によって捉えられる事物の相を共相といい、境の自相を捉えることなく、ただ境の共相を把握するに過ぎないのです。言葉を用いた認識は第六意識のみが行いえるのです。従って意識だけが比量の働きをもちます。

 (3)非量(ひいりょう) - 現量と比量のうち、誤って物事を認める認識のあり方です。非執心非量(物事の錯覚)と執心非量(自我であると錯覚し、執着する心)に分かれます。

 別境(「別々の境を縁じて而も生ずることを得」というのは、五の別境なり)

 別境の心所は、欲・勝解・念・定・慧の五つです「境を縁ずる」というのは「物を知るを申すなり」といわれますように、物事を知るという意味で、物事を認識するということになります。ですから別々の境を縁ずる、というのは、別々の対象を認識するということになり、各五の心所はそれぞれに固有の認識対象をもち、固有の認識対象に向かって起こることから「別」といわれるのです。相応する識は前六識ですが、「慧」のみは第七識とも相応します。尚、第八識とはいずれも相応しません。


第三能変 心所相応門 (12) 心所について

2012-11-19 22:30:24 | 心の構造について

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 六位それぞれの心所の位を列す。

 「謂く、遍行に五有りと、別境に亦五あると、善に十一有りと、煩悩に六有りと、随煩悩に二十有りと、不定に四有りとなり。」(『論』第五・二十左)

 (つまり、心所の位には、遍行の五、別境の五、善に十一、煩悩に六、随煩悩に二十、不定に四つある。)

 「是の如き六の位を合すれば五十一なり。」(『論』第五・二十一右)

 (このような六つの位の心所を合わせれば、心所はすべてで五十一あることになる。)

  「論。謂遍行有五至不定有四 述曰。列位也。解下六位上三句頌也 論。如是六位合五十一 述曰。結數也。此中開張與對法第一・大論五十三。五十五不同。以開合五見増邪欲解故。此與顯揚・五蘊・百法同也。」(『述記』第五末・七十六左・右。大正43・422b)

 (「述して曰く。位を列すなり。下の六位の上の三句の頌を解すなり。) 

 

 (「述して曰く、数を結すなり。此れが中に開帳することは『対法』第一と大論とは五十三と五十五との不同あり。五見を開合し邪の欲と解とを増せるを以っての故に。これは『顕揚』」と『五蘊』と『百法』と同なり。)

 

 『対法』第一と大論とは五十三と五十五との不同あり。」ということは『対法論』には五十五が説かれ、大論(『瑜伽論』)巻第三には五十三と説かれるのですが、『瑜伽論』巻第三には『論』に説く五十一の心所に邪欲と邪勝解を加えて五十三となります。『対法論』の五十五は煩悩の六の内の悪見を五見に開いたものです。煩悩の六が十になるわけです。「五見を開合し」と悪見を五見に開くと薩迦耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見になるのです。ですから『論』は五見を悪見一つにまとめて説かれているわけです。

 『対法論』(『大乗阿毘達磨雑集論』)とは『大乗阿毘達磨集論』(無著菩薩造・玄奘訳)に師子覚(ししかく)が注釈をつけたのを、安慧が『集論』とを合糅(ごうにゅう)したのが『雑集論』であり、また『対法論』とも呼ばれている。

 『瑜伽論』の記述は「復次に心心所品の中に於いて心起こり得可き有り。及び五十三の心所起こり得可き有り。」と。